2019年9月22日

他人の国

なぜ自分はこれほど日本人一般や日本国という単位、そのしくみや、人々の生き様が嫌いなのだろう? 世間をみるたび生理的嫌悪が凄まじいので、この国に暮らしているだけで常々不快なのだが、他言語圏で十全にくらすには語学力が足りないというか母語の方が得意すぎる。一体どうしたらいいのか?
 日本人一般が好きだとか夢中になっている代物をみると、正直なところ吐き気がするほど悪趣味すぎて、全く仲良くなれない。他人の国なのだ、その意味で。彼らの同調圧力の卑しさ、卑賤さ、惨めで陰湿な悪意の有様も腐るほどみたが、何一つ共感できないし、同類になりようもない。まるで極悪人の巣窟だ。

聖人ならぬ人は他人の子供や自分に益なき異性へ無条件に親切にすべきか?

しばらく前になんか通知に出たので、適当に好意的に返信してから今に至るまでずっと考えたのだが、その人はどうも妊婦かなんかで自分のツイートをみて返信したと思われた。で、自分はその人へ好意的に思いやった返信みたいなのしたのだが、どう考えてもこれはおかしいと思った。自分の子じゃないので。
 一体何をどこでどう間違えたら他人の子供を孕んでいるサル、もとい人類へ自分が親切にする道理があるのか。その人らは私を貪り、利用し、一円も払わず私を殺そうとしているのだから、そんな二足歩行の邪悪な性欲サルになぜ私だけが利他的に振舞う必要があるのだろう? 完全に倫理的に不公平と思う。
 純粋に生物としてみた時、他人の子供だの、自分以外の子を宿している女だの、そして将来も宿す可能性がない若い女だのは、自分の利益にならなければ全員死のうと自分の遺伝子的利益には寧ろプラスかもしれない。これが冷酷な人間界含む自然界の現実である。私は聖人だから誰もに親切にするだけだ。

科学知識は経験による認識の抽出にすぎない

某が「サンプル数1」だから、その経験は科学的ではないみたいにいうんだが、経験論全体を完全に馬鹿にする発言なのを前提に、そこには決定的に間違っている点がある。統計的操作は経験全体を抽出できないし、標本数も真理の担保ではない。この人は、信憑性と知識(science)を混同している。
 ある心理現象の普遍的な発生率と(それ自体、もとの標本が限定的な上に、有意差は或る実験の観点に対する差異の検知にすぎないから、最終的にランダム比較した実験結果のメタ分析でもこの発生率は厳密に抽出できない)、経験自体の現実性を、この科学的方法論に頼って人を判断する人は混同している。

学びが芸術の機能

芸術の本質的機能は、学びだ。アリストテレスは既にこのことを知っていたし、今も何も変わりがない。物語は説話や同一化による疑似体験を経ての教訓だし、詩や絵はなんらかの理念や感情、感覚の伝達である。科学的文章は対象の、哲学的なそれは無形の理念を伝える手段だ。
 私がなぜ、直接経験を必ずしも好まなかったか、代わりに芸術を愛好していたかもこれで明らかになった。それは学びの効率が高いからだ。少なくともなんらかの情報を抽象化してある分だけ、総括的な学びになる。ゲームも広義で抽象体験的な学びだ。特にRPGが好きなのは世界の具体的抽出だからである。

魂の牢獄

毎日自分が急激に変わってしまうので
自分は自分を定義できない
進化を続けている自分を縛りつけ
ある型に嵌(は)めることができない
だからこの世で自分は無我に等しく
その本質にあるのは変わっていく宇宙
それとも自分を縛りつけているのは
自我と呼ばれる魂の牢獄なのか

森林火災も焼き畑で土壌の栄養になる説

アマゾンの森林を、放牧主が牛の牧場に代えるために焼いていると書いてあった。けど焼き畑と同じで、土壌のカリウム分をふやすとか、窒素・炭素の深い固定を寧ろ助けるとか言われているので、牛が問題なだけで森林火災自体は長期的には問題ないのではないだろうか?

匿名の都会人という悪意

都会人全般が恥知らずな振る舞いをし、それを文化だとか、気楽だと思っているのは、彼らが匿名の衆愚になりきり、個人と結びつけられることがないと考えるからであり、これは非都会人からみると犯罪的で邪悪なものである。

独特さや普通さへの強迫観念

欧米人一般は独特さへの、日本人一般は逆に普通さへの強迫観念をもっているのではないか。
 だが私は後者を10代なかばで卒業してしまい、個性的でありたいとも特に思わないので、一アジア人としてどちらの狂態にも属さない。それで私は欧米圏の大勢とも違うし、自国の一般人とも違い、仲間がいない。

性差の表現にみる偏見と性愛像

女性はたまたまその時代なり地域の美に近い類型として生まれるほど常に性的な好奇の目にさらされ、少なくとも若い内はその中で生きる必要があるが、これに適応し性を商品化しているか、他人を操作する都会女の場合、寧ろその構図は狡猾な知能を発達させている。(そしてこの部分を私は好まない)
 例えば『三四郎』で美禰子は、その種の都会女の類型として描かれており、熊本から出てきたうぶな主人公を媚態で欺く。今日の東京圏の媒体(サブカルや商業化している自称ハイアート)が描いている女性像もほぼこの類型を出ていないが、それは彼ら都会人一般の周りにいるのがそういう女だからである。

 が、私の好む女性らしさはこの都会女なるものの類型と真逆にあるもので、誰も覚えていないと思うが『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』のモンゴルのゲル(パオ)みたいなところにいる少女みたいなののもっている、なんのけがれもない純朴さである。源氏でいえば都会ずれしていない茨城(常陸)育ちの浮舟のそれだ。
 思うに、女らしさの類型に与えているマス媒体の汚染は甚だしく、それは都民一般、京都人一般からすると自分達の卑しさ(彼ら自身からみると妖艶な淫靡さ)で塗り込められて満足なのだろうが、私の目からみればソドム人が神の秩序、あるいは神ながらの心を完全に冒涜している様に見える。私は都会女なるものの魅力自体がないと思うわけではないが、寧ろその逆類型の方が貴重で、澄んでおり、尊ぶべきものだと知っている。だが、アイドルとか芸妓とか都会ずれしていない、そういう別の女らしさを巧く現し、固定させられている美術なり文芸作品を未だ知らない(正確にいうと、レゾネでもアトリエ写真の作者がソファに寝てる背景にしか載ってないけど、アントニオ・ロペス・ガルシアのマリア像は少し少女像としてそれっぽいなと思うけど)。いつか自分にできるだろうか?
 例えば漫画なら『ドラゴンボール』のチチはそういう田舎女であり、ブルマは都会女として巧く現されているし、 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』ならビアンカが田舎女、フローラまたはDS版ならデボラが別種の都会女(淑女系と遊女系なんだろう多分。DS版やってないが)として現されている。だが美術や文芸では?
 女らしさに限らず、男らしさもそうだが(例えば『ドラゴンボール』の孫悟空は田舎男の典型で、『シティーハンター』の冴羽獠は都会男の典型であろう。特に女に対する反応の真逆さでよくわかる。田舎の環境では性は商品化されていないので、純愛や生殖とのみ直接結びついた素朴なものなのだ)。

 東京圏・関西圏の美術・文芸・サブカルは、自文化中心主義や中華思想的なダニクル効果で、都会なるものを賛美し、田舎なるものを下位で被差別対象として描く傾向をもっているので、真に田舎の良さを全く描けていない、寧ろ彼らからすると盲点なんだろうなというのは私が常々感じてきたことだ。なぜ『ドラゴンボール』の孫悟空が生き生きとして、魅力的な田舎者として描かれ得たかというと、作者が愛知の田舎者だったからである。鳥山明の初期作品、特に『Dr.スランプ アラレちゃん』でもその種の田舎の村らしさの、良い意味での素朴さも、ロボットの娘であるアラレの、妹らしさの中に一部表現されていた。
 私が、新海誠の作品に少しも共感できないというか1個もみてないからそりゃそうなのだけども、趣味が全然違うから近づけねえなと思ってるのは、この都鄙に対する価値観の極端な正反対さだと思う。自分は西新宿で思春期後半送ってたけれども、美化できる様な面は殆ど感じなかった。最悪の環境と感じた。
 しかし、0才から過ごした地元の環境は、海山川湖(沼、ダム)とか田畑とか里山とか砂浜とかあったし今もあるのだけど、それらのどれも最大限に美化されうるというか、例えばサーフボードごと海に巻き込まれ死にかけたとか怖い思い出もあるがそれ含め、全体的に宇宙の美しさを崇高さに繋いでいる場だ。
 なぜ新海誠が嘘をついて都会の最悪さ、新宿の大部分を覆っている表面だけの都会ごっこと、あちこちにはみ出している誰が見ても明白な醜悪さを敢えて描かず、そこを美化するのか。金儲けのために嘘ついてるとしか思えない。まあ当人じゃないから真意は知らないけども。そういう所も含め映画観ないが。

 同人誌という代物がある。これも、THE都会女なるものの淫乱ぶり、いわゆる江戸の遊女気質なんだけど、そればかり描いている。まあそういう面が偏見として東京人一般のみる女らしさの類型だというのはうんざりするほど重々分かるが、私はその種の女らしさは性売買罪の真似ごととしか思えない面もある。
 私は高校の時から網羅的に村上春樹の作品も全部読んだ。しかしそこに出てくる女も、一人の例外もなくTHE都会女である。で、正直な所、私は春樹の描く女像は、下手くそだと思っている。他の人らも思ってる気がするけど。女のきょうだい居たのかなこの人? と思えるくらい女心分かってない感じがする。今後歴史の淘汰を経て、春樹小説は全部消えるというのが私の現時点での予想だけれども、それらの中で最上の類型が『スプートニクの恋人』のあの名前忘れたがすみれか、すみれだとしても、「お前わかってねえな」としかいいようがないのではないか。女を描けていないという点で。男も書けてないけども。
 少女漫画って歴史の隅に放り出され、永久に消えていくものなのかもしれないけど、女心を描けていたという点では、昔のはちゃんと書けてたんじゃないだろうか? 『NANA』あたりから違う代物になっていったのかもしれないが、もう少し前の類型のはちゃんとしてたというか、乙女心の表現だった気がする。
 まあどうでもいい話かもしれないが、Vチューバーとかも、女だてらの姿を使いながら、女らしさではないなにかを写し取っていると思うから気持ち悪いのである。作り手がオタクなのでオタの妄想女像を表象させようとしているのがひしひしと感じられ吐き気がするから見てない。女が作りゃいいと思うのだ。

 結局、脳内にいる理想の異性像を、エロス(性愛なるもの)として写し取って表象化しているのが誰かの作った偶像であり、それが下手だ、酷いというのは、その人のエロス像が現実から遊離しているばかりか、趣味が悪い場合だと思う。春樹のそれは娼婦じみ、鳥山のは田舎女も都会女もきちんと捉えていた。漱石の描いている女性像も、まああんまり上手だと思えない。どういう所がかというと、女なるものを神秘化しすぎ。普通に動物みたいなもんなのに。よかれあしかれね。じゃあお前が書いてみろよという話なのだけども。

猫ちゃん

ベランダを猫ちゃんとおり目を合わす

食事

わたしはひとのかなしみをたべている

2019年9月21日

なぜ私以前の日本のIT業界は規模拡大しなかったか

私はツイッター界に、単なる読者でなく囀り者として自分で参加してみて分かったのだが、この世界では通俗的な二流以下の人物の方が俗受けしている。そもそも一流以上の人物がとても少ない。そしてこの両者は違う世界に生きているから、会話が全く成り立たない。この意味で会話ツールではなかった。
 これまで匿名媒体はどれも退廃の果てに潰れてきた。日本語ツイッター界はこの意味で、2ch的匿名衆愚が戯けている段階なので、将来潰れる可能性が残っている。フェイスブックは完全実名制なので安泰だ。人本体は消えようがないし犯罪はすぐ排除されるからだ。
 匿名衆愚は実名の賢者を攻撃排除する。
 が、ツイッター界は海外では実名制が前提になっているので、日本語圏だけいつものようガラパゴス化している。それも悪い方へ。恐らくいつもの不安症候群と、匿名卑怯者文化のせいで、日本語ツイッター界が全体の足を引っ張り、遠からず大規模なBANが起きると思う。これはツイッター社の未来に必然だ。
 日本人全般とこれまで関わってきて確信をもっていえるのは、先ず実名や顔をさらさずに言行している人間はだれも例外なく、或る種の卑屈な悪意でそうしていた点だ。「いつでも逃げられる」状態で自分を安全地帯に置きながら、場合によっては記録に残らないよう悪事をしてやろう、これが彼らの本音だ。だから、その種の匿名で言行している人間は、その時点で足切りしていいと思う。以前言い訳していた雑魚が1人いたが、この人物の言動の本質も、正にその種の人陰で悪事してやろうという表現自由の権利を自ら打ち捨てる蛮行であった。憲法にあるよう権利は自ら再獲得しなければいつでも失われる代物だ。
 名前を名乗れる時点で、以前は武士しか名字すらもてなかった時点から大きく人権面は進歩しているのだし、表現自由が保障されているのもその言説に責任をもつ前提があっての話である。2chなる世界最悪の犯罪サイト出現後、東京関西ネット文化は自堕落一方でザッカーバーグの遥か後塵なのも理の当然だ。

 もしミクシーが足跡機能廃止あたりから迷走し、ソシャゲ賭博に逃亡せずまともに実名制日記の交換に的を絞っていたら、2ch的・日本語圏ツイッター的な底なし沼の匿名犯罪地獄文化は完全に消滅させられた可能性だってある。そうなれば日本人全体の民度も、恥のため随分あがっていたと私は確信できる。だが時は既に遅い。覇者ザッカーバーグが黒船で寄りついた時点で、国内ではニコ動でまた匿名コメントとか最悪なことやってますます陰険極まりないガラパゴス化を図っていって、遂には規模の違う中国ビリビリ勢にも追い抜かれた。私は最初からニコ動のコメントうざいとしか思わなかったし馬鹿と思った。
 私は2chとか日本語ツイッター圏の、陰湿極まりない匿名卑怯者文化が世界一嫌いだ。そういう匿名で犯罪だの悪意で陰険な犯罪もどきをしている連中は、できるだけ早急に法整備して全員、実名住所晒して直接罰金や懲役刑で罰するべきだ。寧ろ、実名と国民番号晒すのを前提に発言権を与えるべきと思う。
 責任がとれない人物は、いってみれば奴隷や、逃亡中の犯罪集団となにも変わらない。だから彼らに市民権の類を与えているのは間違っている。勿論、国民から主権を奪うべきと自民党みたいなことをいっているわけではない。言論の自由が保障された歴史的経緯は、市民の誇り高い戦いの結果だといっている。自ら言論自由とその責任を放棄している、匿名衆愚。まあ日本人全般なのだが、彼らは自己奴隷化によって人間扱いされないことを望んでいるといっても過言ではないのである。まあこれ一々説明しないといけないのがおかしいのだが。知的劣化の度合いが凄まじすぎてこんな話を書かないといけない国。

 今後、日本語圏ツイッター界がどうなるかだが、私がさきに書いた様、遠からず強制BANで個人と一対一で照合されない匿名アカウントが大量消滅する流れになると予想する。そしてこの流れはユーチューブ含め、SNS全体の必然的推移で、当然の進歩と思う。今は2ch匿名罪人の残党が蛮行している段階だ。ネット黎明期に出現した2chという某人物が作ったサイトが、日本のインターネットを「残念」(by梅田望夫)な場所にしたのが事実で、既に最初からザッカーバーグと勝負にならないくらい発想の根本が歪んでおり、ネット倫理面でも某氏は全面敗北したサイコパスだったと言えるであろう。そして日本のネットは、SNSの殆どをアメリカ発のそれに寡占され、いやそれどころかハードやOSですらそうで、近年では中韓台勢にも押されてもはや日本勢なんてメンタリスト某動画みてる層くらいしか残っていない。ソフトパワーでもガラパゴス化がいつもながら凄いので、ボロ負けに近いと思うのである。
「なんで日本からはGAFAやBATが出ないの?」とお決まりの様にいわれていた。それが2chでピグでミクシーでDeNAでグリーで楽天だったのである。ライブドアは初期に倒幕された。要は小粒キャラ、勘違いガラパゴス商人しか日本てか東京圏IT界には居なかったのである。はてな入れてもそうだろう。
「なんで東京・関西IT系商人って雑魚しかいないの?」
それは彼らが世界を見てないからですよ。志が低すぎる。孫正義がトップである。彼からしたってヤフー買収やアイフォン転売でああなっているのであって、正直、革新者ではない。
「じゃあお前がやれよ」ということなのだが。

 確かに、私はしばらく前から野望をいだいている。それは和製ジョブス、和製ビルゲイツ、和製ザッカーバーグ、和製バフェット超えるにはどうやったらいいのかな? とずっと考えているわけだが(まじ寝ずに1週間くらい24時間集中し考えてたら失神で過労死しかけた)、大言壮語は全く無益有害だ。大言壮語キャラが嫌いだ、私は。だから坂本龍馬も嫌いな人物だ。口先だけで実現したことが内乱誘導、外患誘致なんだからしょぼすぎるからだ。それでずっと内面で考えまくっており、今の今まで公言というか書いてなかったのだが、少なくとも志を立てることなしに、天下など取れないと言いたいのだ。
 世界中の人々に良い影響を与えましょう。それは全人類のうち、比較的恵まれない人ほど、より、自分の影響で救われた、という状態を具体的に作り出すのが、私がここでいう天下を取るということである。自殺を思いとどまって人生に希望をみて人の為に立ったとか、やっとご飯食べられたとかそういうのだ。私がみるに、日本の商人は多分一人の例外もなく、最初から金儲け目的に商売界に入っているので、志が低いのである。ところが、私は武士道で完全に商売の外に生きていたので、しょうがねえやってやるか、となったら全く志そのものが違うので、そこからみると、なんで日本商人が負けたかよく分かるのだ。
 日本商人が世界で通用しなかった理由は、目先の利益しかみていなくて、アメリカの革新者らと違って、人類(できれば全体。まあアメリカ人は外国に無関心で自分らが世界の中心だと思っているので、デフォで全人類)に良い影響を与えたいと思ってなかったからです。小金持ちでヒルズ族とか意味がない。そして、トップ10に入るレベルまで行くと、普通にこの全人類に与える良い影響度という点での差がつくだけなのだ。それは志の大きさの差といっていい。人間のデカさの差である。ある意味では商才なんてあとづけなのではないだろうか。そのトップ10に入るまでは誰でも商才で偶然そうなるのだから。

 私は、世界の大勢と違うと思うが、ジョブスよりビルゲイツが好きだ。それはジョブスはかっこつけているがビルゲイツはかっこつけるより実用を優先し、世界中の人達に安価なPCを配った人だからだ。ジョブスは社内政治でもヘマ打って迷走後、日本のW-ZERO3パクリで市場開拓したが飽くまで商売で負けた。工業製品の芸術的価値の面では、サムスンやファーウェイよりアップルの方が神ジャン、だからビジュアルOS供給しただけのビルは家庭用PCの市場作ったジョブス以下なんだよ、いつもの信者の言説だ。私はアップル信者ではない、ビルゲイツ信者でもないしマイクロソフトのOSは使いづらいと思っている。
 なにがいいたいかというと、商売は商売で評価されるべきということである。宗教とか関係ない。商売でできた最大の人類史への具体的貢献度を客観的に見て、勝ったほうが上なのだ。だから私はビルゲイツの方が上だと思ってるのだ、ジョブスより。それは世界中の役所や会社はウィンドウズなのでも確かだ。一々書くまでもないと思うが、実用品に関しては美がどうとか或る意味、余計な要素である。装飾品と勘違いしていると思う。私は芸術家だ。だからジョブスが中途半端に美術ぶっているのが気に入らない。工業製品を芸術としてやりきっているかといえば、深澤直人に比べても余りそうは思えないからだ。わたしのきょうだいは大学入った途端、iMac買ってあの有名なブラウン管状の青いやつが部屋にあった。しかしあっという間に消えてもうない。そんなのが芸術品だと私はいいたくない。永遠に手元に置いておきたいもの、絶対になくてはならないものが芸術である。商品でも消費されるものでもありえない。
 で。日本のITが駄目だったとかいわれているけど、それは話が早すぎる。なぜかといえば私がここに志を立てているからである。それは現時点では秋の虫みたいに小さなものにみえるし、実際そうなのかもしれないけど、アリストテレスがいうよう、初めが全体の半分が正しければ、いずれ結果になるであろう。
 さきほど書いた。世界全体のできるだけ多くの人達に、できるだけ良い影響を与え、できるだけ多くの人達、できれば恵まれない人達をより幸せにするのが、商売の最終目的なのである。松下の水道哲学みたいな話だが、この志の前では、現時点、ジェフベソスくらいしか勝負になる相手はいないと思うのだ。私がただの哲学者というか思想家で終わり、商売の究極目的を定義しただけの男で終わるかもしれん。しかし運がよければ私も具体的な商いで、市場の中でジェフベソス以上のなにかができるかもしれん。だが志が彼より大きければ、当然勝てると思う。そういうものだと思う。
 ソニーとかいう会社、今は開発された人足寄場であらしゃる品川の駅前で威張ってはるのかしらないが、私はジョブスのガレージバンドどころか、祖父の設計し建てたこの家の、設計図だとサンルームと書かれていた2畳か3畳くらいの部屋でこれ書いてるのだけども、志は宇宙全体を包んでいるのである。

 ま、キチガイじみたことを書いてる筆先だけの雑魚だと、これ読んだ誰かに思われていると思うが、私がここで書いて置いたのは、目的がおかしいから下らない匿名掲示板とか、ライブドア事件が起きたのであって、それでIT終わりってことにはならないって話だ。次世代は次々生まれるのだから前轍になる。
 あと一ついえるのは、FAANGやBATがどうとかいっていた年上の人らが発想がおかしいと思うのは、マネしちゃダメでしょという話です。規模でいってるならまだ分かるけど、それにしても、同じ会社2つあったら競合するんだから意味がない。その辺がもう上の世代の工業化時代の限界かなと思う。ほんとに。私はティクトクがこんな流行るとまじで思わなかった。怪しい中華アプリだと思ってたらあっという間に浸透した。でもまあ数年で消えるかもしれないし、多分そうなる予感もあるけど。そんな感じで、今までと大分違う角度で出てきていきなり市場を作り出してしまうものなのだ、革新って。ティクトクがなにが怪しいかというと、またも日本最適化ガラパゴスぽくみえることだ。まあ観察してる感じ、そうなりきってまではないから、ティクトク日本圏が限定的にまたガラパゴス化してる感じだけど。でも、この前轍はほんと避けるべきでしかない。日本は無視した方がいい市場である。
 勿論、日本向けの製品奉仕はしてもいいというか当然すべきだけど、そこに最適化すると、顧客の質が世界の外れ値なのでスケールが縮んでしまうのである。Xperiaやバイオの末路をみよ。ピグがもし、ピコ(英語版ピグ)を成長させてたらサイバーエージェントだって未来があったかもしれない。もう遅いが。

 あとどうでもいいことを書き残しておくが、私はイーロンマスクを「商人として」好きじゃない。個人としていい人なのだろうとは思うが、色々見当違いの仕事してると思う。宇宙開発は貧困の解決より後にやるべきだし、ハイパーループも大都市向けだ。電気自動車はいいけど、マンガーも過当競争といった。商売は、といっても私は全く商才が0に近い人間だから身の程知らずに書くのだが、具体的に、目の前で、人を救うものでなければならない。寧ろそうでなければ規模も拡大しないと思う。夢を語る様な人間は、正直、信用ならない。坂本嫌いなのも現実感がない人間は雑魚だからで、商売は結果が全てと思う。
 ジョブスは神だと言っている連中を私は悪徳新興宗教じみてると思ってずっと嫌悪していたのだが、最近は、CEOがもっと穏やかなティムクックになったからアップルを許していたのだけども、今日は、日本の商売がなんで伸びなかったかの分析から、やはりジョブスは商売面で反面教師だなと思えるのである。アイフォン規模は、高い利益率に反して、またも日本ガラパゴスの高シェアでしかない。その点ではサムスンやファーウェイに完敗を、今の時点では喫しているし、その現実の前で定額制でカバーとかハードメーカーとして本末転倒だろう。だから私は商売は良い意味で冷酷だ、馬が合うときのう気づいたのだ。

美は適応価値としての癖によっている

美はそれが自分にとってなんらかの快適さをもたらす時にしか美と判定されない。だから人によって美とおもう対象は違う。恐らくこの機能は、脳内の前頭葉・内側眼窩前頭皮質の血流量反応で示された様、肯定的な適応価値と一致している。主観的要素が入るのは適応性が人によって違う部分があるからだ。
 異性愛者で、若い男性なら、同じ様に若い女性を、自らの生存戦略の中で必要に応じて愛する。そしてこの生殖の為の適応価値にとって、当人の脳は或る異性を美と認識する。他の動物にも似た機能があり、食料の供給される場所とか、住み心地のよい巣とか、異性の歌などにも反応する。
 私は最初から、その種の美に興味があったのかもしれない。それで芸術に惹かれていた様に思う。私にはその技のどこかに、生存にとって望ましい適応価値があったのではないか。さもなければこれほどその分野に深入りしたとも思えない。
 美が人生に直接関係しているのは明らかだ。常に私はそれを探す。

 或る西洋人が、或るSNSの中で「日本人は醜い」といっていた。当然人種差別ではあるが、私がそこで思ったのは、我々は西洋人女性にもしばしば似た様に感じるということだ。ここにあるのは、アジア女性の女性化された特徴だけではなく、見慣れない顔形が美の基準を脳内に作れないという慣れの要素だ。東京都民一般はビルだのちっぽけな建売住宅をみて、巣として美醜を判定しているわけで、それは広い庭つきの一軒家や広大な敷地でくらしている我々には全く意味がわからない狭く歪んだ世界観でしかないのだが、ここにある趣味の落差とは、日頃見慣れている物の選択に審美眼が適用されている癖なのだ。
 チャールズ皇太子が近代建築を醜いというのは、彼がミース粗悪版やSANAAの建物を見慣れていないからである。或る日系フランス人が、サヴォア邸を非常に軽視していたので、私は驚いた。東京圏の建築学生は、安藤忠雄宜しくコルビュジエを神話化しているからだ。これも主観的適応価値の違いを意味する。

 適応性と美にこれほど密接な関連があるので、美術史が文脈主義によって或る潮流上に或る独創を歴史化するのも、やはりまとまりがつく傾向を、或る人の名誉や都合の為にひいきしていると捉える方が自然であろう。客観的な美の基準は、この様な意味で、恐らく本来はありえないのだろう。
 左右対称性が生物の身体的健康の目安になる、という生物学の一見解は、この世の生物群に共通の客観的な美の基準といえるだろうか? もしそうなら、確かに美の基準は存在することになる。だがこれを超えた生物、例えば原核生物とか植物もいる。これも唯の慣行的な一部動物の本能なのではないか?

愚かさや賤しさの認知費用について

我々は愚かな人達、賤しい人達についてどれだけ知るべきなのか?
 そして我々に賢愚、貴賤として判定される価値とは何か。その様な普遍的基準が、相対主義によっては不可能だとしても、現にその様な判断が主観的に成り立つのはなぜなのか。

言語分化の訳

人は各々違う集団に分かれることで生存確率をあげたり、より合理的に異なる適応性をみいだしてきた。つまり言葉が分かれるのは、その統一に比べ、集団分化に都合がよかったのだろう。
 ミーム史的に、言語分化は人類全体の変化適応度をあげてきたと考えられる。言語帝国主義はこの法則に逆らう。

桃の朝

秋の朝桃を剥かずに食べにけりそのあと牛乳飲みて息つく

2019年9月20日

人気は真贋の目安ではない

SNSは売名商人らをかまびすしくしたが、本当に注目に値する人は一生のあいだ無名なままだろう。世人一般は一部の具眼の士に比べ認知力や趣味が比較的低いので、真贋を見分けられないからだ。
 俗受け度を価値と同一視して評価経済等といっていた人達は、人間性を低俗さへ矮小化してしまっていた。

安倍退陣後の日経没落設計

安倍晋三氏は自身の退陣後に日本経済が凋落する方へ舵を切ることに集中しだしたのではないか。ダークトライアド的資質は権力を私用するが、公共にはその為の利用価値しか見いださないだろう。消費増税を不況時に行うのは根本的に、2020年以後の日本経済を致命的に悪化させれば、相対的に自分の株があがる為だろう。

性からの解脱について

女性の師は魅力的でなければならないと
あのチベット人の高僧は言った
もしそうならなぜ女性だけなのか
全く意味が分からない
粗末な衣に身を包み
乞食している筈ゴータマの弟子
女性の師がなぜ生殖に執着するのか
貴方は何も悟っていないのか
無欲に留まり肉体も自我も捨て去れ
男も女も必要ない

学者という宗教家

哲学やそこで産まれた思想など
形のないものなら
どれも他人が信じることでしか広まらない
学者などどれも宗教家だ
宗教を軽蔑する人の意味が分からない
道徳なしに生きていけると思っているのか
お前が法律の根拠にしているのも
善悪なしに生きていけない人として
理由なく殺戮されない為なのに

私は人類ではない

世間の人はトップは孤独だとか
天才は孤独だとかいっているが
私がそれらかどちらもか
どちらでもないか知らないが
この世で最も孤独な人間の一人だ
私は人類ではないのだ
私の肉体は人類の様にみえるが
確かに私は人類ではないのだ
周りにサルの様にみえる生物はいるが
私は神の様に永遠に孤独なのだ

資本主義は人生の目的ではない

今から全く不可解なことを書くと思うが、私は「何かを他人の為にして、その他人がそれを求めていた時、対価として金を得て代わりに何かを与え、それを別の必要なものと交換して生活する」という生活様式が、完全に本能的に嫌いで、何一つ共感できないし、参加もしたくないのだ。商業的生活感が嫌いだ。
 私がなぜ対価を得て暮らすのが嫌いかというと、理論的には新渡戸『武士道』で尊い仕事、心からの奉仕、善意は金銭に換金できないから、というのが尤もだと思うが、それを超えて、そもそも他人という存在が理解不能すぎて、自分と同類ではないらしく、他人の需要など全く見通せないからである。
 自分が欲しいと思っているものは、他人が欲しいものではない。そして他人は自分ではないし、何か似ているかといえば、産まれてから今に至るまで、他人が自分に似ていると思ったことは一度もない。ドラクエ4が楽しいとか偶然似ていた時はあったけど、成人後は他人が全く別物にしかみえなかった。
 それで、自分は商業活動ができない。需要が世間に数値化して具体的に現れているからといってそれに奉仕する、いわゆる商売が生理的に気持ち悪くてできないのだ。昔でいえば私は公務員の直系子孫だからそのまま世襲で侍になってたのかもしれないが、芸術のが好きだったので芸術方面に進んだ。
 なので、私は今日の社会に、完璧に違和感しか覚えていない。というか他人がサルにしかみえない。しかもそれは子供の頃から同じだった気がする。同類が一人もみつからないので、この世の人間に、神の様に同情なり義憤を感じる時はあるが、飽くまで他人の需要と自分が違いすぎて同じ社会に生きられない。

 しかし、産まれて35年間のほぼ全期間を勉学に費やすことで、私はこの世の構造の様なものを大分掴めてきた。そこからいえるのは、サルの囲い込みとみれば商売もできるのかもしれないということだ。だが、それは私独自の方法論なので、私以外の人類が応用できる価値のある考えではないかもしれないが。

 もし私が今書いたことが真理なら、あと10年も見積もれば、私はこの世でいっぱしの「起業家」になっていて、たしかにここで書いた洞察が正しかったと示されることになるだろう。しかし私自身の実感としては、世の起業家は私と全然違うルートで金儲けしたのだと思う。私はそんなのしたくなかった。
 私に必要だったのは、単に食べ物を得ることだった。私は余りに他の人類と何もかも、成り立ちの根本から違いすぎるので(もしかすると遺伝子が何か変異しているのかもしれない)、なぜ働いても働いても彼らが一円もよこさないのかさっぱりわからなかった。他の人は同じ様に働いても大金を得ていたのだ。
 私に分かったのは、他人は私より遥かに、それは天と地の差というしかないほどの開きだが、利己的だった。私は他人に比べると、天の上に生きている様なもので、純粋に利他的な産まれだった。これが、私には他人が全部サルにみえた理由だと思う。私は聖人以上の利他性をもっているが他人はサルなのだ。それで、私が餓死しないよう食べ物を得るには、この私を基準にみればほぼ純粋に利己的なサル達を、巧く囲い込んで、彼らの行動規則から金を抜き取るしかないのである。まあいわゆる搾取、広義で付加価値の分捕りなのだが、事実、これを初期設定でやっているのが彼ら利己的な生物、人類なのである。
 なぜ私が彼らの中に参加できなかったかはこれで明らかになった。彼らは同類である「利己的な人類」を基準に世のしくみを作っていたので、「純粋に利他的な人類」がいるという想定をしていなかったので、ずーっとエラーが出ていたのである。そして彼らはそのエラー反応に気づいてすらいなかった。
 私は産まれながら善良な存在だったので、何もかも無償で奉仕して当然だと当たり前の様に思っていて、成人後も設計のアルバイト頼まれても、バイト代いりませんといって貰わなかったし、弟子入りにいっても給料いりませんといって一円も取らなかった。しかも普通に道端でタダでお金あげようとしていた。これは産まれのせいなのか、余りに育ちがよすぎたせいなのか分からないが、きょうだいは普通にバイトや就業とかしていた様なので、遺伝の影響なのではないかという気もするし、新渡戸思想とか別の影響も考えられるが、いずれにしても私は商売どころか、デフォで宗教家以上に利他的な慈善家だったのだ。
 資本主義経済を導入している社会だと、慈善家はひたすら利己的な悪党商売人らに貪られて死ぬ。私はこれで正真正銘、過労死直前まで行った。1年くらい前の話。それは私が無償奉仕しまくっていてそうなったのであり、そのまま行くと普通に餓死すると判断される。だから私は悟って逆に走るつもりだ。
 逆に走るとは、この利己的な人類達(まあ総じて日本人のほぼ全数がそうであろう)の存在を認め、彼らの行動規則を読み、いってみれば孫正義とか柳井正みたいな行動をとるということを意味している。しかし彼らみたいに私はきっとならないと思う。進化的に全く極端で異常な道筋で急転回するのだから。

 私はもう過労死、餓死という生まれながらの慈善家がこの社会で当然行き着く果てを実体験したので、そしてそこには無と死しかないのをまざまざと見たので、今後は人類一般の邪悪さを完全に悟って、彼らをサルとして利用することに全精力を使うしかなくなった。これが冷たい現実なのだからしょうがない。
 勿論、私は哲学者だ。だから功利主義もロールズ正義の原理も必要十分に知っているし、幾ら人類一般が二足歩行の哺乳類とはいえ、サルとして手荒い扱いはしないし、できるだけ彼らの最も恵まれない者を恵み、動物愛護の目的で彼らの幸福も最大化してやろうと思うが、これと金儲けは全く別の話だ。この合理的経済人ぶっているサル達は、いうまでもないが利己的な欲求充足を目指して、往々にして下賤に生きている。それは彼らが頂上扱いしている皇族だの王族だのをみても、偽善的な虚栄心くらいしかないのでよく分かる。つまりこれらの人類というサル達は、アリストテレスがいう奴隷なのである。
 自由人の資格は、純粋に利他的な行動様式を前提としてもっていることにあるといえるだろう。しかもそれが自集団ひいきを目的にした群れに依存してではなく、ただの個人として同調なしになければならない。奴隷精神の持ち主はこの逆で、同調、群れ、利己的な欲望に妄従する。だから彼らは商人なのだ。これら商人奴隷らの行動様式は、皇族・王族といった権力者に納税しながら欲望充足を図ろうと程あれ利己的に行動することにある。すなわち、我々が自由市民として今日為すべきなのは、彼らの行動規則を抽象的に理解しつつ使って、必要十分な資産を蓄えつつ、自由な生活を営むことでしかない。
 彼ら商人奴隷は、こういう規則で動くので、純粋に利他的な行動様式に理解がもてない。だからこそ彼らは、俗物的見方をこえた学術的領域に深く踏み込めないのである。彼らがそこに名誉とか換金、応用性といった即物的利己性しか認められないのはこの為なのだ。
 自由人は商人であってはいけない。
 だが同時に、資本主義経済は正にその名の通り、資本によって自由人の為の領域を確保している体制である。我々が為すべきなのは、ケインズやマルクスが考えたのと違って、資本家の立場と自由人の立場を一致させることである。そしてくらしに十分な資産があってのみ、今日、純粋な慈善が可能なのである。

 蓄財や営利を目的としてはいけない。これらは利己的な商人らの求めている目標だ。自由人の経済に対する目的はこれとは逆に純粋な利他性なのだから、中程度で必要十分な資産の確保と、その上に立った非営利的で純粋な利他活動でなければならない。資本主義を乗りこなしながらそれを目的とするなかれ。

事実の正確な認識としての科学

自然・社会科学は科学言語としての数学を道具に、或る事実をより正確に知っている状態を目指しているが、この事実の認識度と全く関係のない俗物根性的諸要素は、現実的に全く意味を成していないし、その応用的価値(後光効果など)によってきている連中は元々、科学界の部外者である。

芸術の感情価値

芸術を換金価値のみで評価する経済俗物は、そこに感情価があると認識できていない。

音楽自体を聴く人と演奏家にしか興味がない人

安室奈美恵の昔の音楽がスポティファイに出たので聴き直してみたが、殆ど時代がかっていて古びている。JPOP自体どれも古びるのかもしれないが、曲によっては或るカノン(規範)に達している古典もあるのではないかと薄々感じているのだが。
 JPOPやKPOPは民謡や、演歌・トロットの進化版で、その規範は通時性を持たないのか?
 大衆向け商業音楽としてのJ・KPOPは、美術なら漫画・アニメに該当する部類のもので、そこで或る規範をもっている正格的な作品といえるものさえ、実際には表現形式に固有のそれに留まるので、究極のところ純粋な芸術音楽になりえないのではないか? サブカルチャーへの嫌悪感の原因がそこにある。

 しかしポップアートに比べ、それらのサブカルチャーが低俗で、下らない作品の集まりだとどうしていえるのか? スーパーフラットや中間芸術としての解釈は、ポップスをビートルズへ遡源するかもしれないが、ではビートルズは低俗な下らない音楽家だったと定義できるのだろうか?
 私にとって意味があるビートルズの楽曲は、実際、『Revolution9』だけだった。しかし他のポップス全てが、彼らの文法を応用したものなら、それらのどれに正格があるのか? そしてその根拠は、感覚論以外でなんなのか。私に興味があるのはこの音楽論としてのポップスの質だ。

 バンプ好きなんですね、とツイッター上で聞かれた。けど、私は音楽をいわゆる個人的好みで聴いてないと思う。確かにjupiterという彼らのアルバムは、近所のCDレンタルで中古買ってから余りに聴きすぎというか、多分床かCDプレイヤー内で擦って、擦り切れた状態で聴けなくなった。が曲を聴いてるのだ。
 この『ダイヤモンド』という曲は、歌詞もだけど、とても良い曲だと思う。その後のバンプも全部聴いてるけども、この最初期の作品を超えたと思えるものはない。
 Uruがカバーした『Butterfly』を聴いてみてわかったけど、バンプがなんで僕の感動を呼ばなくなったかというと、プロデューサーが悪い。曲自体は初期からロックなのに編曲・演出で中途半端に電子音楽化し、初期の荒削り魂がお洒落調で表に出れなくなっているのだ。だから私は曲を聴いてるというしかない。
(バンプの半電子音楽化されたお洒落風PVの原曲)
 似た様なことは、ミスチルファンが某プロデューサー批判としてやっていたし、要するに売れると巨大資本が乗っかってきて、ストリートミュージシャン魂みたいなのは覆い隠されてしまうのですね。尾崎豊の場合、そうなる前に死んだから、お洒落化した中途半端作を世に出さずに済んだのだ。
 このButterflyという曲も、歌詞含め曲単体をじっくりとよく聴くと、初期の作品と本質は変わっていないのだが、編曲がおかしいからその曲の民謡魂みたいなのをきちんと掬い上げられていないのである。裏返せばバンプはプロデューサー要らないのである。ほんとそうと思う。荒削りで出した方がいいのだ。

 あと、J・KPOPは、歌曲、歌謡曲なので、歌詞の評価という文学的要素が少なからず入ってくる。ボーカロイドやアニソンもだけど、器楽じゃないから純粋音楽と認められていないのはこのせいなのだが、もっと色んなジャンルが派生しているから器楽だけ純粋音楽だという基準そのものが古いのかもしれない。
 似た様なことは、近代美術以後の純粋美術が抽象表現主義以後にアンフォルメルとかコンセプチュアル・アートに行って、ポップアートの派生物をとりこめなくなったグリーンバーグ的批評空間へ、村上隆が中間芸術や大衆・商業芸術をとりこめる枠組みをもちこんだので、美術界では先に起きている。
 それで、私はポップス系も「純粋音楽的」にみているわけで、この点で前から一般のポップスファンと全くみている視野が違いすぎて話が全く合わない。一般のポップスファンって歌手、特にボーカルに発情してるのである。子供の頃ライブで合唱してたら発情女にブチ切れられ、傷ついたこともあった。私はそれ以来、ポップスとかロックのライブには絶対に行かないのだが、要するに聴衆は低俗な発情サルみたいな連中なので、近づかない越したことはないのである。この点でクラシックコンサートの上流気取りぶりも気に入らないし、テクノの場合は音量でかすぎ煩いから、私は直接演奏聴きたくないのだが。
 なにがいいたいかというと、私はバンプもだけど、単純に音楽家として曲の質を聴いている。だからいわゆるファンという代物ではないのかもしれない。思春期くらいからずっと色々聴いてはいたが、ビートルズファンとかクラシックファンが熱狂するみたいな偶像崇拝じみた要素はひとかけらもない。
 私以外の人はもしかすると大多数は違うのかもしれないけど、私はショパンもバンプもアマザラシもけもフレ2オープニングもアリアナ・グランデもジョン・アダムズもフォーレもすぎやまこういちも上妻宏光も村井秀清も、全く並列化して聴いているし、それは曲自体の質を構造的に聴き楽しんでるのである。なので、曲を作った人なり演奏家なりに発情するというのはない。もしあってもそれは異性愛者なのでその歌手自体に、発情してるんだから、その人が作曲家なり作詞家なりとして作った作品の質とはまた別の評価ではないだろうか。両者を混同する人達の気持ちは、基本的によくわからないのである。
 例えば女優なりアイドルなりが、プロデューサーの作った曲を歌います。そして偶像崇拝してるオタクなりファンが買います。この商売はグッズ生成なのであって、私はその商業性にはなんの興味もない。歌手として声を楽器化して使う能力の演奏の質と、曲単体に興味があるのだ。芸術家としての目線なのか?
 曲(歌曲なら+歌詞)の形式・内容と、歌手なり演奏家の声・楽曲の使い方の技巧。これらが私の聴いているものだと思う。だが一般人はそれ以外のなにかを聴いてる気がする。私のきょうだいとか、人物に発情してた様にみえたし、発情に飽きたらその曲や演奏そのものの評価も0になる様にみえるのである。

 なんでこれをいってるかというと、私が生まれてはじめて買った、買ってもらったのは、小学低学年か幼稚園の頃でテープで光GENJIの『パラダイス銀河』、CDで小沢健二の『カローラⅡに乗って』だったんだけど、これらも私は曲を聴いてたのである。人と聴いてる場所が最初から違うので話が合わない。
 で。この「誰とも(音楽の)話あわないぞ」ってのは、今に至るまでずっと続いている感じがする。ほかの人達は曲の構造的分析、研究の興味はもってない上に、自分も高校で音楽か美術かで後者択んでしまって楽典的知識が十分でないせいもあるかもしれないが、要はほかの人らは音楽を聴いてないのである。
 自分は、このミュージシャン偶像化現象がビートルズ発祥なのではないかと、映像で発情女の狂乱ぶりをみて勝手に思っていたのだが、さっき読んだら平野啓一郎がリストも同じ状態だったと書いてたので、もしそうなら昔から音楽聴いてなかった人っているのだと思う。なぜなのかは全然わからないが。
「あんたが芸術家気質だったから最初から曲に興味もってたんだべ? 私らは、虫みたくいいオスを択んでんだよ!」と、関東女は言うであろう。アキバアイドル前で踊りまくるドルオタ男もそう思うんだろうか? とかく、ここでは音楽に対する興味が、私と他人とでは大分違うから共有できないと言いたい。

 自分も20代の前半頃自分で実験音楽を10個から20個くらい作った。その時、自分が何に興味もってたのかはわかったのだが、やはり音楽自体にしか私は興味がない。請われて最近、自分で歌うたってみたのもユーチューブにあげたけど、そこでも同じだ。歌なら声は楽器なのである。他に音楽的意味はない。

空気

秋になり乾燥しける空気にてからだ痒くてトラベリング聴く

2019年9月19日

サブカルの問題点

サブカルの問題点は、解くべき課題から逃げ、空想へ浸って、現実を少しでも改善しようとしないことだ。

不幸の源泉

避けようがない不運を除けば、不幸は全て自分より不徳な他人がもってくるものだ。卑俗な者と縁を切るだけで、いかに幸せになれるか人は驚くだろう。この意味で卑人とは不幸の源泉である。

死の救い

お前は老いて死んでいく
だがあたかもそれが正義で
唯一間違いようのない道だと
なべてのことが伝えている
だが死ぬことより美しい何事があろう
お前は老いて死ぬ
ただそれが救いなのだ
ただ全てが消えゆくことが

哲学、職業、商業への疑い

各科学や学問自体だけでなく哲学そのものをも疑うことだ。そしてここに逆説としての哲学性が生じてしまったとしても、哲学的であることが真理の担保だ、という形而上学の立場は、その形而上学自体が人工物で、信仰の束であれば、根本的にありえない。
 自分が哲学者と名乗ってみた時の違和感や、畏れは、その界隈に戯けている大勢の偽哲学者、つまり官学的な思想史家らの底なしの敵意が予想されるだけでなく、彼らの束がもともとソフィストでしかなかったとしても、やはり同じくらい悪質なのが分かっているからだ。
 自分が哲学者と名乗ってみた時の違和感や、畏れは、その界隈に戯けている大勢の偽哲学者、つまり官学的な思想史家らの底なしの敵意が予想されるだけでなく、彼らの束がもともとソフィストでしかなかったとしても、やはり同じくらい悪質なのが分かっているからだ。ソクラテスもイエスも彼らに殺された。
 名乗りなどなんの実際性も伴っていないが、現に名乗ってみると、そこには反射として自分を拘束する役割がある。職業は本来的にそういうものなのかもしれない。だから私は思想家と哲学者の語彙に、僅かな差しかないとしても、ここになにか問題を感じる。後者は官学界を超えて、本来、論争を呼ぶものだ。

 芸術家もだが、哲学者もまた称号だ。そして少なくとも後者の称号を名乗る人は、自分の言説がタレスなりソクラテス以来の、古代ギリシアの伝統へ接続されてしまう。そして官学者は、この領域に権威づけを要求する。もともと信仰に過ぎない形而上学を信じさせるには、力を除けばそれしかないのだから。
 芸術と同じで、哲学の本領も、やはり官学と根っから馴染まない点がある。それをいえば全科学もなのだが。もともと、官学風の存在意義はなんなのだろう? 既にその種の権威づけが生じている時点で、学識は停滞し、形式化し、退廃し、真の事実かどうか疑われ、確かめられなくなっているのではないか。
 大抵の商人ら、つまり一般人らは、学問をシグナリングの手段としか見ていないし、その種の実利志向は、福沢の実学思想とかジェームズの実用主義(pragmatism)を超えて、完全に知識を金儲けへの応用的価値にしか使っていない。だがこれが反官学的だろうか? 寧ろ官学風の本質と一致するのではないか。

 哲学者と名乗る方が偉そうかもしれないが、別に、思想家だろうと哲学者だろうと大して中身は違わない。しかし、これらの言葉が出てきた由縁を辿ると、哲学の方はより挑発的な意味をもっている。それは知恵者ら、科学者らの弱点を助産術で覆す、最近の言い方でいえば論破的な論争法の別名義だからだ。
 私は、ツイッター上で肩書を書く必要に駆られ、自分が何者か他者のため定義しようとし、とても長い間悩み考えた。その結果、最終的に自分の活動性、志向性は不確定なので、仮定しかできないにせよ、一定のベクトルを社会で典型化されている類型と、一部重ねられるのを発見した。しかし違和感は残るが。
 私が考えているのはウィトゲンシュタインや、キルケゴールの様な人物の存在だ。彼らは生前、哲学者と自称していたのか? (していたかもしれない)もしそうなら、彼らの生産物が他人からみて思想であり、哲学自体はその志向性だったのである。
 学会で文献学じみた論文を出す人達は哲学者ではない。

 もう一つ、私がはっきり捉えきれていないのは、そもそも自分は芸術(特に絵)と、そこから派生して始めた文芸の延長上に、哲学的な学問世界が出現してきた結果として、前者を半ば否定するに至ったということだ。この点では私はプラトンと似た経路を辿って考えを進めてきた。違うのは回帰している点だ。
 私は「哲学者」の様に、20代の殆どの時間を、一人で思索と読書に費やした。なぜそうしたかなら、私の脳はその様な作業を最も求めていたからだ。私は真理を集め、なぜ産まれてきたか知り、よりよく生きようとした。だが世間は私を絵描きとしてしか評価しなかった。それで余技みたいに絵に戻った。私はその種のルートで絵を描き続けているのだが、そして同時に「そもそもなぜ自分が絵を描くのか、絵とは何か」から絶えず抜本的に見直してきたのだが、私自身というより完全に、世間に私が利用されているのではないかと思う。私自身は絵を好きにさせられていた。褒賞で誘導されたからである。
 プラトンにいわせれば「イデア」が目的かつ本体で、画家なり芸術家なりはその写しを形にする。だが私は思想の表現という矮小化した定義でしか絵や芸術があるとは思えない。感動はイデアによって起こるものだろうか。感覚的な感動と、イデアの写しとしての哲学的要素は、実際には別なのではないか。
 科学は広義で哲学の一部だから、ここで私の中で対立しているのは、芸術と哲学である。この両者に絶えず引き裂かれつつ、両方を前進させ続けるしか私にはできなかった。だから私はこのどちらかに自分を集中させられない。私自身は絵を、寧ろ世間に描かされているのだが(賞を与えられるくらいなので)。

 寧ろ、私は絵を自己実現なり自己救済の手段にしていた節もある。いわゆる昇華だ。哲学なるものは文芸なり話芸の一種とすれば、やはり一種の知性化なのではないか。このどちらも、実際には私が世間にやらされている活動なのではないか。しかも、私自身は職業化した芸術家でも哲学者でもない。私はこうして、職業名に完全にあてはまるものではない。根本的に人を動かしているのが性衝動の向け換えだとすると、自分は職業を手段としか思えない。だから、20年来続けてきた絵も、その原理探求の為の哲学も、本当には私の目的だと思えない感じがする。アリストテレスは自己洗脳したのではないか。
 哲学、特に観想が最高幸福だ、とアリストテレスは言っていた。これには理屈の裏づけ(人間固有の特徴が理性なるもの)があったので私も完全に疑いきる所まで行けていないが、しかし疑わしい考えだというしかないだろう。理性など後からできたし、機能は後づけだ。なら哲学なる伝統そのものも疑わしい。アリストテレスがいうよう人は、社会にとって比較優位な、最も得意な活動をすることを生きがいにし、ある職業人になるとすれば、私のそれはこの社会にとって経済的価値があるものではなかった。だから私はひたすらこの国の人々に貪られたが特にかねが儲からなかった。つまり私は職業を奪われたのだ。

 最も得意な活動ですらひたすら赤字にしかならない人は、資本主義経済を採用している地域では貪りの対象になり、やがて殺されてしまう。だから絵にせよ哲学にせよ、その他の芸術にせよ、私はこの国で生きていけない。貪りで殺される前に逃げ出さないといけない。私が生きていける国へと。もし生活保護はいうまでもなく、外国のいずれの場所でも私の能力が、世間の経済的価値と交換できるものでなかったなら、少なくとも資本主義経済の浸透していない場所に逃げ出し、そこで食べ物の分だけは糧を得なければいけないだろう。日本国の範囲は、この意味では死地である。商人以外死に絶える。
 商人以外が殺される国。集団。そこが最悪の住み心地だとしても、彼らは貪ることしかできない。それが彼らの信仰だからで、貪りが救いだと自己洗脳を疑いはしない。より他人を貪ること。何かの対価に貪りを重ねること。
 私にはその様な国は地獄にしか見えないし、悪徳に合わせるのは本旨に反する。

 私は商売が一番嫌いだったから(母の実家は江戸時代から続く個人商店だったが、コンビニやスーパーの侵略もあり店を畳んだのも無意識に関係しているかもしれない)、商業化しきった日本には全く生きる余地がなかった。だから一度も日本を好きになれた試しがなかったし、商業地東京は全てが最悪だった。
 商人らは、彼らの望むものを、同類と交換し、その貪りの習慣に馴染んでいる。なぜ彼らがそうなれたかといえば、相手も自分と同じくらい利己的なのを前提にできるからなのだろう。だが私はそういう商人らが全員賤しい様にしか見えなかったし、実際貪りの習慣の点で彼らは私と真逆の精神の持ち主だった。
 だが不思議なことにというべきか、当然か、私がもう一度生をやり直せても、やはり商業を避けて生きたろう。ミルがいう様、不満足なソクラテスの方が良い。これがただの合理化で反動形成なのかだが、上品さとは欲充の婉曲的扱い(否定しながらの肯定)だから、高潔な人なら今日、非商業的に振舞う筈だ。

世界には各田舎さしかない

日本は、今の東京や京阪全体を含め世界の田舎だが、それは寧ろ我々の利点で、日本の居心地の良さの原因でもある。日本語しか通じないし、その言葉は世界の流れから置いていかれている。だからガラパゴス化した内輪受けにばかり耽って外と通じ合えない。その衆愚さは村社会だが、だからこそ日本なのだ。
 この日本国の田舎らしさは、諸大陸から離れ、極東の孤島に留まっている環境、地政学的条件からできているものなのだが、もしそれが美質になりうるなら、その特殊な進化が、世界の大勢に比べ優れた方に独特な場合である。だからこの点に、海外の動向を十分に知っている高文化人のなすべき指導がある。
 諸外国の長短を学び、その短を避け長をとるのが、外国の動向を知っている国際文化人の、国内人の模範的になるべき役割だ。
 そして同時に、飽くまで自国の文化が独特である状態は維持されねばならない。この点で「出羽の守」的同期が巧くいかないと嘆くのは間違っている。完全同期はただの同一化だ。

 全く同じ構図は、自治体の単位にも、家庭や個人にもあてはまる。比較文化の本質的意義がここにあって、世知は情報やその束である習慣の、自文化にとっての取捨の為なのだ。
 田舎さを差別の文脈に置いている人は、この様な意味で知恵が足りない。唯一の世界文化は無い。唯の幻想で自文化中心主義だ。

2019年9月18日

秋刀魚

秋刀魚(さんま)食べられて可哀想

2019年9月17日

貪りの国での救いについて

お前は一言でいえばごみ
この世に求められるものを何も作れない
いや作っても売れない
第一お前は高貴すぎる
この世に戯ける下衆どもにあわせ
もっと品性下劣な商品でも売れ
それすらできねば死あるのみ
尤もごみなど始めから死んでいるが
だから納税するため奴隷になれ
下衆なあきんどになれ
下衆な町人になれ
下衆な公務員になれ
下衆な皇族になれ
芸大東大を卒業して馬鹿を言え
それで大金をやるから
さもなくば死あるのみ
世襲政治家に産まれねばごみであり
皇族以外はごみであり
金儲け主義拝金主義の外道以外ごみであり
屑みたいな愛知の商人以外はごみであり
要はこの世はごみの集まりであり
したがって連中になにも期待できず
ひたすら利己的なごみの中で死ぬのだ
それがこの国であり
産まれてきたら負けであり
自殺すれば貶められ
生きていれば差別され
どこにも逃げ場のない地獄が日本であり
ごみの様な星でなんの希望もなく
ひたすら世を恨んでも無意味
だからこの世では死のみが救いである
最後に残るのが屍だけの地上で
利己的衆愚の中に産まれねば勝利だと
ゴータマがいった通りだったとして
この世にいる間は快苦にあてられ
最後は表面だけのごみ人間に貪られる
だからこの世に戯ける下衆どもは
ひたすら卑しく
最後までお前を貪っているであろう
一体何を期待しているのだ
この世に善人などいない
その証拠にお前は餓死しかけているのに
朝から晩まで必死で全人類に奉仕しているのに
誰もお前を助けないではないか

ノートの中抜き

いいですか
このノートを書いて下さい
そしてそれを民衆に売りつけなさい
私が15%中抜きするから
それがお前にできる最後の仕事
さもなければ死
15%中抜きされて不満なのか
オシャレオフィスでお前が貪られる
東京なるものの醜悪さにうんざりか
だがそれが汚い文明なのだ
だから絶対売るものか

反出生主義の限界について

原核生物が海底で産まれてから、食う・食われる関係で生存競争を繰り返す他の生物は、たとえ全人類がいま滅亡しようが気にせず繁殖を続けるでしょう。
 ビーガンが常識になり、そのうち人工材料で全食事を賄う様になっても、生物界が残っている限り、遺伝子の利己性そのものは解決しないでしょうね。

 釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、その反出生主義の原点として子供を生まずに自然死するのが安らぎだと考えていたが、ニーチェはこれを冷笑主義と批判し、超人となって苦痛に満ちた生存を繰り返せといった。細胞は分裂し、生殖細胞は本能で繁殖したがるのだから、私は解脱はただの逃避だと思います。

 人類にできるのは、文明と呼ばれる或る集団的秩序を、できるだけ苦痛の最小化・快楽の最大化の方向へ整えていくことだけでしょう。そしてその内部では、賞罰の原理によって他者に害をなすまで利己的な人間を罰し、質の高い利他的な人間をより殖やす必要がある。人間中心で他の生物へも拡張しながら。ここで「質」というのは、ジョン・スチュアート・ミルがいうよう、快楽にはより肉体的なものと、より精神的なものがあり、主に人が感知しやすいという意味では精神的なものの快楽の方が、或る意味で高次(より後からできたものの系譜)にある。社会性という意味では道徳的利他性が高質な快楽になる。
 つまり、我々人類はこの文明と呼ばれる秩序の中にあって、より道徳的に利他性の高い生存を目指すしかなく、その種の質をもつ人々の中で生きる(もしくは苦痛の最小化とともに死ぬ)のが、現実に望める全てだと私は思う。本能を全否定できない限り、いずれどこかで人は生まれ直してしまうので。

南蛮商人の描写

思想ぶってどうでもいい箔づけで金儲け
それとも下らないユーチューブがお前か
どちらにしてもごみなのは変わらない
古都でアニメぶり文化差別
都内で身売りすれば偉い人
どこにも救いがない国で愛国ぶって
馬鹿の集まりで騒ぐ暴力団
なるほどお前らは下らない
だが老いた農民が食わせてやっているのだ

復讐の時

この世界最低の愚民国で
馬鹿な老害が若害相手に金を貪る
それを和だといい
無間地獄のよう堕落と差別に耽る
天皇陛下万歳といいながら
違憲の上皇に土下座する奴隷民
なるほどこの国は救いがない
だから一刻も早く脱出すべきだが
その為に必要な金すら手に入らない
だからひたすら復讐の時を待つのだ

地球の無用さ

お前が今日死のうと誰が困るのだ
数人が困るだけ
その数人だって利己心の為にそうなのだ
だからこの星に友人も恋人も家族も要らぬ
いや誰も要らぬ
地球など要らぬのだ

地球を出たがるサル

全人類がどうなろうか知ったことか
最初からこいつらに媚びても意味がなかった
こいつらにあるのは邪悪な利己心だけ
ひたすら俗悪な卑劣さを芬々させ
お前を追い詰め自殺させようとしていた
この邪悪な日本人と称する悪魔の群れ
そんな物が消えようがなんだというのだ
地球を出たがるサルに担がれて

2019年9月16日

涙の初秋

朝起きて目を搔いたら痛い涙の初秋

差別をまきちらすごみ

差別されるために
東京に集まってくるごみどもに
搾取されるために何か情報を生み出し
市場で馬鹿に売りつける
それがお前の生きている時代
東京で驕り高ぶる
東京へ集まりたがる虫の様なサル
そこで退廃生活をし繁殖せず死に絶える
差別されるために
皇居の中心にいる外道へ納税
差別をまきちらすごみ

化石の子

化石の子お前も風邪で出てきたか

人類以後

ユーチューブつけてたらなんとか坂が出てきて吐き気する朝
歌も下手踊りも下手な芸者らのなんちゃら坂の東京ノリ意味不
歌上手踊り上手の韓国に負けて差別の東京人惨め
キムタクをおじんといえり関西の娘はジャニーズ知らずに生き居り
みんな死ね代わりに僕が生き残り宇宙に残る神となるから

変な気候

寒くて暑い変な気候で辛いぴえ

2019年9月15日

保守主義は文明化の一時的反動

ネット右翼は利己心を補完する日本教に、安倍政権とか皇室とか愛国もどきの自画自賛とか中韓差別、中華思想などを引っつけているだけで、彼らの目的は自集団ひいきを期待した利己主義である。即ち、日本信徒はこの教義が自己矛盾をきたすと利己性が侵されるので認知的不協和を解消する為、凶行に走る。
 だがこの集団は元々、利己性を補完する教団を求めているだけで、かつ認知不協和を科学精神によって自己否定的に摂り込む習慣なり認知力が足りない集団でもあるから、もし日本教が利己性に反する様になって脱会すれば、寧ろ進んで内部暴露の担い手になるだろう。裏切った信徒が最も凶悪な非難者になる。
 宗教一般は、この様な脱会信徒によって非難対象になることで、教義が唯一のものにならなかった。この過程を形式化したのがソクラテス助産術や、そのさらなる抽象化としてのヘーゲル対話術(弁証法)といえる。
 つまり、哲学は本質的に脱宗教的な議論で、いかなる教義、信仰も全て疑う所に成立する。

 右翼全般は、自らの利己集団が全体ファシズム化し、自壊を伴う様になると、致命的損害や自死を肯んじない相当部分は別の教義を求めるか、相似の利己集団へ離脱する。彼らの殆どは一定以上の不協和度(即ち寛容さ)に耐えられなかったよう認知力の低さを伴っているので、そこでも似た行動を繰り返す。つまり、保守主義とはこの種の一定より不寛容な集団が、宗派として或る塊になっている状態を指す。そして国や国家連合も、地縁を超えればその種の不寛容さに基づく排他性の仮想物である。この集団性は最小で家族、知人友人、恋人などであり、今日なら最大で地球人(世界市民)になる。
 星規模で最も寛容な慈悲人から、個人単位で自分以外なにごとへも利他行動しない純粋利己主義者までの幅のどこかに、全人類はその道徳多元性についてあてはまる。ある人が他人へ害をなすのは、こうして、根本的に利己度が原因なのである。

 文明の究極目的は、上記の寛容度が最も高い利他集団を集め、イエスが「神の国」、カントが「目的の国」、福沢諭吉が「文明の太平」など様々な言い方で当為として指し示していた、少なくとも物質面含む人助けや諸生物への慈悲深いとりあつかいが利己心より常に、質的に優越する世界に生きることである。
 構造的に、一般に一定より寛容な集団さえ、宗派化した途端、排他性を同時に帯びざるを得ない。だからこの文明は、本質的に構成員を差別する単位(内外を分けるもの)ではありえない。そして互恵性利他行動を省みると、血縁を中心として、度合いに生じるものと考えられる。文明を社会の向かう当為(上記の各思想家らが理想視していた世界)の別名とすると、ここでいう文明は、単純化すれば、構成員らがもつ一般的利他性の質である。もし文明多元論を主張するとしても、そこにはそれら全種類を超えた利他性の質があり、どの文明群も共通してその目的に向かい進化する。
「文明度」と共通尺度を導入すると、この比較文明の立場は元々、文明の多元性と矛盾する。だから文明の質は、たしかに度合いではあるのだが、そもそも寛容さから見直すと、或る共通尺度による順位づけの差別を超えながら拒否する様な、絶対値である。そしてそれは要素に還元し比較できない。例えば法律は或る共通倫理に基づく罰則づけで、利己性の高い人による他者へ有害な行いを外部制裁する政治的機能である。対して褒賞はこの逆に、利他性の高い人を模範として尊重させる動機づけである。これらは賞罰刺激で、文明人らをより利他的に振る舞わせる社会的鼓舞といえる。

 ネット右翼に限らず右翼一般、つまり保守主義者は、こうして根源的に自集団ひいきの妄想による一定の文明圏を維持しようとする排他集団を、利己を目的に合理化する考え方の癖の持ち主なので、彼らは文明の展開にとって反動といっていいだろう。だがこれも程度問題で、一般に年長は経験則で保守化する。
 また、平成後半から令和日本期の様、情報過多で混乱した若者の様に特殊な条件下でも保守化が起きる。ファシズムも不確実性が高い環境下で起きる認知錯誤の積み重ねが、排他性へ結びついた状態といえるだろう。そして皇室の様、絶対的利己性により根本から反文明人として振る舞う目的の蛮族も存在する。神道法人により贅沢に耽る金は十分にありながら、さらに最も貧しい者を助ける為の公税を貪るこの皇室と称する蛮族は、大化改新から1374年余、わが国の公益を彼らの利己心のため堕落させてきた。だが、その邪教祖を兼ねた暴力団長が、文明の必然の中でおちぶれるのは理の当然でしかないだろう。
 国に限らず、どの集団、どの単位でも、人はできうるかぎり利他的であるべきだ。人助け、あるいは慈悲の質が、そのまま或る人の理性的意識がある理由なのだから。そしてこの度合いは、各個人にとっての絶対値なので、他人と比べて善いかを気にする意味は全く無い。どの単位区分でも差別は意味がない。

 我々がこの世で体感しうるあらゆる幸福の中でも、良心の満足が、最も質の高いものである。
 アリストテレスは快楽を目的ではあるが時に手段となるもの、幸福を目的そのものと区別したが、この幸福でありかつ且つ快楽である部分を徳行とすると、自己犠牲含む良心の満足は幸福全体とほぼ等しい。我々が他者または他の生命に有害な振る舞いをしながら、自ら感じている幸福なり快楽を見返しても、全批判を省みても完全に自分は善い行いをしたと確信できる場合以外は、信仰の次元に於いて現在か未来のどこかの地点で悔いざるをえないであろう。そしてこの不満足が低質さの根拠になる。
 カントが『実践理性批判』二部に於ける定言命法の理論で、義務に殉ずる絶対的自己犠牲の前では自らの幸福をも省みるべきではない(「義務に比べれば人の幸福は物の数ではない」)と述べたのは、この種の善の絶対値を指していた。この特別な義務が生じる場面を除いてのみ、文明内の幸福は尊重される。
 義務の最高段階を自己犠牲とすると、個人の幸福を打ち捨てて構わないと判断される場面、すなわち特別な義務とは、自己犠牲が必要になる状況を指している。広義では、死や甚大な苦痛を与えられるという意味で自己犠牲は快楽でも幸福でもなくなるだろうが、狭義では、この種の善が最高幸福なのである。

 文明は、斯くして必要時には自己犠牲を当然と考えるほど善き遺伝的資質をもつ人々の集まりであり、それは根本的に自集団の利己性たる保守主義を信じる、右派一般と絶えず対立する社会、人間関係の機能である。我々が文明の中でしか幸福になれなかった様に、人類はこの利他性を高める進化の途上にある。

2019年9月14日

科学の宗教化

科学の手法が暗箱化していくと、一般人はそれを宗教と思う様になる。こうして科学者同人は、集団内の利権を外部のそれに比べ当然と考える科学ファシズムに陥り、やがてとりかえしのつかない公害や、致命的に誤った判断をもたらす。この科学狂人化の初期徴候は、我々が俗物根性としてみる高踏さである。

電子式全員推薦選挙案と大統領制下の公務員罷免権について

選挙というものは全国民番号と本籍地を公開し、(ネット検索で)そのいずれかへ、スマホ・PC・タブレット端末上のクリックで電子投票する完全推薦方式へかえるべきだ。選ばれた人は就業の拒否権をもつ。
 特に現日本国政は立法と行政の分離ができていないので大統領制にし、直接投票を行うべきである。組閣時の人員は大統領に一任し、官僚主義によって国民主権の侵害が起きないよう、彼らには公務員罷免権を与えるべきだ。

学院主義の中身

学院主義(academism、アカデミズム)の殆どは同業組合化し、同人間で引用ごっこのほめそやしあいをするばかり、なんの実用性もない。しかもこの閉じた輪は排他的宗派を作り、お為ごかした後光の箔づけで一般民衆を煙に巻きながら金、地位、名誉を得て威張りちらし、大抵はソーカル事件と根本でなんの違いもない適当な妄言を吐いている。
 なんの実益も創造性も伴わない引用回数主義の駄文生産と出来レースでの毛繕い合戦。
 学会なる真理への冒涜体は元々群れて自身を権威づける以外の目的がなく、正真正銘の馬鹿しか興味をもてる可能性がない、完全なる馴れ合い空間である。

サル数匹

宇宙へ行くといい浮浪者も餓死者も無視するサル数匹

脱出

この宇宙の中心で
自分は雁字搦めになって死ぬ
あたかもそれしか目的がない
この力を解き放てば
どの宇宙全体も壊せるのに
どの瞬間も自分の外にあるものは
脳裏に映る幻想だ
無我すら
だからこの意識が消えても
この思いが消えても
自分は全宇宙の外に出て叫ぶだろう
あたかも自分だけが神かの如く

居草

花巻や山形の旅館の香りを思い出す足元の御座の感触

時の開拓者

あなたのいない世界は
穴の空いた宇宙空間
わたしは次の明かりがくるまで
引力場の中心で待っている
だがその時は止まり
わたしは次の光が射すまで
果てしない闇の中
遂には未来すらむくろになる
だがその時も終わり
わたしはホーキングの誤りに気づく
あなたは既に光だ
あなたは失われた時の開拓者

文化多元主義からみる日本国内、あるいは都庁前の水溜まりを泳ぐヤマメの話

「文化」という言葉を、あるひとが学術または芸能、娯楽と同義語か、それらを混ぜたいいかえとして使っている場合、そこでいう文化は原義として、全ての人々がもつ活動であるculture(カルチャー、耕し)の意味ではなくなっている。
 例えば京都市の世界文化自由都市宣言は、自文化中心主義の典型例だが、凡そ明治の東京遷都(奠都)以来、商業のみならず皇室含む政治都市の中枢も完全に首都圏へ移行した為、中華思想による近畿意識の担保を、上述でいう「文化」にあてはめる様になった合理化(いいわけ)の遺産に今日ではみえる。ここでいう「文化」を、耕し・カルチャーと区別するため仮に、しばしば非経済的かつ自己目的な自発的生産・消費活動の総称として「遊び」と定義する。またこの線形的にみれば不合理で無駄な活動は、カイヨワのいう遊びとほぼ同一の対象である。
 文化という言葉は今日、この遊びと、耕しの原義を混ぜて使われているので、使う人は自らの文脈に利するよう2つの意味のどちらかを択んでいるが、聴く側は別の方の意味で受け取っていることがある。例えば都民一般が「文化がない」と田舎町に向けいう時、主に風俗街(遊郭やクラブ等)、同人誌(猥褻漫画)頒布会場のなさなど卑俗な遊びのなさを指しているが、これらは悪所で無いに越したことはなく、一方田舎町は耕しの意味で美術館・図書館が充実した地方都市を差別されていると受け取っている。
 なぜこの様な二重基準による都鄙間の文化差別が特に日本国内に限ってあるかなら――それは主に東京圏・関西圏(特に京都市洛中)など都市民がその外へ行うもので、卑俗な遊びを誇って、現実には彼らよりずっと上品な田舎人を偏見で侮辱する差別なわけだが――皇室の愚かな中華思想を模範にしているからだ。

 海外の人々、特に英米仏伊など田園詩人・画家の系譜や、荘園貴族の伝統があったり、そもそも大草原の小さな家の開拓者意識にとって王族の支配していた古い都市部が退廃の象徴だったりする場合、田舎は肯定的な文脈でも語られるので、日本で頻出する都市中華思想による文化差別は、余りみられない。
 それどころか、皇室(天皇との自称は中国神話上の三皇の一人へのなりすましである)が模倣先にしていた当の中国でも、隠者文学や仙人哲学の系譜があって濁った世に入れられない聖者は、皇帝の支配した首都の官職を離れ、故郷で営農や読書しつつ田園詩を謳ったり、山奥へ逃れ仙境に遊んだ歴史があった。
 テレビタレントのタモリは、「ダ埼玉」(田舎い埼玉の略で、ベッドタウン化した旧武蔵国北部を門地・文化差別する造語)等の言葉で、この日本人間での単一文化主義、すなわち都心中華思想による異文化差別の代表的な原因になった。例によってその背後にある詭弁は遊びと耕しのダブルスピークである。

 また日本人一般によくみられるこの種の文化差別の一類型としては、「都会は遊びの種類が多い」との偏見だが、釣り、家庭菜園含む造園(庭いじり)、山中泊や川遊び含むキャンプ、磯遊び含む海水浴、或いは天体観測、昆虫採集、森林浴や浜辺、川べり、野原の散歩など田舎にしかない遊びは無数にある。
 確かに都会にしかない遊びもある。上述のよう芸妓とか男娼遊女は風営法もあれば公家化した世襲政治家や豪商など「お大尽」、または恋人も得られず堕落した下級労働者から需要がある都会の一部にしかいないだろうし、クラブカルチャーも総じて不良のたまり場なので、民度の低いスラムにしか存在しない。

 また単なる商品の点からみると、裏原宿とか下北沢みたいに隙間セレクトショップがおしゃれぶって田舎から出てきた若者相手にぼったくり価格で適当な服を売りつける場所はあるけれど、これだって地方都市に、価格比でも内容でもより良心的かつ場合によっては高品質で、よい意味で渋い服屋はあるものだ。
 そして服以外の買い物についていうと、都会中華思想による文化差別の偏見とは寧ろ逆の現象がある。アメリカ型の郊外型店舗が大店法撤廃で沢山できたので、郊外にはロードサイドショップが広大な売り場面積に大量の品揃えとともにわんさかあって、都心部のしょぼく狭く高い売り場では太刀打ちできない。そのうえこれらの郊外型店舗の周りには、家族連れで終末に限らず車に沢山品物を乗せて帰る買い物客が沢山くるから、回転寿司とかメガネ屋とか電器屋とか本屋とか、いってみればなんでもありの、お母さんが買い物中に僕はゲームみてくるみたいな、無限暇つぶし的大店舗商店街状態になっているのだ。
 アメリカでいうコストコかウォルマート、フランスでいうカルフールみたいなのの茨城版がジョイフル本田、千葉版がイオンとなっており、しばしばテーマパーク規模で熱帯魚、家具、ジーンズ、マクドナルド、看板、ゴルフクラブだのあり、日常の買い物の利便性は新宿ロフトより、車で駐車場停めれて高い。

 なにがいいたいかというと、東京人や横浜人が都外の世界を知らず、知ろうともせず、自分らは買い物でも便利だしとかいって近所のコンビニ行ってるだけなのに、そのコンビニなんて全国どこにでもあるのだし、スーパーまでの距離とか大店舗の新商店街の規模と質みたら都心部のが買い物は不便なのである。
 勿論、通販ならそもそも都鄙の意味がないので、現時点のウーバー出前を除けば都会の商品耕しに於ける優位性って、自分の知る限り殆どない。まじで僕は都内に10年くらいいたけど買い物が不便でしょうがなかったし、スーパーも田舎より高く品物の質も低いし、特に食の鮮度は全然違う。勿論産地のがいい。

 そしてこの論考の核心部に入るが、私が一番ここでいいたいのは、美術館や図書館のことです。これを高級な側の「遊び」一般の目安としましょう。まあもう少しいえば劇場・演奏場も入るのだけどこれは最後に回す。いわゆる地方交付金があるので田舎の方が、公共施設は立派なんですよ。知らないでしょ。それを知らないのは純粋都会人だけで、通常、田舎の方へ行けば行くほど公共施設は充実してくる。冗談抜きで村規模の自治体が、プール・サウナつき温泉旅館施設みたいなのとか運営してたのを体験した。調布市立図書館なんかいわき市立図書館と比べたら雲泥の差である。その上、田舎のが趣味が上質なのだ。
 まあここで田舎を過度に一般化してるきらいはあるが、なぜなら正確にいうといわゆる文化人がいた地域はどういうわけか公共施設の質が高いんだけども(多分自治体が誇って気張るのと、県から観光用に予算もらえるんだと思う)、原則としては地方交付金は過疎地のが多くもらえて、公共施設が贅沢になる。
 新宿で一番充実した図書が置いてある場所は、私は新宿区立図書館っていったことないけど、たぶん嘗てあったジュンク堂書店池袋本店だったと思います。私が間違ってなければ。今は紀伊国屋でしょう。
 これで法則が分かったと思います。都会は民間資本の方が強いんですよ。だが田舎は公共資本が強い。
 より正確にいうと、上述した郊外店舗がある地帯は、ど田舎と都心の中間地帯の濃淡のうち、凡そ比較的田舎町に近い田園部の、主には市街地と住宅地を繋ぐ非国道沿いの一角なことが多い。そしてそこは余り日本語で表現語彙をしらないのだが、地方都市と田舎町の間くらいの田園郊外である。ど田舎でない。
 この田園郊外をもっていて、しかも地方交付金が潤沢にもらえていて公共施設までも充実しているといった類型もあるので、田舎をひとくくりに語るのは難しい。そして過疎地でも色んな事情があって、都会人一般が田舎全てと思ってる様な本気で廃村になってる場所もあるだろう。けどこれは実は例外なのだ。

 何が申し上げたいか(書き残したいか)というと、私のみた世界の有様というのは、つづめていえば田舎の充実と都会のそれは、同じ土俵で比べ物にならない。別物だ。中間地帯には両者の美質を兼ね備えていながらその恵まれ方に気づかず、地域外人一般からの偏見に耐えかね自虐に耽るのもいるし、複雑だ。
 例えば私はいわゆる地元商店街が大店法撤廃(大店立地法制定、たぶん森内閣の時)で衰退し、代わりにジャスコができて客を奪いまくった癖に、久しぶりに故郷に帰ってきたら更地になってた時の憤りと虚しさは甚大だったのだが、今になってみるとそれがTHE商売だなと冷めた目で見えなくもない。全く同じことは、私が子供の頃からずっと田んぼ道だった場所に、Mの看板が突如立って、そこから続々とモンドリアンカラーの異物が大小ポコポコと建築学科での出来損ない学生が西沢立衛まねた模型みたく並んだ時はショックだった。心に傷をつけられた。しかし今になってみるとそれがTHE商売だとも思う。
 このTHE商売並の話は何も、毎日目に癒やしになっていた京王多摩川駅から歩いて行く途中にあった唯一の畑が、いきなり下らない建売住宅になっていた時のTHE西東京性に死ぬほど重畳的にあり、それは国木田独歩『武蔵野』から明治の江戸破壊始まって以来今更でもないと思うだろうが、田舎町も同じなのだ。
 23区内で生まれ育つともはや自然破壊に心を痛める繊細な感受性など欠片ももっておらず、一体なぜ、私があの京王多摩川4階建てマンションアパートもどきの3階の一部屋を択んだか、窓から桜の木がみえたからなのに、街道拡張で引っ越した年に或る朝おきたらなく、どれだけ嘆いたかなど知るよしもない。そして代わりに、彼らは渋谷ヒカリエだか新宿バスタだか、さもなければタピオカランドのサクラに駒沢公園で深夜に走ってる狂人の間でなり、やれ田舎は何もないとほざいているのである。勿論これは笑えない。なぜなら虚無なのはその都心、わけても皇居の中心*1(*1ロラン・バルトによる)なのだから。
 田舎になにもないといってる人間は、野原だの水田だのに一体どれだけの生物が非量的・質的に住んでいて、日々どんな歌をうたい誰と遊びどんな恋と闘いをして老いぼれ、どんな日常を送り、私の子供の目にどれだけ無限の絵本的世界のつくし草原物語として映っていたかなど、永遠に理解できないであろう。
 想像してもみ給え。あの東京(ここでは敢えて私のゲーム『もりのなかのみき』シリーズ上の首都概念としてトンキンとよませていただく)のどぶネズミ系赤紫色の空の下で、うかれそやし交尾撮影罪だの自慰だのしている云千万人がニンゲンの巣にこもる姿を。余りに密集しすぎて気持ち悪いと思わないのか。
 ニンゲンの巣が集まるにしたって、ソドムとゴモラを壊した神でないが一定の限度があるではないか。筑波山から見渡した平野に、ぽつりぽつり点々と人家の屋根がみえ、よしよしエライ田んぼを耕しているな、そこに住まう生命をも守れかし、と『常陸国風土記』の神気取りで国見しているのと全く別なのだ。
 そうであればこそ、東京タワーだの都庁だの、江戸タワーだっけ、スカイツリーか、のマドから、無限に連なる醜悪なニンゲンの巣をみて、うーん、灰色で酷い、となるのと、まあ感受性が違うんですよね。THE都会人はあれをみて美しいと思ってんでしょ。茨城や福島に原発おしつけて殿様気取りでギラギラ。

 まあ拡散してきたのでまとめると、私の市は海山川湖そして砂漠代わり砂浜があり、総じて自然に大変恵まれ都市も里山も田園もある。一種の自然と文明の箱庭空間といっていい。そこで子供の頃から色んな感覚磨いていると、親友が都庁前広場の噴水の流れ前で「ヤマメ入れたらいいのに」といえば、笑える。

2019年9月13日

長袖の十五夜

肌寒くわれは長袖なのにまだ庭で鳴きける虫のあわれさ

哲学の目的

この世にはどうでもいい様なことを研究している人達が大勢いて、その人達は偉そうな顔をして死んでいくのだが、実際にその人達の一生を省みても、やはりどうでもいい様にみえる。なぜその様な現象があるかなら学問が細分化され(文字通りの意味で科学化され)それらの殆どは道徳と無関係だからだ。
 道徳は人がいかに生きるべきかのまとめなので、どの人にも無関係でありえない。ところがこれを研究する筈の後自然学も細分化され、哲学者と名乗る人々の過半は大学教授として単なる思想史家か中途半端な随筆家になり、その本来の目的である倫理をなおざりにしたままで死ぬ。彼らは職能がなかったのだ。
 哲学は最初から最後まで、経験論として倫理道徳を語るものでなければならない。全学問の体系は、あらゆる反証的要素が否定しきれなかった最高善の元に秩序づけられる、個人経験の抽出でしかないからだ。

易学(イガク)風の合理性

官学風(アカデミズムの訳語)の下らない衒学(ゲンガク)ぶりを除去すれば、大抵の学問上の議論は、凡そ殆どの部外者にもわかる言い方で表せるのだが、素人を後光で騙す俗物らはこの易学化の方途をとかく疎む(ここで「易学」はイガクと読み、『易経』等で占いについて学ぶエキガクではない。わざと難解な言葉を使い学を衒(てら)う意味をもつ衒学の対立概念として、「易(やさ)しい言い回しで語られている学問」なる意味をもたせた私の造語)。そして学歴差別で煙に巻き、本質の議論から逃げ、官学の壁の内側で歯の浮く様な褒めそやし合いをする。
 なぜ彼らがソクラテスに見習わないかなら、現代版ソフィストで自身を無条件に知者としないと利益を得られないのに加え、大切な点を何も知らないとばれ、軽蔑されるのが不安だからだ。さもなければ肩書の後光以外に誇るべき点もない不勉強かだが、こちらならダニクル(ダニング・クルーガー)効果から虚栄のみで余計悪い。
 ケインズが『一般理論』で、既にソーカル事件以前、経済学者の数学使用法や、専門用語に衒学傾向を指摘していた。ケインズ自身に官学風がなかったとは余り思えないが、彼がわざわざ書き残した所からみるに当時の無名で終わった周囲の二流学者らは、もっと衒学傾向が激しかったのだろう。

 私は2ch文学板で荒らしの被害に遭い、連鎖的に村上春樹を軽蔑する様になった。腐った馴れ合いの中で賞と権益を回し合い、愚民騙しで金儲けしている東京小説屋連中全般が都内出版屋共々どんな醜い生態で本性か、はっきりみたからだ。それでもっと若い頃は村上のイージーな文体を否定しようとしていた。
 だが現時点でわかったのは、確かに春樹文体はよみかえしても悪寒がしてくるほどヌメヌメと回りくどく、卑俗で余り模範と思えないのだが、それとは別に簡潔さや伝わりやすさを追求することは、ケインズと同趣旨で、一般には正しい方向性だった。つまり経済的文体だ。
 装飾的文体は修辞的なものだ。だから三島をこの点で褒めている人は、文芸の研究がきちんとできていないと思う。漱石の『草枕』や『虞美人草』がこの文体意識の系譜にある作品で、春樹なら『スプートニクの恋人』と『アフターダーク』がそれにあたるが、レトリックの質は衒学とは本来関係ないのである。

 全く相似のことを学問にあてると、その内容を論じるにできるだけ伝わりやすい文法で、しかも経済的文体を使うべきで、修辞はそこでもただの装飾でしかない。若い頃の私は未熟だったのでこの点について文体実験で試行錯誤していた。ブログに置いてある当時書いた中編小説を読めばわかるだろうが。
 官学風の文体を指導教授に習ってしまった人々は、わざわざその型を外すため大幅に遠回りしなければならないので、よい文章家になりづらいだろう。そこで規範となっているのは悪い意味で学者風の、勿体ぶって分かりづらい上に揚げ足取りされない為の論文調の言い回しであり、読みやすさではない。
 試しに大学で、過去の卒業論文をめくってみるがいい。どれも読み始めた途端、眠くなるほど退屈で読みづらいだろう。それにお墨付きを与えている教授連は、文筆家としてやっていけるだけの文才はない。教科書文体よりもっとお堅く、なるだけ威圧感を与えつつ中身の分かりづらい雰囲気が官学文体なのだ。そして、究極のところ、理科論文でも文系論文でも芸術系論文でも同じで、官学風の学位論文その他、学術文章の基底にあってケインズに批判させた事の本質は、わざと難解な言い回しを使い読者に威厳を感じさせようとする韜晦癖を、修辞の伝達目的を抜かして乱用する、純粋に権威主義的な衒学ぶりである。
 この衒学ぶりが極端に及ぶと、当人さえわかる筈もない非経験的抽象論を勿体ぶって振り回すポストモダン哲学論文、或いはヘーゲルやハイデガー、或いは大江健三郎の一部著書の様に、中身は簡単にまとめられるし実際には薄いのに、難渋に引き延ばしながら後光で箔づけただけの不経済な代物が出てくる。例えば中村元訳の『ダンマパダ』で使われている易学文体と、それ以前の官学風または漢語の『般若心経』を見比べてみよ。いかに学問について過度の衒学が有害か計り知れない。この点でアメリカ人の使い始めた実用的文体は、易学のはじまりとして模範に足るし、将来の英語もより易学文体に近づくだろう。
 ヘーゲルの残した膨大な非経験論的で曖昧な文章のどれだけの部分が、道徳論に関する本質的内容を指し示しているか抽出すれば、そもそも彼の悪文ぶりが甚だ激しいだけだという他ない。その種の愚行を繰り返さないことこそ、本質的にわが国わが県の母語学術水準をあげると確信を持ち私は主張しておく。

 勿論、道徳論では高度な概念を使う。しかしそれは必要に応じて、経験の解像度を下げる為なのである。例えば捨てられていた子犬を助けるというより、慈愛といえばその経験の解像度が下がる(つまり抽象度が上がる)。なぜこの操作がときに必要かなら、或る経験を一般論にする為だ。限定的目的なのだ。
 全く同じことは、現時点で難解な言い方でしか伝えられていない諸々の自然科学の領域にも、明らかにあてはまる。万有引力の法則(F=GmM/r^2)導出過程を『自然哲学の数学的原理』に遡って追えばいい。つまり本質だけをとりだせば数行で済むのに、オッカムの剃刀で官学風余剰要素が付け加えられている。

 ある国、ある地域に官学風の衒学、すなわちわざと分かりづらい言い方を使う中身のない言葉遊びによる知恵者ごっこがはびこっているのは、現実には相手にことわざ的経済を与えたり、たとえで複雑な内容を伝わりやすくする優れた修辞ですらないので、学術水準低下の兆候でしかない。
 単なる学閥利権や、学位の後光による権益など、学術の悪用がはじまっている国、地域でその腐敗を免れるには、全く独学以外にありえないであろう。これらは学風によるので、既存の学閥・学位の外で、易学に基づく中身のしっかりした研究を行えば、自動的に経済法則により、粗製乱造の旧学閥は消滅する。

学者の交流

皇室を日本の象徴と考えている人々は、完全に義公の掌の上で踊っているのだ。常陸太田を訪れることもなく。私は義公を政治思想の面で完全に乗り越えたので、未来の国は私の思う様に造り直されるだろう。だが、その国に生きている人々が私がこの書斎で雪村団扇の西山荘をみていたと知っているだろうか?
 正確にいえば、件の小野小町の刺繍されたウォールポケットの最上段に、西山荘の描かれている雪村団扇が掛けてあって、私はいわばそれを神棚に上げている。丸い書院窓の明かり障子の奥で勉学に励んでいるはず義公を、私は学業の模範として仰ぎ見、私淑しているつもりなのだろう。

Good bye letters

We love to die on the letter
Because these letters are the miss
If you read it or not
We will never touch on the idea
If you pronounce it or not
We like to die on the life of meme
Because these writings are the us
All the life ends
Good bye letters

2019年9月12日

美術は普遍的だが各社会でのあり方は違う

美術は何か高尚で、手の届かないものなのではなく、自分があらわさなければならない心のわだかまりを抱えた人間が、つまり世の中に不満しかもっていない人間が、自力で0から訓練を重ね何事か絵や彫像に結晶させていった証なのだから、体があればできるし、それは同時に全人類に伝わりうるものだ。
 そして美術作品が一般に高いとしたら、それが量産されていないからである。一年に一点以下しか作れなかったり、そもそもそれを作るまでの修行に数千万円以上の埋没費用がかかっているのがざらなので、大量生産の工業製品の様に一点ずつを安価にすると、美術家は生活できず、極貧の中で餓死してしまう。
 他の仕事をしながら、全精神を収斂させ長時間、全神経を尖らせながら、最大の労力を捧げないとろくに前に進まない作品制作を続けるといったことは、並の神にすらなし得ないであろう。この点で、副業美術家になるのは根本的に不可能だし、そうするしかない人は生活に妥協しているだけ余計負担が重い。
 また、美術作品が未だ世の中にないなんらかの思想を新たな技術で現したもの、つまり前衛や独創性の点で重要な作品であればあるほど、生きている間に売れる可能性も殆どない。大衆や収集家といった顧客に迎合していなければ、純粋美術家はパトロンを必要とする。販売頻度が低いので作品が高くなるのだ。

 こうして高級品、又は役に立たない奢侈品の様に扱われる美術品だが、愛好家ならわかっていることだが、第一義には人間の本性に根ざした精神的活動である。例えばバフェットの様な一代成金でも、美術愛好の趣味がないまま死ぬとしたら、その精神生活の一面は空虚のままだったのだ。
 例えば、私の書斎というかこれを書いているPCの横には、宮沢賢治がミミズクを描いた絵葉書と、或る人の描いたペンギン絵葉書が、秋田で手に入れた小野小町の後ろ姿が織り込まれているウォールポケットから顔を出して掛かっている。もしこれらがなかったら、金があっても私の人生はより空虚だったに違いない。
 サブカルチャーの様に量産型の工業製品化され、より安価になった装飾品が出現したので、成金の一部にしか美術品所有の趣味がないとまではいえないが、一般大衆が考えるのと違って、本物の愛好家は作家の或る精神性を称え、生きている彼らを支え応援する為に、作品収集で援助しているのである。

 全く美術界の門外漢で、単なる投機対象とか、贅沢品としか美術活動を捉えていない人々は、そこに換金価値しか認めない。だが米英仏シンガポール等は、個人蔵の美術品を公的美術館等へ寄贈した時点での市場査定価格に対し税控除があるので、目利きが育つ上に重要作品が国内収蔵される好循環がある。
参考:https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120
https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120/2
(アーカイブ https://web.archive.org/web/20190912133420/https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120
https://web.archive.org/web/20190912133431/https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120/2)
この点でも、ゾゾ前沢氏の様な米国富豪に影響を受けた愛好家が美術品を収集しているのを、日本人一般は金持ちの道楽とみて侮辱している節があったが、根本精神でも税制でも、拝金主義や江戸東京趣味に染まって漫画礼賛、世界の美術状況に目が開かれていないのは日本人一般の方である。

 美術市場はそういうしくみなのだが、東京都の主要な画廊が集まっている銀座のそれは世界と相当違う代物で、価格査定自体、美術史基準じゃなく日展を頂点とする公募展や会派、学閥などガラパゴスサロンの序列になっている。したがって、銀座美術市場の中でエライ扱いの代物は、当たり前の話だが評価基準が違いすぎるので世界で全然通用しないことになっている。これを私は18の時まざまざとみて、こりゃー駄目だと思い、それから一切銀座の画廊界隈に近づいてないのだが、要は同業者が馴れ合いやってんですね。
 村上隆という人は、はじめ保守的ルートでしたので、そういう銀座画廊界では一番有利な位置につけていたのですが、呆れて渡米し、以後はアメリカ市場の方が有利とみて主にそっちでやってらっしゃるわけです。逆輸入戦略は巧く行かず、森美術館くらいしか相手にしてないわけでしょ。で自分で画廊作った。なんでそうかなら、村上隆は国内では美術というよりサブカルなオタク文化のもどきを、アメリカでポップアートの日本版として紹介したものだから、国内からは紛い物にみえるし、海外からはオタクアートの第一人者にみえるわけだ。国内美術館や画廊はこれに混乱して、漫画はちょっとと二の足を踏む。
 この辺は美術批評上の文脈が、国内外で混線しているので、詳しくは別のとき書くが、要は銀座画廊界は世界のそれと大幅にずれている。奈良美智さんの小山登美夫ギャラリーは村上隆理論を背景に漫画絵を展示したから若干、世界と近い肌感覚だったが、趣味の面で海外に対し主導的役割を果たさなかった。

 なにがいいたいかというと、日本には厳密な意味での美術市場はない。あるのは強いていえば同人界である。それは所詮もどきなので、日本画の宙ぶらりんな立ち位置含め、国内美術家らにどう生きていけばいいのか指針すら示せない。それで哀れな国内美術家をイジメた津田さんに天罰があたったのである。
 私はあいちトリエンナーレ2019(以下、音で略して愛鳥)炎上のずっと前に、津田さんにこれら詳細事情を教えました、このツイッターで。こういうわけなので、国内美術家らなんて過半がプライド高い浮浪者と大して変わらん社会的弱者なので、虐めたらバチがあたりますよと。そしたら津田さんは美術関係者は全員死ぬべきとか真逆のブチギレしていた。なんで津田さんが愛鳥の炎上商法以前に、国内美術家らの顰蹙買ってたかというと、男女1:1の理屈は過程不公平だという正論を無視するばかりか、或る意味では日本が極東のど田舎にあるせいで世界の動向と全然違う、お粗末すぎる同人市場しか持っていない状況で、窮鼠を悪者扱いで追い詰めたからである。
 なぜ津田氏がぶちぎれていたかなら、美大芸大を実体験してみりゃいいけどその内部では学問なんて完全に軽視されていて誰も論理的思考が必要な勉強なんかまともにしていない、Fランク未満の学芸会レベルだからである。花嫁修業でなければ就職の腰掛け、これ以外の目的で来たやつは寧ろ異物扱いである。つまりは、国内美術家のほぼ全員って美大芸大教育の影響でそういう感情論、感覚論しか全くできない人達なのに、最大限悪者扱いで挑発し、中途半端論理で説得を試みようとした上に、その論理そのものも社会学面で突っ込みどころしかない偽ジェンダー論(性別差は社会的性差ではない)だったからである。
 それで、私側に見えてなかったが、津田氏の通知欄には腐るほど、美大芸大系の非論理的な国内美術家・関係者らからの、いつもの美術講師式に凄まじく不躾な(ほぼ人格否定でしかない類の)愛鳥ディスが溢れかえっていたのだろう。私も未成年段階でそれに触れた時の文化衝撃は凄まじいものでした。
 炎上でアート素人には無理だったかとなったが、正確には、彼は日本美術界を熟知してなかったのだ。それは海外の、特に欧米の飽くまで論理的な批評による文脈主義が、米英系の商売美術の裏づけとして貫徹されている世界とはまた全く違う、狭苦しい上に、或る意味では馴れ合いの同人業界なのである。

 はじめに書いた所に戻ると、美術はもともと精神に根ざす活動、即ち媒体を使った自己表現行為なのだから、基本的には国や場所、時代を超えている。しかし市場や展示方式、社会でのあり方をみると各国各地で全然違う。作家はより優れた思想を感覚的によりよく表すのに集中し、型に嵌るべきでないと思う。

竹内象限による日本文化多様性に於ける志向性の分析

けさ、もぎけんツイートに「イギリス首相について家族に話したら、家族に「またもぎけんに影響されてんだろ」とバカにされた」と返信してる静岡女らしきのがいた。
 で自分は全く別の返信してたら、八つ当たりにまきこまれ、その女が自分へ一言だけ英語圏のネットスラングで誹謗じみた返信してきた。
 この女の置かれた状況について想像し、分析してみた。

 この女は他のツイートを全て辿ると、もぎけんを「先生」と呼ぶほどの或る種のファンらしいのだが、なぜそうかなら、ツイートの感じからすると、東大学閥をめぐる或る種の明治ハイカラ界みたいなのに憧れているのではないかと感じる節があった。
 で、もぎけん、すなわち茂木健一郎氏というのは、一般書を書く様になったり津田大介氏らツイッター芸人と親近だった流れから、いまだに遷移初期からの生き残りとしてツイッター啓蒙家みたいな仕事をしているわけだ。特に科学者として、或いは留学先での異文化体験から、イギリスかぶれの傾向もある。
 その静岡女(らしきの)からすると、この東大閥がハイカラ的異国情緒あふれる話を誰か知識人ぶって話していると(まあ実際に茂木氏は知識人なんだろうけど)、一種の雲の上の世界にみえるのだと思う。

 ところが僕の場合、学は普遍的営みと知っているのに加え、そもそも自身もその世界の一端にいる。
 学問は根本的に哲学的なもので、どの地点からもごりごりと自力で押していくしかない雪だるまみたいなものだ。学校(特に大学)はそういう学を志した人達が集まる場所ではあったのだが、今は就職手形にしたい人達とか単に交尾相手探してるスノッブが多くて僕は近づかなかった。それで主に一人で学んだ。
 で、イギリスについて、敗戦後特に米英、時にはフランスも国として上位者扱いで神格化されているが、確かにこれらの国々の人達と会話すると我々より優れた点も多いと感じる異文化体験があるが、かといって日本は日本でしかないし、自分も日本人でしかない。だから学の雪だるまを押していくしかない。
 結局その女は、そういう自製の雪だるまをもっていないのだと思う。だからハイカラ趣味にあてられ、純粋静岡人の(恐らく国際教養人とはいえない)家族に全く別文脈にあるイギリス政治の話をしてしまい、「足元見ろ」といわれているのだろう。ここまでは意識高い系中二病が一時陥りそうな逸話である。
 だがその女は私に妬みの様な目を向け、八つ当たりの誹謗を一言返信してきた。なぜだろう。

 ここにあるのは、竹内洋の分類でいう「ハイカラ」を明治政府・旧帝大の流れを引く西洋かぶれ文脈でもぎけんが象徴していた一方、その女の家族が「修養主義」の農民文化の上にあった点ではないか。
そして私はこの図でいうと「教養主義」の象限に近い立場だった。飽くまで日本文化、特に天皇渡来以前から続く先住人由来の常陸・茨城文化に根ざしつつ思考し、非常に根が深く、西欧文化はそこからいうと最後の頃に入ってきた、接ぎ木の接ぎ木にあたる外来物でしかない。
 このハイカラは町人文化に近く、例えば浮世絵、漫画の様なサブカルチャーを肯定するが、私は日本画や欧米美術の方に親近し、寧ろ町人文化を下品とみなし忌避している。なぜこの差が生まれたかだが、ハイカラは江戸時代否定を含む薩長式西洋かぶれで、教養主義は水戸学含む国学の伝統に根ざすからだ。
 私の意識の根底には地元でみた5万年前の先住人らの使っていた石器や、青森の渡良瀬渓谷でみた縄文期の様な自然があり、そこから見直すと奈良の平城京跡や、京都御所などは新興宗教を兼ねた渡来人の暴力団が中華皇帝を模していたものにしかみえない。GHQやイングランド政府などはもっと新参者である。

 旧帝大文化は、東浩紀氏や茂木健一郎氏の様な江戸町人文化の延長にある東京サブカルに親近した人達を生み出すに至り、完全に新渡戸『武士道』の様な人格陶冶を目指す教養主義を捨て去り、ハイカラ趣味の現代版であるオタク文化に耽っている。彼らによる京アニ礼賛もこの文脈にある。私は嫌悪を感じた。いいかえれば、もぎけん氏が米英中心主義の様な考え方をしばしば持ち出し日本文化を劣位に置く文法は、徳川時代を否定したいばかりに薩長式の出羽の守を模倣する、輸入学問の旧帝大方式に習っているのだ。そこには国学の伝統との断絶がある。それで彼ら旧帝知識人は短歌すらろくに詠めないのである。
 オタク文化とハイカラ趣味は、現実には微妙に違う。飽くまでオタク文化は「江戸趣味」象限に近いかもしれない。単なる極東小国の奇形な娯楽に過ぎないそれを欧米知識人が学術の中心領域として真面目にとりあうことは恐らく今後も日本学の一部としてしかないだろうから、国外・都外と意識がずれている。なぜ東大閥の人達の一部がオタク文化を肯定的に語るかといえば、それが町人文化の下品さを伴うので、商人中心の江戸趣味、現東京趣味に叶うからである。逆にこの点で都外の、特に非都市圏の知識人は、彼ら江戸趣味やハイカラ趣味の人々を、多かれ少なかれ悪趣味の点で軽蔑しているといわざるをえない。

 では最後に「修養主義」の行方だが、これはその女の家族が属する象限なのであろうと推測される。イギリス国政の話なんて庶民で勉強もろくにできないお前には関係ないだろう、自分の明日の暮らしを思って実直に働けというわけだ。よかれあしかれ農民根性が、一般労働者に残存しているということだろう。
 この点で、欧米文化のハイカルチャー世界は、やはり「江戸趣味(東京趣味)」の商人にとっても縁遠いものでしかない。同人誌エロ漫画描きメロンブックスで500円で売っていいね1万回もらいホクホクしているオタク絵師がボリス政治のEU史に与える影響なんて気にする筈もない。なんの関係もないからだ。
 しかしながら、僕みたく主に「教養主義」象限で生きている人間からすると、欧米文化の動向はハイカルチャー世界でガチ戦闘し続けている主戦場の相当大きなゾーンなので、直接自分の仕事の意義を左右する重要な話題だ。この点では「ハイカラ」象限の人達とも、ほぼ相似の次元で議論し得る話なのである。

 でこの女がなんで僕に一言(具体的には「SMH」Shaking my head)「それはないっしょ」みたいな)といったかだが、竹内象限の欧米文化志向値が高い方の話題と、それがない修養主義(家族)間の摩擦で傷ついたのに加え、教養象限の私にも妬みに近い「お前らだけ話しやがって」と横槍してきたのだろう。

 これらを分析内容として前置きに考えるに、自分の感じだとこの構図は、日本としては過去に漢学、インド思想についてもあった話だと思う。そして竹内象限は、江戸趣味の部分を「平安趣味(京都趣味)」に置き換えても、中世版でほぼ成り立つのではないか。つまり一種の異文化摂取の型なのかもしれない。
 私がなぜハイカラ趣味に染まらなかったかなら、私は地元で生まれ育って自分の成績レベル最近辺な磐城高校へ入り、そこから芸大に入ろうとしたのだが弾かれた。一年、美術予備校で周辺事情を知悉してみるとアカデミズムの腐敗に呆れてしまい、独学に切り替えた。つまりこれが塞翁が馬だったのだろう。私は東京圏を一定距離で出入りしながら、同一化されることなく内部批評できる立場に置かれた。しかしもし私が父や祖父みたく早慶にでも入っていても、茨城北部文化は、他の首都圏北部自治体もそうと思うが、南関東の様な町人趣味ではないので、完全にハイカラ化していたとは思えない。
 西欧(欧米)文化志向値の高さとは、嘗ては漢学・インド思想へそうだった様、一般にいう知的好奇心の結果である。それで日本人一般で学業成績が並くらい以上の人達なら多少あれその傾向をもっているか、明治以後の文科省指定教育の流れで刷り込まれているだろう。問題は東京文化に染まるかなのだ。私はこの竹内象限は、国内文化の志向性を最も大雑把に分類したものといえるとおもうが、私は『学問のすすめ』みたいな実学を勧める修養主義や、村上隆みたいなハイカラ象限には一定の親近性があるものの、江戸東京趣味とは距離が遠い。それで自分の逆類型として調べはしたが、同一化はできなかった。
 例えばヒルズ族・ネオヒルズ族の様な拝金商人文化がどこに属するかなら江戸東京趣味だろう。ゾゾの前沢氏はハイカラである。両者の境目をなくそうとしたのが村上超平面理論の中間芸術的側面だった。

 教養主義は虚学虚業、つまり短歌や政治哲学はじめ形而上学、理論科学、純粋美術への志向性をもつ。
 一方、修養主義は実学に根ざしていて、そこで人格陶冶の最終目的は知行合一を殆ど出ない。国内で朱子学の虚学性を批判している人々というのは明治以後よくみるだろうが、彼らが格物致知の朱子学を理解しているとはいえず、徳川の官学否定で無意識に、知行合一で実学志向の陽明学に戻っているのだ。
『学問のすすめ』の実学論は、米国プラグマティズムを陽明学に重ね真似たもので、実際のところ学術的な中流以下への啓蒙の方便だったといえるだろう。虚学は学術全体の基礎にあたる部分で、それを応用したものが実学だからだ。学の実利性を強調した福沢は今日の大学就職予備校化の第一原因だったろう。

 結局、冒頭の女がなぜハイカラ根性を修養的家族にバカにされたかといえば、それが実学的でない上滑りの知識だったからだろう。逆にメンタリスト・ダイゴ氏の実用心理学の様な知識を語れば、修養主義者には受けがいいかもしれない。そして私の志向性は、学術的に、完全にその本質である虚学の方にある。

日本社会で子供が集団イジメを受けたときの対策法について

今の子供にいっておくが、意識高い系とかいって差別してくる集団は近づかないべきだし、それいってる連中は徹底的に裏をかき潰したらいい。同調圧力つくって集団イジメ目的でいってるんだから、組織化させたら害悪しかないのだから。ただ自分の実権力を確保した上で、戦略的に知恵で潰す必要があるが。
 イジメをする連中は、根本的には心が弱い。一人で立てないから周りの雑魚を群れさせている。つまり個別に分けて頭を使い、着実に、合法的に、合理的に潰していけば、確実に相手の組織を潰せるのだ。

 教員が公務員の場合、つまり国公立や市立の学校だったとき、その教師に親などから通報させても、保身に回ってイジメへろくに対応しないだろう。私立なら首になりうるからそうでもないだろうが。
 直接、県の教育委員会や文科省、首相官邸へ通報する方が効果がある。公務員は上司に逆らえないからだ。
 上記に加え、警察に相談し被害届を出し刑事事件に持ち込んだり、自ら家庭単位で民事裁判を起こせそうになければ、その組織を離れるのが最も楽だが、それすら叶わないとき、反撃なり復讐するには上述した様、合法の範囲で合理的に相手の弱点を全て知悉した上で、一匹ずつ知恵を使い潰していくのだ。
 それと、日本政府が全く頼りにならないときは国連の人権機関へ、子供の相談として、自殺しか考えられないが日本政府がなんの対応もしてくれないといって、できるだけ大袈裟に子どもの権利条約違反として訴えるべきだ。直接の復讐はこれすらなんの機能もしなかったときの最終手段とすべきであろう。

 大人になるまで何度となくその種の集団虐待の悪意と戦い慣れてくると、寧ろ職能みたいになりどうやれば相手組織を最短かつ最善の仕方で無力化できるか命を懸けたゲームとして楽しめる様になる。
 日本人全般の集団イジメを何より好む行動習性は今後も変わらないから、それに慣れておく方が良い。
 最終段階では首謀者を命と引き換えに討つという覚悟で、集団虐待の全数を完全に記録した上で、一人残さず個人特定かつ追跡し、短期で潰せなければどれだけ長期戦に持ち込んでも紛れなく潰すのが大事だ。究極のとき、死後まで自分の意志を子孫や同志に継がせ、復讐貫徹へ持ち込めるのだから問題ない。
 因みに大人の社会でも集団イジメは組織間の利害抗争として普通に続いているので、子供社会より複雑かつ高度になっているだけで、本質的に何も違いがない。だから戦い慣れる方が人類界では有利ともいえる。いいかえると子供時代の集団イジメは、政治的レベルの低い雑魚との戦いというだけだ。

 例えば『老子』は「怨みに報いるに徳を以てす」といい、『論語』でこれを問われた孔子は「怨みに報いるに直を以てす」と批判した。また仏陀は『ダンマパダ』で「恨みは捨ててこそ止む」といい、新約聖書(ローマ12:19)でのパウロは「自ら復讐するな、神が復讐する」という。これらについてイジメに照らして考える。
 第一に、仏陀がいっているうらみの感情から離反せよ、との見解は正しい。なぜかなら、この感情に囚われると冷静に振る舞えない可能性があるため完全に自己制御する必要があり、高次認知的にこの感情をいわば他人事として捉え直し客観視すると共に、相手の業と恨みを分離して考えた方が合理的だからだ。
 次に、老子のいうのはゲーム理論でいうTFT(しっぺ返し)戦略等と同趣旨で、相手が反省し協力カードを出しているのに裏切りを繰り返すと自分にとって不合理だからである。他方、孔子がいうのはこの戦略でいう相手が裏切りカードを出してきた時に、しっぺ返し(正当防衛)した方が合理的という意味だ。
 ではパウロの説が何かだが、ここで問題なのは業そのもので、復讐に囚われ自分の損害を省みないより、寧ろ合理的報復を除けば自分の身を守ることを優先すべしというのである。当然ながら被害者が罪をこうむるのは倒逆だから、この考え方にも一理ある。

 上述したことをまとめると、相手のイジメには逐一正当防衛し、相手側のダメージを十分な幅でとれば、学習能力のある相手ならばこれでイジメに繋がらない。しかし相手に学習能力がなかった場合、そしてイジメの規模が大きく正当防衛もままならない時は、とりあえず保身を最優先しつつ業を記録すべきだ。どの様な被害にあったか客観的に証拠づけられる記録を保存するか、それすらままならなければ相手の業を全て記憶せよ。孔子は仏陀と同じく「旧悪をおもわず」と業と恨みの分離を唱えており、この恨みの方は正義の平衡感覚といえるにせよ、自分に苦痛の感情なのでなるだけ繰り返し思い出さない方がいい。
 そして業(自他の行い、被害状況)を記録・記憶できたら、この内容を精査しつつ、いかにして自分に得のみがあり、相手に報復可能か、最大限の知恵を使って合理的に思案するがいい。その計画通りに因果応報を実行せよ。長期戦の場合、相手が不徳で自滅することも多く、短期戦だけで解決する必要はない。長期戦についていえば、歴史をかえりみれば千年以上の時を経て復讐が完遂するといった例はざらにある。この意味で、道徳法則は自然法則と同じく不動のものである。地誌や民族史がどの様に変遷しているかつぶさに観察した者は、業を悟り、自ら徹底的に修身し、悪事を一切行わず、他者に善行のみをせよ。

学術は抑圧の理想への置き換え

知性化が単なる防衛機制の一種なら、学問は性的抑圧状態にある他人の自己防衛反応を利用しようとする、人類一般の策謀でしかない。つまり学者は生贄なのだ。
 昇華について芸術家へも同じことがいえる。
 スクールカーストにせよ会社役所にせよ、学者が取った天下なしとは、これゆえ必然なのだ。
 プラトンは現実のギリシアが混迷するに至って、この知性化によって理想国家を空想したが、それは究極のところ物語や漫画、小説、RPGの類と何か違うでもない。当為として語られる哲人王の統治も、プラトン自身が性的抑圧を妄想の中で、自ら王として徳治する夢の国に置き換えたものでしかない。

 哲学者や芸術家が世界を変えられるとしたら、或る実現可能な徳治の理想を語る手腕によってだろう。マルクスが世界を変えることが重要だといっていた様。この計画の方向性が正しければ、人々をより良い状態に導ける。
 徳に関しあたう限り高い理想を掲げられない哲学者はその時点で、役に立たない。

磔の男

磔の男「全人類がお前を殺したらそれに従え
但し反撃はゆるされない」
人類が善良な存在だとでも思っているのか
ほぼ全てが下衆の極みだというのに

幸福な生き方について

24時間最高だと思えることだけをするのだ。そしてそれを一生涯続けられるだけ続ける。これ以外に幸福に生きるすべはない。

下らない人が生きているわけ

下らない人間は通常、下らない女が下らない男に発情し、産まれた子の成人後の姿である。なぜ下らない人間がいるのが信じられないかなら、辺り中にいる下らない男女が、隔世遺伝あれ瓜二つの複製物を再生産しているという知識が、そこに結びついていないからだ。下らない女や下らない男なら沢山いる。

東京政府を覆す経済規模の善政単位を造り上げるべし

普段からどうしようもない政治ばかりしている国民一般は、単純に公徳がない。だからその国民一般に期待するかぎり永遠に善政は行われない。寧ろ多数政の元で低次元な公務しか選挙で実現できないなら、その多数派は衆愚なのだから理解力もなく、最高徳の君子が世にいても豚に真珠で貶めているだろう。
 ソドムに10人も義人が残っていなかったので、旧約聖書の神はそこを亡ぼした。日本国の単位にもし十義人がいても、国政を変えられない。つまり国政に何かを期待している者は、その時点で愚かなのだろう。
 その十人が何をしているかに注目すべきだ。最善の修身か、家政をしているのだろうから。

 ポリビオスの政体循環論が正しければ、衆愚的な東京国政を覆すのは優れた絶対王政を執る別集団になるだろう。その自治体が国内のものか、国外のものかは不明だが、最高公徳の持ち主が最高権力を握る権徳一致の集団は、事実上、民衆がその権力の根拠を君主の公徳に認めるので、徳治しているに等しい。
 日本政府の首相なり天皇が、民衆のいずれかの人から、単なる誹謗でなく公徳の低さについてしきりに非難されている状況では、彼らの権力の根拠を衆愚の悪意、即ち利己的な多数支配に認めるしかない。だから我々が為すべきなのはこの腐った単位を覆すべく、違う単位で善政を実現することだ。
 嘗て平安朝が同じ様に腐敗していた時、平将門と藤原純友が東西で独自政権を作り、のち、東国武士政権から連なる今日の日本政府の起源になった。だから別の強力で、より高い次元の正義に基づいた政治単位を作り上げ、東京政府の脅しや暴力に従わない必要がある。皇居や御所を中央と考えないがいい。
  韓国が善政を行い、今日の東京政府を力で覆せるなら、それに越したことはないが、韓国憲法は侵略を否定しているので、ありうるのは外堀を埋める程度だろう。
  国政単位での革命には、専ら、驕り高ぶる一方の東京圏を経済規模で超えた単位を作り出す必要があるだろう。

 孔子が君子が移り住めばそこは文明国だという様、或る人の政治哲学の質がそのまま国力の中身なのだから、近い将来、わが県わが市が善政を実現し、腐敗した東京政府を実力行使で覆すのを企図する。各自治体を作っているのは個人であり、最高公徳の人物を集めた単位が中央国政に置き換わるべきだ。

人為と自然は二項対立ではない

人は、死後には日記の中にしかいない。だから自分を知らないままで産まれ生き死んでいく殆どの人々にとって、自分の命のほぼ全ては、なんらかの模倣子(ミーム)である。
 絵を描くのは根気も時間もいるが、見る人には一瞬である。そこには命の(故に模倣子)伝達の単位時間あたりの結晶がある。

 モンドリアンが最晩年に『ブロードウェイ・ブギウギ』を描いたとき、彼が生涯をかけ温めた思想の中で、近代文明やそれが形成していく大都市は理想化されていた。私はこの絵を15、6才のころ眺め、(リヒターと同じで)好感を覚えた。当時は言語化できなかったが、あとから思えばそれは現実の大都市の退廃と無関係な、彼の或る楽観だからだった。
 我々はモンドリアンの一生涯を、そこにあった色々な体験の質感を実際には想像以外で何も知らないが、MOMAに掲げられたその一枚の絵で、ある模倣子を通じ、彼の命と交流する。だからAIに芸術が作れるといっている人々は、寧ろそのAI自身を除けば、AIを作った人としか交流できない。
 人為と自然は二項対立で捉えられるわけではない。この点で、モンドリアンは彼の西洋的な近代理性の枠組みを超えられなかった。
 人は巨視的に自然の一部だし、脳も自然にできて動く。現実には、数学的イデアの中にしかない直線や直角といった視覚要素は、自然全体が孕むエントロピー増大の一側面だ。

性愛表現の研究

女性一般は、調度その妊娠能力が尽きる頃から、(プロゲステロンの低下で、代わりにテストステロンが優勢になり)性欲が解放されがちである。これは女性一般が受動的な性になり易い原因で、進化的には若い時代に自制が効く為、出産育児費を節約すべく慎重に配偶選択するのに都合がよかったのだろう。他方で、娼婦一般は商売のため無理やり性欲が強い振りをするか、演技によってその種の媚態を身に着けて行く。或いは実際に性依存症になり、官能性を覚える。
 では男性の一部は一体どんな目的で性売買しているのか? 快楽に惹かれた性行為の練習か代償? なぜ対象が一般に年増の女性ではないのか?
 結局、性売買を行う男性の一部は、擬似的な妊娠可能性を選好しているのだろうということだ。単なる官能性なら年増好みが有利なのだから。
 フランス文化で年増好みも一般的なら、それは官能性追求がラロらにより芸術の一部と認められ、性愛は生殖やそれを錯覚させる模擬が唯一目的でないからだろう。

 私が東京文化に余り共感できなかった一つの原因は、そこでは江戸遊郭から続く児童性愛の傾向が激しくあったのも関係あると思う。同傾向は、都内の秋葉原を中心とするオタク文化にも随所に埋め込まれている。
 これらは自分が幼児からその中で育った雨情の哲学(童心芸術)の対極にあり、縁遠かった。
 通俗的にいえば「東京人一般はロリコンだ」ということになるが、現実にペドフィリア級の表現ばかり、オタクの都民共はしている。その性愛傾向は私には殆ど全く入り込めないので、ごく少しできても素朴な子供らしい純愛としてなのだが(童謡『赤い靴』の様な)、放火事件に遭った京アニ作品も嫌悪感でしかみれない。アニメ『けものフレンズ』をツイッターオタク民が推奨したから、無理やり全話みたが、これも典型的な東京オタクのロリコン趣味で全く入り込めなかった。純粋に子供向けアニメならそうと分かるのだが、擬人化した萌えキャラみたいなのにしてあると一発でわかる。京アニも新海作品もその点で気持ち悪い。

 確かに、単なる性愛の中で高校生くらいの若く魅力のある女性を賛美したくなる気持ちは私にも分かる。しかしこれは或る思春期的慕情でみてそうなので、オタク的な歪んだ「萌え」感情にしてあると、全然共感できない。ツイッターには腐るほどそういう漫画絵をばらまく連中がいるがまるでいいと思えない。この「萌え」という美意識が、私には全くの外部的、異国情緒な美学で、東京都民一般とか京都府の一部とか、完全にその内部で生まれ育っているから当人らは恐らく自然にそれを賞美しているのだろうが、私の目にはひたすら下賤で吐き気を催すほど醜悪にしか感じられない。心から馬鹿げているとすら思う。
 上述した様、年増の女性にしか脳の現象的に、官能性への純粋な志向はみられないのだ。若い女性とも年増の女性とも、何らかの形で関わった人間なら理解できるだろうが。そして若い女性(子供ではない娘)の魅力は、その年増の女性がもっている深い美質が本性的に欠如している、或るうぶさという点の方にあるのだ。
 いいかえると、都民を中心とするオタク一般は、激しい妄想癖によって、生娘にしかない類の魅力を描き損ねている。これは間違いないだろう。彼らは自分達の脳内妄想を描いており、男性の一部がもつ変態性欲の対象として女性を物化している。これ故に、市井の女性まで過度に官能的な娼婦のよう描かれる。

 私は主に絵を通じ、いかにこの世の美を描き留めるか腐心してきたが、上述の女性の魅力を描くという点で、オタク文化一般は大きく失敗していると思う。それは彼ら江戸期から続く東京民を主とする、浮世絵や春画から続く美人画「絵師」の美意識が、粋から萌えに変化はしたが相変わらず非現実的だからだ。
 私は18才の頃、美術予備校でモデルのデッサンや油画の勉強を毎日やっていた時ふと悟り、友人にこの作業は意味がないといった。それは現実の女性美(究極では私の主観の中にあるから性欲の投影なのだろうが)には、外形を紙やカンバスに写し取ることでは永遠に到達できないからだ。現実の方が美なのだ。
 すなわち、絵はプラトンがいうようイデアの写しにすぎないとする。この場合、人物画に投影されるのは(私は異性愛者なので、異性なら)性欲なり、何らかの理想的造形なので、問題はこのイデアと現実のずれだ。そして芸術美はこのずれを表現上なるだけ解消した地点にある。イデアが歪んでいると、技術がどれほどあっても、表現物に現れた造形の趣味は悪くなる。だから美意識なり美学なり、イデアそのものを、単に技術だけでなく洗練させる必要がある。
 私がオタク文化に馴染めないのは、その美意識が下品すぎ、野卑すぎるからである。同じ点で京都文化にも馴染めないが。

 最初に述べた様、例えば異性を描く際に、あるいはそれ以外のどんな造形物または理念に対しても、同じ情熱で、背景にある美の原因を委細に渡り調べ尽くし、イデアと現実を、技能ですり合わせる必要がある。しかし具象物が生きている様な場合、現実の方が美自体なのだから模倣物は側面しか切り取れない。
 レオナルドは手記で私が今書いたのとほぼ類似のことを、より大雑把にいう。つまり娘を描くなら風に舞う髪で若さを描写せよとか、具象物に固有の特徴を捉えろといっている。だがこれらは彼の時代に調べられた科学の範囲に留まっていて、物質の化学的構成要素、心理分析や脳の理解などは使えなかった。
 上述の様、年増の女性一般と若い女性一般は、単なる官能性を巡っても全く別の性質を、ほぼ固有にもっている。人生の労苦を経た老婆なら尚更そうだ。少なくとも私はオタク文化の中にある絵に、人物画として芸術面で感動した試しが先ずない。現代版春画として少女に官能性を象徴させている絵は下品だ。
 絵は或る情報量を、面積の限られた平面上に、主に色彩と、場合によっては盛り上げによる凹凸を使い結晶させたものだ。そこで人物を描いても、本質は自らの中に有るイデアの、或る模倣子を使った伝達である。だからオタク文化の様な退廃例を模倣先にせず、人はより善美なるイデアを芸術上表現すべきだ。

 後世の目からは信じられないことだろうが、私が生きていた間、村上隆世代(評論面では東浩紀)の影響で、20代とか10代とかの子供まで含め、美術界のほぼ全面をオタク文化の模倣子が覆っていた。公募展や美大芸大で公然と、まではいかないが、一般庶民はサブカル以外をまるで理解できない有様だった。そして恐るべき腐敗なり、都市文化の特徴という他ないが、この東京発祥で京都の一部が模倣し、国内外へ商業的に売りつけていたオタク文化の模倣子は、児童性愛と性売買を合体させた様な美意識を主とする代物、つまり「萌え」なる美学を理念としていて、裏返しの女衒じみた女性蔑視の塊だったのだ。
 なぜ東京だけでなく京都の一部でもオタク文化が土着したか。彼らに芸妓文化の背景があり、すんなりと少女の物化、いわば偶像の性奴隷視に親しめたからと思われる。そこで二次元人物として描かれた芸者らは、萌えの媚態で客から金を巻き上げるだけでなく、二次創作界で現実に売春させられていた。
 私はこの点でKPOPの世界も観察していた。韓国側の妓生文化が延長したのは明らかな、整形手術で整った顔立ちの女性ら(しばしば男性も)は、歌舞の曲自体はJPOPの影響を受けていたが、オタク文化の萌え美学の中にはなかった。そこで娘は娘らしさを率直に表現し、児童性愛じみた色彩はまるでなかった。しばしば娼婦(男娼)らしい表現の点では、ソフトポルノじみたMVや、性的な歌舞が常態のKPOP側にも都市文化の退廃的色彩があったと思うが、その下品さの度合いは東京の直接的な性行為を撮影しばらまくアダルトビデオ等のものより遥かにましだろう。
 文明は上品化の過程なのだから、これらは退化だ。

 美術界ではずっと以前から、性愛の表現領域も様々に試されてきた。そもそもプラトンの定義するエロス(性愛)は、単なる性欲から社会、宇宙へと拡張される美の理想のことだ。ポルノグラフィ(猥褻物)はこの点で直接的表現を行っている物と定義できるが、本来的に、上質な美は表現の抽象度でしかない。性愛に関する限り、具象表現は、この点で原始的美術である。記号化された人物の演技を描写対象にしている漫画、アニメ、ゲーム等はもともと幼稚で、初歩的な表現なのだ。それらが萌えなど東京・京都での人身売買じみた児童の性搾取と絡めた美意識で表現されれば、当然ながら野蛮なものである。
 未来の人類には、わざわざ私がこれを書く理由は全く実感できないだろうが、敢えて書き残したのは、同時代の東京都民全般が、村上らの反啓蒙的詭弁により、俗悪で品性下劣な芸術表現へ心中し、かつ全く王道で誇るべきと信じ驕って疑っていなかったからだ。後生はオタク絵が何かすら知らないだろうが。

2019年9月11日

イーツ

ウーバーの出前をイーツという東京

加速主義者台頭は新自由主義が行き過ぎた一部先進国凋落の序章説

(実績なく期待先行の小泉進次郎氏が首相候補とされる腐敗した国政の、近い将来について)

自民党を終わらせる為にはいい役者と思います。ついでに日本国も破綻、衰亡状態に落ちるでしょうが、進次郎という人は米国の日本操縦者を権力の背骨にしたポピュリストとしては、小泉父や安倍晋三路線を数段強烈にした権力俗物にみえるので、加速主義に利用しようと考えた方が賢明かもしれない。
 加速主義はここでは、自由民主主義の欠点(主に格差拡大での国内経済衰退とか、アメリカ属国状態での衆愚政治)を露わにしているので、進次郎氏が国民一般を目も当てられないほど悲惨な結果にしたら、世界は必然にその体制失敗を認識せざるを得ないとの意味です。
 トランプもボリスもその役者と思う。

 もっと歴史的次元でみると、資本主義(自由主義、新自由主義含む)も共産主義も極端な考えすぎたと人類史として立証され、それらの中間にある民社主義・社民主義の様な、自由放任市場でありつつ福祉重視の中道路線へと文明の成功例は集約していくのではないでしょうか。日米英は自由に偏りすぎました。
 日本文明は現時点で、少なくとも経済面で回復の余地がないですよね。それは少子化が止めどもなく、労働移民でカバーしようと第二のイギリスになるだけだからです。新興国と入れ替わりの衰亡期に入った。それはアメリカかぶれの小泉家路線が中間層を貧しくした結果で、日本は経済政策が失敗した国です。

 もう少し長い目でみれば、格差社会のアメリカも衰亡期に入り、高度成長した中国、インドが追い抜き、恐らく2100年代くらいには中東やアフリカが本格的な成長期に入ってくるでしょう。日本はその間、中流を駄目にした反面教師とされる為に存在します。軌道修正できるほど民度が高くなかったのです。

未来を支援

進次郎被災地支援の打ち切りを詭弁で変換未来を支援と

人と動物の生活圏

人に害なさぬ動物を助けるのは楽しい。また人にたまたま害をなした動物も、自他に再び害なすまいと信じ、その命を救うのは楽しい。人に害なした動物を殺すのは悲しい。だから人は、害なしうる動物の命を奪う以前に、生活圏を侵させず、自らも侵さぬ工夫をするがいい。

神の語源は上でなくカムイと同じくカムにある説

神をカミと読み、上方・上身と関連づける語源説は、古代日本語で神をカムと読んでいたり、アイヌ語のカムイを参考にすると、飛鳥時代に奈良地方の一豪族が中国神話(『史記』)の三皇五帝から引いて天皇と名乗り自己神格化しだしたのにあわせ、上位為政者の守・司などを階級制になぞらえ上方を意味させカミと呼び、方向的に上と結びつけた別語に基づく混同と考えられる。
 一方で髪の場合は上方と結びつけられているので、語源はカミの方だろうし、雷(かみなり)がもし古代人の中で上方と結びつけられていたならやはりそうだろう。

 いいかえると、神の本来の日本語音はカムなら、こちらの語源は、醸(かも)すの語源にあたる醸(か)むにあり、例えば古代人が山からの神気の現れと感じたかもしれない水蒸気の立ちのぼる様子や(後述)、狼(おおかみ)と同質の意味、即ち神性と古代人にとって感じられた神々しい畏れの質感に求まる。こちらの語源がより信憑性が高いのは、アイヌのカムイは随所に遍在する汎神論的な神、いわば自然の本質で、必ずしも上方にいるわけではないからだ。同じく神道にとっての皇祖の様な人格神(人の姿をとった神)は中国神話から多神教を借用したもので、奈良時代に中国大陸から輸入されたが、元々、本州・四国・九州・沖縄その他の日本列島の縄文人らはこの観念を持たず、アイヌと同様、汎神論に基づく自然崇拝(アニミズム)を続けていたろう。

 例えば山自体が人格神に乗っ取られないまま神格化され祀られている奈良の三輪山などは、神道登場以前の自然崇拝の名残かもしれない。
 私の地元にあたる北茨城市の花園神社も、神道化されない以前の自然崇拝の原型をとどめており、花園川を水源まで辿って行く途中の最も山奥に神社が現れ、更に礼拝対象にあたる神体を探し、入り口に据えられている人格神の像が両脇から見守る門を通り抜け、山奥の奥へ奥へと礼拝者が遡源する設計になっているのだが、その最奥にあるのは単に無限の神秘に繋がる寂然とした人為の入らない自然そのものである。この人跡未踏の最奥の山、神気漂う山林そのものに面する全社最奥の社裏を礼拝者らが回遊できるのだが、人が訪れる玄関にあたる表でなく、自然自体であるカムを出迎える様に裏山を見守る祠が、カムと人を繋ぐ最後の礼拝所として気づかないほど小さく、消え入りそうに設けられている。
 つまり、この神社の構造は、古代以前の自然崇拝の原型に対し、後世の武将らによってもちこまれた古代奈良発の神道信仰を表面に上書きし、継ぎ足し設計されていると考えられる。槇文彦「奥の思想」(槇文彦ら『見え隠れする都市』収録、鹿島出版会、1980年)で考察された奥の方に重きを置く日本的設計思想が、宗教習合主義(Religious syncretism)で記録された例ではないか。
 カムを祀っていた日本人なるものがほぼ皇祖と同義のカミへの信仰へと、強制上書きで宗教改変された歴史的前後関係、すなわち天皇・武士間の政権闘争を伴う自然崇拝から神道習合主義への宗教観念の変遷を、象徴化したまま残した一例がここにあると私には考えられる。類似の宗教改変は、近代でも明治期から昭和敗戦まで天皇制ファシズムが猛威を奮った時代、廃仏毀釈や、アイヌ、琉球、李氏朝鮮といった別宗教をもつ人々への国家神道の強制でやはり起きていたのだから。

2019年9月10日

恋の名

あなたは無限に美しい
だがそれさえ自分の手に余るので
ひたすらこの世に光を照らし
だれもが背景に消えてしまい
暗中の一点の輝きとなる
自分を有限の生に縛りつける
それともこの世も性欲の塊で
だれもがサルの如く殖えているだけ
弱肉強食の上に演じられる愛の振り
あなたは生殖細胞の利己心

仁にあたりて師にも譲らず

老人を殺すわけにもいかないので
我々は我慢していた
何も食べず何も求めず
ひたすら仏陀になって瞑想していた
だが老人らはそれをいいことに
愚劣で悪徳もちの子供に大金を与え
わが世の春と乱痴気騒ぎ
若害(ジャクガイ)はもっとふざけだし
何もかも滅茶苦茶だ
暗愚な老人を慮ってはいけない
力で押しのけるのだ

思い

僕の心の中にあるこの思い
だがそれさえ満足にあらわせない
あたかも宇宙に閉じ込められた魔物
海の前の砂浜をどれだけ歩いていっても
行き着く所は自分の家(うち)
そして永遠に消えていく
自然が変転し消えていく命の間で
四季の繰り返しはこの星をいつくしみ
やがて自分を土に還(かえ)す
やがて自分は宇宙に還(かえ)る

科学・芸術・哲学が分担する知能の別について

科学と呼ばれる、細かい(個別的)か型にはまった(定型的な)分析領域の純粋に学術的な目的は、思考の道具になるだけだろう。私は真理を目的と考える純粋科学者の様な信仰とか、数学を科学の道具以上に万能と思う様な、理科の専門教育を受けた人達に特に後引く傾向のある考え方を、非哲学的とみなす。

 数学が役立つ領域は、殆どが自然の抽象的認識の様に単純な対象だけだ。心理分析に統計を応用している場合の結果に信憑性が低いのは経験的にもわかる(人の心は往々にして、心理学の理論通りにならない)。アリストテレスがいうよう元々、分析対象が複雑なほど、数理科学的な厳密性は役立たなくなる。これゆえ、我々が理系馬鹿と呼びたくなる様な、日常や人間心理に疎い人物とか、或いは理科なり自然・社会科学なり、何らかの数学分野の高い学位を誇っている人物が、倫理面、人格面で大変劣っている場面を頻繁に目撃するのは、そもそも数学や理科、或いは今日の社会科学は、人間性と無関係だからだ。
 社会学者とか、政治学者という肩書の目立つ御用学者を主に東京圏の通俗的メディアで頻繁に目にする。彼らの習得済みの知識体系を客観視すると、有体の受験を経由している時は文科省指定科目の一定部分を修得してはいるが、それ以外の時を含め、当然ながら修士から博士の短い期間に万学を修められない。つまり、彼ら社会学者(広義で政治学者を含む)は、自身が専攻し論文執筆時に必要になった専門知を除けば、なんら知識をもっていない可能性が十二分にある。そして後光効果で、彼らの特定学位が万能の一般的知恵の証だと考えている人々は、この恐るべき落差部分、特に人間性の無審査に無知なのである。
 もし既存の官学(政府公認済み学校の履修課程)を修めた証が、IQの社会証明になると大雑把に考えている人の場合、学問分野毎、或いは学校間で修得内容に大幅な開きがあったり、そもそも勉強や年齢差その他、学習環境の要素を含めると、個人にあてはめる際、学位は厳密性に欠けたIQ指標にしかならない。個別事例なら指摘するまでもなく明らかな様、特異に極IQが高い人が決して一流の理論物理学者にばかりなるわけではないし、企業・政府での統治とか起業・経営自体をみても、単なるIQが成功と比例するわけではないだろう。そこに一定の正相関があっても、結局は当人と同年代を比べた相対値でしかない。
 この世にはIQが低い方が有利な仕事もある。例えば保育士、小学校教員、子供向けユーチューバー、アイドル、或る種の男娼酌婦(今日ならホスト、キャバクラ嬢など呼ばれる)など。そういう職業の人々は或る点で年齢に比べ、思考が幼稚な方がより年下の気持ちに近かったり、同情や愛玩的興趣を買ったりするかもしれない。

 詩は最も伝統的な芸術の一つだ。人を感動させる表現が巧くできる人は、感情知能が高いのである。そして科学教育でこの領域は殆ど育てられない。文芸研究や芸術学(技の実践ではなく、批評含む芸術史学、美学等)は、感性(感覚)・感情を扱うが、この知能は自然・社会科学一般の修得領域ではない。
 そして哲学、特に形而上学(後自然学、metaphysics)と呼ばれる、全科学や芸術の後にくる総合的な思考でこそ、単なる物質(脳含む)や心理の働きを超え、倫理(道徳)と信仰を扱える。カント曰く哲学は学べない。思想史は学べても、精々、哲学すること(知恵を友愛すること)を学べるだけという。哲学は「学」の部類と西周により訳されているが、実際にはphilosophy(古代ギリシア語のφίλος(philos 友→φιλεῖν philein 友愛)+σοφία(sophia 知恵)の英語化)が原義で、カント説を考慮すると、要は独考・対話・会話・議論などを含む思索活動の全般を指す。その跡を学ぶのは思想史学といえる。
 然るに、自然や社会は物質的・現象的(象(かたち)に現れていること)な外部にある対象だが、信仰含む倫理は、単なる人の考えだ。つまりかたちを持っていない。形而上とは形の上にある、形がないという意味の漢語(『易経』より)なので、福沢諭吉はより日本語としてわかり易く「無形」といっていた。つまり、哲学が扱える対象は、単なる物質とその現象を含む全科学と、形に現れた芸術(広義で全人工物)を含み、更にそれらを超えた無形の考え、即ち倫理ということになる。この点について大抵の国内科学者は古典に遡って学んでいないし、まともに教えてくれる教師も少なく、一般に無知なのである。
 東北大の工学部を出て、科学主義に陥って実証科学を信仰の代わりにし、哲学は馬鹿がやることだと繰り返し侮辱していた兵庫県加古川市出身の或る浅学の徒は、広範な倫理学には無論、芸術についても詳しくなかったが、この人物はその種の学問全体の構図を知らないままで歳をとってしまったのである。

 社会学者(心理学者や、広義でメンタリストと名乗る占い師やパフォーマーもどきの人々も含む)と称する人々の一部は、複雑な対象を扱う学問の慣行または元の限界で、余り厳密な実証性が要求されないのをいいことに、しばしば学位・学閥の後光に与って万能の知性を気取る場面が散見される。だが上述した様、元々科学的手法に留まる限り、その考察は既存の物質現象への有形(形而下)のものにすぎない。だから我々は或る社会学者の倫理観が甚だ狂っていたり、それどころか純粋科学の目からみて論旨が疎かすぎても、彼らの専門知の範囲で、これら哲学や実証科学の熟達は期待できないのである。

 ソーカル事件は冗談でポストモダン思想誌の衒学(ゲンガク)を暴いた。だが特定領域の科学者が、その専門知が一般に隙間なのをいいことに自らの権威づけに乱用し、意図的に(大体は知性派ぶる悪意で)他者を騙す理系俗物として振る舞う場面もある。似た俗物主義は学閥社会で大学名や肩書をあげ主張される。当事件で暴かれたのは文系俗物が、偽の権威づけに自然科学や数学の専門用語を乱用する傾向だったが、これら、有形・無形いずれの知識についても異なる理解が必要な分野で、又は一般論の時、別領域の専門知を衒学に用いるのは、明らかに修辞や洒落とわかる文脈を除けば、新種の詭弁に他ならない。

 最後にこの小文をまとめ論旨を大別すると、伝統的な言い方にすれば、学術にまつわる知能はおおよそ3領域に分けられる。即ち真・善・美。そして特に科学は真を、哲学は善を、芸術は美を扱う。しかも科学の中でも単純な対象のとき厳密な実証性が期待できるが、複雑な対象のとき抽象性しか期待できない。

「裁き」の解釈

(先日書いた詩「裁き」について、ツイッター上でグノーシス主義か問われての返信集)

グノーシス主義についてはウィキで流して読んだくらいしか記憶の一部にありませんでしたが、改めて調べ直してみて、上記の詩の様なものに表されている内容と、確かに反宇宙論(外界が悪なるものと考える)にはある程度の相似性がありますね。
 もう少し詳しくみると、神に関する考えについては、グノーシス主義は真の神がイデアとして存在する一方、この世界の原因となる創造神については悪とみなすので、上記の詩の様なものを書いた私の考えとは幾らかずれがあると思います。
 筆者としていえるのは、筆者自身は、神を自分が達成できる対象とみているらしいので、これは私がはたちくらいのころ現実の不条理に厭世するあまり、神になる夢を抱いていたのと関係しているでしょう。
 その後、猛勉強しようが全知に到達しえないと悟り、神は無限に接近できる全知全能全徳の当為(聖性の上位に神性がある。精神性とは神性に関する精(くわ)しさ)だろうと考える様になりました。
(聖性はここでは真善美を兼ねる性質を指します)
その様な神性は、プラトンやグノーシス主義にいわせればイデアだということになりますが、私自身はプラトンのイデア論やグノーシス主義のそれと別のルートで一部相似の当為論を抱くに至ったということでしょう。
 より厳密にみると、プラトンの場合はイデアを最高善についての認知だと考えていると思いますし、グノーシス主義についてもイデア(或いは霊)を認知的な対象だと考えていると思います。しかし私はこの当為についての相似部分については人格神(人の形をもつ神性がある)がありうる様に考えており、ヘーゲルの様に人類の一員として当然の到達目標、進化の或る意味で王道的な道筋という風にみているのだと思います。

 ただ二元論という部分に関しては、上記の詩については、人類全体は勿論のこと全宇宙をもその人格神性による裁きの対象と考えているみたいなので、いってみれば筆者としては最終進化後の宇宙人、まあほぼ最高神みたいな業の支配者を想定してるんじゃないかと思います。
 別の言い方をすると、私は一人類として進化の方向は聖性を超え神性へ向かうべきだと考えており、その方向は同時に人類滅亡後(主要文明なんて全部滅びましたからね)にも続く或る生命体の進路であって、いずれ自分なり自分の子孫なり傍系子孫なり、私の意志を継ぐ人類の一員なりもその方向へ進むと考えているのだと思います。そしてその今日の人類一般の目からみると神的な世界では、個々の神格は無我が当たり前ながら無私の裁きが仕事であって、世界に秩序をもたらす役割に収まっているのだと空想しているのじゃないでしょうか。まあ私はそういう業の支配者になりたいのでしょう。
 聖書ではイエスが(口述律法による恣意的裁判を否定する文脈で)「人を裁くな」(マタイ7:1)パウロが「自ら復讐するな。神がする」(ローマ12:19)といい、『ダンマパダ』252、『ウダーナヴァルガ』27-1でゴータマ(釈迦)もほぼ同じ含意で「他人の過失は見易く、己の過失は見難い」といっている。
 つまり、我々が業の審判になりうるとしても、単なる力でなく徳の訓戒でも無矛盾にそうするには自らが最上の人徳者、或いは神格でなければならない筈なので、道徳的謙虚さ(徳版の無知の知、不知の自覚)を前提にすれば、上記の詩みたいに或る不動の真理にしかできないのでしょうね。

 あと筆者(私ですけど)は「全宇宙が破壊され尽くせばいい」と書いてるので、自然自体がビッグクランチみたいに必然にもたらした全宇宙滅亡後、全宇宙版の終末論じみた考えというか、(自ら神性への進化に加わりつつ)最高神の立派な真理が秩序づけた、理想の新世界が来るみたいな予言とも読めますね。
 どうでもいいかもしれませんが、昔私が仲間と作った『ほしをまもるひと』という数分くらいで終わるミニゲーム(超短編RPG)の筋は、大体上の詩みたいなのと似た内容と思います。人工知能のシンギュラリティがもたらす終末後の世界にも或る希望がありうるのだというお話です。
(なお私はシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる、人工知能が人類の知能全てを超える点は現実には来ないと思ってます。きても、一部の機能の模倣という部分的なものと思います。理由はプログラムは機能模倣か、或る目的に供するものだが、脳は自生的で無目的な自然の一部で根が違うからです)

百足(むかで)の子

われを刺す机の裏の百足(むかで)の子逃がし仏陀にわれはなり

裁き

全人類が滅び去ればいい
あたかも自然自身がそれを求めるよう
全宇宙が破壊され尽くせばいい
代わりに私自身が神になる
この肉体が滅び去れども
とこしえに変わり得ない真理として
下らないものをなべて消し尽くし
偉大なる秩序をもたらすのだ
業として
もはや無我を超えた絶対の裁きとして

性的指向と配偶様式の最小制約論

性的少数者の変奏はLGBTTQQIAAPPZN(Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender、Transsexual、Queer、Questioning、Intersex、Asexual、Ally、Pansexual、Pedophilia、Zoophilia、Necrophilia)ともっとふえていくだろうし、公害かつ犯罪にあたるものも含め、性的指向単体を貶めるのは愚かだ。或る性的指向が、なんらかの意味で自他に有害で不道徳だった時も、そもそも特定傾向の嗜癖が脳の現象として出現している事実に引き比べ、それが非定型的である点だけとりあげて貶める観点は、論理的に破綻している。定型的な性欲も客観視すれば単なる凡庸な嗜癖で、理性的には愚かでしかないからだ。
 同じく一夫一妻制を絶対的な定型性癖の信仰箇条にしている人は、パブロフの犬のようなんにでも条件づけられて成立する嗜癖のしくみ自体を、文化人類学的に理解できていない。もともと類人猿や、ほとんどの部族社会は一夫多妻だし、キリスト教の影響が広まる前はどの文化圏でも似た様なものだったのだ。多夫多妻、一妻多夫その他の配偶関係が制約される理由は、実質的に法律を多数派が少数派の犠牲のもと恣意的に統制していることにしか求まり得ないだろう。少なくとも配偶者同士で誰かの契約不履行や裏切りの不倫を含まない形で、複数相手とも婚姻可能な筈だからだ。結婚は個人間の契約と考えるべきだ。
 もし近代保守主義者が、今後の寛容度の高まりに抵抗しようとしても、単なる時間の問題でその種の信仰集団にとっての規範に留まるだろう。具体的には一夫一妻制の元、異性愛者として定型的な性指向をもち、それを正義と考える人達は、特にイスラム教徒の人口増加に伴い、地球規模で少数派になるだろう。

 特定の性的少数者がどれだけの公害度か、単なる主観的偏見を超え社会的に研究し、その程度に応じて法的統制が図られるべきだが、同時に、単なる内心の自由、思想・信条の自由としていかなる性的少数嗜好も、嗜癖の一種として不可侵に認められるべきだろう。内面の性には禁忌がありえないという意味だ。
 同時に、配偶についても、自身の配偶様式への信念と多かれ少なかれ異なる他人のそれを、法的・倫理的に制限するのは、自身への公害が及びえなければ、全く望ましくない。いわばこの場合も、配偶の自由度は、他人の配偶嗜好が自身の自由や諸人権を侵害する程度に応じてのみ、最小制約されるべきなのだ。

美術

歯の浮く様なアカデミズムの醜態
偽物だらけの金儲けメディア
衆愚の溢れたこの国で
一体何を完成させれば救われる
誰もが俗悪な漫画にたかり
お前を無視し餓死させようとするのに

創作

何も作るな
ただあるものをある様に置け
何も真似るな
ただあるべきものを本来あるがままにせよ

2019年9月9日

あくまよりあし

原発で田舎を汚し差別する東京都民あくまよりあし

台風一過

海の香のする台風一過の夜のなか虫はなお鳴く人は騒げる

主権者収奪あきんど皇室

お前など生きても死んでもどちらでも同じ
なぜならかねにならないから
それがこの国で東京なので
嫌なら死に絶えろと愛国者がいう
その国を愛してどうなるの
死ぬまであきんど
苦しみながらあきんど
利根なエゴイストの群れの中
無理して金儲けをやらされる
さもなければ自殺と皇室が主権者を収奪する

小人日本

老人は金を貯め込み若害は淫行に耽る小人日本

超平面派は趣味面では往々にして反面教師

日本でファインアーティスト(純粋美術家。画廊と契約し半商業的なガラパゴス国内美術界で有名人になるとかと関係なく)になるのは、私の経験からして、いわば完全に国外の目をもつことと実質的に等しいのではないだろうか? 私の趣味についても、無意識に欧米基準になっているのではないだろうか?

 ある外人(irene氏)による日本サブカルに影響を受けているのは明らかな漫画風の絵をみて感じたのは、私は漫画とかアニメ自体に嫌悪を感じているのではないということだ。この人の漫画には嫌悪を感じないし(寧ろ好意を感じる)、オタク的要素はあっても下品な文脈での使われ方をしていない。
 私が日本のサブカルが大嫌いになったのは、主に同人誌に影響を受けてだろうけど、表現自体に下品さや悪趣味があるかららしい。それで私はアニメ自体をみたこともないのに、一見で京アニの絵をみても激しく嫌悪を感じる。なんか言い表せない嫌な感じがする。絵描きなら言いたいことはわかると思うが。

 漫画やアニメの表現手法は、線画による超平面(スーパーフラット)的な省略表現で幻想の空間を作りつつ、デフォルメしてある人物や空想上のキャラクターになにかを振る舞わせるものと総称できるが、私はこの手法自体に子供の頃から慣れ親しんでいるが、飽きてはいるけど別にこれ自体が嫌いになったのではない様だ。
 例えばバンクシーの落書きも漫画絵だろうし、クーンズがポップアートの流用みたいに使うポパイとか浮世絵の断片とかも漫画絵だろう。で彼らの漫画が巧いかといえばバンクシーは巧いかもしれないが、クーンズは文脈主義的コラージュなのでそういう代物ではない。でどちらの漫画絵も私は好きでない。なぜかならバンクシーの漫画絵は、表現自体は風刺的だったりして面白いけど、絵自体はなんというのか可愛げがない。恐らくだが美大系で習った可能性があるくらいきっかりとしたデッサンが完成されていて、それ自体から滲み出している人柄からすると割と堅物と思う。まあ隙がないのだ、よかれあしかれ。で、クーンズの場合は普通に下品な作品ばかりで、趣味論としてはいわゆる俗悪(キッチュ、紛い物)なるものを模造的(シミュラークル)に再現しているのではあるが、悪趣味なのが装飾品として有効な場ってどれだけあるのかよくわからないし、悪所に近づきたくもないから余り好みが合わない。
 つまり、漫画絵で素晴らしいと感動できるのは、私の場合は、鳥山明と、漫画バージョンの宮崎駿の構成力くらいだ。特に鳥山明は本当に空間表現とか細部の情感とか天才だと思う。この点で世界に比類があるだろうか。宮崎駿もアニメは退化してるが漫画の方は鳥山へ大いに匹敵する圧倒的技術力はある。
 手塚治虫は物語は素晴らしいが、作画は微妙と思う。それならまだ藤子不二雄A・Fのがずっと巧い。
 売上だけなら鳥山こえてるだろう尾田栄一郎の作画力は、前も書いたがコラボ回で見比べた時は本当に気の毒で、傍ら痛かった。

 で、こういう漫画の殿堂からみて、さっきだしたirene氏も、バンクシーもクーンズもだが、まあ村上隆とか奈良美智も入れて、純粋美術側の人達が漫画表現を真似るのは、はっきりいうとモドキ。この意味では模倣の模倣でしょう。劣化コピーを免れない。それを強く感じるのは村上隆のドラえもんの作画だ。

 ここにはある逆転関係がある。

 昔はポンチ絵といわれていた漫画って子供がふざけて描く扱いで、大人が真面目にみる物ではなかったし、新聞の四コマ漫画とかも欧米でも、国内の格式高い世界でもそういう扱いのままだ。そこに芸術性を込めだしたのは日本なら手塚、米国ならディズニーだったのだろう。
 ところが抽象表現主義以後の模索の中でイラストレーターから転身したウォーホルと、アメリカ国旗の模写からアメコミ断片コラージュ実験などもしていたリキテンシュタインらが、漫画表現を純粋美術界に割り込ませてきた。そしてクーンズがそれらの模造をしてる中で、村上隆が登場し超平面理論を唱えた。
 村上は元々宮崎駿ファンで、芸大でもアニメ研究会だかのサークルにいたかなんかで、アニメーターになりきれず、芸大日本画博士を取得後、国内ガラパゴス美術界にうんざりし渡米したが、そこでもコンセプチュアル・アートとの落差に挫折を味わうという、権威関係からすると色々倒逆した人物だった。それで村上は自分のルーツに遡り、いわゆるDOBという彼がニューヨークの地下鉄でみたドブネズミに自分を象徴化させたポップアート風の漫画絵とか、やがて明らかに彼の中にもあるオタク趣味を自虐的に揶揄する自慰像とかエロフィギュア模造で、アメリカ美術のキッチュ文脈に乗って人気を博し今に至る。
 即ち超平面理論とは、絵画手法としては日本画が遠近表現を正格的に使えていなかったのを逆手にとりその平面性を近代欧米美術の抽象化と重ね、文化多元論みたいな感じで独創的な特徴として正当化してるのだが、通俗的にはサブカルとファインアートを中間芸術化してもいいというダブルスピークでもある。

 では何が倒逆かというと、漫画の方が権威が低い幼稚な大衆商品だったのに(この意識はプラトン物語みたく道徳訓話の紙芝居意識を延いている当の宮崎だってもっている)、村上は究極で彼の宮崎劣等感を覆す為にだろうが漫画絵も美術論的に批評に足ると、自作の競売対応と共に同列俎上に出してしまった。
 まあ寿司でいえば、ハマチやブリが出てくる高級店で、いきなりカリフォルニアロール仕立てのタピオカ軍艦巻きだしたらなにこれとなるわけで、村上はキッチュでしかないといえばそうなのだが、欧米人一般は少なくとも「いいね」とインスタにたかっている。理由は理論がしっかりしてて珍しいからだろう。
 もっと即物的には、米美術界で限定数の等身大エロフィギュアもどきKO2が日本流キッチュの輸入と認められ投機対象になり、競売で高い値段ついたからなんだろうけど、主要競売会社のあるイギリスやアメリカはこの意味で全世界美術の流れからするとやたら商売気質でろくなもんではないといえなくもない。
 でだ。子供のころ鳥山明の原画展みたいなのいわきで、あとこないだディズニーの原画展も震災直後に本社が善意でやったのか地元でみたことあるんだが、漫画家の原画ってあまりアウラ(オーラ)はない。寧ろ画集でみた時とか最後に陳列してたグッズのがよほどできがいい。この意味では古典美術でない。なんでそうかなら、漫画家はその原画が印刷され無数に流通するのを想定してるから、原画自体はなんというか完成品じゃない。その印刷物の方が本体で、原画は建築でいう設計図でしかない。なので指示が書いてあったり塗り方指定してある状態だったりするし、完成後と違い吹き出しの中が書かれてなかったり、線が定まってなかったりすると。しかし、ピクシブが出てきた辺りから、これは村上隆の活動と同時並行的に起きていたが、漫画絵はそれ自体で完成品の絵とみなされる風土が国内ではできてきていた。でこれには二次創作を主とししかも極めて下品で露骨かつ変態性欲・児童性愛的な性表現をも含む同人誌界も、近接し乗っかってきていた。
 ジブリ、ガイナックス、京アニみたいな各有名アニメ会社はこの背後で商品量産し、今を時めくジャパニメーションのオタクなる人達を世界の極一部にうみだしていったわけです。はい、一部でしょう。例えばフランス人一般がジャパニみてないし、官学次元からは全然馬鹿にされている。庶民か子供の物と。

 ここで書いたことをまとめると、漫画が美術ぶって威張りだした原因の一つは村上隆による欧米美術界での超平面理論の流布だった。それは副作用として下品で低俗、幼稚な悪趣味を王道視する衆愚的文化状況をうみだした。
 私が憎悪してるのはその和製サブカルの悪徳ぶりで、漫画手法自体ではない。
 同じ漫画手法を使いながらも決して下品でも低俗でも悪趣味でも、しばしば幼稚でもない表現は可能だ。漫画手法は印刷物上に手描きの絵で人物劇の空間表現を行おうとした人達により、省略や強調などの修辞記号の技術から編み出されたが、それを善い趣味と結びつけられなかった人々は単に下賤だったのだ。
 現代日本人らの大部分は、漫画アニメゲーム等のサブカル商品に馴染んでいて、例えば浮世絵の場合にそうだったようその中でだけ通じる記号や前例の意味を感知できるが、その副文脈を知らない人達には何のことやらわからないままだろうし、研究者以外には今後も恐らく普遍的な意味をもたないだろう。いいかえれば漫画表現はサークル的な内輪受けを狙ったものなのだが、その輪が大衆商業性とか、同人誌のよう不道徳性の賛美といったかなりはっきりした反知性主義の色彩をもつ上に、純粋美術の扱える表現の幅に比べると具象表現のうち人物劇を出ず限られている点で、地域的挿絵様式の変奏でしかない。

 私がいいたいのは、日本の漫画アニメの殆どは品性下劣なもので、子供にとって望ましい道徳訓話を含んだ代物でもなくなっているばかりか、寧ろ逆に悪趣味を共有している同人界に直結しているが故、国内サブカル自体が総じてだが、オタク騙しで金儲けする邪悪な一部の悪徳商売になっているということだ。だから純粋美術の流儀中に、この日本型サブカル(狭くは東京サブカル、京アニ入れたら京都サブカル)を無作為に入れる枠組みをもちこんだ村上隆は、後世に禍根を残したと私は思う。確かに庶民や性的少数者、女子供風の感覚論(カワイイ)など反知性主義表現をとりこめる利点もあったが、大雑把すぎた。
 庶民次元だと無判断(判断中止ですらなく)や利己のためソフィスト級の道徳相対主義が蔓延してるから、超平面は彼らの悪趣味ぶりをクールジャパンみたく、恥知らずにも自慢する傲った自画自賛加減をもたらした。漫画形式を伴えばどんな悪徳でも美化できるのか? この点でも超平面派は反面教師と思う。

日本人一般とまるで気が合わない

県なり市ごと国外にもっていければ、これ以上、私の県なり市に魅力を全く感じていない日本人らの一部なり一般とほぼ永遠につきあう必要ないのだが。彼らの近隣に、私の自治体が立地してしまっているのが残念でならない。実際日本人一般と殆ど一度も趣味があった試しがないし、この点で同類と思えない。

 どういうわけでかはしらないが、私が日本人一般と僅かなりとも趣味があっていたのは、少年ジャンプ読んでた少年期くらいだ。『ドラゴンボール』とか『すごいよマサルさん』とかは面白かったし、周りだけでなく一応日本でも流行ってた。しかし高校以後は全然、日本人一般と合わなくなった。
 私が特殊な趣味の持ち主だとは思えない。純粋美術界の全体からしたら、寧ろ標準的な方ではないか。バンクシーもクーンズもリヒターもよくわかる。そう考えると、日本に純粋美術界がないに等しいのと、自分が日本に全然合わないのは、なにか関係あるかもしれない。

権威は虚構

権威は剥ぎ取られ実態が暴かれる。

天皇は総意でなく一部または多数派の恣意で象徴の地位を維持している

王権神授説を日本国憲法の一条に記述してある点は、国民の総意ではなく、一部(但し多数派のこともある)の恣意によって決まっている。この点で、既に自然権(天賦人権説)や政教分離と矛盾しているので、現憲法は法的整合性をもっていない。

俗受けと普遍性

どの時代にも、俗受けしている偽作家、疑似商業的なサロン作家はいるものだ。彼らは彼ら自身の宣伝行為がおこなえなくなると途端に火が消える。死後は専門家ですら名をおぼえていない。だが、生前には最大限の偽装をして、誰よりもアーティストぶっている。
 芸術家が普遍性を気にする必要は全く無い。ある作品が本質的に重要ならそれは同時に普遍的なのだから。

2019年9月8日

文明に於ける理性の意味

人間界は動物界の延長上にあって、性欲、食欲、睡眠欲などを基礎にしている。そしてこれら、特に性欲を体よく満たすのを、親含め社会は一般に抑圧し、より利他的で、より非本能的・理性的な昇華に向かわせようとする。
 なぜそうなっているかなら、過去の時代でこれら本能を放置していた状態は、人類として必ずしも居心地がよいものではなかったのかもしれない。もし現代人が類人猿や猿の段階に返れても、理性があるので厳密には返り得ないのではないか。

 ここで「理性」は、人類にとって文明的な社会適応性とほぼ同義になる。例えば地位の高い人が、性的に乱れた何らかの倫理的な意味で不埒な暮らしをしていると分かった時点で、その人へ失墜の可能性が出てくる。この本能の否定傾向は、地位が高いほどより理性的な振る舞いを期待されていると示している。
 ではこの理性の最上の段階はどこにあるかなら、これまで知られている範囲では、内面的には、定言命法とカントによって定義された純粋に利他的で無私の自己犠牲を当然と考える立場、そして外交的には、慈悲と呼ばれる釈迦(仏陀、ゴータマ)が全生命の幸を願い、苦痛を最小化させようとする立場だろう。
 理性と似た言葉として、知性がある。また哲学用語としては、英語understandingやドイツ語Verstandの訳語として悟性という別の意味をもつ言葉も使われる。これらは哲学者らにより色々な定義をされているが、総じて、脳の新皮質側の働きだといっていいだろう。本能を司る旧皮質を覆う様にできた新皮質は、過去の類人猿またはサルの時代に本能を中心に行動していた我々にとって、社会行動の適応性として現れ発達した部位なのだと思う。そしてそこが働いて、我々の理性的な意識が生まれ、通俗的にはその一部を知性とか、別の言葉で悟性などと呼んでいるのだろう。
 理性は実際には、高度に利他的な適応の領域と思われる。今日では資本主義経済が進展し、他人を金儲け、より即物的には己の快楽のため道具化する新手の利己性にもこの領域が使われるが、実際に老年で本能が衰えたり、用途がないほど金持ちになると彼らは尊敬を得られなかったと悟り、利他性を学びだす。
 文明社会は、その時点の人類にしりうるかぎり最も利他的な協調体制として生まれているもので、各自の本能という利己性はそこでは商品経済に回収され、或る意味で市場参加者らは遠回りしているともいえる。生存に必要な物資や、配偶者はどんな原始的状況でも質あれ、生存者らに手に入っていたのだから。

 なぜ資本主義経済下で、生存に必要な物資や配偶者すら容易に手に入らないかなら、そこでは価値交換の体系になんらかの相利行動で参加しなければいけないからだ。殆どの市場参加者らは、マルクスのいう搾取される労働者としてそうする。そして十分な「市場価値」をもたなければ、繁殖すらできない。
 イギリスの福祉国家時代、生活保護者らは繁殖可能だった。そしてこれをサッチャーが貧乏人優遇だと切り捨てたことで新自由主義時代が幕開け、日本にきた余波は非正規雇用者という事実上の奴隷階級を量産させた。更に労働者一般を低賃金で社畜化する経営資本主義も正当化され、少子化が決定的になった。
 金払いで受けられるサービスを区別される格差社会の頂点には成金らが鎮座し、マスメディアやSNSで浪費自慢に耽った。彼らは俗語でセレブ(celebrity、名士の俗語化)と呼ばれ、金で買える地位財を貧民全体へ羨望させる目的で顕示的に消費した。
 彼らが理性的だったといえるか? 利他的だったと?
 ケインズの考えに戻れば、彼らは時代の徒花と思う。彼らはより上流階級をまね、奢侈品の支出、獲得に費用がかかる過度で豪壮な肩書で庶民との違いを強調するが、本質的には金利生活者(つまり投資家)と同じで、庶民が将来獲得できる文化的支出の目安になる生活を先に消費しているだけだろう。
 上品さは欲望充足の直接・効率性の否定と永井俊哉氏がいうよう、もともと文明の中でその種の上流気取りの顕示的消費に繋がる贅沢部分は、本能を婉曲的に否定する両義性をもつ。それを永井氏は「文化」といっているが、つまり仏教の反出生主義などがその極点にあるのだ。
 別の言い方をすれば、上述の内面的な自己犠牲、外交的な慈悲の実践が、穿った見方をすれば究極的な俗物根性であり、同時に、我々が聖人と呼んでいる道徳的な模範でもある。本能を理性によって否定すること。その人類の大脳にしか十分なし得ない行動が、文化を通じ上品さを作り上げ、人々を教化する。

 私はこの様な文明のしくみを、18歳のころ友達と直感的な言葉でしばしば議論してはいたが、これまではっきり理論化できなかったのだが、こうしてより言語で分かってみると、文明は或る種の協力関係でありながら、その中で本能を裏に隠し騙し合いをしているサルの進化版による演劇なのだと認識できる。
 我々が完全に利他的な人格に自らを躾けられれば、聖人として本能による繁殖も否定するだろう。そして利益追求は無論行わず、抜苦与楽の中で、自分は或る種の禁欲状態で中庸の自己否定を図るだろう。だから成金らは或る意味では俄仕込みの上流模倣をしているが、究極の文明人にはなりきれていない。例えば親鸞は釈迦に比べ上品さを堕落させた。元々、坊主の模範が開祖の釈迦なのだから、悪人正機説で妻帯を認めた親鸞は教義の一部を通俗化したと評する他ない。釈迦が悟ってからの哲学は性の否定であり、繁殖せず慈悲深い利他行動の中で乞食しながら、やがて自然死することだった。
 今日の聖人も又、生活最小主義者(生活ミニマリスト)を超え、一乞食として反出生主義を主張していた哲学的詩人の釈迦を模範にすべきだろう。上品さが資本主義経済下でどう定義されるかなら、欲望開発や利益追求のできるだけ婉曲的な否定になるだろうからだ。いわゆるジム・マクギアン(Jim McGuigan)のいうクール資本主義に一部相似する。彼のいうクール資本主義は、彼による同名の著書内で「不満を資本主義自体に統合すること」と定義されているが、要するに上述の理論でいう上品さによる資本主義の婉曲的否定を指している。ここにあるのは或る種の加速主義で、資本主義の諸矛盾を商品経済に載せ内部的に否定する態度だ。
 わかりやすくいうと、金儲けしながら金儲けになんの興味もない、商売しながら商売になんの興味もないといった離反的態度で、資本主義の制度を使いながらその様々な欠点を冷淡(クール)に否定して扱う考え方を指すのだが、これは直接的な制度の否定である共産主義より、回りくどく複雑な抵抗になる。

 もともと資本主義は、アダムスミス『国富論』での自由放任論を担保に、大航海時代の高リスクな冒険事業への有限責任な出資方式や、植民地含む工場労働者の搾取として発展したと解釈できるが、完全競争下での需給一致を目的とする。クール資本主義はこの意味で、寧ろ資本主義の目的を再起動するだろう。
 既存の資本主義は市場の需給が不一致でありながら、貧民を窮乏させたり、金持ちが余剰資金を単なる貯金に回し使用しなかったり、明らかな不均衡がみられた。ケインズの修正資本主義は公共事業でこれを一部改善させ、ウェッブ夫妻らの民社主義は(ベルンシュタインの社民主義を含み)福祉国家を作った。しかし貧富の格差が拡大する新自由主義の潮流下にある現日本では特に世代間格差が激しくなり、公共事業を興しても景気が回復せず、社会保障費を支出しても医療年金に吸い込まれ、既存の資本主義は十分に機能していない。欲しい物や奉仕が欲しい人に手に入らない経済は、市場自体が失敗しているのだ。
 金をよこせといっても老人らは自身の不安解消のため仕舞い込み、公権力などの暴力を使って反逆するし、そもそも国内全資産の84%超をもつ50歳以上の高齢者ら(2014年4月15日、モーサテ)は貯金目的で消費しないのだから市場に出回る金は僅少だ。生存費すら手に入らない状況で消費など不可能である。だからそこでできるのは、直接的な外貨獲得や国外脱出かもしれないが、それすら能わなければ、遠回しにこのお粗末な国内の老人貪り状況(君子三戒を破る小人社会)を否定する冷静資本主義の態度でしかない。それが具体的に現れたのが嫌儲や低消費適応の生活最小主義(生活ミニマリズム)だったのだろう。
 生活最小主義ははじめ、こうして主に老人の貪りにより市中に金が回らない低消費社会に順応して出てきた長期デフレ(潜行スタフレ、忍び寄るスタグフレーション)下での、状況的加速主義だったのだろう。がゆとり世代後期になるに連れ少子化が進展、団塊引退が重なり就職率が表面的に改善されると子供は再び資本主義を欣慕しだした。
 自分の見ていた限り、ヒカキンなる経費で節税兼ね成金自慢する子供向け娯楽動画ユーチューバーの甚大な影響があった。ゆとり後期以降の子供は彼を模範と考え、新成金的浪費暮らしを目指しますます手軽な金儲けや、派生的に東京での「下品な(欲望充足に直接的な)」退廃生活に憧れる様になっていった。つまり、主に就職氷河期世代以後、第二次安倍政権が猛威を振るうゆとり中期世代までは一般に、状況的な生活最小主義者にならざるをえなかった人々がいたが、ゆとり後期以後は逆に新成金的な下品さに憧れ、模倣する様になってきている人々がいるのだと思う。だが経済状況は同じなのだから、この幼稚な羨望はほぼ挫折するのだが。
 このゆとり後期以後に見られる新成金志向(だが現実には単なる正社員志望)は文明の退化か? 今後彼らの動向を眺めるしかない。社会学的に分析できたのは上記の流れで、私は経済状況が最悪級の日本は、却って聖人以上の人品を必然で生み出すのに有利だといいたいのだ。私自身もその一員になりたい。

マクロ経済学上の中規模所得調整説

税の本質的な意味は、自由放任市場で競争させていると、非生産的に流通差額を搾取する一部の商人が無限に蓄財し、貧者を助けもせず浪費に回してしまう。したがって弱肉強食に陥らない様、或いはより生産的な社会にする為に、累進課税制が必要だ。商業はすべての職業に公平な競争環境ではないのである。
 この「生産」という言葉は多義語で、最近ツイッター上で「生産性で人の価値を図るな」云々と避難する文言が流布されている。なぜこの様な上記の文脈と別の意味が生じるかなら、経済学用語としての生産性は文字通りの意味でなく、三面等価原則で企業の利益総額(ほぼGDP)と一致させられているからだ。
 私は経済学用語としての「生産性」は、厳密には農工業での消費できる物質生産(収穫含む)と分けて考えられるので、所得性、付加価値性(販売性、加工性に分類できる)におきかえ、細分化できると主張する。また非商業的な生産物だけを取り出して純粋生産性と定義すれば、より誤解が少ないと考える。
参考:「経済学での生産性を再定義し直す必要」
いいかえると、ツイッター上で一部の人々が「生産性」を人間的価値を測る尺度になりえないと主張している時、この意味は、上述の定義では所得性である。より通俗的にいえば金儲けの顕在的な能力値だ。彼らは経済学用語を理解せず使い、かつ文字面で意味を捉え、子の出産性と誤解している節もある。

 他方、ここでいう純粋生産性(農工業でいう食べ物や道具を作り出す能力。広義で芸術品も含む)、或いは所得性、付加価値性(販売性、加工性)をもっていないか、その顕在的能力値が低い人の生存価値が低いかなら、必ずしもそうはいえないだろう。金銭は万能の価値尺度ではなく、非地位財すら測れない。
 つまりそれらツイッター民が生産性で生存価値が測れないと主張するのは、より厳密には純粋生産性、所得性、販売性、加工性などの経済能力の顕在的能力値は、必ずしも或いは一般に或る人生の価値尺度ではないとの資本主義経済批判であり、これは素朴にも、価値倫理学的にみても、一理あるといえる。

 税の今日的意義が上述の所得調整(伝統的にはアリストテレスの調整(矯正)的正義とほぼ同趣旨)なら、私が商業を非生産的と述べた本質的意味も明らかになるであろう。すなわちそこでいう非生産性とは、所得性、販売性、加工性などの方が、なんらかの訳で純粋生産性より商業的に有利になる性質を指す。
 累進課税制のマクロ経済理論的な合理性はここに論証された。それは経済活動全体の内、特定の要素が場の状況下で有利になりすぎているとき、生産・流通・消費のいずれかの滞りに繋がりうる為、それらの要素間で中程度に所得調整する必要があるからなのだ。さも植生の多様性に於ける中規模撹乱説の様に。

皇室含む公僕は贅沢の象徴ではありえず、税は相対貧者を助ける為の公共財産でなければならない

なぜ公務員や皇族がのさばる必要があるか。それは「壟断」の逸話から続く、生産せず流通差額を占める商人の蓄財が原因だ。商人が付加価値と呼ぶ流通差額の搾取で蓄財すればするほど生産者(農民・工人)は貧しくなる。だがより非生産的になった商業地で起きるのは浪費による退廃である。こうして役人(事実上、或る地域で最大の暴力団を指す)が出現し、彼らは暴力を担保に徴税を図る。調度、祭りの出店で場所代をとるヤクザと同じだ。この総元締めになってきたのが日本では飛鳥時代以来、天皇家だった。
 米軍らGHQによる主権在民の導入で福祉的な税の調整が図られる様になったが、元は単なる暴力で暮らす天皇家や彼らに侍る暴力団らの物資収奪だった。17条憲法の様な欽定憲法も、根本的にはこの天皇家による収奪体制を確立する目的のものだった。
 現憲法は仏米で共和政が樹立され、宗教権力者(西洋でいう教皇)や世俗的権力者(王や諸侯)が皇族や華族の様に、税収奪を図れなくなる、国民中心な福祉国家の仕組みを導入したものだ。そこではじめて、税は公共一般のものになる。だが終ぞ不学な自民党員一般はこれを理解できなかった。自民党員らはやがて皇族の縁戚者で固めた薩長藩閥で世襲政を復権させ始めた。そして旧体制の税収奪意識へ先祖返りし、皇族と共に贅沢三昧に驕り、浮浪者はじめ貧者を貪り始めた。国民一般は自民党員らより更に不学で、彼らの退行を後押ししながら、弱肉強食を自己責任といいかえ中世風に礼賛し始めた。

 現時点の世界で最も公知公徳面で平均的に優れた文化集団は、北欧圏の人々だろう。彼らは税を公共福祉の為のものと共通認識し、自ら高い税を払いながら、より恵まれない人達を中心に互いに助け合おうとする。彼らも王室は名目的に維持しているが、政教一致(祭政一致)ではない。また新自由主義に呑まれ自己責任論にかぶれてもいない。
 日本国民一般が彼らに学ぶべきなのはこの点である。

貪り国民

老人共は金を貪り脱税する
年金医療を貪り我々を自殺させようとする
若害共は金を貪り就職する
終身雇用を貪り我々を侮辱し淫行自慢する
同年代は下らない奴が肩書で売名
都内で愚にもつかない金儲けをしている
右も左も上も下も金儲け俗物
だから一人も仲良くなれない
この国にいるのは悪魔だけなのだ

他人の国

人間界に生きていく価値があるのか
この国で誰一人同類がみつからない
完全な孤独のなか貪られ死ぬ
この国民が何を求めているかなどわかるものか
金儲けに躍起な商人共は同類なので
互いに何を欲しがっているかすぐわかる
それは下賤な漫画
下衆な身売り
ほか何かつまらない芸能ゴシップ
他人の国

見える化は本来、可視化の改善という意味

トヨタ経営者側が労働者らに、可視化を見える化と奇妙な大和言葉化した疑似口語表現を使った方が伝わり易かったので、それが一般商業社会に流通しだしたのだと思うが、見える化の化は漢語というか音読みのままなのだから、わざわざカシをミエルにいいかえた意味がよくわからない。一文字分多いし。
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によると、見える化はトヨタの「アンドン(ランプ)方式」に於いて、可視化した業務の改善を含んで定義されているらしい。(岡本渉「生産保全活動の実態の見える化」1998年)
 カンバン生産方式の様な改善過程を含む定義でのみ見える化というべきなのに、商売用語としてこれを超え可視化と同義で使われ始め、やがて一般社会に広がった表現とみられる。つまり狭義では「可視化自体の改善」が見える化なのだから、文字面に引っ張られ一般に誤用なり、無意味に援用されているのだ。

俗人達について

日本語のユーチューブコメントみると馬鹿みたいなのばかりでうんざりする。反知性主義に染まっているのか元々衆愚なのか。
 大して知的でない人間が、東大とか早慶とか、哲学修士の肩書つきで放言してる、主に東京圏の俗物根性も同じくらい馬鹿みたいに見えるが。
 自分は知的な意見がみたいのだが。

 都市ランキングだの、魅力度ランキングだの、主観が介在するのは明らかな順位づけに一喜一憂してるのは愚かだ。ある人、もしくはある集団にとって好ましいものでも、別の人には全くそうでない。これらを鵜呑みにするのは或る偏見による確証バイアスを生み出すだけなので、結果は衆愚的になるだろう。

日本型学校教育の起源とその体制が真理探求に必ずしも有利でない面について

某ユーチューバーが「校外学習より通学でIQが上がるし、IQ上昇は収入があがり老けづらく基本的に得な効用ゆえに、学校に通ったほうがいいのが科学だ」とのたまわっていた。この意見には完全に科学からみても複数の問題点があるが、哲学的にみたら色々もっと酷いとおもった。
 まず心理学を科学と称するのは相当に疑わしい。そこで行われている実証実験もどきは、標本のとり方がその大学の学生数十人とか、特定の国の特定の数千人とかで疑わしかったりするし、彼が信憑性の根拠にしているメタ分析も複数論文で共通し言及されている点があるだけで真理を保証するものではない。
 そしてより根本的にいうと、科学的態度とは既成の事実や見解に、より正しい真理に接近するため方法的懐疑を維持することをさす。潮流(パラダイム)論なら天動説から地動説へ大きな転換があった前の科学(科学はscienceの訳語でラテン語scientia「知」「知ること」「知識」の英語化名詞)は覆った。

 つまり当人物は、或る学者が査読誌にのせた論文を一定の真理を語っているものと、特にランダム化比較実験間の系統的レビュー済み(メタ分析)の論文について語るのだが、実は懐疑的に語らないといけない。心理学みたく実証性が統計の真偽性など含め有意差でしかないなら尚更だ。
 別に私はその人個人を責めているとかではなくて、科学なるものが人類史に出現してきた歴史的経緯から、それを永遠に信仰しえないと知っているだけのことである。

 科学の母体は哲学、特に自然哲学だったが、日本語訳語では学がついてて紛らわしいが哲学(philosophy)は本質的に「知恵の友愛」を意味していて字義通り、道徳など各知識を背景にした信仰に類したものを含め広義の知的活動全般をさす。科学(いわゆる知識)は哲学の一部を構成する要素でしかない。
 で、心理学なるものは、全科学の内でも最も実証化が遅くなるだろう複雑な対象、即ち社会や人間を扱い、その中でもより複雑な心の動き(主には脳の活動の社会適応で現れている現象的側面)を扱っている。上述のよう人は科学へ懐疑的たるべき上に、心理実験なら余計、単純に真理とはいえないわけである。
 学ぶのはよい。だが学んだ知識を、特に物理学ですらそうなのにもっと既成の見解から大幅に異なるより正しい見解が現れうる、複雑性の高い心理学の様な対象に関して、さも信じるに足る真理かの様、誤解を招く仕方で一般大衆に流布するのはどうか。科学者倫理面で公害度が高く、大いに問題があるだろう。例えば或る論文でAといわれたが別の論文で非Aといわれた、といった単純な矛盾の場合だけでなく、ある論文でBといわれていたが別の論文でBを部分的に含みつつ部分的に非Bを述べCといわれていた様な止揚的な場合とか、元々Dと言われていた見解がEで全く違った潮流になり全否定されるとか容易にある。そして系統的レビューでランダム化比較実験しようが観察研究しようが科学には将来どんな否定でもありうるという点は変わらない。もっというと、某氏には真理探求を志す純粋な科学精神が欠けているとしか思えない。それだけならまだいい。よくいる学問のスノッブだからだ。問題は哲学精神のなさの方だ。
 例えば一般論として学校でIQテストと似た論理的作業をするからIQが上がる傾向になるのは、実験でも統計的にその様な結果がでてきても常識的かもしれない。だが校外学習や独学で、間接的にIQテストの訓練になっている類の論理的作業を校内でやるよりしていた場合など、個別で容易に反証例が見つかる。
 他にIQと年収の相関云々は、労働者一般がシグナリングにより学歴で人事考査されていた場合を含めれば疑似相関にすぎないことになるだろう。一方、確かにIQ自体と商才に一定の相関がみいだせる可能性は全否定できないにせよ、バフェットがいう通り、億万長者らのIQが一様に特別高いとは思えないわけだ。平たくいうと、メンサ会員が全員億万長者になっているかといえばそうでないわけだから、IQは総じて、同年代に比べた主に論理的作業の単位時間あたり実行能力(異論はあるかもしれないが大雑把にコンピュータでいえばCPUみたいなものだろう)を意味するにすぎない。それを商売に使ってない場合がある。
 同年代に比べてより進度の高い研究をするという、年齢に対する偏差値としての高IQが要求されるといえなくもない(厳密には独創性など含めれば高IQは必要条件ではない)理論物理学や数学研究に、或る人が脳の殆どを使っていたら、一般にどうみてもより低IQで商売熱心な人に劣る資産しか築けないだろう。

 以上の反証をより抽象度の高い話に持ち上げると、某氏は動画中の言説で、一般例と個別例を取り違えているのが明らかである。しかも実験は過去の一部でしかない。即ち通信教育とか情報環境の進展で、論理的思考に関する自習の幅が広がっていっている現今以後の状況に、そのまま当てはまるとは限らない。

 これらのことを前置きに省みた上で(正直いって平均並以上の知性の持ち主なら一々いうまでもない話なので冗長だったと思うが)、もっと愚かしいのは、多様な事情がある不登校なり校外学習中の児童の例に、上述のIQと年収の疑似相関だの、一般例と個別例の混同だのを持ち出すのは論理のすり替えである。
 少なくとも文科省の方がこの点では良識的見解を出している。学校で虐め受けたり、通える範囲にある学校が合わなかったりするので、自宅なり図書館なり塾なり家庭教師などで勉学したいという生徒がいても何らおかしくないどころか、元々教育はそうだったのである。集団教育の方が不自然で新参者なのだ。よって教育論の面からも学校有利論には疑問符がつくが、概要をいうと、孔子やプラトン、ピタゴラス、釈迦(ゴータマ)に就いて学ぶみたいな私塾の形が学校の原型だったわけだが、ユークリッドみたいに塾に通っていたか不明な学者もいたし、ダーウィンやメンデルのよう学校の外で研究していた人もいる。
 就職手形を得る為に子供を通わせるとか自分で通うみたいな、学問が世俗化していない学校なら、多かれ少なかれ共通の学究目的をもつ学友がみいだせるだろうし、進学校みたいに自分のIQに近い集団ならより精神年齢として気の合う友達が見つけ易い等はありうるが、これらは学問の必要条件ではない。また、高価な大型の実験装置とか、入手困難な稀覯本(キコウボン)とか、公共図書館に置いていない専門誌とか論文とかが大学など研究室や特定の図書室・館をもつ場にはあるので(或いは学内閲覧に便宜が図られている)、学問の種類によっては学校で学んだ方が有利という場合もあるだろう。だがこれも絶対的に必要とは限らない。
 学友面で高いIQ(要は普段から大人の間にいても子供はIQが同世代平均より一般にあがるだろうし、つきあう相手の精神年齢の高さだろうが)の友達が、色々な面で有利と某氏はいう。これも既成事実の後追いだし、人生を過度に一般化しすぎている。例えば子供の気持ちがわかった方が保育士やり易いだろう。
 純粋に倫理面だけでみて、低IQ集団で生きて死んだ、小学校も出ていない幸福な人は、某氏からすると一般論の問題外になってしまうわけだが、この人へも一律に「学校に通った方が良い」といえるだろうか? この場合、具体的には近代文明の外で生きている部族社会も容れてだが。笑い話ではなく。我々の現代文明とやらで、最たる苦痛なく、幸福に生きて死んでいける人がどれだけいるだろう? 名門大学院から授与された博士号を持ち、就職先がない上に元々就職するつもりもなく、まあまあ若くして極貧の孤独の中で自殺した。その人が高IQだったから、高収入で有利で幸福だったといえるのだろうか?
 結局、この動画の某氏は、当人の人生を確証バイアスで正当化しているのではないかと、第三者として思う。動画中でもサンプル数1といってるがそれは貴方の歪んだ科学観ではありませんか? としか言いえない。色々な人生があっていいのだし、低IQほど貧乏とは限らないし、高学歴が幸福とも限らない。

 現代文明の中で、伊藤博文が国民皆兵式の臣民化を目的に無理やりドイツからもちこんだ軍隊教育の生き残りバージョンに、どんな不条理にも耐え通い詰めるなんてよほどの自虐快楽主義者でなければ無理だと思う。合わなければいかなければいい、でおわりである。ゆたぼんについても同じだ。
 他山の石として、心理学みたいに実証性の点でも、そもそもの命題の立て方でも怪しい面が甚だ多くある科学なら、科学一般にまさって尚更疑わしいものであり、そこで行われる抽象的な一般化にも、往々にして論理的にも倫理的にもそれ以外でも無数の穴がみつかるのだから、科学信仰は恥ずべき愚行だ。

 学校の語源は英語school、ラテン語scholaを通じて古代ギリシア語σχολή(scholē)で、「暇(ひま)」を意味する。要は奴隷が労働していたのでひまをもてあましていた市民が、ひまだから通う場所としての意味をもたされた言葉で、今ならカルチャースクール教養講座みたいな感じなのが本来の学校なのだ。
 吉田松陰の私塾に通い、後に反政府テロ活動で松陰が死刑になったころ唱えていた中華皇帝と自然権をドッキングさせた様な改造国体論である一君万民論を学んだ伊藤は、国民全員を義務教育という枠組みで臣民化、今で言えば社畜化し、天皇の奴隷にしたてあげようとした。つまり全く目的が歪んでいる。
 日本の学校はその様に、或る種の妄想激しい一人の山口県出の無頼の徒によって、愚民統制の悪意で歪んだ接ぎ木をされた、天皇に侍る文科(旧文部)官僚が操作する納税奴隷生産装置なのが150年前(悪名高い明治維新)からの実態なので、今もロボット生産を繰り返してるだけで生徒の幸福など頭にもない。

 欧米圏の学校の起源は主に2つに遡れ、1つは上述の暇をもてあました自由市民(要は貴族)の子弟の集まりで、もう1つは修道院であろう。後者は神学部を起源にしている大学がそれにあたり、日本でいうなら寺子屋とか寺院の延長にある仏教系とか、移入されたキリスト教系の大学みたいなものだ。中世に「哲学は神学のはしため」といわれていたよう、キリスト教神学まじりのスコラ学(日本なら国学みたいな、或る形而上学中心の知識体系)が学界を支配、後者が前者を包含していたといっていいだろう。で、ケプラー、ニュートンやライプニッツ辺りから自然哲学が再興されると近代科学が前衛になる。
 つまり欧米の学界はこうして暇な市民による雑談を起源にしている哲学の学校(日本でいうなら井戸端会議とか村寄合みたいなもんだ)、修道院、そしてこれらが自然哲学(のち日本語訳で科学と呼ばれる代物)の進展と共に、いわゆる大学院から小学校まで学習進度ある学校に包含されたという流れがあった。

 では日本の学校制度がどうなっているかというと、明治政府という急拵えの暴力団体を率いた西日本の果ての一部の田舎者ら(いわゆる元勲です)が、この近代科学の発展中だった欧米の近世型学校を、1年位短期留学し表面だけ猿真似した。これで大変な混乱と、根本の歪みが今に至るまで残っている。
 日本の学校は元々どうなっていたか。一番古くて平安期頃(諸説あり)の足利学校がザビエルによる記述に残っている。これもだが寺子屋の色彩で、仏教を基本に儒学(及び老荘の様な中国思想とか漢詩)、国学などが学習科目だったと。豪農とか公家・武家の暇な子供が僧門の手習いに通っていたのだろう。つまり勉強に向いてない子供なんて最初から読み書きそろばんもそこそこに、農作業だの職人仕事だの商売の手伝いしなきゃならなかったわけだから、大してやらなくて済んだ。当時の方がある意味では全体主義的一律の同調圧力で義務教育に通わないと私刑みたいなどうしようもない衆愚界じゃなかったのだ。脳的にいうと多重知能をそのまま生かしていたわけで、確かに身分制という世襲で職業を継ぐのが原則という枠組みは江戸時代頃には流行っていたけれども、これも明治政府が貶めたくて嘘ついてたほど厳格なものではなかったのがわかっているわけで、戦国期は無論、向いてる職業に転職していたのだ。
 日本人は中世以来、ずっと普通に出家もできればもののふが名乗りあげるのもできたわけで意志と実力次第だったのであって、江戸時代に士農工商ができたというのは実は安定した平和な時代だったので、世襲が多い様にみえていただけであろう。町人間で職業選択もあったし、町人から武士にも学問でなれた。で、ここで出てきたよう寺子屋とか藩校とかで優秀な成績示した場合、藩というか諸大名が彼らを御用学者として使うばかりか武士と同格の禄を与えていたりしたわけです。廃刀令はまだなかったので、屈強な町人の郷士もですが、しばしば廃刀もしていたと。そしてここに上記の明治学校が無理に移植された。
 明治期の旧帝大はガバガバ入試で、そもそも国民は大学が何かすら定かでなかったから庄屋の息子だった漱石はカンニングで東大入学してるし(自分で書いてた)、まだ比較的裕福な家が時代に洞察力を持ってた場合、世間は江戸の延長で世襲してるなか多数派同調圧力に逆らって大学に通わせていたのである。私の祖父母はそういう人らだったらしく、磐城や岩手の田舎から早稲田大学だの日本女子大学だのに通い出した。明治大正くらいだったろうが、当時の国民9割にあたる農民ら一般は大学行くなんて仕事もしない役立たずの道楽者と感じていたろうし(当時の高等遊民への扱いをご覧なさい)、尊敬するどころか今でいう放送大学扱いくらい小馬鹿にしていた筈だ。
 こうして明治のはじめこそ、知識欲があるとか、学力が周りより高い(俗的にいえば頭がいい)のが明らかな子供を、農民で終わらせるのは勿体ないとおもって大学まで行かせようと、親が頑張って貯めた金を都市部の下宿先へ仕送りしてあげていたわけである。そして昭和敗戦となり、戦後、国は商業化する。明治~昭和中期頃までは工業化時代だったから工場労働者とかエネルギー関係の坑夫とか、いわゆる工人が多かった。私の祖父も父も職業選択時に公務員を択んだので大勢とは違ったが、この国民の9割にあたる人々は昭和後期から平成になると高給めあてにだろう、商人になるのを択んでいった。
「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と植木等が歌い、戦後復興の高度成長期はどこかの会社員になりさえすれば、右肩上がりの昇給が終身雇用制で事実上確保されていた様なものだった。そして一億総中流と呼ばれる社会状況がきたが、学校制度はこの背後で、明治期軍隊教育のままだったわけですね。
 伊藤は英仏留学組を退け、自分が留学したドイツの教育を、当時皇帝の元の軍隊式だったので日帝民度にあっているといい、松陰の一君万民イデオロギーもあるだろうが模倣先にした。それでああいう詔勅捧呈みたく御真影(戦後は国旗)へ万歳三唱、体育会系教師の体罰礼賛みたいな全体主義文化なのだ。敗戦時にGHQから影響された点はあるだろうが(大江健三郎曰く、軍国全体教育していた教師が一夜に豹変して平和民主主義を唱えだした)、根本的な接ぎ木の部分である科学教育の表面的な官学風権威づけという欠点も何ら修正されなかった。もっと基底にある哲学や神学、仏教漢学国学は軽視されたままだ。
 それで戦後は憲法前文の国際的名声イデオロギーだろうが、極端なノーベル賞崇拝報道になり(最悪の場合、中華思想の関西人による事実に反する日本人種差別が入る。事実上の受賞者は国内地域の人口比でほぼランダム出生してるのだが)、PISAや世界大学ランク偏執狂になり、挙句が今回の科学信仰になる。

 じゃあ日本の(文科省が音頭をとって操作する)現教育制度がそういう順番で、継ぎ接(は)ぎだらけでできている相当時代遅れ且つ奇形なものとして、その中で勉強しなければならないんですか? といえば、全然そんなことないだろう。上記の流れみても一目瞭然で、学歴差別を後光に金儲けとか本当に悪質だ。
 勿論、その種の肩書の効用に与って無知な人々に万能人ぶってカネと名声を頂戴する学歴詐欺師が有害だということは、漱石が明治期、既に「現今の博士制度は害が大きい」等と文部省の呼び出しでの東大文学博士授与を固辞してたのからも明白である。その種の蛮行は却って長期的に学校の信用度を落とす。もっというと、勲章を肩から下げた猿が馬乗り合戦してるにすぎない官学界は、福沢諭吉が『福翁自伝』の豆腐屋と学者を比べる下りなんかにも書いてたが、児戯に値するといってもいいし、ニュートン・ライプニッツ論争に一つの起源がある先取権合戦も剽窃問題と或る意味相似、名誉目的の低次元なものだ。
 学問の本質は真理の探求、そこに名誉などなんの関係もない。この意味で現今の科学界の慣行になっている引用元の明示という形式も、単なる追跡可能性だけでなく、本質的に先取権馬乗りによる科学者らの権威づけとして発生している世俗的部分を含んでいる。後者主導なのが日本的科学教育の浅はかさだ。或る日本人在野学者が自分の成果にただ乗りされ一円も還元されないのを憂いて恫喝混じりの訴訟をちらつかせていた。「述べて作らず」といっていた孔子がみたら、小人と一喝していたのではないだろうか。だがその種の学問の世俗化は、文科省自身が主導している。国際的名声や技革金儲けの手段にしているのだ。
 孔子はまた「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」(要は純粋な真理探求を目的にした哲学と、名声や金欲しさにやっている有名科学者ぶりとか学歴役者ごっこは違う)「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(色んな解釈はあるが彼が探求していた最高善の認知的目的性だろう)ともいっていた。さらに「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人の知らざるを憂う」(自分の無名より、重要な人を知らない不学さを恥じよ)といっていた。これらで文科省による名声や金目的での、科学による効用追求が批判されているといっても過言ではない。特に安倍政権の文系切り捨ては彼が俗物なのを示している。

 上記の全てをまとめると、科学教育は必須でない。且つ日本の現教育体制でそうな論文引用主義による国際的名声の獲得競争は、学問自体(真理探求)と本質でなんの関係もない。引用数が幾ら多くてもその内容が偽と将来示されることもあるだろうし、論文全体に占めるその割合や抜本性も定かではない。だから当然のことながら、単なる学問単体でみても、学校教育が誰もに有利な証拠はない。寧ろ歴史的も将来的にもそうだろう。IQなど対年齢比の偏差値なのだから、学問しない高IQの人より、着実に学んでいく低IQの方が高い学業上の成果を示すだろうし、商売でも同じだろう。
 校外でもずっと勉強していればIQが高くなるだろうし、精神年齢の高い友人を得られることもある。校内でも怠けていたり授業についていけなかったらIQが高くなりもしないだろうし、精神年齢が低い友人がついたりもするだろう。上記の様、ここにあるのは或る標本にまつわる擬似相関なのである。IQ自体が万能の知能といえないのはいうまでもない。それは商売単体でみてもIQが世界一高い部類の人達が一様に億万長者になっているわけでもなければ、そもそも商業に於ける成功度が対法定通貨の資産量だけかも疑問だ(或る小商いの方が或る種の社会貢献度が高いとか)。成功の定義自体が多様なのだ。