人間界は動物界の延長上にあって、性欲、食欲、睡眠欲などを基礎にしている。そしてこれら、特に性欲を体よく満たすのを、親含め社会は一般に抑圧し、より利他的で、より非本能的・理性的な昇華に向かわせようとする。
なぜそうなっているかなら、過去の時代でこれら本能を放置していた状態は、人類として必ずしも居心地がよいものではなかったのかもしれない。もし現代人が類人猿や猿の段階に返れても、理性があるので厳密には返り得ないのではないか。
ここで「理性」は、人類にとって文明的な社会適応性とほぼ同義になる。例えば地位の高い人が、性的に乱れた何らかの倫理的な意味で不埒な暮らしをしていると分かった時点で、その人へ失墜の可能性が出てくる。この本能の否定傾向は、地位が高いほどより理性的な振る舞いを期待されていると示している。
ではこの理性の最上の段階はどこにあるかなら、これまで知られている範囲では、内面的には、定言命法とカントによって定義された純粋に利他的で無私の自己犠牲を当然と考える立場、そして外交的には、慈悲と呼ばれる釈迦(仏陀、ゴータマ)が全生命の幸を願い、苦痛を最小化させようとする立場だろう。
理性と似た言葉として、知性がある。また哲学用語としては、英語understandingやドイツ語Verstandの訳語として悟性という別の意味をもつ言葉も使われる。これらは哲学者らにより色々な定義をされているが、総じて、脳の新皮質側の働きだといっていいだろう。本能を司る旧皮質を覆う様にできた新皮質は、過去の類人猿またはサルの時代に本能を中心に行動していた我々にとって、社会行動の適応性として現れ発達した部位なのだと思う。そしてそこが働いて、我々の理性的な意識が生まれ、通俗的にはその一部を知性とか、別の言葉で悟性などと呼んでいるのだろう。
理性は実際には、高度に利他的な適応の領域と思われる。今日では資本主義経済が進展し、他人を金儲け、より即物的には己の快楽のため道具化する新手の利己性にもこの領域が使われるが、実際に老年で本能が衰えたり、用途がないほど金持ちになると彼らは尊敬を得られなかったと悟り、利他性を学びだす。
文明社会は、その時点の人類にしりうるかぎり最も利他的な協調体制として生まれているもので、各自の本能という利己性はそこでは商品経済に回収され、或る意味で市場参加者らは遠回りしているともいえる。生存に必要な物資や、配偶者はどんな原始的状況でも質あれ、生存者らに手に入っていたのだから。
なぜ資本主義経済下で、生存に必要な物資や配偶者すら容易に手に入らないかなら、そこでは価値交換の体系になんらかの相利行動で参加しなければいけないからだ。殆どの市場参加者らは、マルクスのいう搾取される労働者としてそうする。そして十分な「市場価値」をもたなければ、繁殖すらできない。
イギリスの福祉国家時代、生活保護者らは繁殖可能だった。そしてこれをサッチャーが貧乏人優遇だと切り捨てたことで新自由主義時代が幕開け、日本にきた余波は非正規雇用者という事実上の奴隷階級を量産させた。更に労働者一般を低賃金で社畜化する経営資本主義も正当化され、少子化が決定的になった。
金払いで受けられるサービスを区別される格差社会の頂点には成金らが鎮座し、マスメディアやSNSで浪費自慢に耽った。彼らは俗語でセレブ(celebrity、名士の俗語化)と呼ばれ、金で買える地位財を貧民全体へ羨望させる目的で顕示的に消費した。
彼らが理性的だったといえるか? 利他的だったと?
ケインズの考えに戻れば、彼らは時代の徒花と思う。彼らはより上流階級をまね、奢侈品の支出、獲得に費用がかかる過度で豪壮な肩書で庶民との違いを強調するが、本質的には金利生活者(つまり投資家)と同じで、庶民が将来獲得できる文化的支出の目安になる生活を先に消費しているだけだろう。
上品さは欲望充足の直接・効率性の否定と永井俊哉氏がいうよう、もともと文明の中でその種の上流気取りの顕示的消費に繋がる贅沢部分は、本能を婉曲的に否定する両義性をもつ。それを永井氏は「文化」といっているが、つまり仏教の反出生主義などがその極点にあるのだ。
別の言い方をすれば、上述の内面的な自己犠牲、外交的な慈悲の実践が、穿った見方をすれば究極的な俗物根性であり、同時に、我々が聖人と呼んでいる道徳的な模範でもある。本能を理性によって否定すること。その人類の大脳にしか十分なし得ない行動が、文化を通じ上品さを作り上げ、人々を教化する。
私はこの様な文明のしくみを、18歳のころ友達と直感的な言葉でしばしば議論してはいたが、これまではっきり理論化できなかったのだが、こうしてより言語で分かってみると、文明は或る種の協力関係でありながら、その中で本能を裏に隠し騙し合いをしているサルの進化版による演劇なのだと認識できる。
我々が完全に利他的な人格に自らを躾けられれば、聖人として本能による繁殖も否定するだろう。そして利益追求は無論行わず、抜苦与楽の中で、自分は或る種の禁欲状態で中庸の自己否定を図るだろう。だから成金らは或る意味では俄仕込みの上流模倣をしているが、究極の文明人にはなりきれていない。例えば親鸞は釈迦に比べ上品さを堕落させた。元々、坊主の模範が開祖の釈迦なのだから、悪人正機説で妻帯を認めた親鸞は教義の一部を通俗化したと評する他ない。釈迦が悟ってからの哲学は性の否定であり、繁殖せず慈悲深い利他行動の中で乞食しながら、やがて自然死することだった。
今日の聖人も又、生活最小主義者(生活ミニマリスト)を超え、一乞食として反出生主義を主張していた哲学的詩人の釈迦を模範にすべきだろう。上品さが資本主義経済下でどう定義されるかなら、欲望開発や利益追求のできるだけ婉曲的な否定になるだろうからだ。いわゆるジム・マクギアン(Jim McGuigan)のいうクール資本主義に一部相似する。彼のいうクール資本主義は、彼による同名の著書内で「不満を資本主義自体に統合すること」と定義されているが、要するに上述の理論でいう上品さによる資本主義の婉曲的否定を指している。ここにあるのは或る種の加速主義で、資本主義の諸矛盾を商品経済に載せ内部的に否定する態度だ。
わかりやすくいうと、金儲けしながら金儲けになんの興味もない、商売しながら商売になんの興味もないといった離反的態度で、資本主義の制度を使いながらその様々な欠点を冷淡(クール)に否定して扱う考え方を指すのだが、これは直接的な制度の否定である共産主義より、回りくどく複雑な抵抗になる。
もともと資本主義は、アダムスミス『国富論』での自由放任論を担保に、大航海時代の高リスクな冒険事業への有限責任な出資方式や、植民地含む工場労働者の搾取として発展したと解釈できるが、完全競争下での需給一致を目的とする。クール資本主義はこの意味で、寧ろ資本主義の目的を再起動するだろう。
既存の資本主義は市場の需給が不一致でありながら、貧民を窮乏させたり、金持ちが余剰資金を単なる貯金に回し使用しなかったり、明らかな不均衡がみられた。ケインズの修正資本主義は公共事業でこれを一部改善させ、ウェッブ夫妻らの民社主義は(ベルンシュタインの社民主義を含み)福祉国家を作った。しかし貧富の格差が拡大する新自由主義の潮流下にある現日本では特に世代間格差が激しくなり、公共事業を興しても景気が回復せず、社会保障費を支出しても医療年金に吸い込まれ、既存の資本主義は十分に機能していない。欲しい物や奉仕が欲しい人に手に入らない経済は、市場自体が失敗しているのだ。
金をよこせといっても老人らは自身の不安解消のため仕舞い込み、公権力などの暴力を使って反逆するし、そもそも国内全資産の84%超をもつ50歳以上の高齢者ら(2014年4月15日、モーサテ)は貯金目的で消費しないのだから市場に出回る金は僅少だ。生存費すら手に入らない状況で消費など不可能である。だからそこでできるのは、直接的な外貨獲得や国外脱出かもしれないが、それすら能わなければ、遠回しにこのお粗末な国内の老人貪り状況(君子三戒を破る小人社会)を否定する冷静資本主義の態度でしかない。それが具体的に現れたのが嫌儲や低消費適応の生活最小主義(生活ミニマリズム)だったのだろう。
生活最小主義ははじめ、こうして主に老人の貪りにより市中に金が回らない低消費社会に順応して出てきた長期デフレ(潜行スタフレ、忍び寄るスタグフレーション)下での、状況的加速主義だったのだろう。がゆとり世代後期になるに連れ少子化が進展、団塊引退が重なり就職率が表面的に改善されると子供は再び資本主義を欣慕しだした。
自分の見ていた限り、ヒカキンなる経費で節税兼ね成金自慢する子供向け娯楽動画ユーチューバーの甚大な影響があった。ゆとり後期以降の子供は彼を模範と考え、新成金的浪費暮らしを目指しますます手軽な金儲けや、派生的に東京での「下品な(欲望充足に直接的な)」退廃生活に憧れる様になっていった。つまり、主に就職氷河期世代以後、第二次安倍政権が猛威を振るうゆとり中期世代までは一般に、状況的な生活最小主義者にならざるをえなかった人々がいたが、ゆとり後期以後は逆に新成金的な下品さに憧れ、模倣する様になってきている人々がいるのだと思う。だが経済状況は同じなのだから、この幼稚な羨望はほぼ挫折するのだが。
このゆとり後期以後に見られる新成金志向(だが現実には単なる正社員志望)は文明の退化か? 今後彼らの動向を眺めるしかない。社会学的に分析できたのは上記の流れで、私は経済状況が最悪級の日本は、却って聖人以上の人品を必然で生み出すのに有利だといいたいのだ。私自身もその一員になりたい。