2019年9月8日

マクロ経済学上の中規模所得調整説

税の本質的な意味は、自由放任市場で競争させていると、非生産的に流通差額を搾取する一部の商人が無限に蓄財し、貧者を助けもせず浪費に回してしまう。したがって弱肉強食に陥らない様、或いはより生産的な社会にする為に、累進課税制が必要だ。商業はすべての職業に公平な競争環境ではないのである。
 この「生産」という言葉は多義語で、最近ツイッター上で「生産性で人の価値を図るな」云々と避難する文言が流布されている。なぜこの様な上記の文脈と別の意味が生じるかなら、経済学用語としての生産性は文字通りの意味でなく、三面等価原則で企業の利益総額(ほぼGDP)と一致させられているからだ。
 私は経済学用語としての「生産性」は、厳密には農工業での消費できる物質生産(収穫含む)と分けて考えられるので、所得性、付加価値性(販売性、加工性に分類できる)におきかえ、細分化できると主張する。また非商業的な生産物だけを取り出して純粋生産性と定義すれば、より誤解が少ないと考える。
参考:「経済学での生産性を再定義し直す必要」
いいかえると、ツイッター上で一部の人々が「生産性」を人間的価値を測る尺度になりえないと主張している時、この意味は、上述の定義では所得性である。より通俗的にいえば金儲けの顕在的な能力値だ。彼らは経済学用語を理解せず使い、かつ文字面で意味を捉え、子の出産性と誤解している節もある。

 他方、ここでいう純粋生産性(農工業でいう食べ物や道具を作り出す能力。広義で芸術品も含む)、或いは所得性、付加価値性(販売性、加工性)をもっていないか、その顕在的能力値が低い人の生存価値が低いかなら、必ずしもそうはいえないだろう。金銭は万能の価値尺度ではなく、非地位財すら測れない。
 つまりそれらツイッター民が生産性で生存価値が測れないと主張するのは、より厳密には純粋生産性、所得性、販売性、加工性などの経済能力の顕在的能力値は、必ずしも或いは一般に或る人生の価値尺度ではないとの資本主義経済批判であり、これは素朴にも、価値倫理学的にみても、一理あるといえる。

 税の今日的意義が上述の所得調整(伝統的にはアリストテレスの調整(矯正)的正義とほぼ同趣旨)なら、私が商業を非生産的と述べた本質的意味も明らかになるであろう。すなわちそこでいう非生産性とは、所得性、販売性、加工性などの方が、なんらかの訳で純粋生産性より商業的に有利になる性質を指す。
 累進課税制のマクロ経済理論的な合理性はここに論証された。それは経済活動全体の内、特定の要素が場の状況下で有利になりすぎているとき、生産・流通・消費のいずれかの滞りに繋がりうる為、それらの要素間で中程度に所得調整する必要があるからなのだ。さも植生の多様性に於ける中規模撹乱説の様に。