なぜ公務員や皇族がのさばる必要があるか。それは「壟断」の逸話から続く、生産せず流通差額を占める商人の蓄財が原因だ。商人が付加価値と呼ぶ流通差額の搾取で蓄財すればするほど生産者(農民・工人)は貧しくなる。だがより非生産的になった商業地で起きるのは浪費による退廃である。こうして役人(事実上、或る地域で最大の暴力団を指す)が出現し、彼らは暴力を担保に徴税を図る。調度、祭りの出店で場所代をとるヤクザと同じだ。この総元締めになってきたのが日本では飛鳥時代以来、天皇家だった。
米軍らGHQによる主権在民の導入で福祉的な税の調整が図られる様になったが、元は単なる暴力で暮らす天皇家や彼らに侍る暴力団らの物資収奪だった。17条憲法の様な欽定憲法も、根本的にはこの天皇家による収奪体制を確立する目的のものだった。
現憲法は仏米で共和政が樹立され、宗教権力者(西洋でいう教皇)や世俗的権力者(王や諸侯)が皇族や華族の様に、税収奪を図れなくなる、国民中心な福祉国家の仕組みを導入したものだ。そこではじめて、税は公共一般のものになる。だが終ぞ不学な自民党員一般はこれを理解できなかった。自民党員らはやがて皇族の縁戚者で固めた薩長藩閥で世襲政を復権させ始めた。そして旧体制の税収奪意識へ先祖返りし、皇族と共に贅沢三昧に驕り、浮浪者はじめ貧者を貪り始めた。国民一般は自民党員らより更に不学で、彼らの退行を後押ししながら、弱肉強食を自己責任といいかえ中世風に礼賛し始めた。
現時点の世界で最も公知公徳面で平均的に優れた文化集団は、北欧圏の人々だろう。彼らは税を公共福祉の為のものと共通認識し、自ら高い税を払いながら、より恵まれない人達を中心に互いに助け合おうとする。彼らも王室は名目的に維持しているが、政教一致(祭政一致)ではない。また新自由主義に呑まれ自己責任論にかぶれてもいない。
日本国民一般が彼らに学ぶべきなのはこの点である。