2019年9月10日

科学・芸術・哲学が分担する知能の別について

科学と呼ばれる、細かい(個別的)か型にはまった(定型的な)分析領域の純粋に学術的な目的は、思考の道具になるだけだろう。私は真理を目的と考える純粋科学者の様な信仰とか、数学を科学の道具以上に万能と思う様な、理科の専門教育を受けた人達に特に後引く傾向のある考え方を、非哲学的とみなす。

 数学が役立つ領域は、殆どが自然の抽象的認識の様に単純な対象だけだ。心理分析に統計を応用している場合の結果に信憑性が低いのは経験的にもわかる(人の心は往々にして、心理学の理論通りにならない)。アリストテレスがいうよう元々、分析対象が複雑なほど、数理科学的な厳密性は役立たなくなる。これゆえ、我々が理系馬鹿と呼びたくなる様な、日常や人間心理に疎い人物とか、或いは理科なり自然・社会科学なり、何らかの数学分野の高い学位を誇っている人物が、倫理面、人格面で大変劣っている場面を頻繁に目撃するのは、そもそも数学や理科、或いは今日の社会科学は、人間性と無関係だからだ。
 社会学者とか、政治学者という肩書の目立つ御用学者を主に東京圏の通俗的メディアで頻繁に目にする。彼らの習得済みの知識体系を客観視すると、有体の受験を経由している時は文科省指定科目の一定部分を修得してはいるが、それ以外の時を含め、当然ながら修士から博士の短い期間に万学を修められない。つまり、彼ら社会学者(広義で政治学者を含む)は、自身が専攻し論文執筆時に必要になった専門知を除けば、なんら知識をもっていない可能性が十二分にある。そして後光効果で、彼らの特定学位が万能の一般的知恵の証だと考えている人々は、この恐るべき落差部分、特に人間性の無審査に無知なのである。
 もし既存の官学(政府公認済み学校の履修課程)を修めた証が、IQの社会証明になると大雑把に考えている人の場合、学問分野毎、或いは学校間で修得内容に大幅な開きがあったり、そもそも勉強や年齢差その他、学習環境の要素を含めると、個人にあてはめる際、学位は厳密性に欠けたIQ指標にしかならない。個別事例なら指摘するまでもなく明らかな様、特異に極IQが高い人が決して一流の理論物理学者にばかりなるわけではないし、企業・政府での統治とか起業・経営自体をみても、単なるIQが成功と比例するわけではないだろう。そこに一定の正相関があっても、結局は当人と同年代を比べた相対値でしかない。
 この世にはIQが低い方が有利な仕事もある。例えば保育士、小学校教員、子供向けユーチューバー、アイドル、或る種の男娼酌婦(今日ならホスト、キャバクラ嬢など呼ばれる)など。そういう職業の人々は或る点で年齢に比べ、思考が幼稚な方がより年下の気持ちに近かったり、同情や愛玩的興趣を買ったりするかもしれない。

 詩は最も伝統的な芸術の一つだ。人を感動させる表現が巧くできる人は、感情知能が高いのである。そして科学教育でこの領域は殆ど育てられない。文芸研究や芸術学(技の実践ではなく、批評含む芸術史学、美学等)は、感性(感覚)・感情を扱うが、この知能は自然・社会科学一般の修得領域ではない。
 そして哲学、特に形而上学(後自然学、metaphysics)と呼ばれる、全科学や芸術の後にくる総合的な思考でこそ、単なる物質(脳含む)や心理の働きを超え、倫理(道徳)と信仰を扱える。カント曰く哲学は学べない。思想史は学べても、精々、哲学すること(知恵を友愛すること)を学べるだけという。哲学は「学」の部類と西周により訳されているが、実際にはphilosophy(古代ギリシア語のφίλος(philos 友→φιλεῖν philein 友愛)+σοφία(sophia 知恵)の英語化)が原義で、カント説を考慮すると、要は独考・対話・会話・議論などを含む思索活動の全般を指す。その跡を学ぶのは思想史学といえる。
 然るに、自然や社会は物質的・現象的(かたちに現れていること)な外部にある対象だが、信仰含む倫理は、単なる人の考えだ。つまりかたちを持っていない。形而上とは形の上にある、形がないという意味の漢語(『易経』より)なので、福沢諭吉はより日本語としてわかり易く「無形」といっていた。つまり、哲学が扱える対象は、単なる物質とその現象を含む全科学と、形に現れた芸術(広義で全人工物)を含み、更にそれらを超えた無形の考え、即ち倫理ということになる。この点について大抵の国内科学者は古典に遡って学んでいないし、まともに教えてくれる教師も少なく、一般に無知なのである。
 東北大の工学部を出て、科学主義に陥って実証科学を信仰の代わりにし、哲学は馬鹿がやることだと繰り返し侮辱していた兵庫県加古川市出身の或る浅学の徒は、広範な倫理学には無論、芸術についても詳しくなかったが、この人物はその種の学問全体の構図を知らないままで歳をとってしまったのである。

 社会学者(心理学者や、広義でメンタリストと名乗る占い師やパフォーマーもどきの人々も含む)と称する人々の一部は、複雑な対象を扱う学問の慣行または元の限界で、余り厳密な実証性が要求されないのをいいことに、しばしば学位・学閥の後光に与って万能の知性を気取る場面が散見される。だが上述した様、元々科学的手法に留まる限り、その考察は既存の物質現象への有形(形而下)のものにすぎない。だから我々は或る社会学者の倫理観が甚だ狂っていたり、それどころか純粋科学の目からみて論旨が疎かすぎても、彼らの専門知の範囲で、これら哲学や実証科学の熟達は期待できないのである。

 ソーカル事件は冗談でポストモダン思想誌の衒学ゲンガクを暴いた。だが特定領域の科学者が、その専門知が一般に隙間なのをいいことに自らの権威づけに乱用し、意図的に(大体は知性派ぶる悪意で)他者を騙す理系俗物として振る舞う場面もある。似た俗物主義は学閥社会で大学名や肩書をあげ主張される。当事件で暴かれたのは文系俗物が、偽の権威づけに自然科学や数学の専門用語を乱用する傾向だったが、これら、有形・無形いずれの知識についても異なる理解が必要な分野で、又は一般論の時、別領域の専門知を衒学に用いるのは、明らかに修辞や洒落とわかる文脈を除けば、新種の詭弁に他ならない。

 最後にこの小文をまとめ論旨を大別すると、伝統的な言い方にすれば、学術にまつわる知能はおおよそ3領域に分けられる。即ち真・善・美。そして特に科学は真を、哲学は善を、芸術は美を扱う。しかも科学の中でも単純な対象のとき厳密な実証性が期待できるが、複雑な対象のとき抽象性しか期待できない。