2019年9月12日

人為と自然は二項対立ではない

人は、死後には日記の中にしかいない。だから自分を知らないままで産まれ生き死んでいく殆どの人々にとって、自分の命のほぼ全ては、なんらかの模倣子(ミーム)である。
 絵を描くのは根気も時間もいるが、見る人には一瞬である。そこには命の(故に模倣子)伝達の単位時間あたりの結晶がある。

 モンドリアンが最晩年に『ブロードウェイ・ブギウギ』を描いたとき、彼が生涯をかけ温めた思想の中で、近代文明やそれが形成していく大都市は理想化されていた。私はこの絵を15、6才のころ眺め、(リヒターと同じで)好感を覚えた。当時は言語化できなかったが、あとから思えばそれは現実の大都市の退廃と無関係な、彼の或る楽観だからだった。
 我々はモンドリアンの一生涯を、そこにあった色々な体験の質感を実際には想像以外で何も知らないが、MOMAに掲げられたその一枚の絵で、ある模倣子を通じ、彼の命と交流する。だからAIに芸術が作れるといっている人々は、寧ろそのAI自身を除けば、AIを作った人としか交流できない。
 人為と自然は二項対立で捉えられるわけではない。この点で、モンドリアンは彼の西洋的な近代理性の枠組みを超えられなかった。
 人は巨視的に自然の一部だし、脳も自然にできて動く。現実には、数学的イデアの中にしかない直線や直角といった視覚要素は、自然全体が孕むエントロピー増大の一側面だ。