某ユーチューバーが「校外学習より通学でIQが上がるし、IQ上昇は収入があがり老けづらく基本的に得な効用ゆえに、学校に通ったほうがいいのが科学だ」とのたまわっていた。この意見には完全に科学からみても複数の問題点があるが、哲学的にみたら色々もっと酷いとおもった。
まず心理学を科学と称するのは相当に疑わしい。そこで行われている実証実験もどきは、標本のとり方がその大学の学生数十人とか、特定の国の特定の数千人とかで疑わしかったりするし、彼が信憑性の根拠にしているメタ分析も複数論文で共通し言及されている点があるだけで真理を保証するものではない。
そしてより根本的にいうと、科学的態度とは既成の事実や見解に、より正しい真理に接近するため方法的懐疑を維持することをさす。潮流(パラダイム)論なら天動説から地動説へ大きな転換があった前の科学(科学はscienceの訳語でラテン語scientia「知」「知ること」「知識」の英語化名詞)は覆った。
つまり当人物は、或る学者が査読誌にのせた論文を一定の真理を語っているものと、特にランダム化比較実験間の系統的レビュー済み(メタ分析)の論文について語るのだが、実は懐疑的に語らないといけない。心理学みたく実証性が統計の真偽性など含め有意差でしかないなら尚更だ。
別に私はその人個人を責めているとかではなくて、科学なるものが人類史に出現してきた歴史的経緯から、それを永遠に信仰しえないと知っているだけのことである。
科学の母体は哲学、特に自然哲学だったが、日本語訳語では学がついてて紛らわしいが哲学(philosophy)は本質的に「知恵の友愛」を意味していて字義通り、道徳など各知識を背景にした信仰に類したものを含め広義の知的活動全般をさす。科学(いわゆる知識)は哲学の一部を構成する要素でしかない。
で、心理学なるものは、全科学の内でも最も実証化が遅くなるだろう複雑な対象、即ち社会や人間を扱い、その中でもより複雑な心の動き(主には脳の活動の社会適応で現れている現象的側面)を扱っている。上述のよう人は科学へ懐疑的たるべき上に、心理実験なら余計、単純に真理とはいえないわけである。
学ぶのはよい。だが学んだ知識を、特に物理学ですらそうなのにもっと既成の見解から大幅に異なるより正しい見解が現れうる、複雑性の高い心理学の様な対象に関して、さも信じるに足る真理かの様、誤解を招く仕方で一般大衆に流布するのはどうか。科学者倫理面で公害度が高く、大いに問題があるだろう。例えば或る論文でAといわれたが別の論文で非Aといわれた、といった単純な矛盾の場合だけでなく、ある論文でBといわれていたが別の論文でBを部分的に含みつつ部分的に非Bを述べCといわれていた様な止揚的な場合とか、元々Dと言われていた見解がEで全く違った潮流になり全否定されるとか容易にある。そして系統的レビューでランダム化比較実験しようが観察研究しようが科学には将来どんな否定でもありうるという点は変わらない。もっというと、某氏には真理探求を志す純粋な科学精神が欠けているとしか思えない。それだけならまだいい。よくいる学問のスノッブだからだ。問題は哲学精神のなさの方だ。
例えば一般論として学校でIQテストと似た論理的作業をするからIQが上がる傾向になるのは、実験でも統計的にその様な結果がでてきても常識的かもしれない。だが校外学習や独学で、間接的にIQテストの訓練になっている類の論理的作業を校内でやるよりしていた場合など、個別で容易に反証例が見つかる。
他にIQと年収の相関云々は、労働者一般がシグナリングにより学歴で人事考査されていた場合を含めれば疑似相関にすぎないことになるだろう。一方、確かにIQ自体と商才に一定の相関がみいだせる可能性は全否定できないにせよ、バフェットがいう通り、億万長者らのIQが一様に特別高いとは思えないわけだ。平たくいうと、メンサ会員が全員億万長者になっているかといえばそうでないわけだから、IQは総じて、同年代に比べた主に論理的作業の単位時間あたり実行能力(異論はあるかもしれないが大雑把にコンピュータでいえばCPUみたいなものだろう)を意味するにすぎない。それを商売に使ってない場合がある。
同年代に比べてより進度の高い研究をするという、年齢に対する偏差値としての高IQが要求されるといえなくもない(厳密には独創性など含めれば高IQは必要条件ではない)理論物理学や数学研究に、或る人が脳の殆どを使っていたら、一般にどうみてもより低IQで商売熱心な人に劣る資産しか築けないだろう。
以上の反証をより抽象度の高い話に持ち上げると、某氏は動画中の言説で、一般例と個別例を取り違えているのが明らかである。しかも実験は過去の一部でしかない。即ち通信教育とか情報環境の進展で、論理的思考に関する自習の幅が広がっていっている現今以後の状況に、そのまま当てはまるとは限らない。
これらのことを前置きに省みた上で(正直いって平均並以上の知性の持ち主なら一々いうまでもない話なので冗長だったと思うが)、もっと愚かしいのは、多様な事情がある不登校なり校外学習中の児童の例に、上述のIQと年収の疑似相関だの、一般例と個別例の混同だのを持ち出すのは論理のすり替えである。
少なくとも文科省の方がこの点では良識的見解を出している。学校で虐め受けたり、通える範囲にある学校が合わなかったりするので、自宅なり図書館なり塾なり家庭教師などで勉学したいという生徒がいても何らおかしくないどころか、元々教育はそうだったのである。集団教育の方が不自然で新参者なのだ。よって教育論の面からも学校有利論には疑問符がつくが、概要をいうと、孔子やプラトン、ピタゴラス、釈迦(ゴータマ)に就いて学ぶみたいな私塾の形が学校の原型だったわけだが、ユークリッドみたいに塾に通っていたか不明な学者もいたし、ダーウィンやメンデルのよう学校の外で研究していた人もいる。
就職手形を得る為に子供を通わせるとか自分で通うみたいな、学問が世俗化していない学校なら、多かれ少なかれ共通の学究目的をもつ学友がみいだせるだろうし、進学校みたいに自分のIQに近い集団ならより精神年齢として気の合う友達が見つけ易い等はありうるが、これらは学問の必要条件ではない。また、高価な大型の実験装置とか、入手困難な稀覯本とか、公共図書館に置いていない専門誌とか論文とかが大学など研究室や特定の図書室・館をもつ場にはあるので(或いは学内閲覧に便宜が図られている)、学問の種類によっては学校で学んだ方が有利という場合もあるだろう。だがこれも絶対的に必要とは限らない。
学友面で高いIQ(要は普段から大人の間にいても子供はIQが同世代平均より一般にあがるだろうし、つきあう相手の精神年齢の高さだろうが)の友達が、色々な面で有利と某氏はいう。これも既成事実の後追いだし、人生を過度に一般化しすぎている。例えば子供の気持ちがわかった方が保育士やり易いだろう。
純粋に倫理面だけでみて、低IQ集団で生きて死んだ、小学校も出ていない幸福な人は、某氏からすると一般論の問題外になってしまうわけだが、この人へも一律に「学校に通った方が良い」といえるだろうか? この場合、具体的には近代文明の外で生きている部族社会も容れてだが。笑い話ではなく。我々の現代文明とやらで、最たる苦痛なく、幸福に生きて死んでいける人がどれだけいるだろう? 名門大学院から授与された博士号を持ち、就職先がない上に元々就職するつもりもなく、まあまあ若くして極貧の孤独の中で自殺した。その人が高IQだったから、高収入で有利で幸福だったといえるのだろうか?
結局、この動画の某氏は、当人の人生を確証バイアスで正当化しているのではないかと、第三者として思う。動画中でもサンプル数1といってるがそれは貴方の歪んだ科学観ではありませんか? としか言いえない。色々な人生があっていいのだし、低IQほど貧乏とは限らないし、高学歴が幸福とも限らない。
現代文明の中で、伊藤博文が国民皆兵式の臣民化を目的に無理やりドイツからもちこんだ軍隊教育の生き残りバージョンに、どんな不条理にも耐え通い詰めるなんてよほどの自虐快楽主義者でなければ無理だと思う。合わなければいかなければいい、でおわりである。ゆたぼんについても同じだ。
他山の石として、心理学みたいに実証性の点でも、そもそもの命題の立て方でも怪しい面が甚だ多くある科学なら、科学一般にまさって尚更疑わしいものであり、そこで行われる抽象的な一般化にも、往々にして論理的にも倫理的にもそれ以外でも無数の穴がみつかるのだから、科学信仰は恥ずべき愚行だ。
学校の語源は英語school、ラテン語scholaを通じて古代ギリシア語σχολή(scholē)で、「暇(ひま)」を意味する。要は奴隷が労働していたのでひまをもてあましていた市民が、ひまだから通う場所としての意味をもたされた言葉で、今ならカルチャースクール教養講座みたいな感じなのが本来の学校なのだ。
吉田松陰の私塾に通い、後に反政府テロ活動で松陰が死刑になったころ唱えていた中華皇帝と自然権をドッキングさせた様な改造国体論である一君万民論を学んだ伊藤は、国民全員を義務教育という枠組みで臣民化、今で言えば社畜化し、天皇の奴隷にしたてあげようとした。つまり全く目的が歪んでいる。
日本の学校はその様に、或る種の妄想激しい一人の山口県出の無頼の徒によって、愚民統制の悪意で歪んだ接ぎ木をされた、天皇に侍る文科(旧文部)官僚が操作する納税奴隷生産装置なのが150年前(悪名高い明治維新)からの実態なので、今もロボット生産を繰り返してるだけで生徒の幸福など頭にもない。
欧米圏の学校の起源は主に2つに遡れ、1つは上述の暇をもてあました自由市民(要は貴族)の子弟の集まりで、もう1つは修道院であろう。後者は神学部を起源にしている大学がそれにあたり、日本でいうなら寺子屋とか寺院の延長にある仏教系とか、移入されたキリスト教系の大学みたいなものだ。中世に「哲学は神学のはしため」といわれていたよう、キリスト教神学まじりのスコラ学(日本なら国学みたいな、或る形而上学中心の知識体系)が学界を支配、後者が前者を包含していたといっていいだろう。で、ケプラー、ニュートンやライプニッツ辺りから自然哲学が再興されると近代科学が前衛になる。
つまり欧米の学界はこうして暇な市民による雑談を起源にしている哲学の学校(日本でいうなら井戸端会議とか村寄合みたいなもんだ)、修道院、そしてこれらが自然哲学(のち日本語訳で科学と呼ばれる代物)の進展と共に、いわゆる大学院から小学校まで学習進度ある学校に包含されたという流れがあった。
では日本の学校制度がどうなっているかというと、明治政府という急拵えの暴力団体を率いた西日本の果ての一部の田舎者ら(いわゆる元勲です)が、この近代科学の発展中だった欧米の近世型学校を、1年位短期留学し表面だけ猿真似した。これで大変な混乱と、根本の歪みが今に至るまで残っている。
日本の学校は元々どうなっていたか。一番古くて平安期頃(諸説あり)の足利学校がザビエルによる記述に残っている。これもだが寺子屋の色彩で、仏教を基本に儒学(及び老荘の様な中国思想とか漢詩)、国学などが学習科目だったと。豪農とか公家・武家の暇な子供が僧門の手習いに通っていたのだろう。つまり勉強に向いてない子供なんて最初から読み書きそろばんもそこそこに、農作業だの職人仕事だの商売の手伝いしなきゃならなかったわけだから、大してやらなくて済んだ。当時の方がある意味では全体主義的一律の同調圧力で義務教育に通わないと私刑みたいなどうしようもない衆愚界じゃなかったのだ。脳的にいうと多重知能をそのまま生かしていたわけで、確かに身分制という世襲で職業を継ぐのが原則という枠組みは江戸時代頃には流行っていたけれども、これも明治政府が貶めたくて嘘ついてたほど厳格なものではなかったのがわかっているわけで、戦国期は無論、向いてる職業に転職していたのだ。
日本人は中世以来、ずっと普通に出家もできればもののふが名乗りあげるのもできたわけで意志と実力次第だったのであって、江戸時代に士農工商ができたというのは実は安定した平和な時代だったので、世襲が多い様にみえていただけであろう。町人間で職業選択もあったし、町人から武士にも学問でなれた。で、ここで出てきたよう寺子屋とか藩校とかで優秀な成績示した場合、藩というか諸大名が彼らを御用学者として使うばかりか武士と同格の禄を与えていたりしたわけです。廃刀令はまだなかったので、屈強な町人の郷士もですが、しばしば廃刀もしていたと。そしてここに上記の明治学校が無理に移植された。
明治期の旧帝大はガバガバ入試で、そもそも国民は大学が何かすら定かでなかったから庄屋の息子だった漱石はカンニングで東大入学してるし(自分で書いてた)、まだ比較的裕福な家が時代に洞察力を持ってた場合、世間は江戸の延長で世襲してるなか多数派同調圧力に逆らって大学に通わせていたのである。私の祖父母はそういう人らだったらしく、磐城や岩手の田舎から早稲田大学だの日本女子大学だのに通い出した。明治大正くらいだったろうが、当時の国民9割にあたる農民ら一般は大学行くなんて仕事もしない役立たずの道楽者と感じていたろうし(当時の高等遊民への扱いをご覧なさい)、尊敬するどころか今でいう放送大学扱いくらい小馬鹿にしていた筈だ。
こうして明治のはじめこそ、知識欲があるとか、学力が周りより高い(俗的にいえば頭がいい)のが明らかな子供を、農民で終わらせるのは勿体ないとおもって大学まで行かせようと、親が頑張って貯めた金を都市部の下宿先へ仕送りしてあげていたわけである。そして昭和敗戦となり、戦後、国は商業化する。明治~昭和中期頃までは工業化時代だったから工場労働者とかエネルギー関係の坑夫とか、いわゆる工人が多かった。私の祖父も父も職業選択時に公務員を択んだので大勢とは違ったが、この国民の9割にあたる人々は昭和後期から平成になると高給めあてにだろう、商人になるのを択んでいった。
「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と植木等が歌い、戦後復興の高度成長期はどこかの会社員になりさえすれば、右肩上がりの昇給が終身雇用制で事実上確保されていた様なものだった。そして一億総中流と呼ばれる社会状況がきたが、学校制度はこの背後で、明治期軍隊教育のままだったわけですね。
伊藤は英仏留学組を退け、自分が留学したドイツの教育を、当時皇帝の元の軍隊式だったので日帝民度にあっているといい、松陰の一君万民イデオロギーもあるだろうが模倣先にした。それでああいう詔勅捧呈みたく御真影(戦後は国旗)へ万歳三唱、体育会系教師の体罰礼賛みたいな全体主義文化なのだ。敗戦時にGHQから影響された点はあるだろうが(大江健三郎曰く、軍国全体教育していた教師が一夜に豹変して平和民主主義を唱えだした)、根本的な接ぎ木の部分である科学教育の表面的な官学風権威づけという欠点も何ら修正されなかった。もっと基底にある哲学や神学、仏教漢学国学は軽視されたままだ。
それで戦後は憲法前文の国際的名声イデオロギーだろうが、極端なノーベル賞崇拝報道になり(最悪の場合、中華思想の関西人による事実に反する日本人種差別が入る。事実上の受賞者は国内地域の人口比でほぼランダム出生してるのだが)、PISAや世界大学ランク偏執狂になり、挙句が今回の科学信仰になる。
じゃあ日本の(文科省が音頭をとって操作する)現教育制度がそういう順番で、継ぎ接ぎだらけでできている相当時代遅れ且つ奇形なものとして、その中で勉強しなければならないんですか? といえば、全然そんなことないだろう。上記の流れみても一目瞭然で、学歴差別を後光に金儲けとか本当に悪質だ。
勿論、その種の肩書の効用に与って無知な人々に万能人ぶってカネと名声を頂戴する学歴詐欺師が有害だということは、漱石が明治期、既に「現今の博士制度は害が大きい」等と文部省の呼び出しでの東大文学博士授与を固辞してたのからも明白である。その種の蛮行は却って長期的に学校の信用度を落とす。もっというと、勲章を肩から下げた猿が馬乗り合戦してるにすぎない官学界は、福沢諭吉が『福翁自伝』の豆腐屋と学者を比べる下りなんかにも書いてたが、児戯に値するといってもいいし、ニュートン・ライプニッツ論争に一つの起源がある先取権合戦も剽窃問題と或る意味相似、名誉目的の低次元なものだ。
学問の本質は真理の探求、そこに名誉などなんの関係もない。この意味で現今の科学界の慣行になっている引用元の明示という形式も、単なる追跡可能性だけでなく、本質的に先取権馬乗りによる科学者らの権威づけとして発生している世俗的部分を含んでいる。後者主導なのが日本的科学教育の浅はかさだ。或る日本人在野学者が自分の成果にただ乗りされ一円も還元されないのを憂いて恫喝混じりの訴訟をちらつかせていた。「述べて作らず」といっていた孔子がみたら、小人と一喝していたのではないだろうか。だがその種の学問の世俗化は、文科省自身が主導している。国際的名声や技革金儲けの手段にしているのだ。
孔子はまた「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」(要は純粋な真理探求を目的にした哲学と、名声や金欲しさにやっている有名科学者ぶりとか学歴役者ごっこは違う)「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(色んな解釈はあるが彼が探求していた最高善の認知的目的性だろう)ともいっていた。さらに「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人の知らざるを憂う」(自分の無名より、重要な人を知らない不学さを恥じよ)といっていた。これらで文科省による名声や金目的での、科学による効用追求が批判されているといっても過言ではない。特に安倍政権の文系切り捨ては彼が俗物なのを示している。
上記の全てをまとめると、科学教育は必須でない。且つ日本の現教育体制でそうな論文引用主義による国際的名声の獲得競争は、学問自体(真理探求)と本質でなんの関係もない。引用数が幾ら多くてもその内容が偽と将来示されることもあるだろうし、論文全体に占めるその割合や抜本性も定かではない。だから当然のことながら、単なる学問単体でみても、学校教育が誰もに有利な証拠はない。寧ろ歴史的も将来的にもそうだろう。IQなど対年齢比の偏差値なのだから、学問しない高IQの人より、着実に学んでいく低IQの方が高い学業上の成果を示すだろうし、商売でも同じだろう。
校外でもずっと勉強していればIQが高くなるだろうし、精神年齢の高い友人を得られることもある。校内でも怠けていたり授業についていけなかったらIQが高くなりもしないだろうし、精神年齢が低い友人がついたりもするだろう。上記の様、ここにあるのは或る標本にまつわる擬似相関なのである。IQ自体が万能の知能といえないのはいうまでもない。それは商売単体でみてもIQが世界一高い部類の人達が一様に億万長者になっているわけでもなければ、そもそも商業に於ける成功度が対法定通貨の資産量だけかも疑問だ(或る小商いの方が或る種の社会貢献度が高いとか)。成功の定義自体が多様なのだ。