日本でファインアーティスト(純粋美術家。画廊と契約し半商業的なガラパゴス国内美術界で有名人になるとかと関係なく)になるのは、私の経験からして、いわば完全に国外の目をもつことと実質的に等しいのではないだろうか? 私の趣味についても、無意識に欧米基準になっているのではないだろうか?
ある外人(irene氏)による日本サブカルに影響を受けているのは明らかな漫画風の絵をみて感じたのは、私は漫画とかアニメ自体に嫌悪を感じているのではないということだ。この人の漫画には嫌悪を感じないし(寧ろ好意を感じる)、オタク的要素はあっても下品な文脈での使われ方をしていない。
私が日本のサブカルが大嫌いになったのは、主に同人誌に影響を受けてだろうけど、表現自体に下品さや悪趣味があるかららしい。それで私はアニメ自体をみたこともないのに、一見で京アニの絵をみても激しく嫌悪を感じる。なんか言い表せない嫌な感じがする。絵描きなら言いたいことはわかると思うが。
漫画やアニメの表現手法は、線画による超平面(スーパーフラット)的な省略表現で幻想の空間を作りつつ、デフォルメしてある人物や空想上のキャラクターになにかを振る舞わせるものと総称できるが、私はこの手法自体に子供の頃から慣れ親しんでいるが、飽きてはいるけど別にこれ自体が嫌いになったのではない様だ。
例えばバンクシーの落書きも漫画絵だろうし、クーンズがポップアートの流用みたいに使うポパイとか浮世絵の断片とかも漫画絵だろう。で彼らの漫画が巧いかといえばバンクシーは巧いかもしれないが、クーンズは文脈主義的コラージュなのでそういう代物ではない。でどちらの漫画絵も私は好きでない。なぜかならバンクシーの漫画絵は、表現自体は風刺的だったりして面白いけど、絵自体はなんというのか可愛げがない。恐らくだが美大系で習った可能性があるくらいきっかりとしたデッサンが完成されていて、それ自体から滲み出している人柄からすると割と堅物と思う。まあ隙がないのだ、よかれあしかれ。で、クーンズの場合は普通に下品な作品ばかりで、趣味論としてはいわゆる俗悪(キッチュ、紛い物)なるものを模造的(シミュラークル)に再現しているのではあるが、悪趣味なのが装飾品として有効な場ってどれだけあるのかよくわからないし、悪所に近づきたくもないから余り好みが合わない。
つまり、漫画絵で素晴らしいと感動できるのは、私の場合は、鳥山明と、漫画バージョンの宮崎駿の構成力くらいだ。特に鳥山明は本当に空間表現とか細部の情感とか天才だと思う。この点で世界に比類があるだろうか。宮崎駿もアニメは退化してるが漫画の方は鳥山へ大いに匹敵する圧倒的技術力はある。
手塚治虫は物語は素晴らしいが、作画は微妙と思う。それならまだ藤子不二雄A・Fのがずっと巧い。
売上だけなら鳥山こえてるだろう尾田栄一郎の作画力は、前も書いたがコラボ回で見比べた時は本当に気の毒で、傍ら痛かった。
で、こういう漫画の殿堂からみて、さっきだしたirene氏も、バンクシーもクーンズもだが、まあ村上隆とか奈良美智も入れて、純粋美術側の人達が漫画表現を真似るのは、はっきりいうとモドキ。この意味では模倣の模倣でしょう。劣化コピーを免れない。それを強く感じるのは村上隆のドラえもんの作画だ。
ここにはある逆転関係がある。
昔はポンチ絵といわれていた漫画って子供がふざけて描く扱いで、大人が真面目にみる物ではなかったし、新聞の四コマ漫画とかも欧米でも、国内の格式高い世界でもそういう扱いのままだ。そこに芸術性を込めだしたのは日本なら手塚、米国ならディズニーだったのだろう。
ところが抽象表現主義以後の模索の中でイラストレーターから転身したウォーホルと、アメリカ国旗の模写からアメコミ断片コラージュ実験などもしていたリキテンシュタインらが、漫画表現を純粋美術界に割り込ませてきた。そしてクーンズがそれらの模造をしてる中で、村上隆が登場し超平面理論を唱えた。
村上は元々宮崎駿ファンで、芸大でもアニメ研究会だかのサークルにいたかなんかで、アニメーターになりきれず、芸大日本画博士を取得後、国内ガラパゴス美術界にうんざりし渡米したが、そこでもコンセプチュアル・アートとの落差に挫折を味わうという、権威関係からすると色々倒逆した人物だった。それで村上は自分のルーツに遡り、いわゆるDOBという彼がニューヨークの地下鉄でみたドブネズミに自分を象徴化させたポップアート風の漫画絵とか、やがて明らかに彼の中にもあるオタク趣味を自虐的に揶揄する自慰像とかエロフィギュア模造で、アメリカ美術のキッチュ文脈に乗って人気を博し今に至る。
即ち超平面理論とは、絵画手法としては日本画が遠近表現を正格的に使えていなかったのを逆手にとりその平面性を近代欧米美術の抽象化と重ね、文化多元論みたいな感じで独創的な特徴として正当化してるのだが、通俗的にはサブカルとファインアートを中間芸術化してもいいというダブルスピークでもある。
では何が倒逆かというと、漫画の方が権威が低い幼稚な大衆商品だったのに(この意識はプラトン物語みたく道徳訓話の紙芝居意識を延いている当の宮崎だってもっている)、村上は究極で彼の宮崎劣等感を覆す為にだろうが漫画絵も美術論的に批評に足ると、自作の競売対応と共に同列俎上に出してしまった。
まあ寿司でいえば、ハマチやブリが出てくる高級店で、いきなりカリフォルニアロール仕立てのタピオカ軍艦巻きだしたらなにこれとなるわけで、村上はキッチュでしかないといえばそうなのだが、欧米人一般は少なくとも「いいね」とインスタにたかっている。理由は理論がしっかりしてて珍しいからだろう。
もっと即物的には、米美術界で限定数の等身大エロフィギュアもどきKO2が日本流キッチュの輸入と認められ投機対象になり、競売で高い値段ついたからなんだろうけど、主要競売会社のあるイギリスやアメリカはこの意味で全世界美術の流れからするとやたら商売気質でろくなもんではないといえなくもない。
でだ。子供のころ鳥山明の原画展みたいなのいわきで、あとこないだディズニーの原画展も震災直後に本社が善意でやったのか地元でみたことあるんだが、漫画家の原画ってあまりアウラ(オーラ)はない。寧ろ画集でみた時とか最後に陳列してたグッズのがよほどできがいい。この意味では古典美術でない。なんでそうかなら、漫画家はその原画が印刷され無数に流通するのを想定してるから、原画自体はなんというか完成品じゃない。その印刷物の方が本体で、原画は建築でいう設計図でしかない。なので指示が書いてあったり塗り方指定してある状態だったりするし、完成後と違い吹き出しの中が書かれてなかったり、線が定まってなかったりすると。しかし、ピクシブが出てきた辺りから、これは村上隆の活動と同時並行的に起きていたが、漫画絵はそれ自体で完成品の絵とみなされる風土が国内ではできてきていた。でこれには二次創作を主とししかも極めて下品で露骨かつ変態性欲・児童性愛的な性表現をも含む同人誌界も、近接し乗っかってきていた。
ジブリ、ガイナックス、京アニみたいな各有名アニメ会社はこの背後で商品量産し、今を時めくジャパニメーションのオタクなる人達を世界の極一部にうみだしていったわけです。はい、一部でしょう。例えばフランス人一般がジャパニみてないし、官学次元からは全然馬鹿にされている。庶民か子供の物と。
ここで書いたことをまとめると、漫画が美術ぶって威張りだした原因の一つは村上隆による欧米美術界での超平面理論の流布だった。それは副作用として下品で低俗、幼稚な悪趣味を王道視する衆愚的文化状況をうみだした。
私が憎悪してるのはその和製サブカルの悪徳ぶりで、漫画手法自体ではない。
同じ漫画手法を使いながらも決して下品でも低俗でも悪趣味でも、しばしば幼稚でもない表現は可能だ。漫画手法は印刷物上に手描きの絵で人物劇の空間表現を行おうとした人達により、省略や強調などの修辞記号の技術から編み出されたが、それを善い趣味と結びつけられなかった人々は単に下賤だったのだ。
現代日本人らの大部分は、漫画アニメゲーム等のサブカル商品に馴染んでいて、例えば浮世絵の場合にそうだったようその中でだけ通じる記号や前例の意味を感知できるが、その副文脈を知らない人達には何のことやらわからないままだろうし、研究者以外には今後も恐らく普遍的な意味をもたないだろう。いいかえれば漫画表現はサークル的な内輪受けを狙ったものなのだが、その輪が大衆商業性とか、同人誌のよう不道徳性の賛美といったかなりはっきりした反知性主義の色彩をもつ上に、純粋美術の扱える表現の幅に比べると具象表現のうち人物劇を出ず限られている点で、地域的挿絵様式の変奏でしかない。
私がいいたいのは、日本の漫画アニメの殆どは品性下劣なもので、子供にとって望ましい道徳訓話を含んだ代物でもなくなっているばかりか、寧ろ逆に悪趣味を共有している同人界に直結しているが故、国内サブカル自体が総じてだが、オタク騙しで金儲けする邪悪な一部の悪徳商売になっているということだ。だから純粋美術の流儀中に、この日本型サブカル(狭くは東京サブカル、京アニ入れたら京都サブカル)を無作為に入れる枠組みをもちこんだ村上隆は、後世に禍根を残したと私は思う。確かに庶民や性的少数者、女子供風の感覚論(カワイイ)など反知性主義表現をとりこめる利点もあったが、大雑把すぎた。
庶民次元だと無判断(判断中止ですらなく)や利己のためソフィスト級の道徳相対主義が蔓延してるから、超平面は彼らの悪趣味ぶりをクールジャパンみたく、恥知らずにも自慢する傲った自画自賛加減をもたらした。漫画形式を伴えばどんな悪徳でも美化できるのか? この点でも超平面派は反面教師と思う。