2008年3月31日

国連改革策

我々は世界共和国の建設に当たり、覇権国を仮に除いた全ての国々による「連合立法」を計ることで、仮設的に行政権と立法権の分権という国際共和の理想へ一歩近づくことができる。

しかし、これには前提としての「国連民主革命」が必要であろう。
即ち加盟国貴族政または寡占政としての常任理事国の撤廃と、加盟国同士の代議的な与野党制度を確立しなければならない。
 これらは各国首相の賢明化という国際文明度の向上によってのみ、近未来における実現可能性を持つ。

2008年3月30日

道徳について

道徳なき者の世に忘れ去らることの速さ、泡沫の如し。人間に雅俗様々と雖もその道徳は悉く普遍なり。道徳に欠くる者の命のはかなさ、春の夜の夢に等し。人間の指導者に必ず道徳あり。不道徳にして得た名誉は虚栄、風船の様に凋み易い。

2008年3月29日

ゴルフ場に降る

人気のないゴルフ場に降る春雨よ

哲学の権威について

全ての哲学に権威は無用。あらゆる哲学の営みは、それが学ばれるべきものではなく、単に当たり前に生きられるようになった時に意義を有する。哲学者達は世界の道徳の先端を議論する権利を与えられてはいても、彼らの思想が生き残るか否かは唯、人間の実践に任される。故に哲学は道具であり、目的とはならない(正・道具主義)。哲学は哲学にとってのみ究極目的である(反・幸福主義)。我々は誰しも人生を改善する為に哲学しなければならない(合・方法主義)。

2008年3月28日

梅林

里山で車から見えし梅林

2008年3月27日

現代配偶一般

人類が学習動物である限りは一夫一妻を既存の最善人倫とすべきこと、疑いを待たず。狼少女の例を引けば、尋常の人類がたとえ孟母に匹敵せずしても、社会教育環境に欠けば乃至三遷を余儀なくもしよう。凡そ愚鈍の種類は子孫教育の必然を悟らずして多産なれば即ち名馬ならぬ名人を擁しうると浅考し、不倫の迷いを行く。故にこの種の子孫が一様に愚鈍なるも因果なきことに非ず、孔子も曰く郷原は徳の賊なりと。則ち無教養は愚鈍種に愚鈍種の繁殖を重ね郷党同類を生涯出でぬ道理ならんや。

 又カントの三批判書に曰く、学は後天、術は先天なりと。 且つ君もし世間一般を通常に観察せば勉強家の子孫はおよそ勉強家たる確率も多し。これ後天的な学習行動そのものにも多少の天分が必要なる所以と考うべし。たとえば小学一年先に尋常一様の授業を行いて試験成績に全く一様ならざるものあるとは何ぞや。単に家庭環境の違いにのみ帰すべからず。世に云う利口な子、馬鹿な子とはこれらを孜々として教育勉強せしめざれば生まれながらのいやおうなき知能差を生涯縮めることあたわず。
 よって、芸術の天才の如きも様々な学の天分がある配偶時、傑出した先天性に遺伝結晶したる由縁と観るべきもの。此を「正の突然変異」と呼ぶも可ならん。
 退化は生存の目的にあらざるなり。世間に善良の人間少なからずして後天支障ある生活者を打ち棄てる非情に甘んじえず、彼らを積極養護し、多様種の特殊例として保存せんとす。我かの生業を現代人間の美談とすることに異論なしといえども、もし先天に一切不具合を有する種と判りし場合に当たりこれをかなしくもただ奇形と見なし、河童の如く流産する者の是非を咎めず。ひとえに、人間文明の繁栄は進化を目的とすべきこと明らかゆえになり。品種配偶は「選良」を家系目次と為して然るべし。
 既存の社会形態を脱構進歩なしうる才能についてのみ、我々の希望ある人倫を託すに足るなり。しこうして普通期待される既存能力に対して格段に劣る種は人品の淘汰に逆らう理由なし。唯、後天のそれを人情の慰安として毫も粗末に扱わぬよう務むる可こと。かの倫理を豚児憐れみの麗と呼ばん。
 民度成熟せずして西洋世に不倫横行し、愚鈍退化の兆しあり。民主立法の本義を過ち、公共福利をかろんじて利己中心に傾き光源氏的乱倫を赦す紀勢に陥りたり。
 もし以上の道理をおのずと理解する者あらば、かの西洋文明のほど近い没落も予見しうるべし。源氏の没落は多妻の罪業に他ならずや。則ち、子孫に家庭教育は必然なるを悟らず類人猿同然の倫理崩壊を犯し、却って急激な滅亡を自業自得する醜態のみ。集中権力はみなことごとく腐敗し倒れるものなり。驕れる平家も久しからず。その深部を権力中枢にありて虚構も巧みに断罪せし紫式部の本懐が、もののあわれにありしという本居説にもかの倫理崩壊に伴う道理を洞察せし慧眼の趣きありぬべし。

 曰く配偶選良の念に綿密が加わるほど世間一般の交際気風に美化ありと。此を以て複雑神妙なる求婚法なければ一切の文彩無用にて、露骨不躾なる継に社交の芸能が進化せぬ理屈と視るべし。
 旧く武家に紹介先の宅にて出されし茶に口を浸けねばその気が無しと判じるだけの機敏一般にあり。されば又世間に気兼ねし容易に我が侭に及びえぬ往古の選良の念に如何に慎重を期したか、その丁寧微妙の程を顧み再び今の参照にも足るべし。

アパート

アパートの扉を開ければ春の香よ

苦の意義

病や死は健康や生の意義を反省させる。故に、如何なる苦も反作用として人間の幸福に寄与する。

2008年3月26日

宗門論

宗教の門様々と雖も、凡そ世に顕れし世界三大宗教をばキリスト教・イスラム教・仏教と仮定、最も信頼の置ける最も伝統的な世界宗教を専らとすべきは、人間信心の常なり。

2008年3月25日

生物学

突然変異による性選択と、環境異変による自然選択とは同じ選択淘汰の側面なり。対して機会浮動、亦は遺伝浮動と幸運生存(Survival of The Luckist)とは、この形状とは別の淘汰圧だと考えられる。選択淘汰が相対論的・確定的なら、こちら側はむしろ量子論的・確率的な淘汰形式である。
 我々はこのような偶発性を含む淘汰形態を仮に運命淘汰と名づけることも出来よう。日常レベルにおいても全く同じ形質の双子がそれぞれに異なる運命を経るのは当に、このような偶然性に由来する。バタフライ効果とは運命淘汰の言い換えでしかなかった。さもなくば遺伝地図の更新そのものはなんら担保されまい。たとえ定式としては遺伝磁針を設け得たにせよ。あらゆる進化と見える違いが生態分化の隔離差延に過ぎぬからには、我々は神の手が天道の是非をもてあそぶと考えるわけにはいくまいし。
 更に、ダーウィンの自然淘汰説を修整して我々は、運命選択説を唱えることができる。淘汰のように見える作用は、実に移くしい生物たちの宿命輪廻に過ぎないからには。

椿

はためく空模様を眺めると、祈りも届かないなんてありえないと、信じられる。つくばいに添えて霜雪に山茶花の実。難しく考えられるひとは幸せ。普通はあいにく、何もかもを有りの侭に捉えるので精一杯でしょうから。着物の模様も、庭のあちこちで聞こえる霜溶けのなかで左もあざやかに映えること。射し込むあかりは細く細やかで、もろくも消え去ること。屋根を伝うわずかな雫は、つららの先を降るとふと地に着く。私の踏む雪駄にもほのかに、その感触が肌に渡る。冗談はしない。懐かしいのは昔のこと。あでやかに咲きかえす椿は、隅にしんみりと静まりかえっている。

波跡

君はどうして去ってしまったのか。
あとに残るのは波跡だけ。
様々に多彩な記憶が、寄せては返す波形に敢えて、比べるべくもなくして。
第一に、我々は不運だった。
だから付き合いもせず、唯徒に時を費やし、二度と出会わなかった。
手際良く人生をこなす気分はどう?
既に、為付いてしまった作業工程みたいに、何の味気もない日常を手繰り寄せてる。
鴎たちは変わり映えしない砂浜にいて、中空を求道僧のように見つめている。
曇りぞらが復たやってきて、想いを残らず強い雨で、押し流してしまうでしょう。
私の気持ちを知るはずもないから、遠ざかる日々をただいたずらに過ごしている。

書かれざるもの

世に曰く、文学とは書かれざる文字を読み取ることなりと。

2008年3月24日

日本語について

日本語は英語の表意性と漢語の抽象性とを表記上に利用した。

世界史の経済

世界史の目的は全民族の個性を最大限に活かしきった交響曲の完成。この為には各民族国家の性格が際立つまで、互いに様々な仕方で競い合うべき。
 既に、先進国間では正当な競合を経済という概念に改修なし得てはいる。この範囲に獣性を活かすなら、むしろ功利的とすら呼ばれ暫し貴ばれもする。
 王者的民族の生き残りという古の理想は、結局塵労に終わるだろう。というなら協業経済の概念に応じてしか、地球の文化圏貿易の持つ人道的意義を悟らない選民は憤る。彼の様な個性を通じてしか我々が全人類の創世記を物語り得なかったということが既に、我々の民族個性が則、最適共生のために相互を是非の関係において必須としていると知れるだろう。
 神は言葉の違いによって、人間共をやがては互いに協力するように仕組んだのかも分からないのだから。
 凡そ自らは創作しえないあらゆる文化産物は我々にとって必ずや宝。国とはこれらの文化を守る城であり、現在進行の伝統芸能を営む美術館兼劇場。文化が風土の人間形相と定義されれば、経済がみずからの目的美に沿って働く次第はみな、国際啓発に他ならない。自らの及ばざるが如き不足を知ることが、また一層に自ら固有の価値を反省する気勢を生む。

人語

雄弁は銀、沈黙は金、寸言はダイヤモンド。

大手コンビニのrecycle loop

売れ残り弁当類はこれが家畜飼料としての悪影響が無いと判明するまではバイオマス燃料に向く。判明が遅くなれば人間が実験台になるのだから。孔子は廏焚の際に馬を問わなかった。高次消費者のお下がりは少なくとも低次分解者に至るまでの生態系で捉えるべきで、中途半端では却って排泄物のそれより不自然な結果が出ないとも限らない。いわゆる生物濃縮。
 例えば古く猫まんまと呼ばれる餌は我々の家畜ではないペットだからこそ高次消費者のそれを通用し得たのだった。彼らの優秀な内蔵器官による消化作用はそれを、より分解し易い段階に薄める。これは自然の責任分担と呼びえる。いいかえれば、人工物を食べる家畜は不自然なのであるから、これが一種の人工肥料による産物なのは疑いなく、遥かに我々人類を育ててきた食の安心を頼るには未だ足らないだろう。

王権論

クレオパトラや西太后、閔妃、ヒミコの末路を鑑みれば、我らは男系制を王権の賢明として頑に遵守するにしかない。もし浅薄な者が史上にありもせぬ虚構を持ち出した所で、偶々侵略されなかった間に牝鶏が晨した僭上沙汰を好例と見なす反対事例を持ち得ぬからには。

2008年3月23日

哲学の精神について

人間精神のほぼ交換可能性によって、我々の間に死の概念が画かれる。死は共有概念としてしか存在しない。その認識が我々の生活に緊張を及ぼし、人生そのものを思案させる。
 これが哲学の定式とされる。

報道について

人間の非人間性がより強烈な人間性を呼び出す契機となる。従ってあらゆる非道な行いも又、我々の間でnegativeな例となることにより人間性に寄与している。
 全ての人間はかくのごとき因果の網の目を潜って生活する他ない。何しろかれらと来れば、人道が何かすらつぶさに実例を目の当りにしなければ、哲る兆しもない。これが報道の定義だった。

2008年3月22日

風よ

時は途切れず、流れる。
人々の歩み。
体操の、リズム。
先々で、会う。
また暫く振りで。
かなしみの合図よ。
高速道路の下に走る路を。
森。ざわめく。
独りきり、歩く。道。
特殊な寄り道さ。貴方にも判るでしょうし。何で考えなくてはならないの。
返答。歪み。つらら。
尋常。海藻に流されないように、捕まった。水辺よ。秋田犬。紫外線。BPM。
踏み足。階段の上に。聞こえてきた声は。自習室の中。悲しみの裏に。勅語を代えたら。
やつらのせいだ。
苦しみを通じて。寂しげな響き。風を通じて伝わる欣びは鳴らない。波動。地面。土。
確実、着実に歩みを続けて行く旅人。彼方には聞こえないのか。行人たちの信じる言葉を。
何の為に歩む。
お前にも断りは知らるべきであるが。
君はどうして消えてしまった。探していた葵の花。風は連れて行ってしまったんだ。

深夜のラジオから

私は探していた。
私は次の扉を。
私は探していた。
私は次の扉を。
開けられた先に、広がっていた世界で。
にも関わらず、彼らは又。
滝の音に響く星の夜に。
スイミングプール上。
光る月よ。
名もなきかもめが一羽。二羽と。次々に。
響く声。
幼稚園の隅から、流れる用水に跳び込む、小さなカエルの子ども。
田んぼ。
あさやけ。何もかもが変わりない。然し、平穏は崩れ。
暗転した世界では安心できなかった。
一夜、二夜と過ぎる。
何もかもが不自然だった。私が大切にした多くの場所も、消えて行った。
太陽はぎらぎらと辺り一面を照らし出し、つくしを枯らした。
人々はそれを自然だ、と言った。何もかもが終わりに近づいている。
幅広い道路に兎の死骸dd:a:jm:/jm@jmtemg
0432156945613013245*
キコエ
タクシツラミナ、ミmdgンバスガ6546ナボキラシ
ツントンツサラアヒースンカアムヘto t vo t to t nt d.
矮矮、矮矮、矮、矮矮。
直接でしたか!
直接でしたか!
君に、君に。君に。
直接でしたかー
月に聞きますか。
防災ね、聞きますね。恥め。月か。聞きますか。
私は探していた。
私は、私は。
月光の池に落ちている、満月のさなかに。
あなた方には聞こえましたか?
私は探していました。
直ぐに、彼らは悟る。この世の底で流れ続けている大量の海。
生き物が始まり、終わる。とても、とても静かな海を。
影もなく広がる大地に咲いた花、
やがては誰しも枯れるとしても

夢中に

恐ろしい灯を見た
地球の底で光るそれを
秘密は破られ辺りには香りが充ちる
どうして答えは見つからないの
理由の様なものもこの世では探し切れない
あなたは答えを知ってる
源流から零れている雫
解るまい
眠れる森の
だが既に深夜は
刻一刻と
人は
罪の火花に
探していたのだから
懐かしい記憶
殆どは捨てられてしまった
余りにもこの世からは遠い
時間があったなら
少なくない数の渡航者たち
日々の上で
なぜ地球は回るのか
宇宙のつくりを知った暁にも
絶えずくりかえし現れる夢よ

2008年3月21日

海鳴り

僕はかなしい、僕はかなしい。
多くの生き物が消えていくのが。
僕はかなしい、僕はかなしい。
多くの生き物が流れてしまうのが。
人々は型を外していくのだ。
何もかもが。
終わる。
僕はかなしい。
人々は羽目を外してしまった。
何もかもが終わりゆくのを。
見つかりそうもない砂漠で、どんな宝石を落としてしまったのだったか。
さても眺めよ。
星々に潜む生き物の畏れを。
何もかもが常ならず。
僕はかなしい。
国境を崩しおとす暴徒の笑みが。
かれらには分からないのだから。
かれらにはかなしみの何一つも知れない。
海鳴り。海鳴り。

思索としての理性の限度

人間中心思想はあらゆる認識誤謬の原因。カントの考えると異なり、人間以外の様々な生き物より生存価値があるべき実証法が理性の外部にない以上、人間はまた自然の育む枝葉の末節としてしか捉えきれない。彼らの生態地位がすなわち価値等級だとは言われない。
 理性は人間の特徴以上の能力ではない。

2008年3月20日

自然壊し

昔はうつくしかった川も、捺し並べて汚れてしまった。
なんの為に近代化したのだったか。遙かに、海辺に漂着した芥の山を診ても。
西洋人は我々を笑った。
だが、自然はあなた方を笑うであろう。
彼方達の為した行いが正しいと信ずるな。
神様の至高の叡知こそは、僅かに預言者を気取る人間如きの如何に浅薄なるかを辱めにより、償われ賜う。
人間の知識がどれほど有限なるかを想え。
軈ては御前達みなを消滅させてしまう力の崇高なるを知るなら。
御前達は何れ悉皆、偶然の水面。気付いた時には途切れてしまう縄張り。陽炎。
数え切れない昔の事が一鎖もたがわず今の御前を作る。為れば未来も然り。
あらゆる因業により御前達の祖先もこの世に繋ぎ留められし飼い物。
それなのに、どうして逃れ切れる筈もないだろう。
止むを得ない雨の下で理想を夢見て暮らすばかりに。
何もかも世迷事の道筋を逃れて歩む調べもなく。
為らば彼らを放っておけ。彼らが自然の手痛い反撃に遭うのを、冷たい眼差しで放って置け。
自然は壊せない。まるで宇宙が何もかもを含む様に。

2008年3月18日

建築論

世の中にはただ古いことによってのみ価値を持つようなものがある。建築物がそれである。我々は古い建築を、新しい建築の中にも見出す。が故に、それは美術となり得る。素晴らしい建築物は後生大事に保存され、後々の世に美意識の模範を示す。最も新しい建築とは、最も古い建築である。

2008年3月15日

緑茶

緑茶に添え懐かしい煎餅の薫り

2008年3月14日

科学論

科学探究の真偽は個人的なもの。なぜなら如何なる見識も度合いに応じてしか真実さを持たない。どのような真理も単に我々の認識の比較的な正確さを示すに過ぎず、究極の真を認知する、といった僭越は神にしか無理な話だろう。
 例えば1と0を見分けることは全く認知の課題。ところがこれらの示す意味となると、多くの人間は戸惑うかもしれない。つまり、我々は世界を精確無比に認知する為に絶えず真偽を見分けるよう努めることはできて、決してそれらの意味する本質であるところの真実には触れ得まい。
 数学をする者は悟性認知の論理的な働きを推究するけれども、結局はそれらの差し示す比較的な正確さを問い続けることになる。
 科学の営みが我々に為せるのは「みずから認知せよ」という絶えざるおのが無知の知への啓発であった。
 我々人間が科学文化の交易によって可能とするのは、個人的認知に対して、多少あれ普遍性を伴う法則の共有に過ぎないだろう。あらゆる個人は法則をもってルールに代え、各々の認識を精錬しえるのみ。

天文学の範畴

視覚が人間の構想した感性であって、他の生物にも太陽系らしい特性として観察できるのは疑いない。しかしこの世で我々の観察に値するのは光の為にである。いわば我々は有限の世界しか視覚的には観察できない。
 従って、我々自身の構想は全く以て視覚感性を越えては何事も知り得ない。概念自在の領域は数学の独壇場であって、我々は感性において経験しうる範畴を自然科学の実証体系に棚卸しするのが精一杯だろう。
 ならば、我々が構想を働かせて知るのは、いな広く有限の世界についてのみ。そしてそれは、我々が地球文化を通じて養うに至った光の探照を時間的に借りてしか不可能。凡そ、我々は光の有限数時間に届く範畴についての自然知識しか認識し得ないだろう。

物理学

光子の質量は引力子とされるものとどのように関係して発生するのか調べる必要がある。引力の原因は又、我々の身近な自然がどうしてエントロピー増大則を持つのかを解く鍵になる可能性があるから。結局、我々は引力子を狭い範囲に働くもの、と見なす必要があるだろう。なぜなら遥かに広い範囲では、明らかに斥力が優勢だから。そしてこのような力を働かせる斥力子の仮定がエネルギー保存則と矛盾しないように組み上げられねばならない。

物理学仮説

光束の空間移動に抵抗がある、というのは全く奇妙な現象である。つまり光に速度がある、という仮設に矛盾がそれほど見当たらないのは、我々が真空と見ている空間にすら、何らかの抵抗物質が存在していると考えるのが自然だ。光子は我々が今のところ知っている最も速く空間移動する物質であるとして、それを有限に抑える力の正体は未知だ。わたしはこの仮説物象を改めてエーテルと呼んでみたい。このようなエーテルの仮定なしに、今の我々は光速の理由を説明できない。
 光束の進路に抵抗する何らかの物質ないしは現象があらゆる空間に蔓延していなければならない筈だ。

人間論

人間達は自らの能力を過信するが故に、宇宙生物が光速以上の移動手段を見つけていれば、発見され次第、天敵となりえることを知らない。地球人類は未だに出会わないという憶測だけで、星内天敵の無さをみずからの崇高性に結びつけることになった。このような典型的な誤りは全くカントの自信に由来している。我々の理性度がどうしてその大脳新皮質の厚みに制限されないことがあろうか。
 もしチンパンジーよりヒトが理性的な部分を持つとするなら、全くこのような脳皮の厚みを自然淘汰から確保してこれたから、という結論に行き着くだろう。それがどうして大宇宙の至上目的にまで還元できようものか。論理の飛躍も冗談に限っては、西洋の面白いユーモアとすべきだろう。
 我々は他の地球生命を様々に摂取して自らの有機エネルギーを絶えず回復するが、同時に、他の生き物を守り育てることでかれらの生存を保障する。というのは、人類の生態的地位を妨げない限りに於て、如何なる多様な生物も並べて生命全体の生存目的に叶うから。
 地位の高い生物が最も時間適応的とは限らない。少なくとも個体増殖数と死亡率の低さにおいてその相対的な繁殖率は地理空間に依存する。歴史の常として、空間支配がそのまま、時間の王権とは限らない。
 我々は自らに与えられた生態的地位を全うしなければならなかった。それが星の内外をふくむ他の生物を見下すことではないのが明らか。我々は自分を守るべきだった。
 Homo sapienceは世界を理解するよう努め、その目的に沿う使命を果たさねばならない。調和としての宇宙は我々に最高の教えを与える。道徳律に一致した秩序は、精神とされる人間の知能の働きにより抽象される。そしてこの様な把握された秩序は、自然が内在する理。一体、理性的な人類はそれを自らの精神作用によってのみ、学識として蓄え積み上げて行く。これはいつしか文化と呼ばれる迄に遥かに洗練されていく。
 そして理性人は学識を自らの由した目的に還元する。これは哲学として社会学化する。結局、我々は人類内に一角の国土を占めることでこれらを芸術に応用していく。人類の巣はこの芸術によって築かれるのであり、結果、自然は系の複合化という手段によって、転化全域の多彩を増す。観想的精神が欲求するのは、これらは理想郷を一歩ずつ築き上げる為に神みずからの作り上げた素材である、という認識だろう。
 自然の合理性とはその自己目的性にある。
 我々が自然を観察し、研究から知識を引き出し、その内ある法則を自らの社会に応用し、やがては自然の中に一定の住処を作り上げたのも、すべては自然が有した自己目的な活動の結果だった。精神は自然の生み出した観賞法。それが人類という生物を活かして、自らの目的としてのuniversalityへ一役を与える。理性が知りうる最高善はこのような世界体系の目的観に過ぎない。言い換えれば精神はみずからの存在意義たる人間界の自覚を、実践奉仕の方針によって絶えず反省しえるだけ。
 精神は至上目的ではない。同じく、人間は自然において許される限りの生態的地位を全うできるばかり。それが宇宙の最高創作である、と実証しうる知識は現代人類に発見されていない。我々はただ自然に寄生し、自らの仕方でその営みに参加できるだけだ。

信仰

心優しい者ほどに、競争社会で傷つくもの。
そこには成敗の悲劇が繰り返されるだけだから。

人間は努力の尊さを知らなければならぬ。
誰でも能力以上の努力を要求されない。

この世では努力が競争に勝る。
如何に優秀な兔も、辛抱強い亀に軈ては追い抜かれる定め。

信仰

如何なる悪も、一層に善を栄えせしめる為に往き惑う。

如何なる悪も生存し続けられない。
恰かも道端で干からびるミミズが気づきもされず踏まれ去るように、かの嫌悪感は人間にあっても何ら相手にされない。

積まれた功徳を崩しうる者はいない。
錬金術師にさえダイヤモンドが焼き払えないように。

一般教養説

科学(真)・哲学(善)・文学(美)は、我々が永らく啓発の基本とすべき現代の一般教養である。

2008年3月12日

歴史学

歴史学は時代ごとの凡庸な人間水準を実証する。これを文明体と呼ぶ。紀伝体は、天道是非の差延をどこまでも物語仕立てにする、文芸の域を抜けない。従って原作者自身の主観を免れず、千差万別の小説を乱立させる弊害を伴いがちだ。対して編年体はとかくあらゆる事跡の無体系な時間的羅列として、知識以前の無意味な資料でしかない場合も散見できる。
 これらは全く演繹と帰納の混乱から起きる。偉人の指導と平凡の推移とにより、事跡の示す文化水準の方向如何をこそ、我々は歴史学の知識とし直すべきだろう。

医学

何ゆえに人は寝溜めが出来ないか。人は睡眠時間を本能行動に夜間適応として構造へ入力した。だから彼らはそれをノンレム・レム睡眠のようなリズムを含む身体の休憩として進化形質に保存していった。丁度、夜行生物がその視覚細胞に多くの幹体を淘汰したように、人類ないしは哺乳類においては、行動形態を集団生活の能率つまり哺乳能に還元する限りで彼らの睡眠を概日リズムのままに保つ傾向があった。
 故に、人間は明る過ぎる夜を操作しても、自分自身の本能を全く概日リズムの習性に従わせるしかないのだった。尤もこれが地球の表裏で交互に変換する休みなき活動を普遍化しつつある要因にもなっている限りは、全く立派な人類の祖先は地球環境への適応を集団活動の合理化として進化させるだけの特長をただしく遺伝してくれた。かの子孫が又、より活動化することでこの自転した秩序を経済化するのも疑いない。
 ともあれ我々自身は素早く、自律電球としての人工太陽を発明するだろう。それが人類という種にとってすれば太陽系外での生活には必要だから。

自然学

自然の全てを知るという事は無理だ。我々は我々の概念に応じて、世界の解釈を合理化し続ける積分法が可能な知性しか持ち合わせない。ホーキング氏の虚数の時間のような考えは全く悟性の遊びである。経験に関係ない世界概念というものは我々の思考に値しない。それは第5次元という性質が数学にしか存在し得ない事に等しい。
 直感のない感性は何事も経験に還元し得ない。かの純粋悟性概念の空想とは、単に理論上の狂信を誘いさえし兼ねぬ危険性を含む産物として、ある程度から輸入規制する必要さえあろう。このような僭越が、全く国内思考の科学市場を荒らし、文化を不毛の土地に枯らさぬ前に、とかく実践理性からの分解者を要請すべきだろう。これが科学哲学の命題である。
 我々は科学を通じて認識を純化しうるに過ぎない。それは時間と空間をもって、四次元の範囲内に限って自然科学へ悟性法則(定理)を適用しうる。この田畑に数学原理主義という化学肥料を撒き過ぎた土地こそは何より忌まれねばならない。遺伝子汚染の凝縮率は生態系ピラミッドの消費高次に比例するのだから。
 対して単に経験にのみ信頼を置く自然科学が、最も実証主義の本義を守っている、と信じえる。
 ところで一般に観察する限り、大気の透過性はその空中の水分子への反射率を通じて、入射角に応じて全く異なる色彩を表象している。朝日と夕陽の空色が異なるのは、それが大気中の水分子量を違和するが故に。
 我々は青味がかった昼間の空を、水分子の、従ってO2の透過色として観察する。これはpoolの中でゴーグル越しに水分子を眺めた場合を大気分で薄めるのに等しい。
 しかし我々のうち何人が、何故に水が青いかを知っているのだろうか。我々は空気遠近法が成立する理由を知らない侭、それを実証したつもりでいたのではなかったか。
 ここで、夕方の大気は温められた大地の発散から水分量を朝より豊かにするが故に、その色彩を全く驚異的なほど様々に中間色化することを思い起こすがいいだろう。彼方がそれを経験しているとするなら、次の事もまた同じく理解しうるかも知れない。即ち、水は色彩を持たない。むしろ光束に対する反射率の変異度のみが、その多彩なる透過性を以て変幻自在な空色なのだ、と。だから人々は空色が時と共に万華鏡のように変調しても特に疑問を持たず、それら神の芸術をただ手放しで称賛するばかりである。彼方がもし神秘から造化の骨を学ぶ気があるとするなら、水分子の反射角度が虹におけるように全く合理的なことに注目すべきだ。我々は無色透明なプリズムが全て自由な空色の投影装置であることに感心する。これが神の創り賜いし驚嘆すべき天空が、闇には透き通って星々を、光には水分子反射のプリズムでまことに多彩極まりなき映像的な抽象絵画のうつりゆきを表現する原理である。即ち、空色とはプリズムのそれなのである。
 もし彼方が水晶のような透明な球体を手に入れたなら、それ自体が地球の空の還元模型と考えられる。一体、人知はこれが生み出す光束の複雑かつ精確な色彩の乱舞を、虹彩の地球適応性に鑑みて如何なる感想を抱くだろうか。我々はそこから、如何に人類が色彩を地球環境への全き感性として進化させたかだけではなく、太陽系第三惑星の絶妙の位置をまるで何らかの必然意図を以て配置したかのような、大気ないし地表成分の匠な配偶を視覚という直感表象によってのみ、実証しえる他ないだろう。
 そして我々は安易な悟性概念の濫用を益々、人知の限度を遥かに超えた偉大なる自然現象への崇拝心にこそ代替せねばならないことに悟るのだ。凡そ我々を自然科学の研究に向かわせる最大の欲求こそは、その神秘を極めた創作物に対する驚嘆の情である。科学知とは人為の謙遜を抽き出す反省的契機だろう。

人間達の暮らしに追い着くには。
日影の割り符を訪うには。
構わずに忍び足。
暴走しているからな。
何事もなく、とはよくも言った訳だ。
逆境などなど。
過ぎるからと言って追えば逃げる日々に懸けて。
貴様の理由も探る他に。約言すれば似合うだろうな。
君の。程良く。聞けばな。秘密にもなくて。
私は昔話の中で、遠い記憶の、深海の底で、貴方を待った。
もう失われて行った幾つもの想い出は、仄かに掻き消され。いつくしみの後へ。
かなしみの曲を奏でる、幾羽ものカモメよ。彼方達にも、かつては原因があり、目指す可かなしみが。
そろそろ、時間だ。
君は物語を閉じ、うつくしい世界を目の当たりにした。
意志の。雷の。こだま。
山あいの。杉林。雹が降り、一日、一年、やがて戻る。孤独の神様。
道端の。みかん畑。かなり深い、谷を見た。人々がとても住めそうになくても。
私はもう時間を気にしない。既に、目的とされる筈の待ち合わせは過ぎ、今では自由の身になった。
あたかも生まれ変わった心として。

現代経営策

管理価格の脱構には非価格競争からの脱却が必修と言える。

土俵が違えば大関も危うい。
小結び前が横綱を倒すともなれば猫騙しのような小手先は通用しないかも知れないが、少なくとも土俵を変えなければ無理は当然だろう。
 言い換えれば技術革新以外によって管理価格内の非価格競争を勝ち抜く方法はありえない。
例えば大手新聞に優る記事ではなく、全く趣向の違うnet newsを配信するserviceは前者と同じ土俵に乗らないで競うこと。
法規が追いつく迄、商業は不当な独占に最大限に抗う構えがなければならない。
「創意工夫」は産業を進化させる原動力だろう。我々の経済は競争と努力の中で永久に試合を続けて行く。それが功利と福祉をもたらすもの。

『肩透かし』は小ネズミが象を倒す奥義である。恰も巌流島の遅刻勝負の如し。
管理価格内部での馴れ合いを避け、広告費を全く割くことで大企業の盲点を突き崩すことができる。これを第三次産業の肩透かしと呼びうる。

竹の子

コンビニで買いし竹の子の煮物

2008年3月11日

文化建築論

我々はtechnologyの興勢によって建築を様々な工業商品において延長させて来た。これを工業建築の時代と呼びえる。
 ともすると近代人はこのような工業化を一つの必然と見勝ちだが、それらの建築性は文化的でしかありえない。従って、時と場が異なれば当然ながら、工業建築の様式そのものが相違すること。
 近代化は、それらの工業建築性と相まって、各々に相対的な概念である。
 工業建築も又おなじく、それが美術の形態である限りは全く文化的にしか創作不可能である。
 工業建築とは全く文化的な理想であり、まるで普遍的ではない。
 工業建築は地球諸国で全く違う展開を見せるだろう。しかも、往々にしてその摂取に拒絶反応を示しながら、非工業の土着産物への固執とこだわりを以て、国際貿易の分業戦略へ酬いられるだろう。建築は暗喩化すべきではない。なぜなら建築とは自体が形相だから。工業部品のorderといった些細な趣味においてさえ数学的秩序は規矩そのものであれ必ずしも美でもない。

外部経済論

外部経済の内部化には、mini comminucationの興隆が必修。ともすれば煽情的となりやすい企業宣伝は、功利に傾き福祉を隠蔽しがち。
 対して管理社会の趨勢に抗しうるのは、世論の内、最も自発的かつ公共的なmini mediaの働きだけだろう。

2008年3月10日

漢字論

漢字の旧字体は古典との距離も意味するが故に、我々は一様に白話的簡体を採用はせず、柔軟自在に繁簡中庸を自由すべし。例えば「轍鮒の急」の如きは決して白話で代替し切れる文脈概念ではない。これは常用漢字の範囲に表現を限ればいずれ消滅されてしまう轍鮒の急かも知れない。

2008年3月9日

品種説

生まれ乍らに賢明な人間を探すのは難しい。品種改良は文化慣習としてしか有効とならない。特定集団の形質変異の幅を合目的に調整する為には、配偶選別を文化優生学化する必要を負う。ともあれこれを解除しようとするliberalistが排除しきれる訳ではない以上、品種改良は「家名」の範囲でのみ有効な概念だろう。言い換えれば家名の元では合理配偶が可能。

 曰く人類の目的は文明なりと。なれば文明種の選良こそは人間配偶の究極。如何なる機械生命もこれを代替し得ない、なぜなら人類種には独自の生存価値がある。又曰く同種間競争は進化を速むと。然らば文明化を推進する良策は一国一族の理念に忠実たるべし。更に、そのうちにありて配偶慣習に選良の工夫肝要なり。
 UKの紳士階級・gentleman classはこの一凡例を示す制度なり。
日本にても同然の「特権階級」を開発改良せざるべからず。このような非実用的目的においてしか、真実の文明種の進化というものは地上では不可能だろう。一般人間は暮らしのため経済活動に従事しなければならない以上、最高度に凡庸を淘汰するに過ぎない。そのような平均種こそが、俗間では経済的とされるしかないのだった。

 ともすれば人間達は進化を異生物の出来事と考えがちだが、実際には人類種は絶えず生存競争と自然淘汰を繰り返して歴史を紡ぐ。その栄枯盛衰は全く一時の戯れであろう、何しろ生態的地位の頂点種にとってはその上位には人格の完成以外の奪還すべき旗印を持たない。これを「神格」と仮称する場合も往々にして信仰という方式でやはり社会淘汰の競争法を選ぶだけ。
 ならば、人間の繁殖そのものには選良の目的がなければならない。この種の輪廻を脱出しうるのは進化した人類以上の上位種においてのみだろう。人々は即日にこれが可能だとは信じまい。ところが、突然変異の方向が文明化適応の中道だったと仮定すれば、まさしくこの様な種は社会の中を有利な生存をもって生き残っていくのである。人類ある限り文明が興り、我々はこの様な文明の中に生きるしか道を持たない。文化とは、国情に応じた文明化の方針である。

 日本文化には日本文明にふさわしい品種選良が必然である。これが伝統的にお見合い制度として受け継がれて来たのも当然だった。我々は最も自由恋愛から遠い配偶を文化的に慣習づけることで、狭い地縁国土の範囲でも、最も多彩な縁組みを可能にする方策を編み出したのだろう。そしてこの種の選良によってのみ、我々の進化に合目的な天才も抽出的に招来し得たのだろう。

軍事芸能論

我々の現代にとって、軍事演習というものは紛れなく一個の興業である。此は最早、相撲の次に博物標本されるべき伝統芸能なのである。いわゆる軍隊という組織形態は今後の世界で、無駄になることはあれ必ずや修養されない。その暇に広く若者は運動競技の頂上を目指すだろう。我々は集団安全保証システムによって、積極的な戦争をterrorism以外の方針では、まるで不可能にした。

 軍備は人類にとり「無用の用」として、古きよき儀式としてのみ保存されて行くのだろう。恰も無碍の戯れとなった剣術の様。そしてこの観点からすれば寧ろ、かの自衛隊を名乗る日本軍事とは一つの歴史的に貴重な文化遺産なのである。我々は之を、明らかに時代錯誤となりながらもなんとか生き残った、国史中に古典化された伝統芸能の演劇術として、さも大切に補修して行かねばならないだろう。そうあればこそ、靖国は物好きな一部の歴史学者已が、端睨すべからざる大東亜伝説の記念碑と崇むる宝物となり仰せるだろう。

捕鯨の透明性

理非を分たぬ自称sea shepherdの自文化中心主義には、驚くべきものがある。日本の調査捕鯨はその情報の一切を飽くまで報道公表し、最大限に過程結果を透明化すべきなり。

微分

夕暮れを微分して捨つ冬遅れ

2008年3月8日

国際関税論

人類が地球上で共生を図る唯一の手段は経済貿易の互恵制だろう。
然し国際関税が公平な調整に適わない限り、人倫は不等価交換の暴挙を止めない。
 凡そ、国連決議による関税rateの「累進課税」が行われない間は、我々の国際関係は使用者主義: utilitalianismの弊害としての貿易恐慌をどこかの地点で免れまい。
 市場価格の自動調整機能は需給のbalanceが伴う場合にのみ有効なので、もし不測の事態が発生し、需要か供給のどちらかが極端に増減した瞬間、恐慌対策たる保護貿易しか国家の執れる経済法はない。
従って、この場合、国内市場に充分な消費力を希望できない国家は、周辺民族への武力侵攻以外では結局、不況を打破し得ないだろう。

 このような第二次世界大戦の教訓は未だ充分に反省されているとは言えない。
最も優先すべきはGNPに累進した国際関税を加盟国へ義務付ける条約を批准させる事。
 この上で、徐々に常任理事国を中心として国連政府の樹立に繋げて行かねばならない。なぜなら武力侵攻を抑止するには加盟国全体の武力主権の譲渡が必然。
単に条約として努力目標にしかならないなら、我々の国家間に何れ恐慌戦争の惨劇は繰り返される事だろう。

工学

リニアモーターカーを一般公道用に設らえる事は構想的には可能であり、後は路面unitの整備が必要とされる。車輪分の摩擦負荷を避けられる限り、何れあらゆる電気自動車はリニアモーターカーに代替されざるを得ない。
 我々は如何に車体の自由な方向転換や節電が可能かを研究しなければならない。
 また電磁波を電気に効率よく変換する方法を考案しなければならない。いわゆる交流発電器を改良し、人体に害を及ぼさぬ長波の範囲を利用した、コードレスの送電システムを作るべきだ。
 此を可能にしさえすれば、我々は例えば水星の衛星発電を整備することを通じて、今後太陽ある限り、最大50億年は発電源に心配を持たないだろう。ともあれ、その前に我々は灼熱の核膨張から脱出しなければならない。

2008年3月7日

小池

夜更け過ぎラーメン食いけり小池さん

世代福祉の法

人類が文明を没落させた最も典型的な事例はみな、階級拘束にある。階級流動が文明に新陳代謝を斉す原理なのは明らかなことだ。活力は若芽の伸びしろを老賢な配慮で利用する時に萌え出す。例えばsports businessはこのような仕組みを巧みに内部経済化した例示だろう。
 敬老精神は我々が世代間共生を図る為の智恵であり、此を経済化するには尚且つ創意工夫を要する。産業構造の刷新速度は速まることがあって遅れはしないのは、entropy増大則に適う。同時代にあれど伝統芸能と先端産業が住み分けしなければ文明間衝突は防ぎきれないだろう。是が生み出す無駄は国家を倒す危険性すらあるに違いない、恰かも老人趣味の我が侭で一冒険企業家を貶めて世界中の先端産業から一世紀の遅れを執るように。
 よって、経済関係を通じてしか我々は決して世代間共生を図る道を持たないだろう。経済社会において介護は金銭以外では容易に買えないように、人間が経済人たる限り、閑暇を老幼保養に奉仕させるにも随分と費用が要るだろう。
 にも関わらず、階級流動と世代交代を協調させるには、我々は金銭関係以外によっては拡がることがあって縮まらない時代意識を互恵的に媒介なし能わないだろう。単なるserviceや奉仕の枠内で、我々は如何にも巧みにそのような冷血な関係を幾重にも覆い隠す企業競争を怠るまい。
 ともあれ、もしもまともな金銭を持たない老人があれば、彼らは身近な温情を頼るしかない。このような共同体環境の辛うじて残るのは大体において、若者が完全に流出しきらない地方の市町村でしかないだろう。要するに、彼らはどの世でも因果の網に囚われる。経済力はまるでその功徳の程を推し量る指標の様に機能している。これが飽くまで厳密でないのは、人間の中庸性が人間を差延し続ける時代環境に適正である理由だから。然らば政治的調整の必要も又不変となる。

人間

世代交代とは文化の新陳代謝。これがなければ動植物個体が生殖を通じて多岐化する理由はない。又、同じくnation state間の絶えざる興亡史の理由もなくなるだろう。世界精神とは我々の社会進化論。
 我々は既に時代産業の中枢から遅れた自らの文化を伝統と呼び、恰かも土に還す。それは博物館の肥やしになる。
 この様な脱構の経過の最中にしか、文明と呼びえる人間生態系は存在し得ない。我々の競争心が文明を進歩させる根源因なのは明らかである。我々は努力という方法で、その効率を常に技術革新させ続けている。これがある時、まるで寄生ないしは共生のように映るとしてあれ、その様な関係は不変ではなく、産業構造の変化は避けらない以上、巧く人間から隠れ僻地の野蛮人に返らない限りは、いずれ淘汰される。
 人間では絶えず生まれくる自らを時代環境へ適応させるしかない。さもなければ、その様な努力を怠った民族は、人類国家間の生態的地位を卑しめられるのが必須。
 人間は平和的に振る舞う能力を、生態的にしか与えられていない。言い換えれば我々は生態的にしか共生なしえまい。それは決して我々が生物以外ではないこと已を意味する。こうして、経済は功利と福祉の均衡関係を様々に工夫することで我々の産業を高度化し続けている。我々はそれを活かしながら適応するべきで、逃避してはならない。なぜならこの経済力によってしか、我々は人類内でさえ生き残ることができないから。そして経済力とは即ち、時代環境への適応性、それは不易流行の産業構造を常に転覆建設していく様な、人間の創意工夫が生み出す普遍の競合状態である。

思索

如何なる経済体制も仮設。産業技術は絶えず刷新されている。これは我々の科学知識が更新緻密化される限り普遍。従って、我々は無限の脱構築の内部でしか生き長らえない。経済人とは時代構造の変化に適応しうる人間を云う。
 体制は常に改革されない限り内部矛盾を生じ、自ら腐り堕ち滅ぶ。諸行無常とは生態の法則。産業は技術力の差延においてしか商売にならなかった。

経済

経済とは我々の文明の演劇的審美性。我々は経済というもの以上を望み得ない。にも関わらず、趣味に還元できるよい経済とわるい経済とがある。

2008年3月6日

数学教育論

数学は科学の道具である。ともあれ、この道具の精度がそのまま科学理論の射程をも意味する限り、我々はその切っ先を研ぐ必然を負っている。
 論理学はmathematics・学ばれるべきものの一野。これは記号論理学として既に歴史上、各国語の文体学・grammatologyから分節されているのだから。教育に際して此のみを別個に取り出す理はない。寧ろ詭弁術・レトリケーの増長は民をたぶらかし国を滅ぼす実例甚だしきが故に、総合判断力たる審美感情を育む文学つまり過去の文献考証を論理学単体より尚も優先するがいい。目的を誤つ論理は恰も無法者に渡せば害のみ。なおこの文献には、記号を用いて書かれたすべての書籍を精選するを得る。

信仰

善人を誹るは悪人を誉るに等しい。
これらは業である。

 賢者を貶め、愚者を尚べば即ち身の破滅に繋る。
是はみな業である。
 この世では心の清さが体の飾りに優る。
さもなければ悪魔の化身に騙される。
 聖の忠告を疑い、邪な甘言に乗せられて地獄行きのbusで浮かれそやす連中を見よ。
自業自得の劇場は世の中すべてを貫く摂理である。

信仰

悪は自滅する。

良き者こそが生き残る。

2008年3月4日

企業…Digital audioの改良

先ずミニMemory cardの容量を、丁度CDアルバム収録可能な程度に抑え、一枚数百円くらいに市場価格を調整する。
[この際、むやみにソニックステージへ一元化せず、最も将来性のあるオープンソースを基準にすること。
民間エンジニアからの開発可塑性がなければ後ほど、技術革新に出遅れるであろうから]

次に、これを搭載可能なdigital audio playerを販売せよ。
なおかつ、MDの国際的な普及の情況を軽視せず、ステレオコンポ機能はあまり直ぐには緊縮せず、この差し込み口をさりげなく付け加えておけばいい。
 デジタルオーディオとCDに特化したコンポは、極めてミニマルなデザイン性という面にのみ特注せよ。
必ずしもこちらが直ぐに、家庭内パソコンの普及していない世界中で繁栄するとは言えず、飽くまで進化の一葉と考えていても悪くない。

運動の骨

運動に関しては、むしろ理性を利用して本能に物言わせるべきだろう。

南京慰霊の日

我々は共産党政権の自滅を見届けてから、「南京慰霊の日」を国民の総意で定めるべき。然し、この方便には各国の共鳴を経て後にすべきだろう。辛抱づよく、腐敗体制の自己解剖を晒す中国の国際不信を待て。飽くまで遺恨を残さず。

2008年3月3日

在日米軍

恰も陣中の獣の如し。

戦争論

女と軍人は和を乱す。この二者へ権力を持たせれば愚者や子供よりもっと酷い悪さを無意味に、平気でする。古来、最も陰険にして残虐な悪業は彼らの悪意志による。もともと判断力が足りないから、師傅の指示を仰がねばまともに動けないのだった。彼らに自律させて良い事は一度もなかった。非情の戦乱と淫乱の退廃が性懲りもなく幾世も繰り返されるだけであり、何一つ進歩はなかった。常々、歴史へ進歩的成果を築き上げたのは直に、文化人達だけであった。文民統制が必須である、と肝に命ぜよ。
 武士は軍人などではない。従って軍人のように卑しい真似はできない。軍人は上官に操作される肉弾器械だから、南京で非情な大虐殺を行ってすら、何ら罪を憶えない有り様。これは雇われ賊である。
 誠の侍は自律した判断で君主へ忠義を誓う。卑劣な真似をすれば名を汚すだけである。忠臣蔵を宜しく参照せよ。全員殉死を覚悟せねば正義の士たりえない。例えば、小野田寛郎氏の尊き懸命はひとえに、自律精神の賜である。

外交処方

触らぬイスラム圏に祟りなし。

2008年3月2日

東アジア産業の概略

凡そ国際共栄に当たっては貿易縁起を原則と為す。曰く、一国の孤立は分業の邪魔になり、却って人類間の秩序を乱す。例えば某国の単独行動主義は毫も模範に足らず、むしろ自己中心の極度に至って世界中からの顰蹙ものなり。かのような姿勢はいずれ、貿易収支から虐げられる弱者へ深く、怨みを抱かせるのみである。世の為人の為に奉仕せず、ただ私利をむさぼり、共感されない商いは淘汰されてしまう。このような成り上がり素人を我々は成金と呼ぶ。真の富豪は身を粉にして働いてきたし、いやおうなく義侠的である。かれを我々は苦労人と呼ぶ。
 和辻やリカードの国際分業説は一考に値す。各国風土に最適な産業で互いに協力すれば、互恵の関係は自然なりと。が、また今の国連組織が不完全な限り、我々は飽くまでも国家を拠り所として生活していかねばなるまい。従って、完全に産業内容を偏らせ他国へ依存しきることはならない。ともあれ、比較的に得意な分野を国家的産業として伸ばすことは何より悪くならないのだ。弱点の克服は、長所の成長と相関的である。例えば、あるサッカーチームに組織力は充分であれ個性的な攻撃力をもつ人材がいつも欠けていた場合、このチーム全体の戦闘能力を向上させたければ組織力を大事にしながら先ずは、極めて優れたストライカーを抜擢養生する他ない。この為には手段を選ばず、血筋の全く違う助っ人をワントップに置いても構わないくらいだ。競技娯楽である限り、かような采配も戦略のうちだろう。と同じように、日本は少なくとも現代国際においては技術文明を得意としているようである。日本製品の信頼は世界的に堅い。
 ともあれ、この高い技術力を支え、かつ国際福祉に結びつけるには自国のみの流通は必ずしも適さない。優れた製品をあまねく経済流通することが、また最良の国際貢献となるであろう。軍事力を持たないと言うのなら尚更である。武士に二言はあるまい。
 ASEAN市場の規模は、EUが377万人、NAFTAが418万人に対して、遥かに小さな島々へ528万人も存在している。つまり、我々が先んじて彼らの発展を後押しすれば、東アジア市場の繁栄は他の二方を大きく超えるのは必ずや疑いない。好機会を捉えられない人物は勇気がないのだ。
 なお、ASEANと分裂中で手間取る朝鮮に先駆けて深く親交協業を図り、市場提携を深めるのについて注意を要するのは、台湾や日本は台風の風下であるということだ。例えば、Europeにおいてはイギリスの工業化に伴って、偏西風の風下であった北欧は酸性雨に悩み、結果、取り返しのつかない風土的重傷を負ったのであった。これを外部不経済の拡張としての国際公害と呼びうる。美しい自然風景を誇っていたスウェーデンでは、4000もの湖で魚が死絶しなんの生き物も住めなくなり、井戸水は毒素と化している。
 以上の前例を反省するに、ASEAN付近で発生する台風がもたらす汚染大気の拡大を事前に予防するためには、行政先取の活発な提言による排煙脱硫装置の義務付け条約を何らかの貿易差額の福利と引き換えに早速、締結しなければならない。これが最優先事項である。
 と同時に、東アジア圏一帯の風土特性を考慮する限り、何らかの支援さえあれば猛烈な勢いで繁茂しうる旺盛な生命力を秘めた東南アジア諸国にとっては、かれらに得意な産業分野として、日本企業の高度技術知財を利用した勤勉なる軽工業が次第に究められていくであろう。これは既に優れた教育民度を誇る台湾においては更に、かなりの情報産業化を辿るだろう。台湾の美しい自然財源は決して観光立国との両立以外では活かしきれまい。重工業化を推進させてしまっている移入中華民こそ重いのでは。
 そして少なくとも口には含めない限り、命取りの大事にはなりようもない重工業については、大量の単純労働力を抱え込む中国大陸へ世界の大工場へ委託事業として譲るべきだろう。その際のOJTが殆ど教育の行き届かない貧村をも助けるのだから。
 ともあれ、かの国内公害を最小化することは又地球環境の保全である。この為には国際条約と国連監視による、工場の厳重な監理が必要である。仮に多少なりとも流毒の違反を見つければ、これは自称中華民全般の公徳度を考える限り、避けられまいが、即刻、これを企業自身の自重制裁たる賃金封鎖で罰するしかないだろう。およそ寒村に恐ろしい兵器はもちえないのであるから、逆ロックアウト、労働者の締め出しによる仕事の停止は彼らの宗族自身に窮乏をもたらす。従って消極的な愚痴以外で逆らう方法はない。この種の労役鍛錬の繰り返しによる、地味なやりとりだけが彼らに、ほんとうに仕事の大切さ、人々の為に額に汗をかいて働く楽しさを悟らせうるのである。
 なお共産党政府にこの種の問題への制裁能力は期待できない、何より彼らは伝統的に中華民族の中央集権搾取装置なのであるから、幕府の国際不信だけを極度に恐れており、この為に不信を暴く行動を自ら執る可能性はない。共産党政府に関しては飽くまで一応の、お役所仕事的な窓口とだけ考えてよいのである。

睡眠

人間ほど醜い生き物はない
だが君は又人間なのだ
凡そこの世では何もかも夢に等しい
人は記憶の中に生きる
そしてやがて失われ往く
あらゆる時代が患う病を君は又おぼえる
況してや何を指して回復と呼ぶのかさえも
ひたひたと沁みる雨傘
昔話の中玄関に待っていた
一輪の野菊
もう直ぐ雨は止む
暫くは待ちぼうけ
旅行く人の声がする
移動して
インドの道端に鈍い陽射し
瓢箪や
鋭く尖った
エスカレーターの流れに併せて
向日葵の商売
次々と名づけられる模様
甘やかすくじらが潮噴き虹が出た
南海探険今日も順調
都会の昼間爽快な青空屋上庭園けれど排気ガスも酷い
房総半島に半導体が落ちた
ボートを漕ぐ小熊の大将それ行け
薬草にホイミをかけて願うことは
彼方の目に映るのは
現象の底で待ち合わせかもねとぞ侍める
光の約束を見た
すると一日が始まった
指輪はもうなかった
夢枕に落としてしまったから
ただの戯れでしかなかったが記憶に残る物語は精彩を欠くのに
新しく人生は何もかも前世の因果のままに始まる
何しろあなたは新生児なのだから
目覚めよ
そして地球の一員となれ

信仰

人間は肩書きや身分の故に貴いのではない。
唯その努力と才能の故に貴い。


この普き人道を踏み破り、年齢差別をして恥ずかしげもない悪人は、いずれも老い先みじかく、かつ来世で地獄に再生することであろう。

朝鮮外交官の徳

朝鮮民族は酒豪故、北朝鮮との国交を回復に向けて行くに当たって、日本人の外交官は侍の一分をわきまえた酒呑みを派遣せねばならないだろう。

2008年3月1日

ODAの矛先思案

我々は絶えず脱構築さるべき正義の為に貢献する。

孔子曰く後生畏るべし、と。
凡そ後発国の方が、様々な援助や優れた先哲が踏み分けた整備済みの街道を通じて、先進国が辿ってきたより素早く発展することができるだろう。

従って、我々は後発国との文化的な共生を尚ぶ。
 日本人からのODA支出は、みずから立ち上がりつつある優れた力量のアジア諸国に対する分を、彼らと共に商業を営むに併せ徐々に減らして、むしろこれまで世界史上で極めて弱小な経済力しか持たされなかったアフリカの人々に積極的に分け与えねばならぬ。
 富の偏在はもののあわれに流れる只の自然に過ぎず、『浄財』により人類産業間のbalanceをいまや回復せねばならない。

 日本を訪問なさり、「勿体無い」という我が国に古来の言葉を尊んで行かれた、至極丁寧なる客人たるケニアのワンガリ・マータイ氏へ、建国に緻密な討議の必要な事を未だ憶えない無頼の徒から、殺害脅迫文が届いたと極東にあれど新たに聞く。
このような悲惨な情況にありて政権をきちんと立て直すには、専ら国民の識字教育度を少しずつ向上させるようにしなくてはよくない。
そしてこの為にはnoteや鉛筆、教科書や黒板など、豊富な場所にとっては極めて安価なものを援助するだけでも、決して余程足りなくもないのである。
 経済大国と呼ばれざるをえない日本人の《贅沢》こそは、国民みずからを厳しく戒めるべきだろう。質素は華美よりきれいである。
たまたま与えられた一時の幸運な地位に奢り、アフリカ諸国に足りないものを簡単に捨てて省みない者は、果たして天からどう見えるであろうか。