2008年3月14日

人間論

人間達は自らの能力を過信するが故に、宇宙生物が光速以上の移動手段を見つけていれば、発見され次第、天敵となりえることを知らない。地球人類は未だに出会わないという憶測だけで、星内天敵の無さをみずからの崇高性に結びつけることになった。このような典型的な誤りは全くカントの自信に由来している。我々の理性度がどうしてその大脳新皮質の厚みに制限されないことがあろうか。
 もしチンパンジーよりヒトが理性的な部分を持つとするなら、全くこのような脳皮の厚みを自然淘汰から確保してこれたから、という結論に行き着くだろう。それがどうして大宇宙の至上目的にまで還元できようものか。論理の飛躍も冗談に限っては、西洋の面白いユーモアとすべきだろう。
 我々は他の地球生命を様々に摂取して自らの有機エネルギーを絶えず回復するが、同時に、他の生き物を守り育てることでかれらの生存を保障する。というのは、人類の生態的地位を妨げない限りに於て、如何なる多様な生物も並べて生命全体の生存目的に叶うから。
 地位の高い生物が最も時間適応的とは限らない。少なくとも個体増殖数と死亡率の低さにおいてその相対的な繁殖率は地理空間に依存する。歴史の常として、空間支配がそのまま、時間の王権とは限らない。
 我々は自らに与えられた生態的地位を全うしなければならなかった。それが星の内外をふくむ他の生物を見下すことではないのが明らか。我々は自分を守るべきだった。
 Homo sapienceは世界を理解するよう努め、その目的に沿う使命を果たさねばならない。調和としての宇宙は我々に最高の教えを与える。道徳律に一致した秩序は、精神とされる人間の知能の働きにより抽象される。そしてこの様な把握された秩序は、自然が内在する理。一体、理性的な人類はそれを自らの精神作用によってのみ、学識として蓄え積み上げて行く。これはいつしか文化と呼ばれる迄に遥かに洗練されていく。
 そして理性人は学識を自らの由した目的に還元する。これは哲学として社会学化する。結局、我々は人類内に一角の国土を占めることでこれらを芸術に応用していく。人類の巣はこの芸術によって築かれるのであり、結果、自然は系の複合化という手段によって、転化全域の多彩を増す。観想的精神が欲求するのは、これらは理想郷を一歩ずつ築き上げる為に神みずからの作り上げた素材である、という認識だろう。
 自然の合理性とはその自己目的性にある。
 我々が自然を観察し、研究から知識を引き出し、その内ある法則を自らの社会に応用し、やがては自然の中に一定の住処を作り上げたのも、すべては自然が有した自己目的な活動の結果だった。精神は自然の生み出した観賞法。それが人類という生物を活かして、自らの目的としてのuniversalityへ一役を与える。理性が知りうる最高善はこのような世界体系の目的観に過ぎない。言い換えれば精神はみずからの存在意義たる人間界の自覚を、実践奉仕の方針によって絶えず反省しえるだけ。
 精神は至上目的ではない。同じく、人間は自然において許される限りの生態的地位を全うできるばかり。それが宇宙の最高創作である、と実証しうる知識は現代人類に発見されていない。我々はただ自然に寄生し、自らの仕方でその営みに参加できるだけだ。