2008年3月12日

自然学

自然の全てを知るという事は無理だ。我々は我々の概念に応じて、世界の解釈を合理化し続ける積分法が可能な知性しか持ち合わせない。ホーキング氏の虚数の時間のような考えは全く悟性の遊びである。経験に関係ない世界概念というものは我々の思考に値しない。それは第5次元という性質が数学にしか存在し得ない事に等しい。
 直感のない感性は何事も経験に還元し得ない。かの純粋悟性概念の空想とは、単に理論上の狂信を誘いさえし兼ねぬ危険性を含む産物として、ある程度から輸入規制する必要さえあろう。このような僭越が、全く国内思考の科学市場を荒らし、文化を不毛の土地に枯らさぬ前に、とかく実践理性からの分解者を要請すべきだろう。これが科学哲学の命題である。
 我々は科学を通じて認識を純化しうるに過ぎない。それは時間と空間をもって、四次元の範囲内に限って自然科学へ悟性法則(定理)を適用しうる。この田畑に数学原理主義という化学肥料を撒き過ぎた土地こそは何より忌まれねばならない。遺伝子汚染の凝縮率は生態系ピラミッドの消費高次に比例するのだから。
 対して単に経験にのみ信頼を置く自然科学が、最も実証主義の本義を守っている、と信じえる。
 ところで一般に観察する限り、大気の透過性はその空中の水分子への反射率を通じて、入射角に応じて全く異なる色彩を表象している。朝日と夕陽の空色が異なるのは、それが大気中の水分子量を違和するが故に。
 我々は青味がかった昼間の空を、水分子の、従ってO2の透過色として観察する。これはpoolの中でゴーグル越しに水分子を眺めた場合を大気分で薄めるのに等しい。
 しかし我々のうち何人が、何故に水が青いかを知っているのだろうか。我々は空気遠近法が成立する理由を知らない侭、それを実証したつもりでいたのではなかったか。
 ここで、夕方の大気は温められた大地の発散から水分量を朝より豊かにするが故に、その色彩を全く驚異的なほど様々に中間色化することを思い起こすがいいだろう。彼方がそれを経験しているとするなら、次の事もまた同じく理解しうるかも知れない。即ち、水は色彩を持たない。むしろ光束に対する反射率の変異度のみが、その多彩なる透過性を以て変幻自在な空色なのだ、と。だから人々は空色が時と共に万華鏡のように変調しても特に疑問を持たず、それら神の芸術をただ手放しで称賛するばかりである。彼方がもし神秘から造化の骨を学ぶ気があるとするなら、水分子の反射角度が虹におけるように全く合理的なことに注目すべきだ。我々は無色透明なプリズムが全て自由な空色の投影装置であることに感心する。これが神の創り賜いし驚嘆すべき天空が、闇には透き通って星々を、光には水分子反射のプリズムでまことに多彩極まりなき映像的な抽象絵画のうつりゆきを表現する原理である。即ち、空色とはプリズムのそれなのである。
 もし彼方が水晶のような透明な球体を手に入れたなら、それ自体が地球の空の還元模型と考えられる。一体、人知はこれが生み出す光束の複雑かつ精確な色彩の乱舞を、虹彩の地球適応性に鑑みて如何なる感想を抱くだろうか。我々はそこから、如何に人類が色彩を地球環境への全き感性として進化させたかだけではなく、太陽系第三惑星の絶妙の位置をまるで何らかの必然意図を以て配置したかのような、大気ないし地表成分の匠な配偶を視覚という直感表象によってのみ、実証しえる他ないだろう。
 そして我々は安易な悟性概念の濫用を益々、人知の限度を遥かに超えた偉大なる自然現象への崇拝心にこそ代替せねばならないことに悟るのだ。凡そ我々を自然科学の研究に向かわせる最大の欲求こそは、その神秘を極めた創作物に対する驚嘆の情である。科学知とは人為の謙遜を抽き出す反省的契機だろう。