2008年3月14日

科学論

科学探究の真偽は個人的なもの。なぜなら如何なる見識も度合いに応じてしか真実さを持たない。どのような真理も単に我々の認識の比較的な正確さを示すに過ぎず、究極の真を認知する、といった僭越は神にしか無理な話だろう。
 例えば1と0を見分けることは全く認知の課題。ところがこれらの示す意味となると、多くの人間は戸惑うかもしれない。つまり、我々は世界を精確無比に認知する為に絶えず真偽を見分けるよう努めることはできて、決してそれらの意味する本質であるところの真実には触れ得まい。
 数学をする者は悟性認知の論理的な働きを推究するけれども、結局はそれらの差し示す比較的な正確さを問い続けることになる。
 科学の営みが我々に為せるのは「みずから認知せよ」という絶えざるおのが無知の知への啓発であった。
 我々人間が科学文化の交易によって可能とするのは、個人的認知に対して、多少あれ普遍性を伴う法則の共有に過ぎないだろう。あらゆる個人は法則をもってルールに代え、各々の認識を精錬しえるのみ。