カント以降の倫理哲学者が、彼が言う道徳律の最高目的性自体を批判しなかったのは、かなり不自然なこと。
どうして人類がそんなに尊いと彼は信じていたろう。彼の人間性への無条件な絶対信頼には多少のだまされやすさが皮肉づけられよう。我々の史実は、想像しうるほとんどあらゆる過ちを甘んじて犯して進む様な、もっとも不器用な自然の御者に過ぎなかったというのに。ムダな同士討ちの頻度については、むしろ大部分、他の動物にさえ劣ることを反省できる。
自然の狡智はヘーゲルが云う理性のそれに比べてずっと包括的な理念であり続ける。端的に言ってしまえば我々は中世の文脈で云う神様による失敗作。
我々の理性はかつてより身近な部族を守ることにしか役に立たなかったし、人類脳蓋が依然この大きさで、かつ手を加えられないかぎり今後もさほど伸長しないだろう。我々の共感能力には一定度の限界が設けられている。いかなる慈善家がいかにやさしくていねいに高等倫理学説を説明しようと、今日のごとき半開文明における大半の知性には、当為という観念の人格主義的な定義さえわからない筈。
そこには必ずしも矛盾があるわけでもない。我々に宿命された遺伝子は共感能に遠近性を特徴づけて、他人の子どもと比較した可愛さにおのれの命を勝利へ導くべく日夜画作する。理性は本能の変種。
種内競争の醸成はまた、文明体制を効きよく築く便利として普く機能していく。現代人類は後構造主義以来、神様を理性より優勢に置くほどただの語学上の問題で混乱してはいないが、しかしながら普遍的共感を政治抗争の上位に置く概念として一般化するほど優れた段階を到達した社会にいるわけでもない。
国際連帯の組織が超大国を覇権委譲へ導くためにはまだ幾つかの踏み段が必要。
2007年1月4日
近代的理性への反省
比較的優れた知能を誇る動物が居ても構わなくとも、彼らが唯我独尊の境地で理想を最高目的と自省する事には幾分かの偽善がある。
彼らは単にいくらかの知能という特徴を持つ進化の枝葉にすぎない。彼らに相対的存在価値があるかどうかはいずれ環境が決める。勿論我々の脳髄にはつねなる容量的限界があり、恐らく宇宙最大級の知能特化型生命のはずはない。
人間の道徳は人間のための道徳であり、他のための形而上図像ではない。
彼らが自律性を認識し、環境への適応行為を理性的に創発しうる限りにおいて、人間の存在価値はおのずから仮設していけるもの。善は我々の文明にとっての合倫理性を試す語義。よって、かつて理性は我々が人間とみなす以外の生物へは適用し得なかった。
何らかのための手段をとらない理想する行為が、善意志の最も純粋な表現である事は疑われないが、それを生の目的にするには我々はあまりに縁起的ないきものではないのか。実際に、善意志は人間以外の動物へ対しても必ずしも愛玩の道具としてだけでなく、たんなる適意として養護という命題を課す。われわれは道端に捨てられた子猫のたぐいへただの同情から保護するかもしれない。
我々の理想は己れが繁栄を嘔歌するための演技というだけではない。生物への福祉環境を自由の範囲で調整する機能。謂わば理性とは自然の道具であり、古代人類が妄想したように無比の能力ではないだろう。我々はさほど遠くない日に、生化学的にこの精神現象の客観的な仕組みを解明できるだろう。
理性の範囲を狭く、人類の適応行動の適性に限定して反省しなければならない。まず種内における、そして種外へいたる行動原理の普遍的・形式主義的確立が現代倫理学の命題に置かれねばならない。
彼らは単にいくらかの知能という特徴を持つ進化の枝葉にすぎない。彼らに相対的存在価値があるかどうかはいずれ環境が決める。勿論我々の脳髄にはつねなる容量的限界があり、恐らく宇宙最大級の知能特化型生命のはずはない。
人間の道徳は人間のための道徳であり、他のための形而上図像ではない。
彼らが自律性を認識し、環境への適応行為を理性的に創発しうる限りにおいて、人間の存在価値はおのずから仮設していけるもの。善は我々の文明にとっての合倫理性を試す語義。よって、かつて理性は我々が人間とみなす以外の生物へは適用し得なかった。
何らかのための手段をとらない理想する行為が、善意志の最も純粋な表現である事は疑われないが、それを生の目的にするには我々はあまりに縁起的ないきものではないのか。実際に、善意志は人間以外の動物へ対しても必ずしも愛玩の道具としてだけでなく、たんなる適意として養護という命題を課す。われわれは道端に捨てられた子猫のたぐいへただの同情から保護するかもしれない。
我々の理想は己れが繁栄を嘔歌するための演技というだけではない。生物への福祉環境を自由の範囲で調整する機能。謂わば理性とは自然の道具であり、古代人類が妄想したように無比の能力ではないだろう。我々はさほど遠くない日に、生化学的にこの精神現象の客観的な仕組みを解明できるだろう。
理性の範囲を狭く、人類の適応行動の適性に限定して反省しなければならない。まず種内における、そして種外へいたる行動原理の普遍的・形式主義的確立が現代倫理学の命題に置かれねばならない。
2007年1月3日
文明学
文明の永続的発展の基礎には必ずや文明学の成功がなければならない。博学者の哲学的総合によらなければ一文明の将来は覚束ない。
我々は世界史中に多くの文明の興亡を観てきた。又生物種が環境変化に適応して来た様に、文明も時代の唯物史的変遷に応じてその姿を変えて行くだろう。
我々自身は実存的な参加によって世界史を動かす個々の主体。文明学説は人類思想へ影響を与えて彼らの中に格差をつくる。時代の技術水準への適応に成功した文明は栄え、失敗すれば人々は没落する。
もし真に賢い人々が存在すれば、技術水準の編成へ度々進化して着いていくに違いない。我々が文明学説を必要とする由縁。
しばしば何々主義と名づけるところのIdeologieは大抵個々一文明学説の名称。
私は諸々の文明学説の中で、とくに体系化された科学に値するものを文明学と呼びたい。普遍的に共有しうる形に抽出された理論は時代を問わずに社会体制の理想へ適合する筈。
文明を永きにわたり保障するには文明学理の積み重ねがなければならない。数知れず多くの学説を擁藍帰納し、確立された既成学理から演繹推察し、仮説を検証する経過を通じて人間社会の新たな指導法則へと思想を展開させて行かなければならない。
以上の哲学的な志向は人類の本能だけでなく、理性の普遍的願望にも叶う理想だろう。
我々は世界史中に多くの文明の興亡を観てきた。又生物種が環境変化に適応して来た様に、文明も時代の唯物史的変遷に応じてその姿を変えて行くだろう。
我々自身は実存的な参加によって世界史を動かす個々の主体。文明学説は人類思想へ影響を与えて彼らの中に格差をつくる。時代の技術水準への適応に成功した文明は栄え、失敗すれば人々は没落する。
もし真に賢い人々が存在すれば、技術水準の編成へ度々進化して着いていくに違いない。我々が文明学説を必要とする由縁。
しばしば何々主義と名づけるところのIdeologieは大抵個々一文明学説の名称。
私は諸々の文明学説の中で、とくに体系化された科学に値するものを文明学と呼びたい。普遍的に共有しうる形に抽出された理論は時代を問わずに社会体制の理想へ適合する筈。
文明を永きにわたり保障するには文明学理の積み重ねがなければならない。数知れず多くの学説を擁藍帰納し、確立された既成学理から演繹推察し、仮説を検証する経過を通じて人間社会の新たな指導法則へと思想を展開させて行かなければならない。
以上の哲学的な志向は人類の本能だけでなく、理性の普遍的願望にも叶う理想だろう。
都市化
都会では思想の多律により、生活から文化的伝統儀式が消滅するのを観るだろう。功利は寧ろそうした万全日常化の結果を呼ぶ。現行中世人類は世界の均質化を嘆くが、世界中の都心が同じ条件へ向かい等値並列することは人類史上でのある達成を意味する。地球遊民の登場は地球文明の段階を象徴する。彼らは文化から自律しており、国籍ではなく資本運動が、彼らのidentityの規律となる。都会人とは、必ずしも良い意味ではないが、彼らの通称であるだろう。
彼らには語族でさえ有効ではないだろう。そして実効性のために、方言を単に捨ててしまうだろう。文学は普遍言語の流通へ反抗するのではなく、むしろ翻訳によって協賛する。文化的な微妙な差異表現は、翻訳の巧みを養成する材料にすぎない。
彼らには語族でさえ有効ではないだろう。そして実効性のために、方言を単に捨ててしまうだろう。文学は普遍言語の流通へ反抗するのではなく、むしろ翻訳によって協賛する。文化的な微妙な差異表現は、翻訳の巧みを養成する材料にすぎない。
海景の描像
遠い空に浮かんでいる雲が君の足下にやって来て、時間の彼方へ自由を連れていく。それが正しいか知れない。波は飽くなき今を追求して止まないだけ。かなしみそのものが海のあいだへにじみ出す。夕焼けのあとには薄闇のあおさしか残らない。
人という体制が育つまでしばらくの間、青い星の主体を構成してきた水素の行き先。また生き物たちは水を媒介にして価値ある文化をつみあげた。世界はそこから始まった。いつかそこへ帰る。
太陽と月が見下ろしている砂浜の形は時々刻々とうつりかわり、まちからの声をしばしとどめては削除するまっ更な画布である。
人物は小さな点景として、造化の力学に含まれた見えない要素。我々日常の建設とは異なる文脈で、宇宙の再構築に参政している場所だってある。想えばいつでも君はそこにある。
失われるものを求めてはいけない、とひとは言った。失われるものは求めるためではなく、それでなお遊ぶためにあるのだから。
崇高さとは定量化できない大自然への絶対畏怖と似たもの。君にとっての空間的地平に似たもの。さればこそ波打ち際は一時もやまぬ音楽の源として万象運動の姿を示す。
人という体制が育つまでしばらくの間、青い星の主体を構成してきた水素の行き先。また生き物たちは水を媒介にして価値ある文化をつみあげた。世界はそこから始まった。いつかそこへ帰る。
太陽と月が見下ろしている砂浜の形は時々刻々とうつりかわり、まちからの声をしばしとどめては削除するまっ更な画布である。
人物は小さな点景として、造化の力学に含まれた見えない要素。我々日常の建設とは異なる文脈で、宇宙の再構築に参政している場所だってある。想えばいつでも君はそこにある。
失われるものを求めてはいけない、とひとは言った。失われるものは求めるためではなく、それでなお遊ぶためにあるのだから。
崇高さとは定量化できない大自然への絶対畏怖と似たもの。君にとっての空間的地平に似たもの。さればこそ波打ち際は一時もやまぬ音楽の源として万象運動の姿を示す。
場面音楽論
音楽は場面に合った雰囲気をつくりだすための機構である。まず音楽家は自然の中にこの音楽的演出性のための最初の例をみいだすだろう。森の葉ずれの音、清流のせせらぎ、砂浜の絶え間ない波浪、雀や鶏の鳴き声、工場の音、戦乱の音、飛行機の航空音、バイクのマフラー音、高層ビル建設の音、コンサートやライブという演劇体験のための音、CDに納められ生活の中に入り込み時代をあらわす流行歌。
全て我々を取り囲む音楽環境とは場面に対する演出装置の役目を果たす。
実際、人間の聴覚が地球環境の基本的空気・空間構成にとって合生存の中庸適性を持って成立したのは確かである。そして我々が楽器という方法を用いて、この適応感調査のための感覚を合目的再創造に用いうることを覚えたとき、音楽はたんなる実利のためだけの存在を越えて虚構の定義を獲得した。そうして生活の感受的雰囲気を、程度をもって人為的に操作する機能を持った。
アンビエンスという用語は音楽のこの様な現代における機能的側面を定理として言い表したものである、と考えてよい。
音楽家はもはや、流れる場面というものを無視して現代音楽をつくることはないだろう、市場掌握の手法。一方で、場面を超えた普遍的構成をたんなる純粋音楽の為の命題として芸術する指向は否定されるべきものではない。
一度市場で共有されれば作品の流れ方は必ずしも予測できない。音楽家が同時代を代表する名作を合成するべく試行せねばならぬのは、場面と音響とをいかなる関係のもとに作曲するかという課題であるだろう。事実、作品はなりひびく文脈から完全に離れて成立することはなく、また同時にその形態性という特性上、文脈にのみ完全に依存するものではない。
我々にできるのは場面と音響との緩やかな繋がりをある調和的な作為の元に再生するだけだ。
全て我々を取り囲む音楽環境とは場面に対する演出装置の役目を果たす。
実際、人間の聴覚が地球環境の基本的空気・空間構成にとって合生存の中庸適性を持って成立したのは確かである。そして我々が楽器という方法を用いて、この適応感調査のための感覚を合目的再創造に用いうることを覚えたとき、音楽はたんなる実利のためだけの存在を越えて虚構の定義を獲得した。そうして生活の感受的雰囲気を、程度をもって人為的に操作する機能を持った。
アンビエンスという用語は音楽のこの様な現代における機能的側面を定理として言い表したものである、と考えてよい。
音楽家はもはや、流れる場面というものを無視して現代音楽をつくることはないだろう、市場掌握の手法。一方で、場面を超えた普遍的構成をたんなる純粋音楽の為の命題として芸術する指向は否定されるべきものではない。
一度市場で共有されれば作品の流れ方は必ずしも予測できない。音楽家が同時代を代表する名作を合成するべく試行せねばならぬのは、場面と音響とをいかなる関係のもとに作曲するかという課題であるだろう。事実、作品はなりひびく文脈から完全に離れて成立することはなく、また同時にその形態性という特性上、文脈にのみ完全に依存するものではない。
我々にできるのは場面と音響との緩やかな繋がりをある調和的な作為の元に再生するだけだ。
2007年1月2日
政治参観主義
以下哲学者は同時代政治にどの程度かかわるべきかの問題を解く。理論的指導という命題は常に、哲学者の政治術にとり現実的。学究閑暇の欠如により、哲人政治家の政事やまつりごと実践は不完全なものにとどまらざるを得ない。現実の代表使者は応急のため、理想的哲学者は永世のためにある。近遠の方法論確立が彼らの職能差異。日常市民言論の福祉向上と社会学的功績が、哲学者の政事にとっては最も適為だと考えられる。主として前者は議論の善導により、後者は政治学献での達見論述による。大秦王安敦の如き哲人政治の成功が史上一般に可能だったことはない。有能な政治家は指導実践術に長け、だが必ずしも理想的ではなかった。我々には始皇帝へ学識的に馬鹿の分子をより多く看、孔子の中により少なく観るのが偶然ではないと知れる筈だ。政治術には野性の狡智がしばしば必要であって、政治学には特に文明の理念が必要なだけ。智略の用法は文化多元的。哲学者は世論の側から批判することが民主主義の文明化へ役立つと知る。よって彼らの仕事は政治参加ではなく、目指しうる限りでの在野な独立された政治の理解でなければならない。我々は実存主義思想をこえて、言論は政治的実践とは独立した見識であればこそ哲学的であることを認めうる。言い換えれば政治的拘束から自由を目指す善導の源にのみ、philosophyの当為を見てとる。なぜなら理想は功利へかかわらずの最高目的、即ち政治学的世界市民主義の基本原理。そしてそれが実践術の理念を永きにわたり統括する役目を持ってこそ、哲学は史上政治学の水準を達成する。単なる政策は実用主義の範囲に属するものであり、理念にとり使い捨ての道具であるに過ぎない。だから時と場合により価値が変動し、すなわち同じ策でも善し悪しの境界線を流行曖昧中にしか見ない。
私は暫く以上をもって哲学者の政治参観主義を唱える。彼らが担うべき言論政は大衆向け短期につき学者向け長期につき、あるいはまた賢衆へ向けた中期的見解にあれ在野独立の地位にあってのみ正義であると考える。我々は功利主義とは無縁の自律福祉術を追求するためだけに、政治的立身や具体的献身の成果を棄てなければならない。尤も、この最後の文脈が経済功利を否定する内容ではない事に注意せよ。ここでは政治学的功利主義とは公民制裁理論としてのそれを意味する。
私は暫く以上をもって哲学者の政治参観主義を唱える。彼らが担うべき言論政は大衆向け短期につき学者向け長期につき、あるいはまた賢衆へ向けた中期的見解にあれ在野独立の地位にあってのみ正義であると考える。我々は功利主義とは無縁の自律福祉術を追求するためだけに、政治的立身や具体的献身の成果を棄てなければならない。尤も、この最後の文脈が経済功利を否定する内容ではない事に注意せよ。ここでは政治学的功利主義とは公民制裁理論としてのそれを意味する。
趣味主義の基本
我々は数理科学によって世界認識のための抽象的方法論を発達させられた。仮証法的な漸進理解の際にのみ科学は成立する。文明とは精神に因果をもつ別体系の自然である。我々の理性とは最高目的としての思索する主体性の意味。結局、我々は理性を厳密には自然に対置し得ない。反自然的理性の定義は近代思想の誤解だった。理性とは自然が産み出した精神にすぎない。
ところで我々は理性を究極目的にもつ精神実在を至高と見なすためにはあまりに恵まれた時空場にありはしないか。我々は未だなにも知らない。我々は宇宙世界の赤子に等しい。我々の文明は殆ど野性と言ってもよいほど幼稚で憐れで惨めなものでしかない。その様な最古代における人類の一員として、私は理性を観想における至上命題と考えたくはない。少なくともそう仮定することは理性批判という点から幾分なりとも建設的。無論、野蛮の旧弊にあった、形而上的人格観念たる神のせいにする気はないが、我々にとり理性という観念は常に、非我へのinterfaceを文脈づけるものでしかないだろう。
我々が自然に働きかける仕方には促進とか、禅譲とか、回復とか養護とか再生とか、近代思想とは別の現代的見識も生まれうる。なぜなら主体性は媒介物とは別の理念であり、別の地位。我々は理性を自然の延長にある自律的精神として最定義する。それはしばしば後構造主義哲学の様に文脈上の道具にもなりうるし、また最高目的善化もされうるに違いない。
自然と矛盾しない、その粋的見識を理性に対して描像するなら、我々は理想主義と道具主義とを止揚する新たな思念の立場を持つに至るだろう。いわば趣味主義という考えはこの範囲に属する。
我々は理性を、entropyの次元でたえまなく遊戯する自然の、生化学的に抽出された本性とみなす。
ところで我々は理性を究極目的にもつ精神実在を至高と見なすためにはあまりに恵まれた時空場にありはしないか。我々は未だなにも知らない。我々は宇宙世界の赤子に等しい。我々の文明は殆ど野性と言ってもよいほど幼稚で憐れで惨めなものでしかない。その様な最古代における人類の一員として、私は理性を観想における至上命題と考えたくはない。少なくともそう仮定することは理性批判という点から幾分なりとも建設的。無論、野蛮の旧弊にあった、形而上的人格観念たる神のせいにする気はないが、我々にとり理性という観念は常に、非我へのinterfaceを文脈づけるものでしかないだろう。
我々が自然に働きかける仕方には促進とか、禅譲とか、回復とか養護とか再生とか、近代思想とは別の現代的見識も生まれうる。なぜなら主体性は媒介物とは別の理念であり、別の地位。我々は理性を自然の延長にある自律的精神として最定義する。それはしばしば後構造主義哲学の様に文脈上の道具にもなりうるし、また最高目的善化もされうるに違いない。
自然と矛盾しない、その粋的見識を理性に対して描像するなら、我々は理想主義と道具主義とを止揚する新たな思念の立場を持つに至るだろう。いわば趣味主義という考えはこの範囲に属する。
我々は理性を、entropyの次元でたえまなく遊戯する自然の、生化学的に抽出された本性とみなす。
博物学
問。人間とは大宇宙において如何なる存在なのか。精神とは銀河史においてなんの意味なのか。太陽系における地球の中で、人類とは、また個人とはなんの体系内価値をもつものなのか。造物・creationの理由と芸術・recreationの理由。
繁栄の目的はなにか。なぜその目的が哲学合理づけられるのか。世界の化学的要因。生物が繁殖した組成原因と予測される結果を解け。彼らが生存闘争を生み出した理由はなにか。その背景と結論。
可能なかぎりにおける、趣味の科学的な分析と理論化。正義や真理についても同様に。
繁栄の目的はなにか。なぜその目的が哲学合理づけられるのか。世界の化学的要因。生物が繁殖した組成原因と予測される結果を解け。彼らが生存闘争を生み出した理由はなにか。その背景と結論。
可能なかぎりにおける、趣味の科学的な分析と理論化。正義や真理についても同様に。
2007年1月1日
地階の住宅
半地下に掘りぬいた、過半が地中にある週末住宅。鋼板で囲われている。天井面に大きなトップライトをとり、ひよけを設けて光度を調整。天気の精細な変化がじかに感じられる。トップライトの一部は太陽光発電装置をかねており、昼間以外も電気代を抑制している。室内の主な仕切りはカーテンにより、ゆるやかな一室空間がいろとりどり見え隠れする。この住宅は地下が地上より温度変化がすくない好条件を活かして、縄文時代の竪穴式住居がもっていた先駆的な利点を現代へ摂り返す事になるだろう。
内観
大まかな部屋毎に段差のある内部空間。それぞれの部屋ごとに独特のおちつきと、たかい天井高を確保できる。
2006年12月31日
美術館
都市という総合芸術は文芸の前提に存在する。我々は文芸という観念造形的営為を暇つぶしの仕方として用いる。小説なる形式は、かの演劇術のために設らえられた台本の役割を果たす。
我々は暗喩にあれ、人間活劇の方法論において小説を読む。万人のための脚本として模範を示す目的が文芸にはある。音楽、絵画、彫刻、建築、そして詩歌と順に次元を上げていく芸術構造は演劇という最終形式で完成するだろう。そして我々は芸術におけるモダニズムが普遍化を旨とする事を知っている。現代芸術家は審美という道を辿り、個性のための表現をやめて、やがて万人のための世界をかたちづくる。
我々は自然への抽象という作為の結果、自らが芸術界の住人である事を悟る。彼らの環境作法を規律するための合目的方法論に関する試行が、芸術という適応営為なのである。則ち、演劇術、生活術において君は人生を崇高な作為と認識するだけの環境的恵みを必要とし、その演繹還元上の帰結として日常における合理観を調える。
演技とは、合目的性あるいは合理観の演劇芸術的実行である。
文明芸術の総合は、芸能人生においてその審美目的を達するのである。この様な当為的未来における芸術の完成のあとには、現代人類が認知する芸術とは違う概念が市民へ自覚共有されているだろう。現世人類までに至る我々は、芸術という形而上イメージをまずたんなる工芸分野区割の工夫に用いてきたにすぎない。また、その発展として、趣味という範畴を通じて生産工芸品を非体系的に民主審査し、環境学的合理性の時代適応度を再三試験してきたにすぎない。未来人または文明人が芸術という用語をつかうのは純粋技術の意味においてのみである。それは今日におけるごとき応用方便、或いは付加価値創発的な遊びを内容しない、ただの人間原理上の合理作為を表現するために表現されることばとなるのだ。それは特権的理念である事をやめるだろう。またしばしば高尚理想であるとすら意識されないだろう。創意工夫のとるにたらぬ独創や天才を指すものですらなくなる。我々は芸術というイデアを人間の環境再創造行為の基本主義として普通一般に認識するに至る。いわゆる造型美術における美術館の役目はそれまでのあいだ、大衆を啓蒙しつづける、暗喩下の社会環境模式を示した公民学校となることだ。更に、美術家とはここでの指導者を意味し、彼らの公務は想像しうるかぎりにおける普遍感覚の導引なのである。
我々は暗喩にあれ、人間活劇の方法論において小説を読む。万人のための脚本として模範を示す目的が文芸にはある。音楽、絵画、彫刻、建築、そして詩歌と順に次元を上げていく芸術構造は演劇という最終形式で完成するだろう。そして我々は芸術におけるモダニズムが普遍化を旨とする事を知っている。現代芸術家は審美という道を辿り、個性のための表現をやめて、やがて万人のための世界をかたちづくる。
我々は自然への抽象という作為の結果、自らが芸術界の住人である事を悟る。彼らの環境作法を規律するための合目的方法論に関する試行が、芸術という適応営為なのである。則ち、演劇術、生活術において君は人生を崇高な作為と認識するだけの環境的恵みを必要とし、その演繹還元上の帰結として日常における合理観を調える。
演技とは、合目的性あるいは合理観の演劇芸術的実行である。
文明芸術の総合は、芸能人生においてその審美目的を達するのである。この様な当為的未来における芸術の完成のあとには、現代人類が認知する芸術とは違う概念が市民へ自覚共有されているだろう。現世人類までに至る我々は、芸術という形而上イメージをまずたんなる工芸分野区割の工夫に用いてきたにすぎない。また、その発展として、趣味という範畴を通じて生産工芸品を非体系的に民主審査し、環境学的合理性の時代適応度を再三試験してきたにすぎない。未来人または文明人が芸術という用語をつかうのは純粋技術の意味においてのみである。それは今日におけるごとき応用方便、或いは付加価値創発的な遊びを内容しない、ただの人間原理上の合理作為を表現するために表現されることばとなるのだ。それは特権的理念である事をやめるだろう。またしばしば高尚理想であるとすら意識されないだろう。創意工夫のとるにたらぬ独創や天才を指すものですらなくなる。我々は芸術というイデアを人間の環境再創造行為の基本主義として普通一般に認識するに至る。いわゆる造型美術における美術館の役目はそれまでのあいだ、大衆を啓蒙しつづける、暗喩下の社会環境模式を示した公民学校となることだ。更に、美術家とはここでの指導者を意味し、彼らの公務は想像しうるかぎりにおける普遍感覚の導引なのである。
善導
我々は言語概念を利用していずれ文明を促す。哲学は言語の用法を記述するに過ぎない、というヴィトゲンシュタインのideaは正当でないと批判できる。なぜなら言葉は道具であり、脱構築的にあれ実用的にあれある思想を形相づける方法。言語学批判に限らず。
我々は言語固有の文化を持つ。よって普遍的観念即ち概念を創造するため、つまり啓蒙のために必要な文脈は各々異なる。脱構築という哲学的批判の方法は、文脈の相対化に役立つに過ぎない、それは語族に由来する仲間性を文学から排除する。脱構築とは文学批評専門の道具。そして無論、破格そのものは目的ではない。
我々は破格によって哲学の終点へ辿り着く訳でもない。思想潮流による近代化をおこなうのは、文章の善導的使用の歴史的努力に違いない。文明は哲学を善導の中枢と見なす。
我々は言語固有の文化を持つ。よって普遍的観念即ち概念を創造するため、つまり啓蒙のために必要な文脈は各々異なる。脱構築という哲学的批判の方法は、文脈の相対化に役立つに過ぎない、それは語族に由来する仲間性を文学から排除する。脱構築とは文学批評専門の道具。そして無論、破格そのものは目的ではない。
我々は破格によって哲学の終点へ辿り着く訳でもない。思想潮流による近代化をおこなうのは、文章の善導的使用の歴史的努力に違いない。文明は哲学を善導の中枢と見なす。
2006年12月30日
芸術教育論
芸術家一切の予備訓練は人文教養の涵養に他ならない――『判断力批判』
いわゆる技法の洗練には多くの選択肢が要されるの必至だが、そこであやまたず、より適切な形相構成条件を導出させて止まぬ源泉こそ、かの勉励により育まれる高い人間性に違いない。我々にとって、芸術アカデミーにおける審美指導という事は全く不可能に属する。というのは、趣味の左右とは体系学のあずかり知らぬ所においてのみ有効だからである。則ち一般に知られる如く芸術それ自体は術であり、全くに学ではない。史学と審美は相異なる観念である。従ってフランス・ボザール式の芸術アカデミーの地球的伝播は多大な過ちを侵している。それは中世ルネッサンスへの潮流的規範意識から端を発する、古典主義への退行に寄与してきたに過ぎない。
我々は、芸術教育とは究極、師弟間でしか十全な姿を取らぬ事を知っている。理念に対する人間的姿勢としてしか審美観の伝承はできない。巨匠が亡くなれば遺された傑作の模倣から、規範となるべき思想の跡を幾分汲みあげる事ができるだけである。我々の社会にとり芸術アカデミーに存続の価値があるとするならば、第一にそこで人文教養の滋養とみなされるべき、文化人類学的なliberal arts教育が行われる限りにおいてである。第二に、時代において最も基本的な方法としての造型技術が、極めて体系的に専門伝授される限りにおいて。そして第三において、又これこそが死活命題ともなろうが、当世第一流の芸術家を教授として招聘しえる限りにおいてである。
だが人々は時代の先鋭に対しては否応なく無理解を以て応えるものであった。感性の先導、それが芸術の意義でもあるのだ。よって究極的に、芸術アカデミーは第二流以下の芸術家を以て仮に、暫時少なからず悪例としての審美学的授業における教授役の歴へ当たらす他には現況、致し方無いのである。大抵の我々がモダニズムのベクトルはanti-academicに発して行くのを史上に観察するなら、それはことごとくみなこの第三の理由に因るものである。即ち、凡そ芸術アカデミーにはたんなる審美観を生かす術においては常に、二流以下の啓発しか行えない仕組みになっている。我々は今後も永らく第一流の芸術家がいつでも芸術アカデミーの影響のない純正無垢な場所から生まれ出すのを幾度とも、歴史実中に観察するだろう。それは彼らが必修の第一、人文教養と第二、専門技術および第三、審美観とを独習で覚えて来たからであり、かねてより神話化され闇に封じられてきた天才による訳とも必ずしも言えないのだ。
そして第三、審美観の養生は一流の師弟間感化、または去りし巨匠の模倣、さもなければ広範深遠な芸術史学によってしか育たぬ以上、いわゆる卒業単位取得がため二流以下の芸術教授とやらがため無理にでもおのれが作風を堕落せねばならなかった悪弊を補うだけの価値は、独習の苦労にはいつでも充分ある訳だ。我々がもし近未来のより素晴らしい、新たな芸術風土を生み出したいと願うならボザール流の既成芸術アカデミーをその権威ともども根本廃絶しなければならない。尤も、この学究的先覚が専ら百年のあいだ大衆一般からの理解を得ることはなかろう。従って我々は漸進的改良、即ち徐々の芸術アカデミー撤廃と新体制の樹立を以て来たるべき現代芸術家養成の環境を整えていかねばなるまい。我々には今でも第一、人文教養は一般大学のいわゆるliberal artsあるいは教養学部で補えることがわかるし、第二、専門技術に関しては、特殊な工芸の専門学校または通信教育のような技術専門の教育制度の意義を再認識し改良、かつ勃興奨励することで養成していけるだろう。そして第三、審美眼については、飽くまで個人の自律に基づく修業法の選択がなければならない。ある人の恩師がある人の反面教師であることは、芸術に限っていえば必然的にある事を思えば。
尚日本の現状に即するため付与していえば、今では芸術アカデミーが少なからず兼ねているいわゆる芸術家サロンの役割を果たすための便宜を図り、我々は一般大学教養学部中に専門技術伝授の機関と相互提携した各芸術専攻の学部を設けるべきである。そうすればボザール式の古典主義的錯誤から起こっている、この様な用語はあり得ないが審美学的授業の単位制度による、多大な弊害、審美観退行の制度的強要を避けることができる。
専ら三大基本芸術、音楽、建築、文学に関して言えば、今は音楽大学で専攻させている音楽部および美術大学での建築学部を、一般大学中のいわゆる文学部と合わせ教養学部・芸術専攻・各科に改造すべきである。因みにここでいう建築、architectureとは絵画と彫刻という部分技能を含む。また、映画やイラストレーション、漫画またはデザインといった応用芸術の類は、教育についてこれらの基本芸術の後にあるべきであろう。即ち、大学自身の財務的方針如何によりけりで事前専攻美術者のため便宜を図り、増設を行うべきものである。
いわゆる技法の洗練には多くの選択肢が要されるの必至だが、そこであやまたず、より適切な形相構成条件を導出させて止まぬ源泉こそ、かの勉励により育まれる高い人間性に違いない。我々にとって、芸術アカデミーにおける審美指導という事は全く不可能に属する。というのは、趣味の左右とは体系学のあずかり知らぬ所においてのみ有効だからである。則ち一般に知られる如く芸術それ自体は術であり、全くに学ではない。史学と審美は相異なる観念である。従ってフランス・ボザール式の芸術アカデミーの地球的伝播は多大な過ちを侵している。それは中世ルネッサンスへの潮流的規範意識から端を発する、古典主義への退行に寄与してきたに過ぎない。
我々は、芸術教育とは究極、師弟間でしか十全な姿を取らぬ事を知っている。理念に対する人間的姿勢としてしか審美観の伝承はできない。巨匠が亡くなれば遺された傑作の模倣から、規範となるべき思想の跡を幾分汲みあげる事ができるだけである。我々の社会にとり芸術アカデミーに存続の価値があるとするならば、第一にそこで人文教養の滋養とみなされるべき、文化人類学的なliberal arts教育が行われる限りにおいてである。第二に、時代において最も基本的な方法としての造型技術が、極めて体系的に専門伝授される限りにおいて。そして第三において、又これこそが死活命題ともなろうが、当世第一流の芸術家を教授として招聘しえる限りにおいてである。
だが人々は時代の先鋭に対しては否応なく無理解を以て応えるものであった。感性の先導、それが芸術の意義でもあるのだ。よって究極的に、芸術アカデミーは第二流以下の芸術家を以て仮に、暫時少なからず悪例としての審美学的授業における教授役の歴へ当たらす他には現況、致し方無いのである。大抵の我々がモダニズムのベクトルはanti-academicに発して行くのを史上に観察するなら、それはことごとくみなこの第三の理由に因るものである。即ち、凡そ芸術アカデミーにはたんなる審美観を生かす術においては常に、二流以下の啓発しか行えない仕組みになっている。我々は今後も永らく第一流の芸術家がいつでも芸術アカデミーの影響のない純正無垢な場所から生まれ出すのを幾度とも、歴史実中に観察するだろう。それは彼らが必修の第一、人文教養と第二、専門技術および第三、審美観とを独習で覚えて来たからであり、かねてより神話化され闇に封じられてきた天才による訳とも必ずしも言えないのだ。
そして第三、審美観の養生は一流の師弟間感化、または去りし巨匠の模倣、さもなければ広範深遠な芸術史学によってしか育たぬ以上、いわゆる卒業単位取得がため二流以下の芸術教授とやらがため無理にでもおのれが作風を堕落せねばならなかった悪弊を補うだけの価値は、独習の苦労にはいつでも充分ある訳だ。我々がもし近未来のより素晴らしい、新たな芸術風土を生み出したいと願うならボザール流の既成芸術アカデミーをその権威ともども根本廃絶しなければならない。尤も、この学究的先覚が専ら百年のあいだ大衆一般からの理解を得ることはなかろう。従って我々は漸進的改良、即ち徐々の芸術アカデミー撤廃と新体制の樹立を以て来たるべき現代芸術家養成の環境を整えていかねばなるまい。我々には今でも第一、人文教養は一般大学のいわゆるliberal artsあるいは教養学部で補えることがわかるし、第二、専門技術に関しては、特殊な工芸の専門学校または通信教育のような技術専門の教育制度の意義を再認識し改良、かつ勃興奨励することで養成していけるだろう。そして第三、審美眼については、飽くまで個人の自律に基づく修業法の選択がなければならない。ある人の恩師がある人の反面教師であることは、芸術に限っていえば必然的にある事を思えば。
尚日本の現状に即するため付与していえば、今では芸術アカデミーが少なからず兼ねているいわゆる芸術家サロンの役割を果たすための便宜を図り、我々は一般大学教養学部中に専門技術伝授の機関と相互提携した各芸術専攻の学部を設けるべきである。そうすればボザール式の古典主義的錯誤から起こっている、この様な用語はあり得ないが審美学的授業の単位制度による、多大な弊害、審美観退行の制度的強要を避けることができる。
専ら三大基本芸術、音楽、建築、文学に関して言えば、今は音楽大学で専攻させている音楽部および美術大学での建築学部を、一般大学中のいわゆる文学部と合わせ教養学部・芸術専攻・各科に改造すべきである。因みにここでいう建築、architectureとは絵画と彫刻という部分技能を含む。また、映画やイラストレーション、漫画またはデザインといった応用芸術の類は、教育についてこれらの基本芸術の後にあるべきであろう。即ち、大学自身の財務的方針如何によりけりで事前専攻美術者のため便宜を図り、増設を行うべきものである。
自伝
凡そ考えつく限り、その職業が労苦に充分値するものだとも信じていなかった。というのは、思想とはしばしば文章の形で発表するほうがずっと割りのよい仕事なのは知っていたから。現攻、present specialtyの考えを導入する実証先駆けにもなった、と分かってもらう他ない。
芸術論
行為の痕跡という点まで遡ってこそ、芸術の根源的な意図は果たされるだろう。我々が文明都市を築くのはこの為だけだ。いいかえれば我々は生命の記録の為に懸命に生活体の粋を抽象しているのである。君は多くの遺跡のうちにのみ、このような芸術家の努力の痕とその意義を認める。
美術郷土品として発掘される幾多の作品は都市遺跡の部分の意味で、我々へある時代背景を技法の次元で伝えるのだ。それが天才の手になるものか、あるいは大多数の凡人の手になるものかは重要ではない。というのは、模範的な指導者は他の全般諸工作へ影響を与えずにはおかなかったから。
我々が文明の記録を後世へ延べ伝える使命には都心が携わらねばならない。実際には、都市計画の指揮を執る建築家にしかこの仕事の創造は不可能である。又、我々は音楽や文芸をこの都市総体の一部として建置する。どの側面が遺されるにせよ、文明建設の造型表出として芸術の史的位値はある。そして伝統に価する創意の結実こそが文明の証拠として芸術の普遍目的になる。
美術郷土品として発掘される幾多の作品は都市遺跡の部分の意味で、我々へある時代背景を技法の次元で伝えるのだ。それが天才の手になるものか、あるいは大多数の凡人の手になるものかは重要ではない。というのは、模範的な指導者は他の全般諸工作へ影響を与えずにはおかなかったから。
我々が文明の記録を後世へ延べ伝える使命には都心が携わらねばならない。実際には、都市計画の指揮を執る建築家にしかこの仕事の創造は不可能である。又、我々は音楽や文芸をこの都市総体の一部として建置する。どの側面が遺されるにせよ、文明建設の造型表出として芸術の史的位値はある。そして伝統に価する創意の結実こそが文明の証拠として芸術の普遍目的になる。
自伝
実際、私は次の規則を守っていた。科学・哲学・芸術とは異なる体系である。
Kantを引用する迄もなく、それらは別個の学術体系であって、当然、学習法も教授法も、適宜応用すら異なる。にも関わらず私自身はそれらへ「等価に」参加することを必勢とした。いいかえれば私は、私が経過した学習能率の便宜を説明するために、殆ど忙殺にも値する多大な工夫、すなわち教育学を要しなければならなかった。
それは批判哲学の簡略化というかたちをとり、私の講義の主たる支柱として常に導引、educationのため利用されねばならなかった。学識の禅譲には不当な援用だとは知りながら、である。生徒への直接な批判はいつでも適切ではない。すべて現場で発生する誤りの原因は教員自分の立場にある。また我々は自らの自律の知性が及ぶ限りについてのみ、分野横断は正当である。他人から教授された学問手段は所詮かれらの個性に合致せずいずれガラクタなのである。
だから次のように言える。私は諸般に及ぶつまらぬscholarshipを利用して天性の生徒に通学用の無駄な労費を負わせ、青春の貴重な時を暇潰しさせ、換言「教授」なる自己欺瞞のため堂々搾取していたのだ、と。講義は謂わば、学究にまつわる芸能小咄の類に過ぎなかった、とここで明言しても良い。私は世間では輝かしい称号と信じられている天才という言葉を、ある種の蔑称、つまり通常の努力のおかげではなく遺伝子の突然変異のせいにして人間性を隔離するものとして受け取った。そうせざるを得ない事情は世界にはない。必竟、文明思慮の不足の前に無力な教育制度の拙劣に帰する。そして大責任を請け負うのは唯、世界中で私ひとりだと信じていた。それがたんなる気負いに過ぎないとしてであれ、私には自らの塵労を尽くして処方を改革しなければならなかったのだから必ずしも無駄な認識ではない。結局のところ私は教育者としての成功を素直によろこぶだけの余裕を、引退のその日までもまったく持ち得なかった。
理由を述べる。第一に、研究の問題がいつも頭を支配していたからと言おう。第二にこれが自認する真実なのだと言うが、いわゆる担任後進生の中においてですら、originalな業績を果たすためには独学の姿勢が肝要であるとはっきり悟りきっていたからだ。老いても私は教員なるものに、学際的な慈善心を満たす副業、あるいは盆栽風な私的文化としての価値しかみいだせなかったのだと思う。よく云われるように、先天性は教育によって伸びるものではない。教育によって伸ばしうるのは後天性だけだ。そして後天的に得られることによって達成できる諸学而領域とは、所詮は「普通の程度」に過ぎない。それが、私が教育制度の中ではたったの一度も本物の天才には出会えかった理由なのだといまだに思っている。我々が高度教育によりはぐくみうるのは秀才だけだ。真の天才はおのずから生長し、我々のはるか頭上を自在に飛翔して、史上に滞るあらゆる疑問を難なく解決してくれるものなのだ。
Kantを引用する迄もなく、それらは別個の学術体系であって、当然、学習法も教授法も、適宜応用すら異なる。にも関わらず私自身はそれらへ「等価に」参加することを必勢とした。いいかえれば私は、私が経過した学習能率の便宜を説明するために、殆ど忙殺にも値する多大な工夫、すなわち教育学を要しなければならなかった。
それは批判哲学の簡略化というかたちをとり、私の講義の主たる支柱として常に導引、educationのため利用されねばならなかった。学識の禅譲には不当な援用だとは知りながら、である。生徒への直接な批判はいつでも適切ではない。すべて現場で発生する誤りの原因は教員自分の立場にある。また我々は自らの自律の知性が及ぶ限りについてのみ、分野横断は正当である。他人から教授された学問手段は所詮かれらの個性に合致せずいずれガラクタなのである。
だから次のように言える。私は諸般に及ぶつまらぬscholarshipを利用して天性の生徒に通学用の無駄な労費を負わせ、青春の貴重な時を暇潰しさせ、換言「教授」なる自己欺瞞のため堂々搾取していたのだ、と。講義は謂わば、学究にまつわる芸能小咄の類に過ぎなかった、とここで明言しても良い。私は世間では輝かしい称号と信じられている天才という言葉を、ある種の蔑称、つまり通常の努力のおかげではなく遺伝子の突然変異のせいにして人間性を隔離するものとして受け取った。そうせざるを得ない事情は世界にはない。必竟、文明思慮の不足の前に無力な教育制度の拙劣に帰する。そして大責任を請け負うのは唯、世界中で私ひとりだと信じていた。それがたんなる気負いに過ぎないとしてであれ、私には自らの塵労を尽くして処方を改革しなければならなかったのだから必ずしも無駄な認識ではない。結局のところ私は教育者としての成功を素直によろこぶだけの余裕を、引退のその日までもまったく持ち得なかった。
理由を述べる。第一に、研究の問題がいつも頭を支配していたからと言おう。第二にこれが自認する真実なのだと言うが、いわゆる担任後進生の中においてですら、originalな業績を果たすためには独学の姿勢が肝要であるとはっきり悟りきっていたからだ。老いても私は教員なるものに、学際的な慈善心を満たす副業、あるいは盆栽風な私的文化としての価値しかみいだせなかったのだと思う。よく云われるように、先天性は教育によって伸びるものではない。教育によって伸ばしうるのは後天性だけだ。そして後天的に得られることによって達成できる諸学而領域とは、所詮は「普通の程度」に過ぎない。それが、私が教育制度の中ではたったの一度も本物の天才には出会えかった理由なのだといまだに思っている。我々が高度教育によりはぐくみうるのは秀才だけだ。真の天才はおのずから生長し、我々のはるか頭上を自在に飛翔して、史上に滞るあらゆる疑問を難なく解決してくれるものなのだ。
2006年12月29日
事件史学の目的
民族とか国家という観念は文明化の方途に現れた。競争は彼らへ協力の必要を悟らせる為の、自然からの課題だった。我々個人は社会において、事件を左右しなければならない。唯物史的必然と個人主義的偶然とが交わり、歴史を動かすのはその一点において。
しかし君は次の事を知ると良い。好転か悪化か、事件には歴史的意義がある。
そして偉業を導くものは広範な博識による熟慮断行であり、愚挙に堕するものは悉く無知から来る狂気。我々は歴史哲学を通じて、競争過度による戦を避け、協和の方便へ人民を導く最善の洞察力を得ることができるだろう。先覚者の巧妙な指導が事件史学の研究目的。それは温故知新的実用主義に貫かれた解釈学の体系でなければならなかったろう。
しかし君は次の事を知ると良い。好転か悪化か、事件には歴史的意義がある。
そして偉業を導くものは広範な博識による熟慮断行であり、愚挙に堕するものは悉く無知から来る狂気。我々は歴史哲学を通じて、競争過度による戦を避け、協和の方便へ人民を導く最善の洞察力を得ることができるだろう。先覚者の巧妙な指導が事件史学の研究目的。それは温故知新的実用主義に貫かれた解釈学の体系でなければならなかったろう。
脱亜観
現状日本の東Asiaでの地位を鑑みれば、近い将来に予想される南北朝鮮の統一や中華人民共和国の崩壊と中華民国の確立とに期を譲らず、我々は飽くまで北側に立ち、「殆ど独立州・United Statesの一員と変わらぬもの」として一向平気に振る舞う方が得策だろう。軍備の如何、国政におけるその合理化の仕方如何に関わらず、である。とはいえこれは必ずしも万古不易の法律ではない。
少なくとも我々にとり、脱途上と先進入とは明治維新以来の宿願であった。それは利己心ばかりでなく、福祉の為の必要でもあった。実際、白色人種とされてきた者以外の先進国民とやらは未だ日本人の他にいないのだから。ならば我々の世界文明史中での一挙手一投足はすべて後輩へ発展の勇気を与えるものだと自覚せよ。それはいかなる異民族無知からの抑圧にも構わず、前進を旨として模範的文明を築く使命である。我々の活躍だけが文明史中に多民族共栄時代への突破口を開くものだと信じなければならない。
足を引っ張るものには圧倒的格差を見せつけないべきではない。
少なくとも我々にとり、脱途上と先進入とは明治維新以来の宿願であった。それは利己心ばかりでなく、福祉の為の必要でもあった。実際、白色人種とされてきた者以外の先進国民とやらは未だ日本人の他にいないのだから。ならば我々の世界文明史中での一挙手一投足はすべて後輩へ発展の勇気を与えるものだと自覚せよ。それはいかなる異民族無知からの抑圧にも構わず、前進を旨として模範的文明を築く使命である。我々の活躍だけが文明史中に多民族共栄時代への突破口を開くものだと信じなければならない。
足を引っ張るものには圧倒的格差を見せつけないべきではない。
2006年12月28日
経済学
我々には元より完全な資本主義経済も完全な共産主義経済も不可能。重要なのは世界情勢に見合わせた国策によって両者の中道を執る事に過ぎない。
我々にはこの経済的中道思想を要約する新しい言葉と、現代社会学理論が必要。仮に私はここで、調整と分配を旨とする経済体制の思考を協調論と名づけよう。事実、アリストテレスの経済学の知識の中には既に前掲の命題が予見されている。専ら我々はそれを適宜現代化して再生するだけだ。
我々にはこの経済的中道思想を要約する新しい言葉と、現代社会学理論が必要。仮に私はここで、調整と分配を旨とする経済体制の思考を協調論と名づけよう。事実、アリストテレスの経済学の知識の中には既に前掲の命題が予見されている。専ら我々はそれを適宜現代化して再生するだけだ。
労働者
夜明け前の大地にはどんな影もない。人々は沈黙の闇に沈み、語られない言葉は消えた。それでも太陽は昇る。誰にも止められはしない。君はあたかも自然に起きる。世界の建設へ参加する為の一日が始まったから。文明からの序曲がやがて周囲を満たす。君は朝日に溶けて、その限りない光へ身を浸す。働くだけで救われるなら安いものじゃないかと、君は自分に問いかける。懸命に献身するだけで良い。後は何も要らない。素晴らしく合理的な仕組みだ。社会は生産を能率化する事に集中していく。君は仕事を功利化していく事に集中していく。誰にそれらを邪魔できるのだ。働かねばならないと、君は呟いた。宇宙は私に関わらず続いている。進め。誰の為でもなく、生き延びる為だけに。
2006年12月25日
美術論
私は絵と彫刻が建築の中に家具として消滅すべきだ、と感じる。それらを独立して扱って来たのは過去の事で、我々がかつて分業の形に工夫を凝らしたに過ぎない。誰が造ったかは問題ではなくその環境がある、という事が重要だ。
文明論
いかなる神格的天才と言えども愚者の分子を含まぬものではない。只人間精神には程度の差があるだけ。そしていかなる高貴も、如何なる愚劣もすべてこの範囲に属する。我々が学ぶのはより高級な格式へ到達したいからであり、それは社会内在化された生存競争の型であると言う事もできるだろう。
我々は学習の密度によって智略を図り、結果として種内福祉を達成する。哲学は言語概念を利用して以上の図式を能率づける便法。その主要な手段は時代適応活動の思想による合理化。だから、あらゆる哲学は主体を離れては存在せず、謂わば常に時代精神に束縛される。この点で、哲学は時代の奴隷。
にも関わらず思索の方式は次の事を示す。普遍性は仮象であったにせよ、哲学的合理化の中に暫定的な姿を現す、と。定言命令とか良心の声とか呼ぶ我々の理性概念は人間社会にとり不易なるもの。もし思想に価値があるとするならば、愚かさの程度に属する時代内主体へ理性概念を啓蒙し、天才の程度に属する者の道徳を益々普遍性へと引き上げる事だろう。言語概念はこの命題、文明論を推進する為の便利。我々はこの道具を巧みに扱う事を要する。
究極には意味を取れない事、つまり差延とか、文脈を民主的歓待の次元へ揚棄する事、脱構築とか、いわゆるpost構造主義の分析哲学は修辞学の分野に属するものであり、言語の哲学的使用という文明論の基本命題に答えられない限り誤謬である、と見なされなければならない。
我々は学習の密度によって智略を図り、結果として種内福祉を達成する。哲学は言語概念を利用して以上の図式を能率づける便法。その主要な手段は時代適応活動の思想による合理化。だから、あらゆる哲学は主体を離れては存在せず、謂わば常に時代精神に束縛される。この点で、哲学は時代の奴隷。
にも関わらず思索の方式は次の事を示す。普遍性は仮象であったにせよ、哲学的合理化の中に暫定的な姿を現す、と。定言命令とか良心の声とか呼ぶ我々の理性概念は人間社会にとり不易なるもの。もし思想に価値があるとするならば、愚かさの程度に属する時代内主体へ理性概念を啓蒙し、天才の程度に属する者の道徳を益々普遍性へと引き上げる事だろう。言語概念はこの命題、文明論を推進する為の便利。我々はこの道具を巧みに扱う事を要する。
究極には意味を取れない事、つまり差延とか、文脈を民主的歓待の次元へ揚棄する事、脱構築とか、いわゆるpost構造主義の分析哲学は修辞学の分野に属するものであり、言語の哲学的使用という文明論の基本命題に答えられない限り誤謬である、と見なされなければならない。
現代文学論
Nationalismを自主解体する事が現代政治の主要な目標なのは明白。国家の健全な国際的発展、乃ち漸進的連邦化への潮流は、国際競争における基本的対策。それは人民を尚一層雑種にし、独立自由の世界市民の発生を促す。紛れようもなく彼らの文民的結託だけが国際連合へ軍事権力を委譲させる原動力となる。人々は国家が仮の宿りである事を自覚せねばならないだろう。事実、国際経済の必然的展開は人間から国籍やnationalityを遊離する。なぜなら福利に反する体制は資本の自己運動に不能。いわゆる文学は、この新たな型の民情を養成する為に最も役立つだろう。世界文学は地球人類の統一された文明へ向かう準備の為に専ら、用意されなければならないだろう。
独立した民族国家の形態は工業生産段階の過途的現象にすぎない。彼らの国力こそはより普遍的な文明結合、つまり国際連邦を産出する為の便宜。例えば民族間の好敵心は産業形態をより高度化せしめんとする競争により、功利の推究になおも適う。
だが人々は富強先進国に俄然太刀打ちし得ぬ事を悟る時、自ずから民族思想を脱出する。そして産業に関する互恵制を目的として連邦を形成する。これらの結果、現代世界史は連邦同士の関係にまで発展しなければならない。やがて彼らは軍事力が邪魔になるだろう。なぜなら国益を乱すものこそ過剰な軍事浪費と気づくなら。極めて多くの場合、自由主義的統一世界において国際侵略じみた戦闘行為は国益に反する。それは技術水準への反建設的営為であるのが明らかだから。今日極めて限定的にしか販売不可能な武器に対して、利器は常に国際購買力を喚起する。
以上の筋道を辿り、かの覇権国を含む最終的全連邦は軍事力を法的に共有化しなければならなくなる。現代世界文学がもたらすのはそのような世界像への展開を人民へ情動的に伝え知らせる事。
独立した民族国家の形態は工業生産段階の過途的現象にすぎない。彼らの国力こそはより普遍的な文明結合、つまり国際連邦を産出する為の便宜。例えば民族間の好敵心は産業形態をより高度化せしめんとする競争により、功利の推究になおも適う。
だが人々は富強先進国に俄然太刀打ちし得ぬ事を悟る時、自ずから民族思想を脱出する。そして産業に関する互恵制を目的として連邦を形成する。これらの結果、現代世界史は連邦同士の関係にまで発展しなければならない。やがて彼らは軍事力が邪魔になるだろう。なぜなら国益を乱すものこそ過剰な軍事浪費と気づくなら。極めて多くの場合、自由主義的統一世界において国際侵略じみた戦闘行為は国益に反する。それは技術水準への反建設的営為であるのが明らかだから。今日極めて限定的にしか販売不可能な武器に対して、利器は常に国際購買力を喚起する。
以上の筋道を辿り、かの覇権国を含む最終的全連邦は軍事力を法的に共有化しなければならなくなる。現代世界文学がもたらすのはそのような世界像への展開を人民へ情動的に伝え知らせる事。
歴史学
歴史は学術的応用に関する技術革新とその敷衍により姿を変えて行く。産業水準が社会体制を築き、やがて文明の形相を変える。
だが、唯物史観が歴史の一面である事も疑えない。個々人の努力なしに学術の精錬もなく、その体制的展開もない。
人間の社会学は世界精神の担い手たる個人と、又彼らの置かれた環境との絶えざる相互作用のうちに見出されねばならない。言い換えれば、より高度の歴史認識には、ヘーゲル的精神史観とマルクス的唯物史観とは止揚さるべき訳だ。我々はこの新しい歴史観を名称して事件史観と呼ぼう。人類は事件の研究を通じて、歴史のより精密な理解に到達できるだろう。
だが、唯物史観が歴史の一面である事も疑えない。個々人の努力なしに学術の精錬もなく、その体制的展開もない。
人間の社会学は世界精神の担い手たる個人と、又彼らの置かれた環境との絶えざる相互作用のうちに見出されねばならない。言い換えれば、より高度の歴史認識には、ヘーゲル的精神史観とマルクス的唯物史観とは止揚さるべき訳だ。我々はこの新しい歴史観を名称して事件史観と呼ぼう。人類は事件の研究を通じて、歴史のより精密な理解に到達できるだろう。
自伝
若い私は海を好んでいた。そこで繰り広げられるdramaは常に寛大である。私にとって、海辺にどこまでも広がった砂浜と、地平線が織りなす景色は紛れない原風景だった。常に私はそこへ帰ろうとしていたのだ、と思う。にも関わらず、文明は都市化を要求する。私自身も例に漏れず、都心へと惹き付けられなければならなかった。私はどこまでも広がった大都市の夜景を上空から見た。超高層ビルの展望台から、いつまでも飽きずにその光の興演の中で繰り広げられる幾多の劇を夢想していた。
医学
人間の訳。彼らは何者なのか。
精神を生化学的に立証し、形而上学的理性の段階を脱出しなければならない。それは全人類の啓蒙にかなり叶う筈。
わが医学研究の主要で純粋な目的はこの精神の生化学的解明という興味熱情に支えられる。医術なるものは派生される已。その高度は理論の応用であり、主として後進生の役に立つだろう。
精神を生化学的に立証し、形而上学的理性の段階を脱出しなければならない。それは全人類の啓蒙にかなり叶う筈。
わが医学研究の主要で純粋な目的はこの精神の生化学的解明という興味熱情に支えられる。医術なるものは派生される已。その高度は理論の応用であり、主として後進生の役に立つだろう。
人類学
人類が大宇宙の中でいかなる地位にあり、どんな理由と原因で何の為に存在し、またこれからどうやって生存して行く見込みがあり、実際にはいかなる方途を辿り行くのかを説明せよ。そもそも大宇宙とはいかなる対象あるいは環境で自我はそこで何の意味を持つものなのか。
彼らの繁殖活動の本質には何の目的と必要があり、あるいは自由と従事があり、人間はどんな経過を以てそこを通って来、また今後行くのか。
社会の目的と現状の差異は一体何であり、我々が理想を達成するため可能な手段は何か。言語の成立と、統括整理した上でその方便を説き、或いは使用法を普遍的に定義し、実際に用いる例として以上を説話する論考。
彼らの繁殖活動の本質には何の目的と必要があり、あるいは自由と従事があり、人間はどんな経過を以てそこを通って来、また今後行くのか。
社会の目的と現状の差異は一体何であり、我々が理想を達成するため可能な手段は何か。言語の成立と、統括整理した上でその方便を説き、或いは使用法を普遍的に定義し、実際に用いる例として以上を説話する論考。
合理的研究の為に
先ず仮説を数学的に論証し、後inductiveに実証せよ。
この基本的な順序を誤れば君は、時間の大半を煩多な形式的作業に浪費しなければならなくなったろう。洞察を好奇より先に置けばこその知性だった。
この基本的な順序を誤れば君は、時間の大半を煩多な形式的作業に浪費しなければならなくなったろう。洞察を好奇より先に置けばこその知性だった。
2006年12月24日
物理学
数理を定律する思考形態について学べ。論理の限界について知る事。
なぜ微積分は流率法を駆逐したか。なぜニュートンは後者に拘泥したか。力学の可能性と限界を覚えよ。三次元運動に対する抽象的認識の方法論としての力学は、例えば建築技術を規定するのである。彼は世界を自律した運動組織と考えることでやっと、永久性に関する脱神学的認識に到達し得た。ならば脱力学的建築は異なる重量場でどの程度の可能があるか。相対論的認識に関する三次元建築における応用を覚えよ。
なぜアインシュタインは確定性にこだわったか。彼が定常宇宙を空想した理由は何か。かの哲学はユダヤ教の神観念と不可分なのである。従ってからに、知性よりも信仰を優先させねばならなかったのである。
現在までに得られた観測結果と最先鋭の学説とを相互参照せよ。また、量子論はどこが相対論と調和しづらいのか。その理由は何か。原因は何か。何を改善または工夫すれば問題は解決するのか。
思想をより精密にして行くだけだ。それが知能にとり、最高の慰めである事は疑えない。
生物が誕生し、盛衰し、進化し、繁殖する理由はなにか。彼らは何を目指す種なのか。
以上をこなす化学的組成を覚えよ。なぜそれが発生したのか、地球天文の地学的環境を知れ。我々の確率、地球の確率、自分の確率、ユーモアの化学的組成の確率、宇宙の生成する確率、現宇宙の如き微妙な膨張をもつモデルを成型する確率、及びそこでの物理現象を誘導しうる現象論上の確率。暗喩としてのそれ。
知能が導くのは何か。文明が築かれる理由は繁殖の合理化としての環境改良。知的生命体とは多少あれ自律した時空運動体の名称。彼らが為す所は繁殖の確率を環境改良によって達成せんとする生存活動。精神はこの生存欲求の自律的具現。
では、他星に知的生命体がどの程度どう分布し今後何年後どう接触し、そのことで文明にいかなる変遷が起こり結局はどうなるのか天文学的に実証せよ。
なぜ微積分は流率法を駆逐したか。なぜニュートンは後者に拘泥したか。力学の可能性と限界を覚えよ。三次元運動に対する抽象的認識の方法論としての力学は、例えば建築技術を規定するのである。彼は世界を自律した運動組織と考えることでやっと、永久性に関する脱神学的認識に到達し得た。ならば脱力学的建築は異なる重量場でどの程度の可能があるか。相対論的認識に関する三次元建築における応用を覚えよ。
なぜアインシュタインは確定性にこだわったか。彼が定常宇宙を空想した理由は何か。かの哲学はユダヤ教の神観念と不可分なのである。従ってからに、知性よりも信仰を優先させねばならなかったのである。
現在までに得られた観測結果と最先鋭の学説とを相互参照せよ。また、量子論はどこが相対論と調和しづらいのか。その理由は何か。原因は何か。何を改善または工夫すれば問題は解決するのか。
思想をより精密にして行くだけだ。それが知能にとり、最高の慰めである事は疑えない。
生物が誕生し、盛衰し、進化し、繁殖する理由はなにか。彼らは何を目指す種なのか。
以上をこなす化学的組成を覚えよ。なぜそれが発生したのか、地球天文の地学的環境を知れ。我々の確率、地球の確率、自分の確率、ユーモアの化学的組成の確率、宇宙の生成する確率、現宇宙の如き微妙な膨張をもつモデルを成型する確率、及びそこでの物理現象を誘導しうる現象論上の確率。暗喩としてのそれ。
知能が導くのは何か。文明が築かれる理由は繁殖の合理化としての環境改良。知的生命体とは多少あれ自律した時空運動体の名称。彼らが為す所は繁殖の確率を環境改良によって達成せんとする生存活動。精神はこの生存欲求の自律的具現。
では、他星に知的生命体がどの程度どう分布し今後何年後どう接触し、そのことで文明にいかなる変遷が起こり結局はどうなるのか天文学的に実証せよ。
博物学
なぜ宇宙は膨張しているのか。なぜentropyは増大するのか。人間精神とはいかなる生化学的現象なのか。彼らの芸術が宇宙で何の意味を持って存在しているのか。自然との違いは何か。違いがあるならその理由はなにか。どんな結果をもたらすのか。
宇宙の終わりを予測し論証せよ。宇宙とは何か。どうして始まりがあったのか。時間とは何か、空間とは何か。
数理とはなにか。我々はなぜそれを用いるのだろうか。認識とは何か。宇宙を認識することは一体何を意味するのか。Energieが創造性を持つ理由を分析せよ。論理とは何か。我々はなぜそれを用いるのか。
文法とは、文明とは、人間とは何か。伝達の理由。我々は言語を通じて何を情報するか。思想の意味と限界について論及せよ。
性別の理由は何か。生物はそれを通じて何を達成したかったか。文明と体制についての関係論を普遍的定義に結ぶ哲学を習え。脱構築する理由と結果。言葉は何を為しえるか。
宇宙はそれを通じて何を意図されなければならないのか。人類の普遍的地位についての定義を為せ。生と死の生物学的定義とそれを合理化する理論の構築。法律の理想について、その方便性について。
万物を統合して扱う理論により、彼らが到達する地位はどこか。芸術の普遍的確立を達成する事。
宇宙の終わりを予測し論証せよ。宇宙とは何か。どうして始まりがあったのか。時間とは何か、空間とは何か。
数理とはなにか。我々はなぜそれを用いるのだろうか。認識とは何か。宇宙を認識することは一体何を意味するのか。Energieが創造性を持つ理由を分析せよ。論理とは何か。我々はなぜそれを用いるのか。
文法とは、文明とは、人間とは何か。伝達の理由。我々は言語を通じて何を情報するか。思想の意味と限界について論及せよ。
性別の理由は何か。生物はそれを通じて何を達成したかったか。文明と体制についての関係論を普遍的定義に結ぶ哲学を習え。脱構築する理由と結果。言葉は何を為しえるか。
宇宙はそれを通じて何を意図されなければならないのか。人類の普遍的地位についての定義を為せ。生と死の生物学的定義とそれを合理化する理論の構築。法律の理想について、その方便性について。
万物を統合して扱う理論により、彼らが到達する地位はどこか。芸術の普遍的確立を達成する事。
自伝
私は芸術の消滅、つまり普遍美の社会的実現を確かに予見するに到った。例えば、制作には常に「工学的背景」がつきまとう。我々はこの、時代の技術水準から独立に業を運ぶ事を許されない。即ち、科学と芸術は根元で不可分に絡まりあっている。私はLeonardo Da Vinchが既に、同様の課題に深く携わっていた事を知るに至った。同じく私にも、工学のみならず、純粋科学へ、また哲学へと興味が伸びていくのが自然だった。
2006年12月23日
不運
衆愚との接触を可能なかぎり間接化し、かつ遠避けることはかしこい処世だと言われねばならない。名分、すなわち肩書きはこの方便として有用。国際関係についても同様で、上級生は下流へ直接係わるべきではない。それは不効率であるばかりか、しばしば害をもたらす。つまり不運を。
2006年12月21日
2006年12月20日
世界宗教論
世界宗教の教義をまとめて、新しい一行に託さねばならない。すべて社会体制に残存する不条理に対する救いとして、信教は人間に不可欠なものだ。
国際社会が発展するほど全人類統一教義の必要が自覚されるに違いない。それが聖人による意図の他の仕方で自立することはない。統一された世界宗教は新興されねばならない。それは宗教学者の手になることは疑いようがない。飽くまで現行世界宗教の特質を分別し、新たな体系を発明し且つ広めねばならない。
国際社会が発展するほど全人類統一教義の必要が自覚されるに違いない。それが聖人による意図の他の仕方で自立することはない。統一された世界宗教は新興されねばならない。それは宗教学者の手になることは疑いようがない。飽くまで現行世界宗教の特質を分別し、新たな体系を発明し且つ広めねばならない。
政治学
古代、唐の科挙は人民への官戸からの搾取を意図されていたが、あたかも公平な制度として開陳されていた。
一方ほぼ完全に仕業が透明になった官公庁組織へと文明化が進んでいけば、争いの元になる侵略の誘引としての個々の富と蓄財への過度の利己性が緩和された暁に、無用の長物と化した政府機能としての防衛兼調整の縮小と消滅を予見しえる。人類間での淘汰作用は、軍拡競争の不経済性に比べた共生し易さから、おそらくこの平和な社会造りの気質を他の侵略主義なものより長期には生き残らせるだろうから。
法の公共は理解の差によって、人々の意識をより道徳化する仕組みだろう。そしてそれは社会にとって中途の段階をこえない。
法の理解度は人々の中に善悪の格差をつくりだしている、一つの現実策になっている。立法の原理が道徳の理念からのみ考えだされるのも似た構造だろう。いわば共感知能のよい生態に恵む、将来予知の才覚がそこには選択されるべき、といった人類社会の原型質がありそうだ。
一方ほぼ完全に仕業が透明になった官公庁組織へと文明化が進んでいけば、争いの元になる侵略の誘引としての個々の富と蓄財への過度の利己性が緩和された暁に、無用の長物と化した政府機能としての防衛兼調整の縮小と消滅を予見しえる。人類間での淘汰作用は、軍拡競争の不経済性に比べた共生し易さから、おそらくこの平和な社会造りの気質を他の侵略主義なものより長期には生き残らせるだろうから。
法の公共は理解の差によって、人々の意識をより道徳化する仕組みだろう。そしてそれは社会にとって中途の段階をこえない。
法の理解度は人々の中に善悪の格差をつくりだしている、一つの現実策になっている。立法の原理が道徳の理念からのみ考えだされるのも似た構造だろう。いわば共感知能のよい生態に恵む、将来予知の才覚がそこには選択されるべき、といった人類社会の原型質がありそうだ。
2006年12月19日
道徳とは
人間関係自体を道具化しようとする意志はあらゆる悪意の中でも一番酷いものだ。にも関わらず、我々自然の本性はこれを競合心として残した。
他人を利用すること、また究極的には人間関係の総体たる体制を利己的に援用する工夫。これらは他ならぬ倫理として、すべての聖人君子により正当化されて来たのだ。倫理は社会体制への功利的適応条件。我々はもはやこの悪意を普遍的正義と見なさざるを得ない。謂わば倫理は、彼らの社会を時代の産業水準へ整合づける使い捨て思想に過ぎない。我々は道徳を学ぶこと、乃ち哲学する行為を通じて、万人を奴隷化する方法に尚も長ける。たとえば他人を目的として扱うために必要な、愚か者への丁寧な言葉遣いを覚える。と同時に、実はそこから生ずる福祉として、世界中の人民への啓蒙という副産物がもたらされるだろう。
他人の思想に浴する恩恵とはつまり、学習の伝承。
他人を利用すること、また究極的には人間関係の総体たる体制を利己的に援用する工夫。これらは他ならぬ倫理として、すべての聖人君子により正当化されて来たのだ。倫理は社会体制への功利的適応条件。我々はもはやこの悪意を普遍的正義と見なさざるを得ない。謂わば倫理は、彼らの社会を時代の産業水準へ整合づける使い捨て思想に過ぎない。我々は道徳を学ぶこと、乃ち哲学する行為を通じて、万人を奴隷化する方法に尚も長ける。たとえば他人を目的として扱うために必要な、愚か者への丁寧な言葉遣いを覚える。と同時に、実はそこから生ずる福祉として、世界中の人民への啓蒙という副産物がもたらされるだろう。
他人の思想に浴する恩恵とはつまり、学習の伝承。
文明論
政経は学術より低い体系なのは疑えない。前者は基礎であり、後者は建物である。
我々はどちらの体系をも必ずやつくるのだが、前者は後者に悉く指揮支配される。それは頭脳と肉体の関係にも喩えうる。より高度な部位はそれ以下をおのが統括下に置き、目的のため律して活動させる。
而して人間社会の目的は文明であり、学術の最先端は常に社会自他の模式図となる。政経は後からこれらの理想に何とか追い着き実現しているに過ぎない。
我々はどちらの体系をも必ずやつくるのだが、前者は後者に悉く指揮支配される。それは頭脳と肉体の関係にも喩えうる。より高度な部位はそれ以下をおのが統括下に置き、目的のため律して活動させる。
而して人間社会の目的は文明であり、学術の最先端は常に社会自他の模式図となる。政経は後からこれらの理想に何とか追い着き実現しているに過ぎない。
政策案内
専らの現代日本が執るべき舵先は、
必要武装を「正当防衛専用」の方便と為し、
飽くまで十全経済力の一事で世界最大国土たる威信を全うする事である。
なぜなら平和主義は最高策意であるから。
それは建前と本音を適宜合理的に使い分けることで無敵国立根本を成す。
国風が文弱に流れることを憂う者には、国際親善試合でのsportsman shipを教えよ。
軍隊、これは最早単なる「威嚇便宜」の贋物に過ぎず。
現代の実態たる武強国威は、世界スポーツ大会での優勝勢独占にある。
然らば軍備は縮小しうるだけ縮小し、限界ギリギリに切り詰めてよいのである。
我々は軍人を飽くまで時代遅れの馬鹿野郎として軽蔑しうるだけ軽蔑してよい。
軍人、これは謂わば犬と同然である。
何もかも鵜呑みにし、右向けと言えば右を向く、左向けと言えば左を向く馬鹿力の阿呆は
文明の国土に一切不要の無能劣等種類である。
これらは雇われ奴隷に同然の野蛮猿奴に等しい。
少なくとも批判力によりて世論を為すNEET以下の愚民なり。
一流スポーツマンにでもならぬ限り、日本国民として最下等の人種として日常から顰蹙の対象に違いない。
あらゆるかの家族からの抵抗を私は天下一人、甘んじて受け入れる。
馬鹿に馬鹿と諭すことは紛れない正義だから。
必要武装を「正当防衛専用」の方便と為し、
飽くまで十全経済力の一事で世界最大国土たる威信を全うする事である。
なぜなら平和主義は最高策意であるから。
それは建前と本音を適宜合理的に使い分けることで無敵国立根本を成す。
国風が文弱に流れることを憂う者には、国際親善試合でのsportsman shipを教えよ。
軍隊、これは最早単なる「威嚇便宜」の贋物に過ぎず。
現代の実態たる武強国威は、世界スポーツ大会での優勝勢独占にある。
然らば軍備は縮小しうるだけ縮小し、限界ギリギリに切り詰めてよいのである。
我々は軍人を飽くまで時代遅れの馬鹿野郎として軽蔑しうるだけ軽蔑してよい。
軍人、これは謂わば犬と同然である。
何もかも鵜呑みにし、右向けと言えば右を向く、左向けと言えば左を向く馬鹿力の阿呆は
文明の国土に一切不要の無能劣等種類である。
これらは雇われ奴隷に同然の野蛮猿奴に等しい。
少なくとも批判力によりて世論を為すNEET以下の愚民なり。
一流スポーツマンにでもならぬ限り、日本国民として最下等の人種として日常から顰蹙の対象に違いない。
あらゆるかの家族からの抵抗を私は天下一人、甘んじて受け入れる。
馬鹿に馬鹿と諭すことは紛れない正義だから。
見識
人間の見識はどれほど高くても決して高すぎない。浮世に属する実存を有する限り、人間は永劫に成熟していく。中庸性は尚も、その極まり方次第で愚物を遥かに導く。学問の競合は彼らの種内生存力を文明度へ誘導する。蓋し、君はゆとりこそがあらゆる理由から鑑みても、彼らの文明度を養育するのを観る。社会集団は同胞感情を用いて、学習された情報の共有によって互いに競うのである。それを人類の生存のための競戯と名づけてよい。彼らは権益という餌の為に鎬を削り、やがては普遍的組織へと至る。
2006年12月17日
文芸論
自らの文体に唯一の正解がない様に、他のいかなる語の文体にも同様に唯一解はありえない。では、我々はなぜ文法を習いうるのか、と考えるだろう。一つには前例を手本にするためである。だから、ある時代において最も質の高い文芸が、およそ未来の教科書となる。二つには創造の為だった。破格されざる文体はない。
言語表現の妙は、新しい型を絶えずつくりつつ情報伝達の密度を向上させる事であり、我々が文明を緻密にするほど以上の命題は抽象という形式であらわれる。文学は主として、抽象表現を全人的に示す語法上の手本の役割を果たす。口語でさえ暫しここへ従うものだ。なぜなら記録されない音は破棄されるから。
言語表現の妙は、新しい型を絶えずつくりつつ情報伝達の密度を向上させる事であり、我々が文明を緻密にするほど以上の命題は抽象という形式であらわれる。文学は主として、抽象表現を全人的に示す語法上の手本の役割を果たす。口語でさえ暫しここへ従うものだ。なぜなら記録されない音は破棄されるから。
2006年12月15日
道徳として育つに至った理性
人間は社会展開にあたって余暇を拡充させるだろう。最小労役と最大余暇による自由の享受は人類という自律有機体の普遍的命題。
如何なる宗教といえどもこの文明の解放を破壊することはできない。道徳として育つに至った理性こそは暫定地球環境への適応行動なのだから。
我々はより深く懐疑することによってしか思考を発達させ得ない。そして文明がもたらす福祉は常に、野蛮不文の混沌たる憂世を優る幸福をもたらす。
如何なる宗教といえどもこの文明の解放を破壊することはできない。道徳として育つに至った理性こそは暫定地球環境への適応行動なのだから。
我々はより深く懐疑することによってしか思考を発達させ得ない。そして文明がもたらす福祉は常に、野蛮不文の混沌たる憂世を優る幸福をもたらす。
性差
分協業は人類文化の基礎だったし、性差はそうして生産手段へ合理的に体制づけられた。
我々に自覚があれば、却ってこの便宜へ最適化する事により尚一層権益を拡張することも出来よう。事実、彼ら、時代の性差を全うした個体だけが生き残るのだろう。
性差の流れは仮に、凡そ生産手段の技術革新によると見なさないべきではない。
自然は知能を性別に創りたもうた。
性差は人工的だが、条理に適うかぎりの自然である。
我々に自覚があれば、却ってこの便宜へ最適化する事により尚一層権益を拡張することも出来よう。事実、彼ら、時代の性差を全うした個体だけが生き残るのだろう。
性差の流れは仮に、凡そ生産手段の技術革新によると見なさないべきではない。
自然は知能を性別に創りたもうた。
性差は人工的だが、条理に適うかぎりの自然である。
2006年12月14日
2006年12月13日
2006年12月10日
2006年12月9日
音楽論
西洋楽音は目的でなく、専ら音楽調律のため利用さるべき道具である。それはつねに仮設的なものであり、予てより練習されてきた抽象の手法でもある。
結議、純音だけが唯一普通の音色を発する。万世の共有手段となりうる、本質まで音波還元された純音だけが現代音楽の基本原理にふさわしい。蓋し、純音の組み合わせだけが宇宙的律動を精密に顕しうる。そしてその様な楽曲だけが本来の未来派の環境音楽を隈無く形成する。
結議、純音だけが唯一普通の音色を発する。万世の共有手段となりうる、本質まで音波還元された純音だけが現代音楽の基本原理にふさわしい。蓋し、純音の組み合わせだけが宇宙的律動を精密に顕しうる。そしてその様な楽曲だけが本来の未来派の環境音楽を隈無く形成する。
美術史論
ルネッサンス美術を伝統とみなす考えは単にボザール流の仮設されたそれに過ぎない、という正見を持つを得る。さもなければ現代美術を相対化できない。
文化自体は多元律的。我々は社会情勢によってここにしばし等級づけるが、実際には、めずらしさはその社会資本格差によってしか育まれない。そして多様系は、審美観なる舞台の上にはまるで平等。乃ち、我々に伝統の道は複数多層にある。美術史は企画者に意図して作られるものであり、必ずやかねてよりありしものならず。
文明の先鋭端は世界文化全体の傾向を否応なく導くものである。なぜなら教養の余裕度が作品の出来高を押し上げる。だからこそ伝統はつねに覚者による、おのが趣味の権威づけという作為。それはa prioriでない。飽くまで改編できる後天的なもの。美術家が為し得るのはこの流れをより条理よく普遍化する指向のみだ。最大多数の最高幸福たる文明の環境指導以外のどんな目的も美術史になし。
美術史は多彩な傾向をなんらかの意図のもとに再構築した虚構にすぎない。我々はみずからの属する文明を理解するため応急にその試みを考え出した。しかしながら、大河的流れの中には決して数えきれない種子がある。事実、美醜の判断はここから宝と芥とを選別し、より綺麗な環境をつくる便宜。趣味とは生活様式の自意識的批判である。
彼らは芸術を通して、人間たるものとして暗に誇りうる感性を有して世間の美化に寄与する者かどうか、絶えず試験される。事実それは職業でなければ文明人教養の類として必修。
文化自体は多元律的。我々は社会情勢によってここにしばし等級づけるが、実際には、めずらしさはその社会資本格差によってしか育まれない。そして多様系は、審美観なる舞台の上にはまるで平等。乃ち、我々に伝統の道は複数多層にある。美術史は企画者に意図して作られるものであり、必ずやかねてよりありしものならず。
文明の先鋭端は世界文化全体の傾向を否応なく導くものである。なぜなら教養の余裕度が作品の出来高を押し上げる。だからこそ伝統はつねに覚者による、おのが趣味の権威づけという作為。それはa prioriでない。飽くまで改編できる後天的なもの。美術家が為し得るのはこの流れをより条理よく普遍化する指向のみだ。最大多数の最高幸福たる文明の環境指導以外のどんな目的も美術史になし。
美術史は多彩な傾向をなんらかの意図のもとに再構築した虚構にすぎない。我々はみずからの属する文明を理解するため応急にその試みを考え出した。しかしながら、大河的流れの中には決して数えきれない種子がある。事実、美醜の判断はここから宝と芥とを選別し、より綺麗な環境をつくる便宜。趣味とは生活様式の自意識的批判である。
彼らは芸術を通して、人間たるものとして暗に誇りうる感性を有して世間の美化に寄与する者かどうか、絶えず試験される。事実それは職業でなければ文明人教養の類として必修。
2006年12月8日
芸術論
都市の部分的出来栄えである限り芸術作品はみな錯覚に過ぎない。が仮構であればこそ人間をより普遍審美観へ導く。なぜなら事物は思想におき限定されねば認知されないからだ。でなければ宇宙なる偉大な創造以外の何ものも建設作業できなかったろう。
審美観の養生、つまり普遍人へもっとふさわしい生活態度としての趣味教養が芸術という方法の人間目的である。これらは普遍都市を計画づける精神の意志である。
審美観の養生、つまり普遍人へもっとふさわしい生活態度としての趣味教養が芸術という方法の人間目的である。これらは普遍都市を計画づける精神の意志である。
生活
名誉心、これはまだ低い欲求だ。人は天命を実行するために飽くまで無私であらねばならない。中庸の心矩が極まれば個性という信念は全く重要ではなくなる。最も偉大な人物は又、同類競争を超脱した普遍人だろう。彼の仕事はみな人類史への献身である。事実、自由律だけがこの大義を自覚させる方便か。
文明は自由の結婚生活である。人間は文明舞台の役者である。より立派な役回りに就くためには、恣意を自らいなして道理に己を拘束しなければならない。だからして社会体制は個人を最小単位と見なす。戯れることを侮るなかれ。人間至善の本性とはより面白く遊ぶことだろう。高等遊戯とは神聖さの由縁である。
文明は自由の結婚生活である。人間は文明舞台の役者である。より立派な役回りに就くためには、恣意を自らいなして道理に己を拘束しなければならない。だからして社会体制は個人を最小単位と見なす。戯れることを侮るなかれ。人間至善の本性とはより面白く遊ぶことだろう。高等遊戯とは神聖さの由縁である。
宝
芸術について我々が真に対照すべき先例はすべて、古代文明の遺跡の中にあると私は思う。なんとなれば同時代の流行は浮世をわたる便利にすぎない。真の傑出した天才だけが、歴史より普遍的な匿名性をその作為において独創する。たとえ遥か後世に遺された幸運な結果が彼個人の制作に預からぬことであったにせよ、あらゆる文明の建設はかの模範の上に出来上がったもの。彼の神格的尽力は天性を十全に発揮しようとする。ならば傑作への崇拝はことごとく皆、とある文明を顕現した思想種を世界遺産として記録しようとする本性だ。知能の好しあしは千差万別の芸能をあらわすが、文明の粋を極めるのはそのうちの最高種だけである。他のあらゆる才能は模倣あるいは影響によってのみ社会建設へ参加する。芸術は趣味如何の建前のもとに環境改造の適応性を試験する制度に過ぎない。我々は美醜の別という概念を利用して公に議論し、この効率を図る。しかしながら崇高さ、つまり超越美だけが他のなべての駄作から傑作を見分ける特別の感覚である。以上を鑑識すれば我々が飽くまでも信頼し、大事にしなければならないのは崇高な作品だけだ。その直観は、単なる個のわがままを超えたものとしての、極度の合理物証を意味するから。そしてこの崇拝が文明度に則して広く合意形成すればこそ、世界遺産は命の結晶として未来へ栄光を照らし出す。むしろ警鐘しよう。我々自律有機体が繁栄によって目的とするのは、実はこの栄光の延長そのものである。謂わば希望として。繁殖を安寧に導くのは、未来永劫の人間ならざる世界へ向けた文化的貢献である。芸術、あるいは、ここで云うところのその近代理念を超えた希望の種としての崇高な象徴の創作とは、我々が我々自身の満足のためだけでなく、我々のあとに生き延びる人間ならざるものへ向けて贈り物をするための努力ではないか。尤も、人間の誰にもこのイデアに審美判断を下すことはできまい。彼らには命の生存欲求の演繹としてしか文明の至宝の意義を知れないから。
建築論
私は建築における普遍合理主義を信じる。土着性は道具だ。私は次の命題を審美判断する。すなわち、時代の工学を用いて社会情勢における理想をひきだし、文明の進歩を根気よく導く事を人間自然の目的と見なす。だが建築家たるものは、以上の召命を決して狂信するなかれ。臨機応変なればこその職能であり、折衝自律の立場であってのみ創作できる。
寡作
私は芸術について、寡作の高級さを信じる。創作における極度の優秀性が、理想の審美目的へ向けて必要な処世筋を最短で進む様な道理から育まれることを悟る。傑作を模倣し、後に量産するのは機械および後生の仕事である。
2006年12月5日
2006年12月4日
暴力と文明
日本なる小国の大いなる世界史的使命は、経済実威以外の如何なる軍事的権力をも持たずに、世界覇権の批判的善導文明となることである。それは既に可能であるばかりか、間もなく現実になるだろう。実際に彼らの邪魔をするのは軍事的威圧以外のどんな暴力でもない。
2006年12月3日
音楽論
西洋音楽における比例級数に基づく楽音の建設は文化の一縷にすぎないと認識せよ。それが多少あれ科学的な裏付けを伴ったが故に西洋音楽音は普遍性をかつて主張してきただけだ。いいかえれば同じ手法を援用して他の音楽文化を普遍化する手段も可能である。何れたがわず我々は現代音楽に飽くまで相対観を持ち込まねばならない。潔語、楽音は文化音階の一種別に過ぎないのだ。
現代音楽家の大いなる使命は史的覇権を破格し続ける戦いである。
現代音楽家の大いなる使命は史的覇権を破格し続ける戦いである。
2006年12月2日
破格
日本の文脈は西洋諸国のそれとは異質であり、応じてdeconstructionといった観念も我々の元では適当に変換されねばならない。私は破格という用語にこれを当て填めたい。我々に道に繋がる型の考えがあったのは確かだ。
型破りのことをしばしば破格と云う。そして日本語において使われるその内容は、いわゆる脱構築で西洋人が意味しようと試みる語彙に近い。尤も我々は脱構築という語彙を破格とは別に保った方がよい。両者の間に横たわる溝が我々自身の文脈的自認を促すから。
型破りのことをしばしば破格と云う。そして日本語において使われるその内容は、いわゆる脱構築で西洋人が意味しようと試みる語彙に近い。尤も我々は脱構築という語彙を破格とは別に保った方がよい。両者の間に横たわる溝が我々自身の文脈的自認を促すから。
文脈
世界言語が伝播する迄に文学が為し得るのは只に、各言語観念の微妙を保存養生しておく事に過ぎぬだろう。事実文学が民情の操作を旨とする社会活動である限り、それらは同胞意識を啓発する方途に臥される。
普遍概念は各言語による表現では不完全な侭である。そこには国際差延の生じる余地がある。翻訳が必要なのは伝達の為。が文学は共感を目的として世界人類に和合を促す。文化的微妙はこの効率の道具。
世界市民の互譲は相手方の文化尊重に於ける。だから織物は文脈づけられねばならない。作物を歴史化していく経過にしか文明はあり得ず。
普遍概念は各言語による表現では不完全な侭である。そこには国際差延の生じる余地がある。翻訳が必要なのは伝達の為。が文学は共感を目的として世界人類に和合を促す。文化的微妙はこの効率の道具。
世界市民の互譲は相手方の文化尊重に於ける。だから織物は文脈づけられねばならない。作物を歴史化していく経過にしか文明はあり得ず。
自伝
私はいずれ動物的生活を侮蔑していた。それらは、果なく亡び去る戯れに過ぎないのだから。実際それらは私の知能を満足させるに充分な容積を持たなかったのだ。芸術と学問の神髄にある理想の趣き以外のどんな現実も、迫真をもたらさなかった。
審美論
芸術は少なくとも建設的にあそぶ為の方法論である。我々はこの結果を美と見なす。
作品における建設性が遊戯性を上回って表現されたとき、少なくとも彼らの感性の敏感の度合いに応じてそう感じられたときその芸術美はむしろ崇高として、彼らの感情を抑圧から解放する。文明の建設は究極的なあそびだから。彼らはそこに人間の戯れを超えた神格的な遊びを観るだろう。
作品における建設性が遊戯性を上回って表現されたとき、少なくとも彼らの感性の敏感の度合いに応じてそう感じられたときその芸術美はむしろ崇高として、彼らの感情を抑圧から解放する。文明の建設は究極的なあそびだから。彼らはそこに人間の戯れを超えた神格的な遊びを観るだろう。
Occidentalismの皮肉
文明を目的とせざる者、悉皆旧習陋弊に欺かれたる野蛮衆奴なり。
簡明に真理を説けば、形而上学はすべて古代人猿種族の児戯に等しく、われわれの命題は永久にそれらを啓蒙主義に用いる文明化。
伝達理解を促進する工夫以外にいかなる哲学の命令もなし。
簡明に真理を説けば、形而上学はすべて古代人猿種族の児戯に等しく、われわれの命題は永久にそれらを啓蒙主義に用いる文明化。
伝達理解を促進する工夫以外にいかなる哲学の命令もなし。
同胞論
現実の国際抗争は文脈の交錯にまつわる歴史的知的戦闘行為の氷山の一角に過ぎない。換言、彼らは文化同士に優位づけの論戦を頑張る根気比べの結果として文明の先轍を踏むのだ。翻訳はこの主要な技法だった。それは語族間に格差を生じる主要な側面だったし、今後とも必ずやそうだろう。
同胞は語族の結束民情の刺激によって発する倫理だった。
我々は次の事を自覚しないべきでない。文明は文化間競争を方便と為す。又、人類は文明を遊戯と見なすだけのおかしみを持ち合わせている。
先ず啓蒙の効率は速巧翻訳程度の可否如何と言うも可なり。よって彼らの戦争は文化的伝播に対する適応の巧拙が極端化したときに生ずる同胞の不和に他ならない。
極論、地球言語のみの世界なら平和は必然の条理に違いない。同胞意識を左右するのは彼らに託された知的民度だから。
同胞は語族の結束民情の刺激によって発する倫理だった。
我々は次の事を自覚しないべきでない。文明は文化間競争を方便と為す。又、人類は文明を遊戯と見なすだけのおかしみを持ち合わせている。
先ず啓蒙の効率は速巧翻訳程度の可否如何と言うも可なり。よって彼らの戦争は文化的伝播に対する適応の巧拙が極端化したときに生ずる同胞の不和に他ならない。
極論、地球言語のみの世界なら平和は必然の条理に違いない。同胞意識を左右するのは彼らに託された知的民度だから。
教祖の心得
衆愚の崇拝を合理に集めるには絶対宗教を方途にせぬべきでない。
それは形而上観念を偶像化して馬鹿の信念を共同体的に結束する。
然ればこそ善用もしうるのであった。
また宗教の段階を調整して説かぬばならぬ。
自然崇拝→多神教→一神教→法治国家主義→自律大義→実証説話→共済
これらの如何なる段階に相手方の徳義が達しているかを慧眼して、
より高次のlevelへ話題を興味づける工夫に長けるべし。
それは形而上観念を偶像化して馬鹿の信念を共同体的に結束する。
然ればこそ善用もしうるのであった。
また宗教の段階を調整して説かぬばならぬ。
自然崇拝→多神教→一神教→法治国家主義→自律大義→実証説話→共済
これらの如何なる段階に相手方の徳義が達しているかを慧眼して、
より高次のlevelへ話題を興味づける工夫に長けるべし。
現代思想
地球資本に対する勢力は地球資本の流動のうちにしか生まれはしまい。彼らは福祉の最大化のために働く。それが地球史的抗争について格差を方便と為すのすら自然である。彼らの目的は文明であり、それがもたらす福利にいずれ享受することによってしか知的生命たり得ない。世論の啓蒙という先進命題へあらゆる塵労を注ぎ込む他に誇大化した地球資本の自己運転を操作する仕方はない。
学と名づけられて偶像化されうるところの芸術に限って文学は専ら未だ、民情に拠りて世論を最大和平へ導く最高の手段たりうる已。なぜなら思想は言語観念である以上、ことばによってこそいちばん伝え易い。哲学と文学とは同じ成形手段を持つが故に容易に時代類型可能であり、比較的相互変換もたやすい。
現代思想が為すのは非道な国際搾取に対する世間義的圧迫であり、人道的福祉行為に対する国際的称賛の煽動。
学と名づけられて偶像化されうるところの芸術に限って文学は専ら未だ、民情に拠りて世論を最大和平へ導く最高の手段たりうる已。なぜなら思想は言語観念である以上、ことばによってこそいちばん伝え易い。哲学と文学とは同じ成形手段を持つが故に容易に時代類型可能であり、比較的相互変換もたやすい。
現代思想が為すのは非道な国際搾取に対する世間義的圧迫であり、人道的福祉行為に対する国際的称賛の煽動。
2006年12月1日
徳性
人類が種内でしか働き得ない事を想えば、文明は適応行動の共同体的集合に他ならない。彼らの哲学は彼らにとっての哲学。特にその言語概念に依存する限りにおいて。それなら建設は集合に対する導きの是非議論。哲学とは啓蒙。また実際に哲学は道徳を表象するものであり、遥か古人が考えた如く智恵を庸する作為ではない。
以上を信じない者は科学分野を研究する方がいい。哲学は彼らの処仕方を批判する徳性の発露にあって、西洋字源の如く智恵を要覧させるに足る営為でない。よって哲学を習うのは体系的ではあり得ない。彼らが自らにとっての善悪是非を考え続ける為にのみその定義はある。
以上を信じない者は科学分野を研究する方がいい。哲学は彼らの処仕方を批判する徳性の発露にあって、西洋字源の如く智恵を要覧させるに足る営為でない。よって哲学を習うのは体系的ではあり得ない。彼らが自らにとっての善悪是非を考え続ける為にのみその定義はある。
理想
知能を目的として高める作為乃ち理想は彼らの種内競争を遊戯化した結果。
実際、経済はこれを互恵的に用いた仕方、政治は威信的に、学術は求道的に用いた仕方である。それらを批判づける方法が考えられるべきだ。
実際、経済はこれを互恵的に用いた仕方、政治は威信的に、学術は求道的に用いた仕方である。それらを批判づける方法が考えられるべきだ。




