2021年1月31日

野蛮なジャニオタをみた

山Pがどうとかいうタグをツイッターで
偶々開いたらまことに酷い中身だった
サルみたいな生命体が全力で大発情してた
本当に恐ろしい光景

天下の先駆け

先駆けの梅咲きにけりわが庭に

コロナ禍で勝手に死にまくるも、まだまだ田舎差別しまくってくる東京の、文字通り死ぬほど悪いワルノリ

僕は東京のノリが嫌いだ
特に軽薄でなんか表面だけ
俗物主義的な部分が肌に合わないし
それどころか何につけ拝金的なのも
全く気分が悪いし
それより関西のノリはもっと気持ち悪い
 
関西の人達は当たり前みたいに侮辱してくる
それはボケなんだといっている
「アホ!」と侮辱表現を連発してきて
それで笑えとか意味不明なことをいう
侮辱で笑えるのは頭が悪いやつだけだろう
 
しかし東京のノリもそれに近い
なんか馬鹿みたいなノリなのだ

俗物同士が見栄の張り合いとか
それだけでなく地位の回しあいみたいな
なにもかも表面だけのやりとりしかないし
そのどれもが卑屈というか卑賎というか
なにか皇族にお世辞使うみたいなノリだ
身分差別が前提にあるのも間違いないし
はっきりいって腐った社会だと感じる

これがただの主観ではなく事実なのは
最近の都知事を見たら誰でもわかる話
2連続知事が汚職で辞めたが
その前職も現職も
性差別的な強姦殺害小説屋であるとか
公約詐欺連発で再当選後も無策とか
傲慢な無能さは大概である

そんな官民腐乱した東京界隈で
人が大量に生きてるってのも信じられない
僕が実際に都内に暮らしたかぎり
そこは地獄同然で
はっきりいって住めなかった
ゴキブリが大量にいるのもそうだけど
自然環境がほぼ完全に破壊されており
都民達は自然を全く馬鹿にしていた
田舎を差別しまくっているのも同じ
里山とかみても何も感じないのだ彼らは
感受性が完璧に死んでおり
初春に梅が咲こうが
ほととぎすが鳴こうと何も感じない
彼らの脳内にあるのは俗なこと
漫画アニメの描いている下衆な事だけ
変態同人誌だの
誰のとはいわないけど不倫淫行小説だの
下品な萌え絵を公共使用で毎度大炎上だの
殺人『鬼滅の刃』だの差別『翔んで埼玉』だの
一番ましな部類でも所詮が庶民の発情美化
高校生の純愛描いた『耳をすませば』とかで
その純真ぶりに逆に心のけがれた都民は発狂
モギケンの崇拝する漱石なんて俗の塊であろう
そしてそんなのを神扱いしてるのだ都民って

全くノリが違う下衆な連中って
無論かかわりたくもねーし
かかわられたら不愉快なだけじゃないか
そもそも普段から差別しかしてこないし
しかも原発公害までまきちらしてくるので
迷惑千万でしかない
 
都民が持ってきて
我々に迷惑かけまくってきてる原発なのに
それを他県民がもってると勘違いしてる程
頭も性も酷く悪い衆愚なのが都の現状だ

東京は僕には住めたものではない
少なくともぎりぎりましな多摩とかも
人がぐちゃぐちゃいてかなり鬱陶しかった
ストレスしかたまらないのだから
都内に住んでる人達は
何がよくて住んでるのか
実際に住んでみて
自分には何も分からなかった
そしてこのコロナ禍である
彼らは毎日千人規模で感染していく
そのなかでまだ田舎差別を連打している
完璧に因果応報じゃないか
そうやって死んでいく人達って
彼らに10年以上毎年最低と差別されてた
誰かが同情できるのだろうか?

ゴモラな南関東では自殺せざるを得なかった茨城人・三浦春馬

なぜ東京や南関東が
あれほど酷く腐敗した
汚い社会しか作れなかったのか
答えはその構成員自身にあるのだ
 
毎日の様にくだらないものをほめ
立派なものを相対的に腐し
悪意ある偏見の言動をまきちらす
無意味な肩書きで身分差別し
優れた人々を無視している
そして外道に高い地位を与え
それを褒めちぎるのだ

自分は東京芸大をみてそれに悟り
以後は美大界隈に深入りしていない
だがその構図は
美術界だけの話ではなかった
南関東一帯が腐り果てていた

その腐敗の拡大が
東京電力による福島原発事故であり
関東北部への魅力度差別であり
挙句は東京の原発再稼動要請であり
都民の普段の行いがそのまま現れた
単なる都民の悪業の公害なのである

植松聖被疑者の障害者大量殺人
首吊り士の大量自殺幇助
ある渋谷人の浮浪者撲殺
これらは決して偶然おきた事件ではない
普段の南関東人一般
東京や神奈川の平均民度を見たらわかる
いつでもそんな前座をしているのである

馬鹿の境界線

東横ヤンキーはエグザイルなどと誉めそやし
田舎のヤンキーとなぜか境界線を引く馬鹿

Jアノンのヤンキーコンプレックス

Jアノントランプアイコン使いつつ上から目線でヤンキーディスれり

2021年1月30日

日本国民一般の本質的な特徴は「意地悪さ」「イケズさ」で、彼らの集まりは性悪には天国だが、貴族や善人にとっては完璧な地獄

色々思い出してみると
日本人って一般に物凄く陰険である
 
その性格の悪さが極度なのが
これは冗談ぬきで京都市の人達一般だった
これはイケズ文化偏見とかではなく
本気で京都市民らって酷く高確率で
信じられないほど陰険な事を
面と向かって言ってくるのだ
彼らはそれを悪い事だと思ってなさそうで
さも自分達が絶対の上位者だみたく
異文化を差別しながら威張っていた
京都中華思想というのは本当にあり
現代では京都文化中心主義が
それに置き換わっているらしい

ナチの出現時
ドイツはやはり似た様な考え方があり
自民族中心主義というその形が
遂にはアーリア人優越論に繋がった

京都人達も既にその渦中にいて
彼らは京都人優越論を前提に
外の人達とつきあっているのだろう
その結束主義が酷い結果に終わるのも
単に歴史が示す所であろう

だが陰湿なのは京都人だけではない
日本人一般がそうなのだった
新渡戸稲造『武士道』が生まれたのは
日本人一般の資質と正反対だったのが
武士階級の一部だったからなのだろう
 
日本人一般の卑劣さは信じ難いもので
自分は幼児の時点から今の今まで
その酷さにはほとほとうんざりしている
彼らが直るなんて絶対にない筈だ
だってさも本能みたいに悪事してくる

口をついて出るのは差別的言動だし
ネットも匿名でばかり使って無責任
他者へ愚にもつかない濡れぎぬを着せ
必ずや凄まじい陰口ばかりしている
人前でも侮辱や名誉毀損ばかりする
普段の卑賤さといったら甚だしく
大抵が他人や他所の悪口で埋まっている
 
しかも日常生活の殆どが金儲けや
他人を貶める為の卑劣な詐術の実行で
大量殺人カルト教祖を崇めて
戦争犯罪にも無反省と救いがない国だ
 
つまり性悪の一般国民性なのである
だからこそその対極に貴族がいた
一部の武士達は高潔だったのだろう
だが明治期に東京に出てきた西軍勢は
卑屈な外様大名の下にいた
卑劣な恐怖主義者達だった
それどころか当の天皇自体が
その種の腐敗した公家の親玉で
自国内外に凄まじい恐怖をもたらし
今も精神病質的地位に居座っている

日本国が一部の外国勢から
さも善良かの様にいわれているのは
成程完璧に誤解である
それは内部で一部始終を見たらわかる
外人一般が京都や東京をもちあげるのも
全く日本内情が理解できていないからだ

性悪が遺伝と文化どちらの影響にせよ
現にそういう衆愚の間で
生きていくのは非常に苦痛である
だから日本では善人から先に自殺する
 
日本国は救いがない国だ
その救いなさは国民性の悪さに由来し
彼ら自身の本質に根ざした
「意地悪さ」という特徴なのである
京都弁でいう「イケズさ」だ

勿論この意地悪さを持つ日本人らには
日本は最高に居心地がよく
つまり性悪天国なのに違いない
周りも皆同類だから安心できる筈だ
だが性善的にうまれつき
性格がよく育った人達にとって
この国は正真正銘の地獄の底だ
僕にとっては最初からそうだった
そして国内で誰一人仲間が得られない

あるスピ系Jアノンの単純かつ差別的な二元論の思考原理

スピリチュアルとJアノンを
同時にコンプリートしてる
ある長野人をみた
 
その人は以前から都会崇拝・田舎差別的で
東京・京都中華思想の一典型信者だった
二元論とか凄くその人には望ましいんだろう
世界解釈として異様に単純だからである
 
無論その解釈は大概が無批判的、非現実的
愚にもつかぬ誤りばかり含んでいるだけに
それらはその人には一種の宗教なのである 

科学や哲学詳細はその人にはごく疎遠だろう
不可知的で懐疑的傾向を持つ思考は
ある疑問へ時に分かり易い回答を拒絶するし
真理や道徳は必ずしも単純ではないからだ

ある長野人Jアノンの観察記

ごく多少しりあいの長野人がいる
現実のしりあいではない
ピグでやたら身の上相談を聴かされ
大変苦痛だったが全部聴いてあげたら
急に大発狂して侮辱してきた人だ
以前は精神病院に通っていたらしい
 
この長野人まえから差別意識が凄いのだが
当然の如くJアノンになっていた
勿論ツイッターアイコンはトランプだ
 
以前その人は
休耕田をみて荒野といっており
長野の山奥って田んぼないの?
と僕は心から驚いた経験があった
その後もその人の言動を色々聴いてたら
結局典型的な都会崇拝をしており
テレビの中華思想に洗脳されており
ミーハー俗物みたいなキャラなのだった
中部地方にはそういう人が凄く多い
愛知県民とか富山県民とか
静岡県民とか
僕が少々話を聴く機会を得た人達は
全員普段からなぜか東横を崇めており
首都圏北部を謎差別してくるのであった
恐らくテレビを毎日みていて
その中の大阪や東京の軽薄な芸能人達の
自文化中心主義的で下品な差別観を
さも常識の如く信じきっているのだろう
ある種のあわれな世間知らずともいえる

新宿育ちの僕からしたら
およそなにからなにまで
彼らと逆の価値観なんだが
那須ほど綺麗だった高原なかったし
白鷺の飛ぶ
無音の霞ヶ浦からみた夕暮れの紫峰ほど
美しい山もなかった
 
中部人一般というのは
都会の暗面
田舎の明面を知らないらしいのだ
まるでアニメ『君の名は』で
西新宿をやたら美化して描いていた
典型的長野の山奥出身者みたいに

それで今度はツイッター上で
その長野人は関東北部を差別していた
日本中にマイルドヤンキーなんている
都内にも横浜にも湘南にも大勢いた
山形にもいたし関西にも神戸にもいた
わざわざ差別するため関東北部にきて
ツイートでそういう人達を見つけ地域差別
何か満足しているらしいのである
 
酷く卑しい
そのうえ頭も恐ろしく悪い
反証的思考力が0に近く
やることなすこと確証バイアス集め
或いは愚にもつかぬ差別なのである

思うに心の卑しい人って
どこに行っても似た様なもので
恐らく反省も改心もせず
似た様な末路なのではないか

世界一おいしいうしさん

ぎゅうぎゅうきっちんの雨情の里牛ハンバーグ弁当食べたお肉として世界一おいしいけど食べられちゃってうしさん可哀想

海の前の高層アパート

海の前の高層アパートに住んでる夢みた
朝おきて窓あけたらすぐ下に海がみえて
目を丸くしてみてとてもしあわせだった
自分は海がどういうわけか好きなのだろう

2021年1月29日

人の愚かさは直せない

自分より愚かな人達をより賢くしようとする試みは、全て失敗する運命にある。
 卑しさ、不道徳さ、悪さは愚かさの一種である。それでこれらの特徴の持ち主達を引き上げようとする試みも、全て失敗する。

 愚かさはそのひと固有の偏見によっているのだが、この偏見は拭い得ないもので、一種の盲点である。

 教育は知識(科学)を与える事で、誰かを以前より賢くみせかけようとする。だがこれが成功している人を私はまだ1人もみた事がないし、そういう人がいたという記録も、一度もみた事がない。ダヴィンチの手記に

天才には不足するが勉強して利口になった人は、自然にしゃべったり働いたりする時は必ず足りなく見えるが、意識的につとめるときには聡明そうに見える。
――レオナルド・ダ・ヴィンチ
"Codice Atlantico" 231 v.a
ミラノ、アムブロジアーナ図書館蔵。
R. Accademia dei Linceiにより複製。(Milano, Hoepli, 1894-1904)
とある。自分はそういう類の人しかみた事がないし、このレオナルドの観察も、自分の感じている人類のありさまとはかなり違う。現実にはただの勉強家はどの場合にも余り賢そうにみえないし、単に不器用に何かを語っている様にみえるだけであり、そしてそういう人しかこの世にはいないのだ。

 嘗て自分がレオナルドの意味でいう天才と感じた人がいないからかもしれないし実際に天才といえる者は存在しないのかもしれない。しかしいえる事は、勉強しても元々の賢愚はさして変わらない(生まれつきの差に比べ、実に僅かしか変化がない)という事であり、人にはいわゆる地頭というものが最初からあり、そのよしあしが(事故・事件などで大幅な物理的衝撃でもない限り)死ぬまで続くだけである。
 自分は天才をただの個性という意味でしか使わない。だから自分には誰もが天才でその重要さになんらかの観点からの適い方があるだけである。

なぜ日本国は亡ばねばならないか

東京には
みるだけで吐き気がするほど
卑しい人達が集まっており
日々下賎なツイートをしている
それで自分はみるのが嫌なのだが
彼ら都民は毎日公害を起こして
茨城県へ偏見で差別をしながら
ありとあらゆる悪事で
金を儲けようとしているのだ
それで嫌々ながら監視しているが
東京人達は心底下賎なので
絶対に反省も心変わりもしないし
その悪業の山を見て
中部人、関西人、西日本人達
或いは沖縄人や北海道人
東北人達まで
毎日かれらを崇めているのだった
そんな国は
いつも都会の犯罪者達に安全や
平和をおびやかされ
少しも心休まる暇がないのだった
そしてその都会の中枢にいる
殺人邪教祖達は
自らを神の子孫だといい
あまたの衆愚を洗脳していた
日本国は間違いなく亡ぶべきだ
だって犯罪者の為の国なのだから
匿名犯罪しかできない連中が
毎日東京や京都から威張りちらし
かねをむさぼって悪意をまきちらし
原発公害で大量虐殺をしていた
日本史を読み返しても
彼らはいつも同じ事をしていた
という事は未来永劫同じだろう
性の悪い人達が変わるわけがない
だから日本国は亡ぶのがよい
この国は善良なヒトが殺され
代わりに悪辣な衆愚が栄えるからだ

卑しき都会の公害稼業

経済といいつつ公害まきちらし卑しき都会がかねをむさぼる

自己中心的で性格が悪いヒトの観察

或る人をツイッターで監視しているのだが
その人の日常言動をみてると
性格の悪さが凄まじい
そしてこういえる
そんな人間と毎日接するなんて地獄だなと
 
よく見た目がどうとかいうけれど
見た目がどうでも性格がよければ
人として別に好かれるに違いない
が残念ながらその人は見た目も決してよくない
しかも性格まで異常に悪い
大抵は頭の悪いツイートや
リツイート・いいねを連打しており 
それだけでも吐き気がするくらいひどいが
いうことなすこと差別的なのに気づいていない

そしてその人は最近親についてさえずった
当然だがそれはそれは親不孝の言動で
悪徳ぶりが物凄かったのだが
その親を侮辱する観点が
親が子を想って行動してくれたのに
それへ子として感謝するどころか
「(親に)自己中心的でイライラした」
「(ゆえ親が)死んでよかった」など
とんでもない言動なのだが
それがそっくりそのまま当人の性格なのである

その人も自己中心性がはしたなく
もはや同じ生物とは思えないくらい違う
何か差別らしきものを非難した直後に
二重基準で利己目的に
別のものを差別しまくるとか
日常茶飯事らしい 
自己欺瞞に気づかないのは頭が悪いせいだ
そして性格が悪いのは
異なる立場の他人に思いやりがないせいだ
 
なんでそんな人間を観察しているのか
幾らでも悪性者なんているんじゃないのか
単にエイプの一種であるヒトなんて
脳の発達がよくなければ共感性なんて持てず
そこらの獣類と変わらないのではないか
そんなのに少しも良識なんて期待できない
最後まで意地汚く生きて死ぬ
放っておけ

サンドラ・ヘフェリン氏による、孝行息子だった三浦春馬氏ならびに彼の親御さんへの名誉毀損罪は同時に不孝を増長させる大変な不品行で、わが県わが国美風への冒涜にあたる

サンドラ・ヘフェリン氏は
嘗て三浦春馬氏という
自殺した人の親御さんをそしった
それは公然たる犯罪で名誉毀損罪
だった
開き直って
なぜか田舎差別のリツイートをくり返した
春馬氏が茨城土浦出身だからかは知らないが
東京にミュンヘンから越してきたサンドラ氏は
三浦一家へ濡れぎぬを着せ
公然と差別していた

これは彼女による人権侵害しか意味しない
或る人の出身地で誰かを差別すべきでない
そもそも他人の親が現実どうだったかなんて
週刊誌記事如きを種に推測するのは困難だ

要は彼女は勝手に他人の親子関係を妄想し
あの親もろくでなしに違いないと思い込み
自分の主観を元にそしっていたらしい
 
彼女には孝行の観念なんて
脳内に殆どないのだろう
だから平気で親を罵る
さもそれが立派な自立の証くらいの勢いで
そればかりか他人の親も平気で罵る
さもそれがドイツ系東京人の誇りとの勢いで
自分は大文明人かの如く驕り高ぶって
孝行息子や彼の親を名誉毀損した
公然と犯罪するのを文明的とはいわない
不徳さは文明ではなく野蛮の印である
どの国でも親を無闇に謗る人は尊ばれまい
孝という言葉がなくとも
親思いを尊んだユダヤ人の逸話は
聖書にさえ載っている
 
『孟子』離婁下では
親を養う徳が五孝で語られ
その趙岐の注による三不孝の一つに
親が年老いて家も困窮しているのに
禄の為に仕えない事が挙げられる
(趙岐『十三經注疏』「孟子注疏」巻七、53)
『孔子家語』致思12などでも同様の文脈で
「家貧しくて親老ゆれば禄を選ばずして仕う
(家貧親老、 不択禄而仕)」
と語られ
『荘子』寓言では曾子の言葉として
「私が親の生前に仕官したとき、
わずか釜にして3杯の給料だったが、
それで親を養えて、心は楽しかった。
のち仕官したとき、
給料は釜にして3万杯もあったが、
いまは亡き親にご飯も与える事ができず、
わが心は悲しかった」
と生前の孝養の重要さが語られる

或いはまた『聖書』出エジプト記20:12では
「あなたの父と母を敬え。
これは、あなたの神、主が賜わる地で、
あなたが長く生きるためである」
とはっきり孝と同様の理念が律法化される
『聖書』ルツ記では
未亡人ルツが義母ナオミに従い孝養を尽くし
それに感心したイスラエル人のボアズと再婚
結果、2代目イスラエル王の曾祖母となる
ここにあるのも親思いが健気な心がけとの
当時の史実に基づいた訓話なのだろう

では冒頭の人はなんなのか?
彼女が異邦人であるから不孝とはいえぬ
その人の祖国は飽くまでキリスト教圏であり
彼女は次の様に発言した
発展途上国でない限り、
子供のお金をアテにする親はロクデナシ。
――ヘフェリン・サンドラ
(アーカイブ http://archive.is/Lruox
子が進んで孝養を尽くす事が孝行なのは無論
日本法の民法877条でも
ドイツ法民法1601条でも扶養義務は存在する
では親が様々な事情で貧窮している時
子供に経済的に頼っているのは悪なのか?
 
それが途上国ではろくでもあるという旨も
どんな発想で途上国全般を差別しているのか
途上国なら例外なく絶対貧困が前提は妄想か
先進国に絶対貧困が存在しないというのか
そして途上国では扶養義務が不徳でないとは
一体どんな発想でうまれてきた国籍差別か
どこの国でも家族の助け合いは麗しいだろう
 
勿論彼女の発言主旨は
真実に基づいていない
ある週刊誌記事が真実に基づく証拠がなく
三浦春馬氏が単に孝養していたのか
扶養義務を果たしていたのか
いづれでもなかったのか
当事者以外の第三者には分からないからだ
つまりこのサンドラ発言は
明白な死者と遺族への
今なお謝罪も賠償もされずに続く
公然たる名誉毀損罪なだけでなく
或る人による生前の孝養を
悪意ある偏見で罵るという点で
三浦春馬氏の出身した茨城県や
日本の淳風美俗を根本から破壊する
大変な不品行で人倫への冒涜といえるだろう

勿論彼女は今すぐ当該発言を訂正し
三浦家親子や関係者への心からの謝罪と
最大限の賠償を生涯行わねばならない
それが先進国の常識であり
あるいはまた一文明国民の証である
彼女が茨城県民らをなめ腐っているのか
それ以外なのかは定かではないが
東京都で活躍していた三浦春馬氏一家が
なにゆえ途上国扱いなのか
それともわが国歴代の学者先生おわす
水戸学の本場茨城県がなぜ途上国なのか?
筑波研究学園都市に集まるのは蛮族か?
コロナ禍全開で浮浪者を撲殺していた東京
サンドラ氏はそこに属する都民ではないか
それとも東京やミュンヘンには
孝の観念がなく
孝養も扶養義務も永久に未成立で
要は家族が助け合う事など絶対ありえず
そこで親思いはロクデナシなのか?
日本で最も集まる東京都ならではの発想で
扶養家族を思いやるのは悪徳なのか?

肩書きをつけない事

努めて人の師となるな。学位をとって敬意を受けようとするな。驕る地位に就くな。これらはどれも身にふさわしくない結果を招く、俗人にありがちな原因である。

 俗物根性がとある人を支配してしまうのは名実の乖離であり、その最初の呼び水が、属性による虚飾である。

 当人の能力や人格以外の肩書きで、或る人の才能を測ろうとする者は確実に人を見誤る。その種の属性はなんらかの理由で着せられている衣服にすぎず、決して人の内実を示しはしない。

極東の匿名犯罪衆愚の自滅

匿名で犯罪するのが当たり前と思っている日韓人集団一般と、実名で善行するのが当たり前と思っている或る外国人集団が有るとして、後者の方が数も勢力も強いとき、前者が日々少子化で亡びつつあるのは自業自得といえる。

田舎主義

あなたがよいので
あしき人々から虐げられているなら
あなたが尊いので
わるい人々から嫌われているなら
あなたが畏れ多いので
いやしい人々から疎まれているなら
それを超えるのりはない
優れた人は少ない
ただほめられた人もそしられた人もいない
つきあうこと少なくあれ
都会に出るな

なぜ愚人や悪人がいるか

愚かな人達、悪い人達は、世界の悪例となる為にいる。

2021年1月28日

関西のものは関西へ

僕の全人生で色々酷い目にあった中で
一番不快だったのは
ある奈良女とのネット上の文通だった
もっと色々関西女には酷い目にあった
しかしその中でも
この奈良女から受けた濡れぎぬが
一番心を傷つけられた
 
自分は性悪達と相性が悪い
いわば水と油である
その中でも特に
自分が間接的にネットで接した
関西女の一部の性悪さってのは
筆舌に尽くし難いものがあった

関西人一般はもしかすると
そういう性悪達の間で生きていて
その中でのましさとろくでもなさに分け
比較的ましなのを
善人とみなしているかもしれない 
だがこれは比較的ましな腐敗物みたいな話だ
腐っている物は腐っている
心身に害があるので程度の問題ではない

勿論、関西一般で括れず
実際はその個人の問題に過ぎないというだろう
東京も似た様なものだろうと
常に関西人はそう思っているに違いないし
実際にそれらの関西女達もなににつけ
日本といえば東京か関西しかない的いい振りで
なんとも視野の狭さを感じたが
その勘違いぶりといったら公害に等しい
いってみれば
その女は都会の半グレが常人と思っており
それ以外のまともな日本の方がましであるのに
そのまともさを逆に見下し
それどころか存在を認知していなかったのだ

つまりこういう事だ
奈良地方への中古移民達は
この種の中華思想を中国からもちこんできた
それで今もなお
日本といえば関西圏、あるいは
天皇移住後は東京圏
それ以外は何もない、未開地と
華夷秩序を当然の如く信じきっている
 
関西地方で京都府の宇治市民とか 
奈良県民とかは
大阪府民、京都市民、神戸市民らから
しばしば日常的に差別されている風であった
これもまた中華思想そのものだ
天皇が東京へ移住してからも
華夷秩序の枠組みだけが悪習として残った

これだけならまだ話は楽かもしれない
やっぱ古代中国移民さんですね
で終わりだからだ 

もっと深刻にろくでもなかったのは
この中華思想に
自分の接した一部の関西女達は
脱亜入欧論を上書きしていた
 
イギリス、フランス、オランダとかを
それらの関西女らは神々の国扱いし
日本はそれ以下と頭ごなしに見下し
その文脈でいつもアジア人差別していた
脳内では漫画とかアニメとか
第二次大戦の結末に影響され
白人は上位者
アジア人は下位者
その枠組みは永劫不変と
彼女らは常識みたく考えていた
つまりは一種の上昇志向で
アジア人男性らを
見た目だけで蔑視し
白人男性全員を
白馬の王子様と信じている
典型的西洋主義者
典型的東洋主義者である
 
尤も彼女らの普段接している
アジア人男性といえばみな関西男で
僕からみても
まるで同じ人間とは
思えない連中が多いのだが

成程彼女らは馬鹿なのだろう
しかし私は優しい人間だ
それどころか善良な人間でもある
これで彼女らにお前ら馬鹿なのかとは
そうはっきりいえなかった
大体言ったところでなんにもならない
単にサル程度の人間がこんなにいるんだと
逆に驚いただけで
彼女らの言動を色々観察したのだが
そのどれも人間味の欠如が凄かった
何しろ当たり前みたいに差別的言動し
それらを反省とかできる余地もない
というか彼女らは
日常的に他人を傷つけ回り
下品にゲラゲラ笑い
それが当たり前みたいに感じてそうだった
自称文化的な京都人も当然そうであった
リアル京都は大阪人より下品なのも多い
京都文化中心主義は唯の虚栄心である

そして当の奈良女である
この人についてはほかの箇所でも
少しは書いた
しかし真のところについては
まだ書いていない
何しろこの人のあくどさ
歪み方というのは並大抵ではなく
こういう短詩形式で書ききれるわけもない

カポーティはそういうリアル女を
ニューヨーカーのしりあいに持っていて
『ティファニーで朝食を』で
彼女のやばさを
何とか表現したのかもしれぬ
幾らか美化して
しかし自分にそういう芸当ができるか
この奈良女のやばさは
ホリー・ゴライトリーを遥かに超えている

自分についた傷の深さは凄まじいので
恐らく何十年も癒えないし
下手すると一生癒えないかもしれない
その奈良女のあの卑しい言動は
僕が全人生でみた中で一番ひどい物だった
まさか人というものが
あそこまで卑しくなれるなんて
自分はついぞ想像していなかったのだ
 
僕がみた人の浅ましさ
卑しさを極めていたのは
合計2名いるけど
そのどちらも関西女
1人は京女
もう1人は奈良女で
どっちも僕と正反対の心の持ち主
彼女らは凄まじい性悪だったのだ

その京女の方は既に何度か書いた
2chにいた
性的嫌がらせの書き込みしていた人へ
自分が注意したら
その京女はいきり立って
「止めるなや!」といってきた
これで僕は意気消沈し
というか余りの衝撃で
これ以来
京都と名のつくものだけでなく
間接的に関西弁をテレビで聴くだけで
自動で吐き気がとまらなくなるという
いわゆるトラウマというものになった

もう1人の奈良女の方は
ある種この逆類型
その奈良女が毎度毎度
凄まじい不良行為をくりかえすので
自分は第三者として客観的にみて
最初は忠告していたのだが
女一般にありがちで忠告に逆切れする
それでもう特に助言もせず
適当に話に相槌を打っていた
そしてまたもその奈良女が
今度はバイト先のコンビニの
京男とデートしだしたといいだした
当人は性嫌悪障害だといいながら
アーそうですかと思い
僕はその奈良女と最初会話しだした
アメーバピグでの話を思い返しながら
あなたは昔、私を好きだといっていた
その時はピグ上で同情し抱きしめる
私のアクションで喜んでいた
その時と変わってしまったんですね
或る意味残念な事ですねといっていた
そしたらいきなりこの奈良女は
わけのわからぬ吐き気アイコンを出し
やたらめったら私へ中傷を始めた

この中傷だけならまだいい
またこの気違いが何か言い出したと
私はいつもの事だと解釈したから
しかしこの時のこの奈良女の口調だ
 
普段は標準語使っているんだが
この奈良女は突然
酷く汚い奈良弁らしきもので
私が聴いた事もないほど
下品極まりない罵倒を連発しだした

私が関西弁
わけても京都弁に
トラウマを持っており
それを聴くだけで
吐き気が止まらなくなるなど
既にそういう症状は
この奈良女とのやりとりで
幾らか解消されたかと思っていた
 
しかしこの時の奈良女の口調の汚さ
いや表現の卑しさといったらなく
私側は単に100%善意で
あなたの心変わりは残念ですね
しかしそういう事なんですね
女心と秋の空ですね
という話をしていたのが
彼女は言葉尻を捉えてきて
それはセクハラだ! と
大層猛烈な侮辱表現でいいだした

実際この奈良女は色々と
女狐というか
はじめは処女の如くというか
ある種の偽装をしまくっていた
それも1年くらいのやりとりの中で
殆ど明らかになり
私の前で相手の腹の底まで
大分透けて見える様になっていた

その奈良女は
彼女自身を
性嫌悪障害だといっているが
実態といえば
唯の美男子原理主義者であった
美男子には年がら年中発情している
イケメンイケメンと口癖でいい
その種の男を巡る合コンドラマを
なぜか自分へも勧めてくるのだった

次に醜形障害だといっているが
これまた唯の容姿への悩みである
整形手術後にはたといわなくなり
今度は人格まで変えて
さも男を自分が操れて当然
みたいな高飛車言動をする
 
この手術費用捻出時の逸話も
余りに私事に近いし
ここで一々描出できないが
自分は相手の実名も知らないし
名誉毀損にならないとは思うものの
非常に酷い不孝なのは間違いない
韓国の人達は親を泣かせたり
娘の為を想っている親の金を
嘘ついて分捕ってまで
整形手術しているのだろうか

上に出てきた高飛車言動も
この整形後の性格変貌の末路で
それまで弱者面していた者が
今度は男を裁断できると思い上がり
その一部として濡れぎぬをしたのだ
絶対権力者は濡れぎぬも自由だと
お前の意図など真意など知るか
私は男どもといつでも無限に交際し
誰でも振る
過去の言動など全て忘れた
勿論お前など死ねばいい
みたいな言い方をしていた
私はその言動自体の浅ましさにも
大層驚いたものの
なにせ私はこの奈良女から
彼女の家出時に
デートに誘われていたが断った
なぜなら私には恋人がいるから
その事はこの奈良女にも
私の恋人にも周囲の人にも教えた
つまりこの奈良女と
私には交際するつもりがない
そんなの
相手にもわかっている筈が
ここでは手のひらを返した様に
私の言葉尻を捉えて中傷しだした

この奈良女と同類の心の持ち主には
一体なにがこの奈良女の意図なのか
恐らくすぐに分かるのだろう
しかし私にははじめ意味不明だった
 
それであなたは誤解してますよと
自分側はあなたの心変わりについて
ある種の客観的視線から
残念ですねぇと皮肉な冗談まじりに
いわば呆れて返答してんですよと
懇切丁寧に説明した
それが事実なんだから仕方がない

誰かが言っていた
皮肉や機知が分からない人がふえた
恐らくそういう現象の一部が
自分の体験したその事には入っている
 
その奈良女は言語流暢性が低い
それで自分のいっている
皮肉が分からない
言葉面と意味している内容が違う
自分がいわんとしていたのは
「あなたの心変わりは残念ですね」
ではなく
(お前は節操がないあばずれか)
もっと深くは
(ご都合主義も少しは反省すれば?)
なのに
ある言葉の表面だけに囚われ
一体何を指摘されてるのか気づかない
 
なにしろ自分は上品な人間らしく
そう簡単に
というか決して
相手を傷つける言い方をしない
なにか相手の為に
相手にはきつい事を
言わなければならなくとも
自分側しか傷つかない言い方にする
己の欲せざるところ
人に施すことなかれ
己のされたいようにせよ
相手を当然の如く思いやりまくり
ことばの矛を猫パンチ級に
丸めまくって言っているのだ

それで自分は
この奈良女を前の京女の事ともあわせ
関西女一般の既往の性悪さの証拠から
それまで
甘やかしていたのが悪いと悟った
根っから性が悪い人間
自分はそんなのいないと
親だの周りの北茨城人だの
ある種の優等生的風土
田舎町性善説的素朴さに騙されていた
よく考えてみれば
周りには
どうみても性格が悪いのがいた
利他性にまつわる脳が育っていない
思いやりや道徳性が欠落している 
それは自分の接した中学教師らもだ
彼らの一部は
相手の意図など推測しようとせず
自分の思い込みや都合だけで
生徒に濡れぎぬし
しかも体罰を加えたりしていた

この奈良女も同じなのだった
そして前の京女も同じに違いない

ここにいるのは貴族ではない
人の面をかぶった獣なのである

同じ人間として敬って接すると
無際限になれあってきて
一種の無礼な行動を無限にやる
それが関西人らの日常であった
成程それは文化の違いであり
彼らからすればそれが親しさなのだ
だが自分の目には野蛮人世界である

その奈良女に自分は今まで
言わずに鞘に収めてきた
全ての思いのたけを言った
お前は今まであれほど悪業をした
だが自分の忠告を全て無視し
お前は自ら数多の蛮行をくりかえし
その迷惑を周りの人々にかけ続け
挙句の果てに
自分の不勉強をいい事に
相手へ濡れぎぬまで着せだした
イエスはそうやって殺された
カエサルのものはカエサルへ
神のものは神へ
所有権を語ったに過ぎない
その言葉尻を捉え
イエスはお前の様な悪党に
濡れぎぬで磔刑にされた

キリスト教の大学でまなびながら
一体お前も同じ罪に手を染めた
 
その罪は拭い得ないだろう
私はお前へ厚情をもっていた
それでお前からの迷惑千万に耐え
これまで好意で文通をしていたのだ
だがそれも終わり
お前の濡れぎぬはお前の不徳の証
偽りの顔で偽りの人生を生き
親を裏切り
恋人を裏切り
そして相談者の私をも裏切る
お前にはどこにも
心を明かす人がいない
何しろその心の有様といえば
悪意で一杯でお前の周りの人間をも
その悪意の色眼鏡でみるのだから
一体誰もそこでは善意でありえぬ

そうであれば
私とやりとりしても無益
私はお前と違って
この世の誰にも悪意を持たぬ
お前がやったのは
人の善意へ汚名を着せ
お前の悪意へ絶対権力を与える事

この奈良女は自分の説教に怯え
ゆるしを請うた
自分はゆるすといった
そして善行して暮らせと言い
以後連絡を取っていない

自分はこの奈良女に親身になり
彼女が最初語っていた自殺願望を
何とか生命に繋ぎとめようとした
その為に大変な苦労をしていた
だが自分の意図が間違っていた
この女は生き残るべきではなく
そういう人間がいるとは
自分は知らなかったのだが
単純に世のうらぶれたもので
生命の一部にはそんな世界がある

自分は旅行の中で
奈良を訪れ
京都に比べて遥かに悠久の風土
そこに関西圏で
最も快い世界の一つがある筈だと
信じていた
人が人らしく生きている世界
京都の俗物根性に染まらない世界
だが内面までのぞき見てみると
全く同じものが
表向き別の場所にいただけだった
奈良に住んでいる人も
やはり京都に住んでいる人と同じ
性悪さを当たり前と考える
悪意で生きている連中で
その奈良女の家族もどうやら同類
娘を過当教育で痛めつけ
結果私にまで因果が巡ってきた

人を思いやる心がない人は
誰に対してもそうなので
家族の中でも子供を傷つけ
或いは親を傷つけあっていた
風習なのか家庭環境なのか
脳の遺伝なのかもしれない
我々にそれを変える事はできない
できるのは縁を遠ざける事

自称日本人の現実

犯罪者と極悪人が
金を貪りながら威張り散らす
東京と京阪を往復しながら
全国を差別しまくる
そして奴らは永久に反省などしない
はじめから良心を持っていないのだから
脳内にない物を求めても意味がない
奴らにあるのは犯罪欲
加害欲
そして心底卑しい獣類の利己性だけだ
 
お前は何度奴らに名誉を毀損された事か
お前は何度奴らに濡れぎぬを着せられ
原発公害でなにもかも汚された事か
お前は何度奴らに住所で罵られた事か
 
お前は義憤を溜め続けてきたが
奴らが一度たりともそれに気づきはしなかった

だがその自称日本人達も終わりがきた
疫病の蔓延で死に続けている
尤も奴らが反省などする事はあるまい 
 
千年前の歴史書を紐解くがいい
いかに奴らが奈良や京都から
散々悪業を重ねてきたか
今となんの違いもない
では千年後も同じだろう
奴らが根っから性悪だからこそ
普段の行いが悪すぎるのだ
 
その証拠はインターネットを開けば
いつでもどこでもみる事になるだろう
匿名で犯罪しかしてこない
それが自称日本人の現実なのだ

2021年1月27日

東京利己主義

東京に原発作らず再稼動求む

匿名スラムの親玉と手先達

日本語インターネットというスラム
そこで威張り散らしているのは皆やくざ
赤羽やくざが連日ソフィストばりに詭弁を弄し
有罪判決から逃げ続けかねを貪りまくる
そしてやくざに染まって匿名卑怯者となり
連日犯罪しかしない馬鹿な若害老害壮害
ほろびゆく国の最悪級に卑しい東京IT成金達

都会人の全滅

内向的に生まれ育った人を
引きこもりと名づけ
ひたすら虐めてきた日本人達
「無職!」「ニート!」「スネップ!」
「キモ!」 「ダサ!」「親のすねかじり!」
「子供部屋おじさん!」 「ナマポ!」
「死ねや、穀潰し!」
コロナ禍で出づっぱり達は
外向的に生まれ育った故に
1人のこらず死の病に感染しまくった
嘗て引きこもりと呼ばれ
散々虐げられていた君が
都会を歩くともう誰もいなかった
悪魔達はみな死んでしまったのだ

東京人勝利法

東京人は何でも自分達が1位だと思い上がり
普段から悪事三昧を自慢していた
何かいなかに犯罪をしてそれを注意されると
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」
原発公害をまきちらし叱られると
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」
愚にもつかない偏見から田舎差別をくり返して
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」
阿Qの精神的勝利法みたいに
連日、東京人勝利法を使っていた
結果、コロナ禍の中でばたばた死にながら言う
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」

自由派御用達ごっこ

偽自由派の御用達ブランド
右手では途上国搾取工場
左手では人権擁護派
足元では貧民へ馬乗り

田舎を犠牲に金儲け

原発で田舎を犠牲に金儲けそれをエコだとほざく都会人

温暖化とめろとグレタと言い繕い原発公害東京の詐欺

田舎には何にもないと嘘をつき都会でコロナ禍東横関西

2021年1月26日

キッチン春の世界一おいしいお弁当

キッチン春という割と最近できた北茨城の磯原町のお弁当屋さんのお弁当さっき食べたら世界一おいしかったあとから聴いたら五百円なのに感謝と驚きしかない

絶え間ない肩書き詐欺

肩書きで人を見る者は、実力以外のまやかしに囚われ、絶え間なく詐欺にあうだろう。

2021年1月25日

なぜ都会にコロナ死体の山ができたか

東京人一般は毎日威張り散らしていた
いなかには何もないといい
原発公害や差別と悪意をまきちらし
善良な田舎の人へ濡れぎぬを着せまくりながら
自分達都会人は何でもある神だと言っていた
そしてコロナ禍がきた
東京人と親しんでいた自治体は一目瞭然となり
次々ばたばたと死んでいった
北海道も沖縄も京都も
驕り高ぶっていた関西人達、南関人達、
愛知人達は次々東京人から死の病をうつされ
病で苦しみつつ死んでいったのだ
東京人らはそれでも全国を差別し続けていた
「原発を再稼動しろ! いなかには何もない!」
だが食べ物も商材も水も電気も全ていなかにある
都会にはもう疫病の死体しか残っていなかった

他者の成功の快苦

他人の成功は、それが有限の資源から自分の取り分を比較的減らしたり、結果みずからの地位を落とす限り不快である。一般にそれが不快でないばかりか称賛に値するのは、自分達の取り分を増やしたり、地位も高める場合だけである。

義公の隠居所

西山荘篭もりて書きし『大日本史』近代日本の礎となりき

大阪吉本は関西人の間では人気があるが、僕にとっては全然面白くない三流芸能界説

大阪吉本興業の芸人って自分達が世界の中心だ位の勢いでいつも物凄く大威張りしているが、僕の目からみたら全てサブカルチャー、副文化の中でもかなり低次元な地位をあてがわれているものに過ぎない。下品なだけ、内輪受けだけの大阪吉本でいいと感じたものが殆どないので。みてもいいなと思えたのはピースの『サッカー少年』だけ。あれ茨城人と沖縄系大阪人の協働で東京吉本だし。

宗教戦争の外に出る、世俗的一国平和主義によった永世中立医療部隊への自衛隊改組論。ならびに宗教改良主義について

古代ユダヤ人は宗教として選民思想を確立し、自民族中心主義を持つに至った。
 そしてこの因果を破ろうとしたのがイエスというユダヤ教改革者のユダヤ人である。かれは独特の発展的理論を使って選民思想を否定し、博愛へともとの教義体系を結びつけた。イエスは、ここではかれを裏切った弟子イスカリオテのユダを含む、ユダヤ教団内の保守勢力から処刑され、結果、イエスの教え・キリスト教が、ユダヤ教から半ば乖離する結果になったのだった。

  ヒトラー率いるナチス・ドイツと、ユダヤ教を信じるユダヤ人との深刻な対立が生じたのは、当時の西洋社会で支配的になっていたキリスト教の博愛主義と、ユダヤ教の選民主義の根底にある違和のせいかもしれない。
 元来この乖離を埋めたのがムハンムドで、彼を始祖とするイスラム教(Islam、原義によると「帰依教」「引渡し教」)の体系といえるのだが、西洋社会はオスマン帝国の敗退と十字軍以後に、キリスト教圏に留まっていた。その主要な二大勢力はローマ教皇を教祖とするカトリック(Catholic、原義「普遍派」)と、プロテスタント(Protestant、原義「抵抗派))だった。西洋でのキリスト教とユダヤ教の潜在的対立状態に、イギリスのフランシス・ゴルトンが創始した優生学以来の種族主義を重ね、ドイツ民族中心主義の極北として、アーリア人優越論とユダヤ人絶滅論を掲げたのがヒトラーだったといえるだろう。

 ユダヤ教徒は第二次大戦の帰趨を受けイスラエルを建国し、否応なく中東圏での諸宗派の対立に身を投じることになった。そして全体として米英両国はこの建国事業、ユダヤ教徒からみれば聖地奪還事業に、米国覇権の観点から、参加することになった。フランスも少なくとも同等の意図で、イスラエル側から中東政略に参加している(イラク戦争やシリア騒乱での英米側での参戦を含む立ち位置など)。
 しかしここではナチス・ドイツを悪例としつつも、実際にはユダヤ教とキリスト教の教義の違和を、根本から解消しえていないという二重基準がある。いいかえれば、米英仏の3国は、単なる権術に基づいてイスラエル側の肩を持っている部分が多分にあり、寛容さの面で一見、表向き「信仰の自由」を擁護しているものの、イスラム教の過激派、イスラム原理主義へは逆の態度をとる二重基準を免れていない。もし真の信仰の自由があるのなら、イスラム原理主義にも容認の姿勢を取らねばならない筈であり、その教義に含まれる、信徒の一部からは暴力行使の正当化される条件(聖戦や禁忌)についても宗教学として、社会一般が理解を深めねばならないだろう。例えばマハティールの思想には、イスラム教の理解者として、この種の考え方が一部含まれているといってもいいだろう。

 日本は、自民党の要職(首相、副首相、財務大臣)を兼ねていた自民党議員・麻生太郎氏が、神道教祖たる皇族の縁戚(妹の夫が皇族)にもかかわらず、カトリック信者として知られている。そして彼を要職に就けていた各自民党政権は、比較的イスラエル側に立ちながら、米軍有志連合の後方支援に近い形で、中東政略に関与してきた(自民党・小泉政権下でのイラク戦争への自衛隊派遣、自民党・安倍政権によるイスラエル軍への武器提供、など)。
 単なる平和憲政および武器輸出三原則等の観点からみても、また防衛装備移転三原則でのその趣旨の改悪(実質的な同盟国との戦争共謀)をみても、これらの各自民党政権による陰謀は看過しえない。日本国憲法9条に定める平和主義を逸脱しているからだ。

日本国憲法
第九条 (戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認)

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

武器輸出三原則(1967(昭和42)年4月21日、佐藤栄作内閣が衆院決算委員会で答弁)
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
1.共産圏諸国向けの場合
2.国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
3.国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
防衛装備移転三原則(2014(平成26)年4月1日、安倍晋三内閣、国家安全保障会議決定、閣議決定)
2 移転を認め得る場合の限定並びに厳格審査及び情報公開
……具体的には、防衛装備の海外移転は、平和貢献・国際協力の積極的な推進に資する場合、同盟国たる米国を始め我が国との間で安全保障面での協力関係がある諸国(以下「同盟国等」という。)との国際共同開発・生産の実施、同盟国等との安全保障・防衛分野における協力の強化並びに装備品の維持を含む自衛隊の活動及び邦人の安全確保の観点から我が国の安全保障に資する場合等に認め得るものとし、(中略)総合的に判断する。

 しかしより重大なのは宗教間の対立へ、ただの米軍追従の目的で、野次馬的に参戦していると疑われるということである。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さずが君子の道であれば、上記の複雑な因果関係のある中東および欧米諸国での宗教間紛争に、日本という極東に孤立した国は少しも参加すべきではない。

 ユダヤ教の選民主義とは全く別の流路で、日本には独特の宗教として琉球神道を含む各神道主義、あるいはもとからの自然崇拝(いわゆる縄文系アニミズム)、そしてアイヌのカムイ信仰(いわばカムイ汎神論)というものがあり、これら以外にも日本仏教の各教派や、新興宗教など様々な宗教が国内にある。
 そのうち天皇を教祖とする神道(天皇とその縁戚者である皇室を教祖、神社本庁を教団の協会本部とする、いわば天皇神道)には、確かに一部、過去の皇族らを神格化(祭神化)する選民主義がみられるが、本質的にユダヤ教のそれと違う点に、この天皇神道の選民主義は少なくとも明治憲法で皇位継承を男系男子に限るとして以後、「男系皇族(ここでいう男系は男性皇族の男性子孫の意味)の血統維持」を中心とする教義で、日本人(日本民族)全体又は日本人一般の救済をなんら意味していない。

大日本帝国憲法
第2条

皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

これゆえ、しばしば神道教祖・信者らは(満州国の日本人や、旧植民地の残留孤児へ神道政府側が起こした様に)棄民をしたり、教祖自身が日本人信者らの死を容認したり(1975(昭和50)年10月30日おこなわれた日本記者クラブ主催会見で、昭和天皇が「遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない事とわたくしは思ってます」と発言)、戊辰戦争で皇軍から朝敵の濡れぎぬと偽りの汚名を着せられ侵略被害を受けた側を靖国神社に合祀せず辱め続けたりといった、皇族中心主義をとる。
 つまりユダヤ教での選民はユダヤ人一般だが、天皇神道のそれは飽くまで当時、正統視される天皇の男系男性子孫と、その親戚だけに限られるという部分が、まったく異なっている。
 なお天皇家と称する家には南朝・北朝など異系の血脈が存在するが、当時の神道学者と政府が、どの系統に正統性を認めるかで、この選民性には一定の揺らぎもある。
 例えば血統上本来の皇位継承者を正統とみなす「南朝正統論」を執る水戸学派が出現し、明治政府がその考えを公認する以前、南朝の男系血統は、傍系・本来の血統ではない天皇からできた北朝に対して、その北朝の末裔であるところの現皇室界隈から異系視されていたのだった。いうまでもないことだが、今上天皇・徳仁の血統は、この北朝由来のものである。ほか水戸学派は女帝同士の代替わりの実例(元明天皇と元正天皇の間)から、男系男性皇族の相続のみに皇位継承にあたって正統性の根拠を認めていなかったので(ゆえに、水戸学派では女帝も正統視した)、明治政府以後の皇室や神社本庁が執ってきている「万世一系論」(天皇の男系男性のみに皇位継承の正統性を認める、血統主義)の立場とは一部、この選民性の範囲が異なっている。つまり水戸学派は、傍系その他の血統による女性天皇および女性天皇間の相続も、過去の皇位継承の前例という、皇室伝統の理解に照らして公認する理論上の立場であり、これを「万代一系論」という。女系天皇容認論者である自民党・河野太郎議員は後者の立場に近いといえる。
 これらを端的に換言すれば、薩長藩閥(明治寡頭政治)に由来する万世一系論は男系男帝継承原理主義、水戸学派に由来する万代一系論は女帝相続容認主義といえる。女帝間の代がわりがあったうえ、女帝も多かった皇室の伝統に照らせば、伝統改造にあたる男系男帝継承原理主義が明治政府以後、なぜ日本政府の憲法に据えられ固定化してしまったかなら、薩長藩閥を構成した男性のみの明治元勲ら(鹿児島県・山口県出身者を中心とする一派)は、単に皇室研究を十分行っていなかっただけでなく、暗に当時として男尊女卑の考え方を持っていた為と考えるのが妥当だろう。そして平成・令和期の日本国民一般は、女性天皇、女系天皇いづれについても容認する世論が多数であり(最近の共同通信、産経・FNN合同、朝日、いづれの世論調査でも同様)、これは国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案でも人権の国際通念に照らし真であるばかりか、寧ろ水戸学派による皇室理解の立場に近いのだが。

 はたまた天皇神道の枠内で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などと共通の考え方を執るのは教義の違いから困難であり、宗教論として相互に合意を得るのは至難の業であるだろう。天皇神道では上述の様、男系男帝継承原理主義・女帝相続容認主義と微差はありつつ、皇族のみが選民性の範囲なのに、ユダヤ教ではユダヤ人全般又は一般が選民性の範囲で、キリスト教は博愛教義によって無差別的なのに対し、イスラム教ではムスリムとそれ以外にかなりの扱い方の違いがみられるからである。そうであれば、天皇を頂く類の日本国内政府が、中東・欧米諸国で宗教戦争に参加したところで、いつまでも平行線に終わり、最終的には異物として排除されることになる。2つの世界大戦も遂にそういう結果に終わったのだ。
 日本は極東に孤立し、多国間での宗教戦争に参加しないことが唯一の正解だと日本政府ならびに皇室は認めるべきだ。そしてその根底に置かねばならないのはいわゆる世俗主義(政教分離。少なくとも天皇神道の教祖たる皇族を除く各国民の間では、祭政不一致を認める考え方)で、天皇神道の関連儀式は、今後、皇室の私費、つまり皇族費の枠内で行うよう内閣および宮内庁は方針転換すべきである。さらに米軍有志やイスラエル軍による中東政略の枠組みの外に出て、積極的平和主義と称する安倍晋三氏得意の嘘と詭弁の惑わし、実態的には米属国主義(米軍傭兵志願論)など少しも首肯せず、日本国単独では単なる平和外交を前提にした、一国平和の中に安住すべきである。

 一国平和主義を罵る人間は次のことを考えればよい。
 もし真実、神の国があったとして、そこは完全な道徳で満ち、いかなる犯罪も悪事もおこなわれていない。全てが至善至美で、全ての人々は完全な幸福の中にいる。
 そしてこの神の国が1つあったからといって、他国が戦争またはなにか犯罪や悪事を国内外でしていないといえるだろうか? 当然ながら神の国以外のどこかでは、程あれ地獄の様な有様も日々おこなわれているのではないか? 単に人の間でいくらかの平和が確立できたとて、生態系の食う・食われる関係に囚われる生物が、どの動植物ら他の生物群も一切苦しめず、命をあやめずに生きることが果たしてできるだろうか。ヴィーガンは植物食を容認しているが、植物に痛覚に近い反応があると知られはじめた昨今、それも食べずに生きられない人たる原罪の一部なのではないか。
 全ての国々が等しく神の国であれば、もはやそこは国なる枠組みが必要でない筈だ。我々は既に神の世界にいてこの世には人ならやりかねない自他に害なす悪事はひとつたりとも存在しない。もしその状態に既にいるといえないのであれば――つまり、他生物への危害を含む犯罪、その他の悪事が現にわずかなりとも存在するのなら、人は少なくとも、先ずこの全国民の道徳性が完成された神の国をひたすら目指さねばならない。なぜなら、人は快苦や倫理に導かれよりよい状態で生きたいと感じているが、苦痛や害他性を与えてくる何か(単に他人や他生物である場合だけでなく、しばしば自分自身の悪徳でもありうる)があるかぎり、必ずそれに挫折するからである。
 自分の国が既に神の国だとすれば、その国は戦争という最たる悲惨を決して行うことはあるまい。それどころか、他国で行われている戦争に進んで参加したり、それを誘発する陰謀を働いたりも、決してしないだろう。もし神の国の軍隊がやってくるとて、彼らが完璧な聖徳で満ちていれば、絶対的に対立する諸国のいづれかに与したりせず、全ての国々の全ての人々、乃至、諸生物へ最高度の救済措置を行うに違いない。それが邪神でなければ、救いこそ人を超えた神の役割でなければならないからだ。

 上記の仮定は殆ど現今なりたっていない。つまり日本国政府の自衛隊は神の軍隊でもなければ、日本国民自身が神々しい民衆でもない。よって、理想的な神の国に到達するまでは、先ず隗より始めよと、自国の文明性、具体的にはそのなかの道徳性を改良し続ける必要がある。ここでいう道徳は、あらゆる科学、工学(技術)、芸術(技)を慈善へ応用する仕方を含んでいる。そしてできるだけ民衆全体が最善の存在となった暁に、その総体が神の国と見まごう状態になるよう努めるしかない。

 もし日本軍、すなわち現自衛隊が改組され、他国へ行ってもいい場合があるなら、永世中立部隊と公示しながら、いかなる国の味方もせず、また表面上そうといいながらどれかの同盟国の有利になる働きをするなど卑怯な二枚舌外交も使わずして、ただ純粋に傷ついた人々を救う非武装から必要最小限度自衛組織の医療部隊としてだけである。
 赤十字軍同様、無論、この部隊の人達はいつでも殺されうるし、人質になりえ、またいかなる理由かで傷つけられうる。自己犠牲はいかなる力からも強要されるべきではない。和平を維持する目的で、人権の欠かせない一部に該当する良心的兵役拒否権も当然、普遍的に認められねばなるまい。しかし彼らは今なお各地で起きている国際紛争に際し、神聖なる使命を帯びている筈なのだから、当外部隊を組織するにあたっては日本人の中から志願兵制度をとらねばならないだろう。
 またこの様な姿に自衛隊を改組できないというのなら、日本国では決して海外に部隊を派兵してはならないだろう。それは勝っても負けても所詮は愚かな戦という悪事に参加することにすぎないからだ。日本国政府に最小限度の武力行使が認められるのは、裏からみても表からみても、どこからどうみても自国を直接害する他国からの侵略行為への正当防衛に値するため、事実に基づく限り、また自国民を自国民自身が守る目的で、誰も非難し得ない行いだけだ。この行いを「純粋な正当防衛」と呼ぶ。そこには同盟軍との共謀による他国への攻撃は決して含まれ得ない。集団自衛権の行使は純粋な正当防衛とは到底みなしえない、なんらかの政略なのだからだ。

 日本は永世中立医療部隊の様な特別な例外を除けば、他国の内紛になんら参加せず、もし第三次世界大戦が起きてもその外にいて、自分達の永続的安寧を元に、戦争を逃れた亡命者を、寛容な宗教風土のなかに受け入れていればよい。この意味で、徳川政府の平和外交は、明治政府の侵略外交より遥かに、自他どちらの国からみても、本来あるべき国の理想に近かったというべきだろう。
 例えば今日の欧米・中東社会では、ベルギーやフランスでのブルカ禁止法にみられるよう十分なしえていない世俗主義で解釈すれば、イスラム教義の原典(『コーラン』)に逆らう態度をとった人々が過激派から粛清される様な場面があったとしても、これ自体は外形に表れたただの殺人罪・暴行罪と解釈されるべきで、思想・信条・信仰・良心といった内面の自由は、少しも国権から侵害されるべきではないだろう。宗教はどれもそれが生まれた時点の社会秩序を整理する目的で営まれていたろうが、時代の変遷で未来の社会風紀と矛盾する点も自然にでてくる可能性があるのはやむをえないことである。そのうち、どの教義が未来の社会でも復権され、どの教義が改正されるべきかは、各時代の宗教家あるいは宗教哲学者自身、イエスやムハンムドが当時そうした様、改革を試みねばならないのである。
 古代ユダヤ人の賢者は自分達の民族を脅威から守る目的で、『旧約聖書』を書いて律法を受け継いできたのだろうが、現イスラエルの政治状況は当時の教義と摩擦を生じる点もありうる。その教義の解釈または新見解として、律法の一部は現実にあるべき道徳性と合致する形に、場合によっては改廃すべきなのかもしれない。例えば既往のユダヤ教義では同性愛がソドム滅亡の文脈に照らし不道徳とされる場合であれ、遺伝的に存在しうる性的少数者、具体的には性同一性障害者(身体の性と一致しない性自認を持つ人。研究が十分進んでいるとはまだいえないものの、生得的に脳などの発達の仕方自体に原因があるかもしれない)などの例であれば、その権利を人権に照らし、特別に緩和するなどである。遺伝に原因がある場合、ソドミーの禁忌に関する教条的な解釈では、性同一性障害者が同性愛者かそれに近い存在とみなされうるのはいかにも不条理である。カトリック教皇フランシスコは既にそういった立場を、遺伝的原因にかかわらずかなり広範に認める節を表明した。イギリス政府が単に同性愛者であったことを理由に罰した例に赦免による名誉回復の余地を認めたのも、日本の都道府県としてはじめて茨城県が同性パートナー制度を認めたのも、これらの一連の流れの上にある。この性的多様性へ一定より寛容な立場は、同性愛その他への不道徳視に博愛が優先された例なのだろう一方で、同性愛に関わる遺伝子は自分の知る限りまだ発見されていない。つまり性同一性障害の例を除けば、同性愛の傾向は後天的な習性、もしくは文化的風習な可能性もある。
 これらの例以外でも、嘗ては信仰上禁忌だった行動・思考の多様性の一体どの部分が、私徳の解釈として緩和・容認されるべきかは、各宗教学者ら、各信徒の現代倫理観や、社会風紀の構想に任されている、というべきだろう。

 宗教学というものは、ある教義の定義された時点での精確な理解をめざす解釈論(いわゆる宗教原理主義)とは別に、金科玉条化した過去の教義体系に固執する保守宗派を作るだけでなく(宗教保守主義)、その信仰体系の改革を前提にした倫理哲学上の批評により、絶えず改良されるべきでもあるのだろう(宗教改良主義)。ベンジャミン・フランクリンは自伝の中で、そういった改良主義に立つキリスト教抗議派の一部を、英知を持つ者と称賛していた。

2021年1月24日

自称・愛国原理主義者の命令

「東京大都市圏へ絶対服従しろ!
都会を褒めちぎりアニメみて漫画読め!
関西からの差別と西軍の暴力を崇め奉れ!
お前の愛するふるさとをひたすら腐せ!
米を作るいなかには何もないと嘘をつけ! 
汚い都会には何でもあると嘘をつけ!
住みにくい満員電車の都心で暮らせ!
住みよい清らかな田舎に都会の原発を置け!
世界の文化は全て京都が中心だと嘘をつけ!
憎悪で反日ラベルを貼りネット右翼になれ!
どう地方蔑視されても東京マスコミに従え!
邪教祖陛下万歳といって毎日頭を悪くしろ!
我ら奈良移民が定めた和のみことのりに従え!
我ら匿名日本人の卑怯な犯罪に負けろ!」

偽りの名誉、誤った汚名は正直さの重りにより本来の基準に戻る

高潔な人は下賎な衆愚に疎まれ、中傷され、濡れぎぬされ、誤解され、あらぬ罪や汚名を着せられ、名誉毀損され、侮辱され、罵られ、磔にさえされているが、それら全ての責任は衆愚側のみにあって高潔な人にはない。そして因果は巡り、下賎な者には悪因悪果の破滅がくる。

 高潔な人は同等以上に高潔な人達から必ずや名誉を回復されるだろう。

 我々はイエスの名を聖者として知っているが当時のローマ衆愚を冤罪悪役としてしか認知していない。
 尊王の禅譲を果たした徳川慶喜へ着せられた偽りの汚名は、いづれそれを着せた皇室や西軍の悪業による宿命によって雪辱を晴らされ、はじめから冤罪されなかった場合より遥か高らかに栄誉を回復されるであろう。

類友

高貴な人は高貴な人と仲良くなり、親しむだろう。だから努めて卑しい人々と親しむべきではない。
 孤立していて憂慮するな、孤高である事は既に救われているのだ。

 人は自らにふさわしい相手とのみ、仲間を作る。

芸人呼び捨て

サンドラ・ヘフェリン氏がなぜか爆笑問題の田中さんを上から目線で呼び捨てしてた

拝金動物

注目され人になる
それともそのままでしぬ
どちらでもお前などどうでもいい
注目されようがおもちゃ
SNSのでく
そして死んでいく
コロナ禍で戸惑おうとどうでもいい
お前の存在自体が唯の禽獣で
金儲け以外何もないのだから

そして都会人は死んでいく

都会からいなかをむさぼり
無限の虚栄に耽ってきた
原発公害をまきちらし
何も知らずに不躾な差別を続けてきた
「都会にはなんでもあるけど、
田舎には何にもないでしょ?」
満員電車で吐き気を催し
まきちらすコロナウィルス
その間で糞尿を垂れる都民
「東京人は洗練された知識人で、
漫画アニメは最高の芸術じゃん?」
とある京女が上から目線で君を罵る
「ぼっとん便所なん?」
そして都会人は死んでいく

コロナ禍で困る人がいるのか

お前なんてどうなろうがいい
実際下らない人間なんだから
それなのにお前はお前の事しか頭にない
下らない人間なのになんのつもりなんだ?
お前がいますぐ死のうが誰も困らない
お前の親が生み育てた苦労から
一瞬失望し戸惑うだけ
だが最初からお前がいる時点で失敗作
どれだけ費用をかけようが
お前の存在自体が世の中の公害なので
実際ろくでもない人間なんだから
日々ネットで犯罪していたではないか
日々リアルで濡れぎぬしていたではないか
どこにいても悪事しかできないではないか
匿名で卑怯
実名でも卑怯
要するに存在自体が薄汚いお前ではないか
そしてコロナ禍で死んでいく
なにか困る人がいるのか?

自然な自滅

普段からあなたを貶めむさぼり
散々痛めつけてきた極悪都会人達が
原発公害と田舎差別をまきちらしながら
コロナ禍で自滅していくのを痛快がるのは自然

地獄からの解脱

ガウタマは死を正当化した
そしてそこから人間界は何も進歩はない
この世にいるのは俗人だけ
この世が地獄と悟った人はとわに去った

田舎差別をくり返してきた都会人の末路

東横と関西地方でコロナ禍自慢

瀟湘八景ショウ ショウ ハッ ケイサンダース

平沙落雁ヘイ サ ラク ガンサンダース』
(連作『
瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
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800 × 375 px
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烟寺晩鐘エン ジ バン ショウサンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)

2021年
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山市晴嵐サン シ セイ ランサンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)

2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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洞庭秋月ドウ テイ シュウ ゲツサンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)

2021年
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瀟湘夜雨ショウ ショウ ヤ ウサンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)

2021年
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遠浦雲帆エン ポ ウン パンサンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)

2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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漁村返照ギョ ソン ヘン ショウサンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)

2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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江天暮雪コウ テン ボ セツサンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)

2021年
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紫式部がなぜ山城地方(現・京都市界隈)では予てから偉人扱いなのか

紫式部というのは、心底、下卑た腐女子というのだったのだろう。
 自分はずっと謎だった。なぜあれほど品性下劣な物語を書いた人間が、関西地方では偉人扱いなのか。
 ある奈良女がアメーバ・ピグという社交媒体上で自殺願望を語っていたので、自分は善意でその人を助けてあげねばならないのではないか、と考え1年半ほどネット上で文通していたのだが、その間、彼女の語る関西地方の事情を逐一理解してわかったのは、その地方に暮らしている人間一般というのは、明らかに先住日本社会にとって異民族である。

 どうやらこの関西地方の人間は思いやりというものがおよそ寸分もないに近いらしい。勿論程度の問題だが、かれらはなんでも利己的にしか解釈できない。関西ではそれが普通らしいのである。
 大阪吉本興業の芸人を中心に「アホ」「ボケ」「カス」などと連発し侮辱表現をくり返しているのはこの為で、SNSで異なる地方とやりとりの際に摩擦が生じる機会がふえてくると、しばしばかれら自身が単なる方言の差の問題に矮小化しようとしているが決してそうではない。単純に、かれらは思いやりの程度が薄いのだ。それで他人を傷つけてなんとも感じていない。だから平気で他人を中傷できるのである。

関西弁って、今の時代、パワハラの分野にひっかかることが……。『死んでまえ!』とか、日常で言うてんねんけど。
――明石家さんま
2020年10月10日に放送された『ヤングタウン土曜日』(MBSラジオ)で

 ある種の京都人と一定より親しくなってみると、急に嫌味とか皮肉とか陰険な悪口とかをいいだし、びっくりした経験がある人もいるだろう。そういう人達は表向き、社会と摩擦を生じさせないべく一見いい人づらを演じているが、内心は性悪そのもので、親しくなってつい油断し、浅ましい本音を語りだしたというわけなのである。けれども、一般の人達はそこまで性格が悪いわけでもない事が多いだろうし、京都地方独特の風習と違って、普段からことさら演技しているわけでもないので、仲良くなったら侮辱してくるという予想外の行動に文化衝撃を受け、引いてしまう事もあるだろう。少なくとも自分はそうであった。
 通常、親しくなるとより本音が出てくるのは当然としても、社会の建前に妨げられよくわからなかったものの、本質的によりいい人なのだと理解できるのが、少なくとも自分の身近に接してきた常磐圏での人間模様の基本であった。それと京都はじめそこから多少あれ影響されている関西圏の一般的人間のあり方は、まことに正反対といってもいい。
 京都市界隈では建前の方が一見いい人ごっこをさせており、そこから知らずしらず漏れでてくる本性を「イケズ」つまり意地悪というのだった。その様な言葉は東日本には京都由来の京都方言のものとしてしか存在しないし、現にイケズな人間が極希である限り、殆ど社会全般に於いて目立たない種類の行動・心理類型なので、わざわざ日ごろ使い易いよう手短な表現が作られもしなかったのだ。

 京都人達が東京へ好んできたがるのは決して偶然ではない。東京圏の人間達の日常的な下品さは、江戸時代の浮世絵、黄表紙などにも色々記録されているが、要するに遺伝的系統からいっても江戸っ子というのは徳川家康に連れてこられた大阪商人の末裔達であり、新幹線が通っている東海道を通じ、日々交流しあっている京阪人なるものに、かなり近い天然の資質を持っているといっていいからだ(参考:東京都の類似都道府県)。すなわち京都人一般が本音を出しても、東京圏ではあまり周りの人達(江戸の町人達の末裔)と変わらないと感じるだろう事は想像に固くない。実際、東京人達の平均値からみれば、勿論程度の問題だが、万事に文化的な類似性があるともいえるのである(参考:京都府の類似都道府県)。

 この点で、かれら関西地方の民族性(地方的な集団の性格)は、思いやりの度合いが先住日本人の系統より薄い、個人主義的な一部の外国人に近い(思いやりぶかい民族あるいは個人もいるので、全ての外国人ではないが)。弥生人の系譜(Y染色体ハプログループO1b2)が、中国人の一部、朝鮮人の大部分と同根で、あるいは西洋系一般(同R)により近く、縄文人(同D)からより遠いのは、現時点までにわかっている遺伝系統樹からも確かめられる生物学的事実である

 弥生人の侵入後、アイヌや縄文人(旧琉球・沖縄人を含む)はこれまで自称天皇を代表とする弥生系から散々いたぶられてきている。つい154年前、一方的に東日本人が西軍から濡れぎぬを着せられた戊辰侵略もそうだ。10年前の福岡人・松本龍による仙台での被災地見下し発言もそうだ。
 これらは理由があってのことで、優生学とは逆の意味で、この弥生人の集団は以前から利他性が縄文系・アイヌ系より低いのだろう。サイコパス(精神病質者)の脳を例にとって、低共感の人間は扁桃体や眼窩前頭皮質に機能障害あるいは弱さがあるとすると、これら共感性を司る脳部位が相対的に育ちづらい遺伝、又は文化環境を持っているのが、この弥生系の集団だったのだろう。食品保存の効きづらい狩猟採集が中心の縄文文明では信望を集めた、持たざる者への喜捨、所得の再分配を意味する大盤振る舞いで、弱者を助けたがる気前がいい側より、大規模な水田稲作下で蓄財可能な弥生文明では、単にケチでがめつい側が生き残り上、もっと有利だったのかもしれない。
 実際、今も弥生系の影響度が濃いといってもいい京阪地帯とか愛知地方とかでは、吝嗇や金儲けといった行動は決して蔑まれる傾向ではなく、むしろ資産家こそ名望家として尊敬されている節がある(例えば日本電産社長・永守重信氏の様な人物、もしくはトヨタ自動車社長・豊田章男氏の様な人物)。それは金儲けを蔑み、清貧を尊ぶ、先住文明圏にあたる岩手県人・新渡戸稲造の『武士道』、あるいは同県人・宮沢賢治の書いた喜捨の理想のあり方とは正反対の文明に由来している社会風習なのだろう。

……侍は一貫して金勘定は卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的職務に比べれば卑賤なもの、と考えたのであった。
 この様に金銭や貪欲さを嫌ったことで、武士道を信奉する侍達は金銭から生じる無数の悪徳から免れたのである。わが国の役人が長い間、腐敗から遠ざかっていたのは、ひとえにこのお陰である。だが、悲しいかな、現代においては、なんと急速に金権腐敗政治がはびこっていることか!
――新渡戸稲造『武士道』第十章 武士はどの様に教育されたのか

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
――宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
 弥生人の侵入後にあたる弥生時代から、弥生遺跡の中に殺戮の証拠が出てくるのは、先住日本人の社会より相対的に犯罪率の高い、こういった弥生人移民の格差社会にあって、当然ありうることだったのだろう。実際、身分制の様に、差別的思考が前提になっている国は、一定より絶対的共感性が低い人間が権力を専横しなければ、到底なりたちえない。封建制の一種である皇室(天皇制度、天皇制)も当然、この身分差のあった弥生人社会が、参照先でもあるかれらの祖国・中国から、中華皇帝制をまねた類型にあたるといえる。

 そしてそういった低共感社会の乱倫模様が極まったのが平安期で、そこでは皇室が頽廃し、藤原政権の婚姻政略を前提に、山城地方(現京都府界隈)への中世朝鮮人系移民社会(いわゆる朝廷)の上位者達は、日々仕事かのごとく税を乱用し、淫行に耽っていたのだろう。
 紫式部はそのなかにあって、宮廷に近い家庭教師をしていた未亡人として、鬱憤晴らしの目的で、今でいう腐女子状態で妄想の乱交模様を書きつけていたのだろう。ところが、これに名作かのごとく反応した当時の京都人達は、まるで現代、同郷の綿矢りさの手になる、未成年者らによるものを含む、性にかかわる頽廃風俗的な淫行模様を書いた小説(『インストール』『夢を与える』など)に、さも偉業かのよう礼賛を重ねていた現代京都人達と、なにからなにまでそっくりではないか? なにか民族構成に特別な変化があったわけではないので当然といえば当然だが、さがの有り様が中世から何も変わっていない。

「なぜ京都人一般は乱倫系の淫行小説を好み、賞賛するのか?」

この疑問を解くには上の記述で大分理解が進んだと思う。一言で書けば思いやりの度合いが低い人達であるばかりか、かれらが品性下劣だからなのである。裏を返せば、思いやり深く、上品な人達であれば、人の不品行を美化した小説なんか目もくれない。道徳的に立派な内容が書いてある、趣味のよい本を好む筈だ。
 もし道徳性が時代や場所によってある程度揺らいでいるとしても、性的頽廃の風習がはびこったソドムとゴモラを神が亡ぼした逸話は、旧約聖書の昔から語り継がれており、「姦淫するなかれ」の戒律が、全く無効化している社会はそう多くあるわけではないだろう。姦淫の基準が、中世以来、京都はほかの社会と異なるとして、ロシアの大統領ウラミジール・プーチンが二千円札の発行時に言ったとされる真偽不明な文言も、恐らくロシア正教への信仰にまつわる人間性を克明に探究してあるロシア古典文学との対比、または、冷戦後の国際構図の中で、プーチンへ期待されているのだろう冷酷であると同時に高潔な面のある専制君主の役割として、同一の批評的観点からでてきた俗諺なのだろう。

日本は、不倫や近親相姦を題材とした小説を紙幣に印刷して流通させるほど社会が堕落したのか。
――(伝)ウラミジール・プーチン
2000年7月、九州・沖縄サミットで日本の首相の森喜朗が、紫式部原作『源氏物語絵巻』の描かれた二千円紙幣を各国首脳に配布した際、言ったとされる文言(出典不明)

 実際、現実にあったこととして、イギリスのポーツマスで2014年6月6日行われた、ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典で、原爆投下の映像を前にプーチンは(仮に演技だったとしても)胸の前で十字架を切っていたが、米大統領オバマは拍手していたのだった。

 他人を大層傷つけ、善良の風紀と社会秩序をいたづら壊乱する話、それも元来唯の奈良の人に過ぎない自称皇族が世襲権力の乱用を重ね、強姦罪を正当化、処女のおとめに自殺未遂させるあくどいやくざ話がもののあわれだといい、さも立派な大文学かのごとく吹聴していた本居宣長も、その影響を受け同説をうのみにしていた小林秀雄も、茂木健一郎氏も、同じ悪習に感染した人々である。

 縄文文明の存続した東日本圏にあたる岩手の詩人・宮沢賢治の童話であるとか、 茨城の野口雨情の童謡とかを読めば、その素朴な善良さと、京都地方の淫猥な悪辣さとのあまりの落差に、同じ国民の事かと愕然とするであろう。それというのも当然で、もともと、遺伝的にも、京都地方なる朝鮮系の移民地区と、先住系日本人の系統は、嘗て分岐したY染色体ハプログループCT時点にして7万年も隔たっているのだから。
 この2つの系統――縄文人と弥生人は、中部地方あたりを介していまなお混血し続けているが、もともと、たまたま侵略・被侵略の両運命によって、呉越同舟状態になってしまっているに過ぎないのである。

 近現代の京都人が今もなお自文化中心主義に耽り、世界の全文化の中心が自分達だと京都市の『世界文化自由都市宣言』で公言しているのは、やはり同じ原因から発生している、中世から延長された中華思想の驕りなのである。
 傲慢さとは愚かさの一種だ。愚か者ほど自己過信し易いというダニング・クルーガー効果を参照するまでもなく、文化相対主義、多文化主義、文化多元論、構造主義その他の非中華思想を鑑みれば、文化帝国主義の類は遠からず、ナチスの頽廃芸術論と同じ禍をもたらし、異文化への誤解、蔑視、差別、そして弾圧をもたらすだけだろう。
 無論、今日及び未来の我々にとって、京都市の今も持つ類の自文化中心主義は、反面教師でしかない筈だ。異文化の存在はそこからよきに見習い、あしきを反例に、相互参照の中から何かを学び取る事であると同時に、単に全て文化という仮の単位は、無際限に多様化すべきもので、そのどれかがほかより上だとか中心だとかいった概念では土台からありえない。京都市が暗愚だからこそ、自分達が世界の中心で、他の文化はそうではないと思いあがれるに過ぎないのだが、こういった自文化絶対化の考え方が行き着いた果てに、やはり自堕落さに由来する頽廃主義の自己正当化なる悪趣味が生じてくるのも、それが長らく固定してしまうのも、比較文化から謙虚に学べない者の必然というべきなのだろう。

2021年1月23日

悪人がつけたがる親日仮面、適当に貼りたがる反日・左派ラベル

今日、愛国主義の偽装、親日面は、悪人の隠れ蓑になっている。
 この自集団優先の身びいき観念論は、自集団の利害を公称しているが、実際には利己性のいいかえでしかない。

 愛国者面の南関人や京阪人などが、国内へ差別的言動を吐くのは珍しくない。
 かれらは適当な決めつけで左派とか反日とのラベルを貼りつけた相手を集団犯罪の被害にあわせるが、この犯罪や悪意、加害の正当化のため、保守とか愛国と、かれらの中では正義派の偽装をしているだけである。

善人面する極悪犯罪集団の動かぬ証拠

日本のインターネットには
総じて匿名犯罪者の極悪人しかみられない
だからそこは地獄なのだろう
私が見ている目の前で
日本人達は何人も罪なき人々へ
中でも善人達へ
匿名で群れて濡れぎぬを着せ
ありとあらゆる悪意で誹謗中傷を重ね
心を致命的に傷つけ差別を繰り返し
現実でも悪意で追いかけ回し
自殺へおいつめ大量に集団虐殺していた
日本人一般の心がはじめから最悪だったのだ
その種の悪魔の元凶が有罪判決から逃げ
さも知識人面で東京や福岡を好きに移動し
亡命先パリで毎日金儲けしつけあがっている
そしてその極悪人を
日本人どもは平気な顔で褒めちぎっている
日本人なるものは根っから性が悪いのに
善人面だけする最悪犯罪者の集団だったのだ

なぜ九州地方では反政府恐怖分子が英雄視されているか

九州人一般が西郷隆盛の様な無政府恐怖分子を英雄視しているのは、かれらが西郷による戊辰戦争・征韓論・琉球王誘拐事件での侵略罪・侵略教唆罪(今日の法でいう憲法9条違反、本州諸国・アイヌ自治圏・琉球国への外患罪・外患予備陰謀罪)をはじめ、戊午密勅を公卿に書かせた関東内乱工作から、薩摩国(鹿児島県)による外国との自発的戦争と敗戦時賠償の中央政府へのおしつけ、江戸界隈での放火、同じ尊攘派でありつつ長州勢への再三の裏切りと倒幕論へ歩を移してからの権術主義判断による再同盟、天皇へ恭順した嘗ての同盟者・徳川慶喜や松平容保への濡れぎぬ、そして明治政府との自滅戦争まで、あまたの内乱罪・内乱予備陰謀罪・共謀罪、権力拡張を目指す利己的・害他的謀略による反政府暴力行為をなんら反省していないからである。
 すなわちこの九州地方一帯が、常々、暗に本州の中央政府ならびに諸外国政府へ、心理的に反旗を翻しているからだといっていいだろう。その狼子野心の根底にあるのは、暴力と権術を是とする無政府恐怖主義なのだろう。

最後は金目でしょ

東京から原発公害起こしても最後は金目の石原伸晃コロナ無症状で優先入院できても最後は金目でしょ

聖評と俗評

卑しい人達から賞賛を受けてはいけない。それは破滅への道だ。

 ツイッターにいる日本人の一般大衆は常々次の様な言動をとっている。かれらは日頃から下賎な者にたかっている。下品なツイートを連打し、リツイート・いいねで拡散し続け喜んでいる。また、立派な言説を無視したり、揚げ足取りで無理に中傷しようとしたり、高徳な人々を貶めようとしたり、汚いやり方で陥れたりしている。
 上智と下愚とは移らず、そのままの光景である。
 そういう匿名衆愚の間で、聖人は真っ先にぬれぎぬで抹殺されてしまい、終ぞ生き延び得ない。

 尊い人達は数が少ない。多くの場合、俗世間に身を現していない。当然ながら無名である、名声とはどこまでも俗望だからだ。例えば完全な聖徳をまとった神格がこの世にいたとして、その存在のあり方を世俗的な人間は悉く分かりえないに違いない。神格の似姿である聖人を見つければ、その人からの真っ当な評価のみが、真に気にしなければならない筈だろう。
 具眼の士がいない時代や集団にあっては、自らへの客観視(上位認知、メタ認知)を使った自己評価以外に信用に足るものはない。

悪縁を絶つ

不道徳な人は、往々にして自分達が不徳だと気づいていない。それゆえ自分達が成功した、立派で確立された人間だとみなしあい、褒めあっている。

 不道徳な人達と縁を切るには、彼らの存在自体を黙殺する(完全に無視し、相手の自滅を待つ)必要がある。
 縁を切るとは、相手と毛繕い行動に該当するやりとりを一切しない事だ。法や倫理に比較的無知な子供あるいはそれに近い精神年齢集団の場合、無視などでいじめを行う集団の方に悪意がある場合が多い、との落ち度がありがちなものの、実際、悪意の有無にかかわらず、類似の社会行動は大人でも、懇意な集団の多寡としていつも起きている現象である。例えば結束主義(ファシズム)や国家社会主義(ナチズム)の党派は、自由主義や個人主義の党派と大抵、反目しあい、相互対立している。
 悪人集団からの日常的禍を退けるには、荒らし、ダークトライアド(暗三格)、ダークテトラド(暗四格)の様な利己的な加虐欲を動機にしている悪人達、あるいは暴力専横を省みない権術主義者(マキャベリアン)がその集団の少数派、中数派、多数派いづれの場合でも、単なる加害行為への正当防衛あるいは行動・思想分析を除けば、相手を構うに足る同格の良識人と認めないしかない。
 尤もこの悪徳集団が別の国、別の地域集団(東京都、薩長土肥といった少数自治体など)になり、(原発など)公害をまきちらしてきたり、(自動車泥棒など)犯罪をおこないにきたり、(魅力度報道など)差別をしてきたり、(コロナ禍など)感染症をもちこんできたり、(戊辰戦争など)侵略罪などで攻め込んでくる事もある。これらの場合を顧慮すると、悪人集団への囲い込み、監視・諜報と被害防止・防疫対策は、国防自治にとって常道的に必要だ。

「誰とでも仲良くすべし」という和の全体主義は、相手が不道徳な悪人、不良である場合、常に間違っている。悪徳は知らずしらずうつる習慣という特徴を含んでいるからだ。この点で、過度の寛容性を信じている人達は程あれ悪人達に俗了され、最善者たる事はできない。
 最善なのは、自集団の法的・倫理的常識の刑罰・非難分類に悪人達を存在もろともはじき出し、彼らと努めて一切関係しない事である(例えば2ちゃんねらー、日本語圏ツイッタラー約8割の一定部分らによる匿名犯罪を違法化する。匿名卑怯者文化を不道徳視するよう一般社会へ啓蒙するなど)。
 また単なる系統発生論として、ヒトを含む生物の一般的進化は、程あれその様な経路で異なる集団を生み出し、別の系統樹へ種が枝分かれする事で果たされてきたのだろう。






自分の断片

私は毎日毎時間うまれかわっている
それで毎日自分が変容していくので
一体どの自分を
記録にとどめればいいのか分からない
その一瞬を切り取るのが自画像であり
詩なのだろう

悪友と下品な技を作り、褒めあい、誇る人達

なぜ東京人一般、京都人一般が、下らない人物や文物――例えば反政府恐怖主義者たる幕末西軍。例えば頽廃した中世皇族の乱倫劇といえる『源氏物語』や、『異種族レビュアーズ』2020年といった性売買罪を美化した深夜アニメ、村上隆『ヒロポン』1997年、『マイ・ロンサム・カウボーイ』1998年などオタクの狂った変態性欲的妄想を戯画化した裸像を持ち上げ、それより立派な人と物――例えば尊王将軍たる徳川慶喜と忠臣・松平容保。例えば初期武士道の美徳にまつわる悲劇といえる『平家物語』や、五浦派以後の近現代日本画、神戸智行『陽のあたる場所』2006年など花鳥風月の正統的な表象画を無視、場合によってはぬれぎぬの汚名を着せ名誉毀損さえしているかなら、単純に、その性悪集団の趣味が悪いからだ。悪趣味な集団、低俗で、好みの退廃した集団はそれだけ、物を見る目に現れた品位も低い。

 他方で、東京人一般、京都人一般は、最たる自民族中心主義、自文化中心主義を含む中華思想の持ち主で、自分達のサブカルチャー礼賛が下品だと気づく事がついぞない。実際、外国人にはかれらより品性下劣な人間も、より多い人口比の集団であれば好みの多様性から当然いることがあるので、その人達からの礼賛にへつらいつつ、既往の傲慢さによって、自分達は日本文化の中央であると長らく主張してきている。
 東京人一般、京都人一般に、これらの傲慢さを自覚させ、反省させる事は先ずできないだろう。かれらは品性が盲点になっているからこそ、それらの下賎な中身を大いに含む(例えばあまたの変態性欲を強調した、猥褻同人誌の様な)サブカルチャーを作りえているのだ。

 人は鑑識眼の低い衆愚にかかわるべきではなく、かれらに猛省を促すべきでもない。かれらは単に下品さを誇示することが技の目的にすりかわっており、優れた文化を作りえなかっただけなのだ。

科学や、思想、主義はそれを信じる限り宗教

宗教を信じないといっている人は、科学主義(科学が真理を語れると考える立場)、資本主義、民主主義(多数決による共和政など多数支配の正当化)、社民主義、自由主義(ここでは特に市場の自由放任を是とする経済学上の立場と、政治的に個人の自由権をなるだけ寛大に扱おうとする立場を含む)、神道主義(皇室崇拝、象徴天皇制の容認)、国連主義、人道主義(倫理的なヒューマニズム)など、別の信仰体系、現代宗教に感染している事に気づいていない。

 それら全てを懐疑する事も懐疑主義として体系化されうる一種の宗教で、そのうち、強度の不可知論(真理は究極で知り得ないとする立場)はかなり真の無宗教に近いが、この立場もそれに固執すれば単なる無宗教主義という誰かに信じうる観念論に他ならない。

2021年1月22日

愚者のあり方

愚者が賢くなる事はない。そして愚者は賢者をそうでない人から見分ける事がない。

花園川上流

竹。それが騒ぐ音。やがて消える。
月。それが傾いて、竹林の陰に消える。
清流。その隣の竹林の騒ぐ音。溶暗。
清流の中に泳ぐ小さなヤマメの、
月に照らされ青みがかった背の銀色。
魚影が岩陰に隠れ、川の音だけが残る。

ツイッター短文厨は反知性主義の外道

何度考えてみても、ツイッター短文厨は正真正銘の馬鹿だと思う。そしてそういう本物の馬鹿が、非常に偉そうに上から目線で、長い長いといってくるのは本当にふざけた話で、はっきりいって連中に天罰が下る事は絶対に疑う余地がない。失礼とか超えている。
 大抵の本、大抵の学術書はツイッターに書いてある全ての連続ツイートより遥かに長い長さであり、それらを日常的に読んできた人達に対し、或るやりとりを不躾な上に何一つ理のない言動で弾圧して回るとはなんなのか。何度斬り捨て御免されても当然といえる外道どもではないだろうか。ツイッター短文厨は自分の天敵の第一級の部である。

うつろな肩書き稼業

肩書きに騙されている人達は一人の例外もなく愚か者であり、その結果、確実に人生を踏み誤っている。余りに例外がなさすぎてそうと知っている側にとっては驚異的なほどだが、この詐欺行為によって国すら作られている。

「天皇」は肩書きであり、その虚構の権威以外になんの意義も持っていない。中身がどうあれ天皇と自称した肩書きによって、かれは大量殺人を犯して無罪放免され、あるいはありとあらゆる贅沢の限りを尽くしている。もしかれが一般人として平凡な行いをしていても、だれも見向きもしない。

理論と技術の違い。感覚論と、前衛の意義

学問的な芸術家は、大抵、使い物にならない。
 学者は本質的に芸術家とあり方が異なっており、両者を高度に兼ねている場合は希である。
 よく作られている物は技術的高度さを伴っているが、単に理論的に何かを知っている、というだけでそれがよくなしえないのは、大抵の美術史家、あるいは美術批評屋に絵を描かせてみればよく分かるだろう。
 工学者と職人に違いがあるとすれば、理論的認識と、技術的認識にずれがある点である。

 芸術論の中で「感覚 sense」が問題になるのは、感覚の優れ方と、学問的認識の優れ方とは質が異なるからである。美学 aestheticsの原義は「感覚論 αἰσθητικός」で、この認識については、数学の様に、定義、公準、公理、命題といったユークリッド『原論』式の論理的段階を追って、誰もが一様に学ぶ事はできない。ある感覚について気づくか気づかないか、かなり生得的な問題なのだ。そして未知の感覚の拡張に関わるのが、芸術の前衛性の存在意義である。

この夕陽に含まれる全て

この夕陽には全てが含まれている
そして自分は永遠にそれに辿り着けない
自分にできるのはその光に含まれる全てを
なるだけ取りこぼさぬ様すくい上げ
写し取ることだけ
だがその絵もいづれ失われ
この夕陽と共に世界の一部にもどる

コロナで終了東京賄賂五輪

終わったざまあみろいなかにおしつけた原発でイケノブ再稼動公害ごりおし嘘つき安倍マリオ東京賄賂五輪

ツイッター終末論

ツイッターって魂がけがれるから
なるだけみないに越したことはない
そして1年半くらいやってみた結果
全く発信の仕方が分からない
恐らく永久にわからないのではないか
2chもどきみたいなものだと分かった
そこから得られるものは何もないのだろう
ひたすら下衆どもが中傷しあっており
そこで勝つ事もできないので
良心なき精神病質者が最後まで居座り
犯罪を連打してつぶれるのだろう

絶対的利他性にあたる宗教感覚の一起源論

神経症傾向が高く、精神的に不安定な人とつきあう者は、生涯、心休まる暇がないだろう。
 その種の人を日本のネット俗語では「メンヘラ」(2chメンタルヘルス板の人、2ch mental health-er メンタルヘルサー → メンヘラ)と呼んでいるが、高頻度に自殺・自傷して周囲の人々に望むと望まざるとにかかわらず迷惑をかけているのも確かにこの類の人に多いらしく、普段から異様な自虐行動をして世話人の心身・物質面に負担をかけている傾向にもある。

 メンヘラを軽度のものを含むなんらかの精神病者とすると、これらの人々は嘗て、宗教その他の利他主義者の集団に属する事で世話人をあてがわれ、部分的に救済されていたのかもしれない。宗教の力が弱まっている現時点では、精神病者の相当部分に総じて身の置き場がなく、精神科や心療内科での治療と見守りを兼ね、辛うじて国が障害者年金を与えている状態である。
 精神病者を救う事は、医学的・精神分析学的な知識と実践経験のない一般人には現実のところ困難な場合があり、仮に試みたとしても、精神病でないといえる発達状態の人々は往々にして、かれらに大層振り回される事になるだろう。そして実はこの経験への適応性が、本来、とある宗教感覚、救済願望の一起源だったのだろう、と私は思う。

 飽くまで利他行為を習慣づける事は、利己的本能に逆らう。したがって心身の弱者を人助けし続けようとするのは理性によってしかよくなしえない。宗教的悟り以外で、この利他主義を不合理なまで自己犠牲に結びつけるのは難しかったのである。

 無宗教な人は裏を返せばこの絶対的な利他性への信仰に該当する、切実な宗教感覚(なんとしてでもあの弱者を救いたい、という感じ)を、十分に持たないだろう。自然に範をとる自然科学や、それを延伸させた社会進化論の中にある合理主義の枠内で、単なる互恵性(お返しの期待)を超えた絶対利他主義を説明するのは困難であり、実際、それが本能を超えているのであれば、人の宗教感覚の内部にしかありえない事でもあるのだ。

 世界宗教(多国籍・多民族間に広く信じられている宗教)の始祖ともなれば、この救済感を救世主願望(メサイア・コンプレックス)の体系として深めた結果、信仰の影響力がはなはだ大になったのであろう。

真の愛国者と偽の愛国者の違い

匿名犯罪者達は日本の内なる天敵で、かれらは無法行為、悪業三昧をくり返す目的で、実名と素性を隠す、隠れ蓑を使う。
 かれらは都会の雑踏に紛れ、反日誤認のぬれぎぬあるいは純粋な悪意による名誉毀損、侮辱、スリ、詐欺、盗難、暴行、痴漢、殺人や集団虐殺など無際限な悪行をする。

 犯罪教唆の言論スラム・匿名掲示板2chで金儲けし、憲法に定める自由権に必ず伴うべき責任をなくそうとした無法者、東京・神奈川人ひろゆき一味は、あまたの有罪判決から逃れた亡命先でも、日本国とその法をこけにする天敵達の、実質的な首魁級であり続けている。
(なお公益を図る目的の公共の利害に関わる真実の指摘、ならびに、公訴以前の犯罪行為の指摘は、刑法230条の2により、名誉毀損罪にあたらない)

 匿名犯罪者らは、「反日ぬれぎぬゲーム」、「自称普通の日本人として公然と犯罪、悪行三昧するゲーム」その他、見るも穢れるほど卑しい暗愚な振舞いの数々で、表面上愛国者に偽装することがよくある。そして大抵の場合、匿名利用可能な電子掲示板・SNSや、2chまとめサイトのコメント欄などに集まって、自国の多数派、あるいは親日派と称して腐った中身と異なる看板にすげかえ、匿名犯罪を自己正当化する目的の犯罪衆愚の間にまぎれこみ、日々、日本国法ならびにわがくに人倫を卑怯にも、侵害し続けているのだ。
 いうまでもないことだが、これらの行いは全て、一般国民ならびにその中の善良な人々へわざわいをなそうとする卑賤な害意で行われており、真の反日勢力といえば、匿名卑怯者衆愚自身なのは論を待たない。まともな良識を僅かなりとももつ人は、どこの国であれ一般にそもそも匿名でインターネットを利用しようともしないし、当然、自己という責任所在を明らかにして言動するものだからだ。 さもなくば各国民がもっている言論の自由の権利も、他者へ害なす犯罪・違法行為に対する公権力の介入によってしか、保たれないのだからだ。

 実名と所在を明らかにして、ネットであれリアルであれ愛国活動をしている人々に関しては、上記の匿名卑怯者・匿名犯罪者衆愚とは異なる存在といえようが、わが国の真の保守主義者といっていいのは、まぎれなく、これらの実名信頼者にあたる公明正大な言論人・活動家だけである。
 例えば甚だ右派であった三島由紀夫がどこかで、彼の思想信条の主張に際し、卑劣にも出自や筆名・実名を隠していただろうか? わが国をいまだ占領中の米軍追放を安保法による属国体制の脱却ともども志し、自衛隊基地での軍事クーデターという極端すぎる行動に出た部分の違法性をまま差し置くとしても、堂々と現代の武士として振舞っていたのではないか。匿名卑怯者・犯罪者のネット右翼連中は、現実の所、わが国の順風美俗を自ら破壊する、さも右派かのごとく偽装した極悪衆愚にほかならず、実は右派にとりついた寄生虫に違いなく、また古今東西で最大の天敵というべきだ。

 日本語圏の匿名ツイッター民一般は、事実上、2ちゃんねらーの陋習的な残党といってもいいだろう。木村花氏は完全に、三浦春馬氏も恐らく、彼らの悪意ある濡れぎぬで、数え切れない名誉毀損・侮辱罪により心をずたずたに傷つけられたうえ、自殺までおいつめられ、集団虐殺されたに等しいのだった。
 そしてかれら匿名犯罪者達が、禍々しい追随者衆愚ともどもみな因果応報で亡び去ったあとで漸く、日本のインターネットは夜明けを迎えるのだろう。

2021年1月21日

カタカナ外来語への脱戦後対策

日本語の間で英語その他の外来語を頻用している人は、それと同等の日本語を知らないか、外国出羽守俗物主義で馬乗りしようとしていることが多い。
 しかし、嘗てこの方法で日本語は外来語ととりこんできたのも確かで、今では(方言とされる体系を含む)日本語の一部と思われている漢語も、和製の物を除けばそうだった。
 外来語頻用狂は多言語意識高い系といえるが、彼らのその種の言葉遣いの大部分は単に母語圏へ伝達効率が悪化するだけで、特に外国劣等感を持つ人々以外を程あれうんざりさせるだろう。

 通常、心理的に人は理解できた未知の情報量が多い(自分にとって希少性を伴った重要情報を十分消化できる形で一定時間に予想より沢山与えられた)程、その相手の言質を利口だとみなし易い。よって外来語頻用厨の利点があるとしても、その語彙でしか示しえない概念な場合または、言い換えの簡素さその他でより利便性が高い場合を除けば、まやかしによる衒学ぶりだけである。実際、我々にとって古文の範囲でも、当時の知識人らがその種の難読漢語を使った言い方をした晦渋な文については、今でも意味が取りづらいだけに、理解者に読解の手間をかけた上で擬似的達成感によって、或る種の無意味な選良意識を与えているのみなのだから。

 今の国際覇権言語のうち、中国語の方は漢訳(中文化)で一貫性があるのでこの問題が殆ど生じない。未知の外来漢訳語も、さもはじめから母語の一部だったかの様に扱えるからだ。
 一方、英語は古代ギリシア語からの翻訳語を含むラテン語彙が豊富にある為、殆どの事を自前で補えている。
 日常言語の一定の部分に、外来語が溢れているという特殊な事情は、一部の国々にしかないのだろう。そしてそのなかでも特に日本の事例が特殊なのは、明治以後に外来語を訳した和製漢語と、主に戦後、おそらく敗戦劣等感で流通する様になったカタカナ外来語の両者が混雑している上で、発音や語彙の変容を除けば殆ど外来語が和訳されなくなった事である。その種の怠惰は、戦後文化人のうち、特に言語使用を専業にしている語学者や、翻訳文芸を紡ぐ側が作り出している自業自得でもあり、一部の物理系の科学者などは今日の自然科学系論文が一般にそうであるよう英語で話すのを上等視して、ルー語(テレビ・タレントのルー大柴がふざけて使うえせ英語混じり話法)とあまり変わらない言葉遣いになっていたりする。これらは劣化した日本語流暢性を象徴しているというべきである。

 母語話者にわかり易い言葉遣いは、基本として母語に既にある語彙に求めるべきだし、本来の発音とずれているばかりか別の表音語彙化して余計意味がとりづらいカタカナ外来語を淘汰するには、一般的慣行として戦後怠惰世代の悪習を絶つしかないだろう。
 あるべきなのは新たな語彙にあたる外来語の和訳を、これまでどおり漢語か和語の語彙に象って流通させるか、これが特別な事情でできない時にかぎってカタカナ外来語を使い、その日本語での言い換えもなるだけ付記することだろう。

 例えば東京都知事・小池百合子が会見などで使ったアウフヘーベンは、ドイツ語では「拾い上げる」の一般語彙とされるのだろうが(ūf→auf「上へ」と、heben「上げる」から、「拾い上げる・持ち上げる」)、ヘーゲル思想のなかでは対話術(弁証法)での止揚、揚棄という特定の意味を持たされている。日常語として「拾い上げる」を使ったところで、それが弁証法上の哲学的意味づけをされていると気づく人は、専門家以外にとっては逆に少ないかもしれない。小池氏の言説は会見で当人がいうに、その意味の文脈(正反合の各命題)と厳密には同じではないが、少なくとも「止揚」という訳語の文字面の意味で使われていた。
 ここにあるのは和訳の文字面が本来の意味からずれて使われている、外来語馬乗りの一種だとの解釈が東京マスコミ界隈ではなされたが、なぜこの種の混乱が起きるかといえば、外来語劣等感への馬乗りが、奈良時代の遣隋使以来、あるいは明治時代の薩長藩閥以来、日本の関西から東京圏では常態的だからである。
 もしこの場合、適切な言葉遣いをしようとすれば、素直に止揚または揚棄というか、もし矛盾する2命題(ここでは築地移転反対派と賛成派の対立する両論)の止揚を意味させたいなら、「賛否両論の矛盾を持ち上げる」とドイツと類似の語感を使った方が、ドイツ語を知らない一般都民へ伝わり易かった事になるのだろう。もしそれが特に哲学用語アウフヘーベンと同じ意味で使われていると示したければ、止揚・揚棄の語彙を併記すれば(止揚は使用と音が重なるので、「賛否両論の矛盾を持ち上げる、揚棄する」など)、より日本語彙の内部で高度に専門的な意味の伝達効率が上がったのだろう。仮に止揚・揚棄の和製漢訳語が使われなければ、アウフヘーベン(アウヒーブン)をカタカナ外来語のまま使わねばならなかったが、auf+hebenの合成語であるという文字面の表意性も、元来の語彙の正確な表音性もカタカナでは失われているので、ドイツ語彙に詳しくなければ、未知の語彙の段階で意味を受け取るのは至難だろう。

アイヌ語・方言学推奨論

アイヌ語の語彙は、琉球方言(うちなーぐち)と異なり、日本語と文法構造そのものが大きく違うことを考慮して、アイヌ語単独の学習を語学の中に位置づけるべきだろう。例えば英語、中国語、その他の外国語を専攻する人と、アイヌ語を専攻する人を同じ立場から学校その他で選択させ、国内少数言語としてはじめからアイヌ語を使える人をふやす様にしなければならない。この絶滅しかねない言語学習の危急な重要性は、特になんの珍しさもない英語など話者数が多い覇権言語学習のそれより、遥かに高いといわなければならない。
 同じく、既に失われつつある方言とされている国内各地の言語体系も、郷土教育の中で各地のものが一般的に学ばれた上で、特定のものを国語の学習内で専攻として選択できる様にすべきである(茨城弁専攻、青森弁専攻など)。

間違った社交性

卑しい人達とつきあっているとその人達と似てくる。そして遂に同類になる。だから我々は社交性を努めて制限しなければならない。
 悪人達が集まって党派になり、やがて国を作ると、悪業を集団で公然と行う様になってしまう。だがその始まりは、卑しい人達と妥協してつきあう、もしくは、気づかぬうち不良に交わる、という間違った社交性だったのだ。

 松下村塾のテロ集団は、東亜一帯に凄まじい戦禍と悲惨をもたらした。中古奈良で天皇の元につどった神道教団は、やがて国内外に侵略蛮行を働き、教祖の名の下に大量虐殺を行った。
 これらの悪魔集団は、はじめ、彼らが悪徳を講じているとは知らなかった。自分達を絶対正義と信じきっているその不良仲間が増長した時、既に事態は手遅れだったのだ。
 松下村塾のテロリスト達は大勢がおよそ例外なく、その非人道性のため刑死になったり、あるいは戦で自滅したり、暗殺されたりした。天皇・神道信者らは侵略戦争その他で大量死した。そしてかれらの残党にあたる吉田松陰信者、天皇信者らは今も、悪魔崇拝が正義だと信じて疑えないのだ。