2021年1月31日
コロナ禍で勝手に死にまくるも、まだまだ田舎差別しまくってくる東京の、文字通り死ぬほど悪いワルノリ
我々に迷惑かけまくってきてる原発なのに
それを他県民がもってると勘違いしてる程
ゴモラな南関東では自殺せざるを得なかった茨城人・三浦春馬
2021年1月30日
日本国民一般の本質的な特徴は「意地悪さ」「イケズさ」で、彼らの集まりは性悪には天国だが、貴族や善人にとっては完璧な地獄
あるスピ系Jアノンの単純かつ差別的な二元論の思考原理
ある長野人Jアノンの観察記
2021年1月29日
人の愚かさは直せない
自分より愚かな人達をより賢くしようとする試みは、全て失敗する運命にある。
卑しさ、不道徳さ、悪さは愚かさの一種である。それでこれらの特徴の持ち主達を引き上げようとする試みも、全て失敗する。
愚かさはそのひと固有の偏見によっているのだが、この偏見は拭い得ないもので、一種の盲点である。
教育は知識(科学)を与える事で、誰かを以前より賢くみせかけようとする。だがこれが成功している人を私はまだ1人もみた事がないし、そういう人がいたという記録も、一度もみた事がない。ダヴィンチの手記に
天才には不足するが勉強して利口になった人は、自然にしゃべったり働いたりする時は必ず足りなく見えるが、意識的につとめるときには聡明そうに見える。とある。自分はそういう類の人しかみた事がないし、このレオナルドの観察も、自分の感じている人類のありさまとはかなり違う。現実にはただの勉強家はどの場合にも余り賢そうにみえないし、単に不器用に何かを語っている様にみえるだけであり、そしてそういう人しかこの世にはいないのだ。
――レオナルド・ダ・ヴィンチ
"Codice Atlantico" 231 v.a
ミラノ、アムブロジアーナ図書館蔵。
R. Accademia dei Linceiにより複製。(Milano, Hoepli, 1894-1904)
嘗て自分がレオナルドの意味でいう天才と感じた人がいないからかもしれないし実際に天才といえる者は存在しないのかもしれない。しかしいえる事は、勉強しても元々の賢愚はさして変わらない(生まれつきの差に比べ、実に僅かしか変化がない)という事であり、人にはいわゆる地頭というものが最初からあり、そのよしあしが(事故・事件などで大幅な物理的衝撃でもない限り)死ぬまで続くだけである。
自分は天才をただの個性という意味でしか使わない。だから自分には誰もが天才でその重要さになんらかの観点からの適い方があるだけである。
なぜ日本国は亡ばねばならないか
自己中心的で性格が悪いヒトの観察
サンドラ・ヘフェリン氏による、孝行息子だった三浦春馬氏ならびに彼の親御さんへの名誉毀損罪は同時に不孝を増長させる大変な不品行で、わが県わが国美風への冒涜にあたる
嘗て三浦春馬氏という
自殺した人の親御さんをそしった
それは公然たる犯罪で名誉毀損罪だった
彼女へ犯罪をやめるよう注意したが
彼女は全く反省の色をみせず
これは彼女による人権侵害しか意味しない
親を養う徳が五孝で語られ
(趙岐『十三經注疏』「孟子注疏」巻七、53)
未亡人ルツが義母ナオミに従い孝養を尽くし
公然たる名誉毀損罪なだけでなく
水戸学の本場茨城県がなぜ途上国なのか?
肩書きをつけない事
努めて人の師となるな。学位をとって敬意を受けようとするな。驕る地位に就くな。これらはどれも身にふさわしくない結果を招く、俗人にありがちな原因である。
俗物根性がとある人を支配してしまうのは名実の乖離であり、その最初の呼び水が、属性による虚飾である。
当人の能力や人格以外の肩書きで、或る人の才能を測ろうとする者は確実に人を見誤る。その種の属性はなんらかの理由で着せられている衣服にすぎず、決して人の内実を示しはしない。
極東の匿名犯罪衆愚の自滅
匿名で犯罪するのが当たり前と思っている日韓人集団一般と、実名で善行するのが当たり前と思っている或る外国人集団が有るとして、後者の方が数も勢力も強いとき、前者が日々少子化で亡びつつあるのは自業自得といえる。
田舎主義
2021年1月28日
関西のものは関西へ
自称日本人の現実
2021年1月27日
匿名スラムの親玉と手先達
都会人の全滅
東京人勝利法
東京人は何でも自分達が1位だと思い上がり
普段から悪事三昧を自慢していた
何かいなかに犯罪をしてそれを注意されると
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」
原発公害をまきちらし叱られると
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」
愚にもつかない偏見から田舎差別をくり返して
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」
阿Qの精神的勝利法みたいに
連日、東京人勝利法を使っていた
結果、コロナ禍の中でばたばた死にながら言う
「都会コンプレックスが激しいのは理解しました」
2021年1月26日
2021年1月25日
なぜ都会にコロナ死体の山ができたか
他者の成功の快苦
他人の成功は、それが有限の資源から自分の取り分を比較的減らしたり、結果みずからの地位を落とす限り不快である。一般にそれが不快でないばかりか称賛に値するのは、自分達の取り分を増やしたり、地位も高める場合だけである。
大阪吉本は関西人の間では人気があるが、僕にとっては全然面白くない三流芸能界説
大阪吉本興業の芸人って自分達が世界の中心だ位の勢いでいつも物凄く大威張りしているが、僕の目からみたら全てサブカルチャー、副文化の中でもかなり低次元な地位をあてがわれているものに過ぎない。下品なだけ、内輪受けだけの大阪吉本でいいと感じたものが殆どないので。みてもいいなと思えたのはピースの『サッカー少年』だけ。あれ茨城人と沖縄系大阪人の協働で東京吉本だし。
宗教戦争の外に出る、世俗的一国平和主義によった永世中立医療部隊への自衛隊改組論。ならびに宗教改良主義について
古代ユダヤ人は宗教として選民思想を確立し、自民族中心主義を持つに至った。
そしてこの因果を破ろうとしたのがイエスというユダヤ教改革者のユダヤ人である。かれは独特の発展的理論を使って選民思想を否定し、博愛へともとの教義体系を結びつけた。イエスは、ここではかれを裏切った弟子イスカリオテのユダを含む、ユダヤ教団内の保守勢力から処刑され、結果、イエスの教え・キリスト教が、ユダヤ教から半ば乖離する結果になったのだった。
ヒトラー率いるナチス・ドイツと、ユダヤ教を信じるユダヤ人との深刻な対立が生じたのは、当時の西洋社会で支配的になっていたキリスト教の博愛主義と、ユダヤ教の選民主義の根底にある違和のせいかもしれない。
元来この乖離を埋めたのがムハンムドで、彼を始祖とするイスラム教(Islam、原義によると「帰依教」「引渡し教」)の体系といえるのだが、西洋社会はオスマン帝国の敗退と十字軍以後に、キリスト教圏に留まっていた。その主要な二大勢力はローマ教皇を教祖とするカトリック(Catholic、原義「普遍派」)と、プロテスタント(Protestant、原義「抵抗派))だった。西洋でのキリスト教とユダヤ教の潜在的対立状態に、イギリスのフランシス・ゴルトンが創始した優生学以来の種族主義を重ね、ドイツ民族中心主義の極北として、アーリア人優越論とユダヤ人絶滅論を掲げたのがヒトラーだったといえるだろう。
ユダヤ教徒は第二次大戦の帰趨を受けイスラエルを建国し、否応なく中東圏での諸宗派の対立に身を投じることになった。そして全体として米英両国はこの建国事業、ユダヤ教徒からみれば聖地奪還事業に、米国覇権の観点から、参加することになった。フランスも少なくとも同等の意図で、イスラエル側から中東政略に参加している(イラク戦争やシリア騒乱での英米側での参戦を含む立ち位置など)。
しかしここではナチス・ドイツを悪例としつつも、実際にはユダヤ教とキリスト教の教義の違和を、根本から解消しえていないという二重基準がある。いいかえれば、米英仏の3国は、単なる権術に基づいてイスラエル側の肩を持っている部分が多分にあり、寛容さの面で一見、表向き「信仰の自由」を擁護しているものの、イスラム教の過激派、イスラム原理主義へは逆の態度をとる二重基準を免れていない。もし真の信仰の自由があるのなら、イスラム原理主義にも容認の姿勢を取らねばならない筈であり、その教義に含まれる、信徒の一部からは暴力行使の正当化される条件(聖戦や禁忌)についても宗教学として、社会一般が理解を深めねばならないだろう。例えばマハティールの思想には、イスラム教の理解者として、この種の考え方が一部含まれているといってもいいだろう。
日本は、自民党の要職(首相、副首相、財務大臣)を兼ねていた自民党議員・麻生太郎氏が、神道教祖たる皇族の縁戚(妹の夫が皇族)にもかかわらず、カトリック信者として知られている。そして彼を要職に就けていた各自民党政権は、比較的イスラエル側に立ちながら、米軍有志連合の後方支援に近い形で、中東政略に関与してきた(自民党・小泉政権下でのイラク戦争への自衛隊派遣、自民党・安倍政権によるイスラエル軍への武器提供、など)。
単なる平和憲政および武器輸出三原則等の観点からみても、また防衛装備移転三原則でのその趣旨の改悪(実質的な同盟国との戦争共謀)をみても、これらの各自民党政権による陰謀は看過しえない。日本国憲法9条に定める平和主義を逸脱しているからだ。
日本国憲法
第九条 (戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
武器輸出三原則(1967(昭和42)年4月21日、佐藤栄作内閣が衆院決算委員会で答弁)
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
1.共産圏諸国向けの場合
2.国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
3.国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
防衛装備移転三原則(2014(平成26)年4月1日、安倍晋三内閣、国家安全保障会議決定、閣議決定)
2 移転を認め得る場合の限定並びに厳格審査及び情報公開
……具体的には、防衛装備の海外移転は、平和貢献・国際協力の積極的な推進に資する場合、同盟国たる米国を始め我が国との間で安全保障面での協力関係がある諸国(以下「同盟国等」という。)との国際共同開発・生産の実施、同盟国等との安全保障・防衛分野における協力の強化並びに装備品の維持を含む自衛隊の活動及び邦人の安全確保の観点から我が国の安全保障に資する場合等に認め得るものとし、(中略)総合的に判断する。
しかしより重大なのは宗教間の対立へ、ただの米軍追従の目的で、野次馬的に参戦していると疑われるということである。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さずが君子の道であれば、上記の複雑な因果関係のある中東および欧米諸国での宗教間紛争に、日本という極東に孤立した国は少しも参加すべきではない。
ユダヤ教の選民主義とは全く別の流路で、日本には独特の宗教として琉球神道を含む各神道主義、あるいはもとからの自然崇拝(いわゆる縄文系アニミズム)、そしてアイヌのカムイ信仰(いわばカムイ汎神論)というものがあり、これら以外にも日本仏教の各教派や、新興宗教など様々な宗教が国内にある。
そのうち天皇を教祖とする神道(天皇とその縁戚者である皇室を教祖、神社本庁を教団の協会本部とする、いわば天皇神道)には、確かに一部、過去の皇族らを神格化(祭神化)する選民主義がみられるが、本質的にユダヤ教のそれと違う点に、この天皇神道の選民主義は少なくとも明治憲法で皇位継承を男系男子に限るとして以後、「男系皇族(ここでいう男系は男性皇族の男性子孫の意味)の血統維持」を中心とする教義で、日本人(日本民族)全体又は日本人一般の救済をなんら意味していない。
大日本帝国憲法
第2条
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
これゆえ、しばしば神道教祖・信者らは(満州国の日本人や、旧植民地の残留孤児へ神道政府側が起こした様に)棄民をしたり、教祖自身が日本人信者らの死を容認したり(1975(昭和50)年10月30日おこなわれた日本記者クラブ主催会見で、昭和天皇が「遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない事とわたくしは思ってます」と発言)、戊辰戦争で皇軍から朝敵の濡れぎぬと偽りの汚名を着せられ侵略被害を受けた側を靖国神社に合祀せず辱め続けたりといった、皇族中心主義をとる。
つまりユダヤ教での選民はユダヤ人一般だが、天皇神道のそれは飽くまで当時、正統視される天皇の男系男性子孫と、その親戚だけに限られるという部分が、まったく異なっている。
なお天皇家と称する家には南朝・北朝など異系の血脈が存在するが、当時の神道学者と政府が、どの系統に正統性を認めるかで、この選民性には一定の揺らぎもある。
例えば血統上本来の皇位継承者を正統とみなす「南朝正統論」を執る水戸学派が出現し、明治政府がその考えを公認する以前、南朝の男系血統は、傍系・本来の血統ではない天皇からできた北朝に対して、その北朝の末裔であるところの現皇室界隈から異系視されていたのだった。いうまでもないことだが、今上天皇・徳仁の血統は、この北朝由来のものである。ほか水戸学派は女帝同士の代替わりの実例(元明天皇と元正天皇の間)から、男系男性皇族の相続のみに皇位継承にあたって正統性の根拠を認めていなかったので(ゆえに、水戸学派では女帝も正統視した)、明治政府以後の皇室や神社本庁が執ってきている「万世一系論」(天皇の男系男性のみに皇位継承の正統性を認める、血統主義)の立場とは一部、この選民性の範囲が異なっている。つまり水戸学派は、傍系その他の血統による女性天皇および女性天皇間の相続も、過去の皇位継承の前例という、皇室伝統の理解に照らして公認する理論上の立場であり、これを「万代一系論」という。女系天皇容認論者である自民党・河野太郎議員は後者の立場に近いといえる。
これらを端的に換言すれば、薩長藩閥(明治寡頭政治)に由来する万世一系論は男系男帝継承原理主義、水戸学派に由来する万代一系論は女帝相続容認主義といえる。女帝間の代がわりがあったうえ、女帝も多かった皇室の伝統に照らせば、伝統改造にあたる男系男帝継承原理主義が明治政府以後、なぜ日本政府の憲法に据えられ固定化してしまったかなら、薩長藩閥を構成した男性のみの明治元勲ら(鹿児島県・山口県出身者を中心とする一派)は、単に皇室研究を十分行っていなかっただけでなく、暗に当時として男尊女卑の考え方を持っていた為と考えるのが妥当だろう。そして平成・令和期の日本国民一般は、女性天皇、女系天皇いづれについても容認する世論が多数であり(最近の共同通信、産経・FNN合同、朝日、いづれの世論調査でも同様)、これは国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案でも人権の国際通念に照らし真であるばかりか、寧ろ水戸学派による皇室理解の立場に近いのだが。
はたまた天皇神道の枠内で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などと共通の考え方を執るのは教義の違いから困難であり、宗教論として相互に合意を得るのは至難の業であるだろう。天皇神道では上述の様、男系男帝継承原理主義・女帝相続容認主義と微差はありつつ、皇族のみが選民性の範囲なのに、ユダヤ教ではユダヤ人全般又は一般が選民性の範囲で、キリスト教は博愛教義によって無差別的なのに対し、イスラム教ではムスリムとそれ以外にかなりの扱い方の違いがみられるからである。そうであれば、天皇を頂く類の日本国内政府が、中東・欧米諸国で宗教戦争に参加したところで、いつまでも平行線に終わり、最終的には異物として排除されることになる。2つの世界大戦も遂にそういう結果に終わったのだ。
日本は極東に孤立し、多国間での宗教戦争に参加しないことが唯一の正解だと日本政府ならびに皇室は認めるべきだ。そしてその根底に置かねばならないのはいわゆる世俗主義(政教分離。少なくとも天皇神道の教祖たる皇族を除く各国民の間では、祭政不一致を認める考え方)で、天皇神道の関連儀式は、今後、皇室の私費、つまり皇族費の枠内で行うよう内閣および宮内庁は方針転換すべきである。さらに米軍有志やイスラエル軍による中東政略の枠組みの外に出て、積極的平和主義と称する安倍晋三氏得意の嘘と詭弁の惑わし、実態的には米属国主義(米軍傭兵志願論)など少しも首肯せず、日本国単独では単なる平和外交を前提にした、一国平和の中に安住すべきである。
一国平和主義を罵る人間は次のことを考えればよい。
もし真実、神の国があったとして、そこは完全な道徳で満ち、いかなる犯罪も悪事もおこなわれていない。全てが至善至美で、全ての人々は完全な幸福の中にいる。
そしてこの神の国が1つあったからといって、他国が戦争またはなにか犯罪や悪事を国内外でしていないといえるだろうか? 当然ながら神の国以外のどこかでは、程あれ地獄の様な有様も日々おこなわれているのではないか? 単に人の間でいくらかの平和が確立できたとて、生態系の食う・食われる関係に囚われる生物が、どの動植物ら他の生物群も一切苦しめず、命をあやめずに生きることが果たしてできるだろうか。ヴィーガンは植物食を容認しているが、植物に痛覚に近い反応があると知られはじめた昨今、それも食べずに生きられない人たる原罪の一部なのではないか。
全ての国々が等しく神の国であれば、もはやそこは国なる枠組みが必要でない筈だ。我々は既に神の世界にいてこの世には人ならやりかねない自他に害なす悪事はひとつたりとも存在しない。もしその状態に既にいるといえないのであれば――つまり、他生物への危害を含む犯罪、その他の悪事が現にわずかなりとも存在するのなら、人は少なくとも、先ずこの全国民の道徳性が完成された神の国をひたすら目指さねばならない。なぜなら、人は快苦や倫理に導かれよりよい状態で生きたいと感じているが、苦痛や害他性を与えてくる何か(単に他人や他生物である場合だけでなく、しばしば自分自身の悪徳でもありうる)があるかぎり、必ずそれに挫折するからである。
自分の国が既に神の国だとすれば、その国は戦争という最たる悲惨を決して行うことはあるまい。それどころか、他国で行われている戦争に進んで参加したり、それを誘発する陰謀を働いたりも、決してしないだろう。もし神の国の軍隊がやってくるとて、彼らが完璧な聖徳で満ちていれば、絶対的に対立する諸国のいづれかに与したりせず、全ての国々の全ての人々、乃至、諸生物へ最高度の救済措置を行うに違いない。それが邪神でなければ、救いこそ人を超えた神の役割でなければならないからだ。
上記の仮定は殆ど現今なりたっていない。つまり日本国政府の自衛隊は神の軍隊でもなければ、日本国民自身が神々しい民衆でもない。よって、理想的な神の国に到達するまでは、先ず隗より始めよと、自国の文明性、具体的にはそのなかの道徳性を改良し続ける必要がある。ここでいう道徳は、あらゆる科学、工学(技術)、芸術(技)を慈善へ応用する仕方を含んでいる。そしてできるだけ民衆全体が最善の存在となった暁に、その総体が神の国と見まごう状態になるよう努めるしかない。
もし日本軍、すなわち現自衛隊が改組され、他国へ行ってもいい場合があるなら、永世中立部隊と公示しながら、いかなる国の味方もせず、また表面上そうといいながらどれかの同盟国の有利になる働きをするなど卑怯な二枚舌外交も使わずして、ただ純粋に傷ついた人々を救う非武装から必要最小限度自衛組織の医療部隊としてだけである。
赤十字軍同様、無論、この部隊の人達はいつでも殺されうるし、人質になりえ、またいかなる理由かで傷つけられうる。自己犠牲はいかなる力からも強要されるべきではない。和平を維持する目的で、人権の欠かせない一部に該当する良心的兵役拒否権も当然、普遍的に認められねばなるまい。しかし彼らは今なお各地で起きている国際紛争に際し、神聖なる使命を帯びている筈なのだから、当外部隊を組織するにあたっては日本人の中から志願兵制度をとらねばならないだろう。
またこの様な姿に自衛隊を改組できないというのなら、日本国では決して海外に部隊を派兵してはならないだろう。それは勝っても負けても所詮は愚かな戦という悪事に参加することにすぎないからだ。日本国政府に最小限度の武力行使が認められるのは、裏からみても表からみても、どこからどうみても自国を直接害する他国からの侵略行為への正当防衛に値するため、事実に基づく限り、また自国民を自国民自身が守る目的で、誰も非難し得ない行いだけだ。この行いを「純粋な正当防衛」と呼ぶ。そこには同盟軍との共謀による他国への攻撃は決して含まれ得ない。集団自衛権の行使は純粋な正当防衛とは到底みなしえない、なんらかの政略なのだからだ。
日本は永世中立医療部隊の様な特別な例外を除けば、他国の内紛になんら参加せず、もし第三次世界大戦が起きてもその外にいて、自分達の永続的安寧を元に、戦争を逃れた亡命者を、寛容な宗教風土のなかに受け入れていればよい。この意味で、徳川政府の平和外交は、明治政府の侵略外交より遥かに、自他どちらの国からみても、本来あるべき国の理想に近かったというべきだろう。
例えば今日の欧米・中東社会では、ベルギーやフランスでのブルカ禁止法にみられるよう十分なしえていない世俗主義で解釈すれば、イスラム教義の原典(『コーラン』)に逆らう態度をとった人々が過激派から粛清される様な場面があったとしても、これ自体は外形に表れたただの殺人罪・暴行罪と解釈されるべきで、思想・信条・信仰・良心といった内面の自由は、少しも国権から侵害されるべきではないだろう。宗教はどれもそれが生まれた時点の社会秩序を整理する目的で営まれていたろうが、時代の変遷で未来の社会風紀と矛盾する点も自然にでてくる可能性があるのはやむをえないことである。そのうち、どの教義が未来の社会でも復権され、どの教義が改正されるべきかは、各時代の宗教家あるいは宗教哲学者自身、イエスやムハンムドが当時そうした様、改革を試みねばならないのである。
古代ユダヤ人の賢者は自分達の民族を脅威から守る目的で、『旧約聖書』を書いて律法を受け継いできたのだろうが、現イスラエルの政治状況は当時の教義と摩擦を生じる点もありうる。その教義の解釈または新見解として、律法の一部は現実にあるべき道徳性と合致する形に、場合によっては改廃すべきなのかもしれない。例えば既往のユダヤ教義では同性愛がソドム滅亡の文脈に照らし不道徳とされる場合であれ、遺伝的に存在しうる性的少数者、具体的には性同一性障害者(身体の性と一致しない性自認を持つ人。研究が十分進んでいるとはまだいえないものの、生得的に脳などの発達の仕方自体に原因があるかもしれない)などの例であれば、その権利を人権に照らし、特別に緩和するなどである。遺伝に原因がある場合、ソドミーの禁忌に関する教条的な解釈では、性同一性障害者が同性愛者かそれに近い存在とみなされうるのはいかにも不条理である。カトリック教皇フランシスコは既にそういった立場を、遺伝的原因にかかわらずかなり広範に認める節を表明した。イギリス政府が単に同性愛者であったことを理由に罰した例に赦免による名誉回復の余地を認めたのも、日本の都道府県としてはじめて茨城県が同性パートナー制度を認めたのも、これらの一連の流れの上にある。この性的多様性へ一定より寛容な立場は、同性愛その他への不道徳視に博愛が優先された例なのだろう一方で、同性愛に関わる遺伝子は自分の知る限りまだ発見されていない。つまり性同一性障害の例を除けば、同性愛の傾向は後天的な習性、もしくは文化的風習な可能性もある。
これらの例以外でも、嘗ては信仰上禁忌だった行動・思考の多様性の一体どの部分が、私徳の解釈として緩和・容認されるべきかは、各宗教学者ら、各信徒の現代倫理観や、社会風紀の構想に任されている、というべきだろう。
宗教学というものは、ある教義の定義された時点での精確な理解をめざす解釈論(いわゆる宗教原理主義)とは別に、金科玉条化した過去の教義体系に固執する保守宗派を作るだけでなく(宗教保守主義)、その信仰体系の改革を前提にした倫理哲学上の批評により、絶えず改良されるべきでもあるのだろう(宗教改良主義)。ベンジャミン・フランクリンは自伝の中で、そういった改良主義に立つキリスト教抗議派の一部を、英知を持つ者と称賛していた。
2021年1月24日
自称・愛国原理主義者の命令
偽りの名誉、誤った汚名は正直さの重りにより本来の基準に戻る
高潔な人は下賎な衆愚に疎まれ、中傷され、濡れぎぬされ、誤解され、あらぬ罪や汚名を着せられ、名誉毀損され、侮辱され、罵られ、磔にさえされているが、それら全ての責任は衆愚側のみにあって高潔な人にはない。そして因果は巡り、下賎な者には悪因悪果の破滅がくる。
高潔な人は同等以上に高潔な人達から必ずや名誉を回復されるだろう。
我々はイエスの名を聖者として知っているが当時のローマ衆愚を冤罪悪役としてしか認知していない。
尊王の禅譲を果たした徳川慶喜へ着せられた偽りの汚名は、いづれそれを着せた皇室や西軍の悪業による宿命によって雪辱を晴らされ、はじめから冤罪されなかった場合より遥か高らかに栄誉を回復されるであろう。
類友
高貴な人は高貴な人と仲良くなり、親しむだろう。だから努めて卑しい人々と親しむべきではない。
孤立していて憂慮するな、孤高である事は既に救われているのだ。
人は自らにふさわしい相手とのみ、仲間を作る。
拝金動物
そして都会人は死んでいく
コロナ禍で困る人がいるのか
瀟湘八景サンダース
『平沙落雁サンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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『烟寺晩鐘サンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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『山市晴嵐サンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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『洞庭秋月サンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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『瀟湘夜雨サンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
資料写真、PNG画像
1385 × 735 px
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『遠浦雲帆サンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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『漁村返照サンダース』
(連作『瀟湘八景サンダース』の一つ)
2021年
資料写真、PNG画像
800 × 375 px
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紫式部がなぜ山城地方(現・京都市界隈)では予てから偉人扱いなのか
紫式部というのは、心底、下卑た腐女子というのだったのだろう。
自分はずっと謎だった。なぜあれほど品性下劣な物語を書いた人間が、関西地方では偉人扱いなのか。
ある奈良女がアメーバ・ピグという社交媒体上で自殺願望を語っていたので、自分は善意でその人を助けてあげねばならないのではないか、と考え1年半ほどネット上で文通していたのだが、その間、彼女の語る関西地方の事情を逐一理解してわかったのは、その地方に暮らしている人間一般というのは、明らかに先住日本社会にとって異民族である。
どうやらこの関西地方の人間は思いやりというものがおよそ寸分もないに近いらしい。勿論程度の問題だが、かれらはなんでも利己的にしか解釈できない。関西ではそれが普通らしいのである。
大阪吉本興業の芸人を中心に「アホ」「ボケ」「カス」などと連発し侮辱表現をくり返しているのはこの為で、SNSで異なる地方とやりとりの際に摩擦が生じる機会がふえてくると、しばしばかれら自身が単なる方言の差の問題に矮小化しようとしているが決してそうではない。単純に、かれらは思いやりの程度が薄いのだ。それで他人を傷つけてなんとも感じていない。だから平気で他人を中傷できるのである。
関西弁って、今の時代、パワハラの分野にひっかかることが……。『死んでまえ!』とか、日常で言うてんねんけど。
――明石家さんま
2020年10月10日に放送された『ヤングタウン土曜日』(MBSラジオ)で
ある種の京都人と一定より親しくなってみると、急に嫌味とか皮肉とか陰険な悪口とかをいいだし、びっくりした経験がある人もいるだろう。そういう人達は表向き、社会と摩擦を生じさせないべく一見いい人づらを演じているが、内心は性悪そのもので、親しくなってつい油断し、浅ましい本音を語りだしたというわけなのである。けれども、一般の人達はそこまで性格が悪いわけでもない事が多いだろうし、京都地方独特の風習と違って、普段からことさら演技しているわけでもないので、仲良くなったら侮辱してくるという予想外の行動に文化衝撃を受け、引いてしまう事もあるだろう。少なくとも自分はそうであった。
通常、親しくなるとより本音が出てくるのは当然としても、社会の建前に妨げられよくわからなかったものの、本質的によりいい人なのだと理解できるのが、少なくとも自分の身近に接してきた常磐圏での人間模様の基本であった。それと京都はじめそこから多少あれ影響されている関西圏の一般的人間のあり方は、まことに正反対といってもいい。
京都市界隈では建前の方が一見いい人ごっこをさせており、そこから知らずしらず漏れでてくる本性を「イケズ」つまり意地悪というのだった。その様な言葉は東日本には京都由来の京都方言のものとしてしか存在しないし、現にイケズな人間が極希である限り、殆ど社会全般に於いて目立たない種類の行動・心理類型なので、わざわざ日ごろ使い易いよう手短な表現が作られもしなかったのだ。
京都人達が東京へ好んできたがるのは決して偶然ではない。東京圏の人間達の日常的な下品さは、江戸時代の浮世絵、黄表紙などにも色々記録されているが、要するに遺伝的系統からいっても江戸っ子というのは徳川家康に連れてこられた大阪商人の末裔達であり、新幹線が通っている東海道を通じ、日々交流しあっている京阪人なるものに、かなり近い天然の資質を持っているといっていいからだ(参考:東京都の類似都道府県)。すなわち京都人一般が本音を出しても、東京圏ではあまり周りの人達(江戸の町人達の末裔)と変わらないと感じるだろう事は想像に固くない。実際、東京人達の平均値からみれば、勿論程度の問題だが、万事に文化的な類似性があるともいえるのである(参考:京都府の類似都道府県)。
この点で、かれら関西地方の民族性(地方的な集団の性格)は、思いやりの度合いが先住日本人の系統より薄い、個人主義的な一部の外国人に近い(思いやりぶかい民族あるいは個人もいるので、全ての外国人ではないが)。弥生人の系譜(Y染色体ハプログループO1b2)が、中国人の一部、朝鮮人の大部分と同根で、あるいは西洋系一般(同R)により近く、縄文人(同D)からより遠いのは、現時点までにわかっている遺伝系統樹からも確かめられる生物学的事実である。
弥生人の侵入後、アイヌや縄文人(旧琉球・沖縄人を含む)はこれまで自称天皇を代表とする弥生系から散々いたぶられてきている。つい154年前、一方的に東日本人が西軍から濡れぎぬを着せられた戊辰侵略もそうだ。10年前の福岡人・松本龍による仙台での被災地見下し発言もそうだ。
これらは理由があってのことで、優生学とは逆の意味で、この弥生人の集団は以前から利他性が縄文系・アイヌ系より低いのだろう。サイコパス(精神病質者)の脳を例にとって、低共感の人間は扁桃体や眼窩前頭皮質に機能障害あるいは弱さがあるとすると、これら共感性を司る脳部位が相対的に育ちづらい遺伝、又は文化環境を持っているのが、この弥生系の集団だったのだろう。食品保存の効きづらい狩猟採集が中心の縄文文明では信望を集めた、持たざる者への喜捨、所得の再分配を意味する大盤振る舞いで、弱者を助けたがる気前がいい側より、大規模な水田稲作下で蓄財可能な弥生文明では、単にケチでがめつい側が生き残り上、もっと有利だったのかもしれない。
実際、今も弥生系の影響度が濃いといってもいい京阪地帯とか愛知地方とかでは、吝嗇や金儲けといった行動は決して蔑まれる傾向ではなく、むしろ資産家こそ名望家として尊敬されている節がある(例えば日本電産社長・永守重信氏の様な人物、もしくはトヨタ自動車社長・豊田章男氏の様な人物)。それは金儲けを蔑み、清貧を尊ぶ、先住文明圏にあたる岩手県人・新渡戸稲造の『武士道』、あるいは同県人・宮沢賢治の書いた喜捨の理想のあり方とは正反対の文明に由来している社会風習なのだろう。
……侍は一貫して金勘定は卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的職務に比べれば卑賤なもの、と考えたのであった。
この様に金銭や貪欲さを嫌ったことで、武士道を信奉する侍達は金銭から生じる無数の悪徳から免れたのである。わが国の役人が長い間、腐敗から遠ざかっていたのは、ひとえにこのお陰である。だが、悲しいかな、現代においては、なんと急速に金権腐敗政治がはびこっていることか!
――新渡戸稲造『武士道』第十章 武士はどの様に教育されたのか
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない弥生人の侵入後にあたる弥生時代から、弥生遺跡の中に殺戮の証拠が出てくるのは、先住日本人の社会より相対的に犯罪率の高い、こういった弥生人移民の格差社会にあって、当然ありうることだったのだろう。実際、身分制の様に、差別的思考が前提になっている国は、一定より絶対的共感性が低い人間が権力を専横しなければ、到底なりたちえない。封建制の一種である皇室(天皇制度、天皇制)も当然、この身分差のあった弥生人社会が、参照先でもあるかれらの祖国・中国から、中華皇帝制をまねた類型にあたるといえる。
――宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
そしてそういった低共感社会の乱倫模様が極まったのが平安期で、そこでは皇室が頽廃し、藤原政権の婚姻政略を前提に、山城地方(現京都府界隈)への中世朝鮮人系移民社会(いわゆる朝廷)の上位者達は、日々仕事かのごとく税を乱用し、淫行に耽っていたのだろう。
紫式部はそのなかにあって、宮廷に近い家庭教師をしていた未亡人として、鬱憤晴らしの目的で、今でいう腐女子状態で妄想の乱交模様を書きつけていたのだろう。ところが、これに名作かのごとく反応した当時の京都人達は、まるで現代、同郷の綿矢りさの手になる、未成年者らによるものを含む、性にかかわる頽廃風俗的な淫行模様を書いた小説(『インストール』『夢を与える』など)に、さも偉業かのよう礼賛を重ねていた現代京都人達と、なにからなにまでそっくりではないか? なにか民族構成に特別な変化があったわけではないので当然といえば当然だが、さがの有り様が中世から何も変わっていない。
「なぜ京都人一般は乱倫系の淫行小説を好み、賞賛するのか?」
この疑問を解くには上の記述で大分理解が進んだと思う。一言で書けば思いやりの度合いが低い人達であるばかりか、かれらが品性下劣だからなのである。裏を返せば、思いやり深く、上品な人達であれば、人の不品行を美化した小説なんか目もくれない。道徳的に立派な内容が書いてある、趣味のよい本を好む筈だ。
もし道徳性が時代や場所によってある程度揺らいでいるとしても、性的頽廃の風習がはびこったソドムとゴモラを神が亡ぼした逸話は、旧約聖書の昔から語り継がれており、「姦淫するなかれ」の戒律が、全く無効化している社会はそう多くあるわけではないだろう。姦淫の基準が、中世以来、京都はほかの社会と異なるとして、ロシアの大統領ウラミジール・プーチンが二千円札の発行時に言ったとされる真偽不明な文言も、恐らくロシア正教への信仰にまつわる人間性を克明に探究してあるロシア古典文学との対比、または、冷戦後の国際構図の中で、プーチンへ期待されているのだろう冷酷であると同時に高潔な面のある専制君主の役割として、同一の批評的観点からでてきた俗諺なのだろう。
日本は、不倫や近親相姦を題材とした小説を紙幣に印刷して流通させるほど社会が堕落したのか。他人を大層傷つけ、善良の風紀と社会秩序をいたづら壊乱する話、それも元来唯の奈良の人に過ぎない自称皇族が世襲権力の乱用を重ね、強姦罪を正当化、処女のおとめに自殺未遂させるあくどいやくざ話がもののあわれだといい、さも立派な大文学かのごとく吹聴していた本居宣長も、その影響を受け同説をうのみにしていた小林秀雄も、茂木健一郎氏も、同じ悪習に感染した人々である。
――(伝)ウラミジール・プーチン
2000年7月、九州・沖縄サミットで日本の首相の森喜朗が、紫式部原作『源氏物語絵巻』の描かれた二千円紙幣を各国首脳に配布した際、言ったとされる文言(出典不明)
縄文文明の存続した東日本圏にあたる岩手の詩人・宮沢賢治の童話であるとか、 茨城の野口雨情の童謡とかを読めば、その素朴な善良さと、京都地方の淫猥な悪辣さとのあまりの落差に、同じ国民の事かと愕然とするであろう。それというのも当然で、もともと、遺伝的にも、京都地方なる朝鮮系の移民地区と、先住系日本人の系統は、嘗て分岐したY染色体ハプログループCT時点にして7万年も隔たっているのだから。
この2つの系統――縄文人と弥生人は、中部地方あたりを介していまなお混血し続けているが、もともと、たまたま侵略・被侵略の両運命によって、呉越同舟状態になってしまっているに過ぎないのである。
近現代の京都人が今もなお自文化中心主義に耽り、世界の全文化の中心が自分達だと京都市の『世界文化自由都市宣言』で公言しているのは、やはり同じ原因から発生している、中世から延長された中華思想の驕りなのである。
傲慢さとは愚かさの一種だ。愚か者ほど自己過信し易いというダニング・クルーガー効果を参照するまでもなく、文化相対主義、多文化主義、文化多元論、構造主義その他の非中華思想を鑑みれば、文化帝国主義の類は遠からず、ナチスの頽廃芸術論と同じ禍をもたらし、異文化への誤解、蔑視、差別、そして弾圧をもたらすだけだろう。
無論、今日及び未来の我々にとって、京都市の今も持つ類の自文化中心主義は、反面教師でしかない筈だ。異文化の存在はそこからよきに見習い、あしきを反例に、相互参照の中から何かを学び取る事であると同時に、単に全て文化という仮の単位は、無際限に多様化すべきもので、そのどれかがほかより上だとか中心だとかいった概念では土台からありえない。京都市が暗愚だからこそ、自分達が世界の中心で、他の文化はそうではないと思いあがれるに過ぎないのだが、こういった自文化絶対化の考え方が行き着いた果てに、やはり自堕落さに由来する頽廃主義の自己正当化なる悪趣味が生じてくるのも、それが長らく固定してしまうのも、比較文化から謙虚に学べない者の必然というべきなのだろう。
2021年1月23日
悪人がつけたがる親日仮面、適当に貼りたがる反日・左派ラベル
今日、愛国主義の偽装、親日面は、悪人の隠れ蓑になっている。
この自集団優先の身びいき観念論は、自集団の利害を公称しているが、実際には利己性のいいかえでしかない。
愛国者面の南関人や京阪人などが、国内へ差別的言動を吐くのは珍しくない。
かれらは適当な決めつけで左派とか反日とのラベルを貼りつけた相手を集団犯罪の被害にあわせるが、この犯罪や悪意、加害の正当化のため、保守とか愛国と、かれらの中では正義派の偽装をしているだけである。
善人面する極悪犯罪集団の動かぬ証拠
日本のインターネットには
総じて匿名犯罪者の極悪人しかみられない
だからそこは地獄なのだろう
私が見ている目の前で
日本人達は何人も罪なき人々へ
中でも善人達へ
匿名で群れて濡れぎぬを着せ
ありとあらゆる悪意で誹謗中傷を重ね
心を致命的に傷つけ差別を繰り返し
現実でも悪意で追いかけ回し
自殺へおいつめ大量に集団虐殺していた
日本人一般の心がはじめから最悪だったのだ
その種の悪魔の元凶が有罪判決から逃げ
さも知識人面で東京や福岡を好きに移動し
亡命先パリで毎日金儲けしつけあがっている
そしてその極悪人を
日本人どもは平気な顔で褒めちぎっている
日本人なるものは根っから性が悪いのに
善人面だけする最悪犯罪者の集団だったのだ
なぜ九州地方では反政府恐怖分子が英雄視されているか
九州人一般が西郷隆盛の様な無政府恐怖分子を英雄視しているのは、かれらが西郷による戊辰戦争・征韓論・琉球王誘拐事件での侵略罪・侵略教唆罪(今日の法でいう憲法9条違反、本州諸国・アイヌ自治圏・琉球国への外患罪・外患予備陰謀罪)をはじめ、戊午密勅を公卿に書かせた関東内乱工作から、薩摩国(鹿児島県)による外国との自発的戦争と敗戦時賠償の中央政府へのおしつけ、江戸界隈での放火、同じ尊攘派でありつつ長州勢への再三の裏切りと倒幕論へ歩を移してからの権術主義判断による再同盟、天皇へ恭順した嘗ての同盟者・徳川慶喜や松平容保への濡れぎぬ、そして明治政府との自滅戦争まで、あまたの内乱罪・内乱予備陰謀罪・共謀罪、権力拡張を目指す利己的・害他的謀略による反政府暴力行為をなんら反省していないからである。
すなわちこの九州地方一帯が、常々、暗に本州の中央政府ならびに諸外国政府へ、心理的に反旗を翻しているからだといっていいだろう。その狼子野心の根底にあるのは、暴力と権術を是とする無政府恐怖主義なのだろう。
聖評と俗評
卑しい人達から賞賛を受けてはいけない。それは破滅への道だ。
ツイッターにいる日本人の一般大衆は常々次の様な言動をとっている。かれらは日頃から下賎な者にたかっている。下品なツイートを連打し、リツイート・いいねで拡散し続け喜んでいる。また、立派な言説を無視したり、揚げ足取りで無理に中傷しようとしたり、高徳な人々を貶めようとしたり、汚いやり方で陥れたりしている。
上智と下愚とは移らず、そのままの光景である。
そういう匿名衆愚の間で、聖人は真っ先にぬれぎぬで抹殺されてしまい、終ぞ生き延び得ない。
尊い人達は数が少ない。多くの場合、俗世間に身を現していない。当然ながら無名である、名声とはどこまでも俗望だからだ。例えば完全な聖徳をまとった神格がこの世にいたとして、その存在のあり方を世俗的な人間は悉く分かりえないに違いない。神格の似姿である聖人を見つければ、その人からの真っ当な評価のみが、真に気にしなければならない筈だろう。
具眼の士がいない時代や集団にあっては、自らへの客観視(上位認知、メタ認知)を使った自己評価以外に信用に足るものはない。
悪縁を絶つ
不道徳な人は、往々にして自分達が不徳だと気づいていない。それゆえ自分達が成功した、立派で確立された人間だとみなしあい、褒めあっている。
不道徳な人達と縁を切るには、彼らの存在自体を黙殺する(完全に無視し、相手の自滅を待つ)必要がある。
縁を切るとは、相手と毛繕い行動に該当するやりとりを一切しない事だ。法や倫理に比較的無知な子供あるいはそれに近い精神年齢集団の場合、無視などでいじめを行う集団の方に悪意がある場合が多い、との落ち度がありがちなものの、実際、悪意の有無にかかわらず、類似の社会行動は大人でも、懇意な集団の多寡としていつも起きている現象である。例えば結束主義(ファシズム)や国家社会主義(ナチズム)の党派は、自由主義や個人主義の党派と大抵、反目しあい、相互対立している。
悪人集団からの日常的禍を退けるには、荒らし、ダークトライアド(暗三格)、ダークテトラド(暗四格)の様な利己的な加虐欲を動機にしている悪人達、あるいは暴力専横を省みない権術主義者(マキャベリアン)がその集団の少数派、中数派、多数派いづれの場合でも、単なる加害行為への正当防衛あるいは行動・思想分析を除けば、相手を構うに足る同格の良識人と認めないしかない。
尤もこの悪徳集団が別の国、別の地域集団(東京都、薩長土肥といった少数自治体など)になり、(原発など)公害をまきちらしてきたり、(自動車泥棒など)犯罪をおこないにきたり、(魅力度報道など)差別をしてきたり、(コロナ禍など)感染症をもちこんできたり、(戊辰戦争など)侵略罪などで攻め込んでくる事もある。これらの場合を顧慮すると、悪人集団への囲い込み、監視・諜報と被害防止・防疫対策は、国防自治にとって常道的に必要だ。
「誰とでも仲良くすべし」という和の全体主義は、相手が不道徳な悪人、不良である場合、常に間違っている。悪徳は知らずしらずうつる習慣という特徴を含んでいるからだ。この点で、過度の寛容性を信じている人達は程あれ悪人達に俗了され、最善者たる事はできない。
最善なのは、自集団の法的・倫理的常識の刑罰・非難分類に悪人達を存在もろともはじき出し、彼らと努めて一切関係しない事である(例えば2ちゃんねらー、日本語圏ツイッタラー約8割の一定部分らによる匿名犯罪を違法化する。匿名卑怯者文化を不道徳視するよう一般社会へ啓蒙するなど)。
また単なる系統発生論として、ヒトを含む生物の一般的進化は、程あれその様な経路で異なる集団を生み出し、別の系統樹へ種が枝分かれする事で果たされてきたのだろう。
悪友と下品な技を作り、褒めあい、誇る人達
なぜ東京人一般、京都人一般が、下らない人物や文物――例えば反政府恐怖主義者たる幕末西軍。例えば頽廃した中世皇族の乱倫劇といえる『源氏物語』や、『異種族レビュアーズ』2020年といった性売買罪を美化した深夜アニメ、村上隆『ヒロポン』1997年、『マイ・ロンサム・カウボーイ』1998年などオタクの狂った変態性欲的妄想を戯画化した裸像を持ち上げ、それより立派な人と物――例えば尊王将軍たる徳川慶喜と忠臣・松平容保。例えば初期武士道の美徳にまつわる悲劇といえる『平家物語』や、五浦派以後の近現代日本画、神戸智行『陽のあたる場所』2006年など花鳥風月の正統的な表象画を無視、場合によってはぬれぎぬの汚名を着せ名誉毀損さえしているかなら、単純に、その性悪集団の趣味が悪いからだ。悪趣味な集団、低俗で、好みの退廃した集団はそれだけ、物を見る目に現れた品位も低い。
他方で、東京人一般、京都人一般は、最たる自民族中心主義、自文化中心主義を含む中華思想の持ち主で、自分達のサブカルチャー礼賛が下品だと気づく事がついぞない。実際、外国人にはかれらより品性下劣な人間も、より多い人口比の集団であれば好みの多様性から当然いることがあるので、その人達からの礼賛にへつらいつつ、既往の傲慢さによって、自分達は日本文化の中央であると長らく主張してきている。
東京人一般、京都人一般に、これらの傲慢さを自覚させ、反省させる事は先ずできないだろう。かれらは品性が盲点になっているからこそ、それらの下賎な中身を大いに含む(例えばあまたの変態性欲を強調した、猥褻同人誌の様な)サブカルチャーを作りえているのだ。
人は鑑識眼の低い衆愚にかかわるべきではなく、かれらに猛省を促すべきでもない。かれらは単に下品さを誇示することが技の目的にすりかわっており、優れた文化を作りえなかっただけなのだ。
科学や、思想、主義はそれを信じる限り宗教
宗教を信じないといっている人は、科学主義(科学が真理を語れると考える立場)、資本主義、民主主義(多数決による共和政など多数支配の正当化)、社民主義、自由主義(ここでは特に市場の自由放任を是とする経済学上の立場と、政治的に個人の自由権をなるだけ寛大に扱おうとする立場を含む)、神道主義(皇室崇拝、象徴天皇制の容認)、国連主義、人道主義(倫理的なヒューマニズム)など、別の信仰体系、現代宗教に感染している事に気づいていない。
それら全てを懐疑する事も懐疑主義として体系化されうる一種の宗教で、そのうち、強度の不可知論(真理は究極で知り得ないとする立場)はかなり真の無宗教に近いが、この立場もそれに固執すれば単なる無宗教主義という誰かに信じうる観念論に他ならない。
2021年1月22日
花園川上流
ツイッター短文厨は反知性主義の外道
何度考えてみても、ツイッター短文厨は正真正銘の馬鹿だと思う。そしてそういう本物の馬鹿が、非常に偉そうに上から目線で、長い長いといってくるのは本当にふざけた話で、はっきりいって連中に天罰が下る事は絶対に疑う余地がない。失礼とか超えている。
大抵の本、大抵の学術書はツイッターに書いてある全ての連続ツイートより遥かに長い長さであり、それらを日常的に読んできた人達に対し、或るやりとりを不躾な上に何一つ理のない言動で弾圧して回るとはなんなのか。何度斬り捨て御免されても当然といえる外道どもではないだろうか。ツイッター短文厨は自分の天敵の第一級の部である。
うつろな肩書き稼業
肩書きに騙されている人達は一人の例外もなく愚か者であり、その結果、確実に人生を踏み誤っている。余りに例外がなさすぎてそうと知っている側にとっては驚異的なほどだが、この詐欺行為によって国すら作られている。
「天皇」は肩書きであり、その虚構の権威以外になんの意義も持っていない。中身がどうあれ天皇と自称した肩書きによって、かれは大量殺人を犯して無罪放免され、あるいはありとあらゆる贅沢の限りを尽くしている。もしかれが一般人として平凡な行いをしていても、だれも見向きもしない。
理論と技術の違い。感覚論と、前衛の意義
学問的な芸術家は、大抵、使い物にならない。
学者は本質的に芸術家とあり方が異なっており、両者を高度に兼ねている場合は希である。
よく作られている物は技術的高度さを伴っているが、単に理論的に何かを知っている、というだけでそれがよくなしえないのは、大抵の美術史家、あるいは美術批評屋に絵を描かせてみればよく分かるだろう。
工学者と職人に違いがあるとすれば、理論的認識と、技術的認識にずれがある点である。
芸術論の中で「感覚 sense」が問題になるのは、感覚の優れ方と、学問的認識の優れ方とは質が異なるからである。美学 aestheticsの原義は「感覚論 αἰσθητικός」で、この認識については、数学の様に、定義、公準、公理、命題といったユークリッド『原論』式の論理的段階を追って、誰もが一様に学ぶ事はできない。ある感覚について気づくか気づかないか、かなり生得的な問題なのだ。そして未知の感覚の拡張に関わるのが、芸術の前衛性の存在意義である。
この夕陽に含まれる全て
ツイッター終末論
ツイッターって魂がけがれるから
なるだけみないに越したことはない
そして1年半くらいやってみた結果
全く発信の仕方が分からない
恐らく永久にわからないのではないか
2chもどきみたいなものだと分かった
そこから得られるものは何もないのだろう
ひたすら下衆どもが中傷しあっており
そこで勝つ事もできないので
良心なき精神病質者が最後まで居座り
犯罪を連打してつぶれるのだろう
絶対的利他性にあたる宗教感覚の一起源論
神経症傾向が高く、精神的に不安定な人とつきあう者は、生涯、心休まる暇がないだろう。
その種の人を日本のネット俗語では「メンヘラ」(2chメンタルヘルス板の人、2ch mental health-er メンタルヘルサー → メンヘラ)と呼んでいるが、高頻度に自殺・自傷して周囲の人々に望むと望まざるとにかかわらず迷惑をかけているのも確かにこの類の人に多いらしく、普段から異様な自虐行動をして世話人の心身・物質面に負担をかけている傾向にもある。
メンヘラを軽度のものを含むなんらかの精神病者とすると、これらの人々は嘗て、宗教その他の利他主義者の集団に属する事で世話人をあてがわれ、部分的に救済されていたのかもしれない。宗教の力が弱まっている現時点では、精神病者の相当部分に総じて身の置き場がなく、精神科や心療内科での治療と見守りを兼ね、辛うじて国が障害者年金を与えている状態である。
精神病者を救う事は、医学的・精神分析学的な知識と実践経験のない一般人には現実のところ困難な場合があり、仮に試みたとしても、精神病でないといえる発達状態の人々は往々にして、かれらに大層振り回される事になるだろう。そして実はこの経験への適応性が、本来、とある宗教感覚、救済願望の一起源だったのだろう、と私は思う。
飽くまで利他行為を習慣づける事は、利己的本能に逆らう。したがって心身の弱者を人助けし続けようとするのは理性によってしかよくなしえない。宗教的悟り以外で、この利他主義を不合理なまで自己犠牲に結びつけるのは難しかったのである。
無宗教な人は裏を返せばこの絶対的な利他性への信仰に該当する、切実な宗教感覚(なんとしてでもあの弱者を救いたい、という感じ)を、十分に持たないだろう。自然に範をとる自然科学や、それを延伸させた社会進化論の中にある合理主義の枠内で、単なる互恵性(お返しの期待)を超えた絶対利他主義を説明するのは困難であり、実際、それが本能を超えているのであれば、人の宗教感覚の内部にしかありえない事でもあるのだ。
世界宗教(多国籍・多民族間に広く信じられている宗教)の始祖ともなれば、この救済感を救世主願望(メサイア・コンプレックス)の体系として深めた結果、信仰の影響力がはなはだ大になったのであろう。
真の愛国者と偽の愛国者の違い
匿名犯罪者達は日本の内なる天敵で、かれらは無法行為、悪業三昧をくり返す目的で、実名と素性を隠す、隠れ蓑を使う。
かれらは都会の雑踏に紛れ、反日誤認のぬれぎぬあるいは純粋な悪意による名誉毀損、侮辱、スリ、詐欺、盗難、暴行、痴漢、殺人や集団虐殺など無際限な悪行をする。
犯罪教唆の言論スラム・匿名掲示板2chで金儲けし、憲法に定める自由権に必ず伴うべき責任をなくそうとした無法者、東京・神奈川人ひろゆき一味は、あまたの有罪判決から逃れた亡命先でも、日本国とその法をこけにする天敵達の、実質的な首魁級であり続けている。
(なお公益を図る目的の公共の利害に関わる真実の指摘、ならびに、公訴以前の犯罪行為の指摘は、刑法230条の2により、名誉毀損罪にあたらない)
匿名犯罪者らは、「反日ぬれぎぬゲーム」、「自称普通の日本人として公然と犯罪、悪行三昧するゲーム」その他、見るも穢れるほど卑しい暗愚な振舞いの数々で、表面上愛国者に偽装することがよくある。そして大抵の場合、匿名利用可能な電子掲示板・SNSや、2chまとめサイトのコメント欄などに集まって、自国の多数派、あるいは親日派と称して腐った中身と異なる看板にすげかえ、匿名犯罪を自己正当化する目的の犯罪衆愚の間にまぎれこみ、日々、日本国法ならびにわがくに人倫を卑怯にも、侵害し続けているのだ。
いうまでもないことだが、これらの行いは全て、一般国民ならびにその中の善良な人々へわざわいをなそうとする卑賤な害意で行われており、真の反日勢力といえば、匿名卑怯者衆愚自身なのは論を待たない。まともな良識を僅かなりとももつ人は、どこの国であれ一般にそもそも匿名でインターネットを利用しようともしないし、当然、自己という責任所在を明らかにして言動するものだからだ。 さもなくば各国民がもっている言論の自由の権利も、他者へ害なす犯罪・違法行為に対する公権力の介入によってしか、保たれないのだからだ。
実名と所在を明らかにして、ネットであれリアルであれ愛国活動をしている人々に関しては、上記の匿名卑怯者・匿名犯罪者衆愚とは異なる存在といえようが、わが国の真の保守主義者といっていいのは、まぎれなく、これらの実名信頼者にあたる公明正大な言論人・活動家だけである。
例えば甚だ右派であった三島由紀夫がどこかで、彼の思想信条の主張に際し、卑劣にも出自や筆名・実名を隠していただろうか? わが国をいまだ占領中の米軍追放を安保法による属国体制の脱却ともども志し、自衛隊基地での軍事クーデターという極端すぎる行動に出た部分の違法性をまま差し置くとしても、堂々と現代の武士として振舞っていたのではないか。匿名卑怯者・犯罪者のネット右翼連中は、現実の所、わが国の順風美俗を自ら破壊する、さも右派かのごとく偽装した極悪衆愚にほかならず、実は右派にとりついた寄生虫に違いなく、また古今東西で最大の天敵というべきだ。
日本語圏の匿名ツイッター民一般は、事実上、2ちゃんねらーの陋習的な残党といってもいいだろう。木村花氏は完全に、三浦春馬氏も恐らく、彼らの悪意ある濡れぎぬで、数え切れない名誉毀損・侮辱罪により心をずたずたに傷つけられたうえ、自殺までおいつめられ、集団虐殺されたに等しいのだった。
そしてかれら匿名犯罪者達が、禍々しい追随者衆愚ともどもみな因果応報で亡び去ったあとで漸く、日本のインターネットは夜明けを迎えるのだろう。
2021年1月21日
カタカナ外来語への脱戦後対策
日本語の間で英語その他の外来語を頻用している人は、それと同等の日本語を知らないか、外国出羽守俗物主義で馬乗りしようとしていることが多い。
しかし、嘗てこの方法で日本語は外来語ととりこんできたのも確かで、今では(方言とされる体系を含む)日本語の一部と思われている漢語も、和製の物を除けばそうだった。
外来語頻用狂は多言語意識高い系といえるが、彼らのその種の言葉遣いの大部分は単に母語圏へ伝達効率が悪化するだけで、特に外国劣等感を持つ人々以外を程あれうんざりさせるだろう。
通常、心理的に人は理解できた未知の情報量が多い(自分にとって希少性を伴った重要情報を十分消化できる形で一定時間に予想より沢山与えられた)程、その相手の言質を利口だとみなし易い。よって外来語頻用厨の利点があるとしても、その語彙でしか示しえない概念な場合または、言い換えの簡素さその他でより利便性が高い場合を除けば、まやかしによる衒学ぶりだけである。実際、我々にとって古文の範囲でも、当時の知識人らがその種の難読漢語を使った言い方をした晦渋な文については、今でも意味が取りづらいだけに、理解者に読解の手間をかけた上で擬似的達成感によって、或る種の無意味な選良意識を与えているのみなのだから。
今の国際覇権言語のうち、中国語の方は漢訳(中文化)で一貫性があるのでこの問題が殆ど生じない。未知の外来漢訳語も、さもはじめから母語の一部だったかの様に扱えるからだ。
一方、英語は古代ギリシア語からの翻訳語を含むラテン語彙が豊富にある為、殆どの事を自前で補えている。
日常言語の一定の部分に、外来語が溢れているという特殊な事情は、一部の国々にしかないのだろう。そしてそのなかでも特に日本の事例が特殊なのは、明治以後に外来語を訳した和製漢語と、主に戦後、おそらく敗戦劣等感で流通する様になったカタカナ外来語の両者が混雑している上で、発音や語彙の変容を除けば殆ど外来語が和訳されなくなった事である。その種の怠惰は、戦後文化人のうち、特に言語使用を専業にしている語学者や、翻訳文芸を紡ぐ側が作り出している自業自得でもあり、一部の物理系の科学者などは今日の自然科学系論文が一般にそうであるよう英語で話すのを上等視して、ルー語(テレビ・タレントのルー大柴がふざけて使うえせ英語混じり話法)とあまり変わらない言葉遣いになっていたりする。これらは劣化した日本語流暢性を象徴しているというべきである。
母語話者にわかり易い言葉遣いは、基本として母語に既にある語彙に求めるべきだし、本来の発音とずれているばかりか別の表音語彙化して余計意味がとりづらいカタカナ外来語を淘汰するには、一般的慣行として戦後怠惰世代の悪習を絶つしかないだろう。
あるべきなのは新たな語彙にあたる外来語の和訳を、これまでどおり漢語か和語の語彙に象って流通させるか、これが特別な事情でできない時にかぎってカタカナ外来語を使い、その日本語での言い換えもなるだけ付記することだろう。
例えば東京都知事・小池百合子が会見などで使ったアウフヘーベンは、ドイツ語では「拾い上げる」の一般語彙とされるのだろうが(ūf→auf「上へ」と、heben「上げる」から、「拾い上げる・持ち上げる」)、ヘーゲル思想のなかでは対話術(弁証法)での止揚、揚棄という特定の意味を持たされている。日常語として「拾い上げる」を使ったところで、それが弁証法上の哲学的意味づけをされていると気づく人は、専門家以外にとっては逆に少ないかもしれない。小池氏の言説は会見で当人がいうに、その意味の文脈(正反合の各命題)と厳密には同じではないが、少なくとも「止揚」という訳語の文字面の意味で使われていた。
ここにあるのは和訳の文字面が本来の意味からずれて使われている、外来語馬乗りの一種だとの解釈が東京マスコミ界隈ではなされたが、なぜこの種の混乱が起きるかといえば、外来語劣等感への馬乗りが、奈良時代の遣隋使以来、あるいは明治時代の薩長藩閥以来、日本の関西から東京圏では常態的だからである。
もしこの場合、適切な言葉遣いをしようとすれば、素直に止揚または揚棄というか、もし矛盾する2命題(ここでは築地移転反対派と賛成派の対立する両論)の止揚を意味させたいなら、「賛否両論の矛盾を持ち上げる」とドイツと類似の語感を使った方が、ドイツ語を知らない一般都民へ伝わり易かった事になるのだろう。もしそれが特に哲学用語アウフヘーベンと同じ意味で使われていると示したければ、止揚・揚棄の語彙を併記すれば(止揚は使用と音が重なるので、「賛否両論の矛盾を持ち上げる、揚棄する」など)、より日本語彙の内部で高度に専門的な意味の伝達効率が上がったのだろう。仮に止揚・揚棄の和製漢訳語が使われなければ、アウフヘーベン(アウヒーブン)をカタカナ外来語のまま使わねばならなかったが、auf+hebenの合成語であるという文字面の表意性も、元来の語彙の正確な表音性もカタカナでは失われているので、ドイツ語彙に詳しくなければ、未知の語彙の段階で意味を受け取るのは至難だろう。
アイヌ語・方言学推奨論
アイヌ語の語彙は、琉球方言(うちなーぐち)と異なり、日本語と文法構造そのものが大きく違うことを考慮して、アイヌ語単独の学習を語学の中に位置づけるべきだろう。例えば英語、中国語、その他の外国語を専攻する人と、アイヌ語を専攻する人を同じ立場から学校その他で選択させ、国内少数言語としてはじめからアイヌ語を使える人をふやす様にしなければならない。この絶滅しかねない言語学習の危急な重要性は、特になんの珍しさもない英語など話者数が多い覇権言語学習のそれより、遥かに高いといわなければならない。
同じく、既に失われつつある方言とされている国内各地の言語体系も、郷土教育の中で各地のものが一般的に学ばれた上で、特定のものを国語の学習内で専攻として選択できる様にすべきである(茨城弁専攻、青森弁専攻など)。
間違った社交性
卑しい人達とつきあっているとその人達と似てくる。そして遂に同類になる。だから我々は社交性を努めて制限しなければならない。
悪人達が集まって党派になり、やがて国を作ると、悪業を集団で公然と行う様になってしまう。だがその始まりは、卑しい人達と妥協してつきあう、もしくは、気づかぬうち不良に交わる、という間違った社交性だったのだ。
松下村塾のテロ集団は、東亜一帯に凄まじい戦禍と悲惨をもたらした。中古奈良で天皇の元につどった神道教団は、やがて国内外に侵略蛮行を働き、教祖の名の下に大量虐殺を行った。
これらの悪魔集団は、はじめ、彼らが悪徳を講じているとは知らなかった。自分達を絶対正義と信じきっているその不良仲間が増長した時、既に事態は手遅れだったのだ。
松下村塾のテロリスト達は大勢がおよそ例外なく、その非人道性のため刑死になったり、あるいは戦で自滅したり、暗殺されたりした。天皇・神道信者らは侵略戦争その他で大量死した。そしてかれらの残党にあたる吉田松陰信者、天皇信者らは今も、悪魔崇拝が正義だと信じて疑えないのだ。