2021年1月25日

宗教戦争の外に出る、世俗的一国平和主義によった永世中立医療部隊への自衛隊改組論。ならびに宗教改良主義について

古代ユダヤ人は宗教として選民思想を確立し、自民族中心主義を持つに至った。
 そしてこの因果を破ろうとしたのがイエスというユダヤ教改革者のユダヤ人である。かれは独特の発展的理論を使って選民思想を否定し、博愛へともとの教義体系を結びつけた。イエスは、ここではかれを裏切った弟子イスカリオテのユダを含む、ユダヤ教団内の保守勢力から処刑され、結果、イエスの教え・キリスト教が、ユダヤ教から半ば乖離する結果になったのだった。

  ヒトラー率いるナチス・ドイツと、ユダヤ教を信じるユダヤ人との深刻な対立が生じたのは、当時の西洋社会で支配的になっていたキリスト教の博愛主義と、ユダヤ教の選民主義の根底にある違和のせいかもしれない。
 元来この乖離を埋めたのがムハンムドで、彼を始祖とするイスラム教(Islam、原義によると「帰依教」「引渡し教」)の体系といえるのだが、西洋社会はオスマン帝国の敗退と十字軍以後に、キリスト教圏に留まっていた。その主要な二大勢力はローマ教皇を教祖とするカトリック(Catholic、原義「普遍派」)と、プロテスタント(Protestant、原義「抵抗派))だった。西洋でのキリスト教とユダヤ教の潜在的対立状態に、イギリスのフランシス・ゴルトンが創始した優生学以来の種族主義を重ね、ドイツ民族中心主義の極北として、アーリア人優越論とユダヤ人絶滅論を掲げたのがヒトラーだったといえるだろう。

 ユダヤ教徒は第二次大戦の帰趨を受けイスラエルを建国し、否応なく中東圏での諸宗派の対立に身を投じることになった。そして全体として米英両国はこの建国事業、ユダヤ教徒からみれば聖地奪還事業に、米国覇権の観点から、参加することになった。フランスも少なくとも同等の意図で、イスラエル側から中東政略に参加している(イラク戦争やシリア騒乱での英米側での参戦を含む立ち位置など)。
 しかしここではナチス・ドイツを悪例としつつも、実際にはユダヤ教とキリスト教の教義の違和を、根本から解消しえていないという二重基準がある。いいかえれば、米英仏の3国は、単なる権術に基づいてイスラエル側の肩を持っている部分が多分にあり、寛容さの面で一見、表向き「信仰の自由」を擁護しているものの、イスラム教の過激派、イスラム原理主義へは逆の態度をとる二重基準を免れていない。もし真の信仰の自由があるのなら、イスラム原理主義にも容認の姿勢を取らねばならない筈であり、その教義に含まれる、信徒の一部からは暴力行使の正当化される条件(聖戦や禁忌)についても宗教学として、社会一般が理解を深めねばならないだろう。例えばマハティールの思想には、イスラム教の理解者として、この種の考え方が一部含まれているといってもいいだろう。

 日本は、自民党の要職(首相、副首相、財務大臣)を兼ねていた自民党議員・麻生太郎氏が、神道教祖たる皇族の縁戚(妹の夫が皇族)にもかかわらず、カトリック信者として知られている。そして彼を要職に就けていた各自民党政権は、比較的イスラエル側に立ちながら、米軍有志連合の後方支援に近い形で、中東政略に関与してきた(自民党・小泉政権下でのイラク戦争への自衛隊派遣、自民党・安倍政権によるイスラエル軍への武器提供、など)。
 単なる平和憲政および武器輸出三原則等の観点からみても、また防衛装備移転三原則でのその趣旨の改悪(実質的な同盟国との戦争共謀)をみても、これらの各自民党政権による陰謀は看過しえない。日本国憲法9条に定める平和主義を逸脱しているからだ。

日本国憲法
第九条 (戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認)

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

武器輸出三原則(1967(昭和42)年4月21日、佐藤栄作内閣が衆院決算委員会で答弁)
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
1.共産圏諸国向けの場合
2.国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
3.国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
防衛装備移転三原則(2014(平成26)年4月1日、安倍晋三内閣、国家安全保障会議決定、閣議決定)
2 移転を認め得る場合の限定並びに厳格審査及び情報公開
……具体的には、防衛装備の海外移転は、平和貢献・国際協力の積極的な推進に資する場合、同盟国たる米国を始め我が国との間で安全保障面での協力関係がある諸国(以下「同盟国等」という。)との国際共同開発・生産の実施、同盟国等との安全保障・防衛分野における協力の強化並びに装備品の維持を含む自衛隊の活動及び邦人の安全確保の観点から我が国の安全保障に資する場合等に認め得るものとし、(中略)総合的に判断する。

 しかしより重大なのは宗教間の対立へ、ただの米軍追従の目的で、野次馬的に参戦していると疑われるということである。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さずが君子の道であれば、上記の複雑な因果関係のある中東および欧米諸国での宗教間紛争に、日本という極東に孤立した国は少しも参加すべきではない。

 ユダヤ教の選民主義とは全く別の流路で、日本には独特の宗教として琉球神道を含む各神道主義、あるいはもとからの自然崇拝(いわゆる縄文系アニミズム)、そしてアイヌのカムイ信仰(いわばカムイ汎神論)というものがあり、これら以外にも日本仏教の各教派や、新興宗教など様々な宗教が国内にある。
 そのうち天皇を教祖とする神道(天皇とその縁戚者である皇室を教祖、神社本庁を教団の協会本部とする、いわば天皇神道)には、確かに一部、過去の皇族らを神格化(祭神化)する選民主義がみられるが、本質的にユダヤ教のそれと違う点に、この天皇神道の選民主義は少なくとも明治憲法で皇位継承を男系男子に限るとして以後、「男系皇族(ここでいう男系は男性皇族の男性子孫の意味)の血統維持」を中心とする教義で、日本人(日本民族)全体又は日本人一般の救済をなんら意味していない。

大日本帝国憲法
第2条

皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

これゆえ、しばしば神道教祖・信者らは(満州国の日本人や、旧植民地の残留孤児へ神道政府側が起こした様に)棄民をしたり、教祖自身が日本人信者らの死を容認したり(1975(昭和50)年10月30日おこなわれた日本記者クラブ主催会見で、昭和天皇が「遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない事とわたくしは思ってます」と発言)、戊辰戦争で皇軍から朝敵の濡れぎぬと偽りの汚名を着せられ侵略被害を受けた側を靖国神社に合祀せず辱め続けたりといった、皇族中心主義をとる。
 つまりユダヤ教での選民はユダヤ人一般だが、天皇神道のそれは飽くまで当時、正統視される天皇の男系男性子孫と、その親戚だけに限られるという部分が、まったく異なっている。
 なお天皇家と称する家には南朝・北朝など異系の血脈が存在するが、当時の神道学者と政府が、どの系統に正統性を認めるかで、この選民性には一定の揺らぎもある。
 例えば血統上本来の皇位継承者を正統とみなす「南朝正統論」を執る水戸学派が出現し、明治政府がその考えを公認する以前、南朝の男系血統は、傍系・本来の血統ではない天皇からできた北朝に対して、その北朝の末裔であるところの現皇室界隈から異系視されていたのだった。いうまでもないことだが、今上天皇・徳仁の血統は、この北朝由来のものである。ほか水戸学派は女帝同士の代替わりの実例(元明天皇と元正天皇の間)から、男系男性皇族の相続のみに皇位継承にあたって正統性の根拠を認めていなかったので(ゆえに、水戸学派では女帝も正統視した)、明治政府以後の皇室や神社本庁が執ってきている「万世一系論」(天皇の男系男性のみに皇位継承の正統性を認める、血統主義)の立場とは一部、この選民性の範囲が異なっている。つまり水戸学派は、傍系その他の血統による女性天皇および女性天皇間の相続も、過去の皇位継承の前例という、皇室伝統の理解に照らして公認する理論上の立場であり、これを「万代一系論」という。女系天皇容認論者である自民党・河野太郎議員は後者の立場に近いといえる。
 これらを端的に換言すれば、薩長藩閥(明治寡頭政治)に由来する万世一系論は男系男帝継承原理主義、水戸学派に由来する万代一系論は女帝相続容認主義といえる。女帝間の代がわりがあったうえ、女帝も多かった皇室の伝統に照らせば、伝統改造にあたる男系男帝継承原理主義が明治政府以後、なぜ日本政府の憲法に据えられ固定化してしまったかなら、薩長藩閥を構成した男性のみの明治元勲ら(鹿児島県・山口県出身者を中心とする一派)は、単に皇室研究を十分行っていなかっただけでなく、暗に当時として男尊女卑の考え方を持っていた為と考えるのが妥当だろう。そして平成・令和期の日本国民一般は、女性天皇、女系天皇いづれについても容認する世論が多数であり(最近の共同通信、産経・FNN合同、朝日、いづれの世論調査でも同様)、これは国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案でも人権の国際通念に照らし真であるばかりか、寧ろ水戸学派による皇室理解の立場に近いのだが。

 はたまた天皇神道の枠内で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などと共通の考え方を執るのは教義の違いから困難であり、宗教論として相互に合意を得るのは至難の業であるだろう。天皇神道では上述の様、男系男帝継承原理主義・女帝相続容認主義と微差はありつつ、皇族のみが選民性の範囲なのに、ユダヤ教ではユダヤ人全般又は一般が選民性の範囲で、キリスト教は博愛教義によって無差別的なのに対し、イスラム教ではムスリムとそれ以外にかなりの扱い方の違いがみられるからである。そうであれば、天皇を頂く類の日本国内政府が、中東・欧米諸国で宗教戦争に参加したところで、いつまでも平行線に終わり、最終的には異物として排除されることになる。2つの世界大戦も遂にそういう結果に終わったのだ。
 日本は極東に孤立し、多国間での宗教戦争に参加しないことが唯一の正解だと日本政府ならびに皇室は認めるべきだ。そしてその根底に置かねばならないのはいわゆる世俗主義(政教分離。少なくとも天皇神道の教祖たる皇族を除く各国民の間では、祭政不一致を認める考え方)で、天皇神道の関連儀式は、今後、皇室の私費、つまり皇族費の枠内で行うよう内閣および宮内庁は方針転換すべきである。さらに米軍有志やイスラエル軍による中東政略の枠組みの外に出て、積極的平和主義と称する安倍晋三氏得意の嘘と詭弁の惑わし、実態的には米属国主義(米軍傭兵志願論)など少しも首肯せず、日本国単独では単なる平和外交を前提にした、一国平和の中に安住すべきである。

 一国平和主義を罵る人間は次のことを考えればよい。
 もし真実、神の国があったとして、そこは完全な道徳で満ち、いかなる犯罪も悪事もおこなわれていない。全てが至善至美で、全ての人々は完全な幸福の中にいる。
 そしてこの神の国が1つあったからといって、他国が戦争またはなにか犯罪や悪事を国内外でしていないといえるだろうか? 当然ながら神の国以外のどこかでは、程あれ地獄の様な有様も日々おこなわれているのではないか? 単に人の間でいくらかの平和が確立できたとて、生態系の食う・食われる関係に囚われる生物が、どの動植物ら他の生物群も一切苦しめず、命をあやめずに生きることが果たしてできるだろうか。ヴィーガンは植物食を容認しているが、植物に痛覚に近い反応があると知られはじめた昨今、それも食べずに生きられない人たる原罪の一部なのではないか。
 全ての国々が等しく神の国であれば、もはやそこは国なる枠組みが必要でない筈だ。我々は既に神の世界にいてこの世には人ならやりかねない自他に害なす悪事はひとつたりとも存在しない。もしその状態に既にいるといえないのであれば――つまり、他生物への危害を含む犯罪、その他の悪事が現にわずかなりとも存在するのなら、人は少なくとも、先ずこの全国民の道徳性が完成された神の国をひたすら目指さねばならない。なぜなら、人は快苦や倫理に導かれよりよい状態で生きたいと感じているが、苦痛や害他性を与えてくる何か(単に他人や他生物である場合だけでなく、しばしば自分自身の悪徳でもありうる)があるかぎり、必ずそれに挫折するからである。
 自分の国が既に神の国だとすれば、その国は戦争という最たる悲惨を決して行うことはあるまい。それどころか、他国で行われている戦争に進んで参加したり、それを誘発する陰謀を働いたりも、決してしないだろう。もし神の国の軍隊がやってくるとて、彼らが完璧な聖徳で満ちていれば、絶対的に対立する諸国のいづれかに与したりせず、全ての国々の全ての人々、乃至、諸生物へ最高度の救済措置を行うに違いない。それが邪神でなければ、救いこそ人を超えた神の役割でなければならないからだ。

 上記の仮定は殆ど現今なりたっていない。つまり日本国政府の自衛隊は神の軍隊でもなければ、日本国民自身が神々しい民衆でもない。よって、理想的な神の国に到達するまでは、先ず隗より始めよと、自国の文明性、具体的にはそのなかの道徳性を改良し続ける必要がある。ここでいう道徳は、あらゆる科学、工学(技術)、芸術(技)を慈善へ応用する仕方を含んでいる。そしてできるだけ民衆全体が最善の存在となった暁に、その総体が神の国と見まごう状態になるよう努めるしかない。

 もし日本軍、すなわち現自衛隊が改組され、他国へ行ってもいい場合があるなら、永世中立部隊と公示しながら、いかなる国の味方もせず、また表面上そうといいながらどれかの同盟国の有利になる働きをするなど卑怯な二枚舌外交も使わずして、ただ純粋に傷ついた人々を救う非武装から必要最小限度自衛組織の医療部隊としてだけである。
 赤十字軍同様、無論、この部隊の人達はいつでも殺されうるし、人質になりえ、またいかなる理由かで傷つけられうる。自己犠牲はいかなる力からも強要されるべきではない。和平を維持する目的で、人権の欠かせない一部に該当する良心的兵役拒否権も当然、普遍的に認められねばなるまい。しかし彼らは今なお各地で起きている国際紛争に際し、神聖なる使命を帯びている筈なのだから、当外部隊を組織するにあたっては日本人の中から志願兵制度をとらねばならないだろう。
 またこの様な姿に自衛隊を改組できないというのなら、日本国では決して海外に部隊を派兵してはならないだろう。それは勝っても負けても所詮は愚かな戦という悪事に参加することにすぎないからだ。日本国政府に最小限度の武力行使が認められるのは、裏からみても表からみても、どこからどうみても自国を直接害する他国からの侵略行為への正当防衛に値するため、事実に基づく限り、また自国民を自国民自身が守る目的で、誰も非難し得ない行いだけだ。この行いを「純粋な正当防衛」と呼ぶ。そこには同盟軍との共謀による他国への攻撃は決して含まれ得ない。集団自衛権の行使は純粋な正当防衛とは到底みなしえない、なんらかの政略なのだからだ。

 日本は永世中立医療部隊の様な特別な例外を除けば、他国の内紛になんら参加せず、もし第三次世界大戦が起きてもその外にいて、自分達の永続的安寧を元に、戦争を逃れた亡命者を、寛容な宗教風土のなかに受け入れていればよい。この意味で、徳川政府の平和外交は、明治政府の侵略外交より遥かに、自他どちらの国からみても、本来あるべき国の理想に近かったというべきだろう。
 例えば今日の欧米・中東社会では、ベルギーやフランスでのブルカ禁止法にみられるよう十分なしえていない世俗主義で解釈すれば、イスラム教義の原典(『コーラン』)に逆らう態度をとった人々が過激派から粛清される様な場面があったとしても、これ自体は外形に表れたただの殺人罪・暴行罪と解釈されるべきで、思想・信条・信仰・良心といった内面の自由は、少しも国権から侵害されるべきではないだろう。宗教はどれもそれが生まれた時点の社会秩序を整理する目的で営まれていたろうが、時代の変遷で未来の社会風紀と矛盾する点も自然にでてくる可能性があるのはやむをえないことである。そのうち、どの教義が未来の社会でも復権され、どの教義が改正されるべきかは、各時代の宗教家あるいは宗教哲学者自身、イエスやムハンムドが当時そうした様、改革を試みねばならないのである。
 古代ユダヤ人の賢者は自分達の民族を脅威から守る目的で、『旧約聖書』を書いて律法を受け継いできたのだろうが、現イスラエルの政治状況は当時の教義と摩擦を生じる点もありうる。その教義の解釈または新見解として、律法の一部は現実にあるべき道徳性と合致する形に、場合によっては改廃すべきなのかもしれない。例えば既往のユダヤ教義では同性愛がソドム滅亡の文脈に照らし不道徳とされる場合であれ、遺伝的に存在しうる性的少数者、具体的には性同一性障害者(身体の性と一致しない性自認を持つ人。研究が十分進んでいるとはまだいえないものの、生得的に脳などの発達の仕方自体に原因があるかもしれない)などの例であれば、その権利を人権に照らし、特別に緩和するなどである。遺伝に原因がある場合、ソドミーの禁忌に関する教条的な解釈では、性同一性障害者が同性愛者かそれに近い存在とみなされうるのはいかにも不条理である。カトリック教皇フランシスコは既にそういった立場を、遺伝的原因にかかわらずかなり広範に認める節を表明した。イギリス政府が単に同性愛者であったことを理由に罰した例に赦免による名誉回復の余地を認めたのも、日本の都道府県としてはじめて茨城県が同性パートナー制度を認めたのも、これらの一連の流れの上にある。この性的多様性へ一定より寛容な立場は、同性愛その他への不道徳視に博愛が優先された例なのだろう一方で、同性愛に関わる遺伝子は自分の知る限りまだ発見されていない。つまり性同一性障害の例を除けば、同性愛の傾向は後天的な習性、もしくは文化的風習な可能性もある。
 これらの例以外でも、嘗ては信仰上禁忌だった行動・思考の多様性の一体どの部分が、私徳の解釈として緩和・容認されるべきかは、各宗教学者ら、各信徒の現代倫理観や、社会風紀の構想に任されている、というべきだろう。

 宗教学というものは、ある教義の定義された時点での精確な理解をめざす解釈論(いわゆる宗教原理主義)とは別に、金科玉条化した過去の教義体系に固執する保守宗派を作るだけでなく(宗教保守主義)、その信仰体系の改革を前提にした倫理哲学上の批評により、絶えず改良されるべきでもあるのだろう(宗教改良主義)。ベンジャミン・フランクリンは自伝の中で、そういった改良主義に立つキリスト教抗議派の一部を、英知を持つ者と称賛していた。