2021年1月24日

紫式部がなぜ山城地方(現・京都市界隈)では予てから偉人扱いなのか

紫式部というのは、心底、下卑た腐女子というのだったのだろう。
 自分はずっと謎だった。なぜあれほど品性下劣な物語を書いた人間が、関西地方では偉人扱いなのか。
 ある奈良女がアメーバ・ピグという社交媒体上で自殺願望を語っていたので、自分は善意でその人を助けてあげねばならないのではないか、と考え1年半ほどネット上で文通していたのだが、その間、彼女の語る関西地方の事情を逐一理解してわかったのは、その地方に暮らしている人間一般というのは、明らかに先住日本社会にとって異民族である。

 どうやらこの関西地方の人間は思いやりというものがおよそ寸分もないに近いらしい。勿論程度の問題だが、かれらはなんでも利己的にしか解釈できない。関西ではそれが普通らしいのである。
 大阪吉本興業の芸人を中心に「アホ」「ボケ」「カス」などと連発し侮辱表現をくり返しているのはこの為で、SNSで異なる地方とやりとりの際に摩擦が生じる機会がふえてくると、しばしばかれら自身が単なる方言の差の問題に矮小化しようとしているが決してそうではない。単純に、かれらは思いやりの程度が薄いのだ。それで他人を傷つけてなんとも感じていない。だから平気で他人を中傷できるのである。

関西弁って、今の時代、パワハラの分野にひっかかることが……。『死んでまえ!』とか、日常で言うてんねんけど。
――明石家さんま
2020年10月10日に放送された『ヤングタウン土曜日』(MBSラジオ)で

 ある種の京都人と一定より親しくなってみると、急に嫌味とか皮肉とか陰険な悪口とかをいいだし、びっくりした経験がある人もいるだろう。そういう人達は表向き、社会と摩擦を生じさせないべく一見いい人づらを演じているが、内心は性悪そのもので、親しくなってつい油断し、浅ましい本音を語りだしたというわけなのである。けれども、一般の人達はそこまで性格が悪いわけでもない事が多いだろうし、京都地方独特の風習と違って、普段からことさら演技しているわけでもないので、仲良くなったら侮辱してくるという予想外の行動に文化衝撃を受け、引いてしまう事もあるだろう。少なくとも自分はそうであった。
 通常、親しくなるとより本音が出てくるのは当然としても、社会の建前に妨げられよくわからなかったものの、本質的によりいい人なのだと理解できるのが、少なくとも自分の身近に接してきた常磐圏での人間模様の基本であった。それと京都はじめそこから多少あれ影響されている関西圏の一般的人間のあり方は、まことに正反対といってもいい。
 京都市界隈では建前の方が一見いい人ごっこをさせており、そこから知らずしらず漏れでてくる本性を「イケズ」つまり意地悪というのだった。その様な言葉は東日本には京都由来の京都方言のものとしてしか存在しないし、現にイケズな人間が極希である限り、殆ど社会全般に於いて目立たない種類の行動・心理類型なので、わざわざ日ごろ使い易いよう手短な表現が作られもしなかったのだ。

 京都人達が東京へ好んできたがるのは決して偶然ではない。東京圏の人間達の日常的な下品さは、江戸時代の浮世絵、黄表紙などにも色々記録されているが、要するに遺伝的系統からいっても江戸っ子というのは徳川家康に連れてこられた大阪商人の末裔達であり、新幹線が通っている東海道を通じ、日々交流しあっている京阪人なるものに、かなり近い天然の資質を持っているといっていいからだ(参考:東京都の類似都道府県)。すなわち京都人一般が本音を出しても、東京圏ではあまり周りの人達(江戸の町人達の末裔)と変わらないと感じるだろう事は想像に固くない。実際、東京人達の平均値からみれば、勿論程度の問題だが、万事に文化的な類似性があるともいえるのである(参考:京都府の類似都道府県)。

 この点で、かれら関西地方の民族性(地方的な集団の性格)は、思いやりの度合いが先住日本人の系統より薄い、個人主義的な一部の外国人に近い(思いやりぶかい民族あるいは個人もいるので、全ての外国人ではないが)。弥生人の系譜(Y染色体ハプログループO1b2)が、中国人の一部、朝鮮人の大部分と同根で、あるいは西洋系一般(同R)により近く、縄文人(同D)からより遠いのは、現時点までにわかっている遺伝系統樹からも確かめられる生物学的事実である

 弥生人の侵入後、アイヌや縄文人(旧琉球・沖縄人を含む)はこれまで自称天皇を代表とする弥生系から散々いたぶられてきている。つい154年前、一方的に東日本人が西軍から濡れぎぬを着せられた戊辰侵略もそうだ。10年前の福岡人・松本龍による仙台での被災地見下し発言もそうだ。
 これらは理由があってのことで、優生学とは逆の意味で、この弥生人の集団は以前から利他性が縄文系・アイヌ系より低いのだろう。サイコパス(精神病質者)の脳を例にとって、低共感の人間は扁桃体や眼窩前頭皮質に機能障害あるいは弱さがあるとすると、これら共感性を司る脳部位が相対的に育ちづらい遺伝、又は文化環境を持っているのが、この弥生系の集団だったのだろう。食品保存の効きづらい狩猟採集が中心の縄文文明では信望を集めた、持たざる者への喜捨、所得の再分配を意味する大盤振る舞いで、弱者を助けたがる気前がいい側より、大規模な水田稲作下で蓄財可能な弥生文明では、単にケチでがめつい側が生き残り上、もっと有利だったのかもしれない。
 実際、今も弥生系の影響度が濃いといってもいい京阪地帯とか愛知地方とかでは、吝嗇や金儲けといった行動は決して蔑まれる傾向ではなく、むしろ資産家こそ名望家として尊敬されている節がある(例えば日本電産社長・永守重信氏の様な人物、もしくはトヨタ自動車社長・豊田章男氏の様な人物)。それは金儲けを蔑み、清貧を尊ぶ、先住文明圏にあたる岩手県人・新渡戸稲造の『武士道』、あるいは同県人・宮沢賢治の書いた喜捨の理想のあり方とは正反対の文明に由来している社会風習なのだろう。

……侍は一貫して金勘定は卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的職務に比べれば卑賤なもの、と考えたのであった。
 この様に金銭や貪欲さを嫌ったことで、武士道を信奉する侍達は金銭から生じる無数の悪徳から免れたのである。わが国の役人が長い間、腐敗から遠ざかっていたのは、ひとえにこのお陰である。だが、悲しいかな、現代においては、なんと急速に金権腐敗政治がはびこっていることか!
――新渡戸稲造『武士道』第十章 武士はどの様に教育されたのか

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
――宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
 弥生人の侵入後にあたる弥生時代から、弥生遺跡の中に殺戮の証拠が出てくるのは、先住日本人の社会より相対的に犯罪率の高い、こういった弥生人移民の格差社会にあって、当然ありうることだったのだろう。実際、身分制の様に、差別的思考が前提になっている国は、一定より絶対的共感性が低い人間が権力を専横しなければ、到底なりたちえない。封建制の一種である皇室(天皇制度、天皇制)も当然、この身分差のあった弥生人社会が、参照先でもあるかれらの祖国・中国から、中華皇帝制をまねた類型にあたるといえる。

 そしてそういった低共感社会の乱倫模様が極まったのが平安期で、そこでは皇室が頽廃し、藤原政権の婚姻政略を前提に、山城地方(現京都府界隈)への中世朝鮮人系移民社会(いわゆる朝廷)の上位者達は、日々仕事かのごとく税を乱用し、淫行に耽っていたのだろう。
 紫式部はそのなかにあって、宮廷に近い家庭教師をしていた未亡人として、鬱憤晴らしの目的で、今でいう腐女子状態で妄想の乱交模様を書きつけていたのだろう。ところが、これに名作かのごとく反応した当時の京都人達は、まるで現代、同郷の綿矢りさの手になる、未成年者らによるものを含む、性にかかわる頽廃風俗的な淫行模様を書いた小説(『インストール』『夢を与える』など)に、さも偉業かのよう礼賛を重ねていた現代京都人達と、なにからなにまでそっくりではないか? なにか民族構成に特別な変化があったわけではないので当然といえば当然だが、さがの有り様が中世から何も変わっていない。

「なぜ京都人一般は乱倫系の淫行小説を好み、賞賛するのか?」

この疑問を解くには上の記述で大分理解が進んだと思う。一言で書けば思いやりの度合いが低い人達であるばかりか、かれらが品性下劣だからなのである。裏を返せば、思いやり深く、上品な人達であれば、人の不品行を美化した小説なんか目もくれない。道徳的に立派な内容が書いてある、趣味のよい本を好む筈だ。
 もし道徳性が時代や場所によってある程度揺らいでいるとしても、性的頽廃の風習がはびこったソドムとゴモラを神が亡ぼした逸話は、旧約聖書の昔から語り継がれており、「姦淫するなかれ」の戒律が、全く無効化している社会はそう多くあるわけではないだろう。姦淫の基準が、中世以来、京都はほかの社会と異なるとして、ロシアの大統領ウラミジール・プーチンが二千円札の発行時に言ったとされる真偽不明な文言も、恐らくロシア正教への信仰にまつわる人間性を克明に探究してあるロシア古典文学との対比、または、冷戦後の国際構図の中で、プーチンへ期待されているのだろう冷酷であると同時に高潔な面のある専制君主の役割として、同一の批評的観点からでてきた俗諺なのだろう。

日本は、不倫や近親相姦を題材とした小説を紙幣に印刷して流通させるほど社会が堕落したのか。
――(伝)ウラミジール・プーチン
2000年7月、九州・沖縄サミットで日本の首相の森喜朗が、紫式部原作『源氏物語絵巻』の描かれた二千円紙幣を各国首脳に配布した際、言ったとされる文言(出典不明)

 実際、現実にあったこととして、イギリスのポーツマスで2014年6月6日行われた、ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典で、原爆投下の映像を前にプーチンは(仮に演技だったとしても)胸の前で十字架を切っていたが、米大統領オバマは拍手していたのだった。

 他人を大層傷つけ、善良の風紀と社会秩序をいたづら壊乱する話、それも元来唯の奈良の人に過ぎない自称皇族が世襲権力の乱用を重ね、強姦罪を正当化、処女のおとめに自殺未遂させるあくどいやくざ話がもののあわれだといい、さも立派な大文学かのごとく吹聴していた本居宣長も、その影響を受け同説をうのみにしていた小林秀雄も、茂木健一郎氏も、同じ悪習に感染した人々である。

 縄文文明の存続した東日本圏にあたる岩手の詩人・宮沢賢治の童話であるとか、 茨城の野口雨情の童謡とかを読めば、その素朴な善良さと、京都地方の淫猥な悪辣さとのあまりの落差に、同じ国民の事かと愕然とするであろう。それというのも当然で、もともと、遺伝的にも、京都地方なる朝鮮系の移民地区と、先住系日本人の系統は、嘗て分岐したY染色体ハプログループCT時点にして7万年も隔たっているのだから。
 この2つの系統――縄文人と弥生人は、中部地方あたりを介していまなお混血し続けているが、もともと、たまたま侵略・被侵略の両運命によって、呉越同舟状態になってしまっているに過ぎないのである。

 近現代の京都人が今もなお自文化中心主義に耽り、世界の全文化の中心が自分達だと京都市の『世界文化自由都市宣言』で公言しているのは、やはり同じ原因から発生している、中世から延長された中華思想の驕りなのである。
 傲慢さとは愚かさの一種だ。愚か者ほど自己過信し易いというダニング・クルーガー効果を参照するまでもなく、文化相対主義、多文化主義、文化多元論、構造主義その他の非中華思想を鑑みれば、文化帝国主義の類は遠からず、ナチスの頽廃芸術論と同じ禍をもたらし、異文化への誤解、蔑視、差別、そして弾圧をもたらすだけだろう。
 無論、今日及び未来の我々にとって、京都市の今も持つ類の自文化中心主義は、反面教師でしかない筈だ。異文化の存在はそこからよきに見習い、あしきを反例に、相互参照の中から何かを学び取る事であると同時に、単に全て文化という仮の単位は、無際限に多様化すべきもので、そのどれかがほかより上だとか中心だとかいった概念では土台からありえない。京都市が暗愚だからこそ、自分達が世界の中心で、他の文化はそうではないと思いあがれるに過ぎないのだが、こういった自文化絶対化の考え方が行き着いた果てに、やはり自堕落さに由来する頽廃主義の自己正当化なる悪趣味が生じてくるのも、それが長らく固定してしまうのも、比較文化から謙虚に学べない者の必然というべきなのだろう。