自分より愚かな人達をより賢くしようとする試みは、全て失敗する運命にある。
卑しさ、不道徳さ、悪さは愚かさの一種である。それでこれらの特徴の持ち主達を引き上げようとする試みも、全て失敗する。
愚かさはそのひと固有の偏見によっているのだが、この偏見は拭い得ないもので、一種の盲点である。
教育は知識(科学)を与える事で、誰かを以前より賢くみせかけようとする。だがこれが成功している人を私はまだ1人もみた事がないし、そういう人がいたという記録も、一度もみた事がない。ダヴィンチの手記に
天才には不足するが勉強して利口になった人は、自然にしゃべったり働いたりする時は必ず足りなく見えるが、意識的につとめるときには聡明そうに見える。とある。自分はそういう類の人しかみた事がないし、このレオナルドの観察も、自分の感じている人類のありさまとはかなり違う。現実にはただの勉強家はどの場合にも余り賢そうにみえないし、単に不器用に何かを語っている様にみえるだけであり、そしてそういう人しかこの世にはいないのだ。
――レオナルド・ダ・ヴィンチ
"Codice Atlantico" 231 v.a
ミラノ、アムブロジアーナ図書館蔵。
R. Accademia dei Linceiにより複製。(Milano, Hoepli, 1894-1904)
嘗て自分がレオナルドの意味でいう天才と感じた人がいないからかもしれないし実際に天才といえる者は存在しないのかもしれない。しかしいえる事は、勉強しても元々の賢愚はさして変わらない(生まれつきの差に比べ、実に僅かしか変化がない)という事であり、人にはいわゆる地頭というものが最初からあり、そのよしあしが(事故・事件などで大幅な物理的衝撃でもない限り)死ぬまで続くだけである。
自分は天才をただの個性という意味でしか使わない。だから自分には誰もが天才でその重要さになんらかの観点からの適い方があるだけである。