いとすゞろのまちなみ返す師走な
やんぬるかなとかゐう汀の鮭
途一つならずとも辿る富士の峰
かえるてを回す夕陽は校舎照る
クリスマス賑わう訳なき俗人か
2009年12月31日
社交規制の真
社会で最も有効な社交規制は品性の程合いだろう。よって社会の品はその侭で生活感覚の洗練を象徴化する。結局、現世や暮らしで到りうる最高の理念とはそこでの高品位でしかない。更にこまかく分析すれば人に対する上品さとは彼らが趣味観での高度な的中を某の人柄や、間柄の論理へと宛て得ているなる二人以上、即ち仁の範囲での一種の社会習慣、が為せるわざなのだろう。単に人柄が丸いとか性格にとげがないとかに、何を以て真に規制すべき生活感覚かを各既存聖書へせよ省みれば、たらちねの忠恕の本旨は選れて現代的な社会習慣の趣を感慨深い唯一の社交性で穿つこと、即ち啓蒙の習性と全く以て一致する。では教育と啓蒙とでは何が違うのだろう。それは後者では後進か先輩かはたまた同級かを問わない、嗜みの機知が求まる処だ。もし社交規制としてだけ見做せば、生活感覚への注解とはみな合理的啓蒙にのみある。
復讐
どれだけ頑張っても次から次に涌いてでる
関西圏からやってくるいつもの好色麿の末裔みたいな
下劣な生き物
全国区へ下品な笑いと猥褻物をまきちらす
発狂しない方が不自然な街
秋田やら博多やら鬼畜の島中からかきあつめた
京の芸者連中を大金で堂々とうりさばく東京土民を
タレント都知事が猥褻小説用に保護する無宗教の
倭人現実社会
怒り狂う忠義の男は殺人鬼として首を絞め殺された
ご存知大王家はお溢れ申す借金で
日々をさぞ安楽にお暮らしになり
遂には責任放棄で地元に行幸なさるおつもりらしいぞ
なに? ならどうしてこれほどまでにかの
有名なる鬼畜の殿方にふさわしいお庭づくりに我々は
気の遠くなるはるか昔から躍起になってきたんだ
すべてを見ていた少年はすみやかに自殺をえらぶ
関西圏からやってくるいつもの好色麿の末裔みたいな
下劣な生き物
全国区へ下品な笑いと猥褻物をまきちらす
発狂しない方が不自然な街
秋田やら博多やら鬼畜の島中からかきあつめた
京の芸者連中を大金で堂々とうりさばく東京土民を
タレント都知事が猥褻小説用に保護する無宗教の
倭人現実社会
怒り狂う忠義の男は殺人鬼として首を絞め殺された
ご存知大王家はお溢れ申す借金で
日々をさぞ安楽にお暮らしになり
遂には責任放棄で地元に行幸なさるおつもりらしいぞ
なに? ならどうしてこれほどまでにかの
有名なる鬼畜の殿方にふさわしいお庭づくりに我々は
気の遠くなるはるか昔から躍起になってきたんだ
すべてを見ていた少年はすみやかに自殺をえらぶ
2009年12月30日
法案論
法案として、国際連合の三権分立内での調整税は当然もちあがる。そしてイスラム原理主義者の過激派が現代行うのとは違って、現実にできる不平や腐敗の調整措置としてより格式が高いのは恐怖政治ではなく正統な討議会での機を見計らった威厳丈高な尊い提案による。だが常任理事国の寡占段階が解除できない間は、国際交渉機能が必然に貿易協定間の相身互いのおもんばかりに集まる。もし社交性の向上にみれば、この計画は商業協調よりずっと後手に回していい。なぜなら徴税を目的視しながら国連参画を試みるのは実質では、普段からの協定間の気心の知れた仲間共での交わり渉りあいよりきわめて不利で、福徳に偏差ある郷土でない海外ならいずれ嫌われ役ともされがちだからだ。英米の論理が有利なのは彼らが富や軍事力を担保に、また中国もしくは印度は人口比の生産量をみこして、西欧なら歴史経緯から覇権を主張できる所に求まる。結局、国連法案面からみれば常任理事国の解除の前にはその緩和と、貿易協定間の発言力につながるできるだけ甚大な国際経済力が必要な手段となる。今のところ極東諸島の特殊条件は巨視すれば、アジア市場母系を背景とした唯に技術面での完成度に求まりそうだ。従って、今日では国連参画は飽くまで義理と考えておいた方が妥当であり、寧ろ可能なだけ最大の内部留保率をできるだけ基盤的な耐久性の高い国内施設への圧倒的資本投機にかけて絶対死守する方が優先事項で高い判断となる。もしこの観点を誤って、母国市場の減衰や破産を伴う裏切り国際貿易化を多くの多国籍企業が一斉に謀ると、現段階ではあきらかに上述の経緯の至るところ、将来の国連発言力の土台をさきゆきなく崩してしまうことになるのだ。儒学を省みても余り品のいい趣旨では勿論ないが、手段としての国家地位、つまり国際富貴とは先ず母国の平価購買量が相対的に有徳であるという既成条件によるのが現実の社交界だろうから。この為、私の考えでは、自主的なODAをこえた国連徴税は今の段階では先延ばしにしておき、尚且つ自らは自由圏の大義である放任経済の原則を当面の建前としながら、内国的には多国籍企業への立地関税を徐々に実践していく方が随分と賢そうだ。それは多国籍企業が海外との物価差額分を余計に儲けた分だけ、また海外に本社がある国内企業への単なる居留地扱いでの地代へ上乗せた法人税率でもありうる。要するに、修正社会主義的であるという勝手派、リバタニアンどもの非難も十分予想しながら、もし買収されても生き延びる方をえらぶ愛国心には欠けた企業法人格がそれを言うのなら現段階では、わが国政府の長期計略上では彼らを化けの皮をかぶった売国の仮想敵とみなしてできるだけ不利な立地条件や評判へ国内からの投資衝動面では遠回しに追い込み、維持可能な大きな累進税率を敢えて負わすことでその心底にある忠誠度、即ち立身出世の本分を試す方がずっといい。
さもないと一見すると、雨後の竹の子と化した今後とも益々乱立するだろう多国籍企業群が外貨獲得に貢献している様で、とある段階からは国内製率の一気呵成でしかも極端な低減、つまり忍び込み通貨北限かスタグフレーションの母市場陥没でいわゆる空洞化の地盤沈下が国内的には際限もなく進む。もしそれがマクロ金利政策も含む管理通貨の均衡で防げねば、最終的には流出しきった流動資本の為にいくらかの内部留保の設備勘定どころか、ごく少数の大株式保有者数名以外はみなが一様の失業者という暗黒の悉皆無業社会が出現する。そしてこの段階がもしもかなりの福祉国家化以前に訪れれば当然、今までのどのそれより社会不安は莫大となるであろう。さらに超長期で見渡すと、自棄になった国民の低教育に及ぶ内製付加価値面での決定的敗北の証は、光栄ある孤立の名義どころか日本人を見捨てた少数の大株主の博打ちかしい射利心のおかげさまで、まことに往路浅ましき損得勘定最優先国からの友好的ごみすて暗黒史とみなされ遠い先々まで、地球外ふくむ国連での地位や威信減耗を必然の業に貶める。
少なからず心ある人士にはこの怪しからぬ進路を、幾らかの体面保持としての母国への貢献や調庸の受け入れよりも幸せだと見るのが難しいかもしれない。
さもないと一見すると、雨後の竹の子と化した今後とも益々乱立するだろう多国籍企業群が外貨獲得に貢献している様で、とある段階からは国内製率の一気呵成でしかも極端な低減、つまり忍び込み通貨北限かスタグフレーションの母市場陥没でいわゆる空洞化の地盤沈下が国内的には際限もなく進む。もしそれがマクロ金利政策も含む管理通貨の均衡で防げねば、最終的には流出しきった流動資本の為にいくらかの内部留保の設備勘定どころか、ごく少数の大株式保有者数名以外はみなが一様の失業者という暗黒の悉皆無業社会が出現する。そしてこの段階がもしもかなりの福祉国家化以前に訪れれば当然、今までのどのそれより社会不安は莫大となるであろう。さらに超長期で見渡すと、自棄になった国民の低教育に及ぶ内製付加価値面での決定的敗北の証は、光栄ある孤立の名義どころか日本人を見捨てた少数の大株主の博打ちかしい射利心のおかげさまで、まことに往路浅ましき損得勘定最優先国からの友好的ごみすて暗黒史とみなされ遠い先々まで、地球外ふくむ国連での地位や威信減耗を必然の業に貶める。
少なからず心ある人士にはこの怪しからぬ進路を、幾らかの体面保持としての母国への貢献や調庸の受け入れよりも幸せだと見るのが難しいかもしれない。
2009年12月29日
法文論
改造された良好な行状を構築的とよぶなら、破壊されるそれを廃棄的という。もし社会や社交の要が脱構築と訳された以前との解釈のさしかえなら、我々が文明の場に観るのは結局の所、作り直しのありさまだけ。だから、初志如何に関わらず構造主義の根本論拠は今なお不確実なばかりかまやかしをふくむ。それはレヴィ・ストロースはじめいくらかの野生界への妥協や回復や反動の措置に用いられた思想段階だったが、脱構築の定義づけをデリダが詳細に行った時点で既にリクリエーションの座を解釈論側へ、既存の科学構築論潮流からゆずったのだった。さて専門家以外にもたやすい論旨に直すと、リクリエーショニストつまり趣味人は、一切の活動の持続した脱構築を肯定する。それはいわゆる遊び、カイヨワ等が主張した被抑圧への昇華活動としての遊戯行動自体を全面的に価値あるものとして擁護し、また選抜や増長する。
人類の思想哲学、というか哲学という言葉は元々智恵、とものめぐみのあてはめでしかないのだが、その理想論がつまりは思考の遊びであり自由市民らにみいだされた理性的動物なりの最良の技術であったことを現代の社交人は、会話の趣深さのなかにもみいだす。話の面白み、とは哲学やら考えのあまねさという遊び心の浸透による。退屈する場合、かれの教養には多趣味さや品性が不足するのである。
趣、を思想哲学の最高段階に置く事の意義は、それが冗長さや長たらしい詭弁を排し最短の一語で粋を穿つ、という詩的押韻の心髄にあるといえる。ゆえに、心に染み渡る詩の一語ずつには、現実に達辞できる最高度の洗練を施した趣味観がみいだされるだろう。我々が脱構築の潮流にみつけだす境遇は又、詩的感覚への鋭い分析力という趣味論の内部でのみ最高の段階を達する。法文解釈へとデリダがこの作為を応用しようとしたことは、長期の眼でみとおせば過ちであり、ユダヤ教の教義をキリスト教文化圏へと落し込もうとした一種の文脈改変でもあり、それが宗教と法政の混同という古代文明の名残にすぎぬかぎりはまたフランス文化の品性荒廃を及ぼすばかりだろう。
法文原理主義への批判や可塑解釈啓蒙の意図は、法三章の現実論が心理の側にある、という道徳学説の改悪を含む。かりそめにも国政の本懐はからかいや揚げ足取りの解釈を差し挟む余地さえあるまじき、真剣で、誠心な忠節への意志である。公共倫理の実現は解釈論にあるのではない。むしろ心の側に、即ち道徳の押韻という法文へ込めた徹底した信念の元にある。独善本来の意味は、善意の純真さを己の反省の中で絶対化することである。こうして、法文脈を最もよく実践する者は又、解釈論にではなく達辞論の側に立ち、筌蹄した道徳律へのあてはめという法律本来の克己復礼の定義へと自律精神を奉仕する筈だ。だから、もし法文そのものが語句の簡略化をどれほど加えようとまだしも、到達されたいずれ文字面でなく、それを解釈する主観心の問題である精神論は幾世代もの新陳代謝にも関わらず決して失われないだろう。
今日法律を定める者は以上の論旨を十分に理解されると良いでしょう。未来の世代は我々よりはるかに崇高な知的段階を当然達する故に、悪法と良法の差はそこに込められ復古された聖人の深慮にこそあるので。デリダの論法は述べて作らず、信じて古を好むと云った東洋の哲人の遥かに格下であることは以上からも明らか。只、その解釈界への扶養の努力は、宗教原理主義の頑固者共を詩的多義性への趣味論の範疇でより和らげられるにすぎない。
人類の思想哲学、というか哲学という言葉は元々智恵、とものめぐみのあてはめでしかないのだが、その理想論がつまりは思考の遊びであり自由市民らにみいだされた理性的動物なりの最良の技術であったことを現代の社交人は、会話の趣深さのなかにもみいだす。話の面白み、とは哲学やら考えのあまねさという遊び心の浸透による。退屈する場合、かれの教養には多趣味さや品性が不足するのである。
趣、を思想哲学の最高段階に置く事の意義は、それが冗長さや長たらしい詭弁を排し最短の一語で粋を穿つ、という詩的押韻の心髄にあるといえる。ゆえに、心に染み渡る詩の一語ずつには、現実に達辞できる最高度の洗練を施した趣味観がみいだされるだろう。我々が脱構築の潮流にみつけだす境遇は又、詩的感覚への鋭い分析力という趣味論の内部でのみ最高の段階を達する。法文解釈へとデリダがこの作為を応用しようとしたことは、長期の眼でみとおせば過ちであり、ユダヤ教の教義をキリスト教文化圏へと落し込もうとした一種の文脈改変でもあり、それが宗教と法政の混同という古代文明の名残にすぎぬかぎりはまたフランス文化の品性荒廃を及ぼすばかりだろう。
法文原理主義への批判や可塑解釈啓蒙の意図は、法三章の現実論が心理の側にある、という道徳学説の改悪を含む。かりそめにも国政の本懐はからかいや揚げ足取りの解釈を差し挟む余地さえあるまじき、真剣で、誠心な忠節への意志である。公共倫理の実現は解釈論にあるのではない。むしろ心の側に、即ち道徳の押韻という法文へ込めた徹底した信念の元にある。独善本来の意味は、善意の純真さを己の反省の中で絶対化することである。こうして、法文脈を最もよく実践する者は又、解釈論にではなく達辞論の側に立ち、筌蹄した道徳律へのあてはめという法律本来の克己復礼の定義へと自律精神を奉仕する筈だ。だから、もし法文そのものが語句の簡略化をどれほど加えようとまだしも、到達されたいずれ文字面でなく、それを解釈する主観心の問題である精神論は幾世代もの新陳代謝にも関わらず決して失われないだろう。
今日法律を定める者は以上の論旨を十分に理解されると良いでしょう。未来の世代は我々よりはるかに崇高な知的段階を当然達する故に、悪法と良法の差はそこに込められ復古された聖人の深慮にこそあるので。デリダの論法は述べて作らず、信じて古を好むと云った東洋の哲人の遥かに格下であることは以上からも明らか。只、その解釈界への扶養の努力は、宗教原理主義の頑固者共を詩的多義性への趣味論の範疇でより和らげられるにすぎない。
2009年12月28日
品性の定義
この社会で最も主要な命題が如何にして最大多数へ幸福を浸透させるかにあると仮定すれば、幸福の多様さはそれ自体が目的ではありえない。最高の幸福という質的功利性はなぜ社会が複数かつ無限の適所をもつべきかにも十分な注解を加える。社会が様々な個性を要請する訳はそれが協業の際にできるだけ細部を専門化したいからだ。もしこの専門さがいらないなら誰も、個性を卓越させたがる動機づけをもたないだろう。
これらは、最高の幸福なる命題が品的にしか定義できないこと、即ち組織か群れの共通にもつ目的感覚によると教える。もし社会の目的感覚を系の快適と定義すれば、カント的芸術論の快適の定義より軽くイギリス功利主義より重い意味でこの快適性、つまり会社あるいは結社のたくみさが推しても現実で到達できる最高の品的幸福なのだ。専門化自体は目的視できない。寧ろ細部の完成度を決めるのは組織相互のやりとりであり連絡や関連だといえる。だから専門化は効率の為で目的感覚や理由ではない。即ち、趣味の目でみれば結社の良さの方が理にかなう。もし最高の結社をみれば、そのしくみは最大多数に個性の適所をあたえるものだろうし、なおかつ上述の快適さを最大におしひろげたものだろう。趣味のよい社会が現実で最ものぞみやすい多様さの限度および彼らの個性を働かせるのに向いている意味とは、ここにある。そしてその現れ方は品性と云われる。
これらは、最高の幸福なる命題が品的にしか定義できないこと、即ち組織か群れの共通にもつ目的感覚によると教える。もし社会の目的感覚を系の快適と定義すれば、カント的芸術論の快適の定義より軽くイギリス功利主義より重い意味でこの快適性、つまり会社あるいは結社のたくみさが推しても現実で到達できる最高の品的幸福なのだ。専門化自体は目的視できない。寧ろ細部の完成度を決めるのは組織相互のやりとりであり連絡や関連だといえる。だから専門化は効率の為で目的感覚や理由ではない。即ち、趣味の目でみれば結社の良さの方が理にかなう。もし最高の結社をみれば、そのしくみは最大多数に個性の適所をあたえるものだろうし、なおかつ上述の快適さを最大におしひろげたものだろう。趣味のよい社会が現実で最ものぞみやすい多様さの限度および彼らの個性を働かせるのに向いている意味とは、ここにある。そしてその現れ方は品性と云われる。
公営計算機論
高速計算機自体が無用なのではないのは明らかだが、問題はその「使い道」にある。どれだけ磨いた刀でも乱剣にかかれば致命傷となる。
高速計算機の価格を機能にくらべて割安にする最善のしかたは、いわゆる一般競争入札の方式をとることだろう。こうすれば、研究所ふくむ各社の潜在開発能力をひきあげる効果すらある。
(より詳細には、分割した各部の最適化をプランニングしておいて、この枠組みを最安値でつくれるメーカーをくみあげるとはやい。1メーカーの寡占ではおそらく全体を賄う費用負担によって時間の面でムダがでそうだ。
それは一括委託だと予想外に細分化が進まない、日本的な下請け体制の連結ロスにつながる。つまり職人の真の実力やつかいみちをしっているのは実務に携わる棟梁の側であっておおやけの経営者ではない。
だから直近の利益や株価の上下動にしか知識のないこの大企業のおもてだった経営陣ではなくて、専門官僚を使う発注者の綿密な計画にもとづいて「棟梁の実務能力」を抜擢する様にすればアーキテクチャはより効率化する。これが『分割発注の合理性』である)
対して、今日の段階では、米とのすみわけの方が国際的評判にもまた安全保障にすらより親しいみちらしいのだから、普通の政府開発(おもに国防用の)とはちがって、その用途を特別の計算局で管理させることは有用だと思われる。
具体的にいうと、能力が不足した国立大学の低予算コンピューターを補う用途を、なんらかの透明度の高い公募によって開いておけばいい、と考えおくのが妥当だ。
いいかえれば非常に高純度のデータベース化が必需となる天文学や気象学の計算を、防衛関係の偵察用途が空いている間に走らせておく。この「公営スーパーコンピューター転用のいとま」を事前に考慮できる規模としてある程度充足するとおそらく、か確かに日本のシミュレーション系基礎科学の実証主義の発展は、遥か米の高国防費負担状況時より高速化できる。そしてかくの結果は、将来像について日本の宇宙展開をいずれどこよりも容易にする。
高速計算機の価格を機能にくらべて割安にする最善のしかたは、いわゆる一般競争入札の方式をとることだろう。こうすれば、研究所ふくむ各社の潜在開発能力をひきあげる効果すらある。
(より詳細には、分割した各部の最適化をプランニングしておいて、この枠組みを最安値でつくれるメーカーをくみあげるとはやい。1メーカーの寡占ではおそらく全体を賄う費用負担によって時間の面でムダがでそうだ。
それは一括委託だと予想外に細分化が進まない、日本的な下請け体制の連結ロスにつながる。つまり職人の真の実力やつかいみちをしっているのは実務に携わる棟梁の側であっておおやけの経営者ではない。
だから直近の利益や株価の上下動にしか知識のないこの大企業のおもてだった経営陣ではなくて、専門官僚を使う発注者の綿密な計画にもとづいて「棟梁の実務能力」を抜擢する様にすればアーキテクチャはより効率化する。これが『分割発注の合理性』である)
対して、今日の段階では、米とのすみわけの方が国際的評判にもまた安全保障にすらより親しいみちらしいのだから、普通の政府開発(おもに国防用の)とはちがって、その用途を特別の計算局で管理させることは有用だと思われる。
具体的にいうと、能力が不足した国立大学の低予算コンピューターを補う用途を、なんらかの透明度の高い公募によって開いておけばいい、と考えおくのが妥当だ。
いいかえれば非常に高純度のデータベース化が必需となる天文学や気象学の計算を、防衛関係の偵察用途が空いている間に走らせておく。この「公営スーパーコンピューター転用のいとま」を事前に考慮できる規模としてある程度充足するとおそらく、か確かに日本のシミュレーション系基礎科学の実証主義の発展は、遥か米の高国防費負担状況時より高速化できる。そしてかくの結果は、将来像について日本の宇宙展開をいずれどこよりも容易にする。
ばけもの
どうせ頑張ってもホリエモンみたく
つぶすだけさそれが
万物の精霊唯一絶対の独裁者
ばけものが
お前しか偉くないのかこの宇宙で
なにを根拠に高が僻地の
ヤンキー支配をこの島の
全体に適用しようとしたのお坊ちゃん風
ばけものが
気が狂った軍人とお間抜けな的屋
どっちかしかお前を好むものはない
バケモノが
化け物は搾取の為に生きていて
頑張るほど金を吸い取る
そして金さえ失えばあっという間に死ぬ
まるで肥え太った金づるの様に
消えろよおまえが悪魔の親玉だ
つぶすだけさそれが
万物の精霊唯一絶対の独裁者
ばけものが
お前しか偉くないのかこの宇宙で
なにを根拠に高が僻地の
ヤンキー支配をこの島の
全体に適用しようとしたのお坊ちゃん風
ばけものが
気が狂った軍人とお間抜けな的屋
どっちかしかお前を好むものはない
バケモノが
化け物は搾取の為に生きていて
頑張るほど金を吸い取る
そして金さえ失えばあっという間に死ぬ
まるで肥え太った金づるの様に
消えろよおまえが悪魔の親玉だ
アオゾラ
お月様の上に幾多もの星屑がふるぞ
うらゝかな休みの上にまばゆい流星がふる
旅する夜の前にはまちうける木の実が
木苺のざわめきが積み上げた稲穂が
鈴蘭を鳴らし数え切れない月夜を回す
あなたは携帯の待ちうけにしずやかに
つる/\とした流し素麺が流れ込むのと
真夏日に杉林の奥で
茶店の赤茣蓙へ運ばれてきた
なんの曇りもない真っ透明な葛切りが
おゝぞらのさなかへとけだしたのを
やがてはすべての水色と共に見る
至って古風な何の取り柄もない穏やかな
古川のほとりに咲くアオゾラソウであれ
ハコバであれダイコンの花であれどこも
既に神の手の中で十分に考え込まれた
決して二つともない永遠に一つだけの夢
勿忘草が闘うのかさえも
誰も知りはしないとして
うらゝかな休みの上にまばゆい流星がふる
旅する夜の前にはまちうける木の実が
木苺のざわめきが積み上げた稲穂が
鈴蘭を鳴らし数え切れない月夜を回す
あなたは携帯の待ちうけにしずやかに
つる/\とした流し素麺が流れ込むのと
真夏日に杉林の奥で
茶店の赤茣蓙へ運ばれてきた
なんの曇りもない真っ透明な葛切りが
おゝぞらのさなかへとけだしたのを
やがてはすべての水色と共に見る
至って古風な何の取り柄もない穏やかな
古川のほとりに咲くアオゾラソウであれ
ハコバであれダイコンの花であれどこも
既に神の手の中で十分に考え込まれた
決して二つともない永遠に一つだけの夢
勿忘草が闘うのかさえも
誰も知りはしないとして
庭園の達辞
現実の有様はかなりの複雑さをみせるので、もし社会が幸福の型をいくつも用意して彼らの思想の鋳型を自由に反してでも繕ってやらねばおそらく社会活動の定義を生涯の内に納得すらしづらい。それは理性的に思考する習慣のない動物さながらである。現実は社会という系の中で営まれ、しかもその在り方は可変で一様でない。現実という経験は幸福の定義を個々人に考えさせるほど十分に寿 いとは限らない。社会が自由権の即時定義としての幸福の追求を許容したとしても、もしいくつかの型すらなくせばその解放は実に無際限の夥しい多様さを人間に付せるに留まる。これらの保証する所では、性格の自由は、自律という概念を著しい数や隙に及ぶ世界の自然なうつろいを自らが決めた厳しい世界観への適合の程に集積する原料であると。この自律精神の華が咲き誇る場所でのみ、社会が寛容やら優しさを幸福への趣味観の元に結晶化できる。
社会系で最も価値のある華は自律精神のそれである。この道理をいえば、分業の最大の合理化や可塑化とか粘土化は宇宙系の中で我々の文明がどの位置を占めるかにも密接に関連する。自律自体が斯くある如く、性格の多様さは実際には、現実社会の現象や象限で考えるだけなぜ自律の高さは構築論の下にある無数の有象無象を保証しているのか、つまり個性のごく複雑な出方はどうして社会性というその協力の意味を説明づけるのかに満足できる裏付けを与える。これは社会が個性の快適さの重なりであろうとし続ける間、個々人の間の幸福追求をいかに折衝していくかに光明を照らす観点へと思考を誘なう。現実論が教える所では、快適さの水準や基準というものは、社会性を福祉という多数の助け合いと矛盾しないかぎりで合目的だというのである。つまり、最大の快適さは端迷惑でない個性の趣味観を満足せしめる所にある。
知性を唯一の不動の能力だと論証した者を私は無知にして知らないが、理性についてそうした者はいくらもある。だが古代では理知の境は明白でなかったことだから、本質からすると趣味観の複雑さとはありうる知的変異への想像できる最大の非干渉則に法る。知性がつねに進歩した生態を形作ると仮定すれば、理知の混同はさておき、最高の幸福という品性の目安は多数の快適さを上述の自律精神間の功利主義として追求せしむる勢いに基づく。だからすぐれた選種誘因が斯くある如くに、社会性の合目的さとは知的変異への注意深い、且つ思慮を凝らした剪定と撰良の篭絡乃至調略下にある。
哲学不要論は結局、この観点、即ち品種の選抜を無視した知的生産性の結果なのだ。結末を見通せば、些か残念な事だが、趣味観の完成度が十分でない社会集団からは著しく不稔という意味で下種か奇種しか生じえない。この理由は、主体価値や価格という主観の学位(この学位とは格の程度に限っては必ずしも現世的な保証がある概念ではないが。小乗と大乗の説を鑑みよ)が前提とならねばどの変異も見逃されるか他の取るに足りない変種との不可避の混同で特徴の減衰を余儀なくするからだ。達辞は原則として、かれが把握している諸生の構想論に幾らかの猶予を設けたいわば庭づくりのありさまに酷似している。勝れた庭はこういう道理で、只に達人のわざ。
社会系で最も価値のある華は自律精神のそれである。この道理をいえば、分業の最大の合理化や可塑化とか粘土化は宇宙系の中で我々の文明がどの位置を占めるかにも密接に関連する。自律自体が斯くある如く、性格の多様さは実際には、現実社会の現象や象限で考えるだけなぜ自律の高さは構築論の下にある無数の有象無象を保証しているのか、つまり個性のごく複雑な出方はどうして社会性というその協力の意味を説明づけるのかに満足できる裏付けを与える。これは社会が個性の快適さの重なりであろうとし続ける間、個々人の間の幸福追求をいかに折衝していくかに光明を照らす観点へと思考を誘なう。現実論が教える所では、快適さの水準や基準というものは、社会性を福祉という多数の助け合いと矛盾しないかぎりで合目的だというのである。つまり、最大の快適さは端迷惑でない個性の趣味観を満足せしめる所にある。
知性を唯一の不動の能力だと論証した者を私は無知にして知らないが、理性についてそうした者はいくらもある。だが古代では理知の境は明白でなかったことだから、本質からすると趣味観の複雑さとはありうる知的変異への想像できる最大の非干渉則に法る。知性がつねに進歩した生態を形作ると仮定すれば、理知の混同はさておき、最高の幸福という品性の目安は多数の快適さを上述の自律精神間の功利主義として追求せしむる勢いに基づく。だからすぐれた選種誘因が斯くある如くに、社会性の合目的さとは知的変異への注意深い、且つ思慮を凝らした剪定と撰良の篭絡乃至調略下にある。
哲学不要論は結局、この観点、即ち品種の選抜を無視した知的生産性の結果なのだ。結末を見通せば、些か残念な事だが、趣味観の完成度が十分でない社会集団からは著しく不稔という意味で下種か奇種しか生じえない。この理由は、主体価値や価格という主観の学位(この学位とは格の程度に限っては必ずしも現世的な保証がある概念ではないが。小乗と大乗の説を鑑みよ)が前提とならねばどの変異も見逃されるか他の取るに足りない変種との不可避の混同で特徴の減衰を余儀なくするからだ。達辞は原則として、かれが把握している諸生の構想論に幾らかの猶予を設けたいわば庭づくりのありさまに酷似している。勝れた庭はこういう道理で、只に達人のわざ。
2009年12月26日
生物学
植物戦略は次の三つにまとまる。
1. 撹乱適応型: ruderals
2. 抑圧適応型: stress tolerator
3. 競争適応型: competitor
それぞれの特徴はつぎの様に分類できる。
撹乱適応型は増殖に強く、競合に弱い。例、雑草等。
抑圧適応型は安定に強く、過酷に弱い。例、大木等。
競争適応型は進化に強く、数量に弱い。例、高山植物等。
よって、撹乱適応型は変化場に、抑圧適応型は耐久場に、競争適応型は繁茂場に進出していく。
且つ、これらの戦略間には次の遷移の規則がみいだされる。先ずある適所で植物は撹乱適応型の形質を身につけ量化する。次にその一系統は特定の安定場で極相化し、多くの生態部位を固定していき祖先種とは容易に交配できない完成された品種をつくる。最後に、この特定品種の変異中から全く新しい適所へ偶然進出するものの内、その適応放散現象後の定着に成功した一部の種によって全く新規な形質、つまり植物的進化を生じる。
これらには順に、量化遷移、品種化遷移、進化遷移と名付けられる。
1. 撹乱適応型: ruderals
2. 抑圧適応型: stress tolerator
3. 競争適応型: competitor
それぞれの特徴はつぎの様に分類できる。
撹乱適応型は増殖に強く、競合に弱い。例、雑草等。
抑圧適応型は安定に強く、過酷に弱い。例、大木等。
競争適応型は進化に強く、数量に弱い。例、高山植物等。
よって、撹乱適応型は変化場に、抑圧適応型は耐久場に、競争適応型は繁茂場に進出していく。
且つ、これらの戦略間には次の遷移の規則がみいだされる。先ずある適所で植物は撹乱適応型の形質を身につけ量化する。次にその一系統は特定の安定場で極相化し、多くの生態部位を固定していき祖先種とは容易に交配できない完成された品種をつくる。最後に、この特定品種の変異中から全く新しい適所へ偶然進出するものの内、その適応放散現象後の定着に成功した一部の種によって全く新規な形質、つまり植物的進化を生じる。
これらには順に、量化遷移、品種化遷移、進化遷移と名付けられる。
社会進化論の本質
上智と下愚とは移らず、即ち集団内に知愚の偏りがあるのは不動だとして、もし可能なら我々が測れるのはこの間にある無数の、又はごく微分な違いだけだ。ゆえ知愚の幅とは別に集団の知識量は、自体が教育とよばれる、あるクラスの属性をつくりだす働きの結果といえる。
進化の法則と似て、汎知識化や高度な知的達成自体がこの生態を保存するのではない。言語学の内、主要な民族母系がある場合国語ともいう各民族語の推移の規則がそうであるのと均しく、単なる進化そのものが即生存の保証なのでは無論ない。しかし又、我々が生物界に分解者として観るかなり低次元の生態に留まった個体群、こういうものも業の結末としては確実に生じる。すると、社会進化論の本質は実は進歩史観にあるのではなく、成功する群を見分けること、もっといえば各集団間の成長株をつかまえる目算にある。結局、集団の知識量とはそれが用いる趣味観の程のために正しい進路をえらびとる方法である。だから知識や真理というその権威化を目的視する試みは危うい。
社会では、高い知識を理解できる閑人がつねに限られるだろうから、というのもそこには上述のかたよりがなければならないからだが、真理の訳は集団内での最善の判断の例示、つまり進路の趣で極まる。とすれば、科学とよばれている諸種の分野の考究とはみな、進路の趣を悟る為の道具か理由なのだろう。集団の知識量は、結局最後に繁栄と没落の業を社会や生態系秩序の中で魅せるにすぎない。そして進路としての産業構造は、教養の高い群をそうでもない群から進歩させ、彼らを選種化する機能であるのだろう。
進化の法則と似て、汎知識化や高度な知的達成自体がこの生態を保存するのではない。言語学の内、主要な民族母系がある場合国語ともいう各民族語の推移の規則がそうであるのと均しく、単なる進化そのものが即生存の保証なのでは無論ない。しかし又、我々が生物界に分解者として観るかなり低次元の生態に留まった個体群、こういうものも業の結末としては確実に生じる。すると、社会進化論の本質は実は進歩史観にあるのではなく、成功する群を見分けること、もっといえば各集団間の成長株をつかまえる目算にある。結局、集団の知識量とはそれが用いる趣味観の程のために正しい進路をえらびとる方法である。だから知識や真理というその権威化を目的視する試みは危うい。
社会では、高い知識を理解できる閑人がつねに限られるだろうから、というのもそこには上述のかたよりがなければならないからだが、真理の訳は集団内での最善の判断の例示、つまり進路の趣で極まる。とすれば、科学とよばれている諸種の分野の考究とはみな、進路の趣を悟る為の道具か理由なのだろう。集団の知識量は、結局最後に繁栄と没落の業を社会や生態系秩序の中で魅せるにすぎない。そして進路としての産業構造は、教養の高い群をそうでもない群から進歩させ、彼らを選種化する機能であるのだろう。
2009年12月24日
自業自得と理想段階
人類がなにを幸福と念うかに千差万別の偏りがある訳は恐らく彼らの趣味による。だから悪趣味な人民族であればあるほど我々はこれらの生命体を嫌悪感で遇する。どちらかといえば幸福の理論は主観というより、単に美意識的である。もっといえば倫理観の芸術論的側面に他ならない。
私は幸福を論ずることを望ましい仕事だと覚えない。それはアリストテレスの独善も、またカントの信念もどちらもすでに経過した時代背景では、幸福論が上記の趣味観の違いを相当の幅で社会化してしまえること、さらには幸福自体を分析か分解できる生態地位か知的段階にいるのを自覚したからでもある。単純にいって、幸福はひとそれぞれだし生得した個性の限りは少しも動かせない。啓蒙も啓発に劣るほど、社会の多様さはどこもそれを階級論をこえてただの自由主義か勝手主義でゆるすにすぎない。最高の幸福や最高の趣味が定義できるなら、それはアリストテレスの曰る卓越さ、つまりやはり個性の発揮にもどる。個性間の質的高下はもし学識の程度、即ち教養量の段階だとふまえれば、世にはなるほど高尚な人物とそうでない者がいるだけだ。即ちもし高尚さを人格の目的と考えれば、単に、世界にはより学識の高い趣味人とそうでない者がいるだけで彼らの幸福度は、彼らの生態に適した活動の最適さというには他ならない。これらを理解する人物は、こう考えるかもしれない。
どうして最高の人格者も必ずしも人間であるのか、もし彼らがのぞめば世界とはもっと高尚な天界でいいのではないかと。要するに、社会はどうしてこれほど愚劣で醜悪なのかと。種々雑多で低俗な人物がつぎつぎ湧いてでるしくみのわけは恐らくも、末おそろしい終末論へいたりはしないかと。
ライプニッツという楽観論者の悟った世界の合目的性とはそれらの悪が、自業自得の道化であるといういわば自己浄化作用を自然界ふくむ人間業へあてたはてのものだ。私に言えるのは、社会淘汰の加速はみな善意だということだけだ。それを智恵と呼んでもいい。邪悪で卑小な生命体、かれを俗物と呼べばいいが、こういう生態を少しも擁護すべきでないし単に侮蔑で遇すればよいことだ。それで日々世界は直ぐにもより良くなる。「小子、鼓を鳴らしてこれを責めて可なり」と『論語』にある。哲学が善意であるのは、かれの学識をより広汎へ理解しやすくまとめる一貫した論述の才能を、上述の社会淘汰のうまくこまかな説明へ応用できるからだ。こういう道理で、学者兼教師という役をになった嘗ての哲学者らが観想あるいは理想を最高幸福なりと教えたことは、苟にも彼らなりの卓越した個性を自己分析すれば真理だったのだ。しかし、現代にいて、すくなくとも自覚したがる資本分業制をはかる我々には哲学的生活を唯一の理想だとは思いえず、その程度がみえるにすぎない。だから学者の中にも無限の階級がある様に、文明社会にあっても優劣やら雌雄の別はまた限りがない。だが、ジーザスが主張した様に、世界の最高権威にとってはそのどの存在も必然でありあまねく慈しみたまわれるだろうし、仏陀が諭した様に彼ら生物は支え合っておりしかも業の侭になるだろう。
私は幸福を論ずることを望ましい仕事だと覚えない。それはアリストテレスの独善も、またカントの信念もどちらもすでに経過した時代背景では、幸福論が上記の趣味観の違いを相当の幅で社会化してしまえること、さらには幸福自体を分析か分解できる生態地位か知的段階にいるのを自覚したからでもある。単純にいって、幸福はひとそれぞれだし生得した個性の限りは少しも動かせない。啓蒙も啓発に劣るほど、社会の多様さはどこもそれを階級論をこえてただの自由主義か勝手主義でゆるすにすぎない。最高の幸福や最高の趣味が定義できるなら、それはアリストテレスの曰る卓越さ、つまりやはり個性の発揮にもどる。個性間の質的高下はもし学識の程度、即ち教養量の段階だとふまえれば、世にはなるほど高尚な人物とそうでない者がいるだけだ。即ちもし高尚さを人格の目的と考えれば、単に、世界にはより学識の高い趣味人とそうでない者がいるだけで彼らの幸福度は、彼らの生態に適した活動の最適さというには他ならない。これらを理解する人物は、こう考えるかもしれない。
どうして最高の人格者も必ずしも人間であるのか、もし彼らがのぞめば世界とはもっと高尚な天界でいいのではないかと。要するに、社会はどうしてこれほど愚劣で醜悪なのかと。種々雑多で低俗な人物がつぎつぎ湧いてでるしくみのわけは恐らくも、末おそろしい終末論へいたりはしないかと。
ライプニッツという楽観論者の悟った世界の合目的性とはそれらの悪が、自業自得の道化であるといういわば自己浄化作用を自然界ふくむ人間業へあてたはてのものだ。私に言えるのは、社会淘汰の加速はみな善意だということだけだ。それを智恵と呼んでもいい。邪悪で卑小な生命体、かれを俗物と呼べばいいが、こういう生態を少しも擁護すべきでないし単に侮蔑で遇すればよいことだ。それで日々世界は直ぐにもより良くなる。「小子、鼓を鳴らしてこれを責めて可なり」と『論語』にある。哲学が善意であるのは、かれの学識をより広汎へ理解しやすくまとめる一貫した論述の才能を、上述の社会淘汰のうまくこまかな説明へ応用できるからだ。こういう道理で、学者兼教師という役をになった嘗ての哲学者らが観想あるいは理想を最高幸福なりと教えたことは、苟にも彼らなりの卓越した個性を自己分析すれば真理だったのだ。しかし、現代にいて、すくなくとも自覚したがる資本分業制をはかる我々には哲学的生活を唯一の理想だとは思いえず、その程度がみえるにすぎない。だから学者の中にも無限の階級がある様に、文明社会にあっても優劣やら雌雄の別はまた限りがない。だが、ジーザスが主張した様に、世界の最高権威にとってはそのどの存在も必然でありあまねく慈しみたまわれるだろうし、仏陀が諭した様に彼ら生物は支え合っておりしかも業の侭になるだろう。
2009年12月23日
趣味の分析
だれもいないところでは誰もそれを理解しない。だから世界に理解がある、とは知的生態のあるという間接の権力であり、理解できないもの、或いはものごとを理解するべき知的背景に不足がある人物はかれが無知であることをひとでなしさで補うにすぎない。ひとでなしという言葉がひとを知的と仮定したところになりたつだけの限定語なら、理解しえない対象がある間はその人格は知的に不十分なのであり、また全人的でない。我々が真っ先にみいだすのは、有限の生涯時間の中で知性が達しえる十分さとはかれの理性が自己を満足せしめる程度である、なる分限の道理だ。良い意味での知的な貪欲さはこの理性の度合いに依存する。だから学ぶべき理由をみつける才能として、かの構想力なるものを定義できる。
法文化をふくむ解析操作の解釈界をかたちづくる方法論は分析哲学とよばれてきた。が、この解釈界への詳細化なる理論への考究態度は、自明でないばかりかひとえに主観的である。哲学自体の翻訳や定義の鞍替えはおよそ無際限なばかりかどれも方法論の命題であり、そこに起こりうるのは言文間の分解率ばかりだ。だがこの分解率はそれ自体としても決して不動でない。
もしこの宇宙に於ける最高の権威と雖も解釈界をこえての考究はなしえない。なぜなら冒頭の如く、理解はかれの理性のほどにより、しかもそれはいってみれば言文間差延のよりどころを自らのなしうる学習の目的観へあてはめてみたものにすぎないから。我々が全考究のもっともあとにみいだすのは、結果からするとこの学習の目的観というべき態度、いいかえれば処世術への悟りのほどとでもいうべき観点こそすべての人生内での学習の最終成果としての真実である、といういわば結論だ。なおかつ、人生の結論とはもっとも円熟した人生観であり、それは智恵の誉れを宛がわれるにふさわしい最高の学識に適切なのだろう。簡略にいえば学習のよくない人格の人生観は慮りに浅いばかりか殆どだれからもかるく笑われるか、透かして省みられないだけの漸くつまらないものだろう。面白味をみいだす能力、嗜みとは最高の円熟に達した趣味人に於いてこそ完成する。
とすると、初手にかえって人間がなぜ学ぶか、なぜ社会も入る自然界の様々な現象や成り立ちに教えを請う又はおのれの数理能力を当て嵌めるかといえば、それはより詳細まで世界の構造や成分、力学を広くも深くも理解し、理由を自らの理性の中へ結晶させる内に世界なる非我の有様をより味わい深く念うためなのだ。ところでそういう次元には無いにひとしいが、全能の博識者はおそらくこの趣味の度合いを我々よりはるかに高く保っているだろうから、神々しい趣味観を我々よりはるかに多く有しているだろう。分解能自体を考えるに、言文の密度は多分この趣味観の社会生物版の基となるのだろう。ゆえ分析哲学の成果のすべては、結局言文の密度を以前にもまして複合化できることになる。
法文化をふくむ解析操作の解釈界をかたちづくる方法論は分析哲学とよばれてきた。が、この解釈界への詳細化なる理論への考究態度は、自明でないばかりかひとえに主観的である。哲学自体の翻訳や定義の鞍替えはおよそ無際限なばかりかどれも方法論の命題であり、そこに起こりうるのは言文間の分解率ばかりだ。だがこの分解率はそれ自体としても決して不動でない。
もしこの宇宙に於ける最高の権威と雖も解釈界をこえての考究はなしえない。なぜなら冒頭の如く、理解はかれの理性のほどにより、しかもそれはいってみれば言文間差延のよりどころを自らのなしうる学習の目的観へあてはめてみたものにすぎないから。我々が全考究のもっともあとにみいだすのは、結果からするとこの学習の目的観というべき態度、いいかえれば処世術への悟りのほどとでもいうべき観点こそすべての人生内での学習の最終成果としての真実である、といういわば結論だ。なおかつ、人生の結論とはもっとも円熟した人生観であり、それは智恵の誉れを宛がわれるにふさわしい最高の学識に適切なのだろう。簡略にいえば学習のよくない人格の人生観は慮りに浅いばかりか殆どだれからもかるく笑われるか、透かして省みられないだけの漸くつまらないものだろう。面白味をみいだす能力、嗜みとは最高の円熟に達した趣味人に於いてこそ完成する。
とすると、初手にかえって人間がなぜ学ぶか、なぜ社会も入る自然界の様々な現象や成り立ちに教えを請う又はおのれの数理能力を当て嵌めるかといえば、それはより詳細まで世界の構造や成分、力学を広くも深くも理解し、理由を自らの理性の中へ結晶させる内に世界なる非我の有様をより味わい深く念うためなのだ。ところでそういう次元には無いにひとしいが、全能の博識者はおそらくこの趣味の度合いを我々よりはるかに高く保っているだろうから、神々しい趣味観を我々よりはるかに多く有しているだろう。分解能自体を考えるに、言文の密度は多分この趣味観の社会生物版の基となるのだろう。ゆえ分析哲学の成果のすべては、結局言文の密度を以前にもまして複合化できることになる。
湯沸かし
何事もなくと念えば恙無く夜のおとどの知りぬ八千代の篝月は
雪ふるはそれが楽しみならずとも探るまに/\よのひとちりぬる
うずつもりいつのまにやら風のまにそらへとかえりし落ち葉よぞ
午後ひとつお皿に盛りしチョコドーナツちょこんとのりて湯沸かしを待つ
海からのこえなき声はいたずらに空もわなゝく東雲のかずらに
雪ふるはそれが楽しみならずとも探るまに/\よのひとちりぬる
うずつもりいつのまにやら風のまにそらへとかえりし落ち葉よぞ
午後ひとつお皿に盛りしチョコドーナツちょこんとのりて湯沸かしを待つ
海からのこえなき声はいたずらに空もわなゝく東雲のかずらに
2009年12月22日
2009年12月21日
ザラメ
おそらに生えた入道雲みたいな
わたあめのケーキをきみにあげよう
すでに通りすぎてきたほとんどの
いまはまるで
ちょっとの間のザラメの煮立ちでした
夜おそくに吠える
わずかな遠吠えのあかしは
それが古代においてきた
野生の習性だったので
すべてが消え去るまでは
こうして霞でも食べておく方が
ずっとスマートなのだ
広がりつづける宇宙のどこかで
やはりおなじ仕事をしている
仙人級のまれびとをきみは
わたあめ製造機のとなりに見る
わたあめのケーキをきみにあげよう
すでに通りすぎてきたほとんどの
いまはまるで
ちょっとの間のザラメの煮立ちでした
夜おそくに吠える
わずかな遠吠えのあかしは
それが古代においてきた
野生の習性だったので
すべてが消え去るまでは
こうして霞でも食べておく方が
ずっとスマートなのだ
広がりつづける宇宙のどこかで
やはりおなじ仕事をしている
仙人級のまれびとをきみは
わたあめ製造機のとなりに見る
2009年12月19日
天体経済学
宇宙の構造は外側の文明系ほど高速度で発展することを明らかにしており、従ってこの文明がもし中間的な存在なら、つまり天の川銀河系が宇宙系の内でも中間帯に近いなら近いほどそこでより遠くまで栄え得るのは工業である。
そしてこの天体の宿命と仕事は、周縁部の極めて優れて知性化した一部の文明から高い数理集約型の原材料を輸入し、これを惑星内かその周囲の工場で加工しくみたててから、より生態密度の高く遅れた発展しかなしえない中心文明圏へ輸出貿易をはかることだ。
これらの原則は、星内の秩序がどの文明圏に属するかによってその惑星経営の観点をきりかえるべき、臨機応変の視点を要請している。つまり属する惑星が周縁部にあればいずれ貿易の自然によってその殆どの知的活動は集約した数理発明へと集積し、他の産業は星外へと外注する方が合理的となる。なぜならその光速度比が中心圏の過疎的な文化よりも素早い展開を可能とするのだから。逆に、もしもその惑星が中心圏に属するほど遅延していく運命なら、いずれ輸入された完成製品の売り買いによってしか周縁圏と同等以上に繁栄した、か高度に技術化した生活は営めないだろう。そして中心に属した彼らが交換に与えるのは、きわめて鈍い働きと同時にいくつかの古代大文明圏によるふるきよき伝統工芸品という代価だろう。
そしてこの天体の宿命と仕事は、周縁部の極めて優れて知性化した一部の文明から高い数理集約型の原材料を輸入し、これを惑星内かその周囲の工場で加工しくみたててから、より生態密度の高く遅れた発展しかなしえない中心文明圏へ輸出貿易をはかることだ。
これらの原則は、星内の秩序がどの文明圏に属するかによってその惑星経営の観点をきりかえるべき、臨機応変の視点を要請している。つまり属する惑星が周縁部にあればいずれ貿易の自然によってその殆どの知的活動は集約した数理発明へと集積し、他の産業は星外へと外注する方が合理的となる。なぜならその光速度比が中心圏の過疎的な文化よりも素早い展開を可能とするのだから。逆に、もしもその惑星が中心圏に属するほど遅延していく運命なら、いずれ輸入された完成製品の売り買いによってしか周縁圏と同等以上に繁栄した、か高度に技術化した生活は営めないだろう。そして中心に属した彼らが交換に与えるのは、きわめて鈍い働きと同時にいくつかの古代大文明圏によるふるきよき伝統工芸品という代価だろう。
ブランド・ロイヤリティ
淀んだ大気の僅かな隙間に僕は居る
もし大宇宙の隈なく探ってみても
見つけられる筈がない隙間だなぜなら
そこは只の空冷エンジンの機能をもたない
小さな小さな無用の空間なのだ
だがムダを排するべく君達
カイゼン・マニアは血眼になって
余計な人間を排除したがる
すでに破り棄てられた
幾多もの詩人の手記を丁寧に
拾い集めてみてもそれは
いうまでもなく一円の得でもない
勝てなきゃ話にならんじゃろが
君の目の前にいる上司はすぐにでも
この隙間を潰したがっている何しろ
それが彼式のブランド・ロイヤリティなのだから
もし大宇宙の隈なく探ってみても
見つけられる筈がない隙間だなぜなら
そこは只の空冷エンジンの機能をもたない
小さな小さな無用の空間なのだ
だがムダを排するべく君達
カイゼン・マニアは血眼になって
余計な人間を排除したがる
すでに破り棄てられた
幾多もの詩人の手記を丁寧に
拾い集めてみてもそれは
いうまでもなく一円の得でもない
勝てなきゃ話にならんじゃろが
君の目の前にいる上司はすぐにでも
この隙間を潰したがっている何しろ
それが彼式のブランド・ロイヤリティなのだから
2009年12月18日
2009年12月17日
形而上学の現代版定義
鬼神を語らず、及び語りえないことについては云々とは同じことを言い換えていると思われる。これらの文面が語る所では、「敬遠」の論語の意味は正当な形而上学の棚上げであって、実証されざる問題は多かれ少なかれ仮説の姿でしか提出できない、という哲学探究の側面を簡潔に言い伝える意図がある様だ。
我々が社会の、又は人間の問題を考えるに当たっては是非、形而上学の諸問題は敬遠されねばならぬのが明らかだ。これは、某時点での自然科学体系が教えられない内容は推測に留まる他ないところからも、無益すぎる議論が延々とくりかえされるのを確かめられない世界の棚上げで防止する為。故に、おもにケンブリッジ大学の宇宙物理学派が、仮定すればより多様な世界モデルが提出できる、という論証主義の範畴に入るだろう内容で語る時空間四次元以上の余った次元については深入りせず、今のところ敬遠しておく方がいいと分かる。もしこれが実証段階に入れば、つまり観測という手立てでなにかきっかけでもつかめればそうでもなくなるだろうが。つまるところ、それらの論証主義科学とは、いわば数学モデルの多様化の為だけに使うべきもので、観測技術の進展によって確かな実験結果が出るまでは真理とみなすべきでない。同様に、単なる形而上学的・後自然学的・無形的な理念考究の上で、様々な概念の内それがただの仮の言い方にすぎない対象へはよくも注意がいる。例えば老子の提出した道の概念は当人がいう様に相対的・比較論的であり特定の自然や社会の現象と対比すべきでないし、できそうにない。それは比喩だからだし、更には本の上にしかない恣意任せの筆跡が観察と実験に堪える実証概念であるはずがない。結局、我々がみいだすのは分析哲学の観点と同様に、文面の構造の主観からの直観に関する数々の詳細な考察、これはいいかたとして漢語的すぎるならもっと簡単にいえば、言葉の書かれ方というもの、をそれが置かれた文脈の比較検討によってあてずっぽうに鑑みるほかないということだ。
結論をいえば、形而上学とは主観にもどるのだ。だから形而上学とは主観の学であり、それはもっといえば各個人の知恵の頃合いにもとづく趣味観のいいかえに他ならないのである。幼児の形而上学とは太陽が熱いめだまのキャラクターで、地面には凸凹 があり、草は水玉を映すためのものかもしれない。しかしながら、ホッブズの眼では世の中は機械であり、その運動はすべて刺激計画的である。大阪でまなんだ書生の福沢には良かれあしかれ世界は問屋街だった。そしてヘーゲルにかかれば誰もかも歴史の証人でしかないだろう。古人のみた世界をだれも二度とみれないのは主観をつくる成り立ちがすでに環境と教育の文化条件でちがっているからだ。従って世の中には次の二種のひとしかいない。
一人は主観をおさえて自らみた世界をできるだけ理想化しようとする者。もう一人はその世界を忠実に再現しようとするリアリストだ。ここで、前者を形而上学徒なる厳めしい名前で、後者をそのままリアリストと呼ぶとする。ならば、この二者は時間の経過と共に次の結果にいたる。形而上学徒はかれが観る世界をできるだけ理念に投射したうえで世の中のできごとを分析する癖があるので、その認識は期待に応じて次第にまた理想化されゆくであろう。そして最終的にはかれが観るどの現象ですらも、この理想の眼を通してしか感じなくなる。よって、形而上学徒がいずれ無限に遠い世代の極限ですら全知全能、が現世で到達不可能なのは絶対なのだから最低でもその似姿か近侍に就くきわめて好都合な高い知能の段階へ至るであろうという予想は、主観のフィルターという哲学の本質的達成を見通せば真に理にかなっている訳だ。もしこのフィルターがなければ自然界はなにもみせないし、みせていたとしても美しくもなければ面白味どころか不快感しか催すまい。それらはただの無目的なまでに散乱しつづけていく混沌化増大のかなり普き、熱力学現象なのだから。逆に、批判書に於けるいわゆる崇高論のありかこそ、たとえば俳句にみられる様な自然界の合目的性を直感か直知する能力、もっといえば創始者の叡智への感動が殆ど習性化した能力となった理念の完成度の上、へ求まる。世界に感動しない者は幸福に値しない、と云ったレオナルド・ダ・ヴィンチの歎きは創始者からの学び、自然哲学を志す者が常識からの嫌悪の感覚をもちこしてさえも肝に銘ずる可き重要な懸案だったのである。もしかれらが神への一途な信仰を失えば、醜さや汚穢といった神の前には存在する筈もないなんらかの自然界の変異をみのがしてしまう危険性がある。万一それが古今で最も重要なメッセージでもだ。
これに対してリアリスト氏は当然かれの主観がそのまま投影する世の中をみるのだし、その習性をつづけていけばやがては想像できるだけ俗化するに違いない。結局ものをみる目や感じとる主体はつねに主観の学の程度、要は哲学によるのだ。
こういう経緯で、もし幸福について少しでも知りたければ宇宙の計画者の考え、少なくともそう想定するのが適当な隙間ない合理性規則を熱心に学び取ることでしか、それらをいかに覚える可きかは少しも悟りえないことだろう。もしこの理由なる吝かならぬものを考えつくのが理性の究極根拠、即ち我々が知能に託したところの稽古の精神そのものであってもだ。
さてこの場で明白に定義できるのは、形相界は人知に属し、しかもそれは主観論という形而上学の基盤だったということ、そしてこれらを認識しなかったアリストテレス哲学の段階は現代の共有している仮想現実の考究をなしえなかった歴史時点にあったという史的検証だ。現に我々はこれに比べて敬遠すべき仮説の実在論や観想の幸福論をいつでも回避できる形而上学状態にある。なぜならどちらもただの一趣味説にすぎず、それらが他の思想の試みやもたせた意味を奪取も支配もできはしないので。特に進化論の影響がつよい英米で知的設計論への批判考証がよく現れる背景には、主観が唯一の形而上学徒の窓であることを、史上最も本質的な形而上学の考察にみちた純粋理性批判への敬遠という逆理の業でみのがして現代をみようとする、かくのごとき軽薄さがつきまとっているわけだ。原理主義批判はすでに三批判書の中ではおよそ主観の時間根拠としての一貫した思考の格律という概念で行われている。対して時間を否定できれば我々に一貫した思考の格律、つまり筋はいらないとしても、地球型生命は時間を経過しないと呼吸もできない。信念とか信仰とか言い方を様々にかえたとしても、我々が知性以外の道徳法則を保つべき、という社会性動物としての高度な協業の意識からは全く、形而上学を素性のいい有閑者に適した友情の知識分野だといまなおみとめていいのだ。なおかつ、この信 あるひとしかどこでも信用されないのもまた不動の真実ではあるが。
我々が社会の、又は人間の問題を考えるに当たっては是非、形而上学の諸問題は敬遠されねばならぬのが明らかだ。これは、某時点での自然科学体系が教えられない内容は推測に留まる他ないところからも、無益すぎる議論が延々とくりかえされるのを確かめられない世界の棚上げで防止する為。故に、おもにケンブリッジ大学の宇宙物理学派が、仮定すればより多様な世界モデルが提出できる、という論証主義の範畴に入るだろう内容で語る時空間四次元以上の余った次元については深入りせず、今のところ敬遠しておく方がいいと分かる。もしこれが実証段階に入れば、つまり観測という手立てでなにかきっかけでもつかめればそうでもなくなるだろうが。つまるところ、それらの論証主義科学とは、いわば数学モデルの多様化の為だけに使うべきもので、観測技術の進展によって確かな実験結果が出るまでは真理とみなすべきでない。同様に、単なる形而上学的・後自然学的・無形的な理念考究の上で、様々な概念の内それがただの仮の言い方にすぎない対象へはよくも注意がいる。例えば老子の提出した道の概念は当人がいう様に相対的・比較論的であり特定の自然や社会の現象と対比すべきでないし、できそうにない。それは比喩だからだし、更には本の上にしかない恣意任せの筆跡が観察と実験に堪える実証概念であるはずがない。結局、我々がみいだすのは分析哲学の観点と同様に、文面の構造の主観からの直観に関する数々の詳細な考察、これはいいかたとして漢語的すぎるならもっと簡単にいえば、言葉の書かれ方というもの、をそれが置かれた文脈の比較検討によってあてずっぽうに鑑みるほかないということだ。
結論をいえば、形而上学とは主観にもどるのだ。だから形而上学とは主観の学であり、それはもっといえば各個人の知恵の頃合いにもとづく趣味観のいいかえに他ならないのである。幼児の形而上学とは太陽が熱いめだまのキャラクターで、地面には
一人は主観をおさえて自らみた世界をできるだけ理想化しようとする者。もう一人はその世界を忠実に再現しようとするリアリストだ。ここで、前者を形而上学徒なる厳めしい名前で、後者をそのままリアリストと呼ぶとする。ならば、この二者は時間の経過と共に次の結果にいたる。形而上学徒はかれが観る世界をできるだけ理念に投射したうえで世の中のできごとを分析する癖があるので、その認識は期待に応じて次第にまた理想化されゆくであろう。そして最終的にはかれが観るどの現象ですらも、この理想の眼を通してしか感じなくなる。よって、形而上学徒がいずれ無限に遠い世代の極限ですら全知全能、が現世で到達不可能なのは絶対なのだから最低でもその似姿か近侍に就くきわめて好都合な高い知能の段階へ至るであろうという予想は、主観のフィルターという哲学の本質的達成を見通せば真に理にかなっている訳だ。もしこのフィルターがなければ自然界はなにもみせないし、みせていたとしても美しくもなければ面白味どころか不快感しか催すまい。それらはただの無目的なまでに散乱しつづけていく混沌化増大のかなり普き、熱力学現象なのだから。逆に、批判書に於けるいわゆる崇高論のありかこそ、たとえば俳句にみられる様な自然界の合目的性を直感か直知する能力、もっといえば創始者の叡智への感動が殆ど習性化した能力となった理念の完成度の上、へ求まる。世界に感動しない者は幸福に値しない、と云ったレオナルド・ダ・ヴィンチの歎きは創始者からの学び、自然哲学を志す者が常識からの嫌悪の感覚をもちこしてさえも肝に銘ずる可き重要な懸案だったのである。もしかれらが神への一途な信仰を失えば、醜さや汚穢といった神の前には存在する筈もないなんらかの自然界の変異をみのがしてしまう危険性がある。万一それが古今で最も重要なメッセージでもだ。
これに対してリアリスト氏は当然かれの主観がそのまま投影する世の中をみるのだし、その習性をつづけていけばやがては想像できるだけ俗化するに違いない。結局ものをみる目や感じとる主体はつねに主観の学の程度、要は哲学によるのだ。
こういう経緯で、もし幸福について少しでも知りたければ宇宙の計画者の考え、少なくともそう想定するのが適当な隙間ない合理性規則を熱心に学び取ることでしか、それらをいかに覚える可きかは少しも悟りえないことだろう。もしこの理由なる吝かならぬものを考えつくのが理性の究極根拠、即ち我々が知能に託したところの稽古の精神そのものであってもだ。
さてこの場で明白に定義できるのは、形相界は人知に属し、しかもそれは主観論という形而上学の基盤だったということ、そしてこれらを認識しなかったアリストテレス哲学の段階は現代の共有している仮想現実の考究をなしえなかった歴史時点にあったという史的検証だ。現に我々はこれに比べて敬遠すべき仮説の実在論や観想の幸福論をいつでも回避できる形而上学状態にある。なぜならどちらもただの一趣味説にすぎず、それらが他の思想の試みやもたせた意味を奪取も支配もできはしないので。特に進化論の影響がつよい英米で知的設計論への批判考証がよく現れる背景には、主観が唯一の形而上学徒の窓であることを、史上最も本質的な形而上学の考察にみちた純粋理性批判への敬遠という逆理の業でみのがして現代をみようとする、かくのごとき軽薄さがつきまとっているわけだ。原理主義批判はすでに三批判書の中ではおよそ主観の時間根拠としての一貫した思考の格律という概念で行われている。対して時間を否定できれば我々に一貫した思考の格律、つまり筋はいらないとしても、地球型生命は時間を経過しないと呼吸もできない。信念とか信仰とか言い方を様々にかえたとしても、我々が知性以外の道徳法則を保つべき、という社会性動物としての高度な協業の意識からは全く、形而上学を素性のいい有閑者に適した友情の知識分野だといまなおみとめていいのだ。なおかつ、この
2009年12月15日
米軍辺野古基地問題の一意見
アジアの治安面からいえば、あきらかに反共防波堤の役をになうのがどうしてもそこになるのだから、戦中の悲惨を二度くりかえさない為にも、米軍への譲歩を優先し、飽くまで一県民である沖縄の人々への遠いおもんばかりからもできるかぎりアメリカ世への謳歌をのぞむ方がいいか。もし今回の問題を県外移設へいざなうと、おそらくかなり遠い段階で沖縄県民へ戦禍がふたたび及ぶ危険性もあり、この騒音や軍人の基地外への仕業の弊害をはじめからおさえておきたいなら、施設の充実費を沖縄に限っては十分に見込んでおくことが望ましい。楽園ならば悪事も為す気になりえないだろうから。
おもうに、戦中の経緯を天皇陛下がこころより安んじておられるのはお聞きするまでもなく数々のご慈悲徳行の実例からも明らかであり、この点への思慮を凝らしたなんらかの象徴の国事、和平への行いをお願い申し上げることはあしき独裁主義中国共産党への当面の愛想などよりはるかにそのみこころを賜るのに適当である。
おもうに、戦中の経緯を天皇陛下がこころより安んじておられるのはお聞きするまでもなく数々のご慈悲徳行の実例からも明らかであり、この点への思慮を凝らしたなんらかの象徴の国事、和平への行いをお願い申し上げることはあしき独裁主義中国共産党への当面の愛想などよりはるかにそのみこころを賜るのに適当である。
浸歌
空に浮かぶ雲のあいまに漂う淡いあお流る
一人のこらずきえていく世の中のうそやまる
唯々諾々とききながすあらゆるものは雲よ
だれものべはしないすべてのはじまりは空
機会均等にくばられた幸せの札など何の意味も
一人のこらずきえていく世の中のうそやまる
唯々諾々とききながすあらゆるものは雲よ
だれものべはしないすべてのはじまりは空
機会均等にくばられた幸せの札など何の意味も
酸
現代風特段乃夕陽客郎
In modern pleasures they think dawned
言伝令十二分乃慨嘆乎
Poverty googles fantastic elaborates
旧態依然未開拓回堂堂
Dynamic being rock star has shout
重視沈黙囂囂各人寓啝
Chic rare rate voted windows shopping
変転自在毎午後休暇峩
Miserable between a pm I discount an acid theme
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言伝令十二分乃慨嘆乎
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旧態依然未開拓回堂堂
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2009年12月14日
芸術論の上近代さ
誰もに納得できる論拠かはさても、世界に存在する無数の顕れの殆どはまやかしか欺きだ。それらの奥には主観の、つまり精神の消化できる情報量に準ずる秩序しかない。分けても人類の末裔がもつ感覚器は生き物共の生態系から辛うじて導いた本来は生存用のものだから、もし秩序としてもかなり限られている。要するに、主観は自然現象をかれらの感覚器の転用に応じてしか受容や知覚しない。だから数理では十分に構想できる四次元以上の、時空間より高い次元の世界はもし人類界のまなこでみなせば実在でないか、複宇宙論の仮証面でしか必要ともいえない。
法案への懐疑を定着させること、脱構築とよばれる方法もこの原則から自由でない。主観の根拠としての時間直観は、感覚器の程に準じた世界をみせ、或いはその転用で別の秩序をしらせる。こういう原則のもとでは、真理の前には単なる感覚の転用経過があるだけだろう。だからこの文章なるメディアを介した、それか主観の属した精神量の外部拡張としての外界感受能に則した善意の最大値はつねに経営的に留まる。
生計を営むどの生態も個別にみれば一個の経済機能であり、その恒常さは属する、周辺秩序度にもとづく。近い未来には、一生涯を研究所の中でおえる生態も珍しくないとして、彼らの社会経営はやはり生態的だ。自然に親しむと言う者のもっている、自然の意味はあまり明白でない。考え様によっては宇宙の全現象は自然なのだから。おそらく、彼らの考え内には上記の経営論の立場、もっと書き下せば入れ子造の社会学や社会客観の方法が欠ける。
只の自然対社会とか人為の近代化論には、分析面ですらこういう矛盾があった。芸術という日本語意はこの点では深淵さに秀でる。それは藝 る術でしかない自己表明の為に近代化論の枠組み、潮流を突き崩す。かくの見方に則れば入れ子造の宇宙論は可能であり、又その未来は経営論を文化経営の立場に導ける。思われるところでは文化の概念は、cityの延長である市民化としてのcivilizationとはことなりcultureからきた耕作や耕しの意味が含まれるから。そして文化経営論は文明論をその部分集合としてしかみない。文明論そのものは失われないが、扱える生態論の幅を以前にもまして宇宙化、普遍化し認識領域を広げるだろう。
およそ地理学や地政学とよばれる学野の内にある環境への考え方の分岐、たとえばその決定論や可能論、それらを止揚した文化論などは、この他の運命論なども含めて歴史運動のもとの各生態動向を生業の移ろいのうえに見渡すか見極めるものであり、より進んだ段階では環境学をおそらく形成するだろうが、ついては特に社会性をもつ生物群のつくる環境学野を上述の文化経営知が占めるだろう。そしてこれらの知識はより包括すれば社会学の詳細にすぎないだろう。
法案への懐疑を定着させること、脱構築とよばれる方法もこの原則から自由でない。主観の根拠としての時間直観は、感覚器の程に準じた世界をみせ、或いはその転用で別の秩序をしらせる。こういう原則のもとでは、真理の前には単なる感覚の転用経過があるだけだろう。だからこの文章なるメディアを介した、それか主観の属した精神量の外部拡張としての外界感受能に則した善意の最大値はつねに経営的に留まる。
生計を営むどの生態も個別にみれば一個の経済機能であり、その恒常さは属する、周辺秩序度にもとづく。近い未来には、一生涯を研究所の中でおえる生態も珍しくないとして、彼らの社会経営はやはり生態的だ。自然に親しむと言う者のもっている、自然の意味はあまり明白でない。考え様によっては宇宙の全現象は自然なのだから。おそらく、彼らの考え内には上記の経営論の立場、もっと書き下せば入れ子造の社会学や社会客観の方法が欠ける。
只の自然対社会とか人為の近代化論には、分析面ですらこういう矛盾があった。芸術という日本語意はこの点では深淵さに秀でる。それは
およそ地理学や地政学とよばれる学野の内にある環境への考え方の分岐、たとえばその決定論や可能論、それらを止揚した文化論などは、この他の運命論なども含めて歴史運動のもとの各生態動向を生業の移ろいのうえに見渡すか見極めるものであり、より進んだ段階では環境学をおそらく形成するだろうが、ついては特に社会性をもつ生物群のつくる環境学野を上述の文化経営知が占めるだろう。そしてこれらの知識はより包括すれば社会学の詳細にすぎないだろう。
花の名
花の名は語られることもなく
すでに大土のもとに還った
まるで当たり前の合図だったそれは
君のもっているすべての合言葉を常陸の空に
隠してしまった
ポクポクと木魚が鳴って
お坊さんがなにやらわからぬ
ありがたきお経を唱えました
だから私はまめやかな舟にのって
お空の向こうにある月のうらの古里へ
帰ります
止めなさんな
だれが言ったかしらないが
その羽は天使がおとして行ったのですよ
私らはみたこともありませんが確かに
世の中には不思議なことがあるもんです
人は国中を歩き回りやがて
どこかで同じ土に還る
そもそも
冒険家とはそういうものだ
すでに大土のもとに還った
まるで当たり前の合図だったそれは
君のもっているすべての合言葉を常陸の空に
隠してしまった
ポクポクと木魚が鳴って
お坊さんがなにやらわからぬ
ありがたきお経を唱えました
だから私はまめやかな舟にのって
お空の向こうにある月のうらの古里へ
帰ります
止めなさんな
だれが言ったかしらないが
その羽は天使がおとして行ったのですよ
私らはみたこともありませんが確かに
世の中には不思議なことがあるもんです
人は国中を歩き回りやがて
どこかで同じ土に還る
そもそも
冒険家とはそういうものだ
2009年12月13日
空き瓶
絶妙なタイミングであなたは
ラッキーなチャンスを射止める
さあここが浮世です
いますぐ楽しんじゃって下さい
どこへ向けてあるくかもしれず
出口の見えない真っ暗闇の迷路を
手探りで進む
たとえすべてが出来レースでもだ
夜が明けても暗い侭の死の世界
仮想現実で囲んだ意味不明な人形共
第一ここがジパングなの
資本社会のはてしない広告ルーレットに入り込む
だれが媒体でどれが実体か
そして
私は街のどこかに隠れた空き瓶を捜し続ける
それがただの空気でも
ラッキーなチャンスを射止める
さあここが浮世です
いますぐ楽しんじゃって下さい
どこへ向けてあるくかもしれず
出口の見えない真っ暗闇の迷路を
手探りで進む
たとえすべてが出来レースでもだ
夜が明けても暗い侭の死の世界
仮想現実で囲んだ意味不明な人形共
第一ここがジパングなの
資本社会のはてしない広告ルーレットに入り込む
だれが媒体でどれが実体か
そして
私は街のどこかに隠れた空き瓶を捜し続ける
それがただの空気でも
2009年12月12日
茶道
昔はそうだった
If older that
きみは涙を流し
You'll be in cheerful means
嘘を憎み
Not in a shell but also
束の間の休日にのむ紅茶の上に
In older that daylight brightness pool of
分かちあった真心があったのに
Proof on the feeling that truth of
茶道の師匠はしずかに
Master of tea ceremony on Japan
音も起てず
Did not as all envies to get some
宵口を待つ
Nights
If older that
きみは涙を流し
You'll be in cheerful means
嘘を憎み
Not in a shell but also
束の間の休日にのむ紅茶の上に
In older that daylight brightness pool of
分かちあった真心があったのに
Proof on the feeling that truth of
茶道の師匠はしずかに
Master of tea ceremony on Japan
音も起てず
Did not as all envies to get some
宵口を待つ
Nights
科学論
科学の細分化でも不動な基礎となる構えは、最も原理では数学、物理学、生物学の三本柱であり、さらにもう一段階ひいてみわたせば数学、天文学、物理学、化学、生物学、社会学の六つとなる。これらは基本科目と呼んでいい。この他にはいくつかの学があるが、おそらく今後とも知識の諸分野は無限に細分化されていく趣にあるので、それらの非実証論との混同、つまり殆ど実験で確かめられない擬似科学とのまざりあいを事前対策しておくには、学という言葉の濫用をふせぐべく単に知識という名義を冠しておくといい。我々がもし同様の食品成分の微化学分析を行ったら例えば該当食品の知識、とかその知とだけ呼べば巨視観や大局観は保たれ、今後とも殖えつづけるだろう似て非なる実験では確かめえない証明という手段をもつ数学以外の知識分野への検証に一々手間どることはない。
2009年12月10日
趣味論
言葉の問題を文面と口語の乖離か撞着にみいだそうとした分析哲学の潮流は、すべて言文分析論といいかえうる。それはおもとして現代フランスで最も進んだ段階を達してきた。伝達論で著名なドゥブレの様な一支の碩学も、同分析手法の上を歩んだ。
日本では和辻以来、倫理学の主流は断絶した状態にあって、文芸評論の各種は明白な潮流となる前に、各先進国の著述内容の翻訳へ転じて今日に至る。
イギリス功利主義への品的、つまり質量両面からの修正としての趣味主義は、おもに岡倉天心の美術評論からきて日本らしさにまつわる無二一元説への注釈を介して漸く世に著されたものだ。それは辞は達するのみ、という孔子の立場を推して現代の分析哲学の最終到達目標を、最短語句で最も高度な功利的中を可能とする趣味の理念に求めるところへ立脚する。だから、フランス哲学からみればこの立場は決着的かつ帰結的でありアメリカのプラグマティズムからみれば先鋭的か独創的である。これらは、また功利主義からみればさらに選りすぐって功利的か若しくはよほど審美的である。
おそらく先々この立場へのもっとも明解な批判は、ドイツ哲学の主流である人格主義が再び以前の声高な実践理性の尊重を単なる市場資本への様々な適応をこえて、起こされるところに生じる。つまり、趣味主義はそれ自体の実用級価値が日本風な芸術力の市場適合を計る様な一つの選び抜かれた功利性の押し上げに他ならない場面から、おそらくドイツ哲学界ではカントやヘーゲルの高踏式立場への回帰としての世界政治の地球化、一国風での学術覇権規制、審美観の客体論的世界市民化をなんらかの普遍性の画策で彼のアジア型華美への抑制に及ぼす不確定論的非難や徹底したキリスト教倫理貫徹の検証を行おうとする学派を要望すると見られる。さもないと、只の文芸趣味への品性の上でも、フランス学派にさえ先を越されるだけで西欧大陸国として一向に埒があかないだろうから。
ここからして、旧来の日本国内のおもとしては近代文芸への批評哲学との攻勢に対して大幅に遅れてくる歴史または世界法廷に於ける法案論や社会批評批判が、ドイツのどこかの学者によっていずれかなりかきわめて完成度の高い姿でうみだされてくるだろう。現状で低炭素社会化などへの、純粋な生化学面でも大いなる過ちを含むだろう独善プロパガンダも既に示されつつある某西欧優越思想の一つの典型図式かもしれない。だが、東洋風やオリエンタルな先進国の一分を念じればこの種の国連全体主義説は国家規制がない段階では決して自明ではないし、現状の多かれ少なかれ勝手な風紀を元にした国際関係場では、空想論か誤解に過ぎるのでちっとも採用すべきですらないが。即ち親善の実践に則した貿易覇権を争う政治闘争上で絶対理想主義固執は、書斎派の内心どうあれ、唯一不動の外交指標ではありえない。それは小売り貿易商の文化間価格差が完全に消滅しきった世界精神段階でしかまったく交渉進展面でだれもに不都合だからだ。
さてこのドイツ理想主義復興の潮流は、また国連への介入をゲルマン民族やその服属を課した持たざる内陸国群へみたび無防備な国粋説を啓蒙か扇動し、多分その中での旧連合国のヨーロッパ帝国主義覇権論をおしとどめるかそうしようとさえし、彼ら自らが西洋中心思想を批判するアーリア人絶対主義の公式の独断的立場に就き直したがらせるだろう。そしてこの流れは、結局国連の最終的な分解を行う。いいかえればドイツとアメリカの、またゲルマンとアングロサクソンやその内に含まれるユダヤの相互反目の流れは、かれら全員がカント的な永久平和の世界を望む訳ではない、といういわゆる聖戦主張のたぐいを新大陸に内在されているプロテスタンティズムの倫理風土でその孤立主義心理内奥に維持しているかぎりで、真に続く。
我々がのぞめるのは、米大陸やオセアニア含む西洋諸国の種が協調の道理に究極で欠ける、という一つの運命の気勢を、日本という世に稀な島国については徹底した思想やたくみな文化防波堤でふせぐことだ。この原則を、私は多趣味さという比較文化論の立場から十分導けると信じている。当たり前の様だが、要するに、趣味の多さを追求する中で国際貿易の黒字続きの優位を各メーカー内製率の高度に技術可塑的な功利完成度で十分に保ちながら、なお使節や勘合で摂り込んだ我々からみれば珍しい外来文物を更に自らの趣味へぴったり適合するまで和風化していく固有の工芸界追随能力の過程に於いて、決定的な多文化国土を絶えず己の芸術独創性の基盤構造とも化することは日本古来からの柔軟で外来文物へ寛容な各外来風物のそれぞれの地域風景に選好された習得と同化の伝統にかなう、一種の天心的に特別な保守の観点に我々を導くのだ。この保守性は最も進歩的である。なぜならどの国であっても主権放棄の風を前提とした不可逆文化を前提に、自らを捨て鉢らしく否定構造化することもない。そして中心を空けるという神道の伝統は、つまり神のまします座を空けておくというその現生存へのたえなる再生信仰説は、我々の国土を支配する究極の実在が諸生物の原計画主である天照大神とされた原始祖であることへの天啓あらたかな構想力の限り、また哲学的最善の趣に他ならない。もし科学知識がこの伝統に解答をみいだそうとすれば、それは生物学に於ける孤島や島嶼の宿命への社会性動物的工夫、いいかえれば外来新種への誘引適応を遂げたある種の神秘化された審美知に至る。たとえば物珍しい気候をもつ地球のはての諸島では圧倒的なまでの豊富な特殊化をそれらの形質中和への準備として、まったく生殖隔離が生じない迄は競争力より受容機能の方へ優先して淘汰させるだろう。具体的には、最も近接な渡来した祖先種への機先を最も原理的な器官の保存として、生態記憶の底へ、いわば退化の逆算としてのこす。我々が沖縄の孤島植物にみいだす在来した日本の固有種との近似、たとえば痕跡器官としてのタンポポ類の顎などはいまなおセイヨウタンポポのそれとは本質で類似していない。つまりは、生物としてみた人類の末孫が一系統としての家族種あるいは固有種を祖先にもつことは、かれらの語族の似通う文法構造に類比できるのである。そしてもし和語が分岐としての単語や語法の外接性を保つならそれが島嶼適所の宿命だったからで、我々は知性の面からかの道徳をいわば自己組織のくみかえにみるにすぎない。さもないと閉鎖社会の語族間近親交配はかれらをいずれ奇形化しきわめて衰微させるか究極で滅ぼすし現にそれらをなしてきただろう。
日本語とは存在しないところにある、この見解はまた、日本国とは存在しないところにある、或いは日本人とはどこにも存在しないところにある、という自己を否定や利己心を究極批判した逆理の神髄を以てその最高の趣味段階に於ける無私の境遇を私達と弁証法上に一致させている。そしてこの境涯は、誰が説いたにせよ衛星的な育ちゆきだった島嶼国である彼らの内外文明格差へのその場なりに最も普遍性ある態度たる、既存にして将来への一つながりらしき伝統思想の主流だった。個性の消去に体よく成功した個人こそ最も個性的であるのと等しく、もとは農村共同体の集約労働内倫理法則であった滅私奉公の道徳律は、その文化構想の究極の設計図がいまなお神のみもとにある信念、つまり地上に於ける末孫ですらかれの精一杯の考えにもとづいてしか、いにしえのまったき条理を想起できない、という復古の規律へとどこまでも還元されるものだ。
日本では和辻以来、倫理学の主流は断絶した状態にあって、文芸評論の各種は明白な潮流となる前に、各先進国の著述内容の翻訳へ転じて今日に至る。
イギリス功利主義への品的、つまり質量両面からの修正としての趣味主義は、おもに岡倉天心の美術評論からきて日本らしさにまつわる無二一元説への注釈を介して漸く世に著されたものだ。それは辞は達するのみ、という孔子の立場を推して現代の分析哲学の最終到達目標を、最短語句で最も高度な功利的中を可能とする趣味の理念に求めるところへ立脚する。だから、フランス哲学からみればこの立場は決着的かつ帰結的でありアメリカのプラグマティズムからみれば先鋭的か独創的である。これらは、また功利主義からみればさらに選りすぐって功利的か若しくはよほど審美的である。
おそらく先々この立場へのもっとも明解な批判は、ドイツ哲学の主流である人格主義が再び以前の声高な実践理性の尊重を単なる市場資本への様々な適応をこえて、起こされるところに生じる。つまり、趣味主義はそれ自体の実用級価値が日本風な芸術力の市場適合を計る様な一つの選び抜かれた功利性の押し上げに他ならない場面から、おそらくドイツ哲学界ではカントやヘーゲルの高踏式立場への回帰としての世界政治の地球化、一国風での学術覇権規制、審美観の客体論的世界市民化をなんらかの普遍性の画策で彼のアジア型華美への抑制に及ぼす不確定論的非難や徹底したキリスト教倫理貫徹の検証を行おうとする学派を要望すると見られる。さもないと、只の文芸趣味への品性の上でも、フランス学派にさえ先を越されるだけで西欧大陸国として一向に埒があかないだろうから。
ここからして、旧来の日本国内のおもとしては近代文芸への批評哲学との攻勢に対して大幅に遅れてくる歴史または世界法廷に於ける法案論や社会批評批判が、ドイツのどこかの学者によっていずれかなりかきわめて完成度の高い姿でうみだされてくるだろう。現状で低炭素社会化などへの、純粋な生化学面でも大いなる過ちを含むだろう独善プロパガンダも既に示されつつある某西欧優越思想の一つの典型図式かもしれない。だが、東洋風やオリエンタルな先進国の一分を念じればこの種の国連全体主義説は国家規制がない段階では決して自明ではないし、現状の多かれ少なかれ勝手な風紀を元にした国際関係場では、空想論か誤解に過ぎるのでちっとも採用すべきですらないが。即ち親善の実践に則した貿易覇権を争う政治闘争上で絶対理想主義固執は、書斎派の内心どうあれ、唯一不動の外交指標ではありえない。それは小売り貿易商の文化間価格差が完全に消滅しきった世界精神段階でしかまったく交渉進展面でだれもに不都合だからだ。
さてこのドイツ理想主義復興の潮流は、また国連への介入をゲルマン民族やその服属を課した持たざる内陸国群へみたび無防備な国粋説を啓蒙か扇動し、多分その中での旧連合国のヨーロッパ帝国主義覇権論をおしとどめるかそうしようとさえし、彼ら自らが西洋中心思想を批判するアーリア人絶対主義の公式の独断的立場に就き直したがらせるだろう。そしてこの流れは、結局国連の最終的な分解を行う。いいかえればドイツとアメリカの、またゲルマンとアングロサクソンやその内に含まれるユダヤの相互反目の流れは、かれら全員がカント的な永久平和の世界を望む訳ではない、といういわゆる聖戦主張のたぐいを新大陸に内在されているプロテスタンティズムの倫理風土でその孤立主義心理内奥に維持しているかぎりで、真に続く。
我々がのぞめるのは、米大陸やオセアニア含む西洋諸国の種が協調の道理に究極で欠ける、という一つの運命の気勢を、日本という世に稀な島国については徹底した思想やたくみな文化防波堤でふせぐことだ。この原則を、私は多趣味さという比較文化論の立場から十分導けると信じている。当たり前の様だが、要するに、趣味の多さを追求する中で国際貿易の黒字続きの優位を各メーカー内製率の高度に技術可塑的な功利完成度で十分に保ちながら、なお使節や勘合で摂り込んだ我々からみれば珍しい外来文物を更に自らの趣味へぴったり適合するまで和風化していく固有の工芸界追随能力の過程に於いて、決定的な多文化国土を絶えず己の芸術独創性の基盤構造とも化することは日本古来からの柔軟で外来文物へ寛容な各外来風物のそれぞれの地域風景に選好された習得と同化の伝統にかなう、一種の天心的に特別な保守の観点に我々を導くのだ。この保守性は最も進歩的である。なぜならどの国であっても主権放棄の風を前提とした不可逆文化を前提に、自らを捨て鉢らしく否定構造化することもない。そして中心を空けるという神道の伝統は、つまり神のまします座を空けておくというその現生存へのたえなる再生信仰説は、我々の国土を支配する究極の実在が諸生物の原計画主である天照大神とされた原始祖であることへの天啓あらたかな構想力の限り、また哲学的最善の趣に他ならない。もし科学知識がこの伝統に解答をみいだそうとすれば、それは生物学に於ける孤島や島嶼の宿命への社会性動物的工夫、いいかえれば外来新種への誘引適応を遂げたある種の神秘化された審美知に至る。たとえば物珍しい気候をもつ地球のはての諸島では圧倒的なまでの豊富な特殊化をそれらの形質中和への準備として、まったく生殖隔離が生じない迄は競争力より受容機能の方へ優先して淘汰させるだろう。具体的には、最も近接な渡来した祖先種への機先を最も原理的な器官の保存として、生態記憶の底へ、いわば退化の逆算としてのこす。我々が沖縄の孤島植物にみいだす在来した日本の固有種との近似、たとえば痕跡器官としてのタンポポ類の顎などはいまなおセイヨウタンポポのそれとは本質で類似していない。つまりは、生物としてみた人類の末孫が一系統としての家族種あるいは固有種を祖先にもつことは、かれらの語族の似通う文法構造に類比できるのである。そしてもし和語が分岐としての単語や語法の外接性を保つならそれが島嶼適所の宿命だったからで、我々は知性の面からかの道徳をいわば自己組織のくみかえにみるにすぎない。さもないと閉鎖社会の語族間近親交配はかれらをいずれ奇形化しきわめて衰微させるか究極で滅ぼすし現にそれらをなしてきただろう。
日本語とは存在しないところにある、この見解はまた、日本国とは存在しないところにある、或いは日本人とはどこにも存在しないところにある、という自己を否定や利己心を究極批判した逆理の神髄を以てその最高の趣味段階に於ける無私の境遇を私達と弁証法上に一致させている。そしてこの境涯は、誰が説いたにせよ衛星的な育ちゆきだった島嶼国である彼らの内外文明格差へのその場なりに最も普遍性ある態度たる、既存にして将来への一つながりらしき伝統思想の主流だった。個性の消去に体よく成功した個人こそ最も個性的であるのと等しく、もとは農村共同体の集約労働内倫理法則であった滅私奉公の道徳律は、その文化構想の究極の設計図がいまなお神のみもとにある信念、つまり地上に於ける末孫ですらかれの精一杯の考えにもとづいてしか、いにしえのまったき条理を想起できない、という復古の規律へとどこまでも還元されるものだ。
国立
ええとこれでいいんですよね年金シュレッダーかけ
わあ揉みくちゃだ献金首脳会談
ジャマするな今とりこみ中なの浪速の喧嘩
もう少しの辛抱ですぞもうすぐ不況を抜けますからな造幣局
あそっかわかんない振りしてたわ国立赤字公邸
わあ揉みくちゃだ献金首脳会談
ジャマするな今とりこみ中なの浪速の喧嘩
もう少しの辛抱ですぞもうすぐ不況を抜けますからな造幣局
あそっかわかんない振りしてたわ国立赤字公邸
2009年12月9日
2009年12月8日
統一文明の破格合理性
世界の内に複数の文明、およそ無際限な迄のそれらが見つかる、とは生態なるもの自体が定着の理論でしかないことの間接代だろう証拠だ。つまり言語の違和をこえて、小売り貿易への徴税からの制約は母文明内の定常観をいわば国民の囲い込みで果たす為だけに、この系への最小単位を標榜したがる事。国家の間の制約は、また文と言との関連づけへの注解、かの種の文化の場面ごとの差の延長もそれが土着さへの一種の擁護たるかぎり民族毎の動向には偏差、片寄り、格差、幅を設けるのだろう。
終りでは宇宙間の移動は技の上で可能となり、また生物か有機機能をもつ造られた機械の人工情緒でかはあやふやだが、何れにしろ多文明間での交通や貿易も当然起こる。今更ひとはこの不可能さを、宇宙間の実証主義のあいまに忘れ給えない。即ち、文明間の移民は国家という旧態を遠い先には、ただ単位系としてしか顧みないだろう。
土地定着と文化の係わりとしての母文明説は、実質はほかの社会秩序との取引を制限する策謀やありきたる作為の故に唱えられている。それは市場の囲い込みへの国民への納得をはかる勢力としての国家主義政党、なる性質が及ぼす一つの誤謬か行き過ぎなのだった。つまりは国家と政党とがかくある様に、文化への殷賑の終局では文明と政治すら同様となるし、そうある可だ。なぜなら国民という概念は、政治学の中でも土地定着という保有した固有の領土をもとにしか十分な定義を宛がわれていないのだ。民族は彼らがそうみなす語族の一部であり国民国家運動とは本質で違っている。さもなくば方言もみられないのだし、そういう異なる方言の地域間が協力することも難しくなるばかりである。
これらから結論すべきは統一文明の脱構築はそれがもし外来の使節によってではなく内部からのなんらかの革命か改修の意図で行われる限りで、たとえば領土そのものの譲渡とか分割統治とかそういった突然変異ですら国民国家の内容にとっては、将来へ大いに寄与するらしい経世済民風演劇術だろうことだ。この論拠やら言い口を乱暴だとか危険だとか思う者は次ぎの如く考えてみればいい。外来文明で一気に占領されるか、それとも自らの意識で徐々に母国の内に複数の異文明を呼び込むかではどちらがより平安かと。
要するに国民国家の理想は、その内に複数の語族と民族間領域とを設けるという分国統治の方針によって、今の集権的な対外防衛を基準にした体制よりはるかに、それらの合間に生じる各種の文明含む文化諸段階やそれらの重複さるべき変異のひろがりを澄みよくする。但し、私はこの理想をいますぐに国政へ転用せよとは口が曲がっても言うつもりはない。勿論これは状況が十分ととのう外敵のなさ、や貿易制限の必要なさが地球経済の必然段階としてかくの圏域へも及んでからの話だろう。たしかに、UKが分割統治の道を歩みだして久しいこと、これは特にイングランド一国の極度の合理主義化をはかる上でEU内集団的安全保障の思いやりもじ込みでも大変に効率がよく、王冠への忠誠という連合国としての体裁は、対外な危機への対応も可能とする。
我々の諸国、いわゆる廃藩置県以前の旧国名が示す位の統治の伝統にかなった範囲で継ぎ目のない各語族が亦それぞれの文脈を走り抜けることは、東アジアのある程度の平穏が前提となるとはいえ現時点でも、地方自治の領分でまったく自由に為される方がいい。なぜかといえば、こういう諸国連合の名義としての日本を掲げるかぎりそれらのうちに無限の奥行きや変異幅があった方がむしろ、あるときの将来の地球外文明間移民にとっても、それに反する大多数を犠牲にしなくてすむだけうまいやり方だとなるので。こういうもとからある性格の違いは、諸国民の性格、もっと詳細にいえば県民性や郷土性のなかにも実に多彩にみつけられる。そんな既存の条件があるにもかかわらず、唯一の国司あるいは一地域出身の専門官僚の意図で全体を一元の目的、或いは首都再生産へ向けてのみ管理するのは害はあり益はないことだろう。それは自然に於いて原計画者やその仮説が行っている神妙な操作、或いは気候の差を無視しても香りだかい文化は不能となる作付けのわけと等しい。
国連での会議も、いずれ同等の悟りへさまざまな試験の結果至るはずだ。つまり全体の文明化や一律の保障は多くの矛盾や反体制発生で諦め、連合国の名目でそれらの最大限の自律を最善とみなすだろう。そしてバベルへ聖書の神が行ったのと同じく、きびしい統一化ではなくゆるやかな解散化をこそよりもっと現実味のある地球文明なる目次の伝達方針な様だ、と考え直すことになるだろう。
終りでは宇宙間の移動は技の上で可能となり、また生物か有機機能をもつ造られた機械の人工情緒でかはあやふやだが、何れにしろ多文明間での交通や貿易も当然起こる。今更ひとはこの不可能さを、宇宙間の実証主義のあいまに忘れ給えない。即ち、文明間の移民は国家という旧態を遠い先には、ただ単位系としてしか顧みないだろう。
土地定着と文化の係わりとしての母文明説は、実質はほかの社会秩序との取引を制限する策謀やありきたる作為の故に唱えられている。それは市場の囲い込みへの国民への納得をはかる勢力としての国家主義政党、なる性質が及ぼす一つの誤謬か行き過ぎなのだった。つまりは国家と政党とがかくある様に、文化への殷賑の終局では文明と政治すら同様となるし、そうある可だ。なぜなら国民という概念は、政治学の中でも土地定着という保有した固有の領土をもとにしか十分な定義を宛がわれていないのだ。民族は彼らがそうみなす語族の一部であり国民国家運動とは本質で違っている。さもなくば方言もみられないのだし、そういう異なる方言の地域間が協力することも難しくなるばかりである。
これらから結論すべきは統一文明の脱構築はそれがもし外来の使節によってではなく内部からのなんらかの革命か改修の意図で行われる限りで、たとえば領土そのものの譲渡とか分割統治とかそういった突然変異ですら国民国家の内容にとっては、将来へ大いに寄与するらしい経世済民風演劇術だろうことだ。この論拠やら言い口を乱暴だとか危険だとか思う者は次ぎの如く考えてみればいい。外来文明で一気に占領されるか、それとも自らの意識で徐々に母国の内に複数の異文明を呼び込むかではどちらがより平安かと。
要するに国民国家の理想は、その内に複数の語族と民族間領域とを設けるという分国統治の方針によって、今の集権的な対外防衛を基準にした体制よりはるかに、それらの合間に生じる各種の文明含む文化諸段階やそれらの重複さるべき変異のひろがりを澄みよくする。但し、私はこの理想をいますぐに国政へ転用せよとは口が曲がっても言うつもりはない。勿論これは状況が十分ととのう外敵のなさ、や貿易制限の必要なさが地球経済の必然段階としてかくの圏域へも及んでからの話だろう。たしかに、UKが分割統治の道を歩みだして久しいこと、これは特にイングランド一国の極度の合理主義化をはかる上でEU内集団的安全保障の思いやりもじ込みでも大変に効率がよく、王冠への忠誠という連合国としての体裁は、対外な危機への対応も可能とする。
我々の諸国、いわゆる廃藩置県以前の旧国名が示す位の統治の伝統にかなった範囲で継ぎ目のない各語族が亦それぞれの文脈を走り抜けることは、東アジアのある程度の平穏が前提となるとはいえ現時点でも、地方自治の領分でまったく自由に為される方がいい。なぜかといえば、こういう諸国連合の名義としての日本を掲げるかぎりそれらのうちに無限の奥行きや変異幅があった方がむしろ、あるときの将来の地球外文明間移民にとっても、それに反する大多数を犠牲にしなくてすむだけうまいやり方だとなるので。こういうもとからある性格の違いは、諸国民の性格、もっと詳細にいえば県民性や郷土性のなかにも実に多彩にみつけられる。そんな既存の条件があるにもかかわらず、唯一の国司あるいは一地域出身の専門官僚の意図で全体を一元の目的、或いは首都再生産へ向けてのみ管理するのは害はあり益はないことだろう。それは自然に於いて原計画者やその仮説が行っている神妙な操作、或いは気候の差を無視しても香りだかい文化は不能となる作付けのわけと等しい。
国連での会議も、いずれ同等の悟りへさまざまな試験の結果至るはずだ。つまり全体の文明化や一律の保障は多くの矛盾や反体制発生で諦め、連合国の名目でそれらの最大限の自律を最善とみなすだろう。そしてバベルへ聖書の神が行ったのと同じく、きびしい統一化ではなくゆるやかな解散化をこそよりもっと現実味のある地球文明なる目次の伝達方針な様だ、と考え直すことになるだろう。
異文明と誇示の関係
芸術場の普遍的定点性はより簡明な形でいうと珍客ある所となる。珍客はやはりそういう場所をよりえらびがちになるはずだ。なぜなら、生態か形態のごく多様でないところではかれらが目立ちすぎる危うさがある。一見では過剰装飾や自己目的化された荒廃地の如くに勘定されがちだとしても、銀河系の単位でみわたして折衝を試みる場所はやはり、芸術化が極度に進んだ、おそらく一部世界都市の中枢付近となる。もし先験を功利とみなすなら、めずらしさへよくも反応しない習癖に紛れてこの芸術化へ向けた都市文化は結局より進歩的たる。いずれ単なる高度技術化と比べればその成果は一目瞭然となるだろう。
2009年12月7日
社会批評の性能
既存宗派と哲学の営みの差は、それらの間に論理の注解を施す速度差がつねに生じるという一点に求まる。哲学が、神の言葉自体に至ることは永久にできない。至善への注釈、これそのものは既存の知識間の見比べによる、依然にもましてよりましな道を発見する手段でしかない。
だが信への接近という点で、おそらく自然研究にもとづく科学知識がふえればふえるほどつねに道徳律の更新がいずれ要求されゆく。もしそうせねば自然学の及ぼす無際限な個性の発見過程は、群れの中に唯一の道というものをますます見いだしづらくした結果、その集団内へ不和や反目や高見の使用化をうみだし、神官階級という古代の陋習を再び科学者への崇拝というあやまった偶像化で引き起こすことになる。ゆえいまだ曖昧な定義ではあるが精神の言葉に過ぎない、としてもなお、世に科学がいとなまれる限りは絶対的に哲学、というそれらの倫理面からの解説の作業が必要である。それは自然学を本科とする教育システムが既存知識の効率いい植え付けでしかないかぎり道徳啓発機能を十分もたないことから、宗教がそれとは別個に用意さるべき道理と相似である。尤も日本という後進の混乱した島国では、歪んだあるいはおかしな独裁者血族崇拝の因縁でこの種の教育と宗教の混同(教宗混同)が起こっているらしいが。しかし、進歩した文明、特に一部西洋諸国の様な遠い場所からみれば野蛮とは憐れみよりも能力の欠けた似て非なる奇形種への軽蔑を招くにすぎない。
不思議ないいぶりだが、一神教理念が教える神の言葉は聞こえない。それはやはり理念なのであり、信じられるにすぎない。なぜなら我々の身体は、空気や文字面の特有の秩序を恣意的もしくは任意によみとれるだけなのだ。風の意味を知ろうとしてもそれは主観にもどる。
もしこの徹底した神と我々との非対称さ、いわゆる絶対帰依や忠義のことわりに人心を至らせる彼我論の要因は、以上の神理念の特徴からくる。つまりそれは今日の粗雑な天体知識から述べても飽くまで自らより尊い実在への信念のことであって、およそ無限らしい宇宙では最高の知能とは仮称に留まるしかない。ある生命体が認知できる自然現象の全体は、全人類の全生態の学問的抽出総体よりはるかにずっと大きいだろう。その様な巨大精神にとっては、各種の絶滅や天体間の明滅などなんの顧みにもあたいしない極微な蠢きかもしれない。なぜならそういう生命は我々からみれば殆ど永久に生きるライフスパンをもっているだろうし、何京年のため息、とか数無量大数分の散歩とか、かくがごとき世界は宇宙規模の想像力をもてれば必ず以てありうるのである。想像できる世界はどこかで実現していると考えていい。それが構想力の本来の意図、即ちかの生長の感情的な目標だからだ。これらを考えてみれば、人生、少なくとも既存の文明のどこかでくらす個性が道徳にかなった道のりを確かに歩むに、科学そのものの習得がどうしても専門化を余儀なくするほど食糧生産力が低くて共通貨幣を通じた交換価値なる同朋出し抜きの先取権が存在する世界では、それらをまとめる能力に導く哲学の徒を十分参照する方がまだ理に叶うのは確かだ。
日本では知識の軽視というまでしばし宗教原理主義が昂進する傾きがあったので、やはり学問たる限り哲学という総合認識の方法が人文学と呼ばれて諸知識の一系統に過ぎないものとして同等の扱いを受けてきたのがみてとれる。だが科学を重視すればするほど、同等に哲学の栄えをみせなければその集団は、当然ながら神官階級を模擬した知識階級による独占支配の二の舞に終わるのである。わが国で京都学派のめざしつつある地位とは、この種の国司的なクラスターであって彼等を除く他の国民の奴隷化あるいは暗黒時代であった中古の様な殿上支配管理であることを認識すべきだ。すべていかなることへも隠然至善の立場にあって世を批評し吟味し正邪を糾す文化教養人が、肩書の恩恵に被って中央国政へ参与するということはあるべきでない。かれらは純粋科学の成果を利口にも商圏へ援用する経営技術層に特有の符号理論的な出世率ではなく、負担理論に基づく外部監査能として、民主政治への正統派良識群からの進歩の度を超えた独裁官僚の行き過ぎへの制動機能の役割に甘んじるべきだ。さもなくば我々は哲学者という随分ひとはよいが厄介にみえる大いなる理屈屋を排斥した結果、国論を遂には知識人かそれ以外かに二分し、永久の反目とふたたび古代同然の寡占階級支配の堕落した少数派の官位独占を赦すことになり、国体の空中分解でければまったく道徳というものを失った獣類と同様の弱肉強食の社会をうみだすであろう。資本主義のシステム自体に、そして教育組織を利用した社会的符号化のさなかに、人間の人格という個性の無二さの意義を排除させ、一個の生産機械へと精神を低落させたがる悪意が侵入している。なるほど合理性は国際経済の競走条件下ではよほど重要だろうが、これはより高い自由人の境遇を事業の各部をさらに自動化する道具の工夫でうみだそうとするものにすぎず、人格の尊重という肩書や地位や財産によらない以前通りの人事徳律を否定するものでも貶められもしないのだ。
もしほかの社会思想よりすぐれて最も自主努力を誘いやすい資本主義の中ですら完全な互恵制、助け合いへの気勢が欠けているとすれば、それは社会機能のどこかに矛盾があるのだ。そしてこういう指摘は、単にシステマティックな銘柄製造としての科学教育の連続した進歩とその産業からの人事援用による人間性加工の工程では果たされえない。社会民主主義や民主社会主義といわれる資本社会の修正論は、結局、究極では道徳という立場をいかに国政を企業間の競走条件づくりへ適用してそれらの畜生界化をふせぐかという一点へ、元々各種の社会思想をうみだした資本主義の限界命題ごと求まりそうである。
だが信への接近という点で、おそらく自然研究にもとづく科学知識がふえればふえるほどつねに道徳律の更新がいずれ要求されゆく。もしそうせねば自然学の及ぼす無際限な個性の発見過程は、群れの中に唯一の道というものをますます見いだしづらくした結果、その集団内へ不和や反目や高見の使用化をうみだし、神官階級という古代の陋習を再び科学者への崇拝というあやまった偶像化で引き起こすことになる。ゆえいまだ曖昧な定義ではあるが精神の言葉に過ぎない、としてもなお、世に科学がいとなまれる限りは絶対的に哲学、というそれらの倫理面からの解説の作業が必要である。それは自然学を本科とする教育システムが既存知識の効率いい植え付けでしかないかぎり道徳啓発機能を十分もたないことから、宗教がそれとは別個に用意さるべき道理と相似である。尤も日本という後進の混乱した島国では、歪んだあるいはおかしな独裁者血族崇拝の因縁でこの種の教育と宗教の混同(教宗混同)が起こっているらしいが。しかし、進歩した文明、特に一部西洋諸国の様な遠い場所からみれば野蛮とは憐れみよりも能力の欠けた似て非なる奇形種への軽蔑を招くにすぎない。
不思議ないいぶりだが、一神教理念が教える神の言葉は聞こえない。それはやはり理念なのであり、信じられるにすぎない。なぜなら我々の身体は、空気や文字面の特有の秩序を恣意的もしくは任意によみとれるだけなのだ。風の意味を知ろうとしてもそれは主観にもどる。
もしこの徹底した神と我々との非対称さ、いわゆる絶対帰依や忠義のことわりに人心を至らせる彼我論の要因は、以上の神理念の特徴からくる。つまりそれは今日の粗雑な天体知識から述べても飽くまで自らより尊い実在への信念のことであって、およそ無限らしい宇宙では最高の知能とは仮称に留まるしかない。ある生命体が認知できる自然現象の全体は、全人類の全生態の学問的抽出総体よりはるかにずっと大きいだろう。その様な巨大精神にとっては、各種の絶滅や天体間の明滅などなんの顧みにもあたいしない極微な蠢きかもしれない。なぜならそういう生命は我々からみれば殆ど永久に生きるライフスパンをもっているだろうし、何京年のため息、とか数無量大数分の散歩とか、かくがごとき世界は宇宙規模の想像力をもてれば必ず以てありうるのである。想像できる世界はどこかで実現していると考えていい。それが構想力の本来の意図、即ちかの生長の感情的な目標だからだ。これらを考えてみれば、人生、少なくとも既存の文明のどこかでくらす個性が道徳にかなった道のりを確かに歩むに、科学そのものの習得がどうしても専門化を余儀なくするほど食糧生産力が低くて共通貨幣を通じた交換価値なる同朋出し抜きの先取権が存在する世界では、それらをまとめる能力に導く哲学の徒を十分参照する方がまだ理に叶うのは確かだ。
日本では知識の軽視というまでしばし宗教原理主義が昂進する傾きがあったので、やはり学問たる限り哲学という総合認識の方法が人文学と呼ばれて諸知識の一系統に過ぎないものとして同等の扱いを受けてきたのがみてとれる。だが科学を重視すればするほど、同等に哲学の栄えをみせなければその集団は、当然ながら神官階級を模擬した知識階級による独占支配の二の舞に終わるのである。わが国で京都学派のめざしつつある地位とは、この種の国司的なクラスターであって彼等を除く他の国民の奴隷化あるいは暗黒時代であった中古の様な殿上支配管理であることを認識すべきだ。すべていかなることへも隠然至善の立場にあって世を批評し吟味し正邪を糾す文化教養人が、肩書の恩恵に被って中央国政へ参与するということはあるべきでない。かれらは純粋科学の成果を利口にも商圏へ援用する経営技術層に特有の符号理論的な出世率ではなく、負担理論に基づく外部監査能として、民主政治への正統派良識群からの進歩の度を超えた独裁官僚の行き過ぎへの制動機能の役割に甘んじるべきだ。さもなくば我々は哲学者という随分ひとはよいが厄介にみえる大いなる理屈屋を排斥した結果、国論を遂には知識人かそれ以外かに二分し、永久の反目とふたたび古代同然の寡占階級支配の堕落した少数派の官位独占を赦すことになり、国体の空中分解でければまったく道徳というものを失った獣類と同様の弱肉強食の社会をうみだすであろう。資本主義のシステム自体に、そして教育組織を利用した社会的符号化のさなかに、人間の人格という個性の無二さの意義を排除させ、一個の生産機械へと精神を低落させたがる悪意が侵入している。なるほど合理性は国際経済の競走条件下ではよほど重要だろうが、これはより高い自由人の境遇を事業の各部をさらに自動化する道具の工夫でうみだそうとするものにすぎず、人格の尊重という肩書や地位や財産によらない以前通りの人事徳律を否定するものでも貶められもしないのだ。
もしほかの社会思想よりすぐれて最も自主努力を誘いやすい資本主義の中ですら完全な互恵制、助け合いへの気勢が欠けているとすれば、それは社会機能のどこかに矛盾があるのだ。そしてこういう指摘は、単にシステマティックな銘柄製造としての科学教育の連続した進歩とその産業からの人事援用による人間性加工の工程では果たされえない。社会民主主義や民主社会主義といわれる資本社会の修正論は、結局、究極では道徳という立場をいかに国政を企業間の競走条件づくりへ適用してそれらの畜生界化をふせぐかという一点へ、元々各種の社会思想をうみだした資本主義の限界命題ごと求まりそうである。
予見
世界の中で人類文明、そう呼ばしめてきた体系が如何ほど永続きしえるかは確定できないばかりか、一途に機会による。場の変わりゆきがどれ丈の烏滸ましさの上にあるかを計算できる、胡亂な諸氏のユーモアばかりか、なぜ地上の生命体共が斯くもおろそかな多くの型へと身をちぢここめたがるかにもとる。乃ち生き残るとはすみやかに只生物間共生をてひろげたがる生態系の基本方針にのりとるので、さらにはどんな余計もない。場の法律もこの原理をこえぬ。数の多さすら繁昌否かの一定点に下らずどこそれも世界とは唯移り行きのおかしさにもどる。
もし誠、道徳のさきゆきに久きをみたくば群れの内にある諸法を修める可だ。代りに、自ら然るかくのよのうちに何故生態なる大いさの幅程を築きあげしめたか訪われるといい。理の次第、世間とは捕える被るの掛け合いでしかあり給わず臨めるのはそれらの変わり身に動ぜぬ境を予見しうる身の上ばかり。
もし誠、道徳のさきゆきに久きをみたくば群れの内にある諸法を修める可だ。代りに、自ら然るかくのよのうちに何故生態なる大いさの幅程を築きあげしめたか訪われるといい。理の次第、世間とは捕える被るの掛け合いでしかあり給わず臨めるのはそれらの変わり身に動ぜぬ境を予見しうる身の上ばかり。
さまようもの
A lot of species it in here, but of course
多くのスペシーズがここにあるが、いうまでもなく
You should think that also semi justice.
あなたはセミジャスティスということも考えるべきだ。
Otherwise, they must do many assemblies
アザーワイズ、かれらは多くのよせあつめもせねばならず
About that newly one in it some great things
新たな一つについてはきすてたものの中には
Of human, same sensitivity are there this
人と同じセンシティビティがあって
all kinds of menu, liability, miss agreeable, reality,
どんなメニューでも、うそ、信じられなさ、まこと、として
Didn't you, show curiosity rule able miss able not
あなたは面白みを示せず、きまりきった悲しみだって
That, all beings were
どうせ凡てがあった、つまり
Wanderer
さまようものにはね。
In the space, nut in the shell doesn't take back
そらではなにも羽くるまれない
多くのスペシーズがここにあるが、いうまでもなく
You should think that also semi justice.
あなたはセミジャスティスということも考えるべきだ。
Otherwise, they must do many assemblies
アザーワイズ、かれらは多くのよせあつめもせねばならず
About that newly one in it some great things
新たな一つについてはきすてたものの中には
Of human, same sensitivity are there this
人と同じセンシティビティがあって
all kinds of menu, liability, miss agreeable, reality,
どんなメニューでも、うそ、信じられなさ、まこと、として
Didn't you, show curiosity rule able miss able not
あなたは面白みを示せず、きまりきった悲しみだって
That, all beings were
どうせ凡てがあった、つまり
Wanderer
さまようものにはね。
In the space, nut in the shell doesn't take back
そらではなにも羽くるまれない
2009年12月6日
2009年12月5日
最悪の工程
老人が権力を振るって先駆者の足を引っ張るか
それとも無理やり奴隷労働させて税を搾り取る
どちらかしかしない倭人
そしてその王を崇拝する人肉を生き埋めたがる極悪軍人
なぜこんな畜生の世界にわざわざ産まされる
天皇家は国民の繁栄を望むと言う
先ずは借金まみれのお前が繁栄しろ
こっちは朝から晩まで一息もつかずに全力で働いている
それでもゴミ漁りしかできない倭人はつまり
お前の部下は馬鹿みたいな同士討ちか
金儲けしか興味をもたない
すべてどうでもよすぎる
なんであんなに朝早く叩き起こされて
こんなゴミ虫の国へ奴隷奉仕するために義務教育を
押し付けられたんだ ゴミ虫リーダーみたいな
くさりきった馬鹿教師が独裁暴力で
教室を恐怖政治で殴り脅し裁き虐めていたあの
キチガイ空間はなんだったんだ
社会の縮図だといつもの
慶應出のどうでもいいありきたりな
中途半端な東京臭い他称美人キャスターが
きしょい老練司会のとなりでおとなしく
あたまわるい副委員長みたく座って
強者にすがってりゃ丸儲けでしたから
僕は宇宙全体の中でも最悪の工程を黙々とこなす
それとも無理やり奴隷労働させて税を搾り取る
どちらかしかしない倭人
そしてその王を崇拝する人肉を生き埋めたがる極悪軍人
なぜこんな畜生の世界にわざわざ産まされる
天皇家は国民の繁栄を望むと言う
先ずは借金まみれのお前が繁栄しろ
こっちは朝から晩まで一息もつかずに全力で働いている
それでもゴミ漁りしかできない倭人はつまり
お前の部下は馬鹿みたいな同士討ちか
金儲けしか興味をもたない
すべてどうでもよすぎる
なんであんなに朝早く叩き起こされて
こんなゴミ虫の国へ奴隷奉仕するために義務教育を
押し付けられたんだ ゴミ虫リーダーみたいな
くさりきった馬鹿教師が独裁暴力で
教室を恐怖政治で殴り脅し裁き虐めていたあの
キチガイ空間はなんだったんだ
社会の縮図だといつもの
慶應出のどうでもいいありきたりな
中途半端な東京臭い他称美人キャスターが
きしょい老練司会のとなりでおとなしく
あたまわるい副委員長みたく座って
強者にすがってりゃ丸儲けでしたから
僕は宇宙全体の中でも最悪の工程を黙々とこなす
2009年12月4日
工学
回転放物線面の特性の一つは入射光の焦点への乱反射にあり、この性質をヘッドライト状の切断面より内側にとる工夫で活かし、ソーラーセルのうら面に敷いたアルミ膜などの鏡面で一つの乱反射ユニットあたりの発電量を向上させえる。これはヘッドライトに対してボトムライト・ユニットとなづけられる。従来のフラットなソーラーパネルの表面へこういうへこみをつけすき間が最小となる様ならべるだけで、数倍の発電機能を付加できる。
おそらく幾何学デザインのうえでは円形だけでは中間に四辺星状のすき間ができてしまう損失から、ピラミッド型のくみあわせか六角形と五角形を相互にくみあわせるどちらかの様式の方が総効率では上回るだろう。後者の場合は曲面や球面敷設にも対応できる。もしこれよりも高効率を達したければ究極ではクリスタル・ユニットというべきダイヤモンドカットを参考にした、可能な最大多角形の乱反射効果を付加すべきとなる。
さらに、仮にこれらのいきすぎで反射の眩しさを軽減させたければ最も表層へ被せる保護薄膜は薄いほど吸収率が高いことから、むしろソーラーセルと反射面の間のほうに色塗装かセロファン状の透過調整層を付加できる。たとえば車のフロントガラスにみられる程度に、網か色または適度な曇りか摺り鏡面によって。
おそらく幾何学デザインのうえでは円形だけでは中間に四辺星状のすき間ができてしまう損失から、ピラミッド型のくみあわせか六角形と五角形を相互にくみあわせるどちらかの様式の方が総効率では上回るだろう。後者の場合は曲面や球面敷設にも対応できる。もしこれよりも高効率を達したければ究極ではクリスタル・ユニットというべきダイヤモンドカットを参考にした、可能な最大多角形の乱反射効果を付加すべきとなる。
さらに、仮にこれらのいきすぎで反射の眩しさを軽減させたければ最も表層へ被せる保護薄膜は薄いほど吸収率が高いことから、むしろソーラーセルと反射面の間のほうに色塗装かセロファン状の透過調整層を付加できる。たとえば車のフロントガラスにみられる程度に、網か色または適度な曇りか摺り鏡面によって。
いなか町
め め めだかの子
なにしていんだろ水の中
おひさまぴかぴかめだかの子
しだのはしげってかくれんぼ
か か かえるの子
なにしていんだろ田んぼみち
ゆるゆるあるけばにげまわる
そらそらかえろういねのうち
み み みみずの子
なにしていんだろ町のうえ
道路をとおせばおどりでて
ねぼけてさがすは土ねどこ
と と とんぼの子
なにしていんだろ空き地にて
くるまのかわりにいまのひも
ばったをくるくるさがす目よ
なにしていんだろ水の中
おひさまぴかぴかめだかの子
しだのはしげってかくれんぼ
か か かえるの子
なにしていんだろ田んぼみち
ゆるゆるあるけばにげまわる
そらそらかえろういねのうち
み み みみずの子
なにしていんだろ町のうえ
道路をとおせばおどりでて
ねぼけてさがすは土ねどこ
と と とんぼの子
なにしていんだろ空き地にて
くるまのかわりにいまのひも
ばったをくるくるさがす目よ
地球市場動向
某国貿易の成長率のなかみは、日本か韓国から導入した技術集約型の原材料を国内でくみたて加工し、これを人件費のはなはだしい安さでごみ捨て式に、EU圏という購買力ある市場へ大量投下することによる。
アメリカ国内との貿易による伸びは、思いの外たかくない。これは孤立主義の米内ではもともと貿易嗜好が少ないうえ、穀物取引との交換をのぞけば、純アメリカ国内製の製品よりも、大量生産の原理と輸送費込み卸値を勘定し、総合して安いこともないからなのだろう。
つまり、実質は「アジアの工場」であり世界の工場ではなく、さらにいえば日韓とタイワンの移築工場地であるにすぎない。ホンコンが例外だとして、そこは一種の民族自治区なのであり、某国の一面をうつしだしているだけでまったく全体を説明しない。
これらの推論で私の発見したことは、EU圏がなんらかの恐慌でbloc経済を敷いたら途端に某国の成長率は急落し、バブル化して暴落に変わるだろうということだ。
なぜなら、食料や情報商材とことなり工業製品については購買力担保のない過剰生産による失業率の救済が働かないので、この輸出依存の平価ベース成長率とは母市場に依存するまやかしの膨張であって、国内の多くの階層へその所得が分配されないかぎりはどれほど成長率を誇示してみてもゆきつく果ては、抱え込んだ労働難民の貧窮なのだ。
共産党独裁の終了点はこの予測とまったく一致するだろう。そのとき、某国は没落するだろう。そしてこの際に起こる暴動への介入による救済をはかるかどうかは、おそらく米国の高級官僚および各ユダヤ資本の動向が左右するだろう。
ナチス以来の資本流動性の最高高が米国にあるかぎり、地球市場はそこを中心として回る。そしてこの歴史運動に対して日本の執れる立場は、東南アジア市場のその時点での平価支配力によるだろう。
最も確率の高い変動は、EUへの打撃が米市場とインドとの旧英語圏での昼夜おかぬ協調ではかられた大幅な情報産業の優位をくずしえないだけ、いわば後進地化しだす瞬間である。
おそらくこの瞬間は、英米間の属した母市場に関する過去をひいた反目と、それにともなう国連内での米の単独行動化によるだろう。
具体的には、石油利権の強化が中東地域の一体化で現実のものとなったとき、イスラエルを守る必要のある米国は特に内陸国としてのメタン資源に恵まれないドイツとの利害関係から、国連決議における欧州覇権から離脱する。この際にEUは先にアジアを押さえ込むため共通貨幣を援用したブロックで世界の三分割を行うはずだ。
そして行動原則として受動的なインドは、もと宗主国との人種論のつながりも意識して某国より米国と協調する。よって某国はもともと対内的に仮想敵国視させてきた日本を少なくとも国際市場から排除しなければならない。
この結果、某国輸出は激減し、また原材料としての技術還入もせき止められるので行き詰まった左傾過激派は、対外侵略で販路拡充を主義せざるをえない。
日本は可能なら中華思想で抱え込むだろうが、もし日本が防衛戦を張る風を在日米軍誘導か警察防衛でみせるならその被害をかんがみて、まずはチベット自治区、つぎに朝鮮半島、それからインドへ睨みをきかせて西への侵攻を試みるだろう。
これらを市場の動力学としてみわたせば、日本が市場において現時点でとっておくべき最良の手は東南アジア諸国の購買力平価を寡占し、その母市場の規模を某国の崩壊以前にできるだけ強化しておくことだ。
そうすれば侵略化した独裁政権が海上貿易を封鎖しようとしても、少なくとも対米協調を連盟か条約で図ることで輸入すべき食糧資源確保と、タイワンとも共通の燃料源の護持を可能とし、そして各連合同時恐慌につながるだろう最もおそるべき消費力激減によるハイパーインフレ、それに先立つ日本一国についてみれば最悪の“孤立鎖国化”だけは、母市場人口比購買力の十分な大きさで避けられる。
もし孤立鎖国が現実のものとなれば、資源の極端な少なさなる特殊条件のある我が国は、某国の持久戦によって侵略される可能性も十分ある。
食糧と資源を絶てばその極端な左傾かいつもの右傾によって自動的に内紛か戦端が現実化するであろう。そして大規模な資源を背景にもち十分に機械装備で近代化された軍備の某国とは、もし米国が傭兵を撤退させるか消極化させNAFTAを中心とした流通ブロック化をはかれば持久戦において粘り切れる可能性も低い。
『大平洋市場の指導者』としてふるまうかぎり、日本には米大陸と隣接した母市場のうえで存続性が保たれる。しかしこれを手放したりなんらかの勘違いで突き放せば、その地位はより野心的な大国に侵略され失われゆくであろう。
アメリカ国内との貿易による伸びは、思いの外たかくない。これは孤立主義の米内ではもともと貿易嗜好が少ないうえ、穀物取引との交換をのぞけば、純アメリカ国内製の製品よりも、大量生産の原理と輸送費込み卸値を勘定し、総合して安いこともないからなのだろう。
つまり、実質は「アジアの工場」であり世界の工場ではなく、さらにいえば日韓とタイワンの移築工場地であるにすぎない。ホンコンが例外だとして、そこは一種の民族自治区なのであり、某国の一面をうつしだしているだけでまったく全体を説明しない。
これらの推論で私の発見したことは、EU圏がなんらかの恐慌でbloc経済を敷いたら途端に某国の成長率は急落し、バブル化して暴落に変わるだろうということだ。
なぜなら、食料や情報商材とことなり工業製品については購買力担保のない過剰生産による失業率の救済が働かないので、この輸出依存の平価ベース成長率とは母市場に依存するまやかしの膨張であって、国内の多くの階層へその所得が分配されないかぎりはどれほど成長率を誇示してみてもゆきつく果ては、抱え込んだ労働難民の貧窮なのだ。
共産党独裁の終了点はこの予測とまったく一致するだろう。そのとき、某国は没落するだろう。そしてこの際に起こる暴動への介入による救済をはかるかどうかは、おそらく米国の高級官僚および各ユダヤ資本の動向が左右するだろう。
ナチス以来の資本流動性の最高高が米国にあるかぎり、地球市場はそこを中心として回る。そしてこの歴史運動に対して日本の執れる立場は、東南アジア市場のその時点での平価支配力によるだろう。
最も確率の高い変動は、EUへの打撃が米市場とインドとの旧英語圏での昼夜おかぬ協調ではかられた大幅な情報産業の優位をくずしえないだけ、いわば後進地化しだす瞬間である。
おそらくこの瞬間は、英米間の属した母市場に関する過去をひいた反目と、それにともなう国連内での米の単独行動化によるだろう。
具体的には、石油利権の強化が中東地域の一体化で現実のものとなったとき、イスラエルを守る必要のある米国は特に内陸国としてのメタン資源に恵まれないドイツとの利害関係から、国連決議における欧州覇権から離脱する。この際にEUは先にアジアを押さえ込むため共通貨幣を援用したブロックで世界の三分割を行うはずだ。
そして行動原則として受動的なインドは、もと宗主国との人種論のつながりも意識して某国より米国と協調する。よって某国はもともと対内的に仮想敵国視させてきた日本を少なくとも国際市場から排除しなければならない。
この結果、某国輸出は激減し、また原材料としての技術還入もせき止められるので行き詰まった左傾過激派は、対外侵略で販路拡充を主義せざるをえない。
日本は可能なら中華思想で抱え込むだろうが、もし日本が防衛戦を張る風を在日米軍誘導か警察防衛でみせるならその被害をかんがみて、まずはチベット自治区、つぎに朝鮮半島、それからインドへ睨みをきかせて西への侵攻を試みるだろう。
これらを市場の動力学としてみわたせば、日本が市場において現時点でとっておくべき最良の手は東南アジア諸国の購買力平価を寡占し、その母市場の規模を某国の崩壊以前にできるだけ強化しておくことだ。
そうすれば侵略化した独裁政権が海上貿易を封鎖しようとしても、少なくとも対米協調を連盟か条約で図ることで輸入すべき食糧資源確保と、タイワンとも共通の燃料源の護持を可能とし、そして各連合同時恐慌につながるだろう最もおそるべき消費力激減によるハイパーインフレ、それに先立つ日本一国についてみれば最悪の“孤立鎖国化”だけは、母市場人口比購買力の十分な大きさで避けられる。
もし孤立鎖国が現実のものとなれば、資源の極端な少なさなる特殊条件のある我が国は、某国の持久戦によって侵略される可能性も十分ある。
食糧と資源を絶てばその極端な左傾かいつもの右傾によって自動的に内紛か戦端が現実化するであろう。そして大規模な資源を背景にもち十分に機械装備で近代化された軍備の某国とは、もし米国が傭兵を撤退させるか消極化させNAFTAを中心とした流通ブロック化をはかれば持久戦において粘り切れる可能性も低い。
『大平洋市場の指導者』としてふるまうかぎり、日本には米大陸と隣接した母市場のうえで存続性が保たれる。しかしこれを手放したりなんらかの勘違いで突き放せば、その地位はより野心的な大国に侵略され失われゆくであろう。
2009年12月1日
京の偽善
宇宙で生き残るには、常に進化競走の先頭にたてねばならぬなるむやみやたら急き立てる現世第一の愚直な価値観は疑問だ。恐竜ですら進化が即生存保証ではなかった。真に重要なのは、環境変異へあらた適応できる様な「形質の多彩さ」を種の分岐のあちこちにのこすことらしい。つまり伝統分岐の系統的豊富さが要る。民主政が地方自治を最も効き目のある自己啓発方法としているにも関わらず、中央からの上位下達をおしつけた地域主権風の天下り利権へ援用するなど実直な論理面からいってもまるで自家撞着に終わっている。
地方を経済力、いいかえれば商業性かどうかだけで全格付けしたがる様な歪んだ慣習を、今一度過去の徳目へ照らして戒めるがいい。
地域趣味の多様さを行政の命題としないなら、今日少しなりとも中央国政に関わるべきではない。
地方を経済力、いいかえれば商業性かどうかだけで全格付けしたがる様な歪んだ慣習を、今一度過去の徳目へ照らして戒めるがいい。
地域趣味の多様さを行政の命題としないなら、今日少しなりとも中央国政に関わるべきではない。