2007年9月6日

文芸

文芸は科学に優る。それは普く人間を引き連れて行く。

2007年9月4日

品性の改め

人間はいずれもみな従前にまさる道を行くよう仕向けられ又実際余程の失敗がない限りそうなるものだ。
 しかしその歩みには努力格差がある。よって、このまさりかたの中途で選択を働かせるに、人間の品性改良へは人々に努力の習慣をつけるが良い。うまれつきすぐれた者は少ししかそれをてらわないが、最大限の努力でそうする者も似た状態をさぐるだろう。

2007年9月2日

政道論

自由偏重の民主政体は単なる国際競争の方便であり文明の目的ではない。それは持続不可能であり、遅かれ早かれ衆愚政へ退廃し、外的侵略で亡ぶ。文士はその中で現代政権死後の新芽の養生に充分準備しておけば良い。自由国家の老廃そのものは避けられず、寧ろそれこそ新たな再生の試金石となるだろう。持続可能なのは民主社会主義、又それを通じた中道政体であり、既に北欧三国では原型が実現されている。
 早晩アメリカの世界史中に必然な崩壊を傍目に看ているだけでは済まない日本に於いてさえ、「最先進国のモデル」へ向けて自らの脱構築を計る方法は存在する。それは彼と是、不良アメリカと善良北欧を明白に比較して、民衆へ近未来の模範を選ばせる事だ。
 強国追従は狭くなった地球で和平を執る為に最悪のシナリオの一つとなる。なぜなら覇権者の自由主義暴走とは単なる国際絶対王制でしかなく、いずれテロリストに革命される。破滅を避けるには当の王には気づかれないようにそっと、悪友の集会から徐々に足を洗うしかない。密かに精選した後発民間へ新規足場を築き上げたら、傲慢に陥った棟梁を革命する瞬間を辛抱強く待て。官尊民卑の悪習を一掃するには絶滅的な体制崩壊を一度通過した方が良い。
 現代人は恰も知らぬ振りで覇権者の犬たる日本人官僚を騙し、民主主義を闇雲に狂信させて自らの国家を破綻させれば良い。
 改良主義化はその後で充分だ。暗喩すれば、悪貨を根絶しなければ新通貨を流通させてはならない事。

 さもなければ単に国体退行に終わり封建体制は復活し、国寿は致命的に侵されるだろう。例えば現代中国が封建的中央集権体制を継続したまま民主化の振りをしたことで却って国体を虚弱化し、建国50年足らずのわずかな寿命をますます縮めた様に。

倫理学

本能も無意識の構造的損得勘定に基づく利己心。その顕れが文明内理性と対立均衡するのは単に生存闘争特性の射程差。男女性別についても同様。
 本能が昇華された感情という特徴が人類の近い利他性をつくる。理性が遠いそれなのと働きは等しい。
 究極に理想的な人間は本能と理性を高い次元で兼ね備えるだろう。両者は矛盾せず調和する。博愛や慈悲、という言葉の意味するところがこの過去の人類がうみだした例だ。

関係

もし人間関係を破壊したくなければ家族や友達とビジネスを始めてはいけない。

国体論

官民調和は国体の理想だが、両者は癒着してはならない。

忠告

親しい友人の真剣な忠告ほど人生の岐路で指針になるものはない。

2007年8月31日

東京人の観察

煙草を吸う女。こういう女から産まれた子供は悲惨だろう。生来不健康のハンディキャップはないから。

2007年8月29日

風紀

もし日本の市民をさらに進化させたければ、古き良きイギリス風の純愛社交の場を構造づける。プロテスタンティズムを消化して武士道と結びつける。精神至上主義を文学的に回復する等が有効だろう。

2007年8月28日

独歩

獣から遠ざかる程、人は貴い。人間には高尚な生活以外に指すべき目標なし。どの代であれ、同時代人はまともに相手にすべきほど立派ではあり得ない。独り歩め。しかしながら、既存した伴侶は愛せよ。

世の中

経験程人間を愚鈍へ誘なうものなし。なぜなら世間には俗物が住んでいるのだから。人生経験は多彩であるべきではない。もしそうであれば感性は摩耗するだろう。可能なかぎり白紙であれ。と同時に世知に長けるよう工夫を尽くせ。
 単なる知としての世間と世馴れとは人品をはるかに隔てる。君が雅たりたければ最小経験と最大知識とを目指すのが良い。あまり世に出るな、隠れて暮らせ。知り合いを増やすな、自由時間を確保せよ。

2007年8月27日

信仰

愚民は純潔の意義が道徳にある事を知らぬ。
それが故に純愛が単なる無粋であると思い込み、悪徳に憑かれた子孫もろとも身を亡ぼす。

君もし幸福に成りたければ純潔を守り切れ。
異性と婚前に交わるな。
もしこの忠告を聞き逃せば、お前達の仲間は必ず獣類の地獄へまっ逆さまに堕ちるものだ。

2007年8月25日

性愛論

一夫一妻制度に適応しない個体は淘汰されて行く。人類は種の最多種化の為、如何なる個体へも繁殖の機会を提供しようと企画するから、害他的変異、つまりそのくみあわせをへらしてしまう姦淫を行う浮気者と、場合によっては同様の業を制度化する多妻主義者だけを厭う。
 地球文明において人類個体が最高度適応的かは、子孫養育を含める限り配偶の時代内最適選択に因る。彼らにとって性格が婚姻の為に最大の要因である理由はそこにある。そしてそういう性格は精神知能の発展確保によってしか充分育てられない。なぜなら身体容積の問題から、学習動物としてのみ人類は産育を可能にしている。
 性格が肉体差に原因する以上、容姿自体は性格の方向づけへ利用される。我々が好んで性選択する個性とはみな理想的性格を目的にしている。肉体は性格の象徴である。逆も又然り。ここに我々は古代ギリシア的な精神と肉体の乖離を同じ理念へ調停することができる。魂と体は同じもの、つまり形質へ異なる見方をしている丈。
 自然と制度の均衡は男女各々における理想的な中庸を目指して性淘汰を行う。もし進化の必然があるなら理想的人間についてのみだろう。暗喩すれば神の似姿として人間はあるべくうつくしい。

2007年8月24日

社会的幸福論

幸福そのものは人間の調和を意味する。社会と自然の調和が人間を築く。我々は獣性から神性へと絶えず導かれる。人間には度合いがあり、個性はその多様観をつくる。しかし如何なる個性と雖も精神向上への漸進にある。知能は人類を獣類からしかと見分ける唯一の特徴である。従って精神性も知能の範囲にある。それは彼らへ特定の性格を持たせて遠類の不条理から離脱させた。
 人類は社会という新たな猿山を築く。そこに不条理が存在しない訳ではない。唯、精神性の恩寵によって生存闘争の不快な面が緩和されるに過ぎない。社会契約により人類は同類殺害を集団的に統制することにさえ成功した。
 だが実態は彼らとて獣類から完全に脱化した神類ではない。大脳は新皮質を末梢神経として構築した。それは聊かも基幹神経としての旧皮質の消滅に至って居ない。彼らの社会的拘束の一切を外せば人類種から狼少女は育つ。言い換えれば文明度は社会的にしか量り得ない。我々の社会が人間に幸福をもたらす唯一の手段なのだ。
 絶えず脱構築し改良して行く社会構造の文明化が人間を救済する方法であれ。それは自然の悲惨な混沌を不条理として抑制し、理想の漸近的実現へと絶えず時代を導く。

文明論

文明化が野蛮からの脱出である限りそれは知能に原因する人間の精神化だろう。
 福祉、つまり最大多数の最高幸福を達成する為に、知能あるところ世界を文明化する。それは思想の合理化により社会秩序を建設する。
 自然は究極のところ消滅しない。我々の作為はすべて自然からの抽出に留まる。それはentropyの抑制によって生活の調和を目指す。

2007年8月23日

実践理性と死

もし理性という働きそのものからの解放を求めるなら自殺する他にあり得ない。
 義務がかれを生に結び続けるのは定言命法の故に。従って理性は自死を退ける。
 生が義務の声を遂行する限り、我々は絶えず神格へ導かれる。
 人格とは当為へ向かう永久の努力のさなかにある。正義はその適応性に伴ってのみ死を省みない。

定め

自由意志は定めある限り成立しない。定めはあまねく往き渡る。我々の演技は定めの完成の為に繋がって行く。

聖性

権力構造は同時代的な作為である以上、理想趣味の為の利用価値しかない。政治家はこの意味で実践者としてしか存在しない。些かもその価値を減退する内容ではないが。
 アリストテレスの幸福主義が人間の究極の結論ならば、我々は理性に従属する生命体でしかない。実践家に対してであれ技術家に対してであれ、理論家に対するのと同等の地位が認められねばならない。理論そのものは聖性の側面でしかないのだから。
 幸福の相対性は適応行動の聖性に由来する。

人類文明論

人々は宇宙の形態の一類に過ぎず、自らの集団生活を保つ為に文明を営々と築き上げる。彼らの構造はこうだ。しかし、なぜ君の魂はその中に含まれてしまったのか。実存は単に偶然でしかない。だが、その偶然は一度起こった以上何度でも繰り返される。人間は永続する。それは精神という仕方で永久に生き延びようとするアキレスに似ている。すべての文化とは哺乳類の繁殖活動から離脱した個体群による架構。人類の貧弱さを省みれば彼らは猿類界の敗惨者だったが、同時にその逃避によっていつしか新たな一族を物す。人類はそうして成立した哺乳類の一類だったし、これからも命ある限りそうだろう。果たして哺乳類自体にどのくらいの生存力があるのか我々は究極のところ想像的にしか予測できない。だがその想像は彼らに信仰の基礎、当為ないしは理想を与える。文明は理想に協賛する一族を新たに人類内に建築しようとする。文明人類とは人類そのものと次第に区別される。いわゆる文明国とそれ以外との格差の両端は永久に縮まないだろう。両者の中に存在している最高度の知能とチンパンジーに類似した野蛮人との生息条件とは殆ど同じ生物だとは感じられない程に異なって行くこと。
 全ての人類に対して文明化を偏見するのは過ちでしかない。我々が各地へ分化し始めた時点で我々の運命の過半は予定され続けて来た。やがてそれは人種と語族となり時に民族意識となり国家となった。そして進化ならぬ分化は際限なく進む。真を目的にする地域住民と文明をそうするものとでは文明自体に性格差が生じる。例えば日本語は総alphabet化されていない。彼らにとって漢語謂が伝統的保守性だから。とすればおのずからローマ字への表記用記号の統合にも速度差が生じる。この速度差は分化の一形態に過ぎない。言い換えれば文明度は構造的であり、決して一様ではない。彼らは実際には多様系を目指すのであり、単なる文明極点を志向しない。
 どのような個性も多様観の一部分。統一的な文明極点は理想的にしか想像できない。それは如何なる理性的存在者についても同様。人類が普遍的と見なすあらゆる作為は地球構造に支配される。従って彼らの最高峰文明でさえ決して宇宙多様系の建築ではあり得ない。彼らは単に制度と分化の間を行き来する過渡現象だ。精神に対する普遍視は不適当。それは我々の肉体に由来し、肉体固有の限界な知能を超えられない。人類が永久に無知たることを免れないのは彼らの精神が肉体に繋がれた現象だから。彼らの現象界に対する認識の拡張; つまり科学がどの程度成功して行ったにせよ、理性の自己目的性は天敵不在の状況に依存している固有の奇跡に過ぎない。
 芸術は文明を築く。あらゆる作為が自然に対するentropy減少でしかあり得ない以上、我々の生存価値は多様観中の動態を増進させて行くような再創造の永久継続にしかない、我々に未来を開示する展望として。比例的な整理による秩序化でさえその為に用いうる手法の一つに過ぎない。

男女別義

数十億年かけて育んで来た地球生態観が朝礼暮改なしうる筈はない。よってfeminismは単に方便の増長をもたらすに過ぎない。白人社会で男女同権が適応的となったのはアメリカ文化のわずか200年前後の影響波に過ぎず、いずれ矛盾の露呈により愍滅されるだろう。
 市民化の方便として女をおだてる手腕に長けることが近代文明に於いて家族結合の知的水準強化に応用できたに過ぎない。もし博士の女性を未開人男性と並置すれば我々は格差が後天的に仕組まれる意味を悟るだろう。社会秩序に於いては男女の別、つまり性的異型がその単位時間分の配偶多様性について最も能率的なのは問う迄もない。ここへの分業は地球生態が育て得た貴重な天分であり、単なる平等天賦説の前には比較しうる真実ではない。以上を知り哲るには同性愛生物(雌雄同体)が総体として決して複雑な組織を発達なし得なかった史的事実を観察せよ。
 文明は雌雄を含むより多彩微妙な人間関係を養成する。それを単なる地球生態覇権飽和的退廃のせいに帰することはできない。人類は種の最大化を通じて社会を細分し、転回抱擁し、やがてはその中から宇宙人類の進化を誘なう。

2007年8月22日

芸術論

文学に於けるrealismは絵画や彫刻に於ける場合と同様に幻想に過ぎない。芸術についてrealismはillusionismの換言である他ない。
 幻想芸術は現実の側が相対して悲劇的だった場合には慰めのため必要だろう、即ちcatharsis。
 文明の展開に従って現実の中の極端な悲喜劇性は減退して行く。代わりに芸術は事物の抽象性を要求する。それは彼らを取り巻く現実を幸福の次元で表現する様に求める。
 あまねく芸術についてrealismは抽象、継いでidealismに向かって進化する。すべて芸術の理想は絶えざる抽象によってしか表現できない。
 自然と芸術との間の調和は人為による抽象に否応なく忍び込む自然に関してのみ理想的である。

思潮論

学術は文化史脈上にしか実在しない。それは見えない人々にとっては生涯見えず、見なくて済むものでさえある。
 文化史脈は世界諸語族の連想形式に由来する。それは伝統的なもの。例えば哲学は意味に於ける、文学は記号に於ける史脈を抽象する。それは単なる言語学の命題ではなく、個人的世界観について。科学の地位が向上する事は我々の中の知性を重視する人類思潮の謂い。それは前二者と同様に認識を抽象する。哲学は理性の、文学は感性の人類思潮。
 又、科学・哲学・文学とは文の領域傾向に過ぎず、その境界線は時代思潮の偏見でなければひたすら差延の合間にしか引き得ない。

2007年8月21日

脱自由主義説

人間の世俗的価値は肩書きにしか存在しない。
何故ならそれは多少あれ客観的な身分証明書だからである。

権力構造が与える名分は支配者の権威を強化し、又個人にそれへの従属を強いる。
民主主義社会[と現代を我々が知覚する範囲]に於いては、何らかの主権以上の権力者がこの賞与と服従の構図を利用して「政治」を行う。言い換えれば名分とは如何なる物であれ政治権力なのである。

 爵位の拒否は政治権力の否定である。
我々は主権に対してすら拒否権を持たねばならないが、自然権の放棄という言い分を伴って地球中の如何なる私生児でさえ認知され次第一国民たらざるを得ない。

「機会の平等」は民主主義社会の前提とされアメリカ合衆国憲法に嘔われた。
しかし実際に人間は扶養権益の枠内で育つのであり、結果として成人に至る頃には再出発点に多大なハンディキャップが存在するのが普通である。
そして現代先進国で顕著な学位制の確立は益々封建的身分の世襲を誘引して行く。


 我々は「結果の平等」を否定してはならない。
それは少なくとも機会の平等をより厳格化する為にさえ必要なのだ。
 調整は政治権力の命題であり、しかもそれは他ならず名分によって図られるべきだ。


 日本企業は寡頭競争を合理的に淘汰する為に学閥差別を応用して来た。
産業体制が脱工業化を果たすに従って異なる種類の能力が要請され、結果として雇用の流動と差別の緩和が実現されて行く。
 しかし学位制が市場経済の知的能力の尺度に援用される限り、根本的な差別は撤廃され得ない。

世襲制は中庸を守ってのみ世代間家業の蓄積なる有効性を保つ。
学位制の脱構築は『奨学制度の充実』によってしか計り得ないだろう。
 それは単に個々の大学経営に依存するだけでは調整範囲について不充分である。
従って国家及び国連権力をこの為に再構築し直すべきである。

いずれ自由偏重主義には矛盾があり、様々な不条理の露呈が致命的になる以前に我々は民主社会主義的調整の政策へ準備を怠ってはならない。

2007年8月20日

生死

全ての人間は時を経て死ぬ。その人に価値があるか否かは他の人によってしか測り得ない。人は人間にしか存在しない。意識を失う瞬間が自然に訪れるとは限らず、人間は常に生き方の表示を延長させて行く所にのみ存在価値を見出す他ない。生体ある限り如何なる栄誉に対してすら欲望の源が満たされる事は無い。
 全て人間は相対的にしか人間たり得ない。他の個体に比べてのみ主体性は認識される。且つ人間は差延し、我々は自らを絶えず再生させる性格のうちに自分らしさを定義づけて生き延びる。彼らに偉大と凡庸とが在るならそれが欲望を他個性相対的にどう導き得たか次第だ。民族や国家についてすら同様に。人類の全体は秩序ある平和の建設を要求している。少なくとも地球儀の範囲でそれに比較的貢献為し得た個性を我々は偉大と認めるらしい。
 理性的生命としてそれだけで構わない筈が無い。我々は真理と名づけた定式を思想内に抽象する。では真理に近い思想の持ち主がその他の人間より優るのだろうか。
 時代思潮のさなかにあって無数の思念がうごめいている。彼らの内に最高度の聖人と最低級の俗物とが共存する体系は社会と呼ばれる。人間の生死は社会にとってのみ存在する。

2007年8月19日

文学手本説

文学は聖書と雑誌の間を媒介する中間的書籍で、その衆生啓蒙性にのみ価値がある。世界宗教無き蛮族は何らかの信仰なしに心身健全を保ちえない。よって社会環境の編成に伴う新たな手本が需要される。

 文学は社会が存続する限り生き残る。それは傑作に至り識字大衆の文明度を象徴する。

 カント的道徳神学が必要ならばユダヤ教・儒教・神道・ヒンズー教などの少数宗派はより巨大な架構に含まれ、一神教の単純さへ回収されて行くだろう。「無形的唯一神の信仰」は有効期限の無い保存性に於いて専ら異文化間の通則を得る為に便利故。
 仏教の本義に於いて暗喩的神格概念がなく、純粋に形而上的な縁起法則のみが信仰対象に崇められているとは、それが一神教の次段にある実証宗教の原型である事を示している。天地教が神を置かず、道徳因果のみを抽出した信仰な限りそれは未来科学とより良く調和する世界宗教となるだろう。仏教は天地教に包含される。なぜなら仏道が抜苦与楽すなわち慈悲福祉を志向する以上、その究極は中庸善行の自律的義務付けに迄還元されて行く。それは一神教の当為と合致する。

 文学は宗教の能率的伝達について価値を持つ。文芸上の真は非科学的であり、単に感覚的観察に留まる。故に時代変遷後にも価値を保つような作品とは啓蒙的歓待の書に他ならない。その目的は最大多数の最高啓発にある。文芸は本来文明娯楽化された教科書だった。
 辞書は語義を列記してあるに過ぎないが、文学はその文脈づけの様々な手法に則り、暇人たる哲学好事家を超えて万民へ百科全書を通読させえる。

Feminismの考察

自然が分け与えた性別の理由、彼らの分業の用に足る様設らえられる。
 突然変異無き限り女性に、男性以上の心身能力を発揮する事への生来的制限が家庭内外での協業を計らせる。適度な男女分業がない社会組織では能率は低下し経済も衰微する。
 社会の動きはこうして、遺伝と獲得の両形質面で適宜に男女差をつくろうとしてきた。単にどんな内容を伴う性差なのかが文化面でとわれるのみ。

思索

強者の地位を狂気から救うものは喜捨のみ。

2007年8月18日

隣国

日韓の根本相違は神道の裏支配しかない。

商品開発

アルコールなしのビール――都会向け健康飲料として。

2007年8月17日

思索

真善美は聖の側面。それらの三身が理想を創る。

聖性の側面

科学・哲学・文学とは文面の抽象‐具体度の偏差値にすぎず、且つその境界は厳密ではありえない。知性・理性・感性とは各々の文化傾向のいいかえ用語にすぎず、優劣ですらない。それらは単に思考性質の三種であり等価と云われる。
 我々はかの三頭を高める務めを負う。それらが融合する事は必ずしも正しくなく良くはない。

地政学

歴史は風土へ時代様式を降らせ、混ぜ合わせたり押し流したりする。だが固有の命脈は世帯を超えて繋がる。種は適材適所を択ぶ為に定着しなければ引っ越しを繰り返す。遊牧民族に於いて土地は血統へ帰納される。

2007年8月16日

文芸論

文の進化は共同化の進化に並行的。それは文面に於ける抽出であり、文通という芸を風雅にする。
 もし記号を含めれば学術とは全て文の組み合わせにすぎない。我々の認識はこの文学の指導に従う。なぜなら確定性、つまり検証可能性の高い文面は口頭よりも普通、抽象し易い。

純潔度

例えば古代日本の社会に於いて、階級や地域に応じて男性の貞操が差ほど重視されなかった背景には地政学的理由がある。それは各国で王権の世襲状態にみられた様に、多妻の種を通じた繁殖速度差により群れ権力を寡占しようとした絶対主義の必然的独裁にともなった文化で、世界宗教からみれば退廃だった。現代でも猿達と同様、商業的大都市圏にこのなごりがみられる。

 近代化が昇華を方便として内発的な発展を志向し、充分な人口密度によって以上の構造から自らを解放しようとしても不思議はない。所がこの様な作為が全ての風土で完全に成功することはないだろう。文化律は、よく特定民族的でさえあるからだ。

 日本人なるものが再創造的な文化規制によって恋愛観念を消化したにせよ、その根本義は独特の慣習へ回収されて行く。夫婦の大倫は男女相互の貞潔によってしか充分に図られ得ない。それは独裁化した天皇家をはじめ古代のどの低落しきったSodom的倭へさえ正妻と他との差別として婚姻関係へ要求されて居た。そもそも性愛倫理の要求は社会秩序である。従って「例外」として一部の絶倫へ白眼視されていたにせよ種に於いて夫婦一対は幸福に値する対称形であり、そこで純潔は主要な善であった。

 婚姻前後に関わらず、他ならぬ一人のみへの献身は男女の関係を信仰の次元に高めた。それは互いの誠実の絶対的な信頼による不即不離の運命共同体を形成せざるを得ない。
 社会階級は経済的偏差によって国家人倫の大本へも微細な民度を配分する。倫理に於いても又、同様に子供の数とその育て方に千差万別の格差が生じる。それは来るべき新たな変化に満ちた時代への適応の準備として蓄えられ、微分されて行く。この流れが逆しまになるのは革命があった時を除いてあり得ない。民族的統一という幻惑の煽動される時はその致命的な危機より勝るはない様に。
 もし純潔が善の規律とされるならそれが階級秩序の方便となる。ある生産制度下で支配と被支配階級の頭数を統率する為にも、倫理は存在する。

 純潔は度合いのみならず尚更信仰を要請する。意思に於いて裏切りが存在した際には既にその定義は失われてしまう。

2007年8月15日

東京文化の観察

電車内にて人前で化粧する女。低脳をみせしめにするための儀式。

命

人は自分の人生を択ぶ。教養の程度が愛憎を図る。彼らの本性は世界精神に規定されているのに。生存競争、世代交代、どこ迄も終わりは無い。辛く長く、意味も無く、人生は丁寧に束ねた光のように儚い。遊び戯れて死ぬるわずかな間を延びる現象。追い風の為に向かい風の為に棚引く祈り。命。

路頭

近代が引き裂いた二つの世界の中をさまよっている。人類の生活、彼らは境界を侵し、やがては無に還る。日本人は他のあらゆる西洋人と同じく、別の仕方で愚かしく尊い。だがその為に何があるだろう。他の東洋人も何も違いない法則の元に生まれていた。進化の偶然を利己主義に引き付ける丈では誰も孤独から脱し得ないのに。孤立して在れ。いずれ全ては未完なり。

2007年8月11日

武道

常に人を打ち倒しえる姿勢を備えていなければならない。人に打倒させ得るが、自らに打倒できない場面に究すれば補佐するか、退け。

配偶論

自由恋愛の奨励が即風紀向上をもたらすというのは誤解なり(例えば福沢・漱石)。結婚とは偏に経済的担保の共生契約に過ぎず。恋愛とは目的に非ず、その契約制度に期待された自由な配偶選択の機会幅已。
 どころか、現に抑圧の意図的に解除された恋愛環境に於いて、却って猶予の延長はその退廃をもたらす。彼らは性愛を悪戯けへ弄ぶに過ぎず、結局社会的生産力へ直に繋がらず。出生率低下と離婚率上昇。

 もし風紀自体を向上させたくば、自由な配偶選択の奨励と両輪に家計を潤す経済体制を整えざるベからず。かつ、逆説すれば君経済的成長を見込めぬ時勢と察すれば寧ろ風紀の厳粛に孜々努めざるベからず。
 これ恋愛乃ち自由配偶選択と家計の秤なり。もし恋愛を解放したくば単に家庭を築く家計を潤さざるベからず、又既に家計を潤さば風紀の厳格を社交に浸透せざるベからず。衣食足りて礼節を知る、之又交際の発展に関しても同様。

2007年8月10日

日本の徳

中国を含むアジア連合を避け、アメリカとカナダを含む太平洋連合に協賛する方がどれだけ世界史に福祉あるか知れない。

近代文明論

知性、理性、感性はそれぞれ理論、実践、技術すなわち真、善、美のための知能特性に由来する。科学、哲学、芸術はこれらの文化。私はこれらの文化を総称して学術と呼ぼう。学術に於いて三権独立は必然となる。
 近代文明人は学術、政治、経済という自律すべき三権の調和を国家運営へ応用する。それらはやはり同様の理論・実践・技術の組み換え構造と考えられる。もし国家連合が可能なら、以上を考慮して学政経の三位を国際的に建設しなければならない。また少なくとも近代政治に於いては、理論・実践・技術に当てはまる立法・司法・行政のいわゆる三権分立が準備となる。
 国際連合が充分に機能するには更に経済上の三権に均衡がはかられるをえる。これは理論・実践・技術にあてはまる家計・政府・企業によってはかられる。家計は消費を、企業は生産を、政府はこの両者からの市場によってつくられた配分のかたよりへの調整を追求する。国家連合間におけるこれらの自律した平衡をはかるには国際市場への適度な介入が必須となる。偏った超大国覇権の打破は集団制裁の国際包囲網によって可能だろう。

文学論

文学とは合理美の抽出。それは多彩性の作為と同時に文明の便利でもある。文体と文脈の揚棄が傑作を生む。教養と天才は不可欠であり、名品は万世を啓発する古典となる。文学は世界観の見極めによって未来文明への布石となる。最高傑作已が聖書として読み継がれる。我々が娯楽としての文芸を弄ぶのは審美淘汰の便宜に過ぎない。
 どのような書物と雖も最大多数の最高啓発則ち救済を目指している。文芸が哲学より尊いならその大衆性に因る。聖書が科学書より貴いなら同じ理由から。文学は聖書の更新。それは旧典を新たな智恵と折衷させて時世へ翻訳する文化技術。よって文学は宗教を土台とし、又その真理を抽象する。
 救済の度合いに応じてのみ文学の偉業は量られうるだろう。時代を通じて古典化しない明文こそが万民の参照に値する。宿世(すくせ)を越境し続ける経典は古今東西人間世界の真相を穿(うが)って、理性的存在者の宇宙観へ仮設の信仰方針を与える。
 全ての明文は考えのかたちであり永久に聖書の完成たり得ない。文字に付随した観念だけが理想の契機として重宝される。いずれ一文字で全知を表現する迄、文学は続く。その大衆部を文芸と呼び上座部を哲学と呼ぶ。どちらも文語を通じた聖書の更新という目的に於いて変わらない。科学は数字を含む少数記号を利用して哲学すら抽象化した文化だろう。この方法で現行可能なのは上座部の内、最高峰の知識人を宗派教化する事のみ。科学は知性の宗教。その普及は閑暇への適性に依存する。よって風光明美な涅槃寂静で理論生活への宗教寛容がなければ、比喩の具体性を逃れきれない文学に比べて完全に抽象化しうる科学は一部の特権選良にしか共有される事は無い。いわば科学は上座を文学は下座を救う舟となる。それらは何れが欠けても人類文化を形跡しないだろう。
 科学、哲学、文学は近代迄地球人類文明が育み得た三位一体の活字文化だった。我々は感性、理性、知性という三つの特性をこれ等から成長させる事ができた。そしていずれの特性も近代文明にとっては不可欠となった。

2007年8月9日

創作論

芸術とアカデミズムは相反する。

数理学

宇宙の理由を探ることは数学の手段化を伴う。しかしその認識の限界は同時に手段に在る。総て宇宙論は何れもみな漸近的仮説に留まらざるを得ない。智恵の泉は学究過程の厳密化中にしか無い。物理は学び得ず、思想体系に参加しえるのみだ。しかし我々はこれらの体系を完成へ向かって永久に論理更新させて行く使命を負う。
 理性人の命題は真理の追求にある。真理が相対的にしか認識し得ないにせよ、我々が真理の確律を相対的にも認識しうることは則ちそれを知る経過を意味する。知ることは働きである。全知とは固定した状態では無く、知性の漸進性にとっての進化目的に他なるまい。
 源は果てについての思考と両輪されねばならない。もし片側だけ知り片側を知らない場合があれば、我々は宇宙についての概括にさえ達していないのだ。
 数学しか絶えず積み重ねて学び得ない。数学は我々現代人類が創造する唯一の科学言語である。

2007年8月8日

文芸論

小説は民族史を物語る便覧として役立ったが脱構築思想以後最早その国際定義は無い。語族は国語から解放されたと考えて良い。我々は遊民となる他ない。
 国際文学は近代小説の破格からのみ出発する。現代において私小説すなわち単なる自己中心的現実主義の文化的意義を主張する者がいればお笑い草にしか見えまい。文学的キュビズムは多視点を通じて実存主義的通弊、狭窄な自民族中央史観を悉く排斥する。
 国際遊民は多言語使用者としてしか文芸を創作できないだろう、たとえ翻訳文体を介してさえ。
 現代小説家は多声な物語を折衷する作為を通じてのみ、同時代に献身する筋書きを見つけ得る。振り仮名は詩人の手法であり、文脈の越境は複線的明文化に由る。それらは語句語法や語感の定義のみならず心情を多語族へ伝承する。
 現代文学者の第一声は国際人としての哲学でなければならない。
 だが、無差別博愛や熱狂的自閉がそれ自体特異な様に、或いは如何なる虚構や作り事へもこの個性的友情趣味は各種文化史脈からの要請を万世へ注釈する便覧でありうべき。つまりそれは当代独創的な着眼による文化批判でなければならず、なおかつ審美観点の位置取りは時空普遍的かつその裏付けに多定点なだけ良いのだろう。よって、現代文学の最高峰は碩学的教養と観照の天才なる聖性に於いて測られるだろう。良識に欠けた者の書へ誤った人類内栄冠を与えてはならない。諸文芸賞与論。
 その程度がどの文明を反映するかに関わらず、文明多様観は人類にとって先ず地球史脈型の秩序であるべきだ。脱構築は対流であり、凡そ自傷ではない。
 文学は聖俗の間に風雅を羽含む為に設らえられる特別な祭壇。それは例え何語を通じてすら、最新美観の定義を更新する本となる。

芸術論

反体制を生涯保たない限り芸術家は大成し得ない。芸術は浮利に反する。それが先覚的であればある程、棟梁は俗物を操作しなければならない。巫性はかの審美観の不透過度に因る。且つその美術価は時代の昇華度に依り存する。時代は普遍的・非共時的・通時概念であり、地域的限定を持たない以上、究極の芸術へは文化を超越して漸近しうる已である。若し君が権威に誘惑されたならあらゆる方便を尽くして絶縁すべきである。自己批判を失えば創作性は腐る。

2007年8月7日

ヘーゲル批判

多様観が目的だとすれば、文明は宇宙がそうである如く多声秩序を要請する。我々はギリシアの調和つまり理性が世界中の理想であると考えてはならない。それは文化風土的な当為であり決して万民の規範とは成り得ないのだった。ある時それは脱人間中心的・自然本位な調和となった。彼らにとって幸福はセオーリアによらなかった。そこで理性は感性に従属し、理論理性は技術理性の道具とされた。
 文化交遊を通じて已、純粋理性的存在者、人格は当然の進化を経られる。しかし実際には全文化の保身は不可能。住民の文明化は世界遺産を離脱する様に臨むもの。でなければ地球は何れの御時にか墓場の用地に過ぎない。
 何とは無くても均質化の破格とは元来不自然だと万世へ自覚させよ。観光遺産は壊死文化であらざるを得ない。
 外部からの伝統啓発とその保護買収とは分際に留まる。以外は侵略と呼ぶのだから。この文化的分際の中庸度は単に文明の経済力へ依存している。軍事力は兵器の後手となる。抑止力は侵略力の寡言。よって、もし貴方が少数民族の自然淘汰を憐れむならば私財を投じてその趣味的鑑賞に務める他無い。その国家的な意義は進化の渦中に在る万物誰にとっても存在しえない。
 私がヘーゲルに対して確実に批判しうるのは、統一されざる全体としての梵我一如にのみ現実は存在し又二度と存在しえないという道理。自民族中心主義も脱構築の洗礼を経るべきだろう。

装飾

女性は装飾性を認められるが為に、自体が価値証明ともなっている。

民族精神

「民族意識は魂の幼児期だ、その気質が形成されるのだから」
こういった考え方は、単なる思い込みである。ある文化の働きに対する慣れが、他の文化に適応しきれない人を生み出す場合を強調し過ぎている。つまり、何々人といった枠組みは政治的派閥を目論む権力者が、暴力団乃至政党を結束する為の嘘に過ぎない。

智恵の程度

人が哲学者であるか否かは智恵の態度に応じてしか見分けられない。

科白

孤独と評してみた所でお前が社会の子である限り、永久に道理からは逃れ切れまい。

何の為に生まれたのだ?
献身の為?
死ぬ時には誰もが等しい。
想像力の範囲に幸福を求めよ。決して現実に対して在る可に無い。

人生なる限界へ自覚的にあればこそ、成す可使命は偉大でなければならぬ。
信じるな、行え。
金の為に奔走する者、僅かに浮世の安住へ浮沈する者、何れも果たして虚しい。

隠れて居ても品位は壁を通じて伝わって行くものだ。
人間である限り我々の対象は文明。では目的は?

2007年8月5日

賢愚の言

愚民は物事を複雑にして満足する。賢者には一言で足りる。

2007年8月4日

理想の王国

彼らが文明を築く理由、我々自身の為に。しかし彼らは又、宇宙史の生存闘争者だ。我々の現代は僅かに人類しか理性人を知らない無知に縁起している。彼らの知能を啓発する事、この永久革命としての哲学を通じてすら、人類には固有の限界がある。この限界についての自覚、人間原理の追究は哲学の現代的命題。なぜならこの自覚を通じて限界の克服に努めることによってしか我々は理性の王国の目的を達する建設に参加しえない。
 我々の周縁性の尚更の自覚は地球文明に文化的な個性を育てる土壌ともなる。我々は宇宙の中央文明を見つけなければならない。

流行

流行に敏感になるには食わず嫌いを避ければいい。

2007年8月3日

天才論

我後生へ警告す。現世文壇に一切期待すべからず。現世文壇とは俗物の集合にして、堕落退廃の一大地獄なり。もし文壇にて人道を打ち立てんと欲すれば文壇を観るベからず、出版マスコミその他あらゆる付属物を省みるベからず。唯、当代最高峰の天才作家へ直接弟子入りすべし。天才のみが天才を見出す。これしか天才が世に出る道一切なし。俗物のみが俗物を見出す。俗物が世に蔓延る原因これ以外なし。

女性

女権は自由な男性が解放した。力と云うもののありかと愛玩化への適応がその姿をより女性化させてきた理由。

2007年8月1日

物理学

時の構造、空間によってしか規定されないか、どう時は出来ているか。

2007年7月31日

衆愚淘汰論

適応格差は民族内淘汰を厳格に遂行する。衆愚は救済の道を世界宗教の門にまさぐる他なく、その居場所をさえ見つけられなければ地上から永久に血筋を絶やす。人口抑制の手段として、生存競争の便宜に格差社会ほど好ましい智恵は無い。均質社会はひとえに人口増殖の方便に過ぎなかった。
 同種同類を奴隷として使役し地獄へ釣り込み社会保障を断ち切り過労死へ追い込む。老獪は揚棄され遂には賢明な種族だけが建義を全う繁栄する。その様な必然経過を通じてすら優等種内にも格差は存在するものだ。配分格差と均質調整とは適宜時勢に応じてバランスされねばならない。

 少なくとも現代日本においては衆愚を淘汰することに何一つためらう事は無い。我々は凡そ思い付く総ての肩書きをresetし、代わりに生存実力のみで人間を評定しなければ道を誤る時代を経なければならない。

2007年7月30日

才能論

科学の天才は意味の上で正確な意味での天才、つまり生得的な才ではない。それは大衆より遥かに知性的な知能というものに過ぎないし、かかる才能は学習による以上、能率に格差はあれど飽くまでも或る認識型の模擬の延長にある。もし新たな認識型を創造するような思考を展開した個性があれば、彼は追随の求道を旨とする科学者ではなく、むしろ哲学者と呼ばれる。哲学すなわち形而上学の範囲には、未体系であるべくして幾多の批判と思想の二つの側面そのいずれかが存在する。批判は道徳を構成し、思想は思想潮流つまり思潮を形成する。前者は純粋形而上学つまり道徳哲学と呼ばれ、後者は応用形而上学つまり派生哲学と呼びうる。前者だけが哲学の文脈であり続け、後者は一旦成立すれば切り離されて新たに科学の分野へ編入される。つまり科学は確立された派生哲学思潮に対する学習の延長である限り、生来の天才による独創ではなく、模擬の秀才。生来の感性にのみ適用しうる天才の概念は、芸術の才能にしか用いてはならない。
 では、哲学は天才の事業だろうか。それは単なる学識の誇示ではないし、教養ある暇人達の娯楽というものに言い尽されないだけの社会的必然がある。乃ち、学識の軌道修整を行う事こそ哲学の正しい方法なのだ。そしてこのような観想的思索を行う事のできる才能は、科学的秀才と芸術的天才とは異なる、生来および習得的な実践理性の深度に由来しなければならない。たとえば、哲学的な思索の才に欠ける個性は慣用表現しか使えない文筆家の如く、理性の疑義に耐えうる強度を遂には持ちえない。
 我々は理性の才を充分に発揮せしめる為には、思索の道具としての教養がある程度必要となる事を承知している。それは幼児の思索がいずれも無稽たらざるを得ない事で知れよう。とは言え、単なる百科辞書を最善の哲学者と見なす訳にもいかない人々は、秀才と天才の相克的才能、つまり哲学の才能を英才と呼んでも構うまい。それは閑暇の環境と観想の習慣とがなければ育ちえないものだろう。

美術論

美術館は審美論の見本市。それは丁度、趣味を鍛える為の道場に等しい。
 人々は現代様式の選択の為に美術館を廻る、博物館で古代のそれを参考にする如く。都市とは、全て美術館で構想的な型として試みられ、鑑賞を通じて択ばれた審美観の実践的延長な丈。

2007年7月29日

数理学

純粋な体系的学識に値する唯一の学問は数学だけだ。自然および社会の学はみな多少あれ認識を洗練させて行く事のできる様な仮説の全体に過ぎない。数学では、その数学体系の内部に限ってにせよ証明されない仮説は存在し得ない以上、あらゆる学識が十進法の方式で永遠に有効な知識を構築する。
 我々は先ず数学を学ぶべきであり、次にその認識方法を援用して諸科学へ進まなければならない。この逆では如何なる知識といえども確実な認識には到達しない。
 帰納法は自然・社会両学の仮説提出の方法論として演繹の道具である。

生

俗物は名誉の為に盛衰し、賢者は真理の為に生活する。

サッカー学

攻撃力増強と、組織的サッカーの追求が必要。フォワードへ世界的に極端な高給を与えてJリーグ全体の前衛レベルを引き上げるべき。ジーコ監督において試みられたバックラインの厳格な統率を専らの基準とし、中盤の高いパス精度からストライカーへの繋ぎを変幻自在になるまで鍛え続ける事。

時代

平和は実現し得ず、進化迄の僅かな間を漸近しうる已。

国体改造論

国家地政史的闘争が人間の理念に及ぼす影響は進化速度への期待已。全ての科学は、知性の分で人類を一定の知能傾向へ啓発する役に立つ丈。それは貴族的な幸福主義。然しここへ統一された世界市民が万丈の文明に帰するとはいいきれない。奴隷制度は否応なく世襲の弊害を含まざるをえず、アリストテレス型幸福主義には自滅の計画が基底されている。
 体制は循環構造をえる、乃ち相続税徴収。
 官僚養成学校という通弊を除くには私学を助成せよ。

2007年7月28日

概念

理性の低いものに正義他、複合観念高級概念の類皆目理解できぬ事甚だ普通なり。生態に興味の別あり。

2007年7月27日

工学

自然型エアコン、冬と夏について季節と日々の推移に併せて温湿度を自動緩和する。過ごしづらいと感じる季節の代わり目にその変化を身体の負担を軽減するように微妙にセットされ、季節のピークに向かって徐々に力を弱めて夏冬の緩和を目的とする。決して強すぎる冷暖房となることはなく、真冬や真夏のピークでは寒さや暑さを室内に居ても感じるが、少なくとも極度に過ごしづらくはない。
 サーモスタットと機構の改良が必須。

近未来国家論

国際的疎外を免れる唯一の方便は、国家を美術館にする事。
 いずれ時勢に由来した経済的事情に従って、必然に導かれる余暇の哲学の結果、学識についてすら世界史上での多くを達成してしまっている時が来るだろう。美術館国家から遊園地国家へ、という社会的移行が照らさねばならない近未来の展望。前者は結局資本の自動に還元されざるをえないが、後者はそれを人間前提に復興してattractionへ利用するから。都市は無料の福祉を基底的媒介としたtheme parkへ向かう。それは文化風土を昇華した仮想場としての装いを日々益々深めて行くだろう。美術館としての国家は外国人を鑑賞させるが、遊園地としてはrecreationさせる。そして後者は前者より観光参加の度合いを高める様な積極性である限り、より未来文化の養生に寄与するところ多大。彼らは異邦に必ずしも進んで住むとは限らないが、凡そ誰もが普く感銘を受けて想い出に残すだろう。世界遺産としての国家運営は人類にとっての財宝に数えられるだろう。産業向け技術を専ら実用から解放すること、乃ち理論科学のTheseに対する工学のAntitheseは現代民間にとっての均衡命題と見なされる。
 総合は芸術。それは学問を手段として止揚する。

2007年7月26日

数理史学

数字によって考案された思考体系と幾何学とは、極めて文化的に結合された。デカルト代数学は西洋文化の栄華である。それは極めて注意深い秀才の生業で、我々皆に根拠はない。ユークリッドの証明体系やピタゴラスの定理の導き方がそうである様に。

人生観

俗物の人生観には毫も譲る必要はない。

2007年7月25日

労働者の淘汰

自由主義連合国の現代人は婚前交渉の放置によって比較動物的な個体を放し飼いにして彼らの自然な増殖を誘ない、教養の低い労働者数を増強させる方便をとっていた。
 しかしながら先進国内で現に出生率が抑制されている如く、この人口淘汰法は有効性がなくはない。比較的応用理性に劣る個体群は自らの明らかな社会的不利益を世代間の教育本能で次第に自覚し、何らかの手掛りに訴えて地位を向上しようと多少あれ欲することは上記の率の統計から明らかだ。実践では妥協が付き物なのにも関わらず、十分に計画されない建築が堅固明朗な構成を伴って実現された試しは希なように、偶然の機会を伴って不完全な教育投資を前提として育った子供も又、その最終的結果における未熟は丁度不毛な土地の作物同然であるべく原則されてしまう。
 なおもこの不条理は凡そ有り得る限りの世代内階級闘争を誘引しさえする。もし、実力主義の分野が交替制であれ社会から絶えたら、我々の社会不安は窒息した恐怖政治に流される他ないだろう。
 抑圧の昇華が卓越の基礎である限り、応用理性の高い種類は何れ貴族としての道を迷いなく歩むだろう。幾らか過保護に過ぎて反抗期の至りに自己責任から転落する世襲の弊が観察されるにせよ、彼らの歩みはその利他性に於いて先ず以て正しい。充実した生育環境は優等生を養う土壌に最適化するから。

世界宗教の方便

衆愚にとっては世界宗教が必要である。

封建政治家が愚考した如く、生計と娯楽において愚民化した市民を飼い馴らすといった官僚主義は極めて不条理でしかなく、国家運営を斜陽に誘う他ない。
その破格には「教育の自由」が独立した私立権限として確保され、直も「言論の自由[限度基準含む]」が明文化された当然の命題であれ。

世界宗教と教育と研究の自由とは、文明を向上させる為に自明の組成である。
末端労働者足らざるを得ない愚衆を救済する為に、世界宗教は必須と考えられねばならぬ。
彼らは信仰の為に生きる事によってのみ、同時代社会不適応個性からの制約を便宜的に脱し、福祉的使命感について救いを得るだろう。

賢衆民主政

昇華された個体においてしか卓越した能力は見出しづらい。
それは究極のところ彼らの応用理性のレベルに還元されてしまうだろう[応用理性は後天性を含む]。

彼らの分業は個性が命ずるところ多大である。


 あらゆる世代交代は社会内血統の循環を要求する。
世襲制度から実力主義に到る分業精度は時代状勢に関して適当でなければならない。

リベラリズムは物質文化の為の手段であり、必ずしも精神文化の目標とはならないだろう。なぜなら和気は競争に反するからだ。
極端な自由主義は国家にとり致命的錯誤であると認識しなければならない。
 もし精神文化の興隆を目指せば我々は適度の社会的制限を科する義務を負う。
それは且つ最低限度の法律的な制裁措置という「限度基準」として現れるだろう。

自由主義は退廃した精神文化しか結局のところ、産み出せないだろう。
衆愚に傾かなければ多数決の原理は成立しないのだから――貴族は常に少数派足らざるを得ない。
 文明は世論を目次とする。
従って、我々は大多数の大衆のうち賢衆層を新たな文化標準と見なさねばならない。
中流ではなく、中上流の最大多数化が大衆民主主義の次段として普く認識されるべきだろう。

現代版奴隷制

自由主義は過当競争によって敗残者を揺する。我々は資本主義的序列に応じて人々を労働価値の為利用する。それ丈では足らず、過労や心中は現実的。それは「社会という宗教組織からの制裁」。
 匿名衆愚の堕落はnet巨大掲示板等に明らか。それはかつて人類が育み得たあらゆる悪徳の温床となっている。こうして全て、うらぶれた労働者は手段から次第に転落するだろう。それは益々間接奴隷制度の様相を呈する他ない。

 人権思想および人格主義からの主張は悉く退けられる、少なくとも社会的調整の枠外で。経済の事情は最低限度の文化的水準を推移させうる。結局、民主主義Ideologieとは偽装された奴隷制度の謂いに違いない。

2007年7月22日

仕事

我々はいずれも否応なく文明の建設員、資本家であれ労働者であれ。仕事とは文明の建設にある。

2007年7月21日

常磐沖

人は海辺に座って、はるかな未来を夢想している。波が繰り返し打ち寄せ、地上の権威をことごとく洗っていく。何の為に産まれたか、何の為に死んで行くか。空は運動する光の魔法みたいで、だけど、雲は形を与えてくれない。くすんだ手元の認識、とりあえず向こう側の、特に意味という意味のない、少しずつ展開して行く社会。ハンドルは操作した通りの場所へ連れて行ってくれる。約束は遠ざかる。人類の名義を取った理想の音程。退屈をまぎらわす、時代の流れ行きに泳ぐ、魚。去る為に繰り返し押し寄せる波。ひたひたと、けど、須らく。汲み尽くし得ない泉みたいな、海。

蝉

しののめの山のほうから蝉の声

2007年7月20日

人の普遍性

文明でも自然でもない道について。人間の普遍性。何故彼らは存在するか。

審美論

美学は存在しない。文学は存在しない。美術だけが存在する。

2007年7月18日

新自由主義の一端

北九州市で餓死同然の死者。生活保護普及に逆風の追い討ちをかける開放経済政策。

2007年7月17日

大衆

大衆に対するにはその偏見の真逆を進め。

仮説について

ある理論を仮説として提出するのは議論回避の為だけであり、自体に確実性がないからでは必ずしもない。自明ではない説得に係る時間対費を節約するには、未体系の論考を何らかの意図で小間切れに発表しなければならない時、その対象に便宜的仮面を被せるべき。そして後輩乃至は同時代人は閑暇に応じて適当な検証を兼ねてくれようから。

2007年7月16日

避難

俗物集会には努めて近寄らぬ事。万が一必要あらばそれを素早く退く事を前提に参観要。

2007年7月13日

新自由主義の悪

高学歴化の弊害は思想の均質化と階層固定化。前者は学術における、後者は社会における不条理抑圧として鉄筋コンクリートへ徐々に亀裂をもたらし、やがては爆裂する。
 この弊害を避けつつ単なる知識度ではない文明度の向上に努めるには、教育および社会体系の複線化と階級差別、階級格差自体ではないをもたらす文化的土壌の養生が必修となる。複線化定義と差別撤廃とは同一の改革傾向や脱構築に帰する事ができる。既存体制は均質教育の底上げとして産業・政界との自民族中心実用的な癒着を深めた新自由主義の擬態で、それが現代世界史に不均衡をもたらす根源である限り先進国の自由主義偏重は相対悪行に違いない。

国民大学論

公論の場は高尚論を目的とする文面疑義の主体的提出に期待される。独裁制への退化を回避し、仮設的貴族制を回復する為には論述の名文化が要求される。そこには称号制度が利用されるべきで、単に言論を放置してはならない。つまり、少なくとも見識において上等な人々へは言論波及力を保障するような賞与を社会公認に設けるべきである。これは私設であったり利潤目的であったりせず、また単なるソフィスト的弁論術を貴ぶでもなく論述自体には具体的敵対象や勝敗はない、唯の公的批評の土俵があるのみ、普段の民間啓蒙度において優れた個人を表彰すべきだった。
 我々の国民大学において学外への学位の授与が一般的でない事は後進的と呼ばれる他ないだろう。就職予備校としての大学組織には資本企業として以外なんら教育的価値を持たない。

航空的文明論

批判体系は説明の過不足なさにより樹立される。
 ならば、それは標語の様なものであれ、又格言や、極度に抽象的なら概念自体でも構わない。過去において優れた哲人ほどに理念の抽出に努めた。そしてそれらの成果は後生の日常に浸透した。我々がideaとか大丈夫とか、loveとか慈悲とか言うなら、それらは既に聖人の徳をcriticalに摂取したに等しいと考えられる。なぜなら度合いあれ理解されざる概念は使用すらできない。
 政経中道説と、学術的航海の喩え、つまり三元論批判は少なくとも現代道徳の根幹を為すべき体系的整理だろう。ここに伝承の為の蒸留昇華を加えるのは哲学の方針と云える。私は航空の喩えを提出する。
 文明論に是非とも必須なのは、左右両翼の平衡を保った飛行と、コンパス・地図・舵とによる航海。当座の知性である地図は精度を増す為に改良を加えうる已であり、舵の手腕は技術的であり必ずしも理論的・実践的ではなく生来の才覚に待つところ多大。形而上学で涵養された理性とはこのコンパスによる指針の役割をはたす総合的教養からの周辺状況理解能力なのだろう。

現代哲学論

哲学は非科学的とは定義できないにせよ、科学的ではない。それは建築術としての批判であり、科学的認識を目的にしない。
 哲学が目指す所は総合体系。それは現行の知識に対しての羅針盤を意味する。航海において科学は地図を、哲学は羅針盤を、芸術は舵を執る。分類の源はギリシアに由来するにせよどれもなくてはならず、相互に縁起して現代学術組織を形成している。
 人々はこれら三類の学術的建設が全く異なる方式の元、運営されるべきな事に日々益々自覚している。文化の合理化の為にはそれらに体系的批判が必然となる。
 少なくとも学園的には、カント的分類体系が一般化される迄に間はない。後生は新たな、全社会的建築術を目指すべき。政経中道説の体系づけは学術的建設に合流できる。

思索技法と時代内建築体系の批判

哲学は言葉を用いる啓発であり、且つその限界は言葉に規定されている。よって言葉の用法つまり修辞術に哲学の範囲は規定されるか。否。哲学は修辞術の啓発的応用で、文学とは別の言語表現方式。両者の差異は内容にのみ存する。なぜなら用いられる言語自体は、少なくとも過去において民族語でしかないからだ。
 文学自体は修辞美術に過ぎない。哲学は文学をも批判する、それは文学にとっての補集合。
 我々はカントの三元論に対して真ないしは善美の定義が形而上学的でしかありえない事をも脱構築できる。乃ち、両者の文字形相は文面上の差異に過ぎず、我々は適宜それらを生活行動の傾向に応じて使い分ける已。尚且つ、哲学にできるのは形而上学。我々は形而上学批判そのものを移行できる丈。哲学は非持続的体系で、飽くまで仮設建築術でしかありえない。その意義は伝統遺産にある。乃ち、ある洗練された特殊な技法が世代を超えて絶えず可能態として抽象的に用いられるなら、それこそが哲学の達成する唯一の真理なのは疑えない。哲学は思索技法の啓発。独創的批判体系への邁進はこの時代内建築様式の確立に役立つ已。

哲学の基準

全て既成思想の痕跡は思索の具に為うる丈で、自体は哲学ではない。読書は哲学ではない。自らの思索の経過だけが哲学の結果たりえる。

2007年7月12日

ミートホープ社豚肉混入事件について

問題は混ぜたものを表示しなかった事および保健期限に不誠実な素材にある。自給率の底上げの為には向かい風になる、と考える事はできない。我々は食品の安全を安定と共に重視すべきであり、現保健体制の異分子は慎重かつ抜本的に淘汰し続けねばならない。
 もし正しい健全な革新を行いえる業者なら、決して破産する事はない。又、業界の模範として却ってブランドになるだろう。

2007年7月9日

適応

半開文明は堕落をも可能にする。文明はいずれ万能の体系ではあり得ない。我々は人間の精神性への抑圧を通じて自然を回復する。抑圧に対する解約を通じて人間は自然状態を社会内へ仮設する。理性は本能を予防する為の徳。それは自然状態から文明状態へと遡る為に締結される社会契約書にある。
 自由主義は思想振幅を広げる。乃ち、半開文明における知能に格差を設けて、社会内分業を合理化する。自由主義は擬態された間接奴隷制度と呼ぶべき。なぜなら最低限度の人権以外には何一つ保障されてはいない、高度資本主義を合理化する為の大衆民衆政治なのであり、世論そのものは決して政治的主体ではない。世論が役立つのは結局の所、国民選挙について已。しかもそれすら殆ど役立たせらる事はなく、最後の鍵であるに過ぎない。
 文明に価値があるなら、それが行動の組織性に対する誘導に働くという所だ。個人の独創、社会内思潮の脱構築がしばし種外適応方向についての先駆け進化となるのは確かに。尚且つ、ある特定の組織は同胞感情を作り上げ、種内競争に複雑な構想をもたらす。文明とはある知能の類型の集団適応の事である。もし地球文明が協業の理想を掲げるならば、我々は集団を分解再構築する必要を負う。
 文明に向上の理由があるなら、それがある普き進化にかなう適性な場合にのみ妥当でなければならない。道徳には、カントの考えた絶対的理性を超えて相対的度合いがあるのだ。より良い、より悪いという裁判しか善の形相を取り得ない、だからその道徳質は形而上と形而下の統括を求める。相対哲学は形相的たる事を要する。
 目的の王国すなわち理想文明は当為たらざるを得ない。我々はそれを仮設し続ける経過にのみ在る。

教育と革新について

大学乃至は学校はある時代情勢に対する知性傾向を啓発する役に立つもの。従ってそこに原理的基軸は存在しない。我々は絶えざる改良亦は組織的脱構築においてしか教育を存立すら出来ない。若し君の教師が既存潮流の狂信者なら、方便を取って熱を冷ますべきである。学習が労働化するのはすべて錯誤の為、相対的無知の為、組織的搾取の未熟の為。その行為付けの集積が大学の実態であり、我々の創造的知性にとっては最たる抑圧に働く。しかしこの抑圧自体は必修である。なぜなら構造は装飾にとってのなくてはならないものであり、仮に構造さえ不定なら我々は学問に接近する道さえ持たないのだろう。我々はやはり革新を天才に待つ。それが当人にとって如何なる不条理を秘めていたにせよ、抑圧そのものが集団的理性によって世論を形成する限りつまり我々が政治人である限り人類は福祉的であらざるを得ない。それは丁度、群れと指導者の関係に類推為える。

遊戯界

人間すら居なくなれば問題はなくなるだろう、と主張する者の為に考えるべきは、我々が自然の子どもであるという事だ。人類非ずと云えども別形態は別種の秩序を構造する。その中で理性の役割は、理性的秩序という丈。自然は理性を創った。理性は自然の仮設建築。理性は自然を否定するのではなく、その定義によって新種の自然を造る。もし知能が理性を育むなら、理性とは人間適性の別名となるべきもの。理性の実用的な範囲は地球文化の生存確率に依存する。我々はその単純な適性、功利的進化によって再創造的に適応する。我々が知る事を通じてすら世界は対象たる事を辞めない。いわば遊戯界として世界はある。

講義

衆愚は無視する事。おろかな講義に出ない事。単位の為なら特化せよ。

2007年7月2日

精神

衆愚は動物と何一つ違いはない。彼らが言葉を話す事以外。裸で街を出歩き、欲望を満たす。そういった家畜を大量に養う我々の牧場は社会と呼ばれる。その運営の為に必要な唯一の資格は精神だ。

地球適性

衆愚は利用すべき対象である。
 衆愚の退廃は搾取の為に堕落する。衆愚自身はその悪行によって地獄へ堕ちる。宗教とは体系化された地球適性であり、反すれば自然から手痛い制裁を受ける事だ。

搾取

人類は人類を利用対象にした時、搾取的になる。

獣

人類界に女がいる限り我々の種が途絶える事はありえない。

死

君の種が世界から消滅した所で人類が愚かな限り繁殖する。

文章

人間としての人生に一体、どのくらいの価値があるというのだろう。彼らは生態系に含まれた個に過ぎない。それでも彼らは何かしらの価値を目指している。
 人生が生態系の末端に偶々ある経験であることに誇りを持つ彼らに、意味はない。何の為に彼らは産まれて死ぬのか。それすら知らずに栄えて行く。
 生命の理由を与えるものよ。けれど人間はその名前すら忘れてしまった。寒々しい世に墜ちた、羽を失った鳥。孤独の為に産まれ落ちた。辺りにいるのは黒い鳥だ。彼らにも名前はない。
 君は彼らの名前のない一人として声を潰されてしまった。君には答えがない。救いはない。ただ、黒い鳥の群れに混ざって、なんとか苦笑いで済ませるしかない。既に返り咲く方法はない。彼らは地獄の鳥だ。彼らの鳴き声だけが渦巻き管に響き渡る。
 意識を失って行くのだ。そして彼らの仲間になれ。輪廻する生命は自体で完結している。人生と我々が呼んだ経験は、自体が何の価値も保ち得ないことによって人生の為だけの遊びとなる。それは生に対する幸福しか目的にしない利己的生存本能を終局迄引き擦る。死を択べ。動物は産まれ来る。だが、人間は死ぬことができる。死ぬ為に生きる自由にしか命の大観はない。貴様達が解脱した神格たりうる唯一の道は動物を去る事だ。本能を破壊しろ。あぁお前がただの機械だったらな。けだものどもの愚劣極まりない習慣から離脱しうるのに。
 動物の一種に産まれる事はすべて過ちだ。衆愚にはこの意味が永久に解らないだろう。奴らには頭がないから。人間、私は人間ではない。