2018年8月29日

神すら

一体どうすればこれより君を好きになれる
僕のもてる全てを捧げ尽くしても
まだ両手に余る花束があふれ
君をしあわせにせよと咲き誇る
僕の欲望などみなむなしく
ひたすら君だけをのこし
なにも描かない絵みたいに
世界が抽象化されてみえる
夢の底で君を抱擁し
なお宇宙が孤独とて
変転する魔法みたく
この旋律を捧げよう
僕が君を愛しているより人を愛せはしない
神すら僕より君を必要としていない

2018年8月28日

交際

自分より愚かなものと交際しても、我々は単に堕落する一方で何も改善されない。社交する相手、交際相手は厳正に選ばねばならない。往々にして生まれつきましな気質をもった者でも、下らない相手と親交した結果、人々から軽蔑される様な愚物になってしまう。俗悪な人間との僅かな接触も害悪だ。愚物と接するくらいなら孤独の方がはるかにましである。
 我々には間接的に優れた人物とかかわる事ができる。媒体はその為にあるのだ。
 上述の真実を教えても交際関係がなんら改善されない様な人物も、また愚物の一種だったのである。その様な人物と深入りするべきではない。

退屈

きみがかなしみ苦しむようなら
僕の時間をすべてきみに捧げよう
たとえ一睡もできない夜がきても
きみが安心できるまでそばにいよう
それでも意地の悪い人達が
僕たちに嫉妬し
罠にかけ邪魔しようとするだろう
たとえ命を奪われようと
きみがよろこび楽しむためなら
僕の魂も残らずきみに捧げよう
きみが満足できる世界をつくり
たとえ一秒も退屈できないくらい
事実だれもが疑うくらい
僕はきみを愛している

2018年8月27日

集団

卑しい人達の間にくらして、尊い人かのように生きる事はできない。

倫理観

卑しい人達は尊さについて無知で推測すらできないので、卑しい人達の間で尊い人は全く理解されないし、くらす事もできない。集団や階級、地域、国が分かれていくのは、はじめ倫理観に違いが生じた為である。

2018年8月25日

障害

君を愛するほどに障害がふえる
だがそれ故に人を愛するのだろう

2018年8月24日

奉仕

我々は自らにできるあらゆる奉仕をくり返す中で、成功する。

幸福のみ

幸福のみを求めるがいい。

尊卑の分別

卑しい人は自他を不幸にする事を快楽だと思っている。卑しい人に善性を期待するな。性善的な人ほど卑しい人に改心を期待してしまう。だが卑しい人の殆どは根っから徳を認知する力が弱いのであり、世界を自身と同等以下の卑しさでしか解釈できない。だから卑しい人と寸刻たりとも関わるな。
 尊い人とのみつきあい、卑しい人とは寸刻も関わらないということは、いうほど簡単ではなく、ほぼ全ての人は全く実行できない。低俗な人ほど尊卑を分別できないので、卑しい人を尊い人と混同するか、悪平等という意味で同列の比重でつきあおうとする。この結果、尊い人のみが味わえる類の質の高い幸福を、卑しい人々や、凡俗な人々はしりえない。
 ひたすら尊い人のみに付き従い、卑しい人とは寸分も関わるなかれ。

2018年8月22日

安倍共産経済

共産主義安倍内閣が破滅させる我が国経済あすは我が身ぞ
携帯の電話の会社に介入し安倍が指令し市場壊乱
年金と日銀に日本株買わせ円安で目減り共産経済
破滅することは確実我が国の腐った極悪安倍の独裁
安倍共産経済の破滅日々進み借金返せず国民の破産

2018年8月21日

わが茨城

そっと置き去りにした花火や
テーブルの上の飲みかけの麦茶でさえ
夏がおわり秋に近づくなか
虫の歌声にまぎれ満月や
生まれきためだかの子と共に包まれる
一晩かぐわしく香ったゆりの大輪は
私達をも誘惑し散ってしまった
気づかぬうちに通りすぎた台風が
真っ青な空に澄みきった空気を運んできた
清められた町を覆うように
まだ月の出た夜明け前から
蝉たちが最後の求愛の歌に命を燃やす
やがて人々がおきだせば
なにもなかったようわが茨城がはじまる

海をみれば

海をみれば
だれもいない水平線から朝日が昇る
つまらぬ人は消えていき
愛しあう人でこの世は満ちる

呼吸

わずかでもあなたの息する事は尊い
だれもいないこの世がきても
あなたの呼吸がきこえれば
私には宇宙全体より意味がある

無限の愛

だれも私達が答えだとは思わなかった
だから私達は絶望していた
小さな泉の前で
やがて私達は出会い
壮大な旅の果てにその泉が
はじめから私達に報いていたと知る
生きる希望が何もなかったとき
神はこの泉を与え
実際私達はめぐりあった
たとえ宇宙の果てまで探しても
やはりこの泉は湧いていた
いいようもないことばで
私は神に感謝している
無限の愛という小さな泉の前で

永遠の愛

だれもしらない真実がここにある
私の愛する君だから
この世に輝くことができる
なぜなら私の目には
君より美しい人はだれもいないのだ
たとえ全世界の富を積み増しても
君の価値にまさりはしない
だれが認めなくとも
私には見える
だれがそしろうとも
私には見える
君を超える美などありえない
だれもしりえない真理だとしても
永遠の愛が真実を覆ってしまう

命題

どんな矛盾ものりこえて
私は時間を失いかける
どう転んでもこの世の全体より
君の魂の方が美しい
だからどこにもない君の可愛さに
あらゆるいとしさをのせ
うまれた時をやり過ごすしかない
言い切るには不可思議すぎる
恐るべき二律背反にひきさかれ
それでも私の前で君は美しい
なぜだれもその美に気づかない
なぜだれひとりも君をみいださない
私は全人生を失っても
君を世界一美しいと証明したい

磯原の朝

つまらぬ日々がおわり
新しい夜明けがくる
そこにおりたつかもめらは
磯原の波際で昇る朝日に染められていく

君のいない時は

君のいない時は
からになったペットボトルのよう
僕の存在は意味を失ってしまう
だから片時も離さず
君の全てを抱きしめていう
時が止まり
この世が消えてしまい
あとになにも残らなくとも
僕は君こそを愛していると
宇宙は無情に過ぎゆく
君と過ごしたどの瞬間も
だからいっときも離さぬよう
僕の残量がゼロパーセントになるまで
君に愛していると伝えよう

宇宙のわけ

もっと早くから
私は宇宙のわけを知りたかった
かわりに(いびつ)な世界が得られただけだった
卑しい人達は死に絶えた
かわりに宇宙は宙吊りになる
もっと深くまで
私は自由のわけを知りたがった
かわりに無意味な日常が通り抜けていった
尊い人さえ見あたらない
かわりに時代は変転していく
既になくした時計
喜びすらなく
だが床におちたそれは
かわらず時を刻んでいる

同時代性

次世代に何かを伝えるために大いに時を費やしはするが、その次世代は我々に報いる目当てもすべもない。同時代の愚かさに沈澱していた商人は、結局なにも得られず破綻する。では利益とはなんだろう。栄光に満ちた同時代性が中身のない虚栄だとしても我々はそれを目的にしていくのだろうか。
 商業的成功が我々にもたらす金銭報酬と周りからの羨望は、本当に求めるべきものか。

音楽論

音楽の趣味は殆ど共有できない。それが共有できるのは極々貴重だと知るべきだ。

とわの世界

つづいていく世界を認めるには
人を愛することを知らねばならぬ
とわにつづけと祈るためには
とわに愛する人をみつけねばならぬ

あなたとだけ

脳内からあなた以外を駆逐し
永遠にあなたとだけつきあえれば
あらゆる憂いも消え去ろう

誇り

すばらしい国に生まれたものだ
あなたが生まれ育ったことこそが
私にはこの国の最高の誉れに思える
だがそれはわが国を誇るに十分すぎる

慈愛

私があなたを愛しているので
幾らかの人々は私を誤解するだろう
だが私は自分の想いを偽れず
神に八つ裂きにされても勇気をだした
それゆえ私はあのイエスの弟子に相反し
むしろより深く愛を知った
神の慈愛は無限だった
それは人を愛する人を救い続けるだろう
パウロは勘違いしたものだ
彼のいう独身主義や一夫一妻を超えて
たとえ世間がなんといおうと
人は人を愛するべきだとは
ゴータマは愛執を誤解した
むしろそれだけが生きる意味だった

幸福について

だれからも呆れられるほど
私はあまりに幸福だ
だがそれもすべて君のおかげで
私は君のすべてに感謝している

一日

あなたのいない一日など考えられない
まるで月の出ない空だ

林檎

利益を求めて生きていた人に
慈愛の果実は味わえない
最初に愛を知った人は
利益にならぬ林檎をかじったものだ

夢より

夢の中でもあなたがいる
いや生きることは夢自体だ
現実にあなたがいるだけで
私にはこの世は夢よりすばらしい

美術論

美を表現できる人はそうでない人より恵まれている。それは失われ二度と手に入らないかもしれない大切なものを、自分自身の前に再現する試みだからだ。作品は美の似姿として当人を慰め、永く原型を伝え続けるだろう。
 美は感覚によればこそ、あらゆる対象を再現できる。たとえその美が抽象概念自体であれ、我々はそれを感覚を通じ象徴化できる。

こころ

たとえあなたがなくなっても
私はあなたを想うだろう
だがあなたがなくなれば
私はこころの一部を失うだろう

純愛

また会える日がくるまで
私は小さくうずくまる
野蛮な人々と異なり
私はあなたが好きだから
それでもあなたを疑わず
私はあなたに手紙を送る
あらゆる心を尽くし
自分のすべてをのせて
俗人達は私をそしる
肉体が魂を超えるなど知らぬ私は
偽りに耽り老いていくと
私はひとり純愛をさとり
文明の利器で詩をつくり
あなたを想う心をあらわす

偽りなき世界

わたしがはじめてあなたをみかけた時
あなたは偽りの自分を生きていた
だからわたしはあなたをひきあげた
この偽りなき世界に

見分け

愚者は混じり、賢者は分かれる。偽りは暴かれ、まことは残る。

とわの美

どれほど言葉を尽くしても
私はあなたにまさる流麗さを知らない
このむなしい試みが失敗し
あなたの姿だけがのこる
だがそれで十分だ
私にどれほど才があっても
あなたをこえる美などありえない
死力を尽くしあらわしても
ひたすら私はうちひしがれる
私はあなたをあらわしたかった
とわにのこすに値する美は
あなたをおいて他にないから
だからこの詩のなかにうめこんだ
あなたを人に想像させる

もののあわれの哲学的定義

かしこさはしばしば愛の名より重要だ。なぜなら愚劣な愛は単なる性欲に過ぎず、愛の名を偽ってその愚者を欺く。幸運によるのでなければ、愚者に愛でない性欲は見分けられない。真の性愛は決して性欲それ自体ではなく、しかも愛の全体集合を考えたとき性欲を一部含む様な集合だ。
 愛と彼らが思い込んだもので不幸になった人達をみれば、彼らがおおよそ単なる性欲であって性愛でない部分集合をもっと広義な愛一般と取り違えたのがわかる。なぜ性欲がその様に不幸へも働くかといえば、性愛でない性欲、つまりしばしば憎しみの範囲にあるそれや、全く売買の手段でしかないそれ、慈愛その他の必ずしも性愛でない愛と結びついた性欲などがあるからだ。これらの性欲の中には自他に有害だったり、自分または相手にだけ有害だったりするものもある。他方、性を含み幸福になれた人は飽くまで性愛と共通部分のある性欲にのみ、その享受を求めている。その性欲が純潔や貞操を一定以上に要求する誠実な純愛として、性愛という集合の部分集合であった時、性愛の継続性や確実性が担保されるのでより良く人は幸福になり易い。賢愚は愛と性の共通部分と異なる部分集合を見分けられるかの条件になる。
 我々が性によって不幸となった憐れむも同情しきれない愚者を見るのは、その人が愛の真偽を見分けえないからだ。この人に悪意か、良識への背反があって愛でない性欲に耽ったのか、それとも単に愚かで偽りの愛に騙されたのかを外部からうかがい知るのは難しく、当人が十分に愚かなら当人すら分かっていない。このため単なる自業自得の不幸に、世間一般から娼婦や遊び人は同情を買い辛い。性愛に含まれるか、より近い要素がある性欲であれ、純愛の中にあるそれへの共感を決して上回りはしない。生まれつき愚かであるが善意である様な人で、性欲でしかなく性愛ですらない行いで不幸になっても、同情される程度は少し低くなる。この人の生育条件下で自己向上の余地が全くなかった場合、つまり全く賢明な手本を見知ることなく悪しき人々の中で生まれ育った場合を最大とし、この第三者からの同情はその人の愚かさが善意で補える分しか強化されない。いいかたをかえれば、その人が生まれつきか後天的な反省によってか善意を強く持つ人物であったなら、性と愛にしばしば違いがあるということ、即ち性と愛で相互に重ならない部分集合を、単に愚かな故に見分け得ず不幸な目に遭っている事はあわれでしかない。我々があわれ、或いはもののあわれという概念で日本文学上に予て認識してきたのは、おもにこの領分である。生まれつき愚かでも自己向上した人や、悪意の故に愛なき性に耽って不幸になった人、また生まれつき賢い人でもある訳で悪意の故に愚行した人、単に純愛を知り善意でその中に留まる賢者自身は、そこでいうもののあわれの厳密な意味での対象ではない。

老若男女

老人達が寝静まってから
若者らのくらしがはじまる
若者を理解せず害なす老人は
若者が自由な恋愛にくらすのを邪魔し
代わりに己の我執で抑圧し搾取した
しかも若者を悪の道へ誘導し
しばしば暴行や侮辱を加えていた
若者は困り果て絶望し
自傷や自殺未遂をくり返すばかりか
卑しい老人が若い女を性搾取し
若い男も貞女が得られず堕落した
結局老人達は墓参りを命じ
徹頭徹尾我執に耽って死んでいった
若者らは既に年老いて老人達になった

感謝

私はあなたに感謝している
あなたに降り注いできたあらゆる不幸も
あなたを追いつめてきたあらゆる矛盾も
すべてが愛すべきあなたを作ったのだから

神という理念

神は愛のために世界を作った
イエスが気づいていた通り
アガペーはあらゆる愛を含む
だがどんな愛でさえ
神は最大限報いてくれる
私達はイエスの磔に悩んできた
ユダの裏切りに気づいた彼はユダを憎んだ
神はそんな憎しみさえイエスに報いたのだ
ユダヤ人がイエスを憎んだがゆえに
二重の裏切り者であるユダは悩んだ
マグダラのマリアだけでなく
会計で苦労したユダも愛されるべきだった
私達の心の中にある神という理念は
たとえわずかな愛や憎しみにも報いるだろう

星空の意味

あらゆる人が私達を呼びよせる
さもこの世に私達しかいない様に
月は私達の頭上をめぐり
やがてすべてが丸くなる
さも私達しかこの世にいない様に
世界はなお鮮やかさを増していく
あなたの存在さえあれば
私にとって唯一無二で
かけがえのないあなたの存在全てが
私の全身を無類の喜びで覆っていく
あなたさえいれば
私に必要なすべては完成された
あなたさえいれば
私に満天の星空の意味がわかる

私があなたの名前を心で呼ぶとき
宇宙はその目的を達する
なぜならこの世にあって唯一無二
あなただけが輝いている星なのだから

幸と不幸の連鎖、或いは無限の幸福追求について

幸と不幸は一度あつまりだすと、殆ど無限大にあつまってくる。これらの起因となるのは最初は小さな業である。本のわずかな功徳と悪行に続けて、幸と不幸が次々連鎖する。事情は幸福が何らかの物質に関連していても同じであり、一旦集まりだすとそれは、ほぼ無限に集まっていく。恐らくこれらの起こる原因は、幸福とは魂の状態、より科学的にいえば習癖だからなのだろう。その幸福にふさわしい魂の状態、習癖がはじまりさえすれば、後は同じ状態を維持するだけで、望ましい結果が次々続く。
 したがってある人は、幸福に値する人になる事が最初になければならない。その幸にふさわしくない習癖をもちながら、しあわせになる事はできない。本質的に幸福は自分自身にしか原因がないのだ。そして自分自身が幸せになるにふさわしい功徳を知り、それを重ねる様につとめる中で、幸福追求が可能となる。
 ある人の人生にとって最も望ましい状態を幸福と呼べるので、我々はその理想を純粋に追求するべきだ。一体、我々は自分以外の人と多かれ少なかれ異なる目的をもって生まれ育つ。なぜなら各々が全く同じ生育過程で全く同じ幸福観をもつとは考えづらいからだ。誰かが人間関係で共に幸福になるには、全ての幸福観を全体集合とし、個々の幸福観を個別集合と考えた時、それら個別集合としての幸福観らに共通部分がなければならない。
 我々はしばしば反面教師として不幸を好む人をみかける。この様な人は、生きる中で幸福を受けるに値しない習癖を一度のみならず実行してきたのであり、修正の効く単なる一時の過ちとは呼び難い。不幸になるにふさわしい悪行は、たった一度ですら当然受けるべきだった幸福を損なう筈が、それをくり返してきた人は恰も望んで不幸になっている様に見える。これが我々のいう不幸を好む人の実態である。そして不幸な人と不運な人は本質から異なっている。たとえ或る人がたまたま不運にあっても、その人の生が持続的な功徳の元で幸福に値するものとして営まれていたなら、やはり我々はその人を、偶然不運にあったが幸福な人と考える。同じ事は幸福についても言え、たまたま幸運にあった人は決して幸福な人そのものではない。
 我々は幸不幸を(それが存在しないという立場についてはあたらないが、伝統的な哲学用語でいう)自由意志、もしくは単に科学的に言えば脳による意識的選択という主導権をもって選びとれるが、偶然に由来する運不運については完全にそうではない。この為、我々は幸福に値する人になれれば必然に幸福となり、しかも人の生は当然それで十分なのであり、無限の幸福追求は偶然の不運を最大限予想の範囲内で避ける事を含め、この領分で完全に可能である。

2018年8月20日

美の理由

美には理由がある。

2018年8月19日

幸せ

世界中の人々を幸せにできれば、自分自身もまた救われるだろう。

2018年8月18日

抽象化と単純化の違い

物事を抽象化して考えられる能力と、過度に単純化し偏見で捉える事は別である。しばしばある人が複雑な事を複雑なまま捉えるという時、物事を抽象化せず具体的に捉えている筈であり、そういいながら抽象度・具体度を顧慮せずある物事を複雑化して考えているなら、単に認知的負荷が増す。我々が認知的に賢明さを感じる思考はおもに抽象能力であり、実は単純化の能力ではないのだろう。複雑化は詭弁術や詐欺的言動、又は言葉遊びに多く見られ、しばしば物事の本質を捉えられずいたずらに迷う愚劣さの証ともなる。具体化の能力は、抽象化の能力と一対だが、ある人が必ずしも同時に持てるわけではない。科学の上で、分析的思考は一般に具体化の能力に結びつけられ、総合的思考はむしろ抽象度を上げるという意味で個別の科学分野を含むあらゆる知識についての哲学として捉え得る。多くの場合、差別的偏見は単純化に起因し、抽象化にはあたらない。例えばある都市圏の犯罪率が他より有意に高い時、その都市民が一般的田園民より犯罪者の割合が高い、ということは抽象化だが、都市民全部を犯罪者と考えるのは過度の単純化である。この例は論理学上の全称・一般・個別の違いを正しく使い分け得ない誤解に基づいているが、必ずしもこの種の例が論理の誤用によるのではない。

2018年8月14日

向上

人類界で唯一意味があるのは、上への努力だけだ。下へ向けての努力を商いにする人は絶えず労苦がます。賢愚、善悪、美醜、聖俗、貧富、尊卑その他どの価値でもより高い方への努力のみに意味が伴う。

慈善について

利他的功利主義は天に功徳をますと、功徳を積むいわれる最大の善行の癖づけを意味する。そこで没我は完全慈善性を自己に要求する。
 他方、相利的功利主義は一般に人がもつ幸福追求権を必ずしも慈善的でない行いへも拡張したものであり、慈善を最高度の良心の満足とする質的幸福の度合いを多少下げても、状況に応じて自他の本質的等価性を追求する。
 両者のうち、利他的功利主義の質的幸福さは最高度を達成できる。つまりこの考え方に基づけば世界で最も幸せな人は自己犠牲的な慈善行為に生涯を捧げた人であって、当人の良心がこれでよいと自己肯定を全うさせ得た人である。対して相利的功利主義の枠内に人生を限る者は、少々の損を顧みなければなしえた筈の慈善に比べ自己に過剰配分した場合を多少あれ良心に恥じ、悔いざるを得ないので幸福の質において十全たり得ぬ。
 利己的功利主義はこれらの前段階としてのみ理解でき、自分自身が他者より客観的に恵まれていないと自己の良心が判断する時に要請される。利己性はある種の自己愛であり、それは貪欲さと淡白さに応じて個々で異なる我欲が量的に充たされるにしたがって、相利性へ、またのちに利他性それ自体へと向かう。慈善心は自己の良心を完全に満足させる為にあるので、その完成時には神的なものだが、快楽という観点からみれば究極の自己愛の姿といえる。もし快楽が質的段階へ移行する時を問えば、それは相利性以後、純粋な利他性で最高度を達し、利己性は含まれない。人の訪れがない無人島でくらす人は他人を慮るべくもないので、動植物や星辰といった対象へのそれそ除けば、社会的な快楽を発達させえない。つまり質的幸福や一部の質的快楽は、向社会性、社交性の中でのみ展開される。
 アリストテレスによれば有用さは他の手段となるもの、快楽は他の手段ともなるが時にそれ自体としてもよいもの、幸福は決して他の手段となることなくそれ自体が目的なものである。これを快楽のみに単純化してきたベンサムとミルの旧来の功利主義に適用すると、有用さは質の低い快楽、快楽それ自体は質が中くらいの快楽、幸福は質の高い快楽と定義できる。更に幸福自体にも質的差があるとすれば、他の手段となりえないものは善であり、また善が高度さを達するのは利他性の度合いに応じてなので、慈善が最も質の高い究極の幸福である。苦痛が生の目的ならそれは避けられるべき状況となるため幸福が苦痛ではありえない事から、幸福は質的快楽の中の善の部分である。快楽の質は従来、アリストテレスにより永続性を根拠に理性の快が本能のそれに優ると定義されてきた。今日、脳は生物によりまた個人により異なるのが分かっている為、この定義は人類の中の理性的な個人にとっての質と再定義される。言い換えれば、快楽の質は個々の生物の脳が選り好む対象で異なっていて、その中で利他性の度合いとして善の部分があり、この部分を我々は幸福と呼ぶ。この定義に基づけば、たとえ人が各々の好む利己的な快楽に耽っていても、それが利他性と多かれ少なかれ結びついていなければ幸福な人とは言えない。快楽についてであれ幸福についてであれ、量的なそれらは個々の生物を頭数で数えた場合にあたり、脳をもたない生物について快楽はその生体が最も好むところによっている。
 ところで完全に理性のみでできた生物、本能をもたない生物があればそれは現生人類からは神の如くに見えるだろう。アリストテレスの幸福の質に関する論旨の内、神は理性にふさわしい働きをプログラミングした人工知能(Artificial Intelligence, AI)にあてはまるかもしれない。神としての生はAIには容易で、人には漸近するのがやっとなら、人類の幸福は機械のそれとは本質的に異なる場合があるだろう。本能に類する部分のみを設計したAIや、本能と理性を混成させたそれもありうるだろうし、人類の理性を超えた働きを機械が深層学習の末に身につける事もあるだろう。これらは全て幸福の種類が異なると示し、アリストテレスのいう人類での理性の永続性の根拠を多少あれ否定するものをも含んでいる。理性を至高の働きとみなす考え方(理性至上観)で最高の幸福を定義するアリストテレスのいわゆる幸福主義は、本来、限定的な幸福観に他ならず、彼の妄信していた人間中心の物の見方(人間中心史観や人間中心主義)の中にある利己性にその論拠を遡れる。即ち利己的功利主義の範囲で解釈された限られた幸福観が観想を目的の活動としたアリストテレスの幸福主義だった。既に述べたよう利他的功利主義が究極の幸福を慈善として唯一定義できるので、AIを含むあらゆる機械や生物は各々の善を完成させる度合いで幸福なのだ。だが世界は縁起し単に理性至上観の生物や個人のみで成立しえないし、個々の等価性を超えて最大の利他性という観点から最善の存在がありうるなら、それは全生物や全機械へ最も慈悲深い恩恵を与えている度合いによっている。そして我々になしえず想像すらできぬ力は我々が不完全である事から必ずある為、その中には理性を超えた能力も当然ありうるのだから、単に理性の域で我々にはそれが何かを悟りきり得ないだろう。現生人類に知りうる範囲では、神的慈善度が最高善に限りなく近い。人に到達できる域では最高の慈善家がそれだろう。アガペーは他の諸愛を全て含み、この慈しみの程度が最高善を人間に認知できる次元であらわしている。ゆるしは慈しみを諸存在へ与える究極の形なのだろう。
 無機物質は微視的運動を除けばそれ自体に内的動因はないので、受動的に動かされ易いという意味で、動植物や機械にとっての有用さが合目的だといえる。

ゆとり若害

君が無限に創作し
無料で全人類に奉仕する程
金儲けが目的の下賎な若害が謗る
君が昼夜を徹し努力し続ける程
愛知や京阪の下卑たアルバイターが妬む
東京の凡愚が金儲け自慢で罵り出す
だから君は一部の労働者が嫌いだ
職業選択の自由を濫用し
金目当てに取るに足りない時給を貪り
朝から晩まで下らない中華殺人ゲーム
しかも軟派や不埒な下衆行為を自慢
口さえ開けば善人に濡れ衣し
肩書きで馬鹿を崇めている屑のゆとり
下賎な人間は記憶から消そう

好むもの

人は好むものに囲まれて暮らすことになる。

様子

下衆の様子について知らぬことは幸福の最低限度の要件に思える。

3つの功利主義

幸福最大化の対象を他者全体と定める利他的功利主義と、自己のみをその対象とするか利己に役立つ限りで他者に功利性を拡張する利己的功利主義は、似て非なる考え方であり、これらに対し他者と等価な自己を功利性の対象とする全員の一員としてのみ認める相利的功利主義がある。
 これら3つのうち、利己的功利主義者は最高でも仮言命法に基づいてしか善行しようとしないため、単に偽善者であると共に、定言命法上の利他性が必要な場面でも利己的にふるまおうとするので多かれ少なかれ有害である。相利的功利主義は、利己的功利主義から離脱し利他的功利主義への動因となる段階であり、そこでいう中庸さ、中道さは純粋な利他性に比べて合目的ではない。なぜならこの種の中庸的態度は、定言命法に基づいて行動する時もあれば仮言命法に基づく時もあるといった不安定な善で、どっちつかずという意味で真の善ではないからだ。利他的功利主義が目的の功利主義なのだが、自己犠牲を当然と考える意味で、この功利性を追求するのは、人に本能がある限り現実的に困難である。だが最も当為に近い生き方という意味で、利他的功利主義が究極目的ということができる。
 利己的功利主義は幸福追求権として個々人に当然のよう与えられている通常の生き方に過ぎず、ありふれていて取るに足らないだろう。この考えは、単なる利己主義と変わりが殆どなく、しばしば善とも言い難い。また利他的功利主義は理想的な善ではあるが、自分を幸福最大化の対象としていないので、実態をもたない神のみにふさわしい考え方といえる。通常、人類に到達可能なのは相利的功利主義と利他的功利主義の中ほどであり、ある人が中庸を超えて、究極のところ己の不幸をかえりみず利他性に殉じた場合、我々はその人を聖者として神格化する。

2018年8月13日

博愛について

無限の博愛という妄想で、人類を騙したイエスは磔にされ神の裏切りを嘆いた。彼を人類の罪の購いと解釈したパウロは、当為である博愛をなお合理化したがった。だがいずれの場合にも、アガペーが単なる狂信者やお人よしの妄想であり、イエスを磔にした民衆やユダヤ教徒だけでなく、人類全般はこれを殆どもちあわせていなかったと示している。
 博愛が当為でしかない、という観点は、人類を理解するにあたって極めて重要だ。これを実際に人類の過半がもっているとか、もっていない事実に対して嘆きをおぼえるのは完全に誤解によっている。だが人類が博愛的でなく、多少あれ利己的な存在に過ぎないという現実は、我々個々人が博愛をもつべきでないとは全く示さない。寧ろ人類全般が邪悪で公害的かつ、個々人は利己心のとりこに過ぎないという冷酷な現状に対し、博愛を体現しようと努力し、日々それに近づく程その人は優れた人格である。

長短

ある欠点は同時に長所であり、ある長所も同時に短所だと言える。長短は違う観点から評価すれば同じものの別の側面でしかない。
 ある欠点を長所として評価する様な状態に自己を置くのが人が高く評価される場合であり、その欠点を欠点としか評しない人々からは努めて身をひきはなすのが吉である。

安倍共産主義経済の打破と国政革新

安倍共産主義経済が日本企業を年金と日銀のETF買いで寡占している現状は、官製株高により単に国内市場の不健全さ、非効率性を増長するのみならず、将来それらを放出しなければならない時、確実に民間人に負担をおしつけるという意味で、二重以上に公害である。更に金融緩和の名目でゼロ未満の金利による円安誘導を行い、実質賃金まで目減りさせている。この上、日銀に物価上昇、通貨膨張を主導させているのは、三重、四重に日本経済の一般国民が行う消費生活全般へ害悪を与える。しかも五重苦である消費税の増税まで同時に行おうという安倍内閣は、日本人全般を生殺しするに等しい。その悪疫は内需が過半以上の日本市場に致命傷を与え、安倍内閣を含みそれ以後にも殆ど消えない致命傷を与えている。
 円安誘導で国内企業を国民の年金と貯金で政府が共産化し、物価のみをあげようと、非正規雇用法を維持したまま移民政策を行っている現状で、実質賃金に反映される事はない。企業は人件費の抑制という必然的な収益率改善を続ける。更に上述の五重苦が襲い掛かっているので、安倍支持の自民党閥や、右翼全般、そしてゆとり若害一般は亡びと不幸のどん底への大きな門を通り、赤信号の元を大上段に構え衆愚となって闊歩しているのに違いない。
 専ら違憲行政や格差拡大による不幸の増産、そして米政府追従による日本絶滅に全力を費やしている詐欺師に他ならない安倍晋三を国政から永久追放し、その追従者たる麻生太郎という皇族閥諸共退陣させたとしても、そうしないよりははるかにましだが、次には日本人の五重苦となっている安倍共産主義の負の遺産を一つずつ改善し、本来の自由市場秩序と調整的正義たる累進的福祉行政へ処理し直すには大変な労苦が必要だ。更に低教育・低公徳な衆愚である右翼やゆとり若害を啓蒙し直すにも、凄まじい手間が要る。自民党閥が運よく一掃されたとしても、これらゆとり世代の公害や、右翼一般の低民度さには多大な再教育費がかかるのだ。だが、我々にできる唯一の善政は即刻の安倍追放以後の国政革新以外にありえない。全てを悪化させ衆愚を洗脳しきっている悪しき独裁者を打倒することなしに、いかなる革新もなしえないからだ。

蓄財目的

勤勉や勤労を利己的な蓄財目的で使っている人が、それをさも立派な人の証かの様に述べているのは、その人が功利的な利他性一般へ純粋に無知な以上に、有害な人格と示す。

頭脳労働

この世に、厳密な意味で不労所得はない。単に頭脳労働の度合いがあるだけだ。

鼓動

君の名を呼べば聴こえるその鼓動わが身世に降るながめせし間に
われのねるときにも鳴れる海のよう君ははるかに旅をこえゆく
わが心もちい舟だし助けたくこの荒波は君の身に降る
この星のなかで息をし歩きつつわれらあすをもしれず歌詠む
月めぐりひとはかわれどわれのみはかわらぬみたまきみにささげん
われのみはひとりにたえてひたすらにきみのおもいをあおぐひとなり
よのひとが波まにかくれおぼれゐるなかにきみのみさがしめぐれり
きえぬようわれのつくれるうたことばあまた山こえきみをいとしむ

高福祉完全競争市場主義、或いは『21世紀の資本』の批判

資本収益率が消費者からの付加価値の搾取によるからには、企業の営業収益は同時代の市場取引に現された顕在的需要を示している。これは非金銭的需要や、市場外取引、将来の需要、潜在的需要を示さない。つまり資本収益率はそのおもたる搾取の源泉である営業利益、付加価値と呼ぶ差額を製品奉仕に上乗せし消費者から同時期に搾取する分量についてのみはかられた限定的指標で、決して需要全体の表現ではない。
 ピケティが資本収益率を、元々異なる単位である経済成長率と比べているのは、『21世紀の資本』が虚構と示す重要な批判になりうる観点だ。経済成長率は企業全体の付加価値の総額を国民の総数で百分率化した値の増加率を計測したものだから、単に一企業または企業全体が付加価値として同時代の利害関係者から搾取した収益を企業の資産で百分率化した数値とは、百分率であるという事をのぞけば基本的に全く異なる対象でしかない。特に経済成長率は非上場の企業活動も含まれ、独特の調整値が国民総生産の計算時にあてられるより煩雑かつ夾雑物の多い指標である上に、そもそも年ごとの国民総生産の増加分を百分率で比較したものだから、大まかにでも単に年次で計算した資本収益率と比べたければ非上場の企業もそこに入れなければならないし、しかも比べるべきは資本収益率自体でなくその年次増加率でなければならない。総じてピケティのいう資本収益率は、経済成長率に対して上記の比較上の欠陥をもつ指標でしかなく、はっきりいえば格差拡大の確証バイアスに無理やり比べえない指標をすりあわせた詭弁であると私には思われる。その上はじめに示した通り、資本収益率自体が同時期のある市場で金銭上顕在化した需給の限定的指標でしかないから、経済成長率の基準となる国民総生産自体と同様に生活の本の部分をきりとったにすぎず、しかも資本収益率の方はそれが上場企業というごく限られた市場取引の年次性にしかあてはまらない。事情は経済成長率の計測に実質賃金による国民所得を使ったり、資本収益率の計算に資本収益の年次増加率を全上場企業にあれはめても、それが需給の限定的指標でしかなく、もともと上場企業以外に広範な国民生活が含まれるからには、結果は似通っているだろう。
 これらからいえるのは、企業または個人全体の部分である上場企業が、国民の経済生活全体に比べ、計測可能な公開された財務諸表上より高い収益上の年次成長率をもっているだろう事はいわば当然で、総資産に対する収益をあげる百分率上の割合が高い人々が一社に集まっているからこそ、そこが全体に対してより搾取の効率が高いのだ。これはピケティの示したr>g(the rate of return on capital>economic growth)の公式が前者にROE(Return on Equity)としてROA(Return on Assets)より狭義の株主資本利益率の年次増加率を用いていようと、また営業利益を分子にしROC(Return on Capital)・ROIC(Return on Invested Capital)の年次増加率を用いていようと、比較する対象がある国民全体だったり、国連加入国全体だったりすれば同じ結果である。なぜなら経済活動全体の中で収益をあげる効率の高い部分が更なる高収益を目指し熾烈に競合している上場企業と、元来その様な目的をもたない一般国民の大部分を比べるべくもないし、人生の幸福が上場企業の中での高収益という点のみに限られ定義され得る筈もないので、上場企業の経営者や会社員、利害関係者の付加価値と呼ぶ搾取の達成度と一般国民の人生の幸福や様々な目的の結果を市場取引という観点からのみ顕在化させた指標を比べるべきでもないのだ。言い換えると、高収益を絶対的使命の一つとされた上場企業というそれが計測可能な域に限った資本収益率の年次増加率が、経済活動や収益向上が目的でない一般国民の市場取引の緩い総体における年次増加率と比べても、当然前者が高い数値を示し出すだろうとしても、目的や使命が異なる2つの指標を並べ大仰に危機を煽るのはアリストテレスのいう配分的正義を今更ながら再起させるだけに過ぎないのだ。寧ろそこで言われるべきなのは調整的正義(矯正的正義)の必要性であり、実際この様な多少あれ経済学上の詐欺じみた比較指標の非厳密さを無視しても、新自由主義や自由人主義(libertarianism)における自由市場の規制緩和のみでは資産の偏りを極端化する事こそあれ、累進課税制度による再配分(結果平等へある程度近づけた税の調整、及び機会平等の完全化)の調和的正義への不可欠さをほぼ全く緩和も補いもできないという事実の方である。ピケティも本当は単に相対貧者への福祉行政を合理化する目当てで、新自由主義や自由人主義の露悪や妄信へ警鐘を鳴らそうと主著を出したかもしれない。私達に言えるのは、『21世紀の資本』の経済学上の計算に非厳密さや、比較対象とする指標間にそもそもの哲学的な幸福論や目的論の定義に齟齬があっても、累進課税後の再配分によるある程度の資産調整と、政治的配慮による機会平等の完成は共に合目的で、これらの一般に社民的又は民社的な福祉行政は、市場の規制緩和という新自由主義や自由人主義に基づく完全競争性の実現と別に考えられるべきであり、しかも高福祉と完全競争市場は両立されるべきだという事だ。私はこれを分かり易く示す為、高福祉完全競争市場主義という造語をこの考え方のため仮に定義したい。

慈善事業としての義務教育

学ばせる必要がなければ愚者に時を費やすのは全く有害でしかない。一律の集団教育も、それを福祉の一部として義務づけるのも、どちらも或る個人が自らの力で学ぼうと意欲に基づいて勉強しない限り、程度こそあれ有害になりうる。そもそも生まれついての愚者は普く学ぼうとしないし、教えを受けても感謝しないどころか逆上したり、教育者へ犯罪し罠にかけ濡れ衣を着せたりする。総じて愚者に時を費やすのは慈善以外何物でもないし、投下資本利益率といった観点から凡そ意味をなさない。生まれついて優れた者を更に優れさせる費用は、そうでない者をひっぱりあげるより遙かに低く済むし、期待収益という観点から教育投資が容易く効率的かつ合理的である。即ち、義務教育は一律の物なら凡そ期待収益率が低いだろう単なる慈善事業であり、行政や私人による福祉の一部と考えられるべきである。

評価の過ち

他人に嫉妬し足を引っ張ったり、他人やその成果に適切な評価や賞賛を内々に与えぬ者は、結局優れた成果から学んだり、努力を含む才能から然るべき恩恵をえることはできない。評価の基準や観点、軸が悪趣味である時、評価主体は間違った鼓舞を他者に与えているので自他に有害である。

学ぶ意味

他人の為に学ぶのではなく、自分の為に学ぶのだ。よりよい人生を送れるかは学ぶか否かにかかっている。現に、優れてよく学んだ者はそうでない者に優って幸福な人生を送ったろう。
 慈善の本質的な意味である人助けによる良心の満足と、単なる節税や善意を見せびらかす為の偽善は異なる類型だが、少なくとも慈善自体が分かっていない限り真によく生きられるではない。定言命法と仮言命法の違いを知ってなお、利己性の究極形が純粋な利他性にあると知らない人が、学ぶ意味をおしつけられていると勘違いしているのだ。

教授と研究の違い

愚者を啓蒙する様な形で学術を発表するのは実際に多少あれ愚者に近い者にしか巧くこなせるものではない。優れた教育者や解説者には特有の才能があり、必ずしも研究者自身がそれをもちあわせてはおらず、又もちあわせている必要もない。限られた資源を2つ以上の能力に分散するのは個々の分野にとって減衰力として働くので、教育に力を費やすのは研究のみに集中するより一般に効率が悪い。教うるは学ぶの半ばなりとか、教える事で記憶の定着率があがったり理解度が深まったりするという面や、複数分野を習う相互参照性の中で相乗効果や創発のきっかけになる場合もあるとして、これらも専門性のもつ研究の効率を通常は否定しないと思われる。
 超一流の研究者が一般向け解説者や通俗書を著す者を嫌うのは上述の理由からであり、全てが権威主義や人気からくる俗受け、稼いだ金への嫉妬のみではない。俗物根性と呼べる側面は学術的に全く意味のないものだから、二流以下の研究者しか持ちあわせていないだろう。
 教授が当代の学術で超一流な事は、教育や指導の手間がかかる以上、ほぼありそうにない。

学の恩恵

できの悪い人間に構っている暇があるなら、一人で一歩でも先へ進み学ぶべきだ。なぜならそのできの悪い人は元々学に適性がない愚者に過ぎないからだ。学術で得られる恩恵は学のない者には別の応用的な形で、しかもなるだけあとにしか巡ってこない。

2018年8月12日

勤労の義務

すばらしい製品や奉仕で
世界中を搾取しよう
お客様の喜びが
わたくしどものお金です
ですから心ゆくまで
ご浪費ください
わが社の志は
経営者の利己心です
全世界の人々が
等しく格差を享受し
ひとりわが国のみならず
全人類をむさぼりの標的と致します
ですのでどうか一日中
朝から晩までご労働ください
親愛なる株主の皆様へ
弊社の内部留保の搾りかすをお送りさせて頂きます
みな大好きなお仕事をし
利害関係者様のご譲歩をひきだして金儲けする所存です
では天皇陛下万歳と三唱致します
奴隷の搾取万歳
付加価値の搾取万歳
資本主義の搾取万歳
まことにありがとうございました
あすからお仕事のかたがた
米中帝国主義の片棒をお担ぎになられ
まことにシオニズムの感に堪えません
日帝の野望
東京ジャイアニズムの悪意
京都中華思想のしつこさ
原発で清らかな田舎を汚染し不埒な都会生活
成金根性と下賤な起業家精神の元に拝金を誓い
富国強兵と米軍の悪事を重んじ貧民虐待
差別差別でございます
すばらしいわが国にっぽんとともに
偽善者のみなさまどうか歩んで参りましょう

パズル

まるでパズルのよう
ばらばらのかけらを組み合わせ
私達は世界を分かりたがった
尊卑をこえ
私達は消え去っていく
利己主義者が描く理想に従わず
私は金儲けの為の労働を拒んだ
商人は私を揶揄した
全てがおちついてから
優劣が決まるだろう
漱石の悩んだ激しい個人主義に
偽善の帝をもちあげる卑しい全体主義に
あらゆるピースがはめられてから
どんな姿が残るという

左右の翼について

 右翼は極められない。時代は変化し続けてもどらないのだから、保守主義は妄想だ。単細胞が陥り易い、退行的な思考癖に過ぎない。政治イデオロギー全般がそうだが。どの政治思想も一定の期間で別のより優れた物にとってかわるから、どれも実行後、ある種の保守だ。そもそも、何かが正義だと断定できるでもないのだから、ある種の妄想狂が無理やり暴力を振るう言い訳をつくるだけの話だ。政治イデオロギーの間に、よりましなのがあるのも確かだが。そうみなさないと文明が進歩していると考える事が出来なくなる。実際にはしばしば退化しているのだろう。
 左派は利他主義の傾向だ。原始人や類人猿は現生人類より利己的だったろうから、そこから言えば右翼の方が退行的なのだ。実際、右翼は懐古趣味だ。

2018年8月11日

科学と権威

科学と権威は対立する。

2018年8月10日

全世代功利主義

よりよく生きるという事と、より幸せになるという事は殆ど一致している。一般に、快苦は善を駆動する原理だ。
 中道の理論で快苦の原理を無化しようとしたゴータマは、この意味で功利主義者に劣っている。解脱の立場は生命の絶滅を願う虚無主義に陥り、苦諦によってうらみを言い訳する。だが功利主義は涅槃を超えて幸福を最大化しようとするので、積極的に次世代をもより良く変えていこうとする。世代を超えた功利主義、未来に向かっての功利主義が涅槃を超えた慈善の立場なのははっきりしている。死者の弔いや名誉の尊重は、遺族や信者・縁者にとってのみでなく、現世代や無数の次世代にとって死後を憂う必要性を漸減させ希望や楽観性をます為に功利的である。死後の前世代は現世代より優先されるべきではないが、しばしば次世代の幸を慮るより高徳な楽しみという意味で、現世代より次世代が多少なり優先されるべき事もある。この意味で前世代、現世代、次世代の優先度に違いはあるものの、全世代功利主義は無余涅槃の立場を超えて優れている。無論、ここでいう功利性の範囲に動植物や生き物すべてが含まれるべきである。

世間体

賢さや有能さを誇示したくば、世間から離れてみる事だ。衆愚が生む世間体には何一つ賢いところはないし、それを形作っている人々自身が自らを囲い込んだ蜘蛛の巣に苦しんでさえいるのだから。

知性と人格

個々の知性と人格の良さにはあまり相関がない。なぜなら個々の知性は諸場面に汎用的ではないからだ。だが高級な人格と総合知には一定の正相関がある。人格の応用範囲が社会生活の全域にあたるからだ。ここでいう人格が聖価値に至って最高度を達するとすれば、個々の知性をあまねく学びで鍛えるのは、人生全体でみれば一つの修行だといえる。専門的な個々の知性は辿ってきた経路という個性を意味するに過ぎず、実際には総合知の部分でしかない。人格の神聖化を目指す人は専門知を分野や手段としかみるべきでない。

価値観の世代遅れ

商業化の中でも適応度に格差がある。実際、一足遅れに適応性を模倣する人々は、先駆者の価値観を世代遅れで再現している。イノベーターとアーリーアダプターの僅差が、ラガードとレイトマジョリティの間では甚大となる。教育が世代間にもたらす作用は、世代を跨ぐ業や輪廻の様な様相を呈している。

感謝

愚者に賞賛されたり感謝されるべく仕事するのは更に愚かしい。

特別な愛

すべての人に愛を
だが私の特別な愛を捧げる君が
それをねたむとしたら

楽しみ

静かに思索に耽る楽しみが、忙殺される一流商人のそれに優るとは。

商の奴隷

金儲けに追われ幸福をなおざりにする者は、商を人生に置き換えた奴隷でしかないだろう。

知性

学会は排他的な同業組合としてしばしば真理へ反動的な役割を果たしてきているし、大学を主に就職市場等でのシグナリング目的に利用しようとする俗物についても同様に、学問それ自体とは何の関係もない冷やかしでしかない。真理の探求それ自体にしか知性をはかる方法はない。

所得差別のラットレース

労働者が所得階層で自他を差別したがるのは彼らの偏見や妄執が彼らに不利な結果を導き出すのに無自覚だからに過ぎず、彼らの優劣感がいきつくところは所得による階級差別とその内部でのラットレースに他ならない。

生産性の定義

共産主義から搾取といい、資本主義から付加価値というその同じ差額が、所得格差や経済成長をうみだす原因である。しかしこの差額を生産性と全く同じものと考えるのは、市場外取引や寄付を無視しているし、換金されない価値も省いているので間違っている。GDPや営業利益といった数値は、厳密には生産性と全く同じものではない。

2018年8月9日

為事

不幸な為事は幸福なそれに優りはしない。

消費

より善く誰かの為にお金を使う人のみ、蓄財度が高くとも憎まれない。寄付は消費の究極形の一つだ。

優れた人

より自分自身になろうとする人のみが優れた人になる。

うつくしさ

すばらしくうつくしい
そんな君にも終わりはくる
だけど僕は君が好きだ
宇宙が変わり果てても

経済的

貴人は必ずしも経済的ではなく、金儲けより重要な人道を重んじている。成金と貴人の間には考え方の差がある。教養人は成金より貴人に近い。が卑人は成金根性と貴族精神を見分けえず、教養も認知しない。

人気

愚者の間で人気を得る勿れ。それは汚名を意味している。ただ賢者の間での賞賛のみに価値がある。賢愚の中程にある凡人の間での名声は低俗なものでしかなく、一顧だに値しない。

保守

多くの場合、保守性は進歩性に劣っている。だが全ての変化が優れた方へのそれではない。

目的

仕事を人生の目的にする人は、手段と目的を履き違えている。人生の目的は人を愛する事にある。

僕の好きな君は君の好きな君ではない
だが僕は君が好きなのだ

寛容

たとえどんな個性でも、社会はその人を然るべき仕方で生かしている。もしある社会がその人を無駄にしか生かせていないなら、よりよく個性を生かす別の社会に負け、よりよい社会が広がっていく。個性を殺し、一律の平均化をはかろうとする衆愚は、単に劣悪な社会に属している。
 経済的に恵まれない個性がいる場合、社会はその人を商売の面で正しく生かせていない。この意味で生産性の低い社会である。ある個性が最も生産的になる状態で生かされている場合にしか、経済成長はありえない。最大の経済成長は全個性がその潜在的特徴を生かしきっている場合にあたる。この様な差がうまれるのは、ある社会の構成員らが排他的・求心的だったり、特定の個性へ差別的・寛容的だったりするからだ。本来の意味で、優れて経世済民的な社会は全個性へ最も寛容であろう。

愚者に時を費やすな。人生は有限なのだから、わずかな時も愚者に意識を向けてはならぬ。

2018年8月8日

激しい雨

残暑にふる激しい雨のねが私を癒していく

せみのなくなかに降る雨のさやかなねいろ

人間に生き疲れてしんでいく残暑の雨

2018年8月6日

The meaning of love

This meaningless world made
This meaningful stress of love
But for somebody
This world is over
This world tells the mean of love
We forget the truth sometimes
We have to require
This meaning of love

歩み

みなが死へ歩む
僕ひとり生へゆく

A perfect life

There is no perfect life
Let us to believe our individualities

Why we die well

Why we die well
Because we live in the love
We die day by day
Because we live a life with the pleasure

2018年8月4日

語族多様性の倫理的・適応的意味

人の言語野が母語へ第一に適応し易い傾向は、バベル神話の意味が語族多様化によって細分化された集団を倫理的としたのに呼応している。ある集団単位での多様性は、相互参照点によって徳の検証を行わせるのに適しているし、集団ごとに非普遍的で個別的な正義が異なるのは、環境変化への再適応についてばらばらに生活した集団のどれかが偶然うまくいく場合を予想させる。

予定

あすの予定がない事に不安を感じる人は、仕事中毒になっている。

実証主義と論証主義の批判

実証主義者は根拠や論拠、検証実験の確度が統計的真に漸近する重要な方法と考え、しかもその趣旨をしばしば実証性が役立たない非自然学についても適用なり絶対化しているが、この種の思想上の一立場を程度こそあれ真理の印と誤認するのは教養不足でしかない。実にそれは実証主義が信仰でしかなく、オーギュスト・コント教義を学会とよばれる宗教団体で排外的ないし多少あれ閉鎖的に狂信し、そこで利害関係者からえた偽の勲章を権威の如く吹聴して回っているだけである。学位を免状の如く、シグナリングの証の如くぶらさげる全ての愚者は、当然ながら狂った同調圧力をばらまく不愉快なばかりか大いなる公害でしかない存在だが、そもそも実証性を真理の担保とする虚構の一味、詐欺師集団が大学教授程度の通俗的科学者や学界の実態だと知らぬか、寧ろ自ら進んでこの邪教を崇拝しているのは定めし滑稽である。
 いうまでもないことかもしれないが、潮流論の立場を引用する以前に、人の知性は真理へにじり寄ろうとする飽くなき好奇心や、具体的な探究の発意工夫にある。つまり特定の手法は知性の目的ではなく、それは思想にも当てはまる。世俗の価値観は真理への敵対に少しも罪悪を覚えぬ無関係な系でしかないし、大体それを知ってなお程度という相対的知識を正義なり信条とするならこの様な実証主義信者が人類史に有害な役割を果たすのが明らかだ。常に比較的偽のみの自然学で流行した学問の仕方は真そのものの姿ではないのだし、いわば近代の一宗派での儀式と述べるのが適切である。同じ事は引用文献を検証手段として要求するが全文献の主張なり示唆する根本的な真理性は無視し、擬似実証性ですらないこの人文学上の後光効果狙いの偽装を声高かつ大真面目に科学的経過とし恥じぬ論証主義者というべき輩にもあたる。論証主義は実証主義の分派を騙る新興宗教であり、その教団の実態は衒学による威圧で詭弁術の巧拙を競う野蛮なマウンティングが生きがいの精神的暴力団でしかなく、従ってこの教義でえた全学位や賞の類はどれも肩書で他人を恫喝する以外に目あてのない邪悪さの証明である。
 科学性は哲学性の部分だが、それを公に表明するかとは別に少なくともどの主義主張、思想にも懐疑する人は単なる一知識という或る系の部分にも、よりふさわしい見方をみいだす。我らは全知をもたず有限な生に修得できる知識すら部分的なのだから、生前にしりえた域を含めより無知な部分へ常に歩み入る態度が、即ち知性である。知性度が無知の知と交わるのはこの為で、そもそも精神年齢の肉体年齢に対する百分率を目安とするIQの類で示された一般知能の定義や、それ以前にも生育両面で同一条件下ではなく当人の緊張や運を顧慮しない共通学力試験を知性度と関連づけるのは、早熟さや試験製作者の期待する典型性を問うに過ぎず当人の真理の認知度に対して偽であるのみか、実証性か論証性いずれかの有知を計測してもいるので特定信仰をおしつけているだけ害悪である。無知に分け入り飽かぬ特性がはかられる場合にしか知性度はしりえず、原理的に全知への意欲の強度自体が知性である。よってある人の知性をはかるにはその人の哲学的全史を知れば十分だろう。どの学も当人の哲学史が究極の度合いと同時に入門時の実力だ。

教団

恋人、親友、家族は教団だ。
 日本教徒は自己奉仕バイアスで凡そ常に不利な選択を重ねる。人はホームバイアスを離れ、自集団ひいきの妄想を避ける範囲でしかある教義の誤謬に気づけない。

幸福追求権

幸福を求め不幸を避けよう。この基本原理に背く人が実に多く、自ら踏み行うのも難しい。労働崇拝を中心とした日本教の洗脳は皇族という特権階級に都合よく人々を支配すべく、たとえ個人が不幸でも自他を奴隷化するよう強いる。だが人生を好転させるのは唯一、幸福追求権だけだ。
 他人の不幸を願う人は最後まで救われない。が元々その種の人は幸福追求していない。彼らは自他どちらかに幸福を避けさせ、不幸を求めさせている。この様な人には不幸さを寧ろ自虐的快楽と感じている人もいて、苦痛や有害さをも追求している。
 幸福になるにはそれに値する人になるのが前提条件である。実際、幸福を得るにふさわしくない人はそれがやってきても重要さに気づかず、素通りしてしまう。
 幸福は少数者に宿る。そして人間関係を限定するほど、集中し高まる。

2018年8月3日

実力者

自信過剰な実力者は一人もいない。

温故知新について

単に過去にのみ学び、未来を構想したり今を改善しえない者は、保守主義者や古典主義者となって現在以後の世界に有害な場合がある。が過去すら学ばぬ者は過去の全時代と同じ過ちをくりかえし、そもそも進歩しえないだろう。

裕福さ

搾取でしか人は裕福になれないので、それを勤勉さで偽装しても同じ憎しみは買う。蓄財が敬われるのはそれが当の他人へ利益をもたらす場合だけだが、そもそも或る富者から寄付や分け前をもらったばあい多少なり緩和されるのを除けば、誰かが成金自慢をしているのは不快でしかないだろう。つまり裕福さが有益なのは、単にその個人にとっての事でしかない。故に清貧を装ったり、消費生活について質素に留まろうとする事が、再投資の合理性を除いても富者にとってさえ処世上の知恵なのだ。他方で顕示的消費や浪費癖からくる成金趣味があるからこそ高級品の需要や奉仕の質がもたらされるので、奢侈自体は放任されるべきだ。そもそも富裕度に応じてつつましさの最低限度も向上していく。

富の中庸さ

死を恐れ生にしがみつく人は、死を恐れぬ人より醜い。特に老人においてこれは顕著である。死後にさっぱりしたと思われる人は、元々しぬのが遅すぎた。守銭奴の老人は単に憎まれるのみならず一刻も早い死を願われるだけの存在なので、諸々の老害性の中でも最大に卑しい。高徳な老人は、若者の方がより一層必要とする物を何も奪わず、むしろ誰もに有益でしかないのでひとりでに敬われ、長寿を願われる。
  若いうちに蓄財をめざして知恵を得なかった人は、単に若い間にも軽蔑されているが、年を重ねるほどその傾向は顕著になる。ある人が富の寡占で敬意を表されるのは、それが他者にとって何らかの有益さをもたらす場合だけであり、他者に必要で有限な資源の独占度に応じてその人は憎まれる。
 人生で若いうちにえるべき獲得物と、老年後に重要なそれとは大きく異なっているが、少なくともどの時期でも他者と比べた過度の金銭上の寡占はうらみを買う為に不幸の原因となる。一方で大抵の老年が不足し、それゆえ邪慳にされる原因となる知恵、特に人徳に関わる部分は、学ぶゆとりがある若いうちに集め始めねばならない。必要な消費量のゆえ中年が最も蓄財度が他者から相対的に高くても憎まれづらい。
 幸福の殆どは身近で親密な人から直接もたらされる自己が愛されているという確信から来るので、この様な目的にたがう行動は厳に慎むべきだが、その最たる部分が資本主義傾向の社会では個人のもつ富への中庸さにある。憎しみは質素の閾値を超えて贅沢に近づくほど受け易くなるのだから、各年齢にふさわしい知恵を用いて貪欲を戒めるべきである。資本主義者が無限の貪りを営利企業で斯くある如く目的視しているとすれば、その人は資源を最適配分する為の市場秩序を、個人の幸福度と誤認しているに過ぎない。

説教

莫迦に説教している暇に、自らさらに賢くなる方がよい。

読解

愚者は誤解し、悪人は悪解釈する。賢者は疑い、善人は思いやる。

職業の貴賎

卑しい手段で安直に蓄財した者が、清貧の中で盗泉の水を飲まずそうした者と同等に評価される事はありえないのに、愚者の中で「職業に貴賎はない」といわれる反差別的人権の一般論と、金儲けを超えた倫理的判定が誤認されている。つまりこの種の愚者は単なる商業主義者である。
 努力や根性といった精神論を知恵や工夫の様な具体的改善より重視する最悪の部類の拝金主義者、いわば労働主義者は、群集心理の悪意で衆愚に群れつつ求める的と全く正反対の道へ突進するばかりか、次々崖からおち不幸のどん底で死んでいく。
 商業主義者の中に拝金主義者や労働主義者は含まれるが、投資屋を名乗る差益狙いの掠め取りが生業な連中もいる。そしてどの金儲けについても職業または仕事上の貴賎は、多少あれ問われるだろう。結果が全てとか勝てば官軍といった野蛮の狂信を復唱する結果論者は、過程についても最善を辿った人のみ、表面的な名誉の先にある更なる世界を開かれると未だ知らない。
 過程論としての職業、仕事には貴賎があるというしかないが、それが最終結果の到達度に単なる蓄財度を超えた名誉の次元があるのを知らない人には見えていないのだ。しかし人生や企業の一生をどの時点で切っても、それは過程である。「私は清貧を評価しない」と述べた福沢諭吉は、反儒教の立場から安易に商業主義に染まる事で大きな過ちを犯していた。

創造性

創造的な人は結局、革新性によって利殖や人生の幸においてもひときわ優れている。創造性が神に近い性質なのはそれが知恵の結晶だからで、また神の方が人より幸福で優れた概念なのも明らかである。

そねみ

幸福を超えた人生の目的がない限り、ねたみぶかい衆愚に同調し、他人の幸をそねむ卑人はやはり不幸足らざるを得ない。

蓄財度

単に交換価値にすぎないようなものが知恵自体より貴重だと思うなら、現にそれを知恵にかえてみるべきだろう。ダヴィンチがいう通り、若年の内に得るべきものが枯渇した老年は悲惨である。徳なき老人が守銭奴であれば世間から倍の怨嗟が襲ってくるし、搾取の罪に気づかず利己心のみで貯蓄や利殖に励む若害は、単に来たるべき老害の前座でしかない。我々は人徳を含む知恵によって尊卑に分かれるのだから、蓄財度は知恵を得るのにふさわしい中庸さにおいてしか評価しえない。

成金根性

金銭を得て自慢する者は、うらみやねたみを買う為にそうしている。だが成金当人は他人からのうらやみやそねみを痛快と心得、因果で致命的な復讐がくるまで反省しない。

利益

心からの感謝を超えた利益はないだろう。

勝敗

勝敗にこだわる者は幼稚であり、結局は最悪の結末を得る。勝って目的を達せず損害を被ったり、逆に負けて得をしたり目的を達したりする場合があるからだ。

行動の目的

目的に従って行動する人は手段や道具に過ぎない物にこだわる人より優れた結果を常にあげている。

最悪の仲間

俗人は聖者を辱め勝利したと考える
だが彼らは自ら最悪の仲間をふやしている

僕は君を愛しているが
それをあらわす手だてが足りぬ
だから技を磨き
やがて溢れる花束を渡すつもりだ
預金通帳の数字で身入りするあの女が
悔いて卒倒するだけの愛のしるしを
世界中の全ての富をこえた安心を
救いに違いない最良の夢を
僕はあらゆる場所から集めてくる
それでも君を想う心には足りないので
実際に金塊も食事も用意し
衣服も旅行も想い出も
現実にある全部で君を愛でる
僕自身さえ捧げながら

贈り物

心ばかりの贈り物でも人は癒されるのに
守銭奴はなお憎しみを買う

成功の定義

カネをかき集め勝利したという愚物
なるほど不幸で憎まれ且つ妬まれる君は
卑賎な我執で他人を踏み躙るのに夢中だ
しかもその成功の定義で獲る戦果品が
聖者のもつ慈しみの束に比肩できぬとは

価値づけ

創造的な営為に値がつかぬのは
それが聖なる価値の一部だからだ
この世で俗世間の評価に合わせれば
愚なる価値づけに流され堕落する

地図

僕の手に入った全てが
手に入らぬ物の全てより輝いていて
余りの愛おしさに僕は胸がときめく
何しろ拝金主義者のあずかり知らぬ所に
これほど底なしの宝があるのだから
我らは俗世間の愚物を警戒し
騙されぬべくよく地図をみよう
偉大な宝物はこの溢れるばかりの愛
だれに奪えるでもない永遠の愛

凡愚の価値

何も書けない小説家志望が
俗悪な世間に染まり
下らない日常に流され八つ当たりする
良心のない精神病質として人を傷つける
ではそんな愚物になんの意味がある
僕の信じる成功がその女の
劣悪な趣味とまるで違うとして
なおその卑小な下女に何かがあるのか
無数の人々の中で最下等な下人
だがその醜い下種に何か価値があるのか

賛歌

全人類に仕え
我らは美醜を超えていく
塊となった魂は
右も左もわからぬ愚者の頭上で
すぐにでも賛歌を奏でる
願わくばこの全宇宙に響く
真心からの賛辞の束が
神と呼ぶ良心の一部となります様に

労働界

邪悪な労働界が弾き出した人の方に
明らかに立派で偉大な人々がいるのに
なぜ君はその労働界が全てだと思う
卑小で卑屈で陰険極まる守銭奴の列に
君は自分から並びますます俗に染まる
それともうまれつき君は下賎で
最初から魂がけがれているのか

恋する人

喜びは束の間で哀しみは長い
それでも恋する人は美しい

愚物

善悪をみわけえぬ愚物は
時が経過しても徳をもたぬ

楽しみ

神は人生という最高の贈り物をしているのに
それを楽しめないとすれば我らの責任なのだ

2018年8月2日

奉仕

俗人に奉仕する生業は全て悪い。

学ぶべき人

真理を求め得られずに
酒にのまれてくらす愚か者が
自分は賢いと考える滑稽さよ
だから人は学ぶべきなのだ

貴ばれる者

下衆の中で貴ばれている者が
最悪の屑なのは珍しくもない
丁度日本人衆愚の間で
邪教祖天皇がそうである通り

自分一人

自分一人とうとくあればそれは十分すぎる
全ての俗物を立派な聖者に見習わせるには
この世は余りに広すぎる
人徳を軽侮しながら蓄財に励む者は
貴賎を履き違えた愚物である
だがそんな愚者がどう変わりうるだろう
自分一人真理に近づけ
自分一人貴族たれ
卑しい人に交わるな
俗人は反省しない
俗人はがさつで無神経だ
労働階級に関わるな
たとえおしまいまで行っても
卑しい金が貴いそれにかわりはしない

無為

貴い仕事に就け
最高の仕事は無為だ
愚者は貴賎を見分け得ない
卑しい人は貴賎を誤認する

人々

科学的実証主義を信じる者は
結局しりえない真理を追いかけ
定義による論証主義の信者は
差延する解釈に溺れていく
愚か者になりたくなければ
相対主義を離れるべきだし
敬われたくば
あらゆる価値づけを疑うべきだ
愛される者は欠点が大きく
蔑まれる者は差別が激しい
人は成りたい者を選び
その雛形は千差万別だが
愚者は永久に愚者のままだ
聖者は神に近づく

心の尊さ

肥大した驕りをたくましくするなら
はなから何も学ばなかった方がましだ
どんな肩書きをぶらさげようと
心の尊さを補えはしない

経済界

汲々とした世俗のなりわいの上で
だが自分だけは愚者に染まるな
差別や侮辱をばらまく労働階級
株式投資で搾取する下卑た投資屋
卑賎な人々は反省しない
俗物に染まるな
自分ひとり悟り正しい道を歩め

教養

教養は身を守る。善意は諸悪を見分ける。

下層階級

奴隷をめざす労働者らに
私は散々差別された
単に画家なだけで
だから私は労働者が嫌いだ
私はますます自由を得るだろう
私は軽蔑すべき労働者らを避け
尊く立派な人のうち最良の人と出会い
互いに学びあい愛しあうだろう
労働界は私を排除した
労働者は私を侮辱した
彼らをゆるすべきなら
私はとうにそうしている
一体なぜ資本主義信者の中で
労働主義という分派は斯く賎しい

卑しい人と関わるな
卑しい人の考えは不幸の源だから
尊い人と交われ
尊い人の考えは幸福の源だから

尊い人

私は尊い人を見た
逆にいやしいひともみた
どちらも比べ
私は尊い人になりたいと思う

隙間

宇宙全体の小さな隙間にいて
だが偉大な世界に心を致し
私は愛の中で生きる

軽視

ただ尊い人とのみ関わることが
俗人の間でこれほど軽視されているなら
当然卑しくなるわけだ

夜空のした

もはやだれもいない夜空のもとで
僕はひたすら君を想い祈るよう愛す
俗人達は僕らを侮辱し通り過ぎた
だれもいない夜空のしたが
こんなに美しいともしらずに

訓練

人はとうとくなる訓練をすべきだ
人は絶えず俗悪な世間に苦しめられる
だがそれにのまれてはいけない
ただとうとくあれ

関わり

人は誰と関わろうといずれそのような人になるのだから、わずかな時でも愚物と過ごしてはならない。愚は尊者をそしり、愚者をほめたたえ親しむ。それは尊卑を知らぬからだ。愚物を避けよ。愚物の言動を見聞きするな。愚物のいかにあるかさえ知らぬ方が幸いである。全ての人を知る事はできないのだから、我らは尊卑の違いを知れば、愚物のすべてを知らずともそれで十分である。むしろ、日々尊者がどう思いいかにあるかに詳しくなれ。尊さは心の価値である。
 わずかでも愚物に奉仕するな。わずかでも尊者に仕える者は、優れた状態に達する。

2018年8月1日

慈愛

枯れた草に水をやる
だれもがその草をごみだと思っている
だが僕だけがその命の美しさを知っている
咲いた花が輝く大輪のゆりとなってから
僕が見ていたものを知るとしても
だれも命を慈しむ意味を知ろうとはしない

愛し愛される事

虚栄心でカネをかきあつめ
他人を侮辱する卑しい商人が
下卑た労働や蓄財目的の投資で
ますます虚栄心を増長させている間
僕は人の愛を知りまた人を愛していた
無力な僕が手にしたのは虚栄心どころか
等身大の自分を愛してくれる女神だった
あの卑しい商人の集めていたカネを 
どれだけ積めば彼は気づくだろう
カネで買えない物が最も尊く
カネで買える物を犠牲にしても
人は先ず愛の故に生きる意味があると
なにもない世界で唯一意味があるのは
なお愛し愛される事だけだろう

野蛮人

野蛮人の自慢する野蛮さに
野蛮人自身が気づくことはない
都会人の自慢する下衆さに
都会人自身が気づくことはない様に

搾取罪

守銭奴は人間をばかにしていた
両手に溢れる悪の証拠と共に

代償

あなたはまことにうつくしい
そして代わりにおろかである

愚民ども

私が憎み且つ許してやった愚民どもが
不幸そうに暮らすのさえ見苦しい

会話

莫迦と会話するのが無意味なら
人づきあいなど到底できようもない

ただ生きることさえ許されぬこの国へ
では何のため人は生まれくる

労働者

僕は労働者が嫌いだ
会うたび差別や侮辱を加えてくるからだ
こちらがなんの害も与えていないのに
ひたすら惨めに経済弱者虐めをくり返す
心から軽蔑すべき労働階級は
守銭奴であり奴隷として
利己心からカネを貪り
SNSで誹謗をばらまきながら
中身のない日々を空疎に食い潰す
もう蓄財と浪費しかやることもなく
卑屈な表情で虚栄心にひたりながら
仕事だゲームだといいつつ死ぬ
アフィリエイトだ株だといい
結局何も意味のあることはできない

片時も目を離さぬよう
この星を眺めていた
夜のとばりがおりてから
君の姿だけが残された

創造

無から有が生まれる様に
なにもないところに魂がうまれた
だが間もなくそれも失われ
美しい夜だけがそらに浮かんだ

都会の娘

俗にまみれ
世間にすれ
中身はなにもなく
表面だけで群れ
ちゃらちゃらきゃあきゃあいいながら
君を侮辱するその女に
なにかひとつでも学ぶべきことがあるのか
生まれつき愚かで
心はけがれ
都会で阿婆擦れ
日々を無為に過ごし
はやりに流され
人を傷つけ恥もしない
君が僅かなりとも好意を寄せるその娘に

人の愛

人を愛すべきとはいったものの
労働階級の下賎さや悪質さ
都会ずれしきった阿婆擦れ共をみて
君に本当にそれができるのか
もし君に人を愛せたとて
なにも残らず疲れだけが襲ってこよう
憎しみで運よく金を儲けた連中が驕り
人を人ともおもわず公害をばらまく
彼らに奉仕する君が甚大な被害を受けつつ
それでも人を愛するというのか
ろくでもない人間が地を這うように
天皇皇族を名乗り世間を搾取する
最後に残されたのが愛だけだとして
一体君は救われたといえるのか