2018年8月21日

幸と不幸の連鎖、或いは無限の幸福追求について

幸と不幸は一度あつまりだすと、殆ど無限大にあつまってくる。これらの起因となるのは最初は小さな業である。本のわずかな功徳と悪行に続けて、幸と不幸が次々連鎖する。事情は幸福が何らかの物質に関連していても同じであり、一旦集まりだすとそれは、ほぼ無限に集まっていく。恐らくこれらの起こる原因は、幸福とは魂の状態、より科学的にいえば習癖だからなのだろう。その幸福にふさわしい魂の状態、習癖がはじまりさえすれば、後は同じ状態を維持するだけで、望ましい結果が次々続く。
 したがってある人は、幸福に値する人になる事が最初になければならない。その幸にふさわしくない習癖をもちながら、しあわせになる事はできない。本質的に幸福は自分自身にしか原因がないのだ。そして自分自身が幸せになるにふさわしい功徳を知り、それを重ねる様につとめる中で、幸福追求が可能となる。
 ある人の人生にとって最も望ましい状態を幸福と呼べるので、我々はその理想を純粋に追求するべきだ。一体、我々は自分以外の人と多かれ少なかれ異なる目的をもって生まれ育つ。なぜなら各々が全く同じ生育過程で全く同じ幸福観をもつとは考えづらいからだ。誰かが人間関係で共に幸福になるには、全ての幸福観を全体集合とし、個々の幸福観を個別集合と考えた時、それら個別集合としての幸福観らに共通部分がなければならない。
 我々はしばしば反面教師として不幸を好む人をみかける。この様な人は、生きる中で幸福を受けるに値しない習癖を一度のみならず実行してきたのであり、修正の効く単なる一時の過ちとは呼び難い。不幸になるにふさわしい悪行は、たった一度ですら当然受けるべきだった幸福を損なう筈が、それをくり返してきた人は恰も望んで不幸になっている様に見える。これが我々のいう不幸を好む人の実態である。そして不幸な人と不運な人は本質から異なっている。たとえ或る人がたまたま不運にあっても、その人の生が持続的な功徳の元で幸福に値するものとして営まれていたなら、やはり我々はその人を、偶然不運にあったが幸福な人と考える。同じ事は幸福についても言え、たまたま幸運にあった人は決して幸福な人そのものではない。
 我々は幸不幸を(それが存在しないという立場についてはあたらないが、伝統的な哲学用語でいう)自由意志、もしくは単に科学的に言えば脳による意識的選択という主導権をもって選びとれるが、偶然に由来する運不運については完全にそうではない。この為、我々は幸福に値する人になれれば必然に幸福となり、しかも人の生は当然それで十分なのであり、無限の幸福追求は偶然の不運を最大限予想の範囲内で避ける事を含め、この領分で完全に可能である。