幸福最大化の対象を他者全体と定める利他的功利主義と、自己のみをその対象とするか利己に役立つ限りで他者に功利性を拡張する利己的功利主義は、似て非なる考え方であり、これらに対し他者と等価な自己を功利性の対象とする全員の一員としてのみ認める相利的功利主義がある。
これら3つのうち、利己的功利主義者は最高でも仮言命法に基づいてしか善行しようとしないため、単に偽善者であると共に、定言命法上の利他性が必要な場面でも利己的にふるまおうとするので多かれ少なかれ有害である。相利的功利主義は、利己的功利主義から離脱し利他的功利主義への動因となる段階であり、そこでいう中庸さ、中道さは純粋な利他性に比べて合目的ではない。なぜならこの種の中庸的態度は、定言命法に基づいて行動する時もあれば仮言命法に基づく時もあるといった不安定な善で、どっちつかずという意味で真の善ではないからだ。利他的功利主義が目的の功利主義なのだが、自己犠牲を当然と考える意味で、この功利性を追求するのは、人に本能がある限り現実的に困難である。だが最も当為に近い生き方という意味で、利他的功利主義が究極目的ということができる。
利己的功利主義は幸福追求権として個々人に当然のよう与えられている通常の生き方に過ぎず、ありふれていて取るに足らないだろう。この考えは、単なる利己主義と変わりが殆どなく、しばしば善とも言い難い。また利他的功利主義は理想的な善ではあるが、自分を幸福最大化の対象としていないので、実態をもたない神のみにふさわしい考え方といえる。通常、人類に到達可能なのは相利的功利主義と利他的功利主義の中ほどであり、ある人が中庸を超えて、究極のところ己の不幸をかえりみず利他性に殉じた場合、我々はその人を聖者として神格化する。