2018年8月4日

実証主義と論証主義の批判

実証主義者は根拠や論拠、検証実験の確度が統計的真に漸近する重要な方法と考え、しかもその趣旨をしばしば実証性が役立たない非自然学についても適用なり絶対化しているが、この種の思想上の一立場を程度こそあれ真理の印と誤認するのは教養不足でしかない。実にそれは実証主義が信仰でしかなく、オーギュスト・コント教義を学会とよばれる宗教団体で排外的ないし多少あれ閉鎖的に狂信し、そこで利害関係者からえた偽の勲章を権威の如く吹聴して回っているだけである。学位を免状の如く、シグナリングの証の如くぶらさげる全ての愚者は、当然ながら狂った同調圧力をばらまく不愉快なばかりか大いなる公害でしかない存在だが、そもそも実証性を真理の担保とする虚構の一味、詐欺師集団が大学教授程度の通俗的科学者や学界の実態だと知らぬか、寧ろ自ら進んでこの邪教を崇拝しているのは定めし滑稽である。
 いうまでもないことかもしれないが、潮流論の立場を引用する以前に、人の知性は真理へにじり寄ろうとする飽くなき好奇心や、具体的な探究の発意工夫にある。つまり特定の手法は知性の目的ではなく、それは思想にも当てはまる。世俗の価値観は真理への敵対に少しも罪悪を覚えぬ無関係な系でしかないし、大体それを知ってなお程度という相対的知識を正義なり信条とするならこの様な実証主義信者が人類史に有害な役割を果たすのが明らかだ。常に比較的偽のみの自然学で流行した学問の仕方は真そのものの姿ではないのだし、いわば近代の一宗派での儀式と述べるのが適切である。同じ事は引用文献を検証手段として要求するが全文献の主張なり示唆する根本的な真理性は無視し、擬似実証性ですらないこの人文学上の後光効果狙いの偽装を声高かつ大真面目に科学的経過とし恥じぬ論証主義者というべき輩にもあたる。論証主義は実証主義の分派を騙る新興宗教であり、その教団の実態は衒学による威圧で詭弁術の巧拙を競う野蛮なマウンティングが生きがいの精神的暴力団でしかなく、従ってこの教義でえた全学位や賞の類はどれも肩書で他人を恫喝する以外に目あてのない邪悪さの証明である。
 科学性は哲学性の部分だが、それを公に表明するかとは別に少なくともどの主義主張、思想にも懐疑する人は単なる一知識という或る系の部分にも、よりふさわしい見方をみいだす。我らは全知をもたず有限な生に修得できる知識すら部分的なのだから、生前にしりえた域を含めより無知な部分へ常に歩み入る態度が、即ち知性である。知性度が無知の知と交わるのはこの為で、そもそも精神年齢の肉体年齢に対する百分率を目安とするIQの類で示された一般知能の定義や、それ以前にも生育両面で同一条件下ではなく当人の緊張や運を顧慮しない共通学力試験を知性度と関連づけるのは、早熟さや試験製作者の期待する典型性を問うに過ぎず当人の真理の認知度に対して偽であるのみか、実証性か論証性いずれかの有知を計測してもいるので特定信仰をおしつけているだけ害悪である。無知に分け入り飽かぬ特性がはかられる場合にしか知性度はしりえず、原理的に全知への意欲の強度自体が知性である。よってある人の知性をはかるにはその人の哲学的全史を知れば十分だろう。どの学も当人の哲学史が究極の度合いと同時に入門時の実力だ。