2018年8月21日

もののあわれの哲学的定義

かしこさはしばしば愛の名より重要だ。なぜなら愚劣な愛は単なる性欲に過ぎず、愛の名を偽ってその愚者を欺く。幸運によるのでなければ、愚者に愛でない性欲は見分けられない。真の性愛は決して性欲それ自体ではなく、しかも愛の全体集合を考えたとき性欲を一部含む様な集合だ。
 愛と彼らが思い込んだもので不幸になった人達をみれば、彼らがおおよそ単なる性欲であって性愛でない部分集合をもっと広義な愛一般と取り違えたのがわかる。なぜ性欲がその様に不幸へも働くかといえば、性愛でない性欲、つまりしばしば憎しみの範囲にあるそれや、全く売買の手段でしかないそれ、慈愛その他の必ずしも性愛でない愛と結びついた性欲などがあるからだ。これらの性欲の中には自他に有害だったり、自分または相手にだけ有害だったりするものもある。他方、性を含み幸福になれた人は飽くまで性愛と共通部分のある性欲にのみ、その享受を求めている。その性欲が純潔や貞操を一定以上に要求する誠実な純愛として、性愛という集合の部分集合であった時、性愛の継続性や確実性が担保されるのでより良く人は幸福になり易い。賢愚は愛と性の共通部分と異なる部分集合を見分けられるかの条件になる。
 我々が性によって不幸となった憐れむも同情しきれない愚者を見るのは、その人が愛の真偽を見分けえないからだ。この人に悪意か、良識への背反があって愛でない性欲に耽ったのか、それとも単に愚かで偽りの愛に騙されたのかを外部からうかがい知るのは難しく、当人が十分に愚かなら当人すら分かっていない。このため単なる自業自得の不幸に、世間一般から娼婦や遊び人は同情を買い辛い。性愛に含まれるか、より近い要素がある性欲であれ、純愛の中にあるそれへの共感を決して上回りはしない。生まれつき愚かであるが善意である様な人で、性欲でしかなく性愛ですらない行いで不幸になっても、同情される程度は少し低くなる。この人の生育条件下で自己向上の余地が全くなかった場合、つまり全く賢明な手本を見知ることなく悪しき人々の中で生まれ育った場合を最大とし、この第三者からの同情はその人の愚かさが善意で補える分しか強化されない。いいかたをかえれば、その人が生まれつきか後天的な反省によってか善意を強く持つ人物であったなら、性と愛にしばしば違いがあるということ、即ち性と愛で相互に重ならない部分集合を、単に愚かな故に見分け得ず不幸な目に遭っている事はあわれでしかない。我々があわれ、或いはもののあわれという概念で日本文学上に予て認識してきたのは、おもにこの領分である。生まれつき愚かでも自己向上した人や、悪意の故に愛なき性に耽って不幸になった人、また生まれつき賢い人でもある訳で悪意の故に愚行した人、単に純愛を知り善意でその中に留まる賢者自身は、そこでいうもののあわれの厳密な意味での対象ではない。