2018年8月3日

職業の貴賎

卑しい手段で安直に蓄財した者が、清貧の中で盗泉の水を飲まずそうした者と同等に評価される事はありえないのに、愚者の中で「職業に貴賎はない」といわれる反差別的人権の一般論と、金儲けを超えた倫理的判定が誤認されている。つまりこの種の愚者は単なる商業主義者である。
 努力や根性といった精神論を知恵や工夫の様な具体的改善より重視する最悪の部類の拝金主義者、いわば労働主義者は、群集心理の悪意で衆愚に群れつつ求める的と全く正反対の道へ突進するばかりか、次々崖からおち不幸のどん底で死んでいく。
 商業主義者の中に拝金主義者や労働主義者は含まれるが、投資屋を名乗る差益狙いの掠め取りが生業な連中もいる。そしてどの金儲けについても職業または仕事上の貴賎は、多少あれ問われるだろう。結果が全てとか勝てば官軍といった野蛮の狂信を復唱する結果論者は、過程についても最善を辿った人のみ、表面的な名誉の先にある更なる世界を開かれると未だ知らない。
 過程論としての職業、仕事には貴賎があるというしかないが、それが最終結果の到達度に単なる蓄財度を超えた名誉の次元があるのを知らない人には見えていないのだ。しかし人生や企業の一生をどの時点で切っても、それは過程である。「私は清貧を評価しない」と述べた福沢諭吉は、反儒教の立場から安易に商業主義に染まる事で大きな過ちを犯していた。