利他的功利主義は天に功徳をますと、功徳を積むいわれる最大の善行の癖づけを意味する。そこで没我は完全慈善性を自己に要求する。
他方、相利的功利主義は一般に人がもつ幸福追求権を必ずしも慈善的でない行いへも拡張したものであり、慈善を最高度の良心の満足とする質的幸福の度合いを多少下げても、状況に応じて自他の本質的等価性を追求する。
両者のうち、利他的功利主義の質的幸福さは最高度を達成できる。つまりこの考え方に基づけば世界で最も幸せな人は自己犠牲的な慈善行為に生涯を捧げた人であって、当人の良心がこれでよいと自己肯定を全うさせ得た人である。対して相利的功利主義の枠内に人生を限る者は、少々の損を顧みなければなしえた筈の慈善に比べ自己に過剰配分した場合を多少あれ良心に恥じ、悔いざるを得ないので幸福の質において十全たり得ぬ。
利己的功利主義はこれらの前段階としてのみ理解でき、自分自身が他者より客観的に恵まれていないと自己の良心が判断する時に要請される。利己性はある種の自己愛であり、それは貪欲さと淡白さに応じて個々で異なる我欲が量的に充たされるにしたがって、相利性へ、またのちに利他性それ自体へと向かう。慈善心は自己の良心を完全に満足させる為にあるので、その完成時には神的なものだが、快楽という観点からみれば究極の自己愛の姿といえる。もし快楽が質的段階へ移行する時を問えば、それは相利性以後、純粋な利他性で最高度を達し、利己性は含まれない。人の訪れがない無人島でくらす人は他人を慮るべくもないので、動植物や星辰といった対象へのそれそ除けば、社会的な快楽を発達させえない。つまり質的幸福や一部の質的快楽は、向社会性、社交性の中でのみ展開される。
アリストテレスによれば有用さは他の手段となるもの、快楽は他の手段ともなるが時にそれ自体としてもよいもの、幸福は決して他の手段となることなくそれ自体が目的なものである。これを快楽のみに単純化してきたベンサムとミルの旧来の功利主義に適用すると、有用さは質の低い快楽、快楽それ自体は質が中くらいの快楽、幸福は質の高い快楽と定義できる。更に幸福自体にも質的差があるとすれば、他の手段となりえないものは善であり、また善が高度さを達するのは利他性の度合いに応じてなので、慈善が最も質の高い究極の幸福である。苦痛が生の目的ならそれは避けられるべき状況となるため幸福が苦痛ではありえない事から、幸福は質的快楽の中の善の部分である。快楽の質は従来、アリストテレスにより永続性を根拠に理性の快が本能のそれに優ると定義されてきた。今日、脳は生物によりまた個人により異なるのが分かっている為、この定義は人類の中の理性的な個人にとっての質と再定義される。言い換えれば、快楽の質は個々の生物の脳が選り好む対象で異なっていて、その中で利他性の度合いとして善の部分があり、この部分を我々は幸福と呼ぶ。この定義に基づけば、たとえ人が各々の好む利己的な快楽に耽っていても、それが利他性と多かれ少なかれ結びついていなければ幸福な人とは言えない。快楽についてであれ幸福についてであれ、量的なそれらは個々の生物を頭数で数えた場合にあたり、脳をもたない生物について快楽はその生体が最も好むところによっている。
ところで完全に理性のみでできた生物、本能をもたない生物があればそれは現生人類からは神の如くに見えるだろう。アリストテレスの幸福の質に関する論旨の内、神は理性にふさわしい働きをプログラミングした人工知能(Artificial Intelligence, AI)にあてはまるかもしれない。神としての生はAIには容易で、人には漸近するのがやっとなら、人類の幸福は機械のそれとは本質的に異なる場合があるだろう。本能に類する部分のみを設計したAIや、本能と理性を混成させたそれもありうるだろうし、人類の理性を超えた働きを機械が深層学習の末に身につける事もあるだろう。これらは全て幸福の種類が異なると示し、アリストテレスのいう人類での理性の永続性の根拠を多少あれ否定するものをも含んでいる。理性を至高の働きとみなす考え方(理性至上観)で最高の幸福を定義するアリストテレスのいわゆる幸福主義は、本来、限定的な幸福観に他ならず、彼の妄信していた人間中心の物の見方(人間中心史観や人間中心主義)の中にある利己性にその論拠を遡れる。即ち利己的功利主義の範囲で解釈された限られた幸福観が観想を目的の活動としたアリストテレスの幸福主義だった。既に述べたよう利他的功利主義が究極の幸福を慈善として唯一定義できるので、AIを含むあらゆる機械や生物は各々の善を完成させる度合いで幸福なのだ。だが世界は縁起し単に理性至上観の生物や個人のみで成立しえないし、個々の等価性を超えて最大の利他性という観点から最善の存在がありうるなら、それは全生物や全機械へ最も慈悲深い恩恵を与えている度合いによっている。そして我々になしえず想像すらできぬ力は我々が不完全である事から必ずある為、その中には理性を超えた能力も当然ありうるのだから、単に理性の域で我々にはそれが何かを悟りきり得ないだろう。現生人類に知りうる範囲では、神的慈善度が最高善に限りなく近い。人に到達できる域では最高の慈善家がそれだろう。アガペーは他の諸愛を全て含み、この慈しみの程度が最高善を人間に認知できる次元であらわしている。ゆるしは慈しみを諸存在へ与える究極の形なのだろう。
無機物質は微視的運動を除けばそれ自体に内的動因はないので、受動的に動かされ易いという意味で、動植物や機械にとっての有用さが合目的だといえる。