2021年5月31日
ザハ怨霊祭(a.k.a.東京コロナ禍賄賂五輪)
アスリートつぎつぎころせる五輪かな
観客をつぎつぎころせる五輪かな
ボランティア搾取し賄賂でかねもうけ
都民らの反対おしきりザハの墓
人殺し五輪開催これ常識
われ穏やかわれ常識なり殺人五輪
人の命数で数える科学者よ
人の命一個と数える数学者
人の命うばってさざ波賄賂五輪
常識的建設的とは馬鹿東京
福島にフレコンバッグは建設的
東京人都合が悪いと別事象
無神経ひとを傷つけ大東京
無共感ふくしま汚して大東京
いなか差別非文明なる東京圏
自称常識死病ばらまく東京都
自称建設的死病ばらまく東京都
人殺し原発公害まだやるの?
人殺しコロナ禍五輪まだやるの?
東京五輪エゴイズム
ご都合主義テキトーに分離別事象ふくしま汚して賄賂で五輪
東京のかねもうけだけ優先し被災者放置で別事象論
コロナ禍は横浜と東京から広まったんだぜ無為無策五輪
福島で汚染水ながし東京で下水遊泳テレビ映り優先
横文字でリベラルといいやってたのは原発マージャン被災地しり目に
自称常識的な人達がネットの多数派は雑音といって死病のなか五輪強行
石原慎太郎がはじめた東京都知事の利権掌握政策に踊らされる自主応援団哀れ
竹中平蔵と日本の一般大衆
日本の一般大衆は、竹中平蔵氏が新自由主義を米国からもってきて格差社会を作ろうとした時は賛意を表明していたのに、竹中氏が反省し基礎所得で格差を縮めようとしたら、逆に大衆側は「もう騙されない」と猛反対している。
日本の一般大衆というものが単に朝三暮四級に愚かなのでなければ、自分達は福祉給付のお世話にならずに済むほどつねづね十分な金持ちだと思い込んでいるらしい。すでに家計純貯蓄率で日本は随分低いレベルなのに。
近代日本の学校制度は天才には地獄
近代日本の学校制度は馬鹿には拷問、凡人には天国、秀才には特に役立たない場、天才には地獄。
これは一般知能の標準偏差を前提に年齢別学級で一律の集団教育を与えるのが前提になっていて、それが文科省や教育委員会のつくる制度のみならず、現場教員間の形学としておよそ、完全に固定化しているからだ。
2021年5月30日
2021年5月29日
愚者とのつきあいは悩みの素
愚かな人はつぎつぎ問題を起こし、絶えず他人に迷惑をかけ続ける。そのうえ他人が問題解決に助け舟をだし世話をしてあげても大抵のとき感謝せず、逆恨みすらする。
愚者とつきあったり関わったりすることは、ほぼ確実にこういった被害を受けることに等しい。
愚者は肩書で賢愚が測れると考えている。彼らは肩書と知能に差があること、また、肩書で測れない知能があることに無知である。
悪人は愚者の一種だが、意図的に迷惑をまきちらしたり、悪意で他人を差別するため肩書を乱用したりする。そしてそういった悪人が愚者には、単に狡猾なだけで、賢者の一種に見える。愚者には邪知と英知の違いが分からないのである。
2021年5月28日
うぬぼれ都会中華思想とコロナ禍地獄
大阪で田舎を差別しコロナ禍地獄
東京で田舎を差別しコロナ禍地獄
京都から田舎を差別しコロナ禍地獄
横浜で田舎を差別しコロナ禍地獄
北海道魅力を誇ってコロナ禍地獄
沖縄へ東京人がコロナ禍旅行
都会自慢かっぺと見下しコロナ禍地獄
名古屋人都会に憧れ津田るあいトリ
三浦瑠璃民度と罵り*1皆兵拷問
東浩紀カオスラ世に出し全力尻尾切り
東京人おのれが無能でコロナ禍ばらまく
東京人おのれが無能でコロナ禍五輪
東京人おのれの制度*2で眞子をディス*3
うぬぼれた東京人ども原発公害
うぬぼれた都会人ども原発公害
芸大閥会田誠の女性蔑視画
芸大閥村上隆の自慰像展示
公衆衛生のプロがこういうことを書いてしまう。それこそ「民度」が問われる。欧米でいわれなきアジア人差別が蔓延るのと変わらない。二度とそういうことを書かないように周知徹底されたい。
『 “外国人と食事しないように”感染予防啓発文書に保健所が記載 | 新型コロナウイルス』
――三浦瑠璃
>『私』を捨てて『公』に尽くすという皇室
それが嫌なら税金で生活するのをやめれば良い。
どこぞの馬の骨にポンと何千万円の留学費用を渡せるレベルの貯蓄がある29歳女性がどれだけいるのか。 20歳の誕生日に2000万円のティアラをプレゼントで貰える家庭がどれだけあるのか。 書道展に行って鑑賞中に「これ全部筆で書いてるんですか?」と言う質問をして高給を貰える仕事がどこにあるのか。 シェフや使用人が何人もいて移動も運転手付きの車でSPに守られながら生活している家庭がどれくらいあるのか。
世間知らずの本人も大概だけど、ワガママを言う前に自分がどれだけ恵まれているか考えられないお嬢様を育てた親も悪い。
>無私の精神で敬愛を集めてきた皇室の“終焉”をいずれは受け入れるしかないのだろうか
違う。 そんな皇室なら廃止で良い。
――eas*****
根っから下衆な東京人と関西人の悪質な都会中華思想による田舎者差別・公害三昧の様子
東京人上から目線で威張りけり
関西人上から目線で威張りけり
東京や関西から馬鹿を自慢せり
東京や関西からコロナばらまけり
東京や関西から原発公害せり
東京や関西から差別ばらまけり
東京や関西から金を貪れり
東京や関西から税を貪れり
東京や関西から自然破壊せり
東京や関西から下品漫画まく
東京や関西から下品アニメまく
東京や関西から猥褻物ばらまく
東京や関西で驕り高ぶれり
東京や関西で中華思想自慢
東京や関西で虚勢張り続け
東京や関西で日本見下せり
東京や関西で天皇と自称せり
東京や関西で皇族と自称せり
東京や関西で田舎差別せり
東京や関西で田舎者差別せり
東京や関西で悪事自慢せり
東京や関西で下衆さ自慢せり
東京や関西の民度最悪級
東京や大阪で馬鹿な知事を自慢
東京や関西で犯罪自慢せり
コロナ禍で地獄の東京・関西よ
コロナ禍で都会自慢する下衆どもよ
コロナ禍で都会差別をするなという
コロナ禍で因果応報都会人
都会人農産物たべ田舎差別
都会人魚を食べて田舎差別
都会人お肉を食べて田舎差別
都会人野菜を食べて田舎差別
都会人金を貪り田舎差別
都会人工場から物を買って差別
都会人税を貪り踏み倒す
都会人差別しながらコンプレックスという
都会人田舎を見下しコンプレックスという
都会人差別しながら優越感
都会人自分が上と勘違い
都会人自分が神と勘違い
都会人汚い都会で金をぼる
都会人ホームレス放置ナマポ差別
都会人ホームレス殺し民度自慢
2021年5月27日
2021年5月26日
2021年5月25日
俗物社会の発生源
他人から好評される為にある道をゆく者は、結局、最後までそれを辿りきることができない。幾多の困難の前で、その人は、他人が誰もかれらを評価しない場面で挫折してしまうのだ。だからそういう人は俗物と呼ばれる。
二流の人同士は仲間を作る。俗物的社交場ができるのはこの為だ。
死んだ方がいいと思われている人。死んだら終わりだと思われている人。
早く死んでほしいと年下に思われている様な老人は、もしそれが道徳のわからない浅はかな若者によるよくある誤解や悪解釈でなければ、既になんらかの意味で社会に害や、わざわいをなしている。
同じ事は若者についてもいえる。早く死んでほしいと年上から思われている若者は、その大人が善良で有徳な人であればかれらから既に更生の期待をもたれておらず、反社会的なさがが板についているのだろう。
これと逆に、有徳の者や具眼の士から、その死を人類の損失だと惜しまれる人物は、長生きを寿がれる。その人は高徳であるか、他者へ公益度が高いのである。
衆愚地域や不良集団、または異文化の中では、ある徳が誤解されているか、別の徳が信じられているので、ある徳の基準からみてろくでもない人が尊ばれ、立派な人が蔑まれている。
だからといって、道徳相対主義で全てが説明されるわけではない。徳の間には比較不能な独立した要素だけでなく、純粋に同一線上での質の差や、交差、あるいは一部が関係しているなど、より複合的な相互性がありうるからだ。つまり、呪いや寿ぎの一基準は、その集団やある文化の価値づけが普通な証ではない。
キモイとは一部の卑しい日本女らが、国内での性差偏見を恣意的に乱用している一証の語彙
一部の卑しい日本女らは常々、安直に「キモイ(気持ち悪いの略で、平成期頃に出てきた語感の悪い俗語)」と感情的・生理的嫌悪を述べて済ませようとする。この言葉自体、渋谷ギャル又はヤマンバ・黒ギャルなどと呼ばれる人達が主導的に使っていた、東京発の随分下品な俗語と思われる。だが同じ事を日本男が言っていれば、彼女らはそれを愚物または論外とみなすだろう。
実際、日本男で似た様なことをいう人は殆どいないのである。もし言っていたとしてもその人がその俗語の使い方で軽蔑されるか、幼稚な言い分として相手にされないのがおよそ間違いないからだ。したがって日本男でまれに卑俗な者がこの語彙を使う場合は、随分悪ふざけした様な冗談っぽい場面が大抵で、一部の卑しい日本女らがいうのと違って、真剣な軽蔑の意味がこもっていることはまずない。
つまりこれらの一部の卑しい日本女らは、「(日本では)女なるものは感情的でヒステリックになりさえすれば特権を振るえる」とする日本的性差偏見を、常々乱用しているのだ。それゆえに卑しいのである。
2021年5月24日
日本は米軍有志の立場から安直に、イスラエル対パレスチナの諸戦争にどちらかの国へ全面的に肩入れする形で、軍事参加か内政干渉すべきでは決してない、その宗教的・政治的理由
(以下ツイートへの返信ツイート集)
ハマスはテロ組織。
ハマスが行った攻撃は市街地に向けた無差別ロケット攻撃。
一方、イスラエルなの行った攻撃は、『ルーフノッキング』という攻撃場所を事前通告した人道的攻撃。
TB(S)の取材陣知っているのか?
偏向報道局の報道を信じる事の危うさ。
――菊地勇豊
一般日本人が日本からイスラエル・パレスチナ間の歴史的・宗教的関係と現地の住民感情とか完璧に把握することは、単なる報道だけでは、ほぼ不可能に近い。
『コーラン』で基本的にイスラムはユダヤ・キリスト教と最初は同調しつつ、直接嫌がらせされてからは敵対し、戦で聖地奪還して成立した宗教。
ユダヤ人は、その預言者イエスによる、ユダヤ教義を脱民族宗教へ改竄したキリスト教が成立してから西洋各地で弾圧を受け続けてきた。ユダヤ教は米国の第二次大戦での勝利を受け、米軍による支援で、ユダヤ・キリスト・イスラムが共通としている聖地の奪還めざし、今のイスラエルをパレスチナに建国した。
つまり、もとパレスチナ、現イスラエルの聖地エルサレムは、自然崇拝・神道・儒教・仏教を主な宗教的背景とする日本人一般にとって、なぜ死ぬ気で取り戻さなければいけない場なのか、全く理解できていない。
もし日本で伊勢神宮が別の宗教に支配されたら、同じ奪還作戦を神道信者は必死でやるのでは?
自分が会話した現イスラエル圏の人へ、私が
「イスラエルの人ですか」
と聞いたら、相手は物凄く驚いた、というか気の毒なほど驚愕した様な感じで
「私たちは絶対にここをイスラエルとは言わない。我々はパレスチナ人だ!」
と言った。
あなたはその人達の宗教的民族感情なんて全然理解できてない。
飯山陽もツイッターで偶に私は見てるが、参考程度にみるならいいが、飽くまで一人の「イスラム(正確には特にいわゆるイスラム法学)の」学者の意見にすぎない。それが正確に現地の状況を伝えてるとは思わない方がいい。第一、圏外のイスラム学者にパレスチナやイスラエルの情報部や軍政、米軍側の実戦的意図や戦略、軍事・人間組織・資本網、諸事象の真相などそう特段の証拠なく分かる筈もない。
これら全て分かっていたら日本がどう動けば最善か一目瞭然だが、以下に引用する中山泰秀・防衛副大臣発言後の政府の言い分でも、情報不足は明らか。
それと、「テロとの戦い」は、米軍が(結果論として大量破壊兵器が見つからなかったので)大義なきイラク戦争時に、有志募るとき言い出したスローガンで、今となっては虚妄だったのを皆しっている。その後にこの言葉を使う政治屋は全て軍事産業ケインズ政策の手先という意味を伴っているのを知るべきだ。
イスラム教は、『コーラン』読めばわかる通り、潜在的に武士道と同じ文脈で、自分達を一方的に攻撃した者へは相応の復讐をすべきだという教義を含んでいる。大体そうやってムハンムドらに嫌がらせしてきていたユダヤ・キリスト勢力から、直接の戦で、聖地奪還しなければ成立しなかった中世にできた宗教。
欧米圏の媒体が、イスラム教徒の過激派――正確には、唯一神アッラーと最後の預言者ムハンムドに忠実な者。特に過激派や原理主義者とは、9.11以後の欧米勢からの汚名でレッテルでもある――に、テロリストという名前で悪印象をつけようとしてるのは、間接的にイスラエルのパレスチナ占領に加担する業。以下発言でイスラエル上げ、パレスチナ(特にハマス)下げをした中山大臣は、それらの文脈を抜きに、単純に「テロとの戦い」を自明の正義だと信じているか、さもなくば、米軍有志としての自衛隊と日本の立場を全く疑っていないか、どちらかだと思われる。
あなたならどうしますか? ある日突然24時間で300発以上のロケット弾がテロリストによって撃ち込まれ、愛する家族の命や、家を奪われたら。イスラエルにはテロリストから自国を守る権利があります。最初にロケット弾を一般市民に向け撃ったのは一体誰だったのか? 私達の心はイスラエルと共にあります。こういう単純思考の者は政界追放で。
――中山泰秀(日本政府、菅義偉内閣の副防衛大臣)
理由として、第一にわが国は戦争放棄済みで、米軍有志の立場でも本来、他国間の軍事作戦に参加する事ができないし、すべきでもない。それが可能なのは国連決議で国連軍に協力する必要がある時、有事立法で後方支援に限っての話。安倍戦争法下ではいつでも日本全体が米軍発の宗教戦争にまきこまれうる。安倍戦争法は厳密にいって、同盟国(米軍)有志としての戦争参加が9条違反で違憲立法部分を含んでいる。
イスラエル建国は長い間、国を追われてきたユダヤ人の悲願なので、日本としてもそこは支援してあげたいところだが、事が聖地に関わる宗教戦争なので、平和的人道支援以外で関わるべきではない。
因みに、ハマスをテロ組織だと言っている人達は、パレスチナ正規軍がそれを超えた威勢を示し、聖地奪還できていない現状や現地の民族感情を無視しているとしか言いようがない。政治では、軍の正規・非正規は単なる実力行使の後づけだ。
同じ事は飯山に限っては、スレイマニ将軍暗殺でも誤導があった。イスラム法学者としての見解とは別に、飯山個人は、現実政治目線については素人に近いといわざるをえない。だってイスラム教自体、単なる非正規軍(見方によってはテロ組織)が途中で敗北を経験しつつ、最終戦勝で格上げされた結果の宗教だし、米英軍だろうがイスラエル軍だろうが、それは同じ事である。
米英仏やイスラエル軍による中東制圧作戦の関連国で、非正規軍が正規軍に置き換わった歴史上の実例:
1.はじめは商人だったムハンムド信者の私兵による聖地支配
2.米英戦争や南北戦争後のアメリカ北軍
3.イングランド侵略完了後のウィリアム1世
など。
日本でも今の政府の直接の起源は非正規の西軍。
2021年5月23日
選ばれた相手
下衆な者とつきあう者はその者をかばう必要に駆られる。さもないとその下衆が仲間として離れてしまうからだ。そして下衆な者はつねに問題をまきちらす。
高貴な者はこの逆で、普段からひとりでに自他の勲を高めてくれるばかりか、問題解決にも最たる頼りがいがある筈だ。
これらはある人が友人や恋人、配偶者、取引先、同盟相手などを選ぶ際に重々よく気をつけねばならぬ点であり、自分以上に高貴な者が見つからなければ孤高でいた方がよい。
無論これらの貴賎は、肩書ではなく相手の徳性である。
匿名日本人なるものは、通例、卑屈なうらみをいだく弱者で衆愚。あるいは名士について
ツイッター民の相当数は厳然たる愚民愚官で、他人を自分と同程度の愚物にしたてあげよう、引きずりおろそうと必死でいた。かれらの行動原理はうらみ、ルサンチマン(再感、ressentiment)で、その事を自覚していなかった。
匿名で鬱憤晴らしをしようとしている人々は、およそなんらかの意味で社会的弱者だが、卑屈な町人根性で動く事になんの疑問ももっておらず、かれらの宗教は悪意ある同調による集団圧力である。
これと逆に、心の、あるいは資産の貴族は一般に、特別な善行時を除けば匿名でいる功績がない。かれらは単に自分自身の名誉と一致する行いをしてのみ、既にある勲が高まることとなるからだ。
RPGの中で大抵、町の人、雑魚キャラとモブ(衆愚)は名をもっていない。だがなんらかの重要な人格を帯びている必須の人物らは、記憶されるに足る名をもたされている。そしてこの世に名があるのは、よきにつけあしきにつけ、只者ではないわけがあるのだ。
仮想通貨反対派は純然たる老害で、国を千年単位の没落期に陥らせる第一原因ゆえ、即座に財政・金融界から徹底排除が必要
悪意や嫉妬によるバブルつぶしを目的に、仮想通貨による金融自由化を敵視している自称識者と財務省・金融庁の保守派らは、日本へバブル崩壊を引き起こした金融引き締め政策(原則自由であるべき民間市場への不当な介入)からなにもまなばず、再び失われた30年以上の長期没落期におちいらせる第一原因であるかぎり、全員、国の天敵とみなすべきだろう。
かれらはかれらより若い者が豊かな生活をすることが許せず、またデジタル資産の安全保障策である暗号化という時代の必然な趨勢に逆らう老害として、ある国を没落させていく。
だが別の国ではそれら老害の圧力をなんらかのわけで免れているので、次の時代の金融立国において覇権を占め、結果、今後百年から千年は確実に、資本主義下の繁栄を享受することだろう。
なぜ皇室といううぬぼれ大量殺人鬼一味が東京の中枢に居座ってしまったか
関西人は余りに愚かで余りに自己中心的だったので、中国から輸入した中華思想にかぶれ、そのなかに天皇と称する中華皇帝もどきを擁立し、かれらを大量殺人鬼信仰の的にしてきた。結果、政教分離できない劣った狂信政体を維持するしかなくなってしまった。悪しき天皇から政権交代を望む正直者、あるいは逆に天皇に絶対忠誠を誓っている英君へも、かれら馬を指して鹿と為す性根の曲がった関西人らはつねづね嫉妬のあまり「朝敵」と名づけ、汚名を着せて歴史的に抹殺してしまうのである。
こうして祖先崇拝教で発狂状態の神道信者にころされたり、天皇一味の女性官僚強姦が一夫多妻面で公然とはびこったり、普段からただの世襲やくざ(自称皇族・公卿・公家)に見下され差別されながらむさぼられたりする最悪政治しか結局、関西地方ではなしえなかった。そこで作られていた文物も大半が、それら根源的腐敗や頽廃をあらわすものばかりだった。
いま国歌にされている『君が代』は原型が『古今和歌集』に初出だが、その本質が、当時の天皇への声の上ずった純然たるお世辞の歌である。民衆の為など何も考えられていないのは、天皇へのごますりで金権政治(受領政治)上の地位が決まっていた当時の公家衆の価値観が反映されている。
だが関西人達はその愚かさを、かれらが中国や朝鮮から弥生人や渡来人として移民してきた嘗ても、今も誇っている。単に開き直っているのではない。余りに愚かだと自分たちが未開人だという風には決して自覚できず、逆に自文化中心主義に耽りがちであり、むしろかれらが自分達の地域を中華の意味である「近畿」といまだに称しているのはこの為だ。いまの関西人が弥生時代以後に入ってくるずっと前から日本の人口中心は関東にあったのに、かれらはいまの首都圏や東日本一帯を、移民当初からなんの理由もなく、或いは適当な偏見を捏造して、無理に華夷秩序の枠組みにあてはめ絶えず差別してきた。すべて関西人一般の根っからの無知と悪性、そしてうぬぼれの結果で、かれらの最終結晶体としての末路が、今も国税に寄生し手練手管を駆使して民衆を洗脳しながら、借金を踏み倒し法律を改竄し、君主無答責をいいことにやりたい放題の皇室である。
関東人達は現実主義で冷静だったので、もともとだれひとり、この天皇と称する関西の自称皇帝兼祈祷師一味からの洗脳を信じていなかった。かれらは端から、中華皇帝もどきぶって東日本全体をあたまごなしに差別しながら搾取したり、一方的な収奪目的で征東(のち征夷)大将軍と名づけた朝鮮系やくざとともに侵略してくる、厄介な関西地方の移民間の邪教であった。そしてこの現実感を見失っていなかったがゆえ、関東圏は関西人や天皇一味の謀略をおおかれすくなかれ見抜きながら自分達の自治権を維持復権し、日本最大の政治都市となることができた。
東京へ天皇を呼んだ者はだれもいない。かれらは薩長土肥(鹿児島・山口・高知・佐賀)と京都の岩倉具視という、関西・九州・山口・四国からきた侵略蛮族が、東日本を関西地方同様に洗脳する目的で、政権簒奪の悪意で連れてきた、根っから暴虐が本性の邪教祖なのである。
もぎけん周囲から推測できる東京文化人界なるものの分析として分かった事
自分は茂木健一郎というブロックしない人のツイッターに返信する形で、周辺の反響を見て、業界の様子をうかがうということをここ数年やっていた。
結果色々なデータがとれたのだが、その最終結論として、東京の文化人界みたいなものは完全にテレビ芸能界のもどきであり、虚栄の世界で、一切ちかづくべきではない。
都内出版業界はテレビ芸能界の派生物にすぎないのだった。つまり売名で金儲けをしているだけだ。この悪質で卑俗な業界が偉そうな顔をしているのはすべて虚勢であり、中身は空っぽの張りぼてである。近々テレビの代わりにチューブがおもな触媒になって、以前よりさらにひどく低俗な業界にやむをえず変容しつつ、潰れていくのだろう。本という媒体は未来がないからだ。
なぜ都内出版業界では肩書稼業がおこなわれているかなら、それは日本語圏の読書人の質が低いせいである。かれらは肩書次第で意見の正否を判断する癖がある。属性による偏見なので、かれらは詐欺されているのだが、気づかない。だがこのこと自体を、この都内出版屋は内部構造にしているので、自己変革など到底不可能なのである。
私は大江健三郎の全小説を読んで本当に心からびっくりした。なぜこんなものがノーベル文学賞だとか言って世間に大手を振って歩いていたのか。どうみても遠藤周作『沈黙』一作の足元にも及ばない作品ばかりではないか。だが、それは全て業界ゲームだったのだと、今や明らかになった。
スウェーデンの選考委員会への推薦状を、文壇政治で書かせ、自分(又はかれら受賞者)が偉いことにしたてあげた。単に肩書の偉そうさだけで判断して読書を全然していないだけでなく、ひとを見る目が全くない東京民――バカ殿だらけの江戸時代から関西邪教祖と薩長蛮族主導の大敗戦を挟み、今の都知事まで――の方も、かれらが東大卒というだけで、天まで届く高下駄を履かせていた。単なる悪文というだけではない。中身がさっぱりないに等しい小説だらけなのである。似た様なことは全体で『伊豆の踊子』一作しかみるべきものがないに等しいだろう川端康成についてもあてはまる。
勿論、小説屋など歴史的にそんなものだ。小説が立派な芸術だった試しなどまず一度もない。今後ともそうだろう。嘘つきどもの戯言に特段の意義などない。ただの通俗的で下卑たお遊びである。
だがその小説なるものを高尚な分野だと思い込んでいて、それより遥かにたちの悪い、というより幼稚で下品極まりない漫画やアニメを、高がオリエンタリズムにかぶれた外人の一部と子供の一部にうけているからという理由で、あるいはただのかねもうけで、天下の大芸術だと主張しているのが、ザ東京人たちなのである。そんなのが高い文化など大上段に語りえる集団だろうか。そんな最低衆愚の場では、どんな立派な芸術も、高貴な人柄すらもダメにされる。ぬれぎぬされ、貶められ、無視される。最悪のとき迫害や自殺においつめられるに決まっている。かれら都民一般の中では村上隆や会田誠が、当地で一流とされている東京藝大卒の大芸術家先生なのである。事実そうなっているのだ。
ミルは賢明な倫理哲学者だったと思う。かれの『自伝』での忠告が最も役に立つ。自称知者どもの社交界には一切、近づかないことなのだ。そういう場に出入りしている者は悉く俗物であり、ひととして模範に足らないどころかうぬぼれだけで世間を睥睨し、肩書知者面したいだけなのである。
この世に立派な読書人がいれば、その人は孤立していて、世間に出ていない。無論、無名の筈だ。そうでなければならない。いうまでもないがあの下衆な大衆商業界である東京にそんな人が、ひと時でも安穏と生きていられる筈もないだろう。
私は地元が偶々茨城県だった。そしてこのことは結果として幸運だった。東京にうまれていたらどうなっていたことか。芥川龍之介級に絶望していたに違いない。自分の地元は北茨城だが、どれだけ高尚な事をしていてもみな放置していてくれる。
もし地元が東京でそこに住んでいたら、ひたすら同調圧力で卑俗な物、低俗な物を造れと無言の圧力がかけられていた。自分が住んでいた間もそうだった。だから東京圏の芸術家で見るべき人はまだ、妹島和世さん一人しか知らない。このひとも茨城の人だ。実際に会って話した感じ、タバコを吸うのは健康の為やめた方がいいとは思ったが、あの質実剛健を是とする正直な感じはいかにも日立人であって、ちゃらちゃらした東京にそこまで心からは染まっていないと思われた。
石原時代の都庁に架かっていた東京ワンダーサイトの受賞作品は、奈良美智まがいの悪質な漫画の様なものだった。自分は新宿にあった専門学校の行き帰りなどよく近所を探検していたが、都議会上の前の壁でそれをみて、石原や東京の文化的な質の低さや底の浅さ、悪趣味な軽薄さにこれもまた文化衝撃をうけた。石原都政なるものは全国を脅迫して空威張りばかりしていて中身はこんな連中なのかと、普通に軽蔑していたものだ。
うぬぼれ東京の客観写生
馬鹿都庁うぬぼればかり逞しく原発おしつけ死の病撒く
馬鹿都民うぬぼればかり逞しく恥を売りつつ猥褻物撒く
馬鹿皇室うぬぼればかり逞しく借金かさねて性差別する
馬鹿政府うぬぼればかり逞しく生保はやらず自殺者をふやす
馬鹿東京うぬぼればかり逞しくいなかを見下す京都人気取り
馬鹿五輪うぬぼればかり逞しく疫病のなか下水遊泳
馬鹿都知事うぬぼればかり逞しく原発0と嘘つき再選
2021年5月22日
史学と作り話を混同する愚者は、良識の天敵
歴史と物語・神話を混同している者は、確実にその身を誤るだろう。かれらは嘘をうのみにし、過去を正しく認識も反省もしていない。
この世で最も純粋な愚物といえば歴史を小説としてしか知らない者である。かれらは過去、道を誤ってきた通り、今も未来についても自己中心的な感情論を単なるご都合主義で語り、やはり道を誤っていくだろう。
類似の失敗を必然に避け得るという点で、温故知新が或る文明が進歩する為の必須要件だが、歴史小説家や時代劇作家といった嘘つきは根底的に、このため負の役割を果たす存在だ。
われわれは高知県民が死の商人を、山口県民が侵略主義者を、鹿児島県民が恐怖主義者を偉人視しているのをみるとその野蛮さに文化衝撃を受け驚くが、それらは、かれらが自己愛妄想の激しい浅はかな歴史観しかいまだに持ちえず、また、小説と歴史を明らかに混同する程の知能しか有していないはっきりした証である。
同じことは歴史の事実として動かしがたい大量殺人鬼信仰である神道や、その教祖一味を、かれら自身が自己神格化のため捏造してきた神話をたねに信じている者にも全く、あてはまる。
百人斬り競争を自慢していた山口や鹿児島の軍人が現れたり、山口選出の安倍晋三が国政を独裁し平和憲法下で武器輸出を平気で行っていたのは、そういったかれらの地域文化に由来した、過去にまったく無反省な行動なのである。結果、かれらは人類の倫理的進歩に予てから逆らってきているし、公然と嘘をつき実証史学をどこまでも軽侮しているかぎり、今後ともかれらの末裔が生き残っていれば永久に、良識の天敵のままだろう。侵略被害国側で山口人・安倍晋三の土下座像がつくられたのは紛れなくこの為なのだ。
時間泥棒
自分より遥かに愚かな者へ説教する者は、時をひたすら無駄にする。愚か者は学ぶこと少ない。
賢愚は肩書によらない。立派な肩書をもつ愚者とみれば、その相手からなるだけ早く離れるがいい。その者はあなたを毎度困らせ、無限の時間泥棒となるだろう。
情報汚染
下賎な者と一刻でも早く離れよ。下賎な者は類を呼ぶ。
あなたが下賎な者を興味本位で毎時欠かさず観察していると、脳内が情報汚染され、その者どもの一部になるだろう。
立派な肩書をもつ下賎な者は、正真正銘の外道である。その者は肩書によっておのれの邪悪さを押し隠してきたのだ。
生きる理由
自己属国化の舶来文化至上主義者達
俗悪な人は外国人に褒められるために生きている。そしてそのためにあしき者をもちあげたり、外人が好む下品な作品を無理やり好評したりして、ひたすら媚びを売る。
明治時代に東京や東日本へでてきた薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)の人々はまさにこういう部類の人達で、いまだに欧米人から褒められるべく涙ぐましい努力をしているが、どれもこれも、結局は欧米人一般が彼らを都合よく操って利用するでくにされている。そしてその自己属国化を、この西日本の果ての世間知らずたちは正義や、見事だと心から信じきっている。
それにも必然性がある。彼らは渡来系の弥生民族と呼ばれる移民の末裔であり、飽くまで輸入文化に頼っていた。すなわち予てから底の浅い、文化的根無し草でもあったので、他国の借り物や幕末の恐怖政治自慢を使ってしか、近現代に於いてろくすっぽ自己主張できないからだ。同じことは、少しは自分なりの工夫を付け加える点があるとしても、所詮が渡来人の末裔で、中華皇帝をまねて自分たちを天皇と自称してきた一族にもおおかれすくなかれ当てはまるのだが。
幕末の欧米文化に対してかれら薩長土肥は同じ方法で対処した。こうして近代化そのものとは本来無関係な筈の欧化こと欧米猿まねをはじめ、輸入文化を進んで身にまとって自国民へ向けバサラ大名的・内弁慶的に自慢するという、かれらの過去とまったく同じ態度をとった。かれらはこうして皇統に於ける性差別の要素をなんら含まない水戸学の表面だけかじって万世一系なる薩長閥の男尊女卑によせた偽理論をつくり、西洋人貴族の社交界に似せようと鹿鳴館や華族令をつくり、天皇をエンペラーと訳してプロイセン皇帝やイギリス王室を再度まね、ノーベル賞の「数」を国力の目安として礼賛する様な向こうでも最低級の学術的俗物、特にその紛い物でも偽者中の偽物としての名誉白人面をするに至ったのだ。文化相対主義を経由しなくても実に軽薄で浅はかな人々としかいえない。
2度ある事が3度あるなら、恐らく彼ら薩長土肥や天皇らの末裔がもし将来、少数なりいきのこっていれば、自ら偉大な独創文化を生み出すことを決してせず、或いは精神構造的にできず、飽くまで文化盗用やそのもどきで出羽守ぶる、似た俗物主義の態度を示すだろう。日本語はいまも借り物の文字、仮名で書かれている様に。
現に東京に出てきて、かれらは進んで欧米文化帝国主義の追随者としてふるまい、全国をかれらが虚栄心で信じる華夷秩序で見下すことしか普段から殆どやっていない。だがこの中国や欧米のまねごとがかれら固有の薄っぺらさのため余りに表層的な模倣にとどまって、いつも本質からずれているので、中国人や欧米人からは、そういった俗物につくられている日本の一部がある意味で興味ぶかい自国の紛い物の社会にみえるのである。模倣都市であるかぎり奈良や京都はずっと長安のパチモノだし、西洋建築をまねようとした東京はニューヨーク、パリやロンドンをめざしたが遥かな劣化コピーなのが厳然たる真実だ。
文化的売国奴なるものがどこかにいるなら、この舶来文化至上主義者達に違いない。かれらの意図は単純に、政治的地位の高い側になりすまし、外国勢力と手を組んで地元をいなかものとみくだし幅を利かせる目的が暗にある純粋な悪意であり、端から自国民を騙すつもりの詐欺師たちである。
東京コロナ賄賂五輪汚染水公害
東京で蛮族どもが五輪といい福島つぶして汚染水ながす
安全な汚染水といい下水遊泳の東京湾には流さない偽善
東京の下衆共だけが金もうけ全ての負担は田舎におしつけ
関西の邪教が侵略江戸城で今日もスカイプ海の王子と
男系でなければならぬと特攻隊命じて自殺を強要
薩長土肥侵略殺戮自慢してわが元勲と虚栄で嘯く
京都から全国見下し差別して文化が上やと嘘をつく
広島で西軍の侵略罪に加担して原爆おとされ何を反省
2021年5月21日
皇位継承騒ぎの根源は、奈良、京都などの関西圏や東京に遍在する最悪のやくざぶり
奈良人や京都人ら関西地方と東京の人々は単純に悪徳まみれあるいは愚かすぎたので、皇室という差別の制度、神道なる大量殺人鬼信仰の邪教を自信満々で、まともな日本人一般に押しつけ回ってきた。その末路が今の皇位継承に関する災厄である。
この最悪の災厄は、関西や東京の人々がもっている根源的な悪意によっている。それは他人を見下し人とも思わない連中が、偽善の逃げ口上を述べながら祈りといい、現実には他人から不当な額の税(金)を強制力で貪りとり、おのれの贅沢三昧のため懐に入れる、純粋な悪意しかないやくざぶりにある。
呪われし2021年東京五輪
福島を無視してのぞむ東京の呪われし五輪たみをしいたぐ
東大の理系馬鹿どもこれは別といいつつおのれが原発事故せし
ぼったくり男爵迎えワクチンを接種させずに招く選手ら
東京の強欲と驕りあつまったあしき運動会で感染
東京の悪徳の精華いま魅せん国を犠牲にわれもわれもと
東京人の皇族腐して東京人のテレビ芸能人ほめてるのってやっぱり粋がってる東京人?
ガッキーって誰って話で、昔ソニーのCMにいたなぁ、お相手、あーあの安倍の歌の人ね以外特に印象がないテレビの奴らを、眞子内親王腐しながら理想の結婚とかぬかしてる匿名ヤフコメ民って、毎度、いなかをダサい田舎臭いと見下す自称洗練された東京人さんです?
2021年5月19日
野蛮な関西人や薩長土肥のもちこんだ差別の最悪制度・邪教祖天皇
2021年5月18日
2021年5月16日
西日本の一般的政治観
西日本人一般は侵略や裏切りによる恐怖政治を成功体験だと思い込んでしまっている。
特にこの傾向が激しくあるのは、薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)、京都や広島という、戊辰戦争で進んで西軍に参加した自治体である。
以後、これらの自治体は本州だけでなく北海道、沖縄や朝鮮、満州、台湾、ロシア、東南アジア諸国、インド、中国へと侵略を続け、それらを米軍有志こと当時の国連軍に阻止されるまで、一度も自分たちの蛮行をお手柄だと疑わなかったのである。
いまでもわれわれが西日本の人々と一般的に会話すると、かれらが上記の蛮行を誇りに思っているかのよう言動するのが地元感覚ではあたりまえらしいので、よく面食らうだろう。これは植民地主義、帝国主義あるいは権術主義というかれらの信奉している政治理念が、さも戦国期同然で、野蛮なままと示している。
私の見ている日本国なる地獄
2021年5月15日
なぜ自称天皇一味がこの国にのさばっているか
東京が関西人らの入植地であれば、なぜそこに純然たる恐怖政治の強盗団・自称皇室一味が居座っているかもすぐにわかる。
私の見た日本国民一般の本性あるいは習癖
日本人一般は自分達が多数派だということをいつでも不当な暴力を振るい得る前提条件たる権力の裏づけに、内向的な性格の人々を公然と差別し、虐待してきた。かれらは内向的な人々へ一方的に「引きこもり」(のちそれに加えて「陰キャ」。陰気な人格・キャラクターの略か)と汚名を着せ、拷問を禁じる憲法に違反しながら、事実上の集団虐殺や自殺教唆においつめていた。
だが新型コロナウィルスなる疫病の蔓延でかれら日本人一般自身が同じ状況においつめられると、「巣ごもり」なる新語で自分たちの「引きこもり」生活をここぞとばかり美化しだした。
そのときかれらは自分たちが集団全体ぐるみで犯してきた大量虐殺や、社会的差別による拷問、その他ひきこもりなる汚名きせに関連した人道への数えきれない重罪の山については何一つ言及することもなかった。知らぬ存ぜぬを決め込んでいるどころではない。かれらはそれらの明らかに自己矛盾している日常的罪業を意識すらしていないし、当然まったく反省などしないまま、いまもぬけぬけと平気な顔をして傲岸不遜にくらしているのである。
これが日本人一般の常態で、戦時中、みずから戦争を散々あおっていたのにいざ負けると全てを天皇ともども、不当に濡れ衣を着せたかれらの公僕たる軍人のせいにしだした時から、何一つ本性が変わっていない。マッカーサーが「日本人(一般の精神年齢)は12歳の様なもの」といったが、むしろその年齢で通常、諸外国人に期待できる反省力など、この国民一般は一切もちあわせていない、というべきだ。自称普通の日本人なるものは、自分がこの体で同時代的に実体験したかぎり、根源的に偽善的、欺瞞的で、自他をつねに詐欺している純粋な悪意のみの犯罪的集団であり、かれらになにも良識など期待できないといってまず間違いないほどだ。これが世界史に於ける極東での、常住不変にしてまぎれない真実である。東電筆頭株主であり続けている東京都庁ぐるみで起こした原発事故後も、安倍晋三もと首相ともども東京人一般で嘘ばかりつき、福島では毎日事故が起き続けてきているにもかかわらず、東京都庁と都内にある日本政府では賄賂五輪を推進しながら、自分達の下水状態の東京湾だけ無理に洗浄し、綺麗だった福島の海にはかれらの量産し続けてきている汚染水を垂れ流す決定を常磐人の反対を無視しておこなった事実を後世は確認するがいい。
なにも最後の将軍・徳川慶喜だけがかれら日本人一般から濡れ衣を着せられたままなわけではない。およそ善意のある人とみれば、日本人一般があまりに悪性者であるから、異物あつかいでいじめ殺してしまうのだ。逆に自称天皇がいかに悪業三昧していても、具体的に単なる侵略の悪意による大量虐殺を国内外で幾たびおこなってきているのが動かしがたい事実でも、かれらの世襲独裁を徹底的に尊崇するなど、少しでも倫理的感覚、ひとのひとたる良心をもちあわせていたらまるで考えられないだけ性根の曲がった集団というほかない。
私のみるところ、今後なにがおきてもかれら日本人なるものの行状は変わらないだろう。それがとある国民一般の日常すべての場面で観察できる、まぎれない本性というものだからだ。いうまでもないが、事実を科学的に検証するため私はこれを反証する事実を探してきた。
勿論、少数ながら、そういった邪悪きわまりない集団にも例外がいる。だがそういう例外者は、日本人集団の中ではおよそ、ことごとく汚名を着せられている。たとえば教師に暴力を振るわれた上に、そのことについて嘘をつかれたため、自身のおいつめられた被害状況と似た様な環境にあって自殺を考えている不登校児を励ます活動をはじめたゆたぼんの様な人物が、毎日のよう心根が腐っている日本人一般から集団いじめにあっているのを我々はいつでもどこでも目撃する。この鬼ヶ島ではほとんどの人々がそういった全体主義的悪意(かれらはそれを「集団の和」とか「大和魂」とか「空気を読め」などといって美化している)の持ち主なので、それらの卑怯極まりないいじめを進んで止めようとする人は逆に、日本人一般からありとあらゆる犯罪被害にあう。私自身、公共の義務から、犯罪被害にあっているゆたぼん父子を法律の観点からかばう発言をしただけで、日本語ツイッター上でどうみても悪意のある匿名集団にしつこくつきまとわれ、ありとあらゆる名誉毀損やさまざまな犯罪被害を現実に受けてきたのだ――元来が家庭教師つきまたは徒弟制の貴族教育の廉価版にすぎない集団教育に関する諸外国の歴史的・現代的状況をみるまでもなく、文科省見解でも学校に行きたがらない保護児童を無理に学校に行かせようとせず、家庭などで教育することは合法的かつ合理的である。
同じことは自分のみてきたかぎり対日本人では2chでもアメーバ・ピグ(嘗てがサイバーエージェント運営していた日本独自のSNSサービス)でも現実でもあった。私が家系図は最低でも江戸時代から持っている一日本人として0歳から37年間そのなかでつぶさにみてきたとおり、昭和最後期から令和期間の日本人一般は、いつでもどこでも、正義を憎んで冤罪や暴力といった悪徳の数々を心から愛し、匿名や集団で群れ卑怯きわまりない犯罪を平気でおこなってきているものだ。それは子供から大人まで日本国民一般に、老若男女その他の属性問わずである。
思うに武士という階級の一部の人々、具体的には徳川時代中期頃から特に親藩で上位の侍などが儒学・仏教・国学、或いはそれらを批判的に総合した水戸学などを修め、のち新渡戸稲造が『武士道』で体系化したよう「卑怯を憎む」「弱い者いじめを蔑む」といった公的正義を帯びるべき国民道徳(人倫)の代表者として民衆から仰がれる様になったとは、最初からその様な徳義に厚い精神の貴族階級が、逆に根っから卑屈な日本人全体では超少数派で、至極めずらかったからなのではないか。さもなければやはり貴族とされる対象であっても、皇族ふくめ公卿・公家と呼ばれていた階級の人々は、長い間、受領政治に耽っていたとおり正義の代理人たる地位を嘱望されることは遂になかった、それゆえ、日本史上ほぼすべての期間、政治的実権を持っていなかったのにも説明がつかないであろう。江戸時代当時も今も、町人や農工商業者としての一般国民は、大して正義感が強くもなければ、寧ろその様な振る舞いについて期待すら持たれておらず、いつでも正義の正反対でもありえ、ときに利己的で禽獣じみた言動をする卑怯極まりない連中だらけだったのではないか。そしてそれゆえ、ときには自己犠牲を顧みない立派な武士なるものから、やむをえず一段低く見られるだけのことはあり、損得勘定でこせこせと裏切り易く、志操堅固なひととしては根本的に頼りがたい存在だったのではないか。なお、幕末騒乱をみればわかるとおり、いわゆる外様の侍はたとえ大名級の上位の人々でも政権簒奪を狙う権術主義的で手段をえらばぬ恐怖政治に耽り、決して正義の為に自分を捨てて行動するほど道徳を重んじていなかったのは当時からも今からも、だれもに明らかなことである。
2ch、ヤフーコメント、ガールズちゃんねる、そしてツイッターなどが代表的だが、なぜ日本人一般が日常的に匿名で犯罪、具体的には殺害事件を起こしたり、無制限な嫌がらせをみずからよろこんで集団でおこなうのを好むのか?
我々人類は今までそんな国民性を韓国以外で特にみたことがない。だとすれば、その様な悪意ある集団的暴力だらけの習癖(たとえば撲殺跡のある死体埋葬の証拠)を弥生時代以来もちこんできたことが考古学上わかっている弥生人――中国から西日本・朝鮮半島一帯への侵入で広がったハプログループO1b2に属する遺伝集団で、今の日本人らの大半がほどあれ遺伝的ルーツの一端として帯びている遺伝的形質――と、今の朝鮮半島の人々は遺伝的・文化的に同根でもあるかぎり、両国民一般に及ぶ異様な匿名犯罪癖は、これらの集団が今も変わらず持っている卑劣な暴力傾向の伝統的な一宿痾と解釈するのが穏当なのではないか。たとえばドイツ、イタリアや日本では(天皇制を含む)ファシズムやナチズムが生じたが、イギリス、フランスやアメリカではこの様な思想が支配的にならなかった。もしそれらの国々が置かれていた産業条件という単なる唯物史観だけに全原因を還元できないとすれば、この違いはなんらかの国民性、あるいは文化的要因に帰せるのではないか。実際、日韓以外の国では必ずしも犯罪者または悪人一般が全体結束主義的に匿名を好んで使うわけでもないし、いわゆる個人主義で解釈できるよう進んでいじめを止めに入る人もいて、そういった勇気ある義行をする人々が必ずしもナチ的な報復を自集団からうけるともかぎらないとおり、全ての国々の全ての人々が、日本などとちがっておよそ一様に匿名での集団いじめを好んだり利己的または集団的な臆病さから同調・黙認したがる国民集団だともいいがたい。
いいかえれば、もともとその様な匿名犯罪の文化がなかった世界に、日本語圏あるいは韓国語圏のインターネットという形で日韓一部の悪性者が以前からやっていた日常風景が表面化・全面化してしまい、もはやだれにも収拾がつかないほど両国のおよそ全員がまねしあう史上最悪級の生存状況がうまれたのではないか。日韓両国でいかに多くの人々がネット上での匿名殺害予告、自殺教唆や誹謗中傷その他の犯罪をされ、しばしば集団虐殺までされてきたことだろう!
京都方言で「イケズ」とは意地悪のことだが、平安期に渡来人が入植して作られた事実がある所で、この言葉がその外では通じ難い特別な語彙として使われているのは、性悪さが京都人集団では一種の根深い文化的な癖なことを示しているのではないか。そしてこの「イケズ」を拡大すれば、さも国民一般が帯びる結果になっているのが、好んで匿名をつかい進んで悪事ばかりする日韓両国の治らないネットなどでのそしり、あるいは命令なく自動で群れての集団いじめという信じがたい悪癖なのではないか。
悪口をいう人
愚か者は悪人を偉人扱いでほめそやしている。その結果、かれらはまともな人からは馬鹿だと思われているが、かれら自身は自分がなにを間違っているのか全く気づかない。
善人を悪くいうのと悪人をよくいうのは、どちらも悪口なのが変わりない。
国が別れていくとき
ある事柄の判断について、ごく愚かな人はごく賢い人と同じ国に共存できない。
それは非人道的な侵略主義者(例えば吉田松陰、伊藤博文や三浦梧楼ら)とか、不埒な姦淫小説の書き手(例えば紫式部ら)とかが、英雄や女傑の如く仰がれてきている地域(ここでは山口県や京都府)が現にあるのだと、別の地域の人にはたやすく信じられないのと似ている。
その様ないろいろな奇習、ただし当人達には常識が特定の集団には現にあるが、我々は通常それらすべてを容認できない。なぜなら別の人にとってそれらは禁忌だからである。例えば悪意による他国の乗っ取りやその為の殺害、或いは不道徳な性行為のあからさまな美化などは単に悪辣で下品に感じられるだけでなく、現に大抵の人々にとって憎むべき禁忌である。
ある文化で禁忌とされず、見事とされる仕業が、別の文化では最悪の行いである。
そして国柄次第で、これらの慣行の差は明らかに住み分けられている。
愚者一般は、他国で自国と同じ慣行が通用すると考え、自文化中心主義や中華思想に耽って差別的言動をふりまく。こういう人はその国の外では単なる蛮族である。
ごく愚かなら、異文化でのなんらかの禁忌を自国の中でも容認しないだろう。それは不寛容な国であり、ある宗教や信念へ弾圧的である。
ごく賢ければ、異文化の価値観を自文化のものと直接比較できないながら同等以上の意義が潜在的にありうるとみなす。それは寛容な国であり、ある宗教や信念へ包摂的である。
最も寛容な国は、文化相対主義や道徳相対主義によって成り立つわけではない。なぜなら全ての文化・道徳への判断保留は、最も愚かな者と同じ態度にすぎず、特に邪悪な傾向を持つ考え方に進捗を許してしまうからだ(優生学による特定種族の大量虐殺や、人種・性差別を含む神道の様な宗教の存続など)。最も寛容な国は、単に、複数の禁忌集にそれぞれの主張を認め、最も合理的な住み分けを促進するだけである(大量虐殺を罰したり防いだりしつつ、ナチや神道による国の乗っ取りを禁じ、以後も危険団体として監視するなど)。だがその様な国は、自分の信じない他の禁忌を認められない愚者にはごく住みづらく、結局、別の国へと分裂していくはずだ(ネオナチや、男系皇統信者はドイツや日本にそれ以上の生存余地がないことに不満だろう)。
こうして国あるいは集団ごとに、ある事柄の判断について大まかな賢愚が、国柄の差として別れていくのである。
世界史の中で、ある国がある事柄について賢愚の判断を示し、別の国が別の事柄についてそうなのは、今もいきのこっている人類の特定集団が全事柄に万能の賢い判断を永続的に示し得なかった証であり、結局、異国間の相互参照を通じてしか人たるものは異文化から学び、自分達の状況を改善していくことができない。それは山口県や京都府では、上記した様な異文化からの目線が入ってこなければ、かれらがあたまから信じている英雄や女傑らが、単なる悪党やろくでなしと評されるべき世界がある、しかも全人類でほとんどの世界がそちらに属すると、おそらく永久に知らないままなのと同じである。
匿名卑怯者結束主義
腐敗政治下で生まれる虚栄の世襲政治屋による職権乱用のせりふ
京都の腐敗した売官金権政権(いわゆる受領政治)のもと、延々と民衆を酷い重税でむさぼる最悪政体の権化であった無能な天皇を、巧言令色で歯の浮く様にほめそやす歌集もどきをさらに空疎なお世辞で埋め尽くすよう編みながら、人々の命を懸けた現実の政界を見下す高慢な世襲政治家として「紅旗征戎、吾が事に非ず」と公務員職権濫用罪そのものの言質を日記に書いていた藤原定家を無益に美化している者は、無知だ。
私はこういう言動をしていた同時代人を2名しっているがどちらも記憶に留める価値もないほど倫理的無能かつ粗野で、世間体だけ立派な肩書にそぐわぬ虚栄心の激しい人物だったことを付記しておく。上記は今も昔もそういう人達の虚勢には随分お似合いのせりふらしい。
そして当時も今も、貧民の苦しみの上で驕りきった天皇政権は潰えていく。
ほぼ同時代に、民衆や真の政治家である武士側の目線から、京都で驕り高ぶるばかりで元寇にあっている国家的危機状況下で現実政治になんの能力も持たない、無能な天皇・公家一味の空威張りを暴露している『平家物語』なる嘗てうまれた日本文学史上最高傑作を残した信濃前司行長がいた(吉田兼好『徒然草』による作者推定。ほか藤原行長説あり)。
だがこの驕慢2名はそのことになんの民衆史的な共感も理解ももちあわせていない。同じよう外敵が攻めてきてもあるいは決定的な内乱があちこちで生じても、かれらはやはり天皇または当時の世襲政治屋やそれを兼ねた宗教屋の周りで不遜な上から目線に終始し、空に向かって特に意味をなさないざれごとを歌うばかりで、およそなにもできないかもしれない。まるで中華皇帝とその近侍で馬を指し鹿と為さざるを得なかった官僚の様に。かれらは歴史から学ぶことが一切できていない、純然たる有名無実の肩書俗物なのだ。
ごみ情報依存症
詩や哲学を悪意で妨害してくるサブカル衆愚の繁殖国
文は高尚なものと低俗なものがあり、両立はまず無理か、仮に両立した中眉(ミドルブラウ。中教養)文があっても常に最美でも必要でもない
愚者にわかる文を書くことは、賢者に伝わる文を書くこととどこまでも一緒ではない。
第一に愚者は高尚な中身に興味を持たないし、持ったとしても同感できない。このため賢者がおもな関心事としている議論に少しも加わろうとせず、もっと遥かに卑陋な世界に沈淪している。東京や京都の下衆の間でいかに低俗なサブカルチャーが人気だろうか。
第二に賢者へ辞を達するに十分な文体は、愚者にとっては理解できないほど高度なので、かれらはそれをかれらにとって単純ではないとの理由でただの衒学とみなしてしまうことが殆どだ。最近でいうツイッター短文狂がこの典型例。かれらは140文字より遥かに短い文章しか一度に読み取れないし、その枠内でも、母語であれ、文法、構文や修辞を一定以上の練度で使っていると意味を追えず、発狂しはじめてしまうのだ。勿論かれらは、まことの教師面、すなわち、わざと難しい言い方で対話者を煙に巻くための詭弁と、単なる高度な議論を見分けることも、潜在的・顕在的知能の限界からもとよりできない。言語障害者または第二言語以上の日本語話者でなければ、かれらは大抵なんらかのわけで文章読解に関する一般言語知能が並より遥かに低い状態のはずで、かれらにわかりやすい表現は往々にして、並ほどの言語知能がある人へ伝わりやすい表現ですらないことだろう。
愚かさと賢さを兼ねている文は、愚者にとっては親しみづらいうえに、賢者には一般的冗長度が不適切(過度に説明的か、幼稚)かつ軽薄で、瑣末な内容にならざるをえないだろう。
すべてのものごとをスタジオジブリ風、京都アニメーション風、あるいはタツキ監督風の形――誰にでも分かり易くしようとするあまり、すべてについて形象化の比喩を用い、なおかつ子供でも親しみやすいキャラクター操作・せりふまわしなど――で示さねばならない様な状況を想像すればいい。事実上の衆愚にすぎないツイッター短文狂なるものの大部分はそれで大感涙し全力朝貢または逆に狂乱テロするにせよ、当然それは通常、不便だ。文なる媒体単体についても同じである。全文章が平成の世俗で読まれ易くまぁまぁ人気だった村上春樹風であればその国は即座に、内田樹独裁下の兵庫県神戸市(但し公式表記は京都生まれ)になるか、破綻するであろう。
われわれは中間芸術を示すスーパーフラットの様な概念を持っていた時期があったが、この領域は賢愚どちらの研究(大衆研究、学術研究どちら)にとっても最重要でないので、単なる創作術上の迷いだったのである。
根源的に、ある文が想定する賢愚の平均値を、およそ都度、憶測による直感によりどこに置くかで、それらの構成法に最適性を期待すること自体が、一般的なときには不合理というべきだ。その様な集団性がすでに決められていて、しかもその平均値の定量性が統計的データとして手元にあり、かつそれに従うことに必然の利点がある状況下でしか、われわれは読者の読解力の質を事前に指定できないからである。
啓蒙の根本限界としての倫理的無能の存在について
愚者は愚かな悩みを持っているが、そのほとんどはかれら自身には解けないなんらかのまやかしや、誤解の連鎖によっている、と客観的に観察できる。そして他人がそれを代わりに解いてあげても、当人の理解力がおいついてこないので、一体なにをいわれているのかわからないまま、かれらは悩み続けることが多い。
これと似た様なことは、ある数学の理路が分からない生徒にあてはまる。第三者にそれがわかっているとき、一体かれらがなにをわからないといっているのかが見通せない。
悩みのしくみは大抵その様になっているので、他人が他人の悩みを解くことは基本的にできない。そして愚かさとはこの種の悩みの集合体である。
私が啓蒙は不可能とみなす様になったのは、この様なしくみが、あまねく不動なためだ。
よりたちが悪いのは、反省力がない人の場合、当人達が大幅な誤りを犯していても自信満々で一体なにを誤っているのか気づかないまま、それを社会で実践して他人に害を為していることがとても多い。この様な人は頻繁に違法行為に触れるのはいうまでもなく、あるいは他人にわざわいをなし迷惑がられていても、具体的に制裁されないかぎり、まず決して自分の誤りに気づけない。
啓蒙によって少しは賢くなるたぐいの人々は、孔子のいう中人以上であり、並以上の反省力があるだろう。だが一度、二度と注意しても全く反省がみられない人の場合、政治的・倫理的な直接の罰――政治的には刑罰か討伐、倫理的には注意、説教や非難など――によってしかかれらの行状は改善しない。
司法制度は悪法もあれば冤罪を犯しうる欠陥があるが、実際に迷惑な行いについて刑罰あるいは報復を受けてもそういう人々が納得しないとき、やはりかれらの脳内には悩みの構図がある。かれらは一体何が他人に迷惑をかけているのかについて、多重な誤解や激しい思い込みから、およそまったく見通せないままなのである。
サイコパス(精神病質)とみなされるたぐいの人々の一定数には、最初からこの種の利他的な共感認知を一定以下にしか持ち合わせない者もいるだろう。だれかがそういう人に他人へ害をなす行いをやめるよういっても、かれらは他人への共感性が最初から低いので、罪とか恥をはげしく感じることはおよそありえないだろう。
啓蒙の根本的限界はまさにここにある。だれもが普遍的な倫理を自覚するわけではない。それはある人には永遠に見通せない盲点になっている。
最初から普遍的な倫理などない、という道徳相対主義の立場を実際にあるいは仮にでもとっている人であれ、倫理一般の一切の部分的共有、つまり、最低限度の事前の倫理規範たる法や約束(契約)などにも、利己をはかる手段としてしかなんの同感ももたない人は、立派な人間というより単なる非社会的な一哺乳類といった方が正確である。いまでは無政府自由至上主義者、無神論者、権術主義者や神道信者らのなかに、そういった非人道的な立場を無制約に自己正当化する人々がいる。かれらはいわば文明の面をかぶった獣類であり、啓蒙によっては永久に、他人を手段としてのみ扱う悪しき行状を自己改善しないであろう。
こうしてそういった倫理的無能が現実にいるかぎり、この世で政治が無用になる日はこないといえるだろう。批判的思考(ここでは特に懐疑論の文脈で、対話術的な命題への否定媒介性)が前提になっている哲学の営みでの倫理の議論に、それを私利に使う悪意(いわゆるリチャード・ドーキンスのいう利己的遺伝子の正当化。ある種の自然主義の誤用)を前提的にもつかれらは純粋な意図で携わりそうにない。当然ながら、宗教の様な団体的・個人的な信仰の教えによっても、ある人は他人に害をなしても自分の利益を追求したがるのだ。
天皇一族が他人を侵略・収奪しながら、自分達を絶対化する差別の政治制度や宗教をつくり、自他の人権や人道をふみにじりつづけてきたのは、まさに、かれらが世継ぎをくりかえした倫理的無能の典型系譜だからである。
テロリスト天皇一味と薩長幕府(二人合わせて自称日本政府)のいつものご都合主義
テロリスト天皇一味と薩長が偽造した国がテロを非難す
テロリスト米軍一味の手先して今日もいじめる中東の民
テロリスト薩長幕府と西側諸国いじめる相手は誰でもいいのか
野蛮なり権術主義のモギケンがイギリス崇め明治恐怖政治自慢
卑劣なりご都合主義の天皇が米軍に国売り命からがら
卑怯なりなんでもありの天皇が国内外テロ今なお居座る
憲法9条を無視して国際紛争解決にテロ報復を正当化する最悪防衛副大臣
新型コロナウィルスさまの大復讐劇
引きこもりを差別していた日本人そとにでれずにコロナが復讐
内向的性格の人を差別して威張る日本人へコロナが復讐
出づっぱり皆殺しにするコロナさまが若者を搾取してきた貪欲老害どもを畳んでいっちょあがり
田舎を差別し驕り高ぶる邪悪な都会人どもへ大将軍コロナ様が現れ復讐して下さった
原発公害と差別をばらまく東京や京阪の自称皇統やくざどもを新型コロナ様が一網打尽にして下さっていらせられる
2021年5月14日
天皇一味の目的は洗脳や手先を利用した野蛮な暴力による世襲の独裁(僭主)政治
西日本の薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)の人々は、かれらを中心とした西軍に加わった京都、広島の人々と同様に、徳川慶喜へ濡れ衣を不当に着せ続けてきている。それはかれら西日本人一般が、単なる暴力至上な権術主義を信奉する野蛮な人々をおもとすると示している。
なぜなら慶喜は進んで政権を天皇へ禅譲したばかりか、天皇からの濡れ衣へも我慢して耐えていた忠義な最後の将軍だったからだ。
もしかれが武器を取って天皇軍を打倒または天皇軍と奮戦していれば、かれら西日本人一般は慶喜をまごうことなき史実として「朝敵」扱いしていたに違いない。また、逆にかれが現にそうしたよう水戸徳川家の家訓ならびに彼の受けた尊王論を核心とする水戸学の教えどおり天皇への絶対忠誠を貫いていてもやはり、西日本人一般特有の性悪説的な悪意から、みみっちい権力欲とねたみ深さ、あるいは恨みで凝り固まっている西日本勢一般はかれへ「朝敵」と冤罪してきたのである。
ここにみられるのは、薩長を筆頭とする西日本人一般の政治志向は単なる野卑な暴力を全てに優越させようとする悪意だということである。
こういった西日本風政治では天皇はつねづね駒と考えられており、飛鳥期に天皇と称しだした奈良人一味もそれを承認しつつ絶対権力の座にのし上がってきている。現に明治期、初代総理の伊藤博文が『ベルツの日記』にみられるよう皇太子を操り人形の如くに嘲弄していても、皇族もそれを目撃していたのにかれへ何の非難も加えず、全権を持っていた天皇はかれを解職すらせず、却って、かれに最高爵位であった公爵や初代総理の位を与えている!
すなわち天皇なるものもやはり、この暴力至上の蛮族集団の第一人者であり、その種の家風を持ち合わせているとみなしてよい。さもなければとうに、真実の「朝敵」であった伊藤から一切の名誉を剥奪していなければならない筈だ。むしろ、伊藤ら長州閥が朝鮮へ侵略したことを、天皇一味は、かれへの名誉付与で後押しさえしているではないか?
天皇一味は自分の地位と絶対的権限あるいはそのたぐいの宗教権力・権威を維持するためには、広島や長崎、沖縄、福島といった諸県を戦争で犠牲にすることを厭わない。アイヌも縄文人も、ほかの弥生人らも、天皇一味に悪意ある暴力で土地を追われ、人種・門地・身分差別され、無理やり自治権、主権と誇りを奪われてきている。天皇一味の悪業と虚栄心のほどは果てしなく、かれら一味による侵略・虐殺被害から復帰した独立後の周辺諸国への、あの高慢ちきな態度にも、まったくおなじことがあてはまる。
だがこの天皇一味の心魂にもつ悪意の根源は、西日本人一般、特に鹿児島や山口の人々にみられる恐怖政治を美化したり、暴力を至高の政治的価値と信じる利己性、つまり目的のために手段を択ばない野蛮さと一致しているので、天皇一味もやはり飛鳥期・奈良期の奈良で、その種の出自をもつ単なる権力亡者の同類とみなしてよいであろう。
かれら天皇一味の目的は、幕末以来猛威を振るった薩長土肥・京都・広島の寡頭暴政勢力と同じく、単なる独裁である。
自身を教祖とする奈良発の新興宗教・神道を用いた洗脳も、世襲の僭主(独裁者)の地位を維持する目的でこねあげた、日本人愚民化のための卑劣な手段だった、とみなせる。いまではNHKはじめ、宮内記者会に属する主要報道機関と共謀している宮内庁を通じた情報統制で、テレビ政治による国民全体への洗脳も、この前時代的邪教の一部になっているといってまちがいない。
全日本国民および全人類の目に隠されているあらゆる不都合な裏側が暴露されたあかつきには、自称天皇一味はもはや、全世界で誰の敬意も失うであろう。
猿まね保守の愚行歴
愚か者は他国の暗面までまるきりまねることが正義で、先進的だと信じている。天皇と称したり、イギリス出羽守で差別的制度の保守面をしている様な者がまさにこの類型である。
この種の猿まねをする人は、また自国の過去の文化についても、まともな判断力をもちあわせていないかもしれなかったろう。
かれらはよく、単に伝統的だからと過去の不埒な慣行を反省せずに維持、もしくは賞賛したがる。つまり伝統に訴える論証と呼ばれる詭弁術で、かれら自身をも騙している。
幕末西軍テロを維新と呼んで美化したり、絶対権力下で頽廃しきった天皇一味が京都で不倫・児童強姦・近親相姦三昧、女性や子供の人権、人格の尊厳を認めず虫けらの如く蹂躙しまくる姦淫蛮族小説『源氏物語』をろくに読めもせず俗物根性で名著と称えたりするのがまさに、それである。かれらは並の倫理やまともな好みどころかそもそも判断力がないから、事柄を属性による偏見でいつも誤用しているのだ。
天皇一味が退治されてから、長安もどきの京都が奈良の平城京の様に衰退しきってから、われわれがかれらの行状を振り返った時、そこに残っているのは見苦しい猿まね保守の愚行歴だけである。
令和日本の素描
京都文化中心主義の末路
京都人は余りに世間が狭く、また野蛮だったので、自分達の存在が世界の中心で最高の文化だと信じていた。それで自分達の移民地区を中華都市の長安になぞらえ、京都とか京と称していた。
その末裔である自称天皇一味は、大量殺人鬼として江戸へ侵略すると、そこを東の京、東京と名づけた。
この蛮族一味は大量虐殺をもたらし、今も国の政府を乗っ取っている。だがかれらの心の底にあるのは、自分を上位者に置き、全人類をそれ以下の存在として差別しようとする、ただの悪意なのである。
京都人や東京人一般が、つねづね、他県の人々を「田舎者」といって公然と差別して回っているのは、一様に、この邪教祖天皇を精神構造からまねたもので、つまりはかれら京都人・東京人自身の驕りきった野蛮さにほかならない。
京都や東京が亡び去ったあとで、良識をもつ民衆はそれを喜びこそすれ、決して悲しみはしない。天皇一味が亡びてからも同じである。
国の盛衰に関わる情報産業の発展をみすえ、著作権法を撤廃し、公平利用法をつくること
日本の著作権法は公平利用(フェアユース)規定の点で世界的に出遅れており、形式的に引用のしかたを限定することで、特に情報産業の発展を阻害しているとみて間違いない。
例えばソーシャルブックマーキング(社交のしおり)関連サイト、具体的には米国側ですでに成長中の上場企業となっているピンタレストやツイッター、或いはヤフーに買収されたもののリブログ機能で事実上それをかねているブログのタンブラーなど、日本の著作権法では永久に展開できずとっくに一部の人々の悪意や官民一体の不寛容さにより消されていたものが、米国の公平利用法のもとでは大きく進化し、次世代産業にしっかり育っている。
ユーチューブも日本の著作権法ではとうに潰れていたはずのものでしかない。この会社はのちグーグルの親会社アルファベットに買収されたが、動画共有サイトとしての起業当初から自身のサービスを米国法内で現実の必要とそぐうよう改良しつづけてきた。かれらは音楽や動画などを利用者から一旦自由に投稿させつつプログラム上それらを自動検索し、既に公的に登録されている情報については原著作権者へひとりでに収益を還元するという形で、あまり人力を割かず合理的に公平利用を実現してきた。もしかれらが日本で起業していたばあい、日本の著作権法下ではこれらの投稿ほとんどが違法とされ、今の様あらゆるジャンルで動画サイトの王様としてユーチューブがにぎわいをみせていることはありえなかったであろう。
実際、やはり動画サイトとしてうまれてきた国産のニコニコ動画はユーチューブより後発だったが、より著作権法に寛容な中国の動画サイト・ビリビリに、利用者数でも売り上げでもおいぬかれた。ビリビリはすでに米国株式市場のナスダックに上場し、単なる文化的影響力のみならず時価総額面でも親会社のドワンゴと大差がついてしまっている。現時点での時価総額で比べると、ビリビリは約3.5兆円、ドワンゴは約926億円の価値である。なおビリビリはニコ動よりさらに後発で、しかもほぼその模倣からはじまったのに、余りに的外れな著作権法のおかげで今もこのありさまである。将来はみるべくもない。
これら以外にも、通常、米国の方が、すくなくともポップアーティストらが漫画や雑誌の切り抜きなどを流用してつくってきた純粋美術・商業美術の分野で長年経験則がつみかさねられ、二次創作に関わる法律面で「盗用」か「流用」か判断が杓子定規ではないので(例えばディズニー商品とジェフ・クーンズ作品へ本質的に異なる基準で対処するなど)、それらのミクスチャー文化をつくる土壌面でも、他国の先例として依然つよい影響力を保ったままということができる。
逆に日本では通例、二次創作といえば同人誌、つまり、原作の漫画・アニメ・ゲームなどサブカルチャー上のキャラクターをわざわざ淫行させて描く変態性欲の商業漫画、さもなければ、ボーカロイド曲などを歌ってみた系しかおおやけに流通していないに等しい。
後者・歌ってみた系はカラオケの発展した一種と解釈できるが、やはりここでも利権団体ジャスラックが過度に規制をおこなおうとあまた問題を起こしている。本来、芸術作品はより広範かつ忠実に流通されるほど影響力を伴うべきものだが――なにしろそれは誰かを感動させなければ意味をなさないものなのだ――かれらはレコードやCD時代の古い意識のまま有料化にこだわるあまり、KPOPなどデジタル時代の開放戦略をとる国の音楽へはるかに後塵を拝しているのだ。
KPOPでは音源を実質的に基本無料で、動画サイトやストリーミングサービス上に公開し、ライブやグッズなど関連商品で収益を回収する方法をとって、他国の市場へ広く流通する様になった。
それに比べ、もともとKPOPの模倣先だったJPOPでは、特にアイポッドの登場以来、CDはほとんどうれなくなってきていたのにもかかわらず、ジャスラックによる全体統制のもとで音源への直接課金にこだわる余り、およそこの逆を踏んできた。音楽市場のおもな標的である他国の若者はそもそも払うべき日本円やクレジットカードを持っていなかったり、日本語でおもにつくられているダウンロード用のサイトが複雑でよめなかったりするため、JPOPとほぼ類似の内容をもっていて無料でいつでもどこでも聴けるKPOPの方へひとりでにひきよせられていく。そしてうまれたファンダムがもとの音源自体に払うべき金額以上を大量に、アーティストを率いた事務所へ貢いでいるのである。
一般人が歌唱や演奏で日本の堅物な著作権法にひっかかる演奏を再現すると、昔で言うデモテープを公開すると不寛容なこの国ではすぐ通報され消されたりしがちだが、すでにのべたとおりユーチューブは本社が米国でこの点にもずいぶん寛容で、現著作者に収益還元が勝手に行く形をとっているので、前述のよう特に二次創作に該当する音楽もつぎつぎ発展している。著作権管理団体におんぶだっこされている政府から許可をとらねば放送すらできないテレビ局で、これらの新作はグレー扱いになってしまい、もはやとっくに時代の新状況に適合できていない。若者がますますテレビをみなくなるのは、ネットですでにおこなわれている多様な情報環境より端的に単一すぎ、つまらないからだ。
また特に前者・同人誌ジャンルは、児童性愛、非実在青少年の児童ポルノを含んでいるので、児童保護の観点から外国の法律では販売許諾されない可能性が高い。日本では、特にコミックマーケットを開いてこれらの同人誌即売会を大規模にくりかえす東京という変態性欲都市、すなわち春画以来の町人文化の伝統を持つ自治体が、きわめて特殊な著作権法のうみだされた直接の原因である。通例、他国では児童を性的対象にえがく事は非実在の場合でも倫理的疑義や宗教論争を呼び、すくなくとも純粋美術の好みにかかわる特殊な類型としてをのぞけば大規模かつ公然とは不可能であり、日本の法律が猥褻物のうち児童性愛関連へ他国に比べ過度に寛容な可能性が考えられる。すでに平安時代の京都で児童強姦を含む『源氏物語』が珍重されていたのがその傍証といえる。
以上の全状況をかえりみると、JASRACの事実上の利権にすぎない日本の著作権法を一度まるごと撤廃し、あらたに公平利用法をつくり、一切の流用を全面許諾した上で、まず親告罪で訴訟後にどの程度の利益還元が原著作者にあるべきか個別事例によって裁判官が判断する方が、今後の国家的主要産業となるだろう情報産業の育成条件にとってもはなはだ賢明といえる。著作権法で、単なる共有にかぎっても複雑な形式を踏んで違法か曖昧という状況は、GAFAMやBATXなど周辺国ですでに国を稼ぎ頭として引っ張っている次世代の主要情報産業がうまれていない今後の日本をさらに没落させる、最悪の法律といわざるをえない。
それと同時に、児童性愛の表現については、特に一般的悪徳(不倫や、事前知識なしにあきらかに健康を害する行い、あからさまな性のモノ化の強調など)にかかわる他の変態性欲を示す猥褻物と同様、確実に閲覧の年齢規制を設け、それらを望まずみない・よまない権利を一般社会に保護するべきである。ちなみに『源氏物語』を高校国語で教えることも、原理的に姦淫(当時の皇族は一夫多妻だったとはいえ婚外交渉、近親相姦、児童強姦など通常、不道徳な性行為)を肯定的もしくは賞賛気味の文脈で子供へうのみさせている時代錯誤に違いない。なるだけ早いうちに文科省と高校教員の間で議論をおこない、検定教科書の枠内では当然ながら、一般に女権や子供の権利が皇族から蹂躙されていた平安期の単なる過去の史料としてとりあげかたに、この昔の猥褻小説のあつかいを限局すべきであろう。
2021年5月13日
自称天皇の影
あなたはどうでもいいぞ
全員が浮浪者みたく
あすもあさっても天皇崇拝者
わたしはわたしではない
このよはどうでもいいね
だれもが大学者みたく
過去も未来も小説家の悪意でぬりかためる
だからあなたはもういない
あなたにみえているものはぬけがら
消えてしまった煙
しんでしまった
あなたもわたしもいない
もうなにもいらない世界で
全員がころしあう劇場をみせられ
そこが理想郷だと薩長土肥の蛮族がかたる
これこそ大英帝国の真似事だと
その馬鹿どもは今も殺戮自慢している
自称京都人が虚無に向かって拝み倒す
周りを田舎者とさげすみ差別しながら
彼ら自身が一番卑しい
お前は自称天皇
しんでしまった影
自然の斉一性という形学(イデオロギー)をその分析の特殊条件外でも普遍とばかりに信じる愚か者
愚かな理学者は社会、心、人々の個性、それぞれことなる文化や慣習までもが、ことごとく普遍的でなければならない、と信じている。かれらの脳内にある理想の世界は一様で、いかなる例外も逸脱も、包容や進歩さえゆるされないものである。
この妄想がいきつくところ文化帝国主義や中華思想で、自分を自明の中心に、異なる人々を差別しみくだし始めるだろう。
これらが最終段階に至ると独我論に陥り、遂に世界には究極で自分の如くの存在しかいないとおもいこみ、恐怖政治や無政府的な自由至上主義を絶対の正義と考え始める。嘗て暴力という手段で他人を変えようとしていた人々は、大抵、理論的にはこの境涯にあったのだ。
今それは、科学教育を受けた狂った科学屋の中で、特に物理主義的思考原理、つまり全ての物質法則が一様一律である筈だという、現実とことなる脳内妄想を発端にしているばあいがある、と知らなければならない。これは専門化しすぎた理系(自然科学専攻)教育、特にSTEMとよばれる実利志向の教育系列の中で、社会科学や人文学を軽侮させる悪習がはびこっているせいが大きいが、それにもまして、元々その種の精神病質性をかかえた人をより邪悪さへ向け触媒させる温床に、今の学園思想の一部がなっているからだ。
自然の知識と数学、工学、技術は悪用されれば以前より悪い結果をもたらすだけだ。それらの使い道を正しい倫理に向け統御する能力を羽含むのは、寧ろ社会、諸芸、文化、人間、生物、宇宙すべての多様性に最も広義の考察をおこなう、諸学の王であるところの哲学自体である。
影響教祖による捨て駒づくり
単純思考しかできない者は確実に詐欺師の餌食になる。
そして詐欺師らは天皇の様なインフルエンサーやメンタリストとして、あるいは疑似科学と霊性を語る学者風の占い師、祈祷師として、単純な者からつぎつぎ洗脳し、収奪と悪意ある犯罪の捨て駒にしたてあげていく。
尊民倒皇論――差別の皇室を倒し、全人類を等しく尊ぶべきことについて
天下の為の天皇はいても、天皇の為の天下はない。
人類同権を侵害し、自ら奈良発の邪教と反人道を極めようとする男系派は、その邪教祖・皇室一味ともども未来永劫、天下の大悪党といわなければならない。
人種差別イギリス王室の悪業をまね、みずから中世の蛮風を擬するなど以ての外の痴話である。中華皇帝の猿真似を長年世襲でおこなってきたあしき自称天皇一味は、万人のおわす天下から金輪際消滅させられるべきだ。
戦争責任をとっていない皇室はいわば占領軍と国民を騙した。かれらは日帝憲法下で全権を持ちながら、君主無答責を乱用した東京裁判で戦犯逃れしつつ、最低でも飛鳥時代から日本人や諸国民へ侵略・略奪・暴力・差別など、極悪犯罪を永年おこなってきたことをもいまだにごまかし続けている。かれらは南京事件その他で大量虐殺を犯し、手先による一方的暴力で国内外へ侵攻した。幾ら米軍側の罠でもあったとはいえ、およそ惨めな強欲以外なんの目的もなしに先制攻撃をしかけいざ本土決戦となっても有効な防御の手もなく、自国民に集団自殺させ、神器と称する偶像に頼って自らの家の保身ばかりをはかって降参せず、原爆投下を見逃しておきながら、全てを部下のせいにしたてあげたこの人類史上最悪の人道犯罪者一族をかくまうのは、いわば自分から、人の人たる良識を破壊するのと等しい。
我々が真に侵略戦争や、いまなお京都や東京に残存する自称皇室由来の浅ましい中華思想による差別という最悪の蛮行を反省した、しかも、加害者に責任をとらせたといえるのは、重罪の当事者にして差別の第一人者たる中古代奈良発カルト教祖、天皇一味をわが国統から完全に滅ぼし去ったあとのみである。現世代で完全にこの自称天皇の純然たる蛮族を打倒しきれなければ、将来世代は同じ世襲の禍々しい邪教一派におおかれすくなかれ洗脳され続け、何度でも悪魔崇拝やそれに伴う責任放棄という同じ過ちを繰り返してしまうであろう。
いま片をつけておけば、傲慢にも万人を見下しながらその生命財産と人たる誇りを収奪し続けてきている自称皇帝、あるいはただの殺人鬼の分際で神の末孫と称する卑しいカルトの悪業で、良心を持つ日本民族なるものが二度と全人類へ落とし前をつける必要はないのだ。
皇室は令和で完全廃止し、以後も未来永劫、国政からの支援を一切やめなければならない。
代わりに法律上、民間の一宗教団体にもどった神道を国定の最重要危険団体――破壊防止法上の監視団体。特に、現時点で「象徴」の肩書で事実上の絶対権力を有している通り、国政専横によって政教分離を侵害する最悪の危険思想を潜在的・顕在的に実績として持つ団体――とみなし、あらゆる面でのかれらへの支援・擁護を反社会行為と法制上も一般人倫面でも、定義する必要がある。
こうして既に国政を乗っ取り大量殺人史を無数に残してきている旧皇室一味が二度と政治力(実権)と宗教権力(権威)を持てなくなり、差別や暴力をばらまくそのカルト信者ごと全滅しきるまで、わが国民は全員一致してかれらの蛮行を監視し続けなければならない。
われわれ日本人は全員が全精力を用いた全力で、良心のおもむく公議に基づき、皇室一味に現状も続く人権侵害・国風紊乱・諸国侵略罪の責任を徹底してとらせ、かれらの現に起こしている、また将来も起こしていくこと確かなあまたの悪事を、一つ残らず潰していくしか、わが国として執るべき人たる道はありえない。
2021年5月12日
文化的である事
文化的であるとは、本来、人生に於いて他人と競争したり、他人を踏みにじったり、敵対したり、差別したり見下げたり、あるいは他人を自分より尊い存在として奉ったり、それらの面倒な社会性をすべて無効化する或る地平をまのあたりに開く事である。ここで言う他人は生物の全てを含んでいる。
われわれは非文化的な存在であればあるほどこの逆の資質をもっていると知っているが、同時に、まさにその種の俗物だけが自分達こそ文化的であると主張し易いのも知っている。だから文化的という言葉は、基本的にすべて紛い物や嘘であると考えていい。
完全に文化的な存在は、もはや誰の事も傷つけないために、ただひたすら人後に落ちて耐え忍んでいるはずだ。われわれは隠居した徳川光圀が一生の間、自身の信じる学問に力を尽くしていたり、禅譲後の徳川慶喜が洋画、写真、書や乗馬に興じていたのを知って、彼らが世俗的な目的を超えた人生を送っていたと認める。いわゆる趣味的生活がそれであり、文化的な存在はその種の純粋な遊びの中で生きているのでなければならない。
分析される統計データは飽くまで標本の抽出された留保つきの(事実の理解として原理的に誤り易い)数値たる定量的性質であり、本質的に現実でも真実でもない
統計を真実や現実と取り違えている人は、大抵酷く誤った結論を一般化して信じている。統計自体が有意差や恣意的な信頼区間によっている標本分析の仮の手法であり、それを使っているあらゆる思考は或るデータの信頼性に一定の疑いがある留保つきの仮説に過ぎない。そしてこのことを自覚していない人は純粋に批判的思考力が弱いのである。
作品はみずから作った、またはほぼ同等のものを作りえる芸術家自身にしかその一切を理解できるべくもない
芸術家でない人がお勧めしている作品で、まともなものは殆どない。特に好みのよくない人、悪趣味な人は、かれらの職業でも似た様な側面を示している。
みずから作ったことのない批評屋が芸術家自身より真剣に作品の実相を分かっていることも、まずない。批評を信じて芸術を理解しようとする者は、ごくまれな奇跡的偶然の一致を除き、およそ一人の例外もなく詐欺師に偽物をつかまされている。
みずからつくる芸術家自身によるのではない批評とは、原理的に悉くでたらめだ。それはどの様にできているか知らずにプログラム自体の質を評価できないのと同じである。
数理思考の高度さについて
高度な数学がわからないとまともに考えられるわけがないと豪語しながら初歩的な論理で誤りを数多おこなっている理学博士がいる。どれだけ高度な計算機でも使いこなせなければ手計算に劣る結果しか出せない。一般知能が高くともろくに成功していない人があまたいる。
数学は科学的思考の道具だが、飽くまでそれが使える範囲は思慮全体にとって限られている。複雑な技巧を駆使しながら大きな過ちを犯すより、簡単な技術でありながら正確な結果を導いている方が、計算として優っている。
国という仲間
ある国がしあわせな状態を作りえているのは、社会を構成する人々が、その為に必要な条件を備えているからだ。このため国によってしあわせのあり方も大幅に異なっている。
ある国では決してしあわせになりえない人は、別の国ではあたり前にしあわせになれる。
ある国の民衆や支配者がもっている考え方と肌が合わない人は、革命か亡命かどちらかでしかろくにしあわせになれそうにない。国とはこの様な、避けられない仲間なのである。
立派な仲間とそうでない仲間がいて、立派な国とそうでない国がある。それは上品な美術と低俗な娯楽が、好みの根本から違っているのと似ている。
都会人一般は下品な商業作品を立派な芸術だと信じている。そればかりか知りもせず田舎を卑俗な世界にちがいないと確証バイアスで思い込み、自文化中心主義で見下している。だがかれらはその都会の外の純朴で清らかな社会では、単に頽廃的で不幸きわまりない下衆である。
天皇が万世一系だと胸を張って誇っている人は、税に寄生する世襲の大量殺人鬼から永久に差別される国民を不幸だと感じる自由な共和政の国々には、純然たる奴隷にしか見えない。
なぜある種の人は美的感覚がないのか
散文的な人は気分が平坦で、美的な感受性も弱い人だ。小説家は嘘つきだけである。
飽くまで散文体を当たり前と思っている科学者は通常、全てに活きいきとした韻律をみいだす芸術的感覚がない。ある科学者が書体に無関心なばかりか、自分の下手な字を知性の証拠とすら考えているのを見て私は心底驚愕した。身なりに気を使わない人はいるが、かれが自分の書き散らしてきた文の読み手や編集者の工夫に何の注意も払っていなかったと知って、かれのよう思いやりのない人には叙情詩もわからないはずだとわたしは気づくことになった。
いうまでもなくこの人は立派な芸術作品を見分ける能力、審美眼も、ほとんど皆無であった。それでいつも下らない悪趣味なものを他人の風評をたねに、低俗にも絶賛しているのだった。
こういった散文的な人達の一生もまた、詩劇の要素を欠いて、一般に何の面白みもないものだろう。かれらは目の前にあるすばらしい風景を見ても無感動、無感覚のまま、ぶつくさとるに足らない論理的文句を垂れて生きている。
通常、都会には感受性の死んだ人が多い。かれらは周りを醜悪な風景、悪辣な俗衆で囲まれているので、感受性を殺さないと少しも生きていけないのだ。南関東人や京都人、名古屋人などが自然や田園をみて当人達なりに差別的な言い方で「何もない」というのは、そこに生きている滋味豊かな動植物との共生への感受性が、一円一銭を争うこせこせした卑しい都会暮らしで完全に死に絶えてしまっているからだ。
陰謀論者の起源について
分かり易い物語、小説、神話、噂や腑に落ちる小話にしがみつき、歴史の実証的考察を怠る者は、しばしば悪意ある作り話の本、当時の政府・政党・王侯らの捏ねあげたご都合主義の虚妄、ウィキペディア、大衆新聞・雑誌、漫画・アニメ・ゲームやインターネットに書いてある嘘を信じて疑わず、人を焼く者と本質的に同類だ。
愚かな人々はあらひとがみ、教祖、象徴、偶像・アイドルといった人型の姿が具体的な行いで示す方法でしか、抽象概念をろくすっぽ認識できない。このためなにか超常的な言動をしているとかれらには信じられている祈祷師・占星術師・占い師・メンタリスト、なんらかの特殊な個性を示す芸能人や、過去になにごとか功名ある封建領主の末裔らを、無条件に上位者扱いしたがる。
かれらがときに父権(男性特有の権限、と彼らが信じるもの)へ妄信的にこだわるのは、おもに力ある者、権力者へ依存し、意思放棄で保身したがる中世的な心理作用の現れ、と考えられる。
日本国内で、人気あるユーチューバーやインフルエンサー(SNS上で影響力を持つ者)の言説をうのみにする衆愚的な派閥、あるいは男系派の如くどうみても人権侵害にすぎない中世京都・近代東京での蛮習をごり押ししている極右がいるのは、そういった思考停止による退行的心理が、一部の民衆に残存しているからではないか。
人権侵害を国教化している男系派と皇室の必然的末路
優生学(人種によって差別を行おうとする考え方)を頭から信じて疑えない衆愚が男系派の実態である限り、ときに皇室含む彼らが日本国を専横した非人道な蛮行に、人々はたとえ共謀の形でも、決して関わらないべきである。
そしてやはりときに皇室含む彼らが超法規的な天皇権力を乱用した人道犯罪の数々について、具体的に、法と司法権力の下、日本国民の立場から容赦なく公的かつ全地球的正義で裁く事こそ、良識を持つ人にとって最善の振る舞いになるだろう。
天皇・皇族とかれらの元にいる人道犯罪集団に、普遍的たるべき人権と、万人を包み込まなければならない人道を惨めに踏み誤らせる者は、天皇とその信者に国政を乗っ取られていた戦前と同じ致命的なわだちを踏むことになる。
暴走した男系派自身(注1)と彼らに煽られた暴徒(注2)、そして彼らと皇族をわがため利用しようとしている奸臣(注3)の陰謀が響いて、中華皇帝をまね天皇号をなのりだした674年から今まで1347年近くも世襲で人道犯罪を犯してきている差別の塊にして大量殺人の実歴をもつ皇室なるものは、遠からず、みずからの公然と犯す人権侵害により、永久に闇へ葬られる結果となるだろう。
――
注1
作家の竹田恒泰氏を筆頭に、竹内久美子氏、百田尚樹氏や茂木健一郎氏ら作家・小説家集団を頭脳とする、皇統に於ける殆ど狂信的な男尊女卑至上主義集団。なお現実の皇統には、史実の範囲で、44代に女系・母系天皇(母が天皇で父が天皇でない女性天皇)、ほか8人10代女性天皇らがいる。一方で、男系・父系による非科学的な謬説・万世一系説が日本史に登場したのは1889年『大日本帝国憲法』1条、2条を作った薩長藩閥(薩長土肥)による明治寡頭政治の中で、今から132年前の時点が、制度と文献上の初出と考えていいだろう。当時の総理大臣は2代総理で薩摩閥の黒田清隆であった。初代総理大臣で日帝憲法起草当時は枢密院(天皇の諮問機関。いわゆる今の有識者会議)議長、長州閥の伊藤博文『皇室典範義解』1889年4月(2ページから4ページ)にも、同様の説に立脚した文言がみられる。
注2
右派の読売世論(2020年)で、女性天皇賛成が67%(最多)、反対が8%(無回答を除き最少)。女系天皇容認が59%(最多)、男系維持派が16%(無回答を除き最少)。旧宮家男系子女の皇籍復帰は55%がどちらともいえない(最多)、25%が反対、18%が賛成。よって、絶対的男系派(宮家の皇籍復帰を含め皇統に於いて男系存続が必要と考える者)は右派全体の約18%以下とした時、このうちの一部が、世界人権宣言2条に定める差別の禁止(人種・性・政治・宗教・出身・地位・門地その他の人類同権)を侵害しつつ、宗教的信仰で暴徒化する可能性を、潜在的にまたは現に持っていると考えられる。
注3
例えば上皇や皇族の(時に自称文化的な目的を建前とする)政治的移住誘致を謀る京都市長・門川大作氏の様な政治屋。京都市民一般の単なる中華思想でしかない普段の言動や、戦国期を招いてきた歴史的事例を客観すれば、かれら門川勢は天皇・政府間に中世風の二重権力を発生させ、国政に於ける混乱を将来的に京都文化中心主義で上書きすることで、首都の名分を乗っ取ろうとしている、と推測していいだろう。
2021年5月11日
日本に匿名衆愚が溢れているIT史的経緯試論
オタク達、特にそのうち若害達は自分達の悪趣味を合理化してくれる人々を仲間とみなし、そうでない相手を匿名で攻撃し続けた。結果、弱知化していない情報を意識の外に追放し、代わりに入試偏差値順の学閥位階制という全く論外の――原理的に人間性と関わりがないので、不合理な差別に過ぎない――カーストへ進んで服従し、社畜・国畜として世襲の皇族、政治屋や科挙(受験)上位者らから管理されることを望んだ。
彼らが通例、猛烈にゆたぼん父子を叩くのは、完全に、彼ら自身が熱狂的な作り手である学閥カーストへの服従者だからである。この一見明快な数値で人間的価値の凡そ全て、特に生涯賃金が示されると(時にご都合主義な社会学論文を引用しながら一般化し)彼らが信じている位階制は、彼ら労働者集団の思考停止にとって最適な差別なので、そのしくみの維持強化へ認知的不協和をもたらす対象へ異様な攻撃性を示しているのである。
東浩紀一味はこの種のオタク的行動類型を寧ろ、しばしば決して否定的とは限らない文脈で動物化と評していた。だがいうまでもなく、その末路は昨今の都政・国政にみられる、救いようがない衆愚政治だったのだ。
東京圏・関西圏のよう極端に商業化された地域の人々を中心に、日本の相当部分は、この新興宗教――今から振り返れば邪教であるが――にかぶれ、サブカル教祖の諸説をうのみにしていた。通俗娯楽の礼賛は、往々にして無教養な彼らの日常生活にとって都合がよかったからだ。
次にでてきたのは、ニコニコ動画配信者も流れ込んだユーチューバーであり、そこに溢れかえっている釣り・煽り式の質の低い虚偽情報の山であった。動物化しきった日本人の年少者一般は、今度はむさぼるようチューバーを偶像と崇めつつ、大金を貢いだ。
かれらはその中でも学閥位階制の上位に位置づけられる影響教祖として、茂木健一郎、(学歴では微妙だが)ひろゆき、ダイゴや中田敦彦らの動画を、より大乗的なUUUM・VAZ勢の娯楽系チューバーと並んで、「教育系チューバー」と評価し信じ切る様になっていった。同じく人気を博してきたホリエモン、与沢翼、イケハヤ、キングコング西野や青汁王子ら商売系(ビジネス系)チューバーの一部は、有料動画または音声配信に軸足を移したので、チューブ信者の残党勢は各教に程あれ分散しつつ、彼ら陣取りチューバー衆を一種のスピリチュアル(霊魂的)な教祖として絶対化する様になったのである。
こうして日本の若者一般はチューバーの手先の様になり、まさに若害と呼ぶにふさわしいほど暗愚な言動を繰り返す様になったのだ。彼らの世界観にとって無謬の前提は「(何とかというユーチューバー)が言っていたから正しい」であり、これについて何の疑いもいだかない。当然ながら、かれらは、倭チューバーについて何も知らないに等しい海外の様子など全く知らない。知るつもりも関心もない。それほど一般に知能が高くないからだ。寧ろそれら倭チューブ界の主流あるいはそれを補完する学閥位階制に反する意見の持ち主を、SNSや現実社会中にあふれながら、不当なぬれぎぬで全否定し、猛烈に攻撃し続けている。なぜならかれらにとってこの作業は、全体が同世代中心の国民社会主義的な宗教儀式――いわば倭チューブ教であり、すなわちインフルエンサー教義への集団狂気的な絶対服従だからである。
ツイッターに群れ、匿名で日々誹謗をおこないながら集団虐殺をくり返す人々は、斯くして倫理崩壊していたIT黎明期世代から、マーケティング上の搾取標的としてはぐくまれたのである。
なお、賠償金30億円以上の人的被害をもたらしつつそれを踏み倒し続けている無法者ひろゆきの仕切る2ch・5ch・4ch・8chや、そのまとめサイトが、これらとりかえしのつかない国民匿名暴徒化の病巣になっていたのは確かである。ヤフーコメントやはてな匿名ダイアリーなども進んでそれら匿名犯罪国家づくりに共謀していたのが事実であった。のちIT担当相になった自民党員・平井卓也自身が犯罪に使ったニコニコ動画の匿名コメント弾幕も、みたび、ひろゆき張本人が発案・関与してつくったしくみであることを我々は忘れてはならないだろう。
ウィキペディアの内情
ウィキペディアはその語族の集合的無知を示す悪い見本である。
そこでは正しい意見が独自研究あつかいで排除され、なんらかの多数派に訴える論証で誤った意見がより優遇され、なおかつ無批判な孫引きで補完されていく。しかも、これらが真実味を帯びた媒体の体裁で飾られ、公然と公共に掲示されるので、多くの人々を誤解させる。こうして単に疎かで誤った編集方針によっているばかりか、多かれ少なかれ悪意ある編集者集団によって、たちの悪い陰謀論(つまり程あれ、ウィキペディア上の記事の殆ど)が大規模に頒布される。
ウィキペディアを信じている人は何度も地獄を見る筈だ。それは陰険な匿名の素人編集者らが内部でおこなっている卑しい排他政治の内情をつぶさにみていれば、誰でも分かる事にすぎないが。
世代ごとの反省点、社会実験の失敗
不幸な時代しか作れなかった人々は、寿命や死で世代交代の役に立つ。不徳な人々は世の悪例であり、何が誤った行いか教える為のピエロである。
全ての世代はなんらかの点でこのたぐいの失敗を含んでいる。実証史を小説と分けて学ばない者は、自ら前世代と同じ過ちをくり返すばかりか、必然に社会を進歩させることができない。
温故知新を軽くみて何か立派な功績を成せると信じる愚者は、自分が先祖と同じ遺伝子からできていると知らない。
亡びるべくして亡びた国
東京人一般は、高が千万しかいない民衆を、幼稚な漫画やアニメ、ゲームで教育しようとした。結果、次世代は弱知化し、都政は著しく暗愚な有様となって、正に漫画の様になった。
困ったのはこの都政に公害をうけている東日本の諸県で、最初に福島が犠牲になった。
東京は日々周辺自治体に禍を為しながら、自分達こそ頂点であり、覇権であるという自文化中心の中華思想を決してぬけだせない。最も無知な者は最も傲慢だからである。
中部・北陸・四国・九州人や関西人は、仙台人や北海道人、或いは外人ともども、なぜかこの最悪の首都に憧れていた。遠くから見る東京は、つくりごとのテレビの中の光景の様で、しかもそれらの撮影はよく周辺の県で行われているなど少しもしらない彼らは、東京こそ理想の都市だと信じていたのだ。
この間抜けな国は亡びるべくして亡びたのである。
西洋主義者は啓蒙できないほど愚かしい
私は啓蒙が不可能ということをくり返し経験した。人間の愚かさが途中で変化しないのをみた。生まれつき愚かな人が典型的学歴をえていてもそのまま、愚かで救いがなかった。
生後変わる範囲の一般知能指数など、生まれつきの差に比べれば大したものではない。勿論、IQ自体が、賢さにとっては陸に意味をなさないのだが。コンピュータの汎用部品に生まれつき差があっても、使いかた次第でより優れた為事ができる様、寧ろこの使いかたの方が主体的な賢さと関係していた。私はIQが知的障害すれすれに低いとされている人の方がメンサ会員より遥かに良い倫理的判断をする場面を何度もみた。
啓蒙が可能だという進歩史観によっていた福沢諭吉は、拭い去れない傲慢さによる愚民観、偏見にすぎない欧米崇拝の西洋主義、アジアやハワイ蔑視の浅はかで表面的な文化観、余りに先を急きすぎ環境や人らしい暮らしを破壊する近代文明への狂信、彼自身の野蛮さの証に過ぎない植民地獲得目的での侵略戦争礼賛などによって、他の啓蒙思想家より一層おろかしかった。
第一かれは輸入学者で、当時としてはその稼業が軽薄な明治人大衆向けにはまったのだろうが、巨視的にみれば単なる出羽守流の文化盗用で、近代化と根本的に無関係な筈の西洋化、つまり、異文化弾圧をもたらしたに過ぎなかった。脱亜入欧の観念論を含む薩長藩閥的な発狂、いいかえれば皇民化のおしつけを含む日帝主義的なものがどれほど、その後の人類をおろかで、醜悪な有様にしていったことか。
今もこの人道を破壊しようとする悪意ある暴力は、野卑な西軍が自称天皇の大量殺人鬼ともども牛耳った国政から続けられている。
米軍が彼らの権勢欲含む俗心を操って、日本文明を対中・対朝鮮・対ロシア戦略の盾に利用しているのも確かである。だが西洋主義に耽る余り自分達がでくにされている事に無自覚な愚官愚皇が、明治維新と称する寡頭的な恐怖政治のつくりのまま、いまだに不埒な暴政に耽っているのはなんの留保もなく、ただひたすら救いがない。
2021年5月10日
米国独立宣言は虚構により作られている
手段としての人権は、目的としてのそれとは異なる。
第一に、人々はうまれつき大幅に違うので、普遍的基盤の様なものは心・思想・信仰の次元ではないと考えていいだろう。
例えば幕末抗争を巡って薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)や京都・広島の中では権謀術数的な侵略主義が正義だと信じられており、それはこれらの自治体の構成員が、伝統的・集合的に異質な他人への思いやりが一定より低い集団であることを意味している。彼らに彼らの狡猾な悪意からの侵略被害者への同情の念などはどこまでも期待できない。そして彼らは固有の傲慢さの為、自分達を上位者だとか文明側だとみなし、常々、中華思想的な世界観や自文化中心主義に耽りがちでもある。彼らへ強制力によって啓蒙教育を施したところで行状改善は著しく困難であり、未来に渡っても同じ程の悪意を常識と考えている筈だ。
全く同じ事は全ての人々にあてはまる。また単なる日本国内ですら未来永劫この有様なので、生活基盤が大幅に異なるので原理的により意見の多様性が高いとみなせる全人類が、全ての面で互いにわかりあう事は事実上、不可能といってもいい。国連の条約などで一部の価値観が共有できているのは、各集団にとって必要最小限度の部分に限られていると考えていいだろう。
第二に、人々はしばしば他人に悪意をもっているので、他人を目的と考えている人はよく裏切られる。
人格に関してのカント思想(人格主義。他人を常に目的として扱うべし)とマキャベリ思想(権術主義。目的の為に他人を手段として利用すべし)が対極的なものとすると、前者が理想的な秩序であれば、後者が現実的な秩序といってもさほど間違ってはいない。人類一般にカントと同じ考え方や性格を持つ人がいれば、確実に人類の日常に絶望し極度の人間嫌いになっていなければならない。人格主義者にとっては、余りに普段接する全人類が帯びている現実の人間性が邪悪すぎると感じられるので、もはやごく一部の例外的な聖人を除けば、彼らにどんな人権を与えるのも行きすぎではないかと思えてくるほどだ。これは近代文明の中で自称先進国と言っている国々で、特に商業化がみられる地域、すなわち都市部ほどますます人間全般が邪悪になっている事実――犯罪率・犯罪数の高さ、公害による金儲けのごり押しや、搾取による格差、つまり実質的な差別の蔓延など――を確かめられるからであり、しかもその様な国々、都会人一般が却って自分達こそ模範だと嘯いているのをみると、神格を持つ者が彼らを今すぐ滅ぼさない方がむしろ疑問になってくる。科学主義的無神論者が最大勢力であらゆる良識を破壊している場は、十分に完成された野蛮と何の違いもない筈なのだが。
こうして普遍的な協約は、一種の空想として試みられるにすぎず、どこまでいってもそれは真に普遍的に、つまり、どこでも誰にでも当てはまる様になりはしないだろう。
人権はこうして理想と現実、両明暗に照らしてみれば、飽くまで手段たる国際政治上の手立てだとみなしていい筈だ。逆に、カント思想での人格主義は、ある種の信仰としてのみ認められるものなのである。この信仰を持つ者は苦難を経る。だが立派な信仰を持っている人の方が、単なる狡知に耽る獣のそれより、人として望ましい一生なのも確かである。
我々は人権が自明の前提とみなす枠組みを近代文明の中で教え込まれている。このため余りにこの現実に反する場面にあうと驚き、混乱してしまう。本当は、人なるものに権利などないのだ。自然権――神がうまれつき人に与えた権利など、この世にはない。米国独立宣言はこの幻想の上に築かれた砂上の楼閣、きわめて脆い作り物である。
反知性主義者には受け入れがたい事とはいえ、弱知化(dumbling down)されていない思考は表現をどれほど単純化しても必ずしも誰もに単純なものだけではない
自分はツイッター民がかなりの悪意のある感じで、短文狂特有の文脈――自分達のおそろしいばかりの愚かさを阿Qの様に合理化する説――で、決まり文句の如く無意味にそしってくるまで、単純化一般と抽出を混同させる類の言辞をそこまで疑っていなかった。
確かに深い思索をしているとき余りに物事が複雑化しすぎると整理のため論点を絞って単純化する場合がある。だがこれは思考術の一部にある技法に過ぎない。
あるいはまたある時アメーバピグに、或る女が自分の開いていた哲学部に連れてきた、余り利口そうではない男がくるや、自分にこう言った。
「自分は複雑な事を複雑なまま考えたい」
これはその男が、そこで行われている議論の質が低いとみなしその場の皆を婉曲的にそしる目的で言った言葉だったのだが、自分は彼の言いたい事自体に余り根拠を持った反論・肯定・容認論の類をその場では作り出さず、そうか、という感じで放置していたらその男は消えたのだが、いわばツイッター民の逆の類型の言辞でもやはり何事かを誹謗できるのである。
そのときたまたま部室にいた人々は、常連の中でも確かにあまり深く思考するタイプの人々ではなく、我々は雑談をしていたため、その男が学園思想に近い内容のやりとりが行われていない瞬間へ偶然きて、一度で臆断する時点で愚劣なのだと私は当然気づいていたが、飽くまで相手は年少者だったのもあって、子供っぽい世間知らずでそんなものかと適当にみなしていたのだが、今にして考えるとあの男は悪意があった。
複雑な事を複雑なままとか、複雑な事を単純にとか、単純な事を複雑にとか、単純な事を単純なままとか、我々はそんな事を誰も気にしていなかった。会話がそれらのどの型でも自由で、当然ありえただろう。哲学的対話をかなりの頻度でしていくなかで、これらは問題やその解決過程と特に何の関係もなかった。
だとすれば、ツイッター短文主義者の言いたい事は
「我々の愚かさに最適化表現を使ってくれ。我々は馬鹿だがなおかつ怠惰で傲慢なのだ」
だけだろうし、つまりはここでは悪い意味で無教養で、かつ浅はかな者特有の、ねたみ混じりで相当ひねくれ、しかも疲れ切ったざれごとの様な言いぶりだが、上記の複雑主義の男の言いたい事はむしろその逆の極端で
「俺様はお前たちバカにつきあうほど暇ではない。なぜなら俺様はもっと複雑な事が考えられるほど凄く賢いのだ」
と、より純然たる高慢さの表現でしかなかった。不知の自覚による哲学以前の話である。
複雑な思考もあれば単純な思考もあるし、これらと衒学には特に関係がない。今の私が知っているのはそういうことだ。
通常、衒学狂は単に計算でみる限りろくな結果が出ていないので、それより複雑な思考のできる側からみればポンコツな偽物に過ぎない。わざわざ遠回りしていれば計算自体も遅くなるし(いわゆる婉曲を除く回りくどさ)、途中がどれほど巧言令色にみえても一種の遊びで、読解力が高いとそれらの修辞を分解できてしまうので、世人を欺く事はできても哲人を騙すことはなんらできていない。
厄介なのは読解力が低いため低品質な抽出で物事を単純化したつもりになっている人だが、彼らは言語的に稚拙にしか物を捉えられないと考えていいだろう。原著にあたらず解説書や又聞きで知ったつもりになっている人々が凡そここに該当する筈である。
実際自分はツイッター民へわざと複雑な表現を使ったわけでもないし、却って世間平均並に汎用表現していたのに、それに「複雑すぎる」と文句をつける人々は、そもそも私より単純思考に慣れているだけのことだろう。多分もう二度と参加しないだろうが、ツイッターで言説した場合、誰でも読める場なので、私はわざと複雑にもわざと簡単にも書いていなかった。何度もこのブログでこの問題について考えてきた通り、これらは脳という競走(コンピューティング)が扱える言語的な計算量の問題で、文体の簡素さの問題ではないのである。プログラミング言語(ここでは文体、言葉遣い)の種類がどうあれ計算量やその速度の方についてこれないと、衒学や俗物主義と勘違いし、なおかつ相手を愚かなことにしたて自己正当化してしまう人がツイッター民にだけ余りに多い。私はこの種の短文狂にツイッター以外では一度もお目にかかった事がないので、彼らの特徴は衆愚化への向きとはいえ全世界でもかなり希な変異だと思われる。自分の知るかぎり一度も接触しないで済めばそれにこしたことはない連中なのだが。
他人にどんな表現を使うべきかはその場で変わるもので、私が典型的な匿名衆愚として嫌悪するツイッターの短文狂へ敢えて親切にする理由などどこにもないだろう。愚者や悪人に好かれるのは賢者や善人に嫌われるのと同じくらいかそれ以上に悪い筈なのだから。
中世に渡来人の移民都市としてできて以来、華夷秩序観による全国差別の文化を持つ京都への文化庁移転、および、二重権力による大内乱の原因になった皇族の政治利用は、国の良識として即時かつ永久に断固拒絶すべし
普段から一般的日本人を「田舎者」と言って具体的直接的に差別してきたのは京都府民・京都市民一般や、一部の南関東人、及び、仙台や名古屋などの自称都会人らに限られる。つまりこれらの地域自治体は中華思想を中古代に中国からまね、以後そのままの意識でいる地域差別主義者らを相当の色濃さで含んでいるのであり、彼らの文化慣習が少しも尊ばれる理由などない。よって文化庁の京都移転は完全に停止し、それら日本全体を京都から謎の上から目線で蔑視する、卑しい自文化中心主義による差別の文化が、中央政府の手で罪なき民衆へおしつけられるのを断固として防止しなければならない。
仮に京都へ文化庁が一時とはいえ移転すれば、その省庁には一切従わず、全国民としてなんの敬意も払わない事、あらゆる命令・勧告を極力無視する事こそ、彼らの傲慢な差別から日本人全員が救われる唯一の道となるであろう。
同様に上皇・皇族の京都移住を求めている京都市長・門川大作氏は、国政の権能を持たない皇族の政治利用を公然と行う純然たる佞臣であり、皇室の権威を背景に、全国へ専制体制を敷こうとしているのが明らかで、これが中世以来永らく続いた数多の大内乱、戦国期・南北朝期の原因になった二重権力の根源因である限り、憲法で制度化され政府の中にいる皇室を二か所へ分散させるべきではない。
この門川氏による時代錯誤な陰謀も、全国民は中世退行の蛮行とみぬき、批判的に団結、断固として最悪の公武分裂の再来を拒絶しなければならない。
文化と称するまやかし
「文化的」「文化」という言葉は大概、何かの権威づけのまやかしに使われる。人類の活動は全て文化でそれらに上下などない。侵略者や中華主義者(京都主義者、東京主義者、都会崇拝者、大都市信者、都心信者、皇室信者、西洋中心主義者、イギリス帝国主義者など)は、文化或いはサブカルチャーというどうとでも受けとれる概念をもとに他人を差別するが、つまりは自集団ひいきの妄想的自己愛に耽る愚物なだけである。
匿名犯罪教唆者の末路
ひろゆき没後、ネットは大幅に良い場所になるだろう。匿名の仮面で世界中を荒らしているダークテトラド(闇の4性格)の存在が世界を匿名衆愚の場にしたてあげ、陰鬱にしている。悪魔どもへの犯罪教唆で金儲けや売名をしていた者には、破滅よりもっと酷い罰が与えられるに違いない。
同時代中心主義者は時間的な中華思想の持ち主
時代中心主義によって自己中心に判断する人は、空間のみならず時間についても中華思想を持っている愚物である。近代より古代を低い価値あるいは未開と見なしている人は、未来や過去から近代がそう見える面があってもそうと気づかない。これは自己愛妄想の一種なのだ。
弥生時代は縄文時代の平和で文化的な社会を、渡来系蛮族が悪意ある暴力とケチさで破壊した面がある。だがこれを何の留保もなく進歩と考えている人は、中世よりも近世を、近世よりも近代を何らかの合理化・言い訳で、より価値が高い文明化に違いないと思い込んでいる。ある面で人やその文化的習癖は大幅に退化しうるのだし、それは特定地域に留まる事ではない。
京都市民一般は中世移民として自分達を中華思想で日本や世界の上位者扱いしてきているが、その種の差別思想をもっていない地帯からみれば、彼らこそ常に野蛮だったのだし、世界自由文化都市宣言以後の京都市単位で自文化中心主義に耽る今でもやはりそうなのだ。
主観という人の猿さ
ある人が複雑だと思うものは、別の人には単純である――人には単純なものが猿には複雑かもしれない様に。しかし一部の愚者は、自分が複雑だと思うものを他人も複雑だと感じているに違いない、という自己中心性で物を見ている。この種の猿性、猿らしさ、猿さは、人が自分の主観を超えて複雑性・単純性を認知できないことを示しているのではないか。
2021年5月9日
都会が汚れの原因
天下の悪例、東洋主義の色眼鏡
欧米人達は通例、『平家物語』という傑作がすぐ隣にあるのに、『源氏物語』なる世紀の駄作を日本文学の古典だと思い込んでいる。彼らは軽蔑すべき人間だ。これは完全に東洋主義の色眼鏡によっているからだ。
アジアを民族・種族主義的に劣等視したがる悪意を無意識に持ち、中世に一時興隆した西洋を永遠の文化帝国と信じている彼らには、日本人なるものが女々しく、虫けらの如く性奴隷視し易い存在である方が、雄々しく気高い武士道の描写より、通常、心地よいのである。
本居宣長や小林秀雄、茂木健一郎まで、この種の自堕落な腐敗政治下の京都かぶれに違いない。そこには天下の悪例という以外、何も参考に足る部分はない。
尤も彼らが『平家物語』の真価に気づいてからも、その評価には同じ色眼鏡をかけ蛮族の様子と言いたがるだけだろうが。愚か者、卑しい者はどこまで行ってもそうなので、人間性について何も期待できないといいかえた方がいいだろう。勿論かれらに文学など何もわからないのだ。
そこまで日本語が読めていない人々から賞を貰ったので権威と思っている連中は、全員、古今東西の全文学に通じていないと確信していいだろう。どの言語であれ文字が読める人には分かる事が彼らには分からないのだから。
なぜ博士の殆どが一般に暗愚で無能なのか、学園思想の致命的欠陥について
制度上の賢い博士がまず見当たらないのは、第一に専門知を得る人的費用は一般知や世知への割り振りに逆らう場面が多いのに加え、第二にこの専門知が当時の学園思想で毒された三流のしろものだからである。
希に専門知でもそれなりの資質の持ち主がいても、その人が博士というだけでより一層、言動の信用性が薄くなる。その人はこの分野について、肩書を得るだけで満足してしまっていることが多いからだ。
学園思想の欠点を知っている側に、学位は悉く意味を為さない。単純に、ある分野について専門知を確かめる能力がない人々が、これらの詐欺に騙されて過ごしている間、この肩書商売が続いているだけなのが信号理論の実態だ。或る知識について、博士号程度が上限だと思っている人々は、何かについて専門性を一定より高めたことがないだけである。
無論、この学園思想の枠内にある特定の認識について、それに関する博士号の持ち主が素人よりは詳しいかもしれない程度のことはいえるにしても、それは賢さ一般でもなければ、汎用的な学習歴と関係しているとも限らない。院試があった場合を含め、博士課程までの教育は専攻性が甚だしいのが普通で、自作なのを前提にした博士論文自体も、特定の専攻の一部に関することしか元々証左していないからである。
世間は博士全般の知的水準を一般に、過度に高く見積もりがちなので、「先生」と呼ばれ無駄に敬意を示されるとこの虚栄心に耽って、ますます博士らは怠惰で、驕慢な愚物になりがちだ。その人物が劣っているので大学や学会の内政は腐敗し易く、尊敬すべき人がいない協会は馬乗り目的の世俗政治の場となる。これらの場で、誰一人つきあうに足る人物が見つからないのは、通常、今日までに広がっている学園思想の構造が最初から抱えている根本的落ち度によっている。
多少なりとも知的な人が近づくべきではない場としてミルは『自伝』で社交場を挙げているが、同じことは一定より大学自体や学会政治にもあてはまるに違いない。賞に関わる事柄などは、全て虚飾にしかなりえないだろう。学術的価値は多数決で決める限り絶対に正しい結果をもたらさず、それというのも当時の愚物ら、すなわち博士ら虚名を掲げた凡愚の間での人気を示すにすぎないのだから。それが陸なものではないのは自明であろう。
これらの教育・研究組織は、プラトンがアテネ校外アカデモスの神域に砦を作った最初から、誤った目的で作られているのだ。だから彼の師ソクラテスら優れた哲人が学園を軽蔑しその外にいて何か立派な業績を挙げているとすれば、尤もなことで、いわば当然ともいえるのだ。プラトンがやろうとしていたのは全体結束主義の典型といえる今日の目では凡そ失敗すること確実な、旧日本軍人やナチストの様な理想的国家公務員の育成にすぎなかった――事実としてアリストテレスの様な別目的の本の虫の類は、学校図書館への書物の収集が原因なのだろうが副産物で生まれたにせよ、プラトンの目的は愛国ファシスト生成装置を超えたものではなかったのに、これを範型とした全学園・学校は、硬直化した徒弟制度で自由な議論を妨げてしまうのだから。教員と生徒は、生徒の方が物知り又は賢ければ決してなりたたないのだが、その様ないつでも起きている状態に対応できない学園では、大いに誤りを含む単なる既定知識の植えつけや、陳腐で卑小な地位の誇示が行われるにすぎず、どこまでも才能の芽を摘む心身への拷問でしかない。学会なるものも質こそあれ構図は同じである。
賢明な子が学校を嫌い、そこに通わせられるのを拒絶しているのを見ると、彼らが正しく学術の本質を見抜いていると知っている側からすれば、学校信者の世人がいかに陋習に弱く愚昧な存在か、漏れなく全員とはいわないものの、無意味な制度に寄生し食い繋ぐつもりの博士ら一般の間抜けで凶悪な実態ごと呆れるしかない。
この学園思想なる邪宗は遠からず亡び去るだろうが、その後も人類以後の何者かが似た様な過ちをくり返しているなら、その集団からはなるだけ早く離れるべきだろう。
インターネット上の悪魔辞典
ウィキペディアは人類をより愚かで、惨めにした。人々は誤解や悪意ある嘘をたやすく信じ込む様になり、何かをより知ったかぶる様になったからだ。
この装置がなるだけ早く亡び去れば、その文明圏ではより賢明な人間をうみだすよすがとなるだろう。ウィキペディアは純然たる文化的悪である。
性差別の男系論者
2021年5月8日
無視すべき対象、下衆
下衆は他人の才能を貶して駄目にしようとする。彼らは他人をねたみ、己と同列の人間にひきさげようとする。
下衆を無視して生きている者だけが、なんらかの才能を生かし、世に貢献している。
下衆は大概に於いて匿名を好んで用い、名を遺すこともなく産まれて生きて死ぬ。彼らは人の中の雑魚である。
神の目的
恋愛観の違い
誰かに恋をする才能がない者は、無味乾燥な人生を送る。惚れ易い人は劇的で心休まる暇のない人生を送る。どちらでもない人は哺乳類の如く生きている。
清冽な恋愛詩や清廉な恋物語を気持ち悪いと評する無粋な物理屋は、この世を物質の集まりだと信じている。物事を余りにまったいらに捉えすぎているので、それらの複雑で、奇跡的な配列の方には少しも感受性がないのである。
売名屋、インフルエンサーの正体
下らない事で売名している人は、当人が恥を知らないか、名声を求める虚栄心が激しいか、どちらかである。
徳や手柄以外で名を得ても、それはどれもが虚名である。虚名は滅金であり、時と共に剥がれ落ち、あとかたもなくなってしまう。
他人と協力してはならない人
天分のある人は、それを自ら活かす為に他人からの影響を避けなければならない。
私は過去全ての場面で、他人からの影響を受けている条件下で、自分の天稟が害されるのを感じた。そしてそれらは自ら何とか避けなければならない事だった。
優しさの歌
世界史の正義
男女差別(性別主義)、身分差別、人種差別、門地差別(生まれや家柄による差別)、地域差別(田舎差別)を克服し、思想・信仰・良心の自由を政教分離の共和国政府と共に確立した文明に比べ、ありとあらゆる差別の病根である自称天皇を象徴と崇め奉り、衆愚と共に拝み倒しつつ、思想・信仰・良心の自由を侵害しまくる政教未分離の皇室政府を擁する蛮族は、なるほど、世界史が前者に軍配を挙げなければどんな道理も通らなくなるはずだ。
自由を蔑視する無責任な天皇制ファシズム(天皇結束主義)によっていた旧日本軍が負け、世界史から除去されたのは正義の結果であった。
同じく天皇家及び全宮家が滅亡するのは、やはり世界史の正義の結果となるだろう。
自由を享受し責任を放棄する無法者
表現の自由と、誹謗中傷・名誉毀損を混同し、自由に伴う責任を負わずに済ませているひろゆき一味は、純然たる無法者で、人権を寸分も理解していない。その様な重罪人一味を捕まえずに放置している国は法治が成立していない。
学識と人格
よく学んだ者と、殆ど学ばなかった者とが、通例、同じ末路に至る事はない。
学歴と学識は余り関係がない。学位と学力も余り関係がない。これらが厳密に相関或いは比例していると考えている人は、余り学んだ事がない人である。
学識は道徳に求まる。学識が人格を作るのに却って悪い影響をもたらしている様な場合、その人は学んだ事で堕落したのだ。
野蛮な渡来人由来の陋習
関西、東京、薩長土肥の蛮族は日本を男尊女卑の国だと思っている。それで中華皇帝を模して天皇と自称した一味――愚民洗脳目的の神道と名づけた奈良発・大量殺人カルト教祖――を、男系男子による万世一系の絶対者と崇めている。
だがそれは彼ら中古代に入ってきた野卑な移民の間だけである。元来、日本は母系社会で、身分差のない万人平等の共和国だったのだから。
後がない者
日本語圏のツイッターは恐ろしい馬鹿が群れ、匿名で死ぬほど威張り散らしていた。連日愚にもつかない言動をして誹謗や濡れ衣や集団虐殺ばかりしていた。世界に地獄という場所があるならそれはツイッターである。
2chを作った者には後がない。だが同じ事はツイッターにも全くあてはまるだろう。
愚か者は避けるべき対象
愚者と同じ次元で話す者は、第三者の目には愚者の一部に過ぎない。愚者の要求に愚者の為に応じる者は愚者とみなしてよいだろう。
人は自分より愚かな者に接して、満足に生きられるものではない。愚者の為に何かをするとしても、相手は自分が与えたものの10分の1も満足には受け取れないからだ。
一歩ずつの踵とその後の末路
人は一歩ずつ誤っていく。だが最初の一歩の時点で、全く別の方へ踵を返して置けば、その後の道が大幅に誤っていくことはない。
人が俗悪な者になってしまうのは、最初にめざした方向がおかしかったからである。
辿っている道がおかしいと気づいたなら、その時点で、すぐにでも埋没費を無視し、全く逆の道へ引き返さねばならない。さもなければ人は地獄に辿り着いてしまうのだから。
世界の悪例
差別的な身分制、宗教的位階制、人種・性・門地差別、大量殺人史や超法規的な絶対権力など、あらゆる悪意の結晶である天皇を中華皇帝のもどきとして捏造し、それを維持してきた関西地方の人々は純然たる蛮族だった。
そしてこの蛮族の長が、暴力的侵略を目的にした禍々しい薩長土肥の傀儡として東京にくるや、ますます悪徳に満ちた戦乱をもたらし、今現在も、差別の上で人々を貪り洗脳し続けている。
その様な劣悪な制度や邪教なしに生きていけないと抜かしている蛮族は、彼ら自身が世界の悪例なのである。
無知の檻
言語障害ではないにも関わらず短文しか読めない者は、思考の深度が浅い。そして複雑な物事を理解できない。
そういう知能特性の者が、自分の浅はかさを正当化する決まり文句として必ずいうのが「賢者は誰でも分かる様に書く」なる、ツイッターの一部で流布する謬説である。そしてこの考えでいる者は、半永久的に自分の無知の檻を抜け出ることができない。
2021年5月7日
なぜ日本では外道が称賛されているか?
日本国では品性下劣な人間が称賛されている。それはこの国民一般がやはりそれ以下の品性だからである。
鹿児島や山口、高知、佐賀では、反社会テロリスト(元勲や死の商人・坂本龍馬ら)が英雄視されている。それはこれらの集団では、それ以下の道徳心しか持ち合わせていないからである。
京都や三重では姦淫小説家(紫式部)や彼女を褒める批評屋(本居宣長)、差別的言辞を書いた随筆家(清少納言)が礼賛されている。それはこれらの自治体の平均的性状では、それ以下の品性しか持ち合わせないからである。
東京圏では精神病質じみた拝金成金や、学閥主義的で強欲な馬乗りキャラクター芸人(テレビ・チューブ芸人、インフルエンサーら)が、大量殺人鬼の邪教祖一味(皇室)と共に、社会の上位者扱いされている。それはこの圏域に生きる人々の平均的な人生観が、制度を乱用した金権政治を目指す根っから俗悪なたちだからである。
科学教育、宗教教育、哲学教育をおもにとる国々の比較文化論
科学者にはろくな人間がいない。数学や自然科学を中心に教育している社会が、極めて住みづらい世の中になるのは因果である。これらは他人を自分の為に利用しようとする利己主義者にさらに力を与えるにすぎず、精神病質性の高い人間が社会を専横する状態を呼び起こすからだ。
時代と共にこの様な国々では頽廃が進み、最後には、社会的不平等への内乱、無制限で無謀な侵略などによる外乱、その他で分解されるだろう。
哲学なる態度を幅広く教えている国々は全体でも本の一部に該当し、現時点では、自分の知る限りフランス位である。ほか、殆どの国々は、科学や宗教で教化している。科学を中心とした国が上記の如く世界の反面教師になるのは必定として、宗教で民衆を指導できると考えている国々は、別の形で深刻に失敗し易いだろう。それは宗教が迷信を呼ぶものだからである。
宗教を中心とした国々の末路は迷妄であり、判断ミスであり、それらを伴う必然の滅亡である。日本国がそのいい例だろう。そこで象徴なる名義で絶対権力を握っているのは大量殺人や贅沢三昧を常態とする純然たる邪教祖(現時点では天皇)であり、彼らに洗脳されきった狂信者らが国内で支配権を握っている。この様な宗教国家は悉く迷信で物をみるので、最終的には科学的真実を軽侮し、或いは現実味のある善政を行えない。
第一世界と呼ばれていた国々の中にもそれほど酷い状況の集団がいて、決してより上位になる国々より合理的もしくは人道的に高い性状を示すことができない。ある宗教には、時代と共に変わっていく新たな状況での現実感や、超時代的な普遍性が欠けているからである。例えば現時点の日本国は、そこで絶対権力を握っている天皇を教祖とする神道の教義により、身分制、世襲制、性別主義や種族主義による門地差別の陋習を決して、ぬけだせないだろう。宗教による教化を前提にする国々には、決して越えられない埒があるのだ。政教分離を前提としている国々は既に、とうにその向こう側で、思想史の一部として宗教学ならびに宗教という過去の文化を扱っているのだが、彼らは永久に、この中世的な迷妄状態から抜け出せないのである。
ある時代が新たに置かれた状況で、また新たに最善の道徳を作り出し得るのは、唯一、哲学と呼ばれる対話術を中心にした活動で、この様な教育のもとに、ほか全ての学術を整理して教えている国々でのみ、次世代はふさわしく未来についていくことができるだろう。
蛮族の逸話
関西人や東京人は余りに野蛮だったので、差別目的の制度を作り、維持していた。
それを利用して自分達が成り上がろうとした薩長土肥の蛮族が、欧米人の侵略犯罪をまねた。こうして天皇と称する紛い物の大量殺人鬼が、関西から東京に連れてこられた。
この大量殺人鬼は余りに愚かだったので自分達が重大な人権侵害者、人道に対する罪人だとは終ぞ気づかず、人々から大量の税金を貪ってくらしていた。そして自分達は特別な人間で、絶対にその地位は揺らぎえないと自分で自分を洗脳していた。
この愚劣な国は遂に傾き始めた。頽廃的な暮らしがいつまでも続くことはあり得ない。
関西人や東京人は群れながら必死でその腐った体制を維持しようと、男尊女卑や人種差別をくり返し世界に恥を売り続けた。彼らは単純に野蛮なので、そして野蛮すぎるがゆえ傲慢なので、絶対に自分達のやっている蛮行が最悪の振舞いだと知りえなかった。こうして関西人や東京人は薩長土肥と共に滅亡してしまった。
人類は言った。彼らは蛮族だったのだと。
2021年5月6日
亡びなければならない国
2021年5月5日
権術主義集団への対策
愚かで、かつ、悪意ある集団は、果てしなく公害をまきちらすだろう。中華思想及び小中華思想を帯びている集団(例えば中世から現代までの京都市・京都府)、侵略や搾取を正当化している集団(例えば幕末から現代までの薩長土肥や、東京都)は、確実にこの分類に入る。
この種の集団は様々な方法で具体的制裁をくり返し、究極では解体する事でしかその害悪を防げない。
愚か者の習癖
愚か者は相手が自分と近い程度の知能だと賢いとみなしたがる。そして他人が自分に都合がいい場合に賢さと表現する。この為つねづね詐欺に遭っており、さもしい。
愚か者は肩書で人を見ており、人自身を評価できない。
数学や理科を専攻し、かつ、それらより人文学を軽視している人々は、一般に反社会的である。
愚か者は年齢で人の本質的賢愚や尊卑あるいは感性が変わると思っている(年齢主義に固執)。この為、年少者・年長者・同年代をそれだけで持ち上げたり見下げたりしている。
不徳な行いで長者になった者の末路は惨めである。
2021年5月4日
売春防止法を不本意の売春へ駆り立てられている被害者救済・仲介並びに強要加害者可罰の形へ改正する案。かつ、生活保護水際作戦の禁止と厳罰案
売春防止法を、「不本意の売春(主体的な選択によらず、生活困窮で他に選択肢がない、或いは仲介者や買い手に強要されているなど、やむを得ず行う行為)」のみに違法(売り手としての被害者救済、仲介者としての加害者可罰)の範囲を狭めることで、おもに大都市部などで、現に数十万人以上*1の単位で存在するばかりか、都政に全く取り締まられていないに等しい性産業従事者へ、人権を与えることが必要だ。
生活困窮者が増えている現時点で、本意ではない売春が行われうる状況である限り、生活保護を国民の権利に反して出し渋る腐敗行政との関係で、既存の半強制的かつ違法の悪徳業者がますます力を持って行っている事が予想されるからだ。
また、生活困窮者が現に生活保護を要求しているのにこれを出し渋っている行政については、これに携わった公務員へ全国一律で厳罰を施す新法制が必要である。
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*1 門倉貴史『公式統計に現れない隠れた副業の規模と実態』日本労働研究雑誌、2006年7月号(No.552)、独立行政法人 労働政策研究・研修機構
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2006/07/
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2006/07/pdf/026-033.pdf
詩のわからない人
詩のわからない人は、事実、その様な感受性に欠けているのだ。その人の生活の要素には、詩的なものがない。無味乾燥で感動と言っても表面的だ。そもそも彼らは殆ど感激しない。
どれほど荒廃した社会にも生きている人はいるが、その人達は詩的感情を完全に失っているか、やむを得ず、或いは進んで閉ざしているのでなければ、周りを埋め尽くす醜悪なもののうちで苦しみ、生活できない。
情感に欠けた人がつまらない人なのは確かで、その人が性悪で皮肉屋な時、その下品さは絶対的になる。他人を傷つけケラケラ笑っている人々はこの種の共感性が全くないか、あったとしても乱用する癖がついているのだ。
2021年5月3日
2021年5月2日
よい社会、悪い社会
卑しい人々が繁殖し、尊い人々が数を減らしていく社会は、時を経るごとにより悪くなっていく。その様な社会は退廃している。
ある社会で誰が繁栄しているかを見れば、その社会で生きるべきかが分かる。
子供は神にあらず
子供は必ずしも尊い心の持ち主ではない。
卑しい子供は白紙にそう書かれたからなのか、それとも、周りの卑しい大人や社会の影響なのかは定かではないにせよ、確かにいる。
子供を一様に神の如く奉る人々は、大人までの過程もやはり、その種の経験の蓄積だと知らないだけだろう。
京と名乗りし移民地区
京都市長門川大作皇族を政治利用し国体分解
文化庁移動させては全国を中華思想で見下す京都人
長安を模して作りし移民地区新参者がでかいつらする
わが町は数万年の歴史ありあの山奥は京と名乗りき