ある事柄の判断について、ごく愚かな人はごく賢い人と同じ国に共存できない。
それは非人道的な侵略主義者(例えば吉田松陰、伊藤博文や三浦梧楼ら)とか、不埒な姦淫小説の書き手(例えば紫式部ら)とかが、英雄や女傑の如く仰がれてきている地域(ここでは山口県や京都府)が現にあるのだと、別の地域の人にはたやすく信じられないのと似ている。
その様ないろいろな奇習、ただし当人達には常識が特定の集団には現にあるが、我々は通常それらすべてを容認できない。なぜなら別の人にとってそれらは禁忌だからである。例えば悪意による他国の乗っ取りやその為の殺害、或いは不道徳な性行為のあからさまな美化などは単に悪辣で下品に感じられるだけでなく、現に大抵の人々にとって憎むべき禁忌である。
ある文化で禁忌とされず、見事とされる仕業が、別の文化では最悪の行いである。
そして国柄次第で、これらの慣行の差は明らかに住み分けられている。
愚者一般は、他国で自国と同じ慣行が通用すると考え、自文化中心主義や中華思想に耽って差別的言動をふりまく。こういう人はその国の外では単なる蛮族である。
ごく愚かなら、異文化でのなんらかの禁忌を自国の中でも容認しないだろう。それは不寛容な国であり、ある宗教や信念へ弾圧的である。
ごく賢ければ、異文化の価値観を自文化のものと直接比較できないながら同等以上の意義が潜在的にありうるとみなす。それは寛容な国であり、ある宗教や信念へ包摂的である。
最も寛容な国は、文化相対主義や道徳相対主義によって成り立つわけではない。なぜなら全ての文化・道徳への判断保留は、最も愚かな者と同じ態度にすぎず、特に邪悪な傾向を持つ考え方に進捗を許してしまうからだ(優生学による特定種族の大量虐殺や、人種・性差別を含む神道の様な宗教の存続など)。最も寛容な国は、単に、複数の禁忌集にそれぞれの主張を認め、最も合理的な住み分けを促進するだけである(大量虐殺を罰したり防いだりしつつ、ナチや神道による国の乗っ取りを禁じ、以後も危険団体として監視するなど)。だがその様な国は、自分の信じない他の禁忌を認められない愚者にはごく住みづらく、結局、別の国へと分裂していくはずだ(ネオナチや、男系皇統信者はドイツや日本にそれ以上の生存余地がないことに不満だろう)。
こうして国あるいは集団ごとに、ある事柄の判断について大まかな賢愚が、国柄の差として別れていくのである。
世界史の中で、ある国がある事柄について賢愚の判断を示し、別の国が別の事柄についてそうなのは、今もいきのこっている人類の特定集団が全事柄に万能の賢い判断を永続的に示し得なかった証であり、結局、異国間の相互参照を通じてしか人たるものは異文化から学び、自分達の状況を改善していくことができない。それは山口県や京都府では、上記した様な異文化からの目線が入ってこなければ、かれらがあたまから信じている英雄や女傑らが、単なる悪党やろくでなしと評されるべき世界がある、しかも全人類でほとんどの世界がそちらに属すると、おそらく永久に知らないままなのと同じである。