2021年5月12日

国という仲間

ある国がしあわせな状態を作りえているのは、社会を構成する人々が、その為に必要な条件を備えているからだ。このため国によってしあわせのあり方も大幅に異なっている。
 ある国では決してしあわせになりえない人は、別の国ではあたり前にしあわせになれる。
 ある国の民衆や支配者がもっている考え方と肌が合わない人は、革命か亡命かどちらかでしかろくにしあわせになれそうにない。国とはこの様な、避けられない仲間なのである。

 立派な仲間とそうでない仲間がいて、立派な国とそうでない国がある。それは上品な美術と低俗な娯楽が、好みの根本から違っているのと似ている。
 都会人一般は下品な商業作品を立派な芸術だと信じている。そればかりか知りもせず田舎を卑俗な世界にちがいないと確証バイアスで思い込み、自文化中心主義で見下している。だがかれらはその都会の外の純朴で清らかな社会では、単に頽廃的で不幸きわまりない下衆である。
 天皇が万世一系だと胸を張って誇っている人は、税に寄生する世襲の大量殺人鬼から永久に差別される国民を不幸だと感じる自由な共和政の国々には、純然たる奴隷にしか見えない。