2021年5月10日

米国独立宣言は虚構により作られている

手段としての人権は、目的としてのそれとは異なる。

 第一に、人々はうまれつき大幅に違うので、普遍的基盤の様なものは心・思想・信仰の次元ではないと考えていいだろう。
 例えば幕末抗争を巡って薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)や京都・広島の中では権謀術数的な侵略主義が正義だと信じられており、それはこれらの自治体の構成員が、伝統的・集合的に異質な他人への思いやりが一定より低い集団であることを意味している。彼らに彼らの狡猾な悪意からの侵略被害者への同情の念などはどこまでも期待できない。そして彼らは固有の傲慢さの為、自分達を上位者だとか文明側だとみなし、常々、中華思想的な世界観や自文化中心主義に耽りがちでもある。彼らへ強制力によって啓蒙教育を施したところで行状改善は著しく困難であり、未来に渡っても同じ程の悪意を常識と考えている筈だ。
 全く同じ事は全ての人々にあてはまる。また単なる日本国内ですら未来永劫この有様なので、生活基盤が大幅に異なるので原理的により意見の多様性が高いとみなせる全人類が、全ての面で互いにわかりあう事は事実上、不可能といってもいい。国連の条約などで一部の価値観が共有できているのは、各集団にとって必要最小限度の部分に限られていると考えていいだろう。

 第二に、人々はしばしば他人に悪意をもっているので、他人を目的と考えている人はよく裏切られる。
 人格に関してのカント思想(人格主義。他人を常に目的として扱うべし)とマキャベリ思想(権術主義。目的の為に他人を手段として利用すべし)が対極的なものとすると、前者が理想的な秩序であれば、後者が現実的な秩序といってもさほど間違ってはいない。人類一般にカントと同じ考え方や性格を持つ人がいれば、確実に人類の日常に絶望し極度の人間嫌いになっていなければならない。人格主義者にとっては、余りに普段接する全人類が帯びている現実の人間性が邪悪すぎると感じられるので、もはやごく一部の例外的な聖人を除けば、彼らにどんな人権を与えるのも行きすぎではないかと思えてくるほどだ。これは近代文明の中で自称先進国と言っている国々で、特に商業化がみられる地域、すなわち都市部ほどますます人間全般が邪悪になっている事実――犯罪率・犯罪数の高さ、公害による金儲けのごり押しや、搾取による格差、つまり実質的な差別の蔓延など――を確かめられるからであり、しかもその様な国々、都会人一般が却って自分達こそ模範だと嘯いているのをみると、神格を持つ者が彼らを今すぐ滅ぼさない方がむしろ疑問になってくる。科学主義的無神論者が最大勢力であらゆる良識を破壊している場は、十分に完成された野蛮と何の違いもない筈なのだが。

 こうして普遍的な協約は、一種の空想として試みられるにすぎず、どこまでいってもそれは真に普遍的に、つまり、どこでも誰にでも当てはまる様になりはしないだろう。

 人権はこうして理想と現実、両明暗に照らしてみれば、飽くまで手段たる国際政治上の手立てだとみなしていい筈だ。逆に、カント思想での人格主義は、ある種の信仰としてのみ認められるものなのである。この信仰を持つ者は苦難を経る。だが立派な信仰を持っている人の方が、単なる狡知に耽る獣のそれより、人として望ましい一生なのも確かである。

 我々は人権が自明の前提とみなす枠組みを近代文明の中で教え込まれている。このため余りにこの現実に反する場面にあうと驚き、混乱してしまう。本当は、人なるものに権利などないのだ。自然権――神がうまれつき人に与えた権利など、この世にはない。米国独立宣言はこの幻想の上に築かれた砂上の楼閣、きわめて脆い作り物である。