2021年5月15日

啓蒙の根本限界としての倫理的無能の存在について

愚者は愚かな悩みを持っているが、そのほとんどはかれら自身には解けないなんらかのまやかしや、誤解の連鎖によっている、と客観的に観察できる。そして他人がそれを代わりに解いてあげても、当人の理解力がおいついてこないので、一体なにをいわれているのかわからないまま、かれらは悩み続けることが多い。
 これと似た様なことは、ある数学の理路が分からない生徒にあてはまる。第三者にそれがわかっているとき、一体かれらがなにをわからないといっているのかが見通せない。

 悩みのしくみは大抵その様になっているので、他人が他人の悩みを解くことは基本的にできない。そして愚かさとはこの種の悩みの集合体である。
 私が啓蒙は不可能とみなす様になったのは、この様なしくみが、あまねく不動なためだ。

 よりたちが悪いのは、反省力がない人の場合、当人達が大幅な誤りを犯していても自信満々で一体なにを誤っているのか気づかないまま、それを社会で実践して他人に害を為していることがとても多い。この様な人は頻繁に違法行為に触れるのはいうまでもなく、あるいは他人にわざわいをなし迷惑がられていても、具体的に制裁されないかぎり、まず決して自分の誤りに気づけない。
 啓蒙によって少しは賢くなるたぐいの人々は、孔子のいう中人以上であり、並以上の反省力があるだろう。だが一度、二度と注意しても全く反省がみられない人の場合、政治的・倫理的な直接の罰――政治的には刑罰か討伐、倫理的には注意、説教や非難など――によってしかかれらの行状は改善しない。
 司法制度は悪法もあれば冤罪を犯しうる欠陥があるが、実際に迷惑な行いについて刑罰あるいは報復を受けてもそういう人々が納得しないとき、やはりかれらの脳内には悩みの構図がある。かれらは一体何が他人に迷惑をかけているのかについて、多重な誤解や激しい思い込みから、およそまったく見通せないままなのである。

 サイコパス(精神病質)とみなされるたぐいの人々の一定数には、最初からこの種の利他的な共感認知を一定以下にしか持ち合わせない者もいるだろう。だれかがそういう人に他人へ害をなす行いをやめるよういっても、かれらは他人への共感性が最初から低いので、罪とか恥をはげしく感じることはおよそありえないだろう。
 啓蒙の根本的限界はまさにここにある。だれもが普遍的な倫理を自覚するわけではない。それはある人には永遠に見通せない盲点になっている。
 最初から普遍的な倫理などない、という道徳相対主義の立場を実際にあるいは仮にでもとっている人であれ、倫理一般の一切の部分的共有、つまり、最低限度の事前の倫理規範たる法や約束(契約)などにも、利己をはかる手段としてしかなんの同感ももたない人は、立派な人間というより単なる非社会的な一哺乳類といった方が正確である。いまでは無政府自由至上主義者、無神論者、権術主義者や神道信者らのなかに、そういった非人道的な立場を無制約に自己正当化する人々がいる。かれらはいわば文明の面をかぶった獣類であり、啓蒙によっては永久に、他人を手段としてのみ扱う悪しき行状を自己改善しないであろう。

 こうしてそういった倫理的無能が現実にいるかぎり、この世で政治が無用になる日はこないといえるだろう。批判的思考(ここでは特に懐疑論の文脈で、対話術的な命題への否定媒介性)が前提になっている哲学の営みでの倫理の議論に、それを私利に使う悪意(いわゆるリチャード・ドーキンスのいう利己的遺伝子の正当化。ある種の自然主義の誤用)を前提的にもつかれらは純粋な意図で携わりそうにない。当然ながら、宗教の様な団体的・個人的な信仰の教えによっても、ある人は他人に害をなしても自分の利益を追求したがるのだ。
 天皇一族が他人を侵略・収奪しながら、自分達を絶対化する差別の政治制度や宗教をつくり、自他の人権や人道をふみにじりつづけてきたのは、まさに、かれらが世継ぎをくりかえした倫理的無能の典型系譜だからである。