2021年5月22日

自己属国化の舶来文化至上主義者達

俗悪な人は外国人に褒められるために生きている。そしてそのためにあしき者をもちあげたり、外人が好む下品な作品を無理やり好評したりして、ひたすら媚びを売る。

 明治時代に東京や東日本へでてきた薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)の人々はまさにこういう部類の人達で、いまだに欧米人から褒められるべく涙ぐましい努力をしているが、どれもこれも、結局は欧米人一般が彼らを都合よく操って利用するでくにされている。そしてその自己属国化を、この西日本の果ての世間知らずたちは正義や、見事だと心から信じきっている。

 それにも必然性がある。彼らは渡来系の弥生民族と呼ばれる移民の末裔であり、飽くまで輸入文化に頼っていた。すなわち予てから底の浅い、文化的根無し草でもあったので、他国の借り物や幕末の恐怖政治自慢を使ってしか、近現代に於いてろくすっぽ自己主張できないからだ。同じことは、少しは自分なりの工夫を付け加える点があるとしても、所詮が渡来人の末裔で、中華皇帝をまねて自分たちを天皇と自称してきた一族にもおおかれすくなかれ当てはまるのだが。
 幕末の欧米文化に対してかれら薩長土肥は同じ方法で対処した。こうして近代化そのものとは本来無関係な筈の欧化こと欧米猿まねをはじめ、輸入文化を進んで身にまとって自国民へ向けバサラ大名的・内弁慶的に自慢するという、かれらの過去とまったく同じ態度をとった。かれらはこうして皇統に於ける性差別の要素をなんら含まない水戸学の表面だけかじって万世一系なる薩長閥の男尊女卑によせた偽理論をつくり、西洋人貴族の社交界に似せようと鹿鳴館や華族令をつくり、天皇をエンペラーと訳してプロイセン皇帝やイギリス王室を再度まね、ノーベル賞の「数」を国力の目安として礼賛する様な向こうでも最低級の学術的俗物、特にその紛い物でも偽者中の偽物としての名誉白人面をするに至ったのだ。文化相対主義を経由しなくても実に軽薄で浅はかな人々としかいえない。

 2度ある事が3度あるなら、恐らく彼ら薩長土肥や天皇らの末裔がもし将来、少数なりいきのこっていれば、自ら偉大な独創文化を生み出すことを決してせず、或いは精神構造的にできず、飽くまで文化盗用やそのもどきで出羽守ぶる、似た俗物主義の態度を示すだろう。日本語はいまも借り物の文字、仮名で書かれている様に。
 現に東京に出てきて、かれらは進んで欧米文化帝国主義の追随者としてふるまい、全国をかれらが虚栄心で信じる華夷秩序で見下すことしか普段から殆どやっていない。だがこの中国や欧米のまねごとがかれら固有の薄っぺらさのため余りに表層的な模倣にとどまって、いつも本質からずれているので、中国人や欧米人からは、そういった俗物につくられている日本の一部がある意味で興味ぶかい自国の紛い物の社会にみえるのである。模倣都市であるかぎり奈良や京都はずっと長安のパチモノだし、西洋建築をまねようとした東京はニューヨーク、パリやロンドンをめざしたが遥かな劣化コピーなのが厳然たる真実だ。
 文化的売国奴なるものがどこかにいるなら、この舶来文化至上主義者達に違いない。かれらの意図は単純に、政治的地位の高い側になりすまし、外国勢力と手を組んで地元をいなかものとみくだし幅を利かせる目的が暗にある純粋な悪意であり、端から自国民を騙すつもりの詐欺師たちである。