2018年7月29日

忘れがたき言葉

忘れがたき言葉を連ね君を想い恋々とする己みつめし
ひとしらぬ月日は流れその間君はいかにか時を過ごせる
来し道が険しくさみしき道ゆえにわれはあやぶむ君のくじけを
君の思う心は冷たくひとはいやしくもわれのみ君を真心で想う
ときかさねひとはかわれどわれのみは君を気にかけ想い続けん
君の夢叶えど叶わぬいずれでもわれはかわらず君を想える

きみのよる

きみのよるすべてがかぎりないさちでみたされますよういのるよるです
あのゆりがまるであなたのすがたゆえわたしはかおりによってしまいます
おもいつつかくすこころはいためつけられてもきみにつくすつもりです

百合(ゆり)の花

百合の花深夜かぐわしわが庭に
部屋にさえ百合の花の香 真夏の()
真夏日の夜に百合たち咲き誇る
夏の夜ゆりの中で寝るキリギリス
百合の花かげば居眠るキリギリス
百合の花かげば目の合うキリギリス
艶美なる真夏日の庭の百合たちよ
夏の日に透き通る白さ庭の百合
夏の日に美をふりまける庭の百合

2018年7月27日

月の様に

だれも私たちを理解しない
だれも私たちを大切にしない
だれも私たちを月の様に愛でない
だれもが見知らぬひとばかり
だから今すぐ現世を離れ
消えてしまいたいと思うこともある
野蛮人の様な女達なので
だれも私たちの欲望を叶えない
自然すべては無意味だから
私たちもまたそうでしょう
私たちを愛してくれたあなたに
この花束をささげましょう
もうすぐこの夢がさめても
私はあなただけを愛しています

かなしみ

どうかなしめばいい
一日中君の事が頭から離れない
自分ほど悟った人にとってそうなら
一体君はどれだけ美しいという
かなしみの馬車は出ず
自分が行き場をなくしていると
賢愚を問わずひとがゆき交い
その中に君はいない
あとどれだけ経てば君と会える
いや会ったとて何ができる
夢の間で会う日々は終わりにして
遂にはお互い歳をとり
かなしみを抱えながら死ぬ
それもまた美しいのか

僕らはゆっくりと大人になり

僕らはゆっくりと大人になり
少しずつ夢を変えていく
はじめ見た夢は叶わなくとも
夢より大事なひとが見つかるだろう
けれど僕は最初の夢も忘れていない
この長い道のりで幾つも夢がおちている
夢のかけらを幾つも拾い集め
荷物が一杯になったら
その中で大事なものから叶えよう
僕は愛する君の夢を叶えたい
この一杯になった荷物を捨てて
ひたすら君を愛したい
そして気づくのだ
君が僕にとって最後の夢だと

2018年7月26日

愛の歌

なぜすべての人がしらないくらい
あなたはこれほど麗しい
わたしはすべてをなげだして
あなたの前にひれ伏すでしょう
もしこの星が忘れていても
わたしはただの虫けらでも
ひたすらあなたを想い
数かぎりない歌をつむぎ
やがて世界中を愛で満たすでしょう
死んでいく社会の中で
生まれくる命
この星すべてが壊れても
わたしはあなたをだきしめて
かぎりない喜びで満たすでしょう

If I was a star

If I was a star
You were a prayer
We saw same stream
As a road to dream
If you were a cat
I was a song
Because we saw the moon
Pretty good show in the night
On the gentle sea
If all lies betrayed us
I would never lie on you
Over the universe
I will never forget on you
I will get with you

2018年7月25日

まばゆき海

退廃の都塵を離れふるさとの清らまばゆき海を眺めし
だれもみぬ君のあわれをしるならばなぜわれのほか君を愛せる
この星の奇跡のうえにわれらあり月日回れど君を想えり
いためつけられてかなしむ命ごと悪魔のひとをいかに愛せん
こころさえいたせばあかせる想いでもわれはすべてをささげ愛さん
あきんどはわれをそねみしののしれり商才なくばのけとのたまう
げす都民こころよりからだもちいれば愛あかせるとほざくおろかさ
拝金の奴隷制度で皇族に納税させて差別もたらす
万人をいつくしむひとが税ぬすみ虚栄にひたるはなはだしき偽善
わがしごとすべてはただにきみのため昼夜を置かず身ごとささげん
ゆめよりもゆめらしき日々おくりゆくわれはひとえにきみにつくさん
愛執と仏の言いしそのこころしか生きる意味なきとはしらずに
仏超えなおもつづけるこのよにていきるめあてはきみのさちのみ

飢餓

僕は常に飢餓だ
僕には君が足りなすぎる
たとえ君で満たされてもなお
僕には君が必要だ

なぜ君だけがこれほど美しい

なぜ君だけがこれほど美しい
見た目のことではないのだが
なぜ君だけが言葉にできないほど
どんな語彙を尽くしても足りないほど
これほどまでに美しい
自分の中の愛の回路が幻を魅せていて
現実を歪め
生きるべく洗脳をはかっているのか
それともまことに君が美しく
私だけがそう感じとれるのか
見分けがつかない

だれもいない所でくらそう

だれもいない所でくらそう
いわば宇宙の外で
南の島へすらだれかがくるから
だれも僕らを見つけられない所で
世間という嫉妬深いしがらみを離れ
日本という奴隷たちの島国をぬけて
だが死さえも超えて
資本主義者が僕らをむさぼろうと
大口をあけまっている
金もうけという名の搾取罪で
だれもを奴隷にしたてようとする
皇族はみんなを群れ叩かせ
神様ぶって何もかも奪おうとする
僕が君を守るから信じてほしい

ほほ笑み

一体ひとを愛することに
これほど意味が詰まっているなら
なぜ人はそれを誤解しているのだろう
たとえ誰から欺かれようと
たとえ誰から罵られようと
たとえ誰からねたまれようと
時に己を恥じようと
人はひとを愛するべきだ
もし愛が真心からのもので
全人類がどういおうと貫くなら
神はその人にほほ笑むだろう

愛する人

ひとがなんといおうと
僕はもう十分に幸せだ
僕には愛する人がいて
宇宙全体より幸せなのだ
ひとが僕を嘲笑し
差別し侮辱し搾取しても
彼らの誰より僕は幸せだ
僕は愛する人がいるから

2018年7月24日

知性の見積もり

相手の知性を低く見積もりすぎた事による失敗より、高くそうしたものの方が優れている。少なくとも高い知性を基準として示す実例の方が、解釈する側に誤解や無理解の余地を含めつつも、低知性用の表現より正確だからだ。

無能

人は無能だと僕をあざ笑う
だが君を愛する力があれば
君を愛する心だけでも
僕にはそれで十分だ

2018年7月22日

世界の奥に隠された鍵を手に
宇宙全体を旅してみても
結局たどりつく場所が同じなら
僕の開けるべき扉は心でしかなかった

2018年7月21日

逃避

遠く遠くに逃げよう
だれも追ってこれない所へ
だが理想郷とおもうところは
いつも君がいるところだ

たより

幾多もの川や山や海を超え
君の住む町にたよりが届く
みなは君の悩みや苦しみ
心の声さえわからない
だがそのことばは君を想うもので
宇宙全体のどこからでも
ひたすら君を想う人が書いた
愛の言葉の列
海より深く
光より速く
量子より正しく
何より誠実に
一円にもならないがゆえに
君を想う消えない真心の束

社会

自分を入れる余地のない社会に属するな。

2018年7月19日

もし君の夢が少しも叶わないとしたら
僕が代わりに叶えよう
たとえ宇宙の果てまで行っても
君の欲しがる物すべてを手に入れ
たとえ地獄の底からでも立ち直り
君の夢であるどんな願いも叶えよう
みなが君を勘違いし
だれも味方がいなくとも
たとえ君の中にある思いがよこしまでも
たとえ君のちからが足りず弱っていても
満月が照らす光の様に
君の全身を洗い清めよう
だから君自身を責めることなく
もう罪を忘れるのだ

幸福享受の条件

幸福に値する人になることは、その享受にとって十分条件である。守銭奴が貪欲や妬まれる苦痛を避けられないよう、幸福に値しない主体は悪徳という必然の阻害要因ゆえそれを甘受しえない。悪徳の中にいるにも関わらず幸福を得ようとする人は、先ず幸福でなく徳を得なければならない。富の果実を適切に味わうには、浪費、怠惰や過労、羨望させる為の虚栄心、非功利的利己心や妬み深さを克服している必要がある様に。

等身大の自分

都会で浪費合戦し虚栄心から驕り高ぶる人は
たとえ世界一の金持ちになろうと不幸である
羨望される為の儚い努力の数々も
等身大の自分を知る者にまさりはしない

希望のかけら

小さな順列のあらわす意味に
これほど大きな思いが載せられるなら
世界の隅で絶望する人にも
希望のかけらを届けられよう

賢者は静かに海辺に座り

賢者は静かに海辺に座り
建てては壊される都市の虚構に
育っては死んでいく命の図に
巨大な宇宙の只中で何を思う

ねたみの娯楽

自分は資本主義の申し子と思いあがる愚者が
大金を掻き集めたすえ破滅していく
まるでねたみの娯楽だ

不完全

あたかも世界が不完全で
我々が生きていた時代が無価値かの様
雷鳴や機械音と共に火蓋が落とされ
巨大な摩擦が自由を切り裂いた
残されたのが唯一正しく
だれからも忘れられていたもの
もうなにもない世界で
まったく気にされさえしなかったもの

2018年7月18日

みてくれ

みてくれに騙されて高い買い物をする者は一生を棒に振る。

2018年7月17日

波の様に

僕は穏やかな海の様になりたい
世界を静かにみたしていく波の様に

もしあなたが星の一つなら

もしあなたが星の一つなら
私は小さな湖として
あなたを映し出す鏡となる
もしあなたが完璧な人でなくとも
私は神の心ですべてを許し
あなたの罪を洗い流す
もしあなたの夜があまりに深過ぎ
だれもしらない大都会で
孤独のため泣いていても
私は果てしない砂漠を隈なく探し
ただひとり恵みの雨を降らす
音もなく打ちつけ
だが無限の慈悲に満ち
やがて私たちをつなぐ川となる雨を

あきんど

かねにならない物が無価値なら
お前達あきんどは無価値だ
労働力を売り資産を貸し
なんとか換金しようと必死だが
お前達あきんどの命に価値はない
お前達の肉体は単なる奴隷商品で
すでに機械と競合し減価し続けている
とかく我らは一刻も早くあきんどを処分し
もっと合理的な生産設備に切り替えたい
要はあきんどは邪魔でしかない
だから我ら皇族閥の偽善の前で集団自殺し
一匹残らず邪教神道に洗脳され万歳三唱し
日本は神の国だの世界一だのとうぬぼれ
一生奴隷として搾取されしねばよいのだ

すべての思いが消えゆく中で

すべての思いが消えゆく中で
宇宙は小さくなって消えてしまう
恥の塊の様な愚物の間で
際限なく現世をくり返す

搾取罪人

搾取罪人が群れ
ひたすら人間性をけがしていく
嫌な島国に産まれた
この莫迦どもの列島から出れば
少しはましな人類が生きているが
この島言葉も外とあまりに違うので
邪教祖が奴隷化した愚民を貪っている

2018年7月15日

退屈

退屈から文化が生まれる。

2018年7月14日

孤独

孤独は存在しない。近くにいようが遠くに居ようが、他人は他人。性交も死も妊娠中も、脳が別であるから人は孤独であり、孤独は或る脳が思い込む幻想でしかない。

2018年7月13日

作品の哲学

ある作品を通じ人生で大切な哲学を伝える事が、芸術の究極の達成だろう。

成長

人は失敗の数だけ成長する。

比較

他人との比較を幸福の目的にしている人は、主観的な幸福を得られないのでむなしい。他人本位の一生は徒労に終わる。
 では、なぜこの種の客観幸福と呼ばれる様な要素があるのか。他人からみて恵まれた状況でも、当人には幸と感じられない場合、その人に主観的幸福の要素は欠けている。一方、当人は何かに夢中になっていて中毒状態で至福を味わっているのに、他人の目には無意味または自害的に見える場合もある。ここで客観性は常識的平衡感覚を司っている。客観幸福の機能は、自害性を避ける事にあるといえる。それは消極的機能であり、幸福を意味するというより、過度の快楽の暴走による自家中毒を避ける為の制動器でしかありえない。
 この様な客観幸福としての比較を完遂した時、その人はだれからも他よりましと見えるが、ひとの目による制動だけが働いているのに当人は大いに苦痛、という操り人形の状況になる。

集まり

卑しい人は都会に集まり、尊い人は田舎に住まう。卑人に尊者の気持ちはわからない。卑人は下衆と群れ悪徳悪習に染まりながら衆愚同士で搾取の共食いを続け、頽廃の中で自滅していく。都会の卑人の死は、あまりに衆愚が多いのでごみを扱う様に省みられない。尊者は彼らと離れてくらし、立派な幸せを得て、惜しまれながら死ぬ。

すべて

全員が沈黙する中でただ一人歌うのだ
誰もいない中で静かに旗幟(キシ)をとるのだ
志といい搾取をくり返す愚物を見下すのだ
宇宙全体にまことを語るのだ
磯原の海の前に佇むのだ
夜深くに沈み込むのだ
堆く積まれた書物に埋もれくらすのだ
誰も知らない小さな花を眺めくらすのだ
ちらほら降る粉雪にまみれ町を見下ろすのだ
誰もいなくなるのだ
僕は人類になにも求めていない
下らない人類に
すべてが救われるといい
すべてが

2018年7月12日

経済性と幸福

消費余力のある人や場所に資源を最適配分する事が経済の本質な限り、浪費家は資本主義市場の鴨であると同時に申し子だ。一方、守銭奴は浪費家に仕えているのだから、ある意味で資本家も労働者も浪費家の従者である。
 節約しない人は資本主義に適応している筈だが、現実にはこの様な人ほど悲惨な困窮や不足、労苦にさいなまれている。いいかえれば利口な蓄財と幸福にとって十分な消費が真に経済的という事であり、財費に要求する程度は或る人の個性に基づく人生への理想で各々異なる。
 商才の分に応じた消費願望をもつのが正しい経済社会性だが、分不相応の欲深さが蓄財と浪費のどちらの方面へでても自他に悪影響がある。また商才がない人の蓄財量の少なさと、その個人の幸福さや快楽、経済性には直接の正相関はない。羨ましがられ妬まれたいとか、自らの富で貧しい人を蔑視したいという下卑た我欲で、苦役にみちた路程を辿り過度の蓄財を求める商人は、確かに不幸だ。商才が有り余っている一部の鬼才を除けば、幸福の定義は個々人がつくるべきなのだ。
 感覚の閾値を思えば、清貧な人が最も快楽を感じ易く、また利他的な無償のふるまいも失う財貨の少なさからし易いので、最も幸福に値するということは事実なのだろう。

衆愚

衆愚を相手にするな。衆愚の為に何かをしたり、手助けもすべきでない。

戦い

終わりなき戦いからおりよ。

市場本来の目的

人類の善に貢献し我らの状況を改善しようという慈善の基本精神なく、単なる利己心の正当化に自由市場や資本主義を解している人々は、本質に於いて人類全体に公害である。だから市場経済は、国を全体最適の部分とみなすと、巨視的には悪徳を削ぐように働く。つまり市場は害他的な行動系列をもつ人を淘汰する方へ漸近する。
 他方、もともと市場は利他的な目的を等価交換という手段で充実させようとつくられたものだから、慈善活動の完成が真の目的だ。そこで本来は返礼でしかなかった対価を、市場独占や寡占、あるいは交換価値の蓄積による権力の手段とした悪役が現れた。いいかえると利益追求は市場の悪しき副産物で、これは権力の少数者集中をもたらしもした。単独政や少数政が生まれた原因がここにある。
 市場本来の目的を鑑みると、その究極目的は慈善の最大化である。そして利益は市場の需要感応性、必要さが高そうな物事の目安とみるべきものであり、決して絶対的でもなければ、単に市場における供給不足の量的信号という手段であって目的となるべきものではない。利益にならないが、貧者にとって必要さが高い物事が真に市場の果たすべきだった供給である。この種の非利益的需要が常に残っている為、市場経済は万能ではない。市場の不完全さを補完する組織が、非営利活動の一切である。政府一般も、利益を供給の優先度を見分ける手段とする企業と異なる仕方で、慈善を究極目的としたこの非営利活動の一部でなければならない。

資本主義の外

他人に優越したいとか、差別することで虚栄心を満たしたいとか、群衆に紛れ自己正当化したいとか、贅沢なくらしをしつつ羨望されたいとか、その他諸々の俗欲がめあてで労働したり金儲けする人々を搾取対象とする新自由主義や自由至上主義の悪意ある側面は、衆愚奴隷制といいかえられる。これを圧倒的大多数の為の民社主義と比べ正しいとか、正義だと考える人は調整的正義に無知だ。そして弱肉強食のラットレースを正当視した結果は自滅である。
 単なる利益追求の駒を志願する衆愚商人は、自分のやっている部分作業が弱肉強食という地獄の再生産だとほぼ自覚がなく、むしろ目先の快を誘う無数の商材で脳を多かれ少なかれ中毒状態にされてしまう。
 資本主義市場に参加すべきではない。それは単なる搾取を鼓舞とした罠だからだ。寧ろ利益追求は悪徳に他ならない。商品経済に洗脳され、商業を癖づけてしまった人々の末路は遅かれ早かれ憎しみ、悔い、恨みと妬みといった自他に及ぶ負の感情の連鎖でしかない。逆に一刻も早くその種の共食いから逃れ、資本主義の外に立たねばならない。

卑人

卑しい人々に心を煩わせるな。彼らは何も考えていない烏合の衆な上、無教養で悪趣味、悪徳を互いにおしつけあっている。なぜそんな衆愚に親しもうとするのか。
 卑人に心を傾けてはいけない。彼らは他人の不幸を喜ぶ為に生きているのだし、その目あてで一生苦労する。

趣味の差

無教養な人々が楽しんでいる物事を、教養人はあまり楽しめない。だが教養人は単に悪趣味を避け得る頭があるだけだ。また教養人の高尚であろう趣味をそうでない人は解しない。
 こういった趣味の差は、俗物根性をうみやすい一方、賢愚の差を拡大させる傾向も持っている。

手紙

僕の心の奥にある想いは
今では僕の無意識にしか分からない
一体それを正確に表せたとて
だれが喜ぶという
君が消えてしまってから
長く世界中を探し回った
結局行きつくところが同じなら
はるかな努力も水の泡だ
カネを追う競争なんて必要ない
僕には君が必要なのだ
すぐに時をさかのぼっても
僕はやはり僕のままだろう
そらに飛ばすような手紙
君もやはり君のままだろう

貧富と助け

人類の殆どが相対貧困の中にある以上、ひとは彼らと共にあるべきであり、自らが他より相対富裕と誇示するのは品位にもとる態度といわれねばならない。聖書(箴言16:19「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」)にあるよう、寧ろ貧しくとも尊い人を助け、進んで彼らと共にあるべきだろう。
 単なる俗物根性の為の贅沢自慢とか、悪徳をもつ富者、貧者に接近することはいずれも望ましくない。聖書では貧者すべてが助けられるべき、と読みとれるが、重要なのは清貧な人物が最も尊ばれるに足る、という事だ。

製品の質

大衆が愚かということと、大衆に人気の製品の質は無関係。

2018年7月11日

弱肉強食の悪魔思想

弱音を吐けない様に国民を奴隷化し、自殺や過労死まで徹底して追い詰める。集団圧力で労働者に仕立て上げ、逸脱したり自由を求めようものなら凄まじい悪意から匿名ネット中で陰湿極まりない集団虐待を行い、事実上社会から抹殺する。全ては自己崇拝の狂人に他ならない皇族閥が全人類を搾取する為だ。邪教神道カルトがはびこる地獄の日本国にあって、資本主義という弱肉強食の悪魔思想は人の良心を毀損しているのだ。

商人階級

貪欲な商人階級が、常に罪なき善良な他人を差別し、侮蔑し、搾取したがり、実際に日々そうしている。ではこの様な衆愚のどこに尊重されるべき道理があるというのか。その様な悪魔的集団は、ひとえに犯罪集団、もしくは極悪人と呼ぶべきではないのだろうか。

目的

生まれてきた目的、死にゆく目的を問え。なぜこの世に居なければならないか。知らずしらず周囲の衆愚に流されその日その時を一瞬も無為に過ごすなかれ。

心を自然に通わせられる人は得難い。

2018年7月10日

徳性

人は幸福に値する人を恵むべきであり、それに値しない人はいかなる世俗的成功を果たしても単に憎まれて終わる。我々が貞淑さや純潔さを善美とみなすのは、それが幸福に値する徳性だからだ。人類のもつ性質には、愛すべき徳性と、憎むべき悪徳があり、そのどちらでもない特徴もある。憎むべき悪徳が最小で、愛すべき徳性が最大である様な聖人は、幸福に値する性質を十全に成長させたという意味で、崇敬に値する。
 幸福に値しない様な人を恵み、幸福たるべき人を冷遇する社会集団は、倫理が退廃している。その様な地域からは努めて遠ざかるしかない。またこの種の倫理が個別的であって所によって違う場合は、己の求める人生に最も近い集団を探し、そこに加わるべきだ。

科学的認知バイアス

実証主義者は科学的認知バイアスに陥り易い。彼らは偽だが善であったり美であったりする様な対象とか、度合としてすら適切でない様な人情の機敏について軽視してしまう。実証科学的信念、例えば統計的事象の確率的真を絶対視している者は目の前の経験や事実より権威づけられた科学知識を優先したがる事さえある。目的の学としての形而上学(後自然学)に進むことを怠り、初歩的な形而下学にとどまったり、そもそも形而上学のコペルニクス転回的構造に無知のまま多少あれ厳密な実証性を範囲外に無理やり適用しようとする理系馬鹿と呼ばれる人々は、実証科学というオーギュスト・コントの創始した新興宗教に魂を捧げてしまったのだ。単なる就業や虚飾の為の経歴造りの道具としか学問を見ない学歴馬鹿と呼ばれる様な人々の無知は更に酷く、科学精神に対して単なる権威主義者である場合が殆どだろう。

普段の行い

世の中のことは結果になった時点では既に手遅れだ。一体、真贋を見分けたければ普段の行いのみを絶対値とみるがいい。或る人が壮大な夢を語っていてもそれはほぼ100%実現しない。未来は誰にも完全に予想できない。逆に、普段の行いが偽善とはいいがたいだけ尊く立派な人、日々の成果が着実な者が途中で挫折したり、堕落する場面の方が希である。
 我々は或る人の信用度を厳正にみる時、他人の意見を無視しなければならない。また直感を信じるなら後知恵バイアスに注意しなければならない。寧ろ我々自身を大いに欺くのは、過去の結果という偽りや偶然の多い事実だったり、一般常識という習俗の与える妄想の方である。

他人の風説

他人の風説はすべて多かれ少なかれ誤っている。ネットの噂や都会のニュース、政府の流す喧伝をうのみにしている者は、実際何も真実を知らない。

質問

愚者に質問したり、性悪にかかわったりしないこと。

自慢の反動

成金自慢を日頃行っている都民は、単なる利己心の故に、その多数を占める貧困者や低所得者まで愚者から後光で羨望なり嫉妬されるのを無視しているが、それら多数派の貧者がいざ都民の一員として必然に行うケチなふるまいとか、さもしい根性が衆目のもとに晒されると金持ちのみで寡占されているという偽りの成金都民像が崩されるので、隠蔽やごまかしの為に多少あれ発狂する。こうしてloss効果の一部として、過度に着飾り美化した虚像が剥がされる時、パリ症候群の東京版、東京症候群とみなせる激しい嫌悪感や憎悪心が、反動の強さから必然に都民やその中枢で邪教を奉じる天皇皇族へ向けられる。同じ事は虚勢を張り、古都の虚栄心や古い中華思想から己の地域を自慢し他地域を差別蔑視し易い京都症候群や、国内で極北と極南に位置する珍しい自然という潜在的な観光地幻想に自己像を後光化させ易い北海道症候群、沖縄症候群についてもあてはまる。

商売仲間

卑しい人と商売すべきではない。その種の人は公害と外部経済を比べ社会的費用を顧慮するような場面とか、倫理的に問題のある信用に関わる課題に適切な答えを出せない。卑しい客や投資家を含む利害関係者全般についても同様の事があてはまる。

偽愛国者気取り

愚かな日本政府を賢いと誤認している外人は勿論愚かだし、愚か者の評価に外国崇拝による過剰重視をしたり、又は客観とみなした言い訳での底上げを図ろうと、日本政府の愚かさが賢くなるわけではない。自国の愚や過ちを制するよりごまかして目を瞑らせようとしたり、そもそも改善の余地がないほど完璧だとみなそうとする偽愛国者気取りは、この種の思考の型で自国自身にも、日本政府の愚かさや悪徳で害を受ける諸外国にも有害である。

金儲け

他人を差別し、見下し、侮蔑する為の金儲けは幸福に値しない。羨望を得る為、他人に嫉妬させる為の蓄財や稼ぎは、質の低い快楽、趣味の悪い快ではあるにせよ、幸福ではない。

幸福と快楽の差

人は善行を動機づける癖が無意識化してのみ、幸福に値する。この点で質的快楽、倫理的快としての幸福が、単なる利己的快たる量的快楽と区別される。一般的に幸福と快楽が違うと認識されるのはこの為である。
 ある人が憎まれず、愛され、しばしば感謝され、時に崇拝されるのは、善業の蓄積の為だ。つまり快楽を感じている人と、幸福に値する人とは本質的に異なっている。後者が快さとして認容しているのは、利他性それ自体なのだ。
 ミルの質的功利主義が定義しようとした質的快楽は、本来、アリストテレスによる定義に遡って快楽と区別されてきた幸福という語彙で呼ぶべきものだったのだし、アリストテレスに於いては目的それ自体であって決して他の手段とならないものを幸福と定義していたが、それが利他性だと考えて間違いない。

都鄙の意識

商人や公務員として(労働者としてであれ経営者や役員、投資家としてであれ)カネを儲けたと自慢し他人にそれを聞かせる俗物は、単に不愉快がられるだけでなく、当然ながら妬まれ、疎まれ、憎まれ、嫌われ、大抵の場合は怨まれる。この種の金儲けを挨拶がわりにしている人々は単なる商人階級(今日の先進国では殆どがここに属する以上、富豪を含み底辺または下層階級、下流と呼ぶべきだ)に他ならず、そうでない他人は、自身が保有したり稼いだりしたカネの量に興味がないと知らないのだ。従って、下流でない人、商人階級でない人にとってカネ儲けを唐突に自慢しだす人は日々の余裕がない事を計らずも吐露しているばかりか、欲深、貪欲という悪徳を無用にみせつけているのだし、その上相手を自身より貧しいとみなし訳なく侮辱したという最悪の記憶だけが残される。
 商人階級は都会と呼ばれる商業地区に密集して生活する傾向もあり、一定の地区でこの種の下層階級に遭遇する確率が有意に高い以上、都市生活者への軽蔑の念が自然に、中上流に属する人々の中で醸成されても疑問ではない。他方でこの種の都市部の商人自身は、先進国にあっては個々人が自由にも関わらず忙殺される奴隷的状況にある事からも大抵の場合道徳性を最高度の達成とする一般的知性も低い為、自己の境遇を自慢したり、衆愚的に傲慢な態度で非下流の人々を少数派であるという理由だけで差別したり、見下したりする傾向も並より一層激しい。資本主義が生み出す真の格差は、奴隷的職業である商人階級に属する無教養で思いあがった都会人という下流の人々と、そうでない余裕のある郊外人、当のうぬぼれた都会人からはしばしば侮蔑的な意味で田舎者と呼ばれる中上流の人々の意識の間にある。

親母語と非親母語

生まれつきの母語でない言語(非母語)をそうと見分ける要素が多い言語と、そうでない言語、つまり後天的に学習しても母語特有の微差に気づかれづらい言語がある。この2つをそれぞれ、親母語と、非親母語、と定義できる。
 親母語と非親母語が分かれる訳は、前者が比較的孤立して形成され、その過程で外来者をネイティブ(生まれつき母語を使う者)と見分ける必要性なり有徳性が高かった一方、後者が多数の外来者によって使われる傾向にあり、外来者をネイティブと見分けない方が有利だった言語だからなのだろう。

聖と善

美ではあるが善でない様な対象と、善ではあるが美ではない対象を見比べると、前者の方が劣っているのがわかる。単に美ではあるが悪い物は有害だが、醜でも善である物は役立つし、しばしば目的の物でもあるからだ。真善美の内、最も究極目的に近い価値が善である事はこの比較でわかる。
 他方、真善美をもちあげた聖という価値が善より高次元の価値であると理解するには、善ではあるが偽かつ醜である様な物とか、美ではあるが偽かつ悪である様な物を想定すればよい。聖は少なくとも、あらゆる価値を全体集合と考えたとき、真善美各々の部分集合3つの共通部分であり、真かつ善かつ美である様な価値を指すと考えられる。しかし善だが偽かつ美である様な場合、例えば白い嘘と呼ばれる人を傷つけない為の悪気のない嘘の様な物は、聖価値自体ではないにせよそれに漸近する事がしばしばであり、真だが醜かつ善だとか、真だが美かつ悪だとか、あるいは真だが醜かつ悪だとか、美だが偽かつ悪だとかいった様な場合に比べると、善は美や真より一層、この聖部分集合に属する要素が多いのだろう。

2018年7月9日

夢の分析

愚者の言い訳する人生はむなしい。愚者の夢は下らない。
 生得的かつ後天的無意識では、性衝動・死衝動の向けられる対象や仕方そのものが異なる。ある人の人生の目標という意味での白昼夢が単に利己的であったり、卑小であったりする時、その人の意識が卑屈だ。
 偉人や聖人の白昼夢は、睡眠夢と同様に、尊い。ある人の無意識を見透かすには白昼夢と睡眠夢の質を、両方とも観察せよ。悪質な白昼夢をいだく者は、意識か無意識いずれかがけがれている。

悪業の故に怨まれる人

自らの悪業の故に憎まれ、怨まれている人を救う方法はない。その様な人はただ善行で過去の過ちをとりかえそうとするしかなく、開き直る場合は更なる悪果がやってくる。

商売人を皆殺しにする力

商売人を皆殺しにする力が
資本主義の神々から真の勇者に与えられた時
腐りきった守銭奴の地獄である東京や関西を
商業都市の群れを跡形もなく消し去るだろう

作家の質

作家志望者を名乗る下衆をそうと見分けるには、作品をみるといい。作品がない者は偽物に過ぎないので除外せよ。勿論、作家自体の質を見るにも作品のみが基準だ。

目的資本主義と道具資本主義の違い

資本主義は意欲に基づく資源配分の一手段でしかなく、その営利性という機能から来る搾取的・付加価値的結果である蓄財を羨望や社会的地位の向上をもたらす目的と考えるのは不合理だ。資産、貯金額、利益を得る商才でそれ以外の諸人間性を測ろうとする人は当然の如く、道を誤る。歴史をみれば分かる通り金銭は遠からず失われるし、商才自体も永続した商家がみあたらないよう、ある時代の経済構造や場所、そして運に依存するから、決して遺伝するとはいえないからだ。
 性善的、又は生後に善良なたちになった人は、利己目的の為に意欲をもちづらい。裏を返せば性悪か生後に悪質な育ちの人々が資本主義に適応し易いのである。では多数派が経済思想について資本主義的である様な多数政の元で、貪欲な大衆一般からの清貧差別で追いやられる善良な人々に居場所はないのだろうか。その様な無条件に利他的な人々こそ、本来称賛に値するし、また幸福たるべきではないのだろうか。非営利活動の一切がその種の人々の生きるべき活動であり、善良な人であればあるほど脱資本主義的な経済、非営利経済、自主的な寄付社会を先駆けていく事になる。いいかえれば、本来、資本主義やそれがもたらす商人階級の一切が、この種の非営利活動を行う貴族的な人の乗り物となるべき存在なのである。
 非営利活動の至善状態が、或る個人に維持不能なほど過度の善業(自己犠牲ともいう)への執着も超えた無業にあるとすれば、有閑階級一般と同様に、無業者が脱資本主義の最終解脱者だ。しかし労働階級を含む下等商人や永続的搾取を目的とする堕落した皇族閥や政治家らは、彼らの資本主義への狂信的合目的視の為、皆労働や完全雇用を当然視したがる。資本主義を目的視する考え方を目的資本主義、それを道具視する考え方を道具資本主義と定義すると、目的資本主義者は道具資本主義としての非営利性の領域が本来の人間的住みかな事を盲点としている。彼らの中では自然や宇宙、純粋芸術、科学、哲学、宗教といった商業都市の埒外にある様な対象についても、投機性とか利益という何らかの通貨と交換する事を前提とした金儲けの価値観でしか見れなくなっている。いわば道具資本主義が果たすべき限定的機能としての資源配分が、目的資本主義者の中ではその他の目的にすりかえられてしまっているのだが、これは目的資本主義が単なるアダム・スミス的神の手幻想による邪教な証という他ない。実際、格差拡大を正当化する目的資本主義者の目から、生存権の範囲で資源を当然配分されるべき最貧者は無視され、事実上見殺しにされてしまうのだ。目的資本主義の否定、かつ道具資本主義を超えた善なる行動としての無業は、通俗的職業倫理を脱俗した最も神的な精神で、自由であるという点でアリストテレスがそう定義した通り最も観想的で幸福な生たる事が明らかだが、それがわかりまた実践できる人は、営利性も寄付性も中道に立ってのりこえている。これは目的資本主義において相利性として理解される商取引とは異なる観点だが、元々取引はその様な人道の調節によってしか最適化されない。公平な取引と言われているものは、単なる政府の徴税と福祉による再配分(資産調整・矯正)と違う意味で経済的である。 
 クール資本主義といわれている考え方は、道具資本主義をのれん代(買収時に上乗せされる無形資産価値)から見直したいいかえである。
 貴族(貴族という概念自体が多数政を当為視する脳では軽視される言い方かもしれないが)とか貴人、無業者、無銭者が取引をしえない、というのは、この様な道理に立てば間違いといえるのと同時に、営利的でも寄付的でもない上に、相利を目的ともしない或る公平無私な交換が成り立つとわかる。取引上の利益とか、取引額としての売上高やGDPを経済性と誤認している量的観点は、経済学上の無知によっている。そのため貧しい浪費家とか、忙殺されるかケチな守銭奴がおり、資金繰りに失敗する黒字大企業の倒産もあり、のれん代の高く地味な中小企業の余裕といった質的な巧拙が成り立つのだ。寧ろ道具資本主義の見方では、この様な商取引一般を含み、無償や赤字とされる取引を含む総合的経済状況が分析対象でなければならない。

ある人が尊敬されたければ、また自信をもちたければ、善に近づく様にするべきである。善を曇らせる様な諸道具にこだわる必要は全くない。また善を他の何かの手段と考えてはならない。人類の生の究極目的が善だからだ。

利己主義者

利己主義者を成功者と見なし、手本とする超人志向はニーチェ以来の自己実現の妄想に過ぎず、その種の利己性は他人に優越する事を目的とする卑しい人間を生み出す。唯一、真に幸福に値するのは利他的な人だけであり、資本主義、商、金儲け、或いは公務を含む何らかの生計の為の仕事と結合した利己性は、本質的に他人に害をなす。
 ある生業が相利的である時のみ返礼としての報酬が得られる、と考えても、この儲けを企業から付加価値と見なそうと、或いは消費者から搾取と見なそうと、その分を適切に社会還元、又は他者にとって有益な方法で用いない限り、商業自体が他人には有害である。端的にいうと、商業的成功とは、他人をより貧しくみなし、差別する為の害他的な目的で行われた悪意の積算である。これ故にゴータマは「法による商人として暮らすな」と言い、商行為を根本的に否定していた。
 商人が多数派を占めている国で、乞食が有罪とされ、代わりに搾取という罪を含む商売が正当化されているのは、商業が他者に有害である、という本質的理解がない無知な人々から成るからだ。アリストテレスのいう部分的正義の内、調整的(矯正的)正義に対する配分的正義と、搾取能力(逆にいえば付加価値能力)に応じた報酬の付与に、相利的行為への動機づけや鼓舞という効果があるとしても、これは仮言命法の域内にある不完全な条件つき善行でしかない。営利抜きで行われる慈善行為のみが、本来の定言命法的善行である。つまり、商業は半ば悪意の人々、利己が真の目的である様な偽善者らにとっての生業である。返礼を省略する規則が金銭のやりとりだとしたデリダは、商行為の搾取的側面、利己的側面についてわざと無視させようとごまかしているといえる。
 結局のところ、我々が商業的成功者を真の聖人と見なしえないのは、その行いの本質に利己性があるからであり、これは嫉妬による非難をかわす手段としての慈善と寄付が貧者の一灯らしさをもっていない事、嗟来之食らしさがある事へ、賢人らの厳正な人格評価的眼差しが注がれるからに他ならない。資本家(投資家・投機家)、経営者、労働者らを含む商業階級全般への蔑視という貴族的観念の本質にあるのは、利己性という卑しさに対する人間的直感に違いない。商業化した先進を自称する国々、発展したと称する国々にあっては、それらの国々の大衆一般と違って、この利己性と利己主義を鋭く且つ徹底的に忌避する方向のみが、善の名に値する。この観点から見れば、アイン・ランドは極悪人と評されざるをえないだろう。

同苦

下賎な人との同苦は害悪でしかない。

商人階級

羨望されたい、という俗情のため労働での金儲けと浪費に躍起になり、蓄財生活を自慢する東横京阪人は、その品性の卑しさで軽蔑を受けるべき下等商人階級に過ぎない。

尊卑

貧富と尊卑は異なる。しかし卑しい人は両者を見分け得ない。政治的地位や先祖の貧富も、尊卑そのものではない。尊卑は単なる知識教養の質量でもない。尊さはある人の道徳性によっている。
 成金と清貧では後者の方が偉大で、また優れている。品性と呼ばれているものは、後者のみに該当する様な或る徳性を指している。品性は尊さの一部を成している。
 人類界では尊さを高める事が最も優れた生き方であり、それを妨げるどんな行いも遂には正当化されなくなるだろう。

生きていくに値しない人々

卑しい人達がカネを儲ける程、その社会は生きていくに値しなくなる。東京や大阪、京都の幸福度が最低なのは、そこで蓄財している人々が悪意でそうしており、生きていくに値しないほど下賎な人々だからだ。
 都心の退廃が極まると貧民窟として犯罪率を極大化させ、やがて誰も住みつかなくなる。ある文明が亡び行く原因は、労働者と呼ばれる奴隷階級が一か所に密集する傾向と言える。

通り雨

通り雨洗濯物と我洗う

うぬぼれ

白人至上主義者の人種差別的自己愛障害と、東京都民や京都市民の中華思想的自己愛障害には、ダニング・クルーガー効果的な愚昧、もしくはうぬぼれという類似性が見つかる。
 これらの傾向を何らかの理由で思考の型に刷り込まれた個人は、単なる集団主義により益々邪悪で利己的な妄想に耽りやすく、終いには犯罪集団もしくはファシスト政府を形成する。皇族閥が極悪非道な我執性を俗物根性で偽装するのは、この種の差別的思考パターンを自己崇拝の狂信として流布してきている反動である。

都会

卑しい人達は群れ、都会をつくる。

需要民度

愚者と悪人に与えられた金銭は、もっと悪い、もしくは下らない使われ方のすえ社会状況を悪化させる。だから或る地域で愚者や悪人が大金をもっている時、そこの経済は退廃していると考えていい。この種の文字通りの貧民窟では、金利がうらみやねたみの原因としてのみ曲解されているので、商人も起業家精神も、金儲け自体同様に軽蔑されている。その地域もしくはその個人の商業倫理の腐敗度が酷い時には、勤勉自体が無価値もしくは有害とされている場合すらある。
 健全な商業が成り立つ為には、賢さが善の位相で功利性に結びつけられている必要がある。即ち成金が軽蔑されるのも、或いは成功者扱いされるのも、裏返せば、その地域の需要民度の故なのだ。

怨み

A「草草うるせえよ」
B「炎上ブロガーへの怨みだよ」

保守主義者

保守主義者とは愚者と老人の換喩でしかない。

2018年7月8日

SNS偽善者

遠くにいる赤の他人へ過度に同情する様子をSNS上でみせつける人が真の偽善者でなかったら、この様な人が現実の災害に遭ったらその過度の共感性のため即座に失神する他ないだろう。

天罰

A「死刑執行日に自民党の幹部がやってた宴会の様子。天罰あたりそう」
B「自民党の幹部が天罰じゃないの」

第一人者

人格の完成が最高幸福の原型だと悟る人は、自らが富裕であるかを気にせず、絶えず清貧を保っているかに最大の気をつかうべきだろう。そして質素さを俗物から軽蔑なり差別された時、それを自分が人格的完成に一歩ずつ近づいている証だと考えていい。有り余る資産も最後には慈善にしか使いようがない。人々からのねたみや憎悪の眼差しが耐えがたくなって漸く寄付の意義を学びだす貪欲という名のついた大通り、その実、迂回路を辿る苦労人に比べ、はじめから無欲という小さな門より入る人こそ聖徳の第一人者である。

性別ひいき社会

女性或いは男性を性別によってひいきする政府は、明らかに性別によらずより優秀な人材を無駄にしているのだから、そうでなく性別を無視した人事をする国々に負けてしまう。これは性差を含み、或る人事が差別の為に使っているいかなる属性についてもいえることだ。

企業の目的

今ある物以上を求めてやまない欲は、最大多数の最高幸福という功利性に結ばれていない限り、単なる貪欲として当人の幸をも苛む強迫観念になる。貪欲な営利企業が反社会的、反人道的となるのは、拝金主義者一般と同じく、外部経済の功利性を軽視している時だ。寧ろ企業の目的は、この功利性と矛盾なく合致しなければならない。
 政府と企業が対立する場合は、外部経済の功利性を目的化していない不良企業や悪徳政府についてのことに限り、元来、両者は公私に分かれ同じ目的を実現していく装置に過ぎない。小さな政府論とか、一律減税論は、この様な目的にとって競合的民間委託論や累進課税論より明らかに劣っている。大企業や富裕層をはじめ、堕落した政治家、その他の脱税が正当化される事は、彼らがその目的を私利に歪めている為、決してありえないだろう。そもそも納税だけでなく金銭自体が功利的目的の道具なのだ。政府の堕落のため税制改革が思う様に進まない地域に居住する不条理は、移住可能性の域で解消されねばならない。節税という考え方も、その地域の政府が経世済民と違和する範囲においてしか合理化できず、その種の政治地区から住民が自然的に逃げるか、人口減少していく方が望ましいので、企業が努めて節税しなければならない様な地域は商業にとっても選りすぐれた場所とは言えない。

社会適応性

この世に適応的でないからといって嘆くな。この世は俗人にとってさえ辛い物なのだ。徳はこの世の弱肉強食を多少あれ緩和する社会適応性だから、最高徳に自らを順応させていく事を救いと呼んで確かだろう。

商人根性

商人社会に魂を染めた人が芸術価値を本来の意味で評価する事は非常に難しい。芸術本来の価値基準そのものが交換価値や投機商品以外の審美的教養で構成されている為、その商人の趣味で、知的程度が知れてしまうのだ。

住まい

愚者、狂人、悪人、下衆、俗物、サイコパスには関わるだけ損害だ。都会ほど雑多すぎ、これらの要素をもつ人との遭遇率が上がる。この様な理由で、何かに傑出した業績を為す人は都会に住むべくもない。わずかなりとも悪徳の元素をもつ人とのつきあいに害があるのも確実だから、賢者は都心を避けるに如くはない。そこに適応的なのは、自らが最低最悪な人間で周り全てが想像を超えた手本である様な悪魔的存在だけだ。

慈善

人のもつ全能力の中で慈善が最高の能力であるからには、人はそれを最大化する様に生きるべきであり、その様な人が神に最も近く、模範に値するのは当然というべきだ。

元素

低俗さに共感できないのは、自分の中に低俗さの元素がないからだ。趣味は魂を審美感による道徳度で仕分けていく。

自画自賛

かね貪り人を見くだす若害が大都会に群れ悪業自慢す
国自慢田舎を差別下衆が群れ都心でかねを貪り驕れり
異国人差別し田舎を差別して東京で悪事重ね自画自賛
貧困を蔑視し無欲を虐げて米人模倣し逐円の都塵
金を追い全体主義で保守といい戦争合理化蛮族若害

金儲け

十分以上に金儲けする人は他人がそれを使うためにそうする。貪欲が悪徳なら、過度の蓄財も悪徳である。

2018年7月7日

つきあい

人は尊敬できる人とだけつきあうべきだ。

老若

徳の有無と老若は異なる。

情報

卑しさについて知るには、わざわざ卑しい人々の集まっている都心に近づく必要はない。彼らはこちらが望まなくとも向こうから卑しい情報を発信してくるからだ。寧ろ我々がすべきなのは、この種の情報を積極的に遮断し、自信満々で或いは大上段に送りつけられてくる煩瑣でろくでもない物を即座に破り捨てる事でしかない。

偉業

人類に貢献しようと思っていない者は、利己を超えた為事ができない。そのため卑小で、賢者の目から偉人とは判定されないだろう。賞賛される為とか、我欲を満たす目的で偉業の振りをする偽善者は、日々歴史の眼差しの中で淘汰され、死後忘れ去られるだろう。

暇と忙殺

逐円の為に生涯を費やす人の多さを見れば、その地区で知恵と俗物根性のどちらが尊ばれているかがわかる。知恵ある人は暇だから、商人の様には忙殺されにくい。

指導者の資質

公徳なき人を指導的役割に就けては決していけない。

尊卑の分子

尊卑を見分けられないのは卑しさの分子しかもっていない人に限る。

梅雨のそら

(うぐいす)の鳴くを埋める梅雨つゆのそら

交換価値

金銭のため自由を放擲する者は、かけがえのない物と交換価値を誤認している。

経済力

経済力の本質は、蓄財や浪費といった現金の流れでは把握できない。

因果の雨

戦争を正当化する西国の穢れを雨が町毎流せる
弱肉と強食崇める西国に因果の雨が人共流せる

大雨

大雨よ驕れる京都も流し去れ

行動

永遠に正しいと思われる行動をくりかえす。僅かなりともそれを逸れてはいけない。定言命法が体化されるには、或る行動が永遠性の元に理解されている必要がある。

業績

つまらない人柄が面白い業績を成す事はない。

下賎

下賎な者は下賎さを恥じる能力がない。丁度どぶの中に住む生き物の様に、都会人は悪徳の汚れに気づかず、卑賎さを芬々とさせながら、俗物根性を自慢している。

評価

卑しい人は卑しさを高評価する。

2018年7月6日

知性

知性を俗物根性を満たす為に使っている人、或いは単なる利己心からくる名誉欲や権勢欲に用いている人々を選良と呼ぶのは間違っているし、これらの人々は成金とか成り上がりと呼ばれるにせよ、貴族や本来の教養人では到底ありえない。知性は功利的な目的で、多少あれ利他に使われている間しか尊重に値しないだろう。純粋な真理の探究の為にそれが用いられている間、結果が尊ばれる事はあるにせよ、個人の幸福を超えた効果をもっている訳ではない。

資本主義の功利的用途

資本主義を功利的な目的以外に濫用する人は、単なる利己性の為に人道に敵する。資本主義はこの意味で、本来、行政の普遍的な目的と違和しない。自由至上主義(自由人主義、libertarianism)や新自由主義の或る面が資本主義の合目的性から逸脱している点は、この功利性より利己性を優先する所である。資本主義は漢字自体の意味で経世済民の用に使われるべき思想の一つで、アイン・ランド的、もしくはヘーゲル的恣意を正当化する為のしくみではない。

貴賎

人格的な致命傷として信用にとりかえしのつかない落ち度を与えているのは、貧富ではなく貴賎である。

利己的な目的

利己的な目的で生きている人は、利他的な目的で生きている人に比べて、生きるに値しない。

価値基準

異なる価値基準にあてつけて、他の価値を貶す人は、真の価値を見分けられない。

賢愚

賢愚は一生で最もよく実証される。

向学心のない愚者

向学心のない愚者を賢くする方法はない。本物の愚者とは学ぶ意欲をもっていない者を指す。

卑人

卑しい人と関わるのは、本の僅かな時間でさえ、単に無駄なばかりか有害だ。その様な場に居合わせる機会自体を避ける他ない。卑人は絶えず悪徳をばらまいているし、周りの人をその種の堕落にまきこもうとする。

金銭と自由

金銭を得る為に自由を明け渡す人は、遂に全人類の奴隷となる。

自己肯定

人生の究極目的は、自己肯定を得る事だ。そしてその為には善についてより深く知らねばならない。

2018年7月5日

奴隷国家

天皇を自称する邪教祖が独裁したこの地獄の奴隷国家では、生まれてこない事が最善である。一旦生まれてしまえば難を逃れるべく脱出するか、さもなくば隠居し、情報を遮断し、衆愚に極力関わらないしか不幸を避けるすべはない。

若さと知恵

若さを主な価値としている人は、時と共に減価する。が知恵をそうする人は年を味方にする。また若さは誰もに初めから備わっているので、差異化できない。
 一方、蓄財で知恵の不足を補おうとする人は、ねたみを敬いと誤認させようとし、結果的に憎まれ役になる。金儲けの知恵がありがたがられる時も、それはそのひと個人の人柄への敬意ではない。守銭奴の若者は若害とみなされ嫌われる事からも、金儲けの知恵は道具的価値である。故に過去の金持ちは、その財にたかる人で埋め尽くされ、誰も彼らの人柄を良きものとは思わないのだ。もし多かれ少なかれ愛されるべき金持ちの人格がいたとしても、それは生前に希少価値や他者に必要のある金銭を独占したという憎むべき業に反して、慈善的な側面があった場合に限られる。

行い

自分が世界にとってよいことをした、と思える行いのみをして死んでいくべきだ。

俗人がそう考えるのと違って、驚くべき事に、この世ではいかなるおこない全てについても、ごく小さな言行の一つに至るまで、のこらず業として因果する。聖人はこの理を知って、生あるうちの行いを塵ひとつ正しく修めようとし、それに程あれ成功した人である。

2018年7月4日

衆愚の分析

衆愚は奴隷化されると歓喜する。しかし自由を得ると確実に悪用する。結束主義や全体主義、愛国主義、保守主義、そして神道カルト、天皇崇拝を含む宗教原理主義は衆愚の好む群集心理を編み込んでいる。
 衆愚が生まれるのは閥族の世襲政治が階級を固定化した末、上昇志向を諦めた人々が一般教養の獲得を放棄する事によっている。右翼一般は衆愚の偽装に過ぎない。ゆとり世代が暇を無為に費やした低教養の中で右傾したのは、自ら衆愚化したからに他ならない。

僕の中にある何か

僕が小さな水溜りをみていたら、そこに梅雨(つゆ)の雨が降り出した。やがて水溜りは大きくなり、磐城(いわき)高校の美術部の前を一面、プールの様に水浸しにしていった。この水溜りはどれだけ大きくなるのだろう。水溜りは徐々に全てを覆いだした。美術部の脇の金網から少し見えるいわきの町を大きな濁流が飲み込みだした。僕がみていた物は、しぬほど膨らんでいく。この水溜りに降る雨が、僕の中にある何かなのだ。

臆病者

米軍、天皇、自民党、日本政府、東京都、多数派、大衆に媚びを売り自ら服従している若害や右翼は、単なる臆病者でしかない。

善行の度合い

善行の度合いのみに気遣うがいい。自分が利益の面で他人より損しているのではないかと考える時間は、他人にとって清貧な人柄の方が望ましいので、無為である。営利企業についても、需給の最適化を通じた経世済民が本来の目的だと思い直すべきだろう。

勇気

正しい生き方を選びとる為に必要なのは勇気である。非凡な人と平凡な人を隔てているのは、この勇気である。
 勇気が危険に対する中庸の徳とすれば、それが過小な臆病は自由を他人に明け渡してしまうし、それが過大な無謀は害他的なふるまいによって他者に迷惑をかける我侭に耽る。だが勇気ある人は正しい生き方を自律的に択び、自他に公益をもたらす。

2018年7月3日

探求

死が永遠の探求からの救いだと思われる様に生きるがいい。

潮の香

潮の香に磯原の初夏 宵を告ぐ
涼しさに初夏爽やかに日は過ぎる
庭に撒く水とあじさい目高みる
くまんばち わが家見守り庭さぶらう
ねずみ党ねこの御用で初夏の陣

低俗さ

低俗さに理解が及ばないのは幸運な事だ。だが俗物根性を知らないで済んでいるのも、素朴さの為せる善きわざだ。このいずれの場合にも、都会の風俗は有害でしかない。都会ずれした衆愚が偏見するのと逆に、善き趣味や高尚さは常に田舎の側にあるのだ。

自画自賛するネット右翼の分析

自信喪失している人が自画自賛によって虚栄心を満たそうとする。傲慢や自己愛を補強する為の差別心もこの自信のなさから来た虚栄心の一部を成している。ゆとり世代の大部分を形作っているネット右翼ら(以下、ゆとり若害と略す)が愛国主義者や保守主義者といった同国多数派と彼らが目す衆愚に偽装し虚栄心を補強しようとするのは、怠惰で不勉強な彼らに自己効力感が欠けているからであり、殊更成金根性や拝金主義に走りたがるのはアメリカ資本主義に従属すれば人類の多数派に偽装できると感じているからでしかない。
 いずれの場合も、ゆとり若害は衆愚性を根拠として、虚栄心を満たす手段に恥知らずな自画自賛をくりかえす。だから孤立や実力のなさに直面した時、無意義に群れる事でごまかそうとした彼らの脆い自己愛は自壊していく。この世で実利と相反する虚栄のため半永久的に群れ続ける事はできないし、その種の情けない下衆、不良仲間は自滅を早めるばかりだから、ゆとり若害の末路は四面楚歌の中で虚勢を張り続ける事もできなくなり、多くは人格を破綻させて破滅するのだろう。
 彼らの喜劇は、謙虚な自己反省から始まる本来の自己確立、つまり実存的成長がないので、他人本位で単なる空威張りの差別主義者として行い続けた悪業三昧の記録の故に、一切同情の余地がない所である。

創造物

ひたすら正しい道を辿り
やがて行き着いたところが
誰からも忘れられた小川で
辺りにいるのが草花だけとして
その地が求めていた所なのだ
己の求めていた水が
ここからは湧いている
やがて人々がいなくなり
この泉から湧き出す水だけが残り
価値という概念すらなくなってから
次の命が再びこの水源を流れ
海に行き当たるだろう
作ろうとした物がこの星より尊ければ
私達に都市など要らなかった

正しい道を歩いていれば、終いに幸で満たされる。

田舎の価値

自然や田畑を無と見なす人は既に脳が拝金主義に毒されている。その様な俗物に待っているのは自然の幸や人間愛からの恵みでなく、際限なく軍拡されていく無間地獄の様な金儲けのラットレースだけである。

落ちぶれていく都民

自国の斜陽を虚栄心の残滓からくる他国差別・田舎蔑視でごまかそうと考えている卑しい東京都民らは、嘗て奈良や京都が経てきた没落史を自らもくりかえそうとしている。

尊い人にとっての商に集中するべきだ。

幸と嫉妬

他人の不幸を好物にしている人は、己の幸にも本来の快適さを得られないだろう。恐らく嫉妬の脳部位・前帯状皮質の線条体が他人の失敗を学習的報酬として喜ぶとして、自分に損害のある不幸について同様の脳部位を用いてしまう様になるからなのだろう。自分自身に嫉妬するのは愚かなふるまいに見えるが、現に利己性の中にはこの種の働きがある。例えば自己効力感を超えた偶然の成果に対して、多少あれ自己懐疑をもたざるを得ない様な場面である。悪人と自覚する人が善人より幸福に見える結果を得てしまうと、自らへの嫉妬で自滅を望みだすのだ。
 性悪が全人類の不幸を願うのは、単に自分が幸福になれない事への嫉妬である。しかもこの自分への嫉妬が生まれてくるのは、くりかえし用いてきた嫉妬機能への慣れでしかない。
 他人の幸を常に願う様に自分をしつけなければならない。しかもこの対象は自らに損害を与えてくる悪人に対しての物も含まれる。一見不条理な性格上のお人好しな癖かの如くだが、共感知能が嫉妬の働きを上回る様に自己の脳機能を改良してきた人こそ、本来の幸福に値するし、実際に自他の幸に嫉妬する事がない。我々が恵まれた人と見なすのは、兼ねて嫉妬と縁が遠いこの種の善良な人柄である。カントが義務を至上価値に置いたのは、幸福にまつわるこの機能を悟っていたからである。幸福である為には自己像が善人である必要があるのだ。
 サイコパスは他人の不幸を喜びつつ、自己の幸のみを純粋に追求できる、と或る人は反論するかもしれない。実際彼らにその傾向があるとして、この種の完全な利己主義者こそ誰もが目指すべき望ましい人格だろうか。サイコパスが幸福に値しない場合は、やはり自他に対する関係に依存している。彼らの感じる嫉妬の矛先が自己に向かいえないとするのは、罪悪感や羞恥心を感じにくい反省力の低い人についてさえ、他人から得られる名誉感情が十分満たされない為に明らかに錯誤という他ない。つまりサイコパスも一般的な利己主義者と程あれ同じく、利他性について満足に賞賛を得られない自己に不満である。これが我々の知る傲慢、高慢と呼ばれる心的態度である。傲慢は思う様に他人から褒められない自己について、自己が自己を評価する様にその価値を認めない他人に対する嫉妬として生じている。礼儀の中にはわざと周囲の取るに足りない人物または別の人物を比較対象として褒める事で、婉曲的に当人の自尊心を傷つけるというやり方がある。これがサイコパスや利己主義者一般の自分自身に感じる根本的感情である。つまり利己心から見て本来褒められるべき自分が、通常より激しい他人への嫉妬の故に、常々他人から意図的に貶められている様に彼ら自身からは見えるのだ。傲慢な性格はこうして現れ、偏見や差別を亢進させて鼻持ちならない俗物を生み出す。サイコパスと利己主義者一般の違いは、自他への嫉妬に対する感受性という意味に限っては、程度の差に過ぎない。そしてこれらの人々が幸福に値するよう生きるには、少なくとも利己性を名誉欲に合致させるという限定的な利他行動に自分自身を馴らすしかない。仮言命法に基づいてなら彼らにも善業の意味が分かるからだ。善良であるふるまいをする自分が賞賛に値し当然だ、と他人に見なさせる事が、これら偽善者が疑似的な幸福を得る最後の手段である。だが一般人が偽善をそうと見破るには、聖書の昔から知られていたよう、彼らの善行の目的が純粋な他人の幸にあるのか、それとも善行を自他に認めさせようと人前で賞賛されるべくそうしているかに注目すれば十分だろう。

徳の為の国

徳の為の国故、国の為の徳に非ず。

過去

過去を反省しない者に進歩もない。

利益と道徳

己の行いが利益に適っているかについて気にするな。それが道徳に従っているかにのみ気をつけろ。利益は他者の感謝の元に得られた時のみ正当化できるが、単なる我欲から不当に得た利益は常に共同体から収税されるものだからだ。よしんば脱税に努力したところで、人類全員から逃れるすべなどないのだ。

希望の根

希望の根を絶やすな
あすもあさっても日は昇り
やがて善に勝利をもたらすから
悪しき人々がのさばるこの国で
それでもなお
希望の根を絶やすな
やがて小さな芽が大木となり
正義という名の大樹を作る
そのもとで我らは安らぐだろう
邪悪な閨閥(ケイバツ)と衆愚はおのが悪徳で亡び去り
代わりに立派な人類がやってくる
下衆な都会人やマスコミは痛めつけられ
一人のこらず死に絶えるだろう
やがて希望の根がわが国の大本となるだろう

卑怯者負けて嬉しき

卑怯者負けて嬉しきゆとり若害負ければ賊軍自業自得ぞ
勝ち負けを正義に優ると言い如かば負けて言い訳する余地もなし
薩長土肥卑怯者なる西軍がぼろ負けしてこそ正義の勝利ぞ
善ならば勝ちて褒められ悪ならば負けて喜ぶことが人なり
ざまあみろ世界の思うスポーツマンシップの勝利げすの惨敗
愛国と言いつつ差別ばらまける極悪若害敗北嬉しき

2018年7月2日

卑しい魂から離れて暮らせ。尊い魂と共にあれ。

徳と命の価値

悪徳老人の死は自他に有益であり、高徳な老人の死は自他に有害である。ここで命より高い価値を見出されているのは徳自体であり、結局、自他に与える道徳性乃至それがもたらすだろう功利性に基づいて、ある人の生は値踏みされている。いわば人がその生涯を通じ、人類界でどの程度尊重されるかを確定しているのは、道徳的価値だといえる。
 道徳以外の側面についても、究極のところ功利的な基礎、つまり他者への有益性に基づいて判断される為、その本質は道徳性にあるといえる。命の本体にある物は、他者に対する有益さ、快、幸福性としての道徳性ともいいかえられる。功利性はその快に還元した単純化だと解釈できる。

死と救い

宗教の究極目的は、死を受け入れ易い物と考えさせるのみならず、死その物を救いと考える様に生きる経験を再解釈させる事である。

学び

よりよく学ぼうとしない愚者は、自らの業に応じた結果を得る。また人は学んだ事の因果を得る。より優れた人はより優れた学を得る。賢者はよりよく学んだ人、人格者はよりよい学を学んだ人、聖者は傑出して学んだ人を云う。

日中米の資本主義の違いと理想

他人より蓄財し、他人より金銭をもっている、という事を生きる目的にしている人は、単に他人を見下げる事が金銭を道具にした本来の目的であるから、心根が卑しいだけでなく他人の必要とする分の金銭まで独占しようとするため憎悪を呼び、不幸を絶えず願われる境遇にある。この種の人を守銭奴や成金など、幾つも侮蔑する言い方がある。
 他方でアメリカ人の精神は自己実現の目安と金銭報酬を考える傾向にあり、それは上述の利己性を肯定する事を是認する。アイン・ランドの客観主義は、フランクリンの自助的な清教徒思想のうちアメリカ特有の考え方について分解した物とも捉えられる。現代中国が一国二制度で先富論的な資本主義の強欲な側面を負の面を含めて容認している理論的根拠の一部には、これらと異なる出自があるとしても、結果は資本主義経済への条件つき適応という意味で似通っている。
 これらの国々と、日本の資本主義、特にそのうち拝金主義的側面は出自も目的も異なっている。日本でのそれは江戸時代の封建的な大名支配国家にスコットランド武器商人グラバーの内乱誘致の悪意を援用して反旗を翻した人々の英雄視を一つの起因とし、富国強兵という多分に自国第一主義的な傲慢に目的を置いた物である。薩長藩閥の内乱罪含め日帝の植民地主義での被害を反省しない日本の一部右翼は、この富国強兵論の絶対化を図る為に、拝金主義を国家事業という見方で利己的に肯定する。そこで生じる守銭奴や成金根性の根底にあるのは、愛国心に偽装した全体主義国家論的な利己性、つまり他人を見下げようとする自己愛妄想やうぬぼれに他ならない。
 米国人の商売志向の出自には清教徒思想があったが、その信仰としての利他心がキリスト教的基礎から脱着された時、純粋に利益追求を目的とする資本主義精神になったとマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で定義したとして、出自の異なる類似言動には本質の面で違う意向が見られる事もまた事実ではないだろうか。日本の資本主義は少なくとも米国流のカルヴィニズムという根っこが欠けているので、その商業活動で純粋に目的化されているのが他人や他国を見下げたい、という単なる強欲になっていると考えられる。これが日本の商人が寄付や慈善活動に消極的なばかりか、給料をもらって生活している労働者といったその被雇用者一般にも、商いの目的意識に広義の利他心が見られない一つの原因である。しかも中世から近世に渡って醸成された、儒教や仏教の倫理学的基礎付けをもつ武士道の名残が、無意識から貴族の義務として利益追求に賤業視をも加える為、事情は更に複雑である。日本の民衆の間でしばしば成金根性が大いに蔑まれているばかりか、純粋芸術家や求道僧といった清貧な生活者に高貴な精神性を見出そうとするのも、この種の日本的な金銭に対する価値観が及ぼす所である。即ち日本人一般は貧富と貴賎に多少あれ違う倫理的基礎づけを行っているので、東京横浜や大阪京都といった商業都市化された一部の地域の民衆を除けば、豪勢な顕示的消費や貧民蔑視といった典型的な商人気質が好む贅沢や傲慢さを蔑視する傾向にあるのだ。共産党を肯定する中国での金銭への価値観が、豪華を国威発揚の印として全面的に容認するのと対照的ともいえるこの様な日本的な経済感覚は、そもそもの依って立つ倫理学的な理念が日中で明らかに異なる事を示している。また米国でのそれが、既に大いに忘却されたとしても、本来はキリスト教的な慈善を天職を通じて完成させる事にあったという点にも、日中とアメリカの資本主義に異なる価値観を導入するのだ。
 日本での資本主義の理想は、富国強兵と呼ばれる愛国心にかこつけた偽装的洗脳で皇族閥や薩長藩閥など一部の寡頭支配者への自己犠牲的な奉仕を意味し、戦後の平和主義的法制の中では強兵の代わりに平和的な経済発展の中で文化輸出を試みてきたが、安倍晋三や麻生太郎という明治寡頭政治の薩長閥残党が国政を牛耳るに従い、再び強兵的な退行をみせはじめている最中である。そして米国が全人類に対する自然権の理念に基づく自由の最大化を通じた慈善事業的な目的意識や、中国が古来の中華思想に多かれ少なかれ接続される自国中心の全労働者の解放意識をもつのと違って、日本の資本主義には他国に見下されたくないとか、名誉ある地位を占めたいといった武士道における貴族的感覚の他に、高遠な理念が欠落しているので、米中を押しのけてまで利益追求やその社会還元を行おうとする目的性はなく、寧ろ米中に前後するという追従者の役割で満足している成金や、自らの永続的地位の保全のため政治界を通じて世界の顔色を窺っている皇族自身の持つ態度が限度なのである。日本人のうち、東京都市圏や関西都市圏に暮らしている人がしばしば傲慢な自我の発露を恥じず、自らより金銭をもたないとみなした自国民や地域へ侮蔑的な態度をとって罪悪感もないのは、構造主義的倫理観をもたない彼らが他のアジアへ向ける前時代的で差別的な態度と同様であり、その態度の本質にある物は彼ら自身が他人を見くだしたい、という一心で商売に従事しているという卑賎で卑屈な精神性に他ならない。その様な国柄、地域、民衆、民情、都市の性質を変更するには、根幹にある理想を再提出するに如くはないが、現在の国内における儲けで大いに虚栄心を満足させるこれら日本の大都市住民が島国根性や全体主義的国家への妄信を自ら脱却するのは先ずありえない事だから、その革命や革新が起きるとしても彼ら大都市住民に普段から特にいわれない差別を受けている田舎の人々からとなるに違いない。最低でもこれら日本の田舎の住民は、彼らが不当に大都市民から差別を受ける程度に応じて、差別という下賤な悪意ある制度や商業や徴税による搾取を通じそれを多少あれ行う皇族含む衆愚に対し反意を蓄積しているので、脱差別的な普遍的権利平等社会を当然志向するだろうから、新たな改良資本主義への理想についても、米中と同等以上に博愛的な物となる事は必定である。

拝金主義と改良資本主義

資本主義は資源を同時代需要に基づいて最適配分する為に合理的な思想、新宗教として多くの人類の経済的な考え方を牛耳ってきているが、その欠点として未来の世代や同時代の公害全てを考慮に入れられず、金銭に還元されない価値を無視してしまう事などが見つかる。つまり資本主義が最悪の使われ方をすると、未来に破滅を、同時代に大公害をもたらし、且つ金と関係ない人間の命や幸せを含む生存価値のすべてを侵害してしまう。しかも資本主義一般は、商才に基づいて格差を極大化するので、商才以外の能力を淘汰なり軽侮させる原因となり、超少数の単なる守銭奴が人類の富の過半以上を独占する悪い結末に至る。
 これらを主とする資本主義の負の面を堕落した悪意で容認する人の考えを拝金主義と定義すると、資本主義の利点を顧慮しつつその欠点を改良しようという基本的な態度をもたない人は、或る場合には彼らの信仰の故に自他に有害である。
 改良資本主義と呼ぶべき考え方が、政府による調整、公共投資を容認する修正資本主義や、市場放任を前提としつつ高福祉の為の累進的高税率を要する社民主義などとして試みられてきた。しかし自由至上主義・libertarianismや、新自由主義がこれらの完全自由市場の理想へ与えている阻害要因に反論してきた。だが自由至上主義や新自由主義はその拝金主義的側面をもちあげられておらず、寧ろ配分正義に偏った格差のほぼ無際限な肯定を含め、ますます資本主義の負の面を強化しようとすらする。つまり修正資本主義や社民主義といった改良資本主義の諸思想は、少なくとも自由至上主義や新自由主義からの反論に十分耐え得る論理的基礎を持っていることになる。改良資本主義の中で、多数派の功利、質的快楽としての幸福増大に志している思想が複数あり、客観的幸福度の調査について成果も十分出ているにも関わらず、拝金主義的諸思想を妄信する衆愚は、単に無知でなければ害他的な利己主義者という意味で悪意か、どちらかである。従って人類の必然的進歩は、拝金主義的諸思想を遠からず脱し、又そこから脱し得なかった人々を反例として置き去りにする事で、改良資本主義的な社会を構築し、既にそうなっている国々、地域を参考に、更に優れた思想を自由に己の関わる社会へ適用しようとする事が明らかである。

尊い為事

ひたすら道徳性の高い人に奉仕する為事に従事するがいい。徳を増す為事、徳を高める為事のみ、本来の功利性を満たすからだ。

都鄙差別の分析

都会が田舎の上位にあるという妄想は、天皇中華思想に基づく救い様がない利己心の発露であり、それに同調しようとする卑しい衆愚性に他ならない。この種の偏見や差別はそれをもつ当人に様々な不都合をもたらすのみならず、本来田舎から得られる快適さや恩恵を自ら拒否し、都会から得る事になる害や悪徳を必然に体化するという意味で、自滅の原理に違いない。都鄙差別という悪徳をもたらす天皇を自称する古代中国移民の自己愛妄想障害は、皇族当人らの破滅的な末路を予言するだけでなく、その悪業に同調している衆愚自身を地獄にひきずりおろす。

西国及び一部右翼の弱肉強食主義についての分析と改善案

天皇制結束主義(天皇制ファシズム)や、明治維新と呼ばれる反政府恐怖政治(反政府テロリズム)や薩長寡頭政治を正当化し、第二次大戦又は太平洋戦で日本軍が敗北した事のみを反省点としている、主に山口県や鹿児島県の民衆をその利己主義の原因としている日本の一部の自称右翼らは、単なる権謀術数主義者(マキャベリスト)に他ならず、弱肉強食を狂信するのみで、善悪や政治思想を到達する目的ではなく我欲を満たす道具としか見ていない。この意味で、彼らは文明を道具としか見ていない野蛮人であり、衆愚、独裁者、寡頭政治家いずれかの暴力が全てを支配する事を当然視し、また自らもその一部に積極的になろうと考えて行動している。そこで彼らに言われている戦前の反省は、決して善悪や政治思想上の公徳に基づいた物ではなく、ただの暴力で負けた事に対する後悔でしかない。これ故に、薩長寡頭政治への妄信や天皇独裁回帰を何の臆面もなく吐露するばかりか、国民の権利、人権を侵害して恥じず、アメリカ合衆国やフィリピン含む慰安婦像問題に関するよう諸外国や沖縄県における反基地運動に対してみられるよう自国における表現の自由を侵害し、明治回帰を大真面目に主張しているのである。
 明治テロを首謀した人々が出自した山口県や鹿児島県、又この共謀者となった高知県や佐賀県等を含む西日本全般は、自県の歴史において上述の弱肉強食主義を当然とみなす人々が行政において支配的であり、しかもこれら西国諸県の互いの利害の相反を超克する目的で、天皇制結束主義がこれらの上位原理として日本国全体、日本国民全員を独裁する事を、再び多かれ少なかれ理想視もし兼ねない考え方をもっている。つまり、彼ら西国行政人一般の多数政治、民衆政、democracyに対する理解や共感の念は殆ど表面的な対米追従に過ぎず、しかもその理由は暴力で劣っていたから、という酷く卑小な物なのである。
 もしこれらの分析が正しければ、西日本を支配する原理は単なる暴力であり、他ではない。天皇もその暴力の源泉としてのみ要求されており、もし天皇を絶滅させる暴力が現に現れたら、西日本の行政人らは一斉にそちらへなびくことだろう。そして教育によって彼らの脳内に、暴力を超えた善悪の観念とか、政治思想の意義を惹起しようとする時、明治政府や薩長藩閥による恐怖政治を正当化している日本国政府や、皇室は利己心を目的に、従来通り天皇狂信や政府妄信への洗脳を行おうとするので、少なくとも公教育においてはこの目的は多少あれ歪められてしまうだろう。つまり、西日本の行政人らと、その公教育的意図に基づいて思想統制されているおもに西日本の民衆に、明治以後の自民族中心主義や自文化中心主義的歴史解釈における利己心を超えて本来の倫理学や、政治思想の多義性に目を開かせるには、公教育の独裁者としての皇室を政府から除外するか、日本政府自体、公教育を司る文科省自体に、飛鳥時代以後に生じた天皇支配の歴史を含む弱肉強食主義を懐疑させる観点を義務づけるか、さもなければ公教育制度を除去し私教育のみを公費の補助を含めて再構築するか、いずれかが必須となる。

愛国心と寛容性は必ずしも矛盾する概念ではない

或る東京都在住の東京都民の自称右翼が、愛国者ぶりながら或る偏見で又は事実としての田舎と見なした茨城県民や茨城県を差別なり侮蔑している場合、この種の都民は当然ながら日本国の一部を愛していないので愛国者ではない。この種の似非右翼は、単なる利己主義者が愛国者に偽装しているに過ぎない。この種の人物は小中華思想に基づく利己心を正当化する言い訳に、驕り高ぶった都民という衆愚的な多数派に紛れ込もうと悪意でしているのである。
 しかもこの種の似非右翼が隣国や、他国を無益に蔑視したり、排外主義の主張をしている場合、人類一般あるいは特定の人類や他国の権利を侵害しているので、その思いは本来の愛国心でもない。この種の人物は、単なる有害な利己主義者である。
 真の愛国者は自他の国々を、国内全ての地域同様に愛する者であり、他者が自国を愛する気持ちも自国に対する愛着と等価に尊ぶ。この種の本来の愛国心は、平成の自称右翼ら、自称保守主義者全般にとって理解しがたい物になっている。それは利己心を愛国心と誤認しているからである。恐らく似非右翼の中で、福沢諭吉が『文明論之概略』で定義した偏頗心としての愛国という定義をその語の定義とし、しかも福沢や吉田松陰の植民地主義や侵略主義的なアジア蔑視を正当化しているからそうなのだ。
 愛国心や保守主義を偽装する人は、本来の愛国主義をliberal、自由と呼んで蔑む。しかし自由のミルによる倫理学的定義に基づけば、他人を害しない範囲における個人的自由や、カントの定義におけるよう群集心理や多数決と無関係に自律的に良心に従う態度を指す語義が自由であり、似非右翼は、本来の愛国主義としてのliberalismと大いに相反する曖昧な意味でこの語を誤用している。少なくとも、ミルとカントによる自由の意味においては、愛国主義、愛国心と自由は何も矛盾しないし、寛容性と捉えたliberalさとも矛盾しない。Liberalismを自由主義と訳した時に包含する意味、例えば市場放任としての経済学用語等の多義性の為に語が誤解され易い不都合を避け、政治的態度に限って寛容主義と訳す場合、主義全部を全体集合と捉えた時の愛国主義や保守主義の部分集合と、寛容主義の部分集合には共通部分がある。寛容性自体は愛国性や保守性と必ずしも矛盾しない。

幸せの為の国

自他国民全員の幸せの為の容器として国は利用されるが、国の象徴、天皇皇族、政治家、自衛隊員や軍人、一部の右翼の為に一人たりとも自他国民が不幸を余儀なくされるとすれば、その様な国は無益有害と言うべきだろう。革命権、さもなければ国を改善する権利が要求されるのは、或る国が国内外の或る国民の不幸の原因となっている場合である。

いかに生きるべきか

人はいかに生きるべきかを最初から最後まで学び続けねばならない。

2018年7月1日

無駄

愚者の相手をする時間は全くの無駄である。愚者は何も学ばない上に、逆恨みするばかりだろう。

国語

国語は言外の意味を知る為の教科。

強弱と善悪

強弱を善悪と混同している人は、悪しき強さに従う結果、自滅する。