2018年7月2日

愛国心と寛容性は必ずしも矛盾する概念ではない

或る東京都在住の東京都民の自称右翼が、愛国者ぶりながら或る偏見で又は事実としての田舎と見なした茨城県民や茨城県を差別なり侮蔑している場合、この種の都民は当然ながら日本国の一部を愛していないので愛国者ではない。この種の似非右翼は、単なる利己主義者が愛国者に偽装しているに過ぎない。この種の人物は小中華思想に基づく利己心を正当化する言い訳に、驕り高ぶった都民という衆愚的な多数派に紛れ込もうと悪意でしているのである。
 しかもこの種の似非右翼が隣国や、他国を無益に蔑視したり、排外主義の主張をしている場合、人類一般あるいは特定の人類や他国の権利を侵害しているので、その思いは本来の愛国心でもない。この種の人物は、単なる有害な利己主義者である。
 真の愛国者は自他の国々を、国内全ての地域同様に愛する者であり、他者が自国を愛する気持ちも自国に対する愛着と等価に尊ぶ。この種の本来の愛国心は、平成の自称右翼ら、自称保守主義者全般にとって理解しがたい物になっている。それは利己心を愛国心と誤認しているからである。恐らく似非右翼の中で、福沢諭吉が『文明論之概略』で定義した偏頗心としての愛国という定義をその語の定義とし、しかも福沢や吉田松陰の植民地主義や侵略主義的なアジア蔑視を正当化しているからそうなのだ。
 愛国心や保守主義を偽装する人は、本来の愛国主義をliberal、自由と呼んで蔑む。しかし自由のミルによる倫理学的定義に基づけば、他人を害しない範囲における個人的自由や、カントの定義におけるよう群集心理や多数決と無関係に自律的に良心に従う態度を指す語義が自由であり、似非右翼は、本来の愛国主義としてのliberalismと大いに相反する曖昧な意味でこの語を誤用している。少なくとも、ミルとカントによる自由の意味においては、愛国主義、愛国心と自由は何も矛盾しないし、寛容性と捉えたliberalさとも矛盾しない。Liberalismを自由主義と訳した時に包含する意味、例えば市場放任としての経済学用語等の多義性の為に語が誤解され易い不都合を避け、政治的態度に限って寛容主義と訳す場合、主義全部を全体集合と捉えた時の愛国主義や保守主義の部分集合と、寛容主義の部分集合には共通部分がある。寛容性自体は愛国性や保守性と必ずしも矛盾しない。