2018年7月2日

日中米の資本主義の違いと理想

他人より蓄財し、他人より金銭をもっている、という事を生きる目的にしている人は、単に他人を見下げる事が金銭を道具にした本来の目的であるから、心根が卑しいだけでなく他人の必要とする分の金銭まで独占しようとするため憎悪を呼び、不幸を絶えず願われる境遇にある。この種の人を守銭奴や成金など、幾つも侮蔑する言い方がある。
 他方でアメリカ人の精神は自己実現の目安と金銭報酬を考える傾向にあり、それは上述の利己性を肯定する事を是認する。アイン・ランドの客観主義は、フランクリンの自助的な清教徒思想のうちアメリカ特有の考え方について分解した物とも捉えられる。現代中国が一国二制度で先富論的な資本主義の強欲な側面を負の面を含めて容認している理論的根拠の一部には、これらと異なる出自があるとしても、結果は資本主義経済への条件つき適応という意味で似通っている。
 これらの国々と、日本の資本主義、特にそのうち拝金主義的側面は出自も目的も異なっている。日本でのそれは江戸時代の封建的な大名支配国家にスコットランド武器商人グラバーの内乱誘致の悪意を援用して反旗を翻した人々の英雄視を一つの起因とし、富国強兵という多分に自国第一主義的な傲慢に目的を置いた物である。薩長藩閥の内乱罪含め日帝の植民地主義での被害を反省しない日本の一部右翼は、この富国強兵論の絶対化を図る為に、拝金主義を国家事業という見方で利己的に肯定する。そこで生じる守銭奴や成金根性の根底にあるのは、愛国心に偽装した全体主義国家論的な利己性、つまり他人を見下げようとする自己愛妄想やうぬぼれに他ならない。
 米国人の商売志向の出自には清教徒思想があったが、その信仰としての利他心がキリスト教的基礎から脱着された時、純粋に利益追求を目的とする資本主義精神になったとマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で定義したとして、出自の異なる類似言動には本質の面で違う意向が見られる事もまた事実ではないだろうか。日本の資本主義は少なくとも米国流のカルヴィニズムという根っこが欠けているので、その商業活動で純粋に目的化されているのが他人や他国を見下げたい、という単なる強欲になっていると考えられる。これが日本の商人が寄付や慈善活動に消極的なばかりか、給料をもらって生活している労働者といったその被雇用者一般にも、商いの目的意識に広義の利他心が見られない一つの原因である。しかも中世から近世に渡って醸成された、儒教や仏教の倫理学的基礎付けをもつ武士道の名残が、無意識から貴族の義務として利益追求に賤業視をも加える為、事情は更に複雑である。日本の民衆の間でしばしば成金根性が大いに蔑まれているばかりか、純粋芸術家や求道僧といった清貧な生活者に高貴な精神性を見出そうとするのも、この種の日本的な金銭に対する価値観が及ぼす所である。即ち日本人一般は貧富と貴賎に多少あれ違う倫理的基礎づけを行っているので、東京横浜や大阪京都といった商業都市化された一部の地域の民衆を除けば、豪勢な顕示的消費や貧民蔑視といった典型的な商人気質が好む贅沢や傲慢さを蔑視する傾向にあるのだ。共産党を肯定する中国での金銭への価値観が、豪華を国威発揚の印として全面的に容認するのと対照的ともいえるこの様な日本的な経済感覚は、そもそもの依って立つ倫理学的な理念が日中で明らかに異なる事を示している。また米国でのそれが、既に大いに忘却されたとしても、本来はキリスト教的な慈善を天職を通じて完成させる事にあったという点にも、日中とアメリカの資本主義に異なる価値観を導入するのだ。
 日本での資本主義の理想は、富国強兵と呼ばれる愛国心にかこつけた偽装的洗脳で皇族閥や薩長藩閥など一部の寡頭支配者への自己犠牲的な奉仕を意味し、戦後の平和主義的法制の中では強兵の代わりに平和的な経済発展の中で文化輸出を試みてきたが、安倍晋三や麻生太郎という明治寡頭政治の薩長閥残党が国政を牛耳るに従い、再び強兵的な退行をみせはじめている最中である。そして米国が全人類に対する自然権の理念に基づく自由の最大化を通じた慈善事業的な目的意識や、中国が古来の中華思想に多かれ少なかれ接続される自国中心の全労働者の解放意識をもつのと違って、日本の資本主義には他国に見下されたくないとか、名誉ある地位を占めたいといった武士道における貴族的感覚の他に、高遠な理念が欠落しているので、米中を押しのけてまで利益追求やその社会還元を行おうとする目的性はなく、寧ろ米中に前後するという追従者の役割で満足している成金や、自らの永続的地位の保全のため政治界を通じて世界の顔色を窺っている皇族自身の持つ態度が限度なのである。日本人のうち、東京都市圏や関西都市圏に暮らしている人がしばしば傲慢な自我の発露を恥じず、自らより金銭をもたないとみなした自国民や地域へ侮蔑的な態度をとって罪悪感もないのは、構造主義的倫理観をもたない彼らが他のアジアへ向ける前時代的で差別的な態度と同様であり、その態度の本質にある物は彼ら自身が他人を見くだしたい、という一心で商売に従事しているという卑賎で卑屈な精神性に他ならない。その様な国柄、地域、民衆、民情、都市の性質を変更するには、根幹にある理想を再提出するに如くはないが、現在の国内における儲けで大いに虚栄心を満足させるこれら日本の大都市住民が島国根性や全体主義的国家への妄信を自ら脱却するのは先ずありえない事だから、その革命や革新が起きるとしても彼ら大都市住民に普段から特にいわれない差別を受けている田舎の人々からとなるに違いない。最低でもこれら日本の田舎の住民は、彼らが不当に大都市民から差別を受ける程度に応じて、差別という下賤な悪意ある制度や商業や徴税による搾取を通じそれを多少あれ行う皇族含む衆愚に対し反意を蓄積しているので、脱差別的な普遍的権利平等社会を当然志向するだろうから、新たな改良資本主義への理想についても、米中と同等以上に博愛的な物となる事は必定である。