2018年7月9日

目的資本主義と道具資本主義の違い

資本主義は意欲に基づく資源配分の一手段でしかなく、その営利性という機能から来る搾取的・付加価値的結果である蓄財を羨望や社会的地位の向上をもたらす目的と考えるのは不合理だ。資産、貯金額、利益を得る商才でそれ以外の諸人間性を測ろうとする人は当然の如く、道を誤る。歴史をみれば分かる通り金銭は遠からず失われるし、商才自体も永続した商家がみあたらないよう、ある時代の経済構造や場所、そして運に依存するから、決して遺伝するとはいえないからだ。
 性善的、又は生後に善良なたちになった人は、利己目的の為に意欲をもちづらい。裏を返せば性悪か生後に悪質な育ちの人々が資本主義に適応し易いのである。では多数派が経済思想について資本主義的である様な多数政の元で、貪欲な大衆一般からの清貧差別で追いやられる善良な人々に居場所はないのだろうか。その様な無条件に利他的な人々こそ、本来称賛に値するし、また幸福たるべきではないのだろうか。非営利活動の一切がその種の人々の生きるべき活動であり、善良な人であればあるほど脱資本主義的な経済、非営利経済、自主的な寄付社会を先駆けていく事になる。いいかえれば、本来、資本主義やそれがもたらす商人階級の一切が、この種の非営利活動を行う貴族的な人の乗り物となるべき存在なのである。
 非営利活動の至善状態が、或る個人に維持不能なほど過度の善業(自己犠牲ともいう)への執着も超えた無業にあるとすれば、有閑階級一般と同様に、無業者が脱資本主義の最終解脱者だ。しかし労働階級を含む下等商人や永続的搾取を目的とする堕落した皇族閥や政治家らは、彼らの資本主義への狂信的合目的視の為、皆労働や完全雇用を当然視したがる。資本主義を目的視する考え方を目的資本主義、それを道具視する考え方を道具資本主義と定義すると、目的資本主義者は道具資本主義としての非営利性の領域が本来の人間的住みかな事を盲点としている。彼らの中では自然や宇宙、純粋芸術、科学、哲学、宗教といった商業都市の埒外にある様な対象についても、投機性とか利益という何らかの通貨と交換する事を前提とした金儲けの価値観でしか見れなくなっている。いわば道具資本主義が果たすべき限定的機能としての資源配分が、目的資本主義者の中ではその他の目的にすりかえられてしまっているのだが、これは目的資本主義が単なるアダム・スミス的神の手幻想による邪教な証という他ない。実際、格差拡大を正当化する目的資本主義者の目から、生存権の範囲で資源を当然配分されるべき最貧者は無視され、事実上見殺しにされてしまうのだ。目的資本主義の否定、かつ道具資本主義を超えた善なる行動としての無業は、通俗的職業倫理を脱俗した最も神的な精神で、自由であるという点でアリストテレスがそう定義した通り最も観想的で幸福な生たる事が明らかだが、それがわかりまた実践できる人は、営利性も寄付性も中道に立ってのりこえている。これは目的資本主義において相利性として理解される商取引とは異なる観点だが、元々取引はその様な人道の調節によってしか最適化されない。公平な取引と言われているものは、単なる政府の徴税と福祉による再配分(資産調整・矯正)と違う意味で経済的である。 
 クール資本主義といわれている考え方は、道具資本主義をのれん代(買収時に上乗せされる無形資産価値)から見直したいいかえである。
 貴族(貴族という概念自体が多数政を当為視する脳では軽視される言い方かもしれないが)とか貴人、無業者、無銭者が取引をしえない、というのは、この様な道理に立てば間違いといえるのと同時に、営利的でも寄付的でもない上に、相利を目的ともしない或る公平無私な交換が成り立つとわかる。取引上の利益とか、取引額としての売上高やGDPを経済性と誤認している量的観点は、経済学上の無知によっている。そのため貧しい浪費家とか、忙殺されるかケチな守銭奴がおり、資金繰りに失敗する黒字大企業の倒産もあり、のれん代の高く地味な中小企業の余裕といった質的な巧拙が成り立つのだ。寧ろ道具資本主義の見方では、この様な商取引一般を含み、無償や赤字とされる取引を含む総合的経済状況が分析対象でなければならない。