他人の不幸を好物にしている人は、己の幸にも本来の快適さを得られないだろう。恐らく嫉妬の脳部位・前帯状皮質の線条体が他人の失敗を学習的報酬として喜ぶとして、自分に損害のある不幸について同様の脳部位を用いてしまう様になるからなのだろう。自分自身に嫉妬するのは愚かなふるまいに見えるが、現に利己性の中にはこの種の働きがある。例えば自己効力感を超えた偶然の成果に対して、多少あれ自己懐疑をもたざるを得ない様な場面である。悪人と自覚する人が善人より幸福に見える結果を得てしまうと、自らへの嫉妬で自滅を望みだすのだ。
性悪が全人類の不幸を願うのは、単に自分が幸福になれない事への嫉妬である。しかもこの自分への嫉妬が生まれてくるのは、くりかえし用いてきた嫉妬機能への慣れでしかない。
他人の幸を常に願う様に自分をしつけなければならない。しかもこの対象は自らに損害を与えてくる悪人に対しての物も含まれる。一見不条理な性格上のお人好しな癖かの如くだが、共感知能が嫉妬の働きを上回る様に自己の脳機能を改良してきた人こそ、本来の幸福に値するし、実際に自他の幸に嫉妬する事がない。我々が恵まれた人と見なすのは、兼ねて嫉妬と縁が遠いこの種の善良な人柄である。カントが義務を至上価値に置いたのは、幸福にまつわるこの機能を悟っていたからである。幸福である為には自己像が善人である必要があるのだ。
サイコパスは他人の不幸を喜びつつ、自己の幸のみを純粋に追求できる、と或る人は反論するかもしれない。実際彼らにその傾向があるとして、この種の完全な利己主義者こそ誰もが目指すべき望ましい人格だろうか。サイコパスが幸福に値しない場合は、やはり自他に対する関係に依存している。彼らの感じる嫉妬の矛先が自己に向かいえないとするのは、罪悪感や羞恥心を感じにくい反省力の低い人についてさえ、他人から得られる名誉感情が十分満たされない為に明らかに錯誤という他ない。つまりサイコパスも一般的な利己主義者と程あれ同じく、利他性について満足に賞賛を得られない自己に不満である。これが我々の知る傲慢、高慢と呼ばれる心的態度である。傲慢は思う様に他人から褒められない自己について、自己が自己を評価する様にその価値を認めない他人に対する嫉妬として生じている。礼儀の中にはわざと周囲の取るに足りない人物または別の人物を比較対象として褒める事で、婉曲的に当人の自尊心を傷つけるというやり方がある。これがサイコパスや利己主義者一般の自分自身に感じる根本的感情である。つまり利己心から見て本来褒められるべき自分が、通常より激しい他人への嫉妬の故に、常々他人から意図的に貶められている様に彼ら自身からは見えるのだ。傲慢な性格はこうして現れ、偏見や差別を亢進させて鼻持ちならない俗物を生み出す。サイコパスと利己主義者一般の違いは、自他への嫉妬に対する感受性という意味に限っては、程度の差に過ぎない。そしてこれらの人々が幸福に値するよう生きるには、少なくとも利己性を名誉欲に合致させるという限定的な利他行動に自分自身を馴らすしかない。仮言命法に基づいてなら彼らにも善業の意味が分かるからだ。善良であるふるまいをする自分が賞賛に値し当然だ、と他人に見なさせる事が、これら偽善者が疑似的な幸福を得る最後の手段である。だが一般人が偽善をそうと見破るには、聖書の昔から知られていたよう、彼らの善行の目的が純粋な他人の幸にあるのか、それとも善行を自他に認めさせようと人前で賞賛されるべくそうしているかに注目すれば十分だろう。