2009年9月30日

川面

雨の色宇宙の中に降りしけり
行きつ戻りつ新米買うかな
コンビニのあとに入りしコンビニそ
ひむかしの夏はつづきぬ秋雨よ
子供らの語る言葉の渋柿や
転び手を洗う川面の撥ねる音

2009年9月28日

黒塗りのベンツから出てきたのはどこか、しらない遠い、世界のすみっこの奇妙なちっこい猿。そいつはどうやら島の猿の王だ。その猿は生れついたときから島に在来してるほかのおさるとは違う檻で飼われている。ベンツをもってきてもらって、自分だけは守りがつく。そのボス猿はひょろひょろしている。知能も満足ではない。証拠に、とてもはやく発情する。とても喧嘩で、議論でのしあがってきたタイプには見えない。その猿は生まれついてから一度もベンツで守られなかったことはない。いつでも大変な大金で匿われている。その飼糧はすべて島に在来する、小さな細々しい部屋に住む働き猿がもってくる。絶えることのない貢ぎ物。まるで工場生産の様に、運ばれる徴税の貴重な資源。だがそれが働き猿の手元にもどってくることはなく、威張りくさったボス周りへすべては分割されていく。その取り巻きは自分の取り分を誇り、ほかの働き猿をけちらし、つねに傲慢な態度でほかのお貰いに預かれなかった子サルを見下し見下し虐めている。なにしろあらゆる武器は取り巻きの手にあるのだから当然だ。逆らった猿は監獄で殺されていく。働きサルはとても貧弱でいつも敵対ばかりしているそれぞれ少数の勢力なので、ボスの大群を打つ軍団へ決して逆らわない。殺されるのが怖くて逆らえないのだ。しばらく観察しているとそのボス猿はとてもはやい時期に発情をし、あちこち旅行する。たまの任務は、珍しいメスでもさぐる気なのか、図鑑を読む。それしかしない猿が王様だ。すべての困難な仕事は働き猿がやる。街を築き、漁をし、田畑を耕し山菜を採る。歌って踊って小話を書き付け面白がらせる。天が登り日と沈む。そのくりかえし。何年も何年も、何千年も。だれも大昔のことは思い出せないがどう見ても比弱そうなちいさな猿の住む、世界の隅のその奇怪な島ではこの儀式が延々とくりかえされる。働き猿と発情王の社会関係。そしてその島では、ほかに何も起こらない
 ジパング観察記、九月二十八日しるす。

2009年9月27日

物見

己れの多くを語ろうとする者は好意を持たれる機会を失う。
直感の鋭い者は内心を見分け、鈍い者は見誤る。
直感の鈍い女はまず子孫を残さない。
理知の刃による傷は暴力によるそれより浅い。
性格によってではなく外見で結婚を決めると必ず後悔する。
愚か者は動物の生態論を人間へも直接あてはめてしまう。
引っ込み思案な者はその性質を愛していることが多い。
古色蒼然たる建物は人知よりも忘却を望む。
商人は臆病。
芸者は老獪。
知恵ある女性は献身によって逆に家政を摂る。
科学者はいざとなれば卑怯さを隠さない。
哲人と話すひとは自らも道理の衣を知らずしらず纏う。
運動選手は職業症を終生患う。
ひとは空っぽの箱でもありがたければ拝む。
見栄っ張りはつまらない死に方をする。
神社は悪を裁かず、因果応報に任せる。
都会には煩雑さよりほか何もない。
風景だけが記憶される。
共生を理想化する者はつけこまれる。
理屈より行動を信じる者が賢かった試しはない。
聖人をそしるのは砂つぶてを向かい風に向かって投げた様だ。
美を望むのなら夢見がちな感情を大切にするしかない。
美醜を見分ける者は必ずしも美人でない。
恋愛というものは成就されない方がよい。
綺麗な街は住みびとたちの神経質さに依存する。
肩書で人間を判断する者は自らもそうされる。
子供心を失わなかったひとだけがいつまでも感覚よい。
大衆に見習うと卑しさというオマケがつく。
品性は自己判断できない。
都会人が繊細であることは殆どない。
自然を理想視している者は野蛮にまみれる。
理論で説得されなかった者はいずれ暴力でそうされる。
取るに足らない者はすぐれた他人をもそう思う。
一般論と例外をすぐさま見分けるには天性に恵まれている必要がある。
自分を馬鹿だと言うひとはそう目されることを望んでいる。
利口ぶった女性は学問を誇るにすぎず頭脳をではない。
嫉妬深い女性は最終的に自己矛盾に陥る。
馬鹿な女は発情期以降は生きている意味がない。
男らしさを筋骨に求める者は決して出世大成しない。
母性によって養育されなかった幼児は可愛いげがない。
知性によって理性を駆逐したがる者は誰からも利用されるに過ぎない。
鈍重な性質の者は虐められた仕返しを地位肩書の自己満足で行う。
思慮の浅い者は生かじりの知識を筋金入りの道理よりも立派だと勘違いしている。
思慮の浅い老人は孝行心からの介護を期待できない。
道徳ある少年を軽視していた浅はかな成人は輝かしい将来を持てない。
俗物からの評価を絶対視すると流行に後れる。
つまらない家庭教師に習わせると試験成績と引き換えに勉強ぎらいになる。
不良教師を公に批判しない生徒は陰口の習慣をつける。
女性教師が幼児や年少以上の教育に向く可能性は殆どない。
浅はかな老人は死後語られること少ない。
若造を畏れなかった老人は必ず既にある名声をも剥奪される。
実力以上に評価されてきた有名人は偶然の風向きで涼んでいる旅人に似ている。
仲間から賢者を追い出すと自滅しやすい。
よい忠告は比喩を用いない。
諌められる上司は信望で勝る。
長い旅は世の中の変化を教える。
操作できない値頃は固定されている方がいい。
清浄な空気の期待できない街では健全な青少年が育てにくい。
山奥に閉じこもって暮らすと段々猿と似てくる。
性格のよさは欠点を隠す。
徒労は経験値、下調べはその省力。
よい面ばかりを語る商人は悪徳を見抜かれて店じまいすることになる。
異民族間で仕事をすると二倍以上の経験則が貯まる。
堅実な商売しか生き残らない。
子供に好かれない店は今より発展しない。
奥山育ちでぽっと出のど田舎者は恥をかくため都心でも粘る。
里山はつねに平和である。
言葉の伝染力は風邪より強く、同時に消え去りやすい。
素晴らしい商いはたとえ潰れても成長したおなさごによって復興されて甦る。
政治を特に好むのは悪人が多い。
学歴を職工の実経験がわりにすると基礎から失敗する。
以前よりわるくした環境の建設は自然現象と天才の両方によって覆される。
悪意は長続きしない。
駆け足で見て回った世界は栄枯盛衰を余韻する。
裏道に真実あり。
団体客は案内人のつくる目線で見る。
自由行動に品が出る。
普段の行いは神によって最もよく知られている。
言葉のあやは性格という糸を織る。
魅力の殆どはつくりものである。
興味でひとが判る。
夢は誤らない。
俗人は金という餌で養われる。
掲示板は地域色を写し取る。
無限につらなる理想郷はない。
王侯貴族は長さ以外の価値なし。
死を安らかに迎えられない人生では計画実行が頓挫している。
疑り深い人は自分自身へもそうである。
出世必ずしも善ならず。
あしき生まれは世に醜さをのこす。
ばれない嘘をつきがちな者はそれが特技だと考えている。
地位を得たがる俗物は必ずや悪魔である。
利益と友情を混同する者は孤独に亡くなる。
人格は治らない。
害ある友は誰へでも害をもちくる。
すべての肩書は消える。
すべての善意はのこる。
創意は知識量と多くは重ならない。
商業民族に倣うと袋小路に迷い込む。
学校に適応している者は社会へ適応しづらい。
社会に順応している者は学校へ通わせるがいい。
多くは理想通りになる。
よい学者であれば大学者の卵を察知しやすい。
肩書はそれを知る者にしか効かない。
何も知らないはずの幼児は真実を見失わない。
年寄りの冷や水は命を縮める。
政治家は長寿を望むべきではない。
教える者が責任を負う。
哲学者以外が教育してはならない。

道徳的批判の精神

無知と不徳とはしばし一致する。すると知識総量を倫理として体系化した規律というのが道徳と呼ばれている、かなり不確定な総体である。それは時代や地域によって何が倫理かそれすら変更が加えられうるからだし、またこの体系が礼儀として複合か重畳されているとき、家政の外部者から解読するのはよほど困難だからでもある。いいかえれば礼儀という倫理規則集は殆ど偶有的と呼べる。隙の多い知識体系とその習性が通用するのはやはり仲間内でだけだ。つまり、世界には礼儀の程度に関して詳細の偏差があるだけであり、それは環境収容についての密度効果にほぼ依存する。
 だから究極に礼儀ある倫理規則を観察したければ、世界で最も人口密度の高い地域でその時代が煩瑣の極度を迎えた状態を想定すればいい。そこでは息をつくにも一定のおもんばかりが要請されるので、我々が想像できる最高度の細かな人事共存方式が発見されるだろう。ここからは道徳法則という偶有の城は、実際にはきわめつけにばらけて偏差している群生の徴なのであり、その中央が必ずしも確定的でないと理解できる。すなわち道徳とは場の観測的倫理法則であり、現実には結果論の範畴にある。
 唯一絶対の道徳法則を発見しようとする努力は結局徒労である。もしそういう固定義務への使徒が出現しても、いずれは特定集団が共有した宗教規則となって全般の適応法則とは少しずつ差延を余儀なくもしよう。故現実に即して道徳観念を評定しようとする者は必ずそれが如何なる場面で想起された理念かを分析する必要がある。全く同じ行動や規則でも、ある場面では哀しくも礼儀知らずであり他の場面では奇しくも究極の正義ともなる。他方こういう超可塑化された道徳認識は多くの場合、それほど沢山の倫理上の概念を知らない人へは未知の事態への怖れを抱かせるだろう。戦争の英雄は平時では極悪の死刑犯へ転落する。
 しかし、我々がつぎの予測を持てるならそれも杞憂に終わるだろう。もし道徳的な性格あるいは善良さを好む者が居れば、その人物は決して場面毎に異なる事象を見ないだろう。いいかえれば倫理は絶えざる批判精神の結果論なので、二者以上の成員が何らかの取組を図る際には必然に生ずる。そして如何なる人知の程度にあっても、選択可能な内より一歩でも慎み深い方向を選び取るのはかれに生まれ持った善意があれば十分。仮に如何なる事態に直面して懲悪や処罰あるいは報償や勧善の遅れがどれほどであろうともやはり行動のよさは最終結果論で裁決される。動機説は飽くまで批判する側の自己姿勢だから、如何なる善意も人事の判断についてのみ生ずるだろう。
 また多くの一神教は全知全能の理念とこの批判の観点を絶えず照らし合わせる動機づけによって、定常的な倫理をなんらかの文化慣習の方法論とすりあわせることのできる道徳の教化方式だと述べうる。だが、我々が各一神教相互を批判できる見地をも現実に、とても辛抱づよい議論という最も和平へつらなるのが明らかな道のりを大きく逸れないままで継続できるとすれば、実践的な道徳生活の上でもまた各々の文化慣習からより良い場面ごとの規律も取捨選択できる一定の哲学をあまり遠くないやがて捻出できるだろう。

2009年9月25日

五輪招致計画上の知的欠陥

会場間をむすぶ交通に焦って燃料電池自動車をつかうという提案があるらしいが(某大手新聞がソースなので真偽は疑わしいが)、この自動車そのものが市場化の最終結果では最悪のしろものであると認識していないとすればそれは東京都の、或いは計画に関係する都職員の科学知識が不足しているのである。
 水素という物質はいわゆる水素爆鳴気と呼ばれる加熱による爆発性がある。瞬間的に酸素と化合して3500℃近くの炎火と同時に、非常に大きな爆鳴音を鳴らすところにその化学現象上の特徴がある。だから市場化する以前には、この欠点のありえない見逃しが事故による被害の致命傷となることをやっと認識した自動車会社の化学の常識にすら通じておらず技術畑出身でない幹部か、経済産業省関係者が、その一般商用開発の無用か害毒を悟ってひきかえすことになる。もし当計画通り燃料電池自動車を輸送手段としたまま簡単な事故を起こせば当然この五輪選手は死亡し、また事故地周辺への復旧困難な災害を引き起こすだろう。
 その様な随所にみられる招致計画上の知的欠点を修正したければ、技術者、エンジニアという階層や集団からの撰良によって今のものよりはるかに現実味にあふれて将来像としても工学的十分に維持可能な、失敗率を極端にひきさげた知的な輝きのある計画案を抜本的な見直しのすえ提出しなおさねばならないだろう。
 そしてややこしい衒学理論に構えた大上段の学者や、各種の理想論を吐くのをなりわいとする批評家との関連づけを気まぐれな世論に逆らってすらできるかぎり最小化し、真摯な土木技師の如くほとんど施工図レベルで実現直前の段階まで歩みを進めてなおも天命を待つ必要がある。こういう精根を傾けた努力の結果、すべてが惜敗という結果に終っても計画立案そのものの持続可能性は行政的文脈上に記憶されていくとも考えられる。たとえばどういう地点でどんな施工方法をとれば円滑に交通量の整理が計れるか、或いは二酸化炭素排出量をできるだけ逓減しながらどういう入札方式と学的根拠で建設形態を調えれば計画全域のリクリエーション値(愛顧される快適性)を増大できるか等の解決策は一つの再開発上のモデルとして、プレゼンテーション上のつよい波及効果を他都道府県や世界都市へも持つだろう。

生物学

生態にとってある程度の可塑性が必須なのは偶然の変異に適応しない為である。ゆえ可塑性、或いは生態の柔らかさが増大する程その生態は必然への適応を遂げる。偶然的に変形された習性はつづく別の偶然で補われる。この維持した変更は学習行動と名付けられている。
 生態構造が決定的に可塑化するにはこの学習されて変更の加えうる領域を徐々に拡充できねばならない。又は、その可能領域をできるだけ生態環境でありうる偶然の変異へ適合させなくばならない。必然性と偶然性が入り混じる条件を、偶有的とも呼ぶ。この偶有性は学習行動では捉えきれないので、半分は知能行動と呼ばれる予測知を生態適応へ繰り入れさせる。
 もし必然性が知能行動で集束できる法則知のことなら、この予測知はそれなりの偶然による確率や運の可塑性をそこへ導き入れるものといえる。実際、偶有適応というものは予測知による、学習でも知能でもない第三の行動を喚起している。それはいわゆる可能性の変異を実現させる方向づけである。これは直感行動と述べることもできる。
 我々は、もしくは主に自律神経系をもつ生物は偶有の事象への適性としてこの種の行動型をも普通とするものであって、決して単なる偶然へでもまた明らかな必然でもない様な環境変異へ向けてはこの確率的可能性へ適合しようとする行動様式が最適なのである。例えばある程度の試行錯誤をふくみつつ犬や猫が生まれ育った町へと帰り着く様な行動型は、決して必然性の法則の中には計測しきれるわけではないにも関わらず、ほぼ確かな率で正解を導き出すことができる。嗅覚その他の本能行動を幾らかの学習された風景や事物を手掛かりに、また少なくとも目的としての生還を事前に洞察して全体として一定の可能性たる予測知を発揮するとき、かれは直感に遵って帰り道を偶有的に発見したと述べられる。

もしもあなたが消えてしまった言葉を探すのなら
深い海の底で眠りこけている宝の石を
静かにたぐり寄せればいい
どれだけささやかな
言葉のあやでも
世の中がとても素早く目まぐるしくうつり変わる
少しでも振り返ればもう先はないかも
山奥の畦道でだれに向けてでもなく咲いた
立葵の花が時の流れと共に
夜に紛れて行く
もし夜空のどこへでも広がったこの星屑の群れが
隠してしまったまことのせりふであれ
気づかぬうちに失くしてしまった
どこかで習った言葉だったので
もし大人が
美しく着飾った多くの嘘で塗りかためた建前を守り
あなたのかつてみていた数え切れない夜の灯を
まるで吹き消してしまうのだとしてもそれは
本のつかの間の夢

迎賓

いそがしい人々はそれをのぞんでいる
だれにであれただしく
降り注ぐお日様を仰ぐ子供の目には只
光が見える
つつましく暮らす一家が一体
よにも奇妙な王侯閣下の迎賓館でその
豪勢な夕食に紛れてよのはかなさを見るとして
月が回る
だがその表情を見分ける者は少ない
いつなんどきでも空で幾多の生き物を見守ってきたのだが
聖者と浮浪者が同じ晩餐会で恵まれた境遇を楽しむ日が
来るのを望んでいたのだ
人々は余りにもいそがしく
余分な儲けをしまいこんで貧乏人を見下す習性を捨て去らずにいた
休まず働いた挙げ句
もしすべてがお膳立てでも

情に流されるしか能のないへんてこな島国のちんけな虫
奴らの上にもし最高の知性が降り立ったとしても必ずや
理解しようともせずに村八分にするでしょう
そんな虫達はいまかいまかと絶滅の瞬間を祈りつづける
ただし群れの中に紛れ込んで
神はそんな虫けらでもやはり平等に褒らむのであるから
安心して繁殖活動をつづけるがいいなにひとつ
見分けることのできない情報のバグども
流星群がこのちんけな星屑を吹き飛ばすなら
全ての
とるにも足らぬ間抜けきわまる虫類の
必死の蠢きでも
何も無かったことになるであろうその方が望ましい
どうせ貴様らに考えられることと言って
虫類のうごめきだけ
ほかに目的のない
蠢きの生命体である貴様らごとき
偶然で死滅しようとなんの驚きもなかろうに
所詮は人類などその程度の物
なにをおもいあがって無神論にかぶれられたものだ
生きている理由すらみにくい性欲の他なにもない
踏み潰されようが情報のきたない汁をしぼりだすだけで
臭いは最悪繁殖速度は並の猿よりよほど速くとかく
薄汚れた風体で会合を開きペチャクチャペチャクチャ唾をとばす
人虫などその程度の能力しかないんだろうがな
白黒黄色どれも同じ様な生態でなんの変化もない
眺めていても面白みがない繁殖か巣作りしかできない
貴様らになにも成功した部分はない単に
連綿とつづく一連の計画のなかでたまたま生じてしまった
情報のバグだからね

2009年9月21日

物見

忙殺に値するひとを神が見誤ることはない。
同情を買うためには自らが慈悲深くなくてはならない。
自然の出来栄えを賞賛する者は出来損なった芸術をつかまされるおそれがない。
心安らかに暮らしたくば都会を退くがいい。
暇人達だけうちとけて語る友を持つ。
学校は友情をはぐくむ。
恋愛はしないところにある。
親子は似て非なり。
かしこい者がかしこさを知る。
神の恩寵をさとらぬ者は世界に満足できない。
人間は育ちのよしあし。
心の美しいひとは孤独をもたない。
遅れてやってきた者は完成された庭を見る。
先人の業績を踏みにじる者はそうされる準備を欠かさない。
子供を軽く見る者は老いてから軽く見られる。
出来過ぎた花は最初に摘まれる。
みにくさは神の目には見えない。
命にしがみつくものは死にもそうする。
悪人は自滅する。
名前に欺かれる者は空き箱を崇めるのに等しい。
男女の違いを認めない者は男女と認めてもらえない。
劇に夢中な者は劇的に生活してしまう。
夢を見る者は夢の中で生きる。
すべての情報は業になる。
人の上に立とうとする者は最後にひきずりおろされる。
人は愛する物に似る。
香りは最もよく記憶される。
空気は場所をつくる。
判断の悪い者はすぐれた指導者を憎む。
善人は誇りを支払わない。
神を見習う者だけが真理に到る。
偉大な作品に感動しない者は煩悩により焼き尽くされる。
愚か者どもは早死にしていく。
言葉で動かない者は経験するまで気づかない。
理論の学校は気安く、体験の学校は苛酷である。
社会を学校がわりにすると苦労人に育てられる。
仕事人間は疎まれる。
芸術家を教育しようとする者は天才ではない。
地上の法律は仮の物、裁判官は天の法律で裁かれる。
勉強しない若者はやがて後悔の勉強に追われる。
大学卒を誇る者は無教養の才人に出し抜かれる。
大学院から出てしまった者は大抵何も貫けない。
女がでしゃばると必ず騙される。
軍人を信じる者は必ず戦死する。
人生経験を誇る者は知恵の不足を自慢しているのだ。
金銭で勝ったつもりの子供は虐められる。
やくざがやくざを呼ぶ。
忠告を留めおくひとは救われる。
師匠は出来の悪い弟子ほど贔屓しがちになる。
自然は心の鏡。
文明は精神を宿す。
通りすがりに神の目あり。
懺悔の習慣は教会の網の目を通り抜けることができる。
湿気は大敵。
田舎者に好かれるのは都会人からやくざに見える。
環境は人柄を育てる。
都会人の慣習は田舎者の純朴な目には馬鹿に見える。
だれも自らを超えては賢くなれない。
野心者が地位を得ると世間に迷惑をまきちらす。
若者を対象にした迫害はかならず身の破滅を招く。
芸能人は私生活を持てない。
子供心は海を越え山をも移す。
嫌われる老人は不足した生前の功徳を餞にもてない。
愛されて育った子供は先祖の功徳を身につけている。
いかなる努力も生前より死後のほうが高く見積もられる。
里耳に入らぬ高言の種子は風によって外国で花咲く。
神は天罰と褒美を長い目で見ることが多い。

2009年9月20日

倭人種への望ましい社交的規則

人間を哺乳類の末裔として観察した場合、社会悪というものがその習性から生じているのは明らかである。特に、倭人種が広く悪習として認じているものは、彼らが生態上でもっているなんらかの不合理な習性からくる。
 経済性の観点からのみ評価したとき、状況は朝鮮民族あるいは韓人種でも同じ様だが、これらの極東系の人種が感情の特殊性の為にいくつもの慰安の手段を要するのは僻地的習性を明らかにしたものだ。そしてもし彼らが総生産の面で他国より劣るとすれば、この文化的傾向は奇形と言われていい。なぜなら他の部族の有しているもっと能率よい習性を導き入れるなら当然、ほかの面のみならず経済性も向上するのだから。

 倭人種の奇習は、彼らが長く極東の孤島で隔離的に自己進化してきたことからくる、情緒の過剰にある。そしてこの形質は最高潮の段階では自己経済化の抽象された姿として純粋な接客業をつくりだす。倭人種が古くは「芸者」という、専門化した接客業形質を広く保っていたのはこの文化の奇形さの極度である。朝鮮半島に在来した人種を除く、ほかのどの人類もこういう情緒の過剰から起こった奇習の助長を進めることはなかった。
 現在のところ、他の国家でも若干みられる奇形化の傾向にこの接客業内容の映像販売という形式がある。しかし主に我々が「芸者」として知っている様な特殊な形質は、また文化的進歩の波から隔離された僻地でしか起こりえないだろう。
 そして倭人種が、或いは朝鮮人種がこの地上の文明の中で位置どるところは、彼らの奇形化が形質の進みすぎた雌性化および幼型化からきた審美的極端さから生じているという事情より、やむをえない華美の結果、ほかのより理知の形質に勝った人種によって事実上合併される方向にもとづくだろう。

 ライオンの群れに典型としてみられる様に、母系集団は現実的にはより選れた雄性形質を形式的受容によって吸収していく。だから「芸者」の性質はそれ自体が異様で、多くの欧米人がキリスト教思想のもとにかくの性向を野蛮な文化のものとして侮蔑するにせよ、最終的には接客という方法の華美の促進あるいは超合目的性のためにことなる文脈の中で逆にそれ以外の性格を編入してしまうだろう。いいかえれば、倭人種が華美のために持っている特徴は、その母集団性である。勿論そのために倭人種は理知的才覚に於いて一般に劣り、他のより進歩または旧態維持した人種に比べても中間的な能力しか持たないだろうが、にも関わらずもし在来種の処分という方針に至るほどこの理知の啓発が決定的に欠落していなければかなりの悪癖の実態にも関わらず保存的なのである。

 これらの悪癖悪習はおそらく全体としての人種生態の中に形質の偏差を設けるための本能からの指令であり、仮にこういう奇習の根絶が古代の完全に隔離された山門的近親交配の危険性の内で行われた場合、その集団が一つ以上の環境変異で絶滅した可能性もある。

 だから我々が現段階で望めるのは、情緒の過剰をみせる各種の異様な形質変異を排除するのではなく、それらを巧妙に分類化あるいは類型化して差別か区別しておくことだ。この類型化による異種視が情緒の過剰の微細な傾向ででも、多少なりとも理知のある部類が違和感をおぼえられる様に奇形化の罠を避けるきっかけを教える。真に個性的な変異は類型化できないので、一つ以上の情緒的同系がみられる場合はこのものを差別化するのが最低でも芸者的変形の速度を経済的に効率化するのを助けるであろう。なんらかの生態の類型化は、その形質が情緒的集合体に属するという倭人種の奇形さの性向を差別によって強調するので、少しでも理知のある者へはそのカテゴライズにあたる忌避感をもたらす効果を持っている点で個性または品格の高い群性を自主選択して維持させるに国風上は有益な仕掛けである。こういう奇形種を淘汰しようとする文化的能率(類型視の差別語彙量)が高ければ高いほど審美化すなわち中庸達成への煩瑣のため芸者的華美の極度を達することはますます困難になり又更新頻度も速まるので、結果としてはそれを見分ける理知の最低限度を国際平均以上へ保つ一つの内国的な社会機能になるだろう。

2009年9月18日

分析哲学の解釈界

辞は達する已という孔子の立場は、脱構築という現代フランス哲学の思想上のそれへの明白な逆理でありうるだろう。文の学についての言葉の用法の考察は、冒頭に引用した論語の一節で十分に解説できる。それは解釈可能性を差し引いてもまだ伝達の方法であるにとどまる。
 日本語圏のいまのところ国語と言われている国家主義の教育方針に於いて、被啓発者とやらは作者の意図の推測などを宛がわれることになっているが、この解釈意図を多元化できるという点こそが実は言葉の本質なのである。多くの哲学上の分析論は、批評論と併せて道義の解釈、あるいは道徳の定義を文についても当て嵌める。そこではもとの作者の意図を大幅にこえた適解が得られることさえ期待できる。そして多くの聖書の形成とは、実にこの解釈者による工夫と定説のつみかさねであるのが殆どであった。

 我々は言葉についての哲学、いわゆる分析哲学とよばれる大きな国際潮流を、西洋史が言語学を科学化する途中段階でうみだした派生的詳察であるとみなせる。しかしその意味は伝達についての言語学の定式にいずれ編入され、哲学にとっては主要命題ではなくなるのを確実視できる。分析哲学は言語学の科学知識化への批判的基礎づけだった。この事実は、物理学その他の自然科学上の記述や認知の方式そのものを寧ろ論理の限界をはっきりと文法の面から教えることで強化する。すでにかなりの規模の自然科学員といまだ姿もあらわではない言語学周辺の基礎工事員とを互いに牽制関係に置きつづけるのは賢明ではない。彼等は論理という修辞論に於ける数学的分野からの道具立てをともに用いるほぼ同値の建設員であって、どちらがより真理という計画遂行にとって本格的であるということは言えない。だが物理学そのものは言語を副次的にしか用いずにでもより数学化された法則性を記述可能な段階まで進んできたので、おそらく演繹方式を主義するたぐいの自然科学者が分析哲学の徒を無用視する事態そのものは多かれ少なかれ学問内ではおさまらないだろう。反対に、言語学者はそのかなり解釈に多元性を付与された知識が応用範囲では広いことを日々益々発見して、自然科学をふくむ知識の翻訳のためには決定的な働きをできることだろう。そしてこの面では、一切の物理学ふくむ数学的記号論はそれのみでは決して最善ではないと悟られる日が来るだろう。道具は複雑なほど、説明書が使用への手掛かりとなる。
 辞は達するだけかもしれないが、この達せられる効率にはおもに母語間で千差万別ほどの違いができてくるとすれば、知識への解釈可能性を道徳心に欠けた自然科学の専門家かの誹謗を甘んじてきた彼等からの右の頬のさしかえしの様な厳密性のためにさえ、応報できた言語的多義の使い手の豊富な語彙に由来する。訳語も異義語も、異体字や同義語さえなんらかの差延が生ずるはず全口語(すなわち表音)および文語(すなわち表意)的な重畳性のもとで定義されえる。
 だから我々は、あるいは最低でも哲学の考究をできるだけゆとりのある自由教養への執事集団では、将来の文化的摂取能力を解釈界の肥沃さとして哲学分野へ曳き入れておけばおくほど、その言語学を含めた全科学知識への分析論の浅瀬の養生には有徳であると考えていい。

2009年9月15日

生物学及び社会生物学

ある個性の情報量が多くの群生より高い時、その個人は審美的にか或いは衒奇的にかの変異を持っている。この仮定は珍しさが二辺の傾きを有する原理に思える。殆ど普通さをもたない形質は後者にあって、一つ以上の極端に異様化された組織を有する。対して前者は見つけ出すのが難しいほど、集団の全変異の調度中間点を穿っていることからそう目される。
 性特徴は、異性誘惑の効用を持つ場合だけ審美を目的とし、(多くの有性生殖で主には雄間の)同性威嚇の効用を持つ場合は衒奇をそうする。…※①
このどちらかの誘因が環境条件で弱まるか強まると、進化か変種化いずれかが促進される。そして一般に臨機応変型戦略者の適所である島嶼的進化場に於いて進化が、環境収容力戦略者にとっての僻地的隔離場では変種化が進められる。
 消費的進化の原則は、審美か衒奇に対する生態的上位種の可塑性の高さを十分説明づける。つまり変異は消費によって更に促される。ここで、※①より中間的形質はそうであればあるだけ、各種の量的乃至質的擬態による偶有な生存と結果たる当該種の保存の確率を上げるので、有性生殖の生物一般は原則としてかくの如き特徴をえり好む傾向下にある。そして雄性形質は彼等が妊娠の機能を担わないほど変異幅を拡大する方が理に叶う筈なので、弱まった同種間競争条件下(つまり同種の極端に少ない僻地)にないかぎり典型的な変異について審美を求められるのは一般に雌の方である。なぜ特殊な誇示の様式をもつ装飾化されたそれ自体は無機能な雄性形質がしばしば見つかるかの理由も、同然の僻地への適応という祖先の生態系統にある。∴審美化は安定した生殖能率を達する為の選好であり、衒奇化は選れて強壮な一種を炙り出す為のそれであると、少なくとも消費関係の応酬関係から演繹できる。∵この個性についての情報量は環境戦略の場所場所の偏差が、つづく世代の変形の中でどの方向性を適応的と見做すかを逆算によって時差の内に帰納したものだと述べられる。たとえば生き残るのは適応的な一種であって必ずしも強化された既存種ではない、この絶滅の現象を希とはいいきれない生態秩序の棚卸しの様な作用だと考えれば、未知の変異への期待なるものが結局は生存した種類によってのみよりよく合目的であるのを見よ。それはまた合法則性に於いてはより厳正に遺伝の選良を形質の経済化によって計ろうと企てる最小作用原因からの、未来永劫に渉る力学理論的命令を明かすのではないか。
 以上の推論にもし疑問符がつく部分、論理的脆弱さを垣間見ることのできる展開部があるなら、時間差についての主としては地球という星内の地殻変動の頻度が世代交代の速度よりはるかに悠久な緩やかさである事実への急速な変形についての反省の跡なき通過だろう。…※②
仮に上述の理由、即ち選好の消費序列が仮説を越えてのち実証される真実ならば僻地適応の生態法則(つまり変種のしばしば示す装飾形質)がどうして地球全体に及ばないのかが唯一の例外の場合であると思える。だが、もしも※②で示した観測結果が、異常気象と今まででは呼び慣らされている様な生物からの環境操作についてもっと詳細に追跡されることがあれば、学者は地球自体が擬似開放系であるという地学上の新しい見解を、そこへのエネルギー流入が一定であるという粗雑な常識(地球の不変性への信仰)の撤回と等質に最低でも両立するのを許して措くしかなくなるかもしれない。そしてこの論証を倫理的にではなく単純な生物学上の現代的な地点だとかれらが認める段階を踏めば、そういう時代が万一我々の覚えている特定の文化でしか不可能な潮流にあるとしてもなお、曖昧な侭に差し置いてきた多くの不可解な自然現象――奇跡と言われる時もある超常的無機環境の異変――はどこかに生じた応酬の淀みへの有機生物自身からの警告か狼煙である場合に当て嵌めるのが妥当だ、と知性の上に考えられる者も現れるであろう。
 自己目的化した知能という装飾形質の強調が唯一絶対の生態的限度ではない、と気づく者は又、その限界が地球の支配ではなく悲鳴をあげた生物濃縮に求められるとも段々の変動していく自然現象間の類推から悟るだろう。いいかえれば、自然界の自称支配者は知能が万能ではないことをどれかの進化した可塑的生態を持つ、より広域に亘る消費群から教えられるだろう。有性の有機物が選り好みを草刈り的な経済勘定にもとづいて行う所から、最も生き残り易いのは遷移の規則とこれらの消費順序を何らかの変異の抜け道によってみつけだした、いわば蓼食う種類の様な異種選好間の偏差であるとも分析できる。母集団の数量が生存数を維持できるだけ建設的なら、なぜ我々にとって異質な生態が、知性に大きな進歩はないにも関わらずしばし進化にすら値するかも、真面目な評定に類するのだろう。またそういう異種化の偏差をもたらす原因の一つとして、不完全か完全かを問わない変態(環境戦略間の通過による生態の自己変容)がいわゆる幼児期と成塾期との適応戦略の二律背反を高い次元の新たな習性へ導かないとも言えない。例をあげると、幼型化がもし独創的形質成長期の持続ならどうして既存の成熟化のそれよりも二つ以上の大きく異なる環境抵抗へ適合的とならないことだろう? 愛玩の為に淘汰と選種が行われた犬や猫というペットにとってこういう自然界にとっての異様さ、要するにきわめて奇異に映る習性を甘受している場合、水瓶の様に無尽蔵な生態系の宝庫はその珍しい変異をただの情報量の面でだけでもよく蓄積させる。
 結果、我々が未来に見渡す如何なる文明人種もその末裔も、すでに現世人類とは基本的な類似を保たないとしても一考に困難な将来像ではないばかりか、それが自然階層の命じている消費順序に則った他ならぬ進化の法則から導かれた目安なのだから。

大衆社会の考察

学歴制度による擬態の順位制度。だがいつかはこの隔離社会の歪んだ論理そのものが破綻する。

 社会を、大衆一般を啓蒙する事の困難は益々高まっている。装いの擬態が大衆化された瞬間に、一切の知性をただ自主問題解決の能力だけで計測することは不可能になった。後には何億もの群れになった俗物が支配をはじめた。我々はその調度開始の時代に立ち会わせる因果に出くわした。人間の俗悪さは何一つ変容しなかった。しかし将来永劫に同様だろう。
 人間という哺乳類を知的に啓蒙できるという、この地の失敗したイデオロギーは打ち捨てられねばならない。

 人間は彼らが集団で生活するかぎり永遠に賢くならない、この悲惨な現実を受け入れて、その事実と適合する思想を採用し直さねばならない。大衆政治が愚劣の極度を更新する日に、人類は私の予言が単なる電網上の戯言であるとは諦めきれなくなるだろう。そしてそれは遠くない時期に完全な倫理崩壊として起こるだろう。

 人間が宗教の代わりに経済を信仰した結果、その文化の一切は守銭奴と成金の人気稼業に切り替わったとここに記しておこう。勿論、本来の意味での知性、知識哲学者は非常に少ないながらも地上のどこかに偏在している。だが、彼らが一切の権威を持てなくなる時代が現れたのだ。この大衆社会では世俗性の中庸(商形質)が適応的となった。何百万部も刷られる悪寒のするばかりの風俗小説、読まれるべきではない日和見趣味の丁稚仕事読本(批判や提案なしのアメリカ欽定憲法のあきあきする解説)、自称政治家の筆を汚した殆ど俗説と井戸端会議レベルの青少年向け啓蒙書(むしろ痴呆書と呼ぶべきしろもの)、なにも人間を変えられず、その精神を高貴にしてくれる一切の文化を喪失した同次元の群生が生み出すゴミ情報の肥え溜め、女権拡張論の軽率なミームは一切の美しいもの、一切の繊細でそっと保護されておくべきだったもの、羞恥心、女性らしい心遣い、人間にとって善良さの指標だった数々の美徳を殺し尽くし、男勝りの奇形種、競争心に駆られた近視眼的蹴落とし、その他いかなる卑劣も辞さず後先を省みない繁殖なしの業苦に似た性的放逸(プラトニズムの逆理的頽廃。所謂獣類への退化)の全面的肯定と喧伝、我々を守ってくれるものはもはや何一つなく、一つ前の文化段階へ自然回帰するにはあまりにも情報化にはやった国土は汚染されきっていて狭すぎるので逃げ場すらない。隙間なく天皇家という伝統ある暴力団長の権威でけがしつくすためにアスファルト舗装の湯水の税金道路を無理にでも通し、かたやバブルに先んじた大IT企業は監視の自動車を走らせインターネット上で強制公開する、排気ガスにまみれ、空き地は消え、人事不要な生き物は絶え、すべては熱砂に似たコンクリートの塊で塞がれゆく。低炭素化をめざせと吠える新聞社自身が森の木々を切り倒し、地球中の光合成をせき止め、大量の二酸化炭素を発生させるパルプ工場で増産した無駄遣いのゴミ印刷物を燃やすところまでさらに二酸化炭素を倍増させる。自分自身が生み出す温室効果で発狂した気違いの会社があるとすればそれはどこだろう。子供は低俗な大人がつくった搾取用商業ゲームで妄想をたくましくし、標的どおり同級生だか低年齢だかなんでも構わないが試しに殺害する。復活の呪文などないのだが。そして刑務所はすでに定員を超え、浮浪者を襲っても生活費を稼ごうとする失業と無業のどこまでもつづく泥沼連鎖、一握りの一世代先も見えない豪奢で権力を好き放題振るう成金の甲高い高笑い声が都市を暗褐色で覆い尽くす。

 至る所で待ち構える機械より反省能力を欠いた国製会社員の群れ。ほぼ同じイギリス人に似せた着物をつけ、名刺に恥知らずにも自尊心をみたすための取るに足らない肩書をべたべたごてごてかきつけ、満員電車で汗のふきさらす肌をこすりあう無神経な性質そのままの子孫を国の命令どおり機械的に量産する。経済成長。一体、それで誇りたかった国籍とやらが精神を少しでも高めたか問ういとまさえなく、あしたの食料にさえ苦しむ外人が収奪して同然の卑怯者の稼いだ卑猥な漫画持参金を余し、貧乏人を見下しながら俗物が堕落を堕落のために教え込む(社会人教育。内容は教師の知性の低さに応じた猥褻か和を重んじた低度への折衷か受験闘争用の国家主義右傾強要かのうちどれかもしくはそれらの重ね合いだ)、さても極東の意味不明な出世主義神道国教学校と会社で受験勉強を営々と強制するだけの倭人文明。日本政府の発祥からして卑怯者が貴族制へ媚びを入れた歪んだ非民主政権を拳銃片手に、道理を曲げてでも奪い取ったという情けない代物。
 第一にこの劣悪文明を破滅させ、新しくもっと精神性に勝った社会を可能にする制度を望むのがどんな善人にも精一杯の考えだが、持っている手段は既存体制の固定化を批判するか進歩的な方向へ分かるかもわからない不特定多数の衆生へ論説するといったまるで無力で非効率な最低限度の反抗まがい(しかも豚の耳に念仏なので、視聴率は娯楽に集中する。悲鳴をあげる貧民からしぼりとった国営放送の税収で飾り立てまくったそれ)だけなので、結局は隠遁してなにか風変わりな個性じみた同時代人から遊離した趣味をみたすつまらない芸術かそのあたりの手慰みに耽るしかなくなる。

 一切の知識人というもの、学位や賞歴や報道界での人気に目的を置かない本格的な知識の探求者が科学という生業によって現世的に手に入れるのはそれらの止むことなき不満と徹底的な人間への絶望だと教えるのが重要だ。知識人を現実の栄冠で飾ってはならない。彼らを社会的恩恵から隔絶し、孤軍奮闘させ、人間性を示す一切の指標から離脱させるに如くはない。それでも人間界に年功序列以外の尊敬に足る才能の顕著な差が示されると感じるなら、勉強家の内面にある理性の窓が他のどの擬態よりも明らかに真実を映す様磨かれるからだ。
 彼らが比較的集まっている地域に注目するがいい。この世界では如何なる制度上の虚偽、偽装、うそいつわり、誤解を招く各種の階級差別の浅ましい慣習にも関わらず、極めて少数で微視的ながら生得的な、知性への萌芽そのものを尊ぶ環境が存在しうるのだから。そういう賢人の宿りは決して同時代に有名であったり富裕及び権力連盟の推挙にあてられる訳ではない。結論として、人間は啓蒙しきれるものではなく多くの場合はその努力は無益だが(教育や宗教の及ぶ範囲がいかに狭小で失われやすいだろう)、名士が自発的に集積する地域は存在する。理由とは世界で最も虚偽しづらい真実の在りかなので、もしも運よくそれを見つけ出せたならあらゆる現世的価値を放り出してさえも、必死でしがみついておくことだ。そうすればこの変化しつづける俗世の転回の中で文明にこだわらずに、なおも独立国の内治の様に幸福でありうるのだから。

 すべての世俗的価値からきりはなして観照できるこの種の理由を多く所有すればするだけ、その個性は助言と処世の両面で世間の模範となる確率が高い。

2009年9月13日

生物学

命÷御馳走仮説と呼ばれている、生物の適応戦略の論理的進化の速度について、現在の命を失う確率をより有利と見なす論者の観点は次の分析から矛盾があると言える。
 第一に被食者と捕食者とは一般に数量が異なり、捕食者の方が生態維持に必要となる神経発達の複合性すなわち経済情報量の希少さから少ない。よって被食側がもし適応戦略上に優先しその量を半永久に増大するならば、これは矛盾である。逆にいえば適応戦略面では捕食側がつねに有利な為だけにその食うと食われるの関係が存在しうる。さらに、たまたま捕食されてしまう場合、この形質は性特徴の面で遺伝されないが非常によく捕食する場合は必ずそうなる。動機づけの面で偶有性のより少ないのは捕食側である。被食されやすい形質は浮動的でも捕食しやすいそれは固定化していく。より典型的な概念へ還元すれば天敵への防具より収穫への武器の方が誇示の効果を確実にする。
 第二に、鼬ごっこの面で被食者が新しい抜け道の変異をえり好むとしよう。この場合、食を被る根拠は量的な多数性を維持するそれと矛盾する。つまりより単純な行動戦略型の故より捕食され易い形質はそうではない種よりも、量的に増産せざるをえない必然性を負う。生態系ピラミッドの秩序は下部構造の新規な変異がつねに極微であって、主に消費者と呼びならされている食物連鎖の上部表層に属するより少数の種類よりも大幅な形質遷移を持たない理論的証明となる。
 仮説をこえて主張できること、追う側は量的に多数である追われる側を、日々益々より巧妙に捕らえる生態的経済状態につねに置かれている。さもなくば同種間競争の犠牲になるであろう。一般論に直すと、たとえばイソップの童話から比喩を借りて説明すればその兎と犬との優劣関係から、野原の競走で兎を取り逃がした犬にとってはそこで失われた労力が無駄遣いに過ぎないが、兎は亡命の間一髪で助かった事実を単に運の良さに帰してなにも損失はない。則ち生物量の評定というものは、命は多数派のもとにあって全か無かの閾値のみで計算へかかる情報量の上では安あがりになるが、御馳走は少数派の料理と調達のこまかで折り畳まれた懇ろの工夫の為に要する情報量の経済勘定的には、より高いと自然界の仕組みから決められている。
 この一般的生態系秩序内現象法則の認識は競走的優位の進化速さ、いいかえれば消費的進化を原則的に論証するのに有効だ、と考えるのは今日では妥当である。そうすれば命にとって分母となる御馳走分の方がなぜ複雑に調理されていくのかを寓話の助けを借りずとも説明できる。それは材料そのものより料理あるいは加工する方がより多くの労力を引き受けるという自然生態系内での経済性にもとづく法則だからだ。もし命を犠牲にする側の方が優先して進化していけば、結果として生産過剰による滞留が起こって労力順序的捕食という今日かくも普通の地球内生態的多様性の原理は日の目を見ることがなかっただろう。たとえば赤潮の付近ではこういう順序がなんらかの誘因で崩れて、様々な在来種への草刈り効果は弱まっている。だからこういう例外を除けば一種類だけの再生産が過剰になるのを防いでいる安定感の重しとは、進化速度あるいは能動的習性展開に異種間および個体間偏差値を設けた自然の英知である。

2009年9月12日

建築論

都心部のヒートアイランド(過熱孤島)対策としてもっとも有効なのは、陸屋根ならば植栽した屋上庭園またはソーラーパネルを、傾斜屋根ならばソーラーパネルの設置を条例で義務づけること。これらの対策によって高層化したビルタイプのたてものがその構造上、コンクリート主体でつくられざるをえない現状から、夜間も熱を蓄積しやすい状態になるのを昼間の熱架橋時点で防ぐ効果がある。
 路面が熱容量の大きなアスファルトでつくられている現状はまた、施工条例の規則によって、その表面塗装を白色にする義務付けによって相当程度、蓄熱を緩和できるという研究報告もある。陽射しの強烈な地中海地方で町を石灰の白で塗る慣習は、多くの人為的灼熱化を工夫でもかなり防げると経験上も教えている。

現代経済学

商業民族に対する人類の典型的な侮蔑や嫌悪の感情、というものはその血筋の系列が人類の文明の中で果たす役割として決して有徳であったり福利的ではなかった時代成長についての一つの文化的痕跡になると思われる。イギリスの経済学が、特にスコットランド系のそれがイングランドとの(おそらく主に人口密度にもとづく)格差を改善する目的でつくられた場合、商業への忌避感情を緩和させる為に共感の原理をもちこもうとした作為によって資本主義そのものの成立初期立ち上げ段階を宗教観念ごとやり込めるのに流用されてしまったのかもしれない。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べられているウェーバーによる批判は、結局商業追求を自己正当化する方便に道徳観念の変形が加えられたというアダム・スミスの変節に当たる。それは現世的目的への奉仕に格下げされた宗教観念は所詮有限目的に縛られる分、元来のキリスト教倫理が持っていた博愛を社会福祉というもっと功利的で投機的でさえある段階まで退歩させてしまったと言うのである。
 より現況に即して考えると、打算の性格を倫理上肯定させた誤り或いはすり替えは、スコットランド派経済学に於ける『道徳感情論』以来の実在するかも怪しい、曖昧な共感概念のもとにあって世界中へ資本主義の倫理的正当化を押し付けてきた。すべての国家状態で、現代、益々急速に進行している社会的病弊はこのスコットランド派経済学への無批判な態度に起因している様だ。しかし、共感と同調が異なる様にまた、『道徳感情論』を経済学史上の著述であると読み解く態度は辞められねばならない。多くの現先進国ではその封建段階にあって、階級制度の根底に商業形質への忌避感情を樹立させた。この理由は、政治学史としてかえりみれば権力と資本を便宜上分離させて権力世襲を確実化する道だった。
 商売の状態は変わりやすいので、その税収だけを独占する方が自ら勘定に手をつけるよりはるかに権威の持続にとっては道徳的だった。
 我々がこの史実から悟れるのは、商業民族というものへの一定の抑圧を被ることは寧ろ道徳的であり、決してゆえなき蔑視などではないということだ。もしこの慮りがなければ社会福祉と呼ばれる現世内の目的意志がすべての善意の焦点となり、人類が慈悲を保ったり損得を度外視した心理状態を保有することもなくなって、その国家は金銭の交換のみを最終的理由とするある種の無宗教世界へと低落するであろう。そこでは、あらゆる悪徳が単に社会福祉の増大という有限の快適さを現世内で取引するだけの結果を正当化するしかなくなって、やがて一切の行動は金銭づくでしか営めなくなる。その場合、生まれた時点で掛け値をつけて売り買いされることが常態化し、いつかは人身を家畜と同じ売却損失だけで評定することになる。くりかえすが、もし社会福祉という同時代価値観の民主的平均値だけが根拠づける現世内目的を如何なる道徳面へも適用すると、最終的には宗教面で大きな矛盾が発生する。これがスコットランド派経済学の根本認識に錯誤のあった理由である。だから、我々は生業の為に否応ない商業行為そのものはまだしも、商業民族同調への道徳観念上での嫌悪あるいは反感的批判精神を、その宗教面で維持すべきである。そして経済学を宗教化する弊害の後々計り知れない恐ろしさを十分予測して、一切の打算を超越した無償の奉仕というものが永久に持っている、貧者の一灯の様な博愛的価値を完全に崇高なものとして棚上げして置かねばならない。ジーザスという一聖人が身を以て教え諭したのは、有限の一命よりも神からの無私の博愛の方がはるかに永久的であるという信仰上の真理であった。よしやそれが現世的に補償のある観念ではなく、いまを生きる商売人からはまったく省みる価値のないたわ言あるいは狂言とされることあったとしても、この種の経済観念とは異質な無量性の示唆が、時代転換の終局に至っては如何なる損得勘定よりも強力な不屈国体の理念をかたちづくるのを我々は世界史実に観察可能である。
 経済観念と道徳一般とを混同させないこと、それ自体が資本主義の本質的意図である社会福祉達成への円滑な流動資本財の投機を一切邪魔しないばかりか、あるかないかも定かではない共感や人情といった計測されざる不合理性を経済学へもちこむあしき慣習を戒める。市場心理の洞察は統計論の範囲で処理されるべきで、宗教観念とそれを一体化させたプラグマティズムという代物の犠牲者は最終的には個人的信念に依存した非効率と宗教生活に於ける道徳的荒廃とを二つながら意に反しても手中にすることになるに違いない。
 我々が経済学の古典的思潮と考えてよいのは、数理化を基礎としたイングランド派の、純粋に功利的あるいは使用者思想的な経済学である。だからケインズ理論がスミスの曖昧にしてきた資本制度の巨視の動きを定式化しようとした、という科学者の観点は商用に誘惑されがちな経済学徒にとって、今で経営学などと呼ばれる技術論とは隔絶した冷たい視点にある面では最も原理的。そして我々は初期スミスやマルクス的な心理分析の温かさ、生ぬるさを一切断った純粋に統計論的な経済学をまったく数理化する中で、数理経済学というより微視的確実さにも耐えられる新しいはるかに冷静な理論を手にできるはずだ。

2009年9月11日

合理性の詳細

知性が理性の部分集合か、理性が逆のそれか。論理記号の非口語成分は除去されるべきで、結果、拡張された数学はいずれ全理性哲学(形而上学、後自然学)も支配するだろう。
 つまり理性とは論理式を非数学的方法へ引用した様な知性の実践的側面で、もし知性がなければその理性は非論理的な侭だろう。古代に於いて人間が学問というものを単に説明づけられた倫理的洞察のみに用いていた例はこの典型。
 我々は現状では理性という能力を独立した科学批判の才覚であるとして認めているが、もしそれが完全に数理的論理記号で支配できるほど厳格な学野へと昇格した暁には、というのも哲学本来の目的は普遍的知識すなわち真理なので、知性とほぼかわりなく扱われても構わなくなるだろう。そして人類の末裔が知覚する諸様相はより言葉の用義にとって最も親切な意味で知性的、すなわち「知っている」こととなるだろう。

2009年9月9日

低炭素プロパガンダについて

低炭素プロパガンダはまったく無意味であるばかりか、知的水準の低い人間らの喧しさからくる公的害毒である。炭素循環というものは一切の動植物ふくむ生物の原動力となっているしくみだから、それを破棄や抑制することは不可能なばかりか却って循環を促進することでのみ、生態系の平衡は取られている。特に炭素も主役級に媒介する光合成と各呼吸との共生関係がすべて、我々が目にする自然界および人間界の多彩さの起源である。
 したがって、高技術化を「藝術」という造園手法をふくめて考察しなおす方向付けのみが結局は文明の進歩の先には生き残る。意味のない無知のもとづく低炭素社会プロパガンダに騙された民族は、やがて世界の主要国の座から自業自得で転落するだけである。

2009年9月8日

夏の夜雨

花の香は移りにけりな徒に斯く身代に降るながめせし間に
事もなく過ぎし日々なら徒に音もなく降るなつのよの夢
星屑も独り声なく降りしきる花火の合間にみしは世の中
ことごとくうつるいのちのただ中に一つかわらずうつす望月
街深く返す返すもしとやかに明けてきがつく夏の夜雨よ

ヘッドライト

台風明ければ透き通る空
時の流れを忘れるほど雨降りの音
すべては川がながしゆく今の大雨
ひるよるなく流れ去るヘッドライトと真夏日の夜景
湿った空気に日本の夏をかえりみる

社会学

現世的人間達のもっている短期的利益志向の性質は、かえりみられるかぎりあまねきものだと考えられる。こういう観点が誰か、史上の有能な哲学者によってよく詳察された記録があるか博学の徒に質問する迄は分からない。しかし、特にプラトン的学園を根城にした集団に属した哲人はそうではないだろう。彼等は現世の人間を身近に観察する機会がなかったと考えられるからだ。
 多少はそういう機会のある知恵を求める者の目には、だが、現世的人間つまり俗人というものが、極めて生活に於いて近視眼的であるのをよかれあしかれ知ることになるだろう。こういう生活は、忙事の生活からおのずと生まれている様に見える。元々、ビジネスを好む者は何らかの社会生物学的条件によって有閑や知恵の制度を怖れるところがある様に見える。かれらが閑暇を誹謗することはどこであれ非常のものがあって、いずれの時代でも同じだろうが、俗人は長期的な存亡よりもいまここで現実に直面している些細な問題で忙殺される側を正当化する。労働奴隷としての生活を愛惜する性格はそういう近視眼的行動、すなわち本能行動や反射の次元に己の形質が適合している由縁を、社会内で増大させようとする。
 総合的に観察すると、結局この集団を最も原理的に表現して、政治集団と考えるのは妥当らしい。演劇的な実践の側面のみを抽出してみた場合に当たるのがその概念だからだ。劇的行動のみを自己目的視する集団が独りでに集積すると、この特定イデオロギーを装備した党派をつくる。
 だが、かなしむべきかあわれむべきか、普通の世俗的生活者ともみなせる中産階級層に信じられている思想の程度でいえば、こういう集団は驚くべき忌避や伝統芸能視の対象ではない。いいかえれば政治集団は他のもっと柔軟な連中よりはるかに現実に即して胡散臭いというよりは、なにか信用の置ける安泰な道徳的行動形態であると考えられている節がある。
 もしもジーザスやソクラテスがそうした様に、政治行動の正当性を真正面から批判した直情剛毅の人が現れれば、人々は目が覚めるどころか古代制の名残を牽く従来の社会秩序への反抗者としてなかんづく司法の援用で、その勢力を現世的に処理したがるだろう。これが、すぐれた道徳に至った当時の大学者を俗世の警察的人間、アリストテレス式に表現したポリス的人間がまっとうに評価できないばかりか、しばしば真逆の評価をしても反省しない、文化史上有数の宗教祖殉教創始の実例にまつわる歴史であった。そして状況は、政治行動を常識と考える非理知的人間層が多数を占める社交界では一切今後とも変わらずじまいであるだろう。
 この見識が仮にいずれの文明場でも順当ならば、おそらく次のことは確かである。人間というものは、政治集団に囲い込まれている限りその忙殺から逃れられないだろう。と同時に、かれらは名目はどうあれ、実質的には税収を賄う奴隷として扱われつづけるであろう。だから、驚くべき見解に感じられるだろうが、やはり我々の知性の究極の進歩の段階では国家というものは消滅すべき当為にある。マルクス史観の終局への認識は、途中経過への多くの勘違いとはべつに正当的だった筈だ。さもなくば人類が政治的上位者への奴隷の地位から脱し、真の自由を享受できる日は決して来ないだろう。ある首長が人民から暴力的に搾取する意図で国家という囲い込みを設けて保護と家畜的法支配と貢納の儀式を行うところは、王家という伝統の権威を廃棄できたどの民主主義国でも同等なのを看るがいい。単純に、歴史の段階は政治集団内覇権種のいれかわりを激しくする権力闘争の微分化によって配分の偏りという自由の弊害を取り除く過程であった。短期的損得勘定を原型とする生活者は、かれらがこの入れ代わりをみちびく仕手であると説明するに足る。つまり権威は財産の支配可能性に依存するので、かなり大規模となった富家は劣勢に立った政治集団を圧迫してその覇権を徐々に取り除く働きをする。ケインズがその主著で解説する様に資本主義は流動資本の収穫率を次第に低減させながら有効需要を最大の効用係数のもとで満たす過途的社会形態だと仮定すれば、国家の消滅はまた、全政治集団が社会的不平等性の面で実権を持たなくなる有効需要の限界と一致する。
 社会が主として技術開発の面で進歩を止める未来はまだ見渡せない。よって、少なくとも我々が現代の時点で、共産主義者がつねづね行いたがる様な一気呵成での国家政治体制の唾棄を行うことは危険でも無謀でもあり、また歴史が資本主義に託した有効需要の限界を十分に満足させる技術的産業の完成した視野に至るまでは、国家という想像物を便宜上採用しておくのは生活の具体的開発について最低機能面から便利である。幾分の摩擦抵抗として失業問題が不可避でも、福祉国家への誘惑の道を目的なく辿り続ける無作為よりはまだ勤労の習性を社会環境そのものが、そこへ参画する人民全体数を無償教育していける分だけ有徳ではないか。さてこの伝統的想像物は支配側と被支配側とを同一の名義へと縛り付け、その仮設想像物へ従属的な立場を標榜させることによって政治集団を複数林立させるものだ。つまり政党と国家の分離は、我々が現有している中では最も資本主義の本質的意図を満たすのに重要な歴史的達成。そして政党と国家とがほぼ同一視される集団は、かれらが異なる思想形態への反省を疑わなくなるという点で、狂信を誘う宗教化の弊害によって結局進歩した人類へ好ましい社交場となることはできない。そういう国は遅かれ早かれ市場のやまざる動的均衡によって自主的にか受動的にか世界史主導の舞台からおしのけられる。我々が既に政治能力を担わなくなった特定宗教を持つ理由がこの思想と行動の非分割による時代思潮適応能率上の敗退にあると言える。
 更には、我々は確定事項として政党の便宜的相互批判の応報から、やがては国家そのものが自己矛盾を来たし結果的にはその解散が単なる資本の回転率への実利的慣習の面からすら導かれる将来を見通せる。だからそれは現自由圏に属したどこかの先進国内から始まる。だがこの中途段階に於いては、土着の信念固い頑固な抵抗勢力を政党政治という方便で飽くまでも同士討ちさせつづけることこそ、我々人類が国家という自然状態への囲い込みの社会力学を用いて発見した今生までに到達された最善の制度であると認識しなければならない。平和的革命を断続的改革の民主議決という建前で処理し尽くせることほど、その内部での権力闘争を非武力的で人知に想像できるかぎり和平的に継続させる動機づけはありえまい。だから、ある歴史段階では国際政党や国連主義政党、乃至は国家間包括的地域連合政党の樹立がその付近や生協提携された友好国間で成立することを、いままででいう王家というある種の土俗民の長が否定できる訳ではない。実際に見よ、多数の出自をもつ複合民族国家からの漸進的政治思想哲学によってこの必然の流れは先導されるであろう。そしてその統合指揮の世界観によって、旧来の意味でのナショナリズムは多国籍化した非土着的複数国籍間生活者共同体自身の意向に準じ解体されゆくであろう。我々はその経過によって、現在よりも流動可能性の高い異国生活圏間の各社会基盤の共通化を手に入れるだろう。けれども、また王家そのものと同じく、宗教という形でのみ嘗て人類が住んでいた国家という土臭い穴蔵を保存や適宜補修するであろう。そして子孫は、そこを知恵も連絡も貧しかった古代の殿堂として、調度遺跡を眺める様に如何なる公共施設や文化としてだけ残った国民政治という伝統芸能の催しも趣分の観光地がわりにさえするだろう。

2009年9月6日

地政学

都市文明の現象。ある見識によれば、高速道路を地方にいきなり通すと、その周辺の郷土が都市化現象を引き起こし、在来の文化は移民と人口流出で破壊される。だが私の社会学上の考えでは、文化と文明のどちらを択ぶか人民が突き付けられたとき、一般にえらばれるのは文明の方である。そして土着文化を信奉する側はつねに劣勢に立つことになるので、ある程度の反抗のあと侵略者の権力に伏せざるを得ない。ゆえ都市文明の伝播そのものは決して騒がれるほど希な例ではない。これは地方の活性というアイデアが半面、旧態の破壊をも不可避にもたらすという都市文明化への道であると教えるに留まる。それは当然ながら、土着風俗の適応的変異をも代償に求める。
 そして特有の文化人がふるめかしい在来の旧態のなかへある程度以上の徳性を見つけるとして、そういう人のナショナルトラストの様な積極的保護を前提としてのみ国家の地方政策は実質的に進められるといえる。
 政府がおおざっぱに引いた代官線路をどうあつかうかは郷土付近の長らくの文化的展開に詳しい、こういう現地の有識者に任せられたほうがいい。たとえばイギリスがインディアンを追い払う中でポカホンタスの様な有能な首長あるいは郷原を逆に抜擢したことは、スペインのコルテスやピサロがやった野趣あふれる徹底的破壊とゼロからの再建設よりはるかに効率的である。こういう大袈裟な例がある程度敏感な地方人の神経に与える危機的な旧態保守の感情は、にもかかわらずいざとなれば何を真に護るべきかといった文化遺産のありかを啓蒙するものだ。身を挺しても維持したいそういう少数のものしか完全に以前のままの姿ではのこされない、という事実が地方への中央統制的発展のある面で残酷な本性でもある。更には、この都市伝播の流れ自体が国際的な主流である期間、いいかえれば覇権の存在している時代、全くの僻地を除き程度としてどの国家へでも同様の、超大国からの中央資産分配の経過が起こってしまう。

理性の意図

人類が神の似姿だ、という祖先崇拝の偶像化の観点は現実的に疑わしいばかりか、その自尊心を満たす為の生態系独占支配の口実である様に見える。他の生物の視点で考えれば人類はあくどい僭主にすぎないし、たとえかれらがその進化内地位を不動だと傲るとしてもなおそう。
 客観視すれば人類の生物の分類論的特徴はほぼ哺乳類から辿れる猿と似たもので、結論づけてしまうと猿の一種である。もしそれが疑わしいと述べる者があれば、自らが生殖する為にどの様な手段を持っているかを省みれば済む。神話はいざ知らず、人類は知能や大脳の比較的誇大化しつつあった猿あるいは類人猿の末裔。こういう性質しか付与されていない生命体を、神話の延長を以て自己神格化しようとする者はなんらかの私小説的境遇のため哀れむべき自己陶酔の中にいるか、より単純に言えば無知である。
 神道の知能はしばし致命的であって、そしてそれは暴力の正当な行使を生業とした以上相対的には解消不能だろうが、神代という概念を本気で信じ込んでいる時点でその人類としての地位すら疑わしいものだ。神という理念を偶像化して捉えようとしている間は、いずれの政治行動も究極的に失敗する。なぜなら冷静に見做して、猿たちが権力闘争をしているのにすぎないところでその一匹を崇拝してみても影響力は所詮有限なのである。民族主義あるいはnationalismが危険なのはこの有限責任性の陥り易い利己の為に、だ。
 神という理念を是非とも人類の諸影響から分離させて考えるがよい。創造主というユダヤ教以来の定式的神話もまた、この理念を人類形相化することを徹底的に忌避させる所には倫理の正当性がある。もし偶像化の弊害が君主制度と結び付けば、そのとき当民族集団はきわめて危険な絶対王政下の退化に陥るのだから。
 究極的には、神が全人類を絶滅させることも可能である。そしてそういう判断が行われる場合、人類の中に神の計画にとって有用な性格の者が結局いなかった証拠となる。今日までの人類の歩みを省みれば、神の名をそれぞれ別々に、しかもいたずらに掲げて同士討ちを行うばかりか、もともと神の設計した驚くべき調和の意図を読み取ろうともせず、他の繊細きわまる生物間の共生関係を踏みにじる自然破壊の常套手段だけは捨てきれなかった様に見える。人類が嘉されるに値するかどうかは、我々の総意やら考えなどではなく、神の意志に委ねられている。ごく簡潔に言って、大隕石を衝突させるだけで地球生態系ごと破滅させられる能力にとってそこで戯れる制作物がおのれの本来の意図を十分に満たすだけ従順かは只、理性的判断を遂行できるかという大脳誇大のよりどころに懸かっていると思われる。さもなくば生物間にかくも異なる個性、あるいは性特徴を増大させたがった自然の設計意図をよみちがえることになるだろう。

2009年9月5日

しずかに

かなしみのおとは風のまにまに
ながれ流されきえゆくのでしょう
かもめのなきごえもきこえるでしょうか
だれもいない海のしたで
しずんでいるダイヤモンドのつぶが
もしガラスでつくられたにせものだって
もしあらゆるゆめがさめたあとで
のこされるのは波のおとだけ
かなしみのおとも波のおとだけ
しずかに
しずかに

2009年9月3日

世直しの一手

食料自給率論の本質は、必需品を海外へ頼っていると喫緊の事態にあからさまな内政干渉を免れないという致命的欠陥批判にある。

商人気質は長期的視野に欠けるので、この本質をなおざりにして金さえ儲かればいざとなってからでも受給率向上は間に合うと高を踏む。
だが、こういう性格のひとが最後に笑うことはほとんどない。浅慮とは道徳の欠落に由来するので、人々はそういう成金趣味の顛末をざまあみろと思うのである。

 たとえば、いますぐイラクで第三次世界大戦勃発級の異常なテロリズムが起こったとしよう。
米軍は当然アジア自由圏からの世界平和維持への参戦として日本へも出兵を要請してくる。だがこの第一手の時点ですでに日本という浅はかな理性しかもともと持てなかった国は負けているのである。
なぜならば、もしここで反米と取られてしかたない自己本位の裏切りの姿勢をみせれば、この陣営は当然自由圏では孤立する。よって国家単位でいとなまれる経済力学のためにあきらかに戦地優先である食料供給は、‘いくらカネを出そうとも’断ち切られて省みないだろう。
 つまり、いくど知識人諸氏から忠告を受けていたにもかかわらず餓死者を出すのか、といった理の当然の国内批判をおそれて政府は100%米国(乃至そもそも考え方も違った中国と豪州の連携)追随に依拠せざるをえない。
普段から災害に備える心がけを怠って、本来は文人優先に考えて然るべき知識集団からさえ再三叱られていたにも関わらずに、この警察的安全を司るはず政治集団はいざというときみずからの意思で行動できないのだ。そこで米国がはじめから敗戦すると決まっていたとしてさえそうなのだから、食料のような必需品を海外依存している国は基本的に独立国ではない。

 最低限、完全に外国から孤立しても餓えないだけの備えとして、栄養素別に分類した食料自給の質だけは事前に確保しておかねばならない。ここで生ずる必要栄養価余分の量だけを普段にも輸入すればいい。
特に蛋白源である「大豆」、あるいはそれに代わるカタクチイワシなど原始的素材をほぼ自給できていない現状は深刻であって、これらの栽培または養殖ふくむ漁獲の航路を人為的工夫を用いても栄養価として全国民の必要摂取量を保てる以上へみちびくこと、民をいたずらに混乱させないよう、きっちり事前対策を考じておくのが道徳哲学にもとづき先憂後楽を任じる是政者第一の勉めである。

2009年9月2日

神格判断への漸次な理性的根拠

神が屡々人間心理を裏切る様な宿命的暴威をも退けない、という訳は、畏らく、神を慕う者が必ずしも神によって嘉されるとは限らないからではないか。たとえ彼らなりの誠で彼らの民族神を奉っていたとしても、唯一絶対神なるものはインカ王朝の末裔を除去させた。人間側による神話の形成とか、哲学的解釈とか、そういう世俗の見地を超越した判断を宿命はする。そしてこの業の及ぶ循環の期間は、殆ど確定しきれない。司馬遷が天道是非を問うた絶唱はまた多くの歴史を学ぶ者にとっては日常的であり、いわゆるヘーゲル的世界精神は我々の恣意を一切赦さないまでに見える。
 我々がジーザスの死を最大級の悲劇として伝説しつづける理由はそれが、当時の良識から診てさえあまりに苛酷な魂への試練だったからである。もし復活劇という救世主願望が宗教的恍惚によって再生されるとしても、紀元節の根っこにあるのは神と人、あるいは父なる神とその子との徹底的な非対称性らしい。
 しかし、人類自身はどの運命の流れも結局は、神による創作の台本通りと見做す他ないのである。その筋書きは生き残った側によって史記へ印されるが故に、彼らの信仰する最終的権威を行われた演劇計画の原因存在として立てるほかの解釈の仕様がない。我々が信仰、もし近代的個人の用語へこれを仕立て直すなら信念、を持ち続ける本心の動機づけとはこの偉大なる作者への絶対帰依の確信ではないか。その崇高な戯曲への感心が一人生という有限経験によるかみながらの確信を世代間へおのずと伝承させる。どの時代の子孫へも、かの魂あるいは意識へのある程度以上の共鳴と理解を期待するのなら、その時点での我々の知識にとって最高次元の存在を行動の根拠へ奉ることが精々最善である。さもなくば我々の悟ったところは、互いに信じる宗教も異なる個々の家系間のどこかで限定され断絶するかもしれない。
 イスラムの戦士がもし無謀な蛮勇と現代先進金融国からは目されるとしても、またもし手段を択ばぬかのごとき誤解を与え兼ねない恐怖政治が国際犯罪へ仕立てあげられるとしても、かれらの志向している本来の動機づけの面では、正義の実現をつよく望む上でその頑迷な原理主義への一帯の土着的信念は、道徳行動の上では正しい志向だと目されざるをえない。我々は生物の理由すら十二分に解明したとは言い難い幼稚な科学しか持っていない文化段階にあるのだから、その少数派の見解が神との立場の絶対的対比によって以前の考えごと完全に否定されてしまっても、単純に無知に帰すしかない程だ。
 神の意思を推し量るという近代人なり責めてもの後学の為に、我々が持っている次善の手立ては哲学である。わずかながら得られる知識へ根気と辛抱強さによって絶えず実践的反省を加えるこの道理屋の狭い門と長い道を通ってしか、我々の倫理が特徴的に持てる理性を今よりはっきりと認識することはいずれの文明にもできないだろう。

奇跡

この世で唯一人の美しいひとよ
もし私に両手一杯の花束があったならあなたにあげよう
すでに終わってしまった花火ならもう一度みせよう
だがあなたは知らない
もしあなたがこの世から消えてしまえばもう二度と
素晴らしいそのかなしい花が咲くことはないのだ
だから比べるものなく美しいあなたは
宇宙全体に広がった光の粒をあつめて
幸運の女神がもう一度みずからの祈りを
聞き届けてくれるのを待ちつづけるがいい
アフリカの隅々まで探検してサバンナの猛獣と争い
インディアンの勇気に抗いながらウェスタンと決闘する
そうやって手に入れた誰も見たことのない宝石でも
あなたが夜の星屑一つと比べるなら打ち捨ててしまえ
無限大の夜空があなたより愛しいものを遺さないのなら
すべてを爆破してでもそれを手に入れなければならない
だけどこの大海原が流れ続ける天の川が
あなたとの距離を引き裂くのなら
どれほど遠くなるか分からない頂上の見えない山道を
僕は一人の修業者になってどこまでも登りつめてやる
もしそうしたあかつきになにもかも見えなくなって
奈落の底へ沈んでいった数多くの競争者が消えてしまってから
もう何一つ持たないとしても僕はこの想いを届けるでしょう
世界で唯一人だけの美しいひとあなたは
奇跡だ

報道の皮肉

我々人類が持っている最高度の道具が言論である、という認識を笑い話程度にしか信じていない、筋の曲がったジャーナリストは自分自身が民主主義という言論を標榜しているのを知らない。