2009年8月31日

神のみこころ

台風の近づく頃に暑さ散る
静かに近づく秋への読書を蓄える
学ぶほど知り得ぬ神のみこころよ
疲れても眠れば起きて夏と働く
東京は暑さに堪えぬ石場かな
朝ぼらけだけ過ごしよく鳥の囀る

現代政治について

我々が現代政治を行うには一本筋の通った根本哲学がなければならない。その場限りの遊説だけで多様化した人間の心理を省察しつくすことはできない。セネカや徳川慶喜が如何に忙殺の中でも深い内省の習慣を疲れたその身からさえ遠ざけることがなかったか、現代の国際商人化した高官は絶えずおのれの非力な理性を反省し、まず第一に自己批判しなければならないだろう。

News

Today is something new.
Next day is not but, older.
Next next day is newer than yesterday.
I can't find it. the
Day after tomorrow I've dis-got news
Why be able to you, to accept new journals?
Today I missed to promise for
pre-catch this Virginian rain
Why you can enable to that
Will, to get some arts? If not to old
Two days after tomorrow
Maybe to miss match for your delicate felt
But some news has got in
My empty post box

2009年8月28日

嗜みについて

芸術の主眼がその形式または様式だった、ということは十分に認知されるべき命題である。そしてこの意味や内容とは係わり合いの本質的にはない、純粋形式論の上でのみ芸術が語られないかぎり、結局技術的にますます複合化されてくる現代美術はどんどん一般に理解不能になるだろう。批評家あるいは造詣ある人と考えられている階層の人格が上述の、形式論への教養に欠けていそうなら、そういうひとの批評には十全な価値はない。対して、科学そのものを職業や生業とする専攻者がこういう形式論へ精通している場合はとても少ない。というのも、科学知識的学問それ自体は、形式を問わず、言語の記号がもたらす意味または内容への哲学だから。
 最も確実にこの「学」と「術」との間の分裂の問題を考究した哲学者に、カントが居た。かれの属した中世の軌跡のこる時代と地域なりの晦渋な文体でではあれ、カントは芸術の問題が形式論であって、決してその他の学問とはおなじ原則でいとなまれるものではない、と明らかにしようとも著述につとめた。そしてこの点で現代の目からみても、思慮深くもカントの哲学的達成は、古代ギリシアの賢人らの地点を超えていたのである。プラトンが「理想(イデア)の写し」に過ぎない、として芸術のいとなみを批判したことに対して、「現実(エイドス)の姿」である個物はそれ自体が合目的でありうる、とかえした弟子はやはり師への追随に留まったのだった。比べてカントによって西洋史上の哲学的古典の考察が綿密に行われ、この根本的な形式と内容との二元論化への反省が一つの総合認識へまとめられたとき、我々は彼の理性がいわば学術という考え方を生み出したのを見るのだ。そして学の問題と術の問題とは相互にことなる原則で処理されるべきだ、と考えたとき、古代ギリシアの精神があと曳いていた普遍性と個別性との間の相互いに好ましくない不調和は解消された。なぜならば、理想をつかさどる学者はその意味や内容を純粋な理知に基づいて考究すればよく、現実とみわざの範囲で格闘する芸術家はそれと係わり合いになるかならないかは別に、単なる作品形式やその時代様式の問題だけを集中して解決すれば済む様になった。尤もこれらの職名も効率性を重視して分業が普通だったひまのなく貧しかった文化段階の用語方法であり、未来の世界ではかれらの職業間に区別はなくなる。だが上述の批判的基礎の観点だけはいきのびるだろう。
 芸術を批評するのにもっとも適当なのは、これらを鑑みれば、できるかぎり幅広い形式論上の知識をもっている、いわば嗜みのある人になる筈である。そして必ずしも専門のある科学者ではなく、自由教養人的哲学者となるだろう。こういう目利きは一般に大層な暇人である場合がほとんどであり、ほぼ実用性とは無関係な多くの技術上のこまかい手間隙を、ただ自らの趣味を満足させたいがために理解しきっていることが多い。だがそういうひとは大抵、現実問題についての無用の用を為し、貴族、趣味人、高等遊民、或いは実用主義の目からは道楽者、好事家、物好きとも云われる。多色刷りと職工的分業のくみあわせを工房制度の確立というある安定した富豪の時代背景と共に追っていった経験のある文化教養人でないかぎり、なぜ浮世絵や漫画などという庶民のいやしいなぐさみものが西洋人からだけ特異的に、かれらのルネサンス的個人芸術家の独創力思想以来の伝統をゆらがす逆理的独創性の高い製品なりなどと彼らの衒学的流用には使い勝手のいい外来風物として持て囃されたかも認識できない。要するに彼等はその幼稚な内容などではなく、極東の文化的野蛮人が粗野で垢抜けない感覚で独自につくりあげた技法の珍しさを、おのれらの洗練の度が過ぎた歴史的飽和の中性化へ洗浄剤として利用したのであった。だがこの自認された洗練が地球文化史上どの程度中央的かはいまや疑わしいものだが。
 こういう訳だから、長い芸術様式上の展開の史実やその技法の銓明に無知なしろうとが流行に後れまいとして様々に経路をとる学と術との間の命脈をとりちがえることは、彼ら自身の価値観の失敗を最終責任としたにせよ、危険なのである。職能の背景も分からない侭、単純にマリリンモンローのスターダムっぽいあれこれを血色のいろいろな形にとどめたその意味論や内容論だけで、商業作家だったアンディウォーホルが彼の手に入れていたシルクスクリーンの技法をゴシップの援用という知的ではない装いでなぜ飾ったか、彼と同時代的なダダイズムや概念芸術その他の西洋コンプレックスの裏返したる選良主義風評論重視的美術観への大多数の同調ムードにかけて評価するのは不毛である。そこではもっと実用向けだったただの版画の技法を純粋な造形絵画史脈の中へ堂々もちこんだ、漁夫の利式あざとさだけが本質なのだ。一方そういう新大陸美術の中心軸のない歴史的空虚さを穿った芸術は、文化史上での宗教的根拠、その聖像という意味の決定的喪失について独特の展望としては追認的分析がなされていい。そういう性質は近代主義の潮流がアメリカの風土でのみ花開いたことの結果だったからだ。いいかえれば芸術家あるいは芸術表現を行う者が意味や内容論の達成をつねにもとめているものではかならずしもなく、そういう観点は大衆への解説を込めてもともと批評家の後付けで求めるべきものなのであり、おもとして純粋な形式的達成のみを命題としてきたという点で鑑みれば、嗜みのある人の目には単に技法の変遷が各純粋芸術の枠組みのなかで徐々に鑑賞できるだけとなる。そして本来は学問の問題である意味や内容についての援用を図る場合、それは芸術の本質にとっては、単に余計な装飾である。そういう装いは歴史ではなく、流行と呼ばれていい。ある芸術様式に同時代性がみられる根拠はこの学識援用に一定の文化系背景があるからだ。画家の曾我簫白や詩人のブレイク、建築家のガウディなど時代を経てもある種の特異さ、異様さを伴ってみえてくる超個性的奇手は、同時代の平均的教養体系から孤立して身を遇した経歴からこの流行に乗っていなかった訳がある。忙しい世人は一本筋の通った歴史よりも周りより目立ったその場まぎれの流行に騙されやすいものなのだから、真実味のある誠心な批評家にとって功績となるのは、こういうきわめて除去されやすい遠心的突然変異についての懇切丁寧な一風変わった趣味の擁護、となるだろう。

A beauty

I had found it
La beau I had never beloved somebody else.
Because everything was decay.
Everywords were empty, because
I had never found, et your like woman.
Some ages, human believes
Our situation is the perfect
Some ages, you would never see
That imperfection.
But I found it
Yet, we aren't a loneliness being.
So you will find more beautiful one. At in an age
That's early natural. Youthful time ever be-loving
Of Romeos face tends to perfume someone's blonde?
But, of but, I'll never forget her. Really
Charming, Grateful Graceful, purified nurse angel
In prefabricate sculpture on the icy music. Stylish
Didn't it who are in the country, virginity, our both entry
These resemble paragraph, who? Conveniently chatting
Not that yet, You didn't to get my confusing. Confused.

Worlds ends is in
La beau of the fundamental Arts. If
I could catch your thoughts, about this
Disagreed able personal our living! Did not beloved
This to perfect falling days, For the nothing taught,
Socialized
Personal undivided one of the earth quaking,
Tremendous, futuristic classical, philosophical renewable
However platonic all of, the first of
A beauty

2009年8月27日

阿君

和知和知和知 井井已相和弥
午後和飲茶也 艸艸木林鳥鳴
乃乃斗間母奈 眠日明月民眠
晴礼晴礼春礼 綿毛礼野菊和
石石阿牛毛毛 艸艸走双子艸
風風風气厶厶 丁丁汀歩風侖
大大孔子和知 歹戸亘个門儿
人愛儿合休予 本愛兄示尓有
阿九和久牙弓 后宮好求小灸
命名石冖乂奈 迩好儿好阿君

2009年8月25日

NHK狂犬病

[先日、公営法人NHKが都内で民間人への訴訟へ及び、裁判官のあやまった判断による勝訴を得た。
自主的な放送料契約の辞退をのぞむ国民存在から、受信機があれば契約を結べるといういわゆる‘プログラム規定’の一種である放送法条文を根拠にし、愚かなことにその条令をつくった国民自身の意志に背いて無理やりに金銭を絞り上げて恥じぬ気負いをみせる。
 だが「義務」と「権利」のちがいすら知らない当該裁判官は現時点で職能さえ持たないと言える。そして権力的弱者を擁護する立場にある弁護士の批判が正当だと一般に認められれば、かれは最終的職権を喪失するだろう。]

上述の内容への詳しい注解。
…カネ欲しさに養ってもらっている国民自身へ共食いに及んだNHKは近い将来、自己崩壊するだろう。

ちょうど主人へ噛み付いてその肉をちぎりとった自慢げな飼い犬が大層愚かなことに、翌日保健所で窒息する運命と同じだ。

 多くの善意からの忠告を無視し、あきらかな組織の官僚主義化の腐敗にもかかわらず経営権をみずから放棄する勇気もなく、悪に気づいていながら主権者へ罪を重ねた責任は自分自身の衆目下での自殺で取るしかない。
又カネ目当ての犯罪集団が今後永久に国民からの公益事業としての信任を回復することはないだろう。

国土経営内での余分所得運用方針

同じだけの労働量を、国民が賄える国際分業内での労働の種類についてどう配分するかがその国民所得の単位能率を意味するとすれば、土地生産性がより高い生業を選り好みするのは経済勘定から言って賢い知的行動だと考えていい。
一国民のもつ技術水準が他国との連環の中でどこへ位置づけられるか、この自然的秩序は実質的にはより希少価値の高い製品を生産できる系が周辺支配競争の上では有利だと教える。
そういう品物は他国の設備投資によっては代替品を儲けづらいので、(情報を含めれば)おもに時間の中では、相対して高水準の取引価格を新品係数上たもちつづける。

だから汎用品への製造業上での深入りは、それが母市場(いいかえれば輸出可能な範囲)での最終的需要規模をみずからの流動資本量が他の産業または投資主とくらべて十分に満たし続けられるどうか、へ全面的に依存して決定されるべき「副業」向けの進路なのだ、と言えるのである。
又なぜならもしこの母市場が十分な購買力(ナイシ有効需要)を維持できる見込みがなければ、そこへ汎用品を継続して供給しようとする業者は、ほかの進出してきた大規模な輸入業者に比べて基礎的資本力差の面で生計をなりたたせていくことはまず無理と言えるので。
 仮に総合して自由圏の資本力が、共産及び社会圏のそれへ最終的な経済征服を可能にする迄の貿易制限での摩擦得失分を考慮しても、その中途段階で起こる社会現象はすべてこの副業の配分に関する朝三暮四の順序だけだろう。
つまり先進国の独占はさきに高度な知的産業を開発し自己配分を自由主義的に進めるが、他方乗り遅れて部派へ分かれたしつこい反抗と――頑固で旧式な土着産業への執着によるその精一杯の調整策ということは、後進的諸国の複合観念に充ちた国連監査的持ち分といずれなる。

前述の様に背景とした市場規模へ汎用品(日用と――それに類した製造技法が比較的普遍的でたやすい便宜との品)の供給可能性は依存するので、より大きな購買力を職種細分化の担保とした大陸国家はその産業の高度へ向かう展開の上で輸出入による貿易差額を差し引かれない分だけ各部の専門化に伴う経済効率に有利である。
逆に購買力が一定の余剰人口限界として制限されている島国では、いくら住居やワークシェアの工夫から人口過密を進めたところで、結局はるかに多大な人口を養える天然資源の甚大な国と同等以上へかれらの所得水準をたもとうすれば必然に、「汎用品の安価さ」を元とし他国から日常的にそれらを輸入しなければならない。
 即ち、現状で先進国であるかそうでないか、その産業の技術水準とは別に、単なる人口支持の面でのみ判断してどの産業が国家の規模にとって有利となるかは事前に予測できる。

私がここで贅沢品と呼ぼうとするのは、非汎用の一切の、自然と社会両方による製造物のことである。
この小論の冒頭で示した‘希少価値のある品物’はほぼすべてがこの贅沢品に分類される様な、特定の地方産業構造が独特の技巧と資源を有するかぎりで認められる高級品目に関している。
…ロスチャイルドがダイヤモンドの加工方法の発明の機運に聡ってただ溢れた単なる煤けた石の転売を高級宝飾品目へすぐさま転用できると確信したとき、原産地であるアフリカの鉱山と本土の加工場および職人の定期的選抜を独占支配することで、とある企業的資本家が市場へ贅沢品の供給可能性をはじめてつくりだすことに成功したのだ、こう考えられる。
 しこうして貿易差額の本質はその他の汎用品の投げ売りと決定的な贅沢品の囲い込みとを儲けの的としているものだ。

そして我々が、少なくとも先進性のある技術的科学へ一定の興味と投資の準備とを運びよく持ち、或いは国土に限定のある国民が彼らの生まれもった天然資源の域内で経済地位をなんらかの目あてから確立しようと願えば、まず汎用品については安全がその場でゆるすだけ最大限に輸入へ切り替えるべき也といえる。
(この種の比較的容易にいとなみうる生業はいずれ国内から自然に絶滅するか、又もしも一帯を自治する政府が輸入できる質量での不安定への保健として便宜的に行っている‘関税保護措置’をひきあげれさえすれば市場の競争原理により漸近的に潰滅するだろうが、どちらにせよ我々にはこれらの結果が成員各々の福利の面からみれば寧ろ望ましいと理解できるだろう。
結論として趣味・リクリエーションの分野でしか既存の汎用品製造業は中小の島国では生き残ることはない。農産物ばかりでなく加工の度合いが比較的低い全工業ナイシ単純情報品目も含む)
 つぎに贅沢品については、これが希少価値を付加できればできるほど所得獲得の面から有利であるから、その狭い国土へ散らばった地域ごとへ想像できるかぎりの高度に独創的な分業を推進すべき也といえる。
(現在でもいくらかの工芸品では見受けられる様な特産性を、一切の科学技術的製造の部品と完成品とへ力の及ぶだけ拡げることが必須となるだろう。一つの考え方として、次の産学連携術は有効な手段になると思われる。
我々の社会固有の既存の特殊条件としての、私立大学の地方分散という社会資本的基盤がある。
この維新の副産物というなにかの事情をわれさきに援用して、一般教養への折衷を免れない国立大学の運営とはことなって、あきらかな短期間での応用的発明と実践工学についての企業との応答成果が学生回転率を報酬とした地域産業への徹底的な適応で図られるなら、地域社会にとって得はあり損というものは考え難い)

 特に後者の贅沢品の製造にあって、秩序化にさまざまな偏差のある原材料の輸入とくみあわせる産業成立の可塑性を持たせるために、「みなと」を有する着湾地域以外では主としては空輸という発着点をいまより功利的とする幸先があるだろう。
こういう空輸を経由しないのならば原材料の仕入れには陸路を使用するしかないので、遠隔運送の費用高またそうでなければ国内からの原料は定量的にも種類的にも限られることから、予想外のまれな製造業態成立及びその取引の勃興へはどちらかといえば不利な侭に留まるだろう。
よって、もし彼の県民もしくは地方民が技術的に進歩した生活形態を欲するのならば(そしてこれは決して地方の地政学に詳しくない粗雑な中央統制によるのではなく郷士共の任意でなければならない。なぜなら保守的な生活様式の方が却って伝統工芸品の保存された独創性には手短な既得の場所柄もあり得るので)、彼らは自らの位置した内陸のどこかへ『空港』を建設すれば結果的に、そのわずかなりとも持てる財産を活かした将来の所得を増幅させることになる確率は地続きより余程高いだろう。

2009年8月24日

芸能界の母系的特質

審美的社会淘汰によって確保できる最大の性格は、その生殖系統の総合性だと思われる。一般にこれは演劇の才能として評価される節がある。経済系とは演劇的団性、政治系とはその群性のことだから、それら以前の純演劇系すなわち芸能系とは個性についての総合された形質淘汰の場のことになる。
 人類がその成長と変化との連続した歴史のどこかで総合的形質を突如必要としなくなる、とはもし新種が全く次元のちがうある感覚器を成立させないかぎり考えづらい。その有利さを省みれば、個性をどれかの感覚特質について極端化しつづけるべく適当な圧制にとある進化場で駆られたとしても、なお総合的な基礎は維持されゆくだろう。

 一つ以上の感覚特質をはるかに前人より進歩させることに成功した個性が出現したとき、彼が母系として選ぶに最も適当なのはおそらく演劇系であり、またその中では形質の先進性がよりよく総合されている芸能系である場合が殆どではないだろうか。ある天才人が特徴ある芸能人を配偶として選ぶのはこれらの進化に必勢の道理からも合理的な方針だといえる。
 もしも特徴に於いて多かれ少なかれ改良に遅れる、一般人と言われるところの中流商業以下の形質とこの感覚的天才性が混ぜ合わせられれば、その偶然に依るところの大きい本質的配列が崩れる確率の方が高い筈である。

簡易設計論

美が相対的なものであるとはそれのもっている希少さが量感とも関係することだ。だから量的に稀すぎる種は奇観を呈するが、時代や状況のうつろいでそれが適切な量感のもとに示されれば美しく見える。
 審美性を至上視すること、とりわけ、ある一種をそうして目的視するのは以上から危険でもある。訳は自然の目的論が確定しない間は、量感の粋がとある一種を選び出すとは限らないのだから。人類が審美的かどうかは次の比喩で理解できる。もし嗜みのあるペリカンがダビデ像を眺めて人類らしいと呟いたら、その普遍性が神の像の設計面ではなく、模造された精神の形相へ様式論として語られているからだ。つまりはペリカン社会にとってリスやムササビの神像がペリカン自身のそれよりも審美的かどうかは確定できない。人類自身にも同様。無論そうはいっても、チンパンジーとか人類とかが彼らの神格化を施すために模擬した審美観とは、そのらしさ、写実的設計にしかやがて求まらない。故に人類が唯一の審美的対象となりうるのではなんらない。審美的意図を自然の設計論の上へおしひろげてみるがいい。
 我々は宇宙あるいは時空間に、実に多様な形相が広がっているのを見る。そしていつしか色彩の面でであってもこれら極彩の無償性は積極的な中庸を益々捉え難くする知覚撹乱の現象也と認むるに至るであろう。知的あるいは理性の設計の面からだけ神格の理念を表現しようとした古代ギリシアの精神にはかれらが抱え込む擬人化の弊害も限界として聳えているのである。
 我々は未来の芸術世界が理性の設計以外をも試みるのを知るべきだ。市場主義現代化の通弊として欧米思想潮流の王道視が万国を覆いつくそうとしているのを観察できるが、たとえ極小の勢派であっても、それに本格的反撃を加える、また加えつづけることは道徳的である。なぜなら理性以外の性特徴が審美的でないと確定する理論が存在したことはない。この種の趣味観のずらしは結局生態論上ではその可塑性を補償する。例えば同系列が突然変異によって未知の形質を生じてなおその有用さが理性の面からは不明だとする。この系統枝を単に以前の形態とちがうという理由で処分すれば、将来の恩恵か遺伝的浮動の機会をうしなう。博愛或いはagapeの理念はこの面から未だに評価できる。訥弁すぎる子供が悟りの深い思慮の聖でない、とは従来の議論前提の土壌では確認できない。そういう変異のきっかけは微小なものでも、ごく注意深い選良の仕手に係れば多くは新種の発見、少なくとも個性とひとしい。いまで言われる障害の対象は現実には環境土台との違和にしか理由をもたない。条件者または事情ある者という、より緩和された博愛主義呼称用語が普段に通る社交美の未来が必ず訪れるだろう。
 だから知的設計至上思想から適者生存の原則的圧制があるにも関わらず我々がそれとはことなった無用の用につらなる一連の文化とこれを羽含む趣味を有することは、結果として未知の環境変異への実に思慮深い心くばりである。設計者は夥しい形態の繁茂に関係なくして、この障害の除去を行うのが自然の理想であると信じるに至る。乃ち知的設計者の根本目的と慈悲、或いは慈愛の理念とは何かしら通底するところがある。環境の理念というのは生態的可塑性を福祉と矛盾しない程度に中庸へ順次漸近させる技巧の上にあり、それはいわば面白味の方法であって、この面白味のあるなしがその場が将来に亘ってもより審美的な創造性を維持できるかの鍵概念となる。調度適合の過度、流行好みの個性至上主義気風はこれゆえに生態の構造的固定化を意味し、多くの場合は後退的宿命の土地として置き去りにされゆく不毛の設計方針なのであると知るべきだ。
 我々が永久性を建築表現と一致させようとすれば一切の個性を犠牲にするに如くはない。それでも面白みがあらわれなければ彼は天性の感覚に不足する。そういう場合、必要なのは知的設計者へ習うこと、則ち自然の主というべき地霊あるいは精神が模範になって教える土地の構造へ能動的に順応することだ。郷に入れば郷に従えという諺は知的設計論の根本原則を簡潔にいいあらわしている。例えそれが一種おかしな計画でもまさにそうだ。設計につき特異点はありえない、それは時間的空間的に相対的にのみ成り立つ様計画されている。
 我々がこれらの審美的偏差から悟ることができるのは、宇宙では無限につらなる変化が期待されているということだけである。唯一絶対の美という概念は、創造計画の意図が設計を通じてあらわれてくるその個物間の調和へ一々理想してみつけだすほかない。だからそれは各々主観の、裏返してみれば完全な客観間の原理であって、幸福一般と同じ様に趣味主義の頂点をのみ到達点とする。芸術性についての直感が美観を覚えさせる理由は、感情の合目的性が、医学の言葉を借りれば自らの有する脳幹を、理知の枠組みを外さない侭でさえ十分働かせるから、といった本能の愉悦への予期せざる奇跡的回帰に由来するのだろう。それは大脳或いは新皮質の瞬間的痺れによる感激を斉す。なので芸術はなんらかの抜け道を通じた生態的体制固定化の脱構すなわち社会脆弱性の回避であり、及ぼすところ誘惑か威嚇いいかえると驚きの作用とほぼ同一である。これが我々をもふくめて社会生物の群生を同系配偶の連続的癒着による弱体化から救う。
 奥深い創造計画の根本理想を芸術性による調和の比喩法を借りてさえ最も適当な最短音節の理念語で確立しようとしてきた古人は、にも関わらず文明間の隔たりにか基づいていた地方党情もあってその究極の言葉を様々に言い表すしかなかった。ある者は超越概念を延伸させて神と言い、西洋では血縁を超えた愛と唱え、東洋では無限遠を空想させる道に喩える。だがいまやそれが一神教の文化的信仰段階の先にある普遍計画の理性のことであるとは認識可能な進歩を、文明の知能は達しつつある。そして我々がより良い数学的論理表現を哲学へ十分に適用できたとき、この計画の完璧さは諸々の詳細図と共に、学者の掌へ科学による自然認識の貫追を通して明らかになってくるだろう。我々の精神、すなわち知能が神学の段階を抜け出して宇宙工学へ進めるのならこのすぐれた知性存在は、真に理性と呼ばれるべき神々しいまでの深慮に関する注釈、その本質を合理的社会建設の規則性ある理論体系へとより簡潔に論理式へ圧縮しつついずれも納めゆくであろう。善という未だに曖昧な理念が規則性へ高められる時も、政治学が確立されるはず諸社会学の後駆りに伴って訪れるだろう。

夕立

真夏哉
人歩く
日差し刺す
揺らぐ
黄色いプールの歓声は
風鈴与
エアコンの底冷え
アスファルト毎
水走る
日傘すら
消尽くす夏は
融けた路面
蝉慚愧
水色のイルカ浮輪
だけ溶けず
我ながら外に凝りし
休みでも子供おらず
炎天下車道凝りず熱す
ジャングルならね
呆れるほど打ち放し夜中に放熱さす
呆れるべき森烏
熱帯建築
生ゴミども行き場なし
伐られても一年ごとに咲くムクゲ
鈴虫泣けり
夏はつとめて
いつか見し
那智浦静か
氷売りテレビゲームのなかで生き延びし
ノースリーブだけ生き延びし
ブルーハワイまだありし
海水浴場は汚される
夕立や街鎮まる
団扇は持つ
水平線を灰水色に染めてしまう
カモメの飛び立ちて海風を残す
一色になれ

2009年8月22日

象徴の形式性

政権闘争の議論中、民主党の日本新生を象徴するマークを示した旗が、日本国旗を切り張りしてつくられたことへの批難あり。現首相、自民党代表もこれへ梃入れす。
 象徴はすべてそうだが、意味の方が尊いのであって偶像がそうなのではない。だからもし高が旗でしかない国旗を斬切るだけで日本国が救済できるなら遠慮なく、何億枚でも切り刻むがいい。姑息な枝葉末節への批難をもって闘争の為の闘争に熱中してはならない。すべて政治的議論は、より良い公共福祉の立場をみちびくための手段である。だから小手先の論鋒をくじくにはいっそ「国旗を燃やす」ことほど効果的な煽情方法はないだろう。
 旧体制を打破する意志を明確に出すのに遠慮はいらない。高が旗なのだから。
 国民の総意を象徴よりも尊ぶ者を民主主義はあたかも救世主の如くに遇するだろう。かたちだけの崇拝は虚飾にすぎない。ただの布とインクで染み抜かれた日の丸の印が尊いのではなく、志を以て大国に抗う一つの理想としてそれを掲げる国民の魂そのものが、彼らの万国公平を望む東洋の高貴な精神のために尊いのだから。

2009年8月21日

業の分析

主に江戸、下町と呼ばれる東京都の地域では以前も今も、また今後も、ある種の頽廃を免れないだろう。その地域一帯は、積極的には温帯へ属するが為にまた消極的には武家社会末裔の下請けを生業とするが為に快適性についての独特の変形を生れつき被る。
 大阪と呼ばれる地域がそうなったのと類似して、下町は人口過密の極端に進んだ姿としてまた日本的類型の最も下落した面を示すことになる。要するに、彼らは倭人種の下層を占めるのに適当な性格を共通してもつのである。それはある方面では武家・政権社会への搾取的適応たる売笑婦の性格となり、ある方面では異常に劣等感の裏返った型として義侠心の持ち場となる。
 我々がこの地域一帯へ行い得る改良は殆どない。つまり放任し、見捨てるか商利用するほかない。なぜならば、そこを実質的に支える政治社会が山の手一帯から消滅しない限り、一切の状況は人口過密から動かないだろう。土地あたり価格の面で、西東京の様に新興開発されたのではない官庁街界隈へ住みつくには、細分化された雑然たる地区が有利だからだ。

 倭人の伝統的民族性に於いて、朝鮮民族と非常に類似したオリエンタルな点に、性奴隷の売買を行う業を、それは国家内でも公然とした犯罪だが、大都市部ではほとんど阻害せずに愛好する所がある。しかし一般にはどの国民もこの性格を普通には忌むし、特に宗教の力を借りて精一杯除去するものである。対して姦淫する勿れという文言を古くから持たない朝鮮、日本の両民族はかれら独特のアジア的頽廃を生来愛顧する。創造説との軋轢から遅々として進まない人類生物学の微々たるが一応の知見によれば、亜熱帯以南の免疫力淘汰の原理にもとづくこの乱婚制の擁護という習性は、かれら極東人種が如何なる工夫に則ってかれら独特の歪んだ宗教観を堅持しているかを雄弁に説き明かすのだが。

 神道という日本土着の民族宗教態は、江戸時代にはじめて接触したキリスト教思想への封建的ではげしい禁忌感情とあわせて、極東によりあつまってきた憐れで貧弱な理性の民族がいかに自然崇拝の宿命を長引かせているかを、我々へ説得する。いいかえれば極端過ぎて適度さを失った雄性の適所である暴力団とか、その逆の雌性による遊郭とかなにかその種の人口過剰を背景にした文化習性の奇形化は、寧ろかれら遅れた立場にあるアジア人が自然界の合理性を直感的に信仰する延長にあって、おのれどもの「業」からの応報に結果を待つべきものとなるのである。
 だから我々が、少なからず西洋的理性の修養者が彼らの救い様のない堕落を放置するならば、彼らの業に応じて乱門からの悪意をこうむるであろう。それと同時に、この政治社会へぶらさがって成立した悪徳と奇形化の地域育ちが禍々しい習性を地球中へばらまくのを覚悟しなければならなくなろう。

 神道の頂点に位置する天皇への帰依を訴える狂信的愛国主義者が彼らの業のあしきを自覚する反省の気負いなく、このまま彼らなりに系統立てて説明した民族の自然崇拝を助長しつづけるなら、その末路はかれらに必然の致命的敗北となるであろう。これらの知見は、日本民族がその自然状態の侭でなら他の寒冷帯に属する人種より理知的展開へ劣るのみならず、その知識文明化への道を辿る由すらもないので、政治的血統ごと地上からキリスト教文化の細部へ解体除去または殲滅、乃至併合される劣等生的将来図を確信させるに十分であろう。この経過にあって暴力革命か戦争が避けられないとすれば、キリスト教連合軍は日本民族の神道連合軍を実際の東洋系野蛮人群生と考え、その方向へ志気を煽動せざるを得ないだろう。だがもし議論と説得によってこの征服が可能なら、第一に天皇制を解体しなければならないだろう。
 一帯へ土着した倭人の郷原的狂信は第二次世界戦で実証済みなのであり、それは彼らの血統が純系を主張するかぎりますますそうだろう。よって、後者よりも前者の武力征服が起こる確率の方が高い。

 私の一国民としての実感として、主に日本の西から南に土着した倭民族は決して理知の優秀な品種ではなく情緒的雌性的形質を普通としている。かれらは科学知識や近代の理性を失われゆく外来的風物としてしか顧みず、大和魂と呼ばれる東洋世界の頽廃した生活態度へ土着的愛着をもっている。よって多くの善意ずくの宣教師の理想とはことなって、直接の説教がかれらへ大いなる感化を与えるよりはずっと、アメリカの土人を駆逐した際の粗野なみせしめの要領の方がかれらの教化へは合法的で理由あると認められる。

2009年8月20日

くらげ

くらげの子が
ゆーらゆらゆれゆれゆれる
波のうえをお日さまがにげてく
ゆれゆらとただようヨロイ
夜になった
くらげの子が
そらをみたらまん丸のぽっかりと
お月さまが見ていた
ねていたらお月さまは逃げた
あさになったらきがえてつぎは
よろいのかわりにお日さまになって
てらてら照らすんだろう
くらげの子がみていたらあさとよるはならんで
波のままにすぎていった
波のおとだけが夢のあいまをひたしていた
きこえるのはくらげの子の耳にだけよ
その音はお日さまとお月さまのかなでる歌だから
へんなやつだなとアンコウのおじいちゃんがおもった
そんでねお月さまとお日さまにくらげの子がなった
その音はやがてこの星のすべてをつつみ
うその声を波のおとで消していった
消してしまった

伝説

航運順調指針指沖南海贅贅郎党船
府中付議豪胆海神冒険家散策令名
乗船則天去私説得有文献説島扶桑
人員充實満倉廩轟轟四海前進不屈
一行僥倖発見也遙幃線昇醸元陽光
船員形相爲血相金印互角紺碧宮嶼
歓迎詣遇爲魚貝穀豊不肉食倭如州
世襲忘却後亡勿深山御影石碑記憶
徐福安穏雖背航程歴代楽園想故信

Sleeve

Oh didn't you watch the movie?
If not, you'll be in lost in your age
I will talk about it now
At there cottages, everything was duty
And they did to bold every worlds at once at a glance
At a granza, in the beauty, they attracted to accept there
Older manner than this time. In the country of
Stop
Why has you done that a
Summer soldiers in the too hot shore, too sweaty
Face? What a sorrows?
Don't worry
Hey young man, the world is heavy so
You'll never talk with others about an
Avoid of every you're nothing. Of course
We are the God status not having. And
You will know that however felt off like a
Falling scene corner, downtown court on a
Sleeve of movie shows

伝達

もしも世界が十分に広ければ、人間は永遠に広がりつづけることもできたろう。それ以前に、地球環境への適合性が彼らの本質的条件だったとしてもなおだ。
 だが我々は学識の積み重ねで益々すべてが然るべく適所への変形をへているのを知る。この為に、人は人類がすべての面で汎用ではないのを見るだろう。空を飛ぶ為には十分ではない肩甲骨は退化による、空中圏への不適応を実証している。我々は学問によって賢くなるのではなく、学をつなげることでのみ賢さを保てる。而して学識という外部化された伝達記号系列群は、一体、量的に観測できるのみである。文化が学習方法の改良を行わなければ、膨大に及ぶ全秩序立った法則は遺伝されない。
 だから、学者が折角の努力を無駄骨に終らせないために注意深くなるべきは、積算した知識を効率よく他者へ伝達することだ。詰まるところ恒常的に社会が保有する伝達可分量だけが、民族の賢さの証となる。そして忘れられた知識には本としての重みしかない。
 もしも人類がこの宇宙内での知的生命たる名義を重く受け取るのなら、できうるだけ賢者の多い社会環境をつとめて志すがいい。さもなくば決してかれらが以前より偉くなったり、進歩した文化を構築することはない。

ぼくは冬が好きだ
理由は家の中でおとなしく勉強してても誰からも怒られないから
夏にそうしていると
大人がやってきて引きこもりだとかニートだとか言って
無理やり外に引っ張りだしかねもうけか
いやな女ときもちわるいことしながらウハハと言ってテンノーゲームさせられる
トウキョーというところだとテンノーゲームがはやってて
源氏ものがたりとか言ってちゃらちゃらした衣装で
歌っておどって女がきゃーきゃー言ってかねをもうけている
そしてばかみたいなタレント知事がどんどん出世して
ウハハといいながらゲイシャとならんで働け働けという
テンノーゲームはくだらないのでぼくはやらない
そうするとぼくが好きな科学の勉強の本をとりあげて
ばかみたいな首相がまんがを読め読めと言う
売れるから
ぼくはこんなばかの国は全員切腹したらいいとおもう
そしてぼくは家の中で
冬のようにしずかに
いつものように血まみれで死んだばかなジャップが土に還ってく外を
雪見障子からながめられるだろうから
そして春がきたら表でせのびをして悠然と息をつくのだ

2009年8月19日

コオロギ

社会環境へ期待する
ものがあるとでも? そこは
ほぼ隙間なく埋め尽くされた滑稽な
生命体ぶった蠢く何かが
きみを貶めるだけの
一体、本気で教師の言う
嘘八百の物語を信じてた? それは
ただの、政治屋さんがつくりあげた小話
たとえば特攻隊とかほざいて
飛んで火に入る夏の
もういい。聞き飽きた。だから
私は庭の隅でなげうたれたポリカーボネートの下から
見つけだしたそのぴょんぴょん虫でもいいから
コオロギとまちがえて、
潰す
人間どもが一人のこらず
地表からすり潰される
仮にそれが
かれらへあらゆる悲劇を与えるとしても
私が見たいのは
あの嘘ばかりついて私たちを騙した教師を
税金から搾り出した高給を食んで
私達こどもへ
悪意の許すあらゆる暴力を尽くした野蛮人を
一人残らず地上
からみなごろしにすること
その教師は、痛みで金切り声をあげる子供を
竹刀で叩きながら、天皇を崇拝しろ! と叫んだ
そして私たちは泣きながら無理やり何度も殴られるため
何倍もある図体の目の前へ立たされ、
「お前は人間の屑だな」と言う体育教師から
私は、その様な虫が
親の狂信のと違ってまったく話すに足らないどころか、
この世で自称民主政治のおままごとへ寄生した
サイアクの害虫だと思った
ヨーロッパ人でもなく
そこのクラシックを間違った意図で、号令がわりに流す
気違いの運動会で、発情期のメスへこびるため
全速力で走らされる。苦しみで黄変した
変な息を嗄らしても
もし嫌がれば命はない。子ジャップのラットレースよーい
だれひとり救い手はいない
しゃべれば殴られるか精神病院へ連れていかれる
「屁理屈を言うな」と、竹刀を持った体育教師が
彼の何倍も小さな少年をたのしそうにぶち叩く
赤く爛れた血まみれの肩の辺りを、たのしそうに叩きまくる
私の足元でその虫は
汚い液を出しながら潰れている。死ぬべき
人間は死ぬべきなのだから。馬鹿すぎる虫は
勝手に進路へ踊り出してきたのだ。
閉じられた教室で子供を相手に暴力すればどうせ
だれも覚えていないと信じていたんだね
もう遅いが、虫よ。腹わたを己の中へ詰めるがいい
無邪気な子供にはそれが
悪魔にふさわしい因果だと判る

天皇国際化論

日本語の適用範囲が、いわゆる天皇制の及ぶうからに限られるという前提には、その言語圏が持つ人口支持力こそ決定的に日本という同系群生集団の進退と一体不可分である照合をなすことわりがある。結論からいえばその人口支持力が僅少なら他の民族及び状態集団との駆け引きでは不利なので日本語と天皇制はいずれ社会淘汰の自然によってきえゆくであろう。だがそれが他の系と同等以上ならば、吸収と同化の作用によって同力をもたらし得る程度に応じて当該国際に於いて社会進化を試みる再適応の効果に準じた生存率を維持できるだろう。
 つまり、我々は日本語による生活圏をその社会が有する人口とかれらの持つ総合的生産性に依存していると結論できる。これは日本語がながらく隔離的に他国侵略から離れて成立した経緯から極めて規則に於いて煩瑣であり、同様の不文律は当社会が数多く持つものであって、この文化の特殊さがさらに国際化を妨げる致命的遠因であると教えている。
 より国際的な民族は言うに及ばず、最も世界化できる民族と民族間体制とは文化の普遍さにとって最適であるからだと言える。だからその特殊さを大幅に伴った日本語文化圏という所は、明らかに世界的展開へ向けては今の段階では不利なのである。勿論ほかに更に特殊化してしまった文化もある。アマゾン奥地で他の文明との接触を断った場合などはもう我々が辿っているのと共通の進化はできないだろう。しかし急激に急進展を欲するあまり一切の血統主義を排する左傾には統一化を困難とする弊害も生ずる。アメリカの州相互の激しい抗争や敵対などは半面教育に足る部分もなきにしもあらずだろう。
 結果として世界化する為に自己の特殊な体制を多少あれより望ましい姿へ改良させて行くことは、そこでの不文律を含む否応ない趨勢でも進路でもある。天皇制の祭政一致的土着さ等は批判の矛槍で自由主義論手から攻撃されて然るべき特殊さの焦点でもある。すぐれた外来者の目に、その野蛮人の宗教と混同させた政治様式は未開の社会で野生の暮らし方をしていた太古の先祖が、同然の狂信への扇動を行っていた記録を示すことになる。日本に於ける王政が天皇家の世襲という祭政一致方式を維持しているという点は、おそらくその国の特殊さを示す最深部である。假にこの家系を解体すれば他の王政を執るか儲けておき温存する民族と殆ど違いはなくなるだろう。
 そうすると、日本人にとって最も賢明な自己進化の方法とは、天皇家の世襲による政治的狂信の土壌を中和や浄化するべく血族の国際化を図ることだろう。例の一つとしての現イギリスの王権の起源が元フランス王族の征服にあり、後に王家のオランダ並びにドイツからの輸入で再樹立された史実はかれらが西洋圏といったより人口支持力の大きな母体を相互補完できるほど中和的かもしれないと教えている。我々が皇族というもの、また彼らの傍系が世俗化していく過程で形成されゆく旧華族の血族へある面では慎重な、また積極的な国際選良化をのぞむなら、その流行は意味のないばかりか害である特殊な伝統の保守よりは遥かに優れた長期計略へ叶うだろう。祭政一致への土着民の迷妄を冷まさせるのにはおよそこれしか今打つ手は考えにくい。

2009年8月17日

熱帯魚

人生では少なくない矛盾がある
時にそれは幸運のあやまちか
若しくはかなしみの川底へながしてしまった
涙の様な想い出かもしれない
どちらにせよ人は
やがて歳老いて死んでしまう
あなたは墓場を見るだろう
物の怪かなにかその辺の魑魅魍魎が
あなたを捕まえに来るかどうか
或いは天使の列が立派な寝台列車で
エスコートしてくれるか分からないけど
兎にも角にも土は元通りに還って行く
海が何もかもを包みこみ
そういう故事さえなかったことにするのだとして
それが何だというのだ
都会で行き交う幾多の俗物が
なにかめずらしい真理でも持っていると信じているのか
当たり前のことだが
そんな宝物は滅多にない
そしてどこもかしこも有名人が渉猟した
カントリークラブみたいにただ平坦でしかないのに
そこに神の奇跡でも見たかったの
陸でもない人間どもの吠えたぎる
谷底で見たのは野蛮な集会でした
そこでは意味不明な文句を叫び
異国人みたいに髪を染めて金属を引っ掻きちらす
どうでもいい悪魔が中途半端にわるぶっていた
社会とはそういう所だ
根本的に云って
この世で完璧な理想を見られる日など来るまい
それはただ過ぎ去りし灯籠の舟みたいに
すでに旅立ってしまった精神が夢の合間で眺めた
光景なので
眠りから覚めれば
夢をみていたことさえ定かではない
まるで水槽のなかの熱帯魚の様に

芸術論

形式の洗練は内容、或いは意味のそれに比べて芸術へ密接に関わる。プラトンの考え方を引用すると、理想(イデア)の写しとしてのみ形式は定義を持つ、といえる。例示の作用が比喩という語りの手法と同一なのはこの為である。そこでは意味へ適合させる形式の巧みさが命題か焦点ともなりがちなのだから。従って現実(エイドス)についてのアリストテレスのイデア批判は、もしそれが芸術がイデアの写しであるという理想的具現化の作用へも形式独自の価値を置いたという点からみれば、意味をもたない個物でも意味そのものと等価でありうる発見をした現象論上の気づきにもとづいている。
 現実主義と理想主義とは現代芸術の射程へその再生を試みるとすれば、現実が如何に多様性に富んでいても、本質的に重要なのはそれが示している設計なのだと教えている。設計思想を十分に表象させる為には形式の洗練が敢えて必要である。理想を実現したにせよ、実物へ理想を覚えたにせよ、設計が優れているときその表現は芸術の目的を果たすだろう。そしてそういう個物は假の偶像としてであろうとなかろうと、やはりひとしく思想そのものと同等に尊重されるべきだと悟らせるだろう。例えば理想の写しとしての人物像を芸術化した場合、意味のよしあしからだけではなく、意図されている自然の設計者の目的を如何に忠実に具現化できたかへ焦点が宛てられれば古代ギリシア人がどうして競ってその具象化へ努めたかも理解できる。その目的はかれらの宗教の帰結としての神々の写しの巧さとしてなのだから。模倣すべき先例として神よりたくみな才能がありえない以上、設計の目的はまた如何にその業績を汲み上げられるかへほぼ一致する。精神作用と考えられてきた知能の働きも、この仕事の種的特徴の為に増大したと思っていいだろう。
 一般に考えられるよりはるかに人間の創造性と呼ばれる才能がおよぶ範囲は狭く、どれだけ偉大な巨匠でも素材や先例、当代の技術の援用で基本的制作方法を賄うことになる。我々が既存音声と文字との順列を用いることなくいかに言葉そのものを無から発明する才能に欠けるかおもいみよ。だが芸術といわれている建築作業になしとげうるのは多くの場合、既存部品の適切な組み合わせ、素材間の調停だけである。しかしながらこの調べの細部へは無際限なまでの判断の可変性があるので、たとえば粘土をこねる者は素材固有のやわらかさが許すなにをも形作れる様に、主として同時代の汎用作品様式に慣れきっている多数者にとって天才的作者の独創や個性が現れたと感じられるほど、進取的新技術への推移は急速でもありえるということだ。これを証明するために背理論法をつかうと、たとえば科学を知らない人々がほぼ同水準の技術のみで営々と芸術作業を行っていると仮想するなら、その様な文化ではだれも人間の創造性などは夢想だにしないだろう。人は先代の手順をくりかえすだけであり、ちょっとした工夫があったとしても一笑に付されるだけで制作習慣はすぐ旧態へ先祖帰りするに違いない。我々は今でも昔工芸で栄えたいくつかの後進地域がこういう停滞へずっと適応しているのを観察できる。つまり、そこではある時点以来で技術水準が大きく向上した経験が歴史的に及ばなかったので、伝統工芸と呼ばれる古い様式を遵法及び踏襲することが習わしとなっている。
 これら実例は、神の模倣が本質的に人間としての創作行為にとって最も賢明であると教える。なぜなら我々人類の社会計画などという宇宙全域に比べれば驚くべくちっぽけな部分作業でさえも、その意図は全体の設計図のものとおそらくぴったり重なる筈なのだから。だから、もしすぐれた巨匠が現れれば、その作品はまちがいなく人為に到達できる上限の神々しさを湛えて人間達から驚嘆されるだろう。もし技術水準がどの段階にあろうとも、その芸術という形式が、則ち哲学的趣味を経由して調和へ至る当時の科学技術の粋が及ぶ限りやはりそうだろう。豚に真珠の諺を十分かんがみても、自然の目的と完全に一致した作品とは驚き入るあまり人々がおもわず足を止めてみとれるほどの絶景的崇高さを達しているわけなのだから、それが見逃されたり、見過ごされたり、見失われることはありえないだろう。例えば太陽の光を忘れる者がいない様に。技術が向上するという事実自体、我々が芸術の道を通じて形式の現実論の面ででさえも、つまりプラトニックな純粋理論をのみ合幸福論的に経由せずとも、より神々しい才能を開花させ得る実証なはずだ。芸術家の社会的地位を学者以下へ押し込もうとした神学主義的スコラ哲学者らは、やはりその判断ではルネサンスの万能人的人文主義者よりは劣っていた様である。形式や様式が意味や内容と同等な概念ということは、史上ではヴィンチ村のレオナルドの手記で独自に理論化されるまで、アリストテレス哲学のキリスト教神話へ適合化された曲解によって世界の思想潮流から覆い隠されていたものだ。

建築理論

原則として社会で営まれているのは建築体であることが殆どだろう。政治や経済という社会活動はその演劇的抽出であり、実質上指導しているのは何を建設するかの方向づけだけである。経済活動は団的に、つまり特有傾向の社交性に於いてこれを行い、政治活動は群的に社会活動の最終的結果を総合する意図を持つ。税収はたとえば企業の監査部に似ていて、それぞれの部門がどんな積算を行っているかを照査し、それらの間を調整する為に用いられることが原則である。この意図に背く着服的官僚制は最終的には外来者から侵略されて、腐敗した組織ごと解体される。斜陽国家の末路。日本語の建築という英訳語へは今のところ建物の普請という他の含みはないが、architectureの本来の直訳はarcheのtechneつまり「総合技術、もとのわざ」ということだ。だからアーキテクチュアという言葉が意味させうる範囲は、全文化活動を含むことができる粘りを持っている。建て築く、という用語はその働きだけを集約してみてみればどんな人間活動でも同等である。かれらは自然の侭では獲られ難いなんらかの産物を築き、建てるために労役へ殉ずる。いいかえれば人生で普遍的にもっとも重要なのは建築の良さを実現させることだろう。おそらく個々人の卓越性に関するアリストテレスの議論、つまり個性の生得形質にもとづいた中庸の達成は結局この視点へもどる。素晴らしい建築体の内に暮らすということが都市文明の根本なら、どの部門作業であっても究極的には仕事の出来映えでその栄光を計測できる。
 では何の為にこれらの甚大な建設作業がもちあがっているのかを問う者もあるだろう。どうして自然界の秩序は経済的共生をも込めた多くの進化と適応と絶滅との連綿たる平野を通過させようとするのか。思うにこれは仕事の完遂の為だろう。
 具体的には、神という理念で我々が象徴化してきた自然現象のあるじ、すなわち現代物理学の概念でもっともそれに近似的なところの仕事量(エネルギー)というものは、我々生物の活動を除けば実に基盤的な作業しか営まないらしい。さらに比喩を用いて説明すると、物理現象自体は熱的可逆反応を形成しない。それは仕事量が生物という仮の姿を取って本来の意図を再創造させようとするところに生ずる。だから仕事を実行する者が我々でも、実際にその意図は別の計画者のもとにあるのだ。宇宙という建築にとって「もとのわざ」は神のものである、という古代宗教の創造論はその目的の観点からすると適切なのであった。単に人々はそれを擬人化してしまったので、実行者と計画者との根本的な役割を混同したのだった。例にとれば生物一般は、現在までに我々の知るかれらの知性ではということに限るが、なぜ建築するのかという根本の意図を知らない。彼等生物は本能とか理念とかそういうなんらかの部分的な設計図にもとづいてしか生業を実行しない。したがって我々がこれまで神の意図、その宇宙建築計画の全貌をもとのわざとして認識するまでに至ってこなかったとしても、それはかれらが神ではなかったということ、仕事量を部門的に託された作業員であるという事情とぴったり照合するだけである。要するに神は人類の中へは存在しない。もしそれがあるなら神の意図を、究極の知性を用いて十分に推し量れただろう。我々地球人類が全文明を捧げて洗いざらい銓衡した聖書の文言を拾って行っても、神が全仕事量を担う概念以上の計画者の仮称としてはたらく文化圏では、どの言葉もそれを最大限に推し量ろうとする道具にすぎないのが明らかだ。なぜなら言葉は秩序の形態でしかなく、当然ながら全仕事量を込められるほど膨大ではなく、むしろエネルギーの分量としては極小ですら有り得、本を焼く者は人を焼くという恐ろしい諺はその化学変化面からみればあながち大きく違うほどのことでは決してない。つまり、本や言葉が神よりも甚大でありうることはない。
 だからもし我々の中でえりすぐりの精神性を持つ個人がいれば、その人へ注目すべきである。なぜかならその精神性とよばれる特質は、我々の知性が到達できるかぎりでは最も計り知れない神の意図を認識しやすい性格だからだ。つまりは、おもに知能の発達がすぐれて特徴的な個人はかれらが認識できる、法則とも言う世界秩序の総量のため他の個性に比べればということだが、神という絶対値から引き出せる分量の計画性を保有している率が高くなる傾向にある。古語でかしこさへ畏れの文字をあてたことにも、こうして一定の根拠はある。賢者が相対的にはより設計意図を認識している傾向にあるかぎり、かしこいものはそうでもないものに比べればよりおそるべきだろう。というのも、作業員の持たない全体認識は、よりもとのわざに近いなんらかの神意を連想させるからだ。もし生態系というものの必然の発展を分析すれば、その頂上にちかづけばちかづくほどより高い神意のもちぬしと考えてまず間違いはないだろう。その生息の絶対数がすくないほど、また永続性の高いほど蓄積された情報量は仕事の目的を認識として満たしている筈である。神々しさが感じられる様な生命体が時に存在するが、気高さはかれらの有したかしこい習性にもとづいている。そして最も神という計画者の立場に近いのは永久に生きている様な一種の自然の観察者の生命体について当たる。Theory(神のもの)という言葉が示す様に、理論家は殆どの場合、そうではない生態より精神性に勝る傾向がある。だから永遠の理想家としての神に少しでも習おうという純粋な創作の志がある者なら誰でも、理論から始めてそれ以下の応用については状況に任せるべきだろう。人類という部下にとってあまりに荷が重い設計なら、それ以外の生命体が同様の意図を満たしてくれる可能性も考えられないことではない。理論が失われることよりどうやってそれを実現するかといった世俗的な領域については心配する方が無益なのはこれらから判る。もし神にとって十分にすぐれた計画ならばそれは他ならぬ仕事量の適用として必ず実行されるのである。

2009年8月16日

個性についての考察

快楽を選ぶことは趣味の本質だろう。ゆえに最良の快楽とは、最も利他性の高い、また卓越なそれだろう。おそらく芸術とはこの面でのみ評価できる。如何によい芸術を残すかという課題は、感覚的快楽を扱う道徳知に基づくといえる。一般の低級な欲求、本能はどれも基盤であり目的とはなりえない。なぜなら摂食的ではあっても制作的ではない。だから「節制」の得はそれを習性化できるほど真だろう。もし本能を如何に満足させても、決して獣類の生活より外側には立てないだろう。

 快楽を扱う為には芸術的でなくてはならない、という原則は幸福の為に必須である。もし擬似芸術的ならいずれその趣味への批判の為にその快楽の習慣自体が生態からこぼれゆくであろう。だから、芸術は快楽の利他性という面からいえば最も洗練されきった能力でもあり、その追求によってのみただの感覚的満足のみならず、精神的な充足感つまり幸福感は得られる。
 もし幸福でない人間がいれば、その人には明らかに芸術が不足している。そして芸術に長けるだけ、その人は幸せになれる。どの感覚器に対する充足であってもやはりその健康の促進と成長に寄与するので、生命体の生殖の為の機能をより文化へ貢献する形で保存できるのだから。

 たとえば演劇の芸術は、その外聞をよくする技巧の為に洗練されるほど他者へもたらす快楽の質量も高くなる。それは世に希な多少なりとも審美的な個性の及ぼす快楽を単に私のものに留めおくよりももっと社交美とその高度な技術水準へ、つまり礼儀作法の芸術化へ寄与するはず。

2009年8月14日

ネット行商史

無償で手に入る高品質な情報を寡占できない系、既存の遅く、費用高な経路でしか情報の果実を収穫できない団は、その逆にある進歩的個人の文化素量より等比数列式に重要度が低くなりつづけていくし、経済損失の面から淘汰されゆく可能性がずっと高い。
経済とは共生秩序のことだから、無償で情報転売および最小価格で小売りできる奉仕業者はおなじ品質以下の商材を高く売る業者よりも、この秩序から取りこぼされやすい。

一時的後退が各種の製造業上の失敗から起こったとしても、継続的に高品質な情報を量産できた系は、ほかの情報業者より有利なので必ず生き残る筈。

 これは、結局インターネットの有利さが流通費の最大限の削減にあると教える。モノとしての商材をできるかぎり軽く、安く、速く仕上げることがその本質だろう。重く、高く、遅い流通に頼っているかぎり勝利はない。
今日でいう無償の範囲は、有償化よりもその経済性が高い場合にかぎって相対的に有利である。
――例えばアマゾンのサーウ゛ィスは劇的な店舗費用の削減に業務上の功利がある。それは「みせ」ることが消費活動にとりまったく流通費という非本質的な磨耗であったがゆえに、具体的店舗より便利である意味ではゼッタイに既存販売業より拡大に於ける経営内節約性が低まることはないからだ。
『奉仕が商売になる』という成功の原理はまったくここでも正しい。だからいまは無償であるので、(はやまって)儲からないと判断するのは損害の素。そうでなく、奉仕させてもらったという儲けがあるかぎり、文化素量の点で、換金の時期はいざしらず、その小売は接客技術で成功しているのだ。

アマゾンがみせるのを損だと判断して店じまいすれば今後も含む発展のみちをみずから閉ざすことになる。重要なのは何をお客へ提供できるかだ。如何に新たに便利な奉仕を提案できるかだ。どうやってお客様に満足して頂けるかだ。要するに、もっと速く安く軽く以前よりよい商品を消費者の手元へどうやって長らく届けるか。
もしも長らくという点をかえりみないなら、セッカク便利になってきたサーウ゛ィスを途中で打ち切るしかなくなってしまう。だから基礎体力としての資本を少しずつ増強させながらこの命題を追求しなくては。

2009年8月13日

映画

大昔、世界になにもつくられていなかった頃、人々はなにも見なかった。しかし多くの舞台が築かれることで、かえってかれらは夢を見る様になった。それらはどれも嘘で塗り固められたまやかしだったが、だれも気にしなかった。毎日は重くなり、やがてうその方が本当になった。その証拠に、人々は世界を夢空言だと考えていた。そしてどこかちがう世界で起きているものの様にテレビの中で大きな体の人間たちが殺し合うのを愉しみに眺めていた。放送局のアナウンサーは言った。
「もうすぐ千人斬りになります」
かれらは大笑いでその試合を眺めていた。中国大陸で殺戮を続けて行く偉ぶった軍人。血潮にまみれて、武断を誇っているおろかな演技者。そして最前線で首を撥ねられ、英雄視されてよろこんでいる。
 僕は日立のヨーカ堂から出てくると、街あいがおかしいのに気づく。そこでは人間たちが何事もなかった様にあそびたのしんでいる。だが、現実にはその演者らは日々を殺戮で暮らしているのだ。花屋を通り過ぎ、駐車場のところで猫をみかける。いつもいる猫だ。三毛なので分かる。既に終わってしまった戦争をかえりみない人達がいる。だが、現実にはそれは今ここで起きていることなのだ。野蛮人が政治家をきどり、あらゆる武器を横領し、いつも片手に君らを脅しながら豪遊のための税金を絞り上げる理由を問うがいい。やつら人間の屑はその金できみらを騙し、戦争させ、みずからの手を汚さない勝利で名誉を奪い、負けてもともとの敗退で姿をくらますだけのごみなのだ。人の中でそんなごみ虫が生きているとはだれも思わない。だが政治家とは人の中のごみなのだ。

 僕は千人斬りを命じた者の子孫が、天皇家と自分を呼び、人間から金を奪いながらあらゆる贅沢とあらゆる悪徳を尽くすのを見た。その俗物は原爆で人々を焼き殺し、沖縄人を自殺させ、挙げ句には朕は戦争には反対だったと言って自分だけは殺されなかった。しかし、僕はやつが実際にあれだけの数の中国人をまったく無意味に虐殺させたのを見たのだ。自称天皇はたしかに、気が狂った頭で自分自身を神だと詐称し、その悪魔そのものとしかいいがたい命令をおのれの配下に置いた日本人へ下した。まるで映画の様に。

2009年8月12日

自然哲学と倫理哲学の接点

科学知識に比べて、哲学という営みの恒久性は疑わしいと言われる事がある。特に、この非難の古今最大のものはスティーブン・ホーキング氏によるものだろう。そこでは、ヴィトゲンシュタイン哲学を例に引いて、既に時代遅れになった学問集団を指す用語として哲学者、つまり知恵を愛する者を指弾している。ホーキング氏の指摘は、だが実際は、分析哲学の射程を見限る、といった言語についての一論考の総論を真に受けるに過ぎないものだ。社会をたとえいかに少数のものでも形成せざるをえない間は、間柄の論理として科学知識を技術にとって部分最適となるだけ修正する必要性がある。具体的には公害とか迷惑とかこの種の知的だが理性的では必ずしもない行動が、哲学に不足があると相対的に生じてくる。
 もし個人だけで生活するつもりなら、そこに哲学は無用となるだろう。知識がその侭実践でもある場合にはよく考え直して将来の人間関係を慮る能率は無駄である。倫理は、もし極小の成員からなるものであっても、二人以上の共通の社会的規律としてひとりでに生ずる。そして当然ながら、社会集団の規模は倫理の高さによるのである。その倫理が科学知識を吸収しながら複合化すればするほど、片利及び寄生以上での同種間共生の形態の複雑さは拡大していく。
 究極の生態系の主はおもとしてこの共生体制へ最適化した姿で顕れるであろう。最大の生態的可塑性は、もしどこかの種の系統がつながりえずに滅びていってもまったく動じないほど最も多岐に渡る系統樹の先鋭として、種間経済の漸次的結果へ日々必然にみちびかれる。

2009年8月10日

Cow cow meadow

Neat your nickname
Bow is that
Humane is too over
In the Ground
How are Today!
Mole Goodly too
Now top of
Mountain cauty
Barbarian bows
Baw wau! O
Nicknamed knowingness
Baaa Goodly too Today!
Governmental odds
Too late these data
You have to call your
Secretary fu gorgeous!
Do not harry up so
Today has never happened now
Maa! Bigger Sunrise
Hi my sonny get up! &
Your bed shirt cleaning up!
Get up early! & You shall visit
To kindergarten O happiest Godly day
Chett! Non falling days
Now I must get some
Eaten But I have not nothing
And so I wi--ll muuu? What is that?
A cow
Meaow meaow
Doz doz dozen
O I had never seen
How much spread country field
Of cow cow meadow

Sincerely

About you
And not to say, your songs for
How about school, dramatic dogmatic
Your financial mass community school that societies
Hi how are you today, Japanese people
A socialized financial far Eastern personality
Someday, they will vanish on the earth but
They never feel it. Maybe today you do
Arts, or game playing by using your hard discs
Newly yours. Hi your lunching isn't goody?
Soup of money in golden country ships
Why didn't you apologize about Einstein bombing
In the sky diving, from a beautiful your mount of Fuji
Isn't your belief? Peace of sun flag. Yours. If your American army bubble mime has made from that, somebody has never got true victory.
Chinese, South Asians, Koreans, or Americans once killed you
Why? Why you see your engaged flag center on the heart, On the earth sunshine
Everybody saw everything be vanished
So
All of stories, yours winning score numbering got
Already thy, their game numbers finished. Up downs
This oversea Oriented island was full filing, new concerns.
Courtesy thy, their game ended up front of history Humane
Nay
European will get a news. This authorized continent is
too over. Forget more close of mine. From this kind of
Oversea realization. Someday your voice would arrive
In the chauvinist's confused bad news. A warship normalization.
I will never believe this author. Artificial
Lack of peaceful deadly
Pool of cold water
And so I will escape true
From this badly
People, civil self engaged justice. Of servants
Sincerely yours

Drawing of tears

If you think that not to know about
That time you know
Sometimes somebodies somehow
Someday you will know
This earth's lows
I can hear it on the shore ground here
Why don't you know that name
The earth
Critical breezing of
You
You are well knowing on the here
And listening in the field this back country
You will get a positivism plus encouragement
From the sea
Butterfly feeling calls our drawing of tears and
You will never forget this
Never writing sea breeze

2009年8月9日

外交筋の原則的方向付け

(既に述べていることだが)追い詰められた敵の逃げ場をふさいでは絶対にならない。それは捨て身になった鼠によって致命傷を負う猫の危険と表裏一体だからだ。
確実に勝利できればできるほど、窮地に追い込まれた敵へは敢えて蛇の生殺しの道を選ばせ続ける持久戦が有効となる。

 北朝鮮がどれだけ軍事面で劣っていたとしても、日中間という根本的な社会思想の方向性に相違のある相手とは協力せず、いざとなればそこへ逃げ道を空けておくことが日本の国益からは最大の徳である。

2009年の4月11日に、麻生首相はこの兵法についての原則を逆行した、タイのパタヤでの“敵の敵”との会談を行っている。つまり中国の温家宝首相があきらかに北朝鮮を敵視する発言をそこからいざなわれている。
 日本政府やそれに類する関係者はまったく勘づいていないようだが、中華人民共和国というのは平気で隠密を遣うような近代化などもってのほかの国体なのである。近く北京五輪の際にも、その末路は未確認だが、機密情報を盗まれた英国官人の例があった。
そのような不良国家とすこしなりとも親密さをみせるなど先ず尋常の感覚の持ち主なら考えられないことだ。余程の育ちの為にはっきりした危うさを察知する神経を充分もっていないならどうしようもない。その時は、単純に現政府外交関係者を国内政治から断つしか国民の安寧は無いのである。

愛想のいいだけが取り柄の、歴史と民族間の文明度について無知の日本人からみれば、それは大量の労働力をもった国などは気軽な経済協力上の大当たり筋に感じられるかもしれない。
実際、素人ならばその過ちも自業自得の範囲で理解できるが、「駆け引きの狡猾さ」を幾多の歴史的経験から実践上最も必須の統一才覚であると悟っている長なら、北朝鮮の側にとっては骨肉を分かつ間柄としてのもと朝貢国から睨まれるのがどれほど深刻な驚愕をひきおこすか、防止不能なテロで一般的日本人民の大量殺害が起こる前に反省してみなくばならない。

つまるところ、経済が政治なのではない。寧ろ多くの場合は直近の利益に堅実な施政は反するのだ。
たとえば刀狩りや太閤検地が如何に多大な労力を要するわりに、市場的発展そのものとは相反していただろう。当然だが同様に、目先の財閥にとらわれて国際外交権の大筋をみあやまってはけっしてならない。
 もし少々貿易発展上での協力関係が揺らいだとしても、安全策として『中国(中華人民共和国)との原則的絶交』は正しい方針である。それは食品貿易だけに限らず、各種の環境開発や国連ふくむ国際交渉上でもだ。
 少なくとも極東では、台湾(中華民国)および韓国という自由主義のルールを遵法する気のある多少なりともの優等生としか一言なりとも口をきいてはいけない。
そうしなければまず間違いなくかれら自滅する不良の仲間入りを迫られる日が遠からず、やってくる。既に端緒は最も心身とも追い詰められた北朝鮮への共通の‘悪意からの虐め’の誘惑から忍び込んでいたのだ。弱いものを意味なく虐げれば必ずみずからも同罪に刑せられる。

2009年8月8日

社会思想の技術的複製可能性

商活動以外での利他行動があまり尊ばれない社会、レヴィストロースの用語を少し異なった文脈へ援用すれば「冷たい社会」は、その逆にある様な共同体内での助け合いが前提となっている温かい社会とは正極の対称を為している。代表的な社会思想でいうと、自己責任の全面化される資本社会と、宗教を基とする原理社会がそれに当たるだろう。
 先進国の全般は冷たい資本社会側に属しており、多くの途上国の中でも際立って保守派の牙城となっている地域では依然として温かい原理社会が主流である。この絶対温度の差は、詳細に分析すると、個人主義という観点が生活の進歩にとって善か否かが歴史経験上認知されているかに依存している様に見える。何らかの進歩的な個性によって大幅に文化転回が起こった地域では確実に、その古来からの民族宗教色ある原理思想は破壊される。もし超進歩的な個性人を天才と定義すると、数ある国家の中で飛び抜けている幾つかの最先進国という場所は、およそこの天才の出現率が他の地域より遥かに高いのである。又、学習と教育によって突飛な遺伝子が成立するとは考えづらいので、この天賦の才というものは配偶系統に於ける予想外の希な接触に由来している可能性が大だろう。
 いいかえれば最先進国という地域は、極めて特別な環境条件の為に相当違った遺伝系統の種族が侵入し易いか、絶えずそれに類した異種編入が起きている国際区間だと省察するのが妥当。さもなくば飛躍性のない、凡庸につづく停滞と再習得のくりかえしがいわゆる凡人種を多産していっただけに終わった筈で、実際、悲しむべきことか、多くの地域はその種の中間帯に属しているがゆえに嘗ても高度な文明へは到らなかった。未来はまだ不明だが、この在り来りな環境条件からは凡庸さしか生じないという観点には、それを他山の石とした飛躍的変異出現の為の重要な気づきが隠されていると先ず確信していい。
 もし冷たい社会の数々の矛盾が露呈するなら、その時は原理社会がどうしてかくも停滞愛顧の念に燃えたぎるのかを勉めて学びとる可だろう。おそらくは極めて均一な条件がその風習圏一帯へ出揃っている筈で、急きすぎる機械文明人が過剰な冷却を適当に保温するつもりならかれらの徳に類したの何らかの面での均一化を、対象とする区域へ及ぼさねばならない。たとえばイスラム教の古くからの土着化に成功した原理社会ではその一帯がほぼ例外なくあまねく、太陽以外の土木建築が殆ど存在していない渇ききった砂漠と荒野である事情を観察できる。おそらくこの寄って頼るべきものが一様に少ない条件下では、太陽崇拝の名残りは極端な一神教信仰を喚起させ易い。
 この逆手を用いると考える。すると超進歩的な突然変異を一定の文化的有用さへ導くことに成功した環境、つまり天才の生まれ育った地方とは一帯がどんな条件に恵まれていたのかをよく分析しその本質を抽出移植することで、そことは他国のまったく異なった気候風景でも同等か、さらに改造された新変異を形成するのも比較的容易だということになる。たとえばニュートンがウールスソープとケンブリッジというおもな二つの地域で、学校の出来の優れない通学生徒らとの少々のいざこざを除けば、殆ど変化のない純朴に静穏な青春時代を送っていたのをその地域文化のきわめて清教徒風のしずやかな自然と場所柄の不動さに省みるなら、頭の中にある概念知性の研磨に暮らす純粋科学者にとって理想的な環境条件が感覚刺激の極端な減退にあると知覚できる筈。よって、将来の学究の徒を営むに最適な場所は、仮にその民族が真逆の性格として元々欲深であって商業民族傾向のつよい、またはそれに類して耽美主義のきらいのある感覚的快に赴きがちな理性の弱い人種の集まりであったとするなら、確実にかれらの中で飛び抜けて選び抜かれた大学の立地やそれに類した学門は閑静が過ぎるほどの人里遠い郊外でなければならないと悟れる訳となる。喧騒と忙殺から遠く離れて、宇宙と神のつくりあげた真理についてそれ自身の動機づけに基づいて真剣に考察している最中に落ちた林檎がまこと珍しかったほど、彼等は変転目まぐるしい都市的人間社会から隔離されても居、また必要分を越える諸々の情報上の誘惑からまるで無菌室内の如く解放されて措かれるべき。

2009年8月4日

国立大学論

過剰教育や過剰啓発という概念はありえないだろう。無論、どの個性も知的に活発すぎることはできない。知性が学習に依るかぎりどの世代も、より有閑で幸運な育ちの世代よりは無知でありうる。
 我々が現代人の教育開発に対して矛盾を持っているのは、その具体的な学習の促進についてではなく、学歴や学位と呼ばれる本来のおまけ、つまり副産物をまったく意図されていなかった方面へ悪用している社会構成員の存在の為である。かれらのお陰で、幾らかの有徳な親類は、その子達が人材市場の取引対象となるのを危惧して本来は誇らしい自尊心たる学問の証左をできるだけ目立たず、他よりは劣っている様にみせかける素材へときりかえさせようと画策しさえする傾向もある(勉強への危惧)。直木先伐、甘井先竭という荘子の諺は人材取引を効率面から市場化する為の銘柄付けと常呂天式の入試選抜様式に関する先験面からいうと、まこと複雑な学歴擬態の社交界での需要を説明するに十分である。
 市場原理は市場の独立を甜としてなんら反省できるものではないのだから、もしこの学位か入学記録を担保にするために元来不正な意図で学門へ押し入ろうとする学識の府にとっての盗人共を張り付けるには、既存大学府の内で、すくなくとも公益事業を標榜し易い国立大学法人体では、その「学歴制度の破棄」を目指さねばならない。すなわち企業や官庁への就業に相対的に有利になるからといった不純で悪徳尽くの意図を隠し持って税制をくいつぶす多くの国庫の寄生虫を駆除する工夫を考案し、一気に実践してしまわねばならない。
 私立大学では市場原理とのすりあわせがなくば存亡もあやしいという端から商業化を否まないところもあるので、彼等が発行する学位は、従来の学問奨励制度を多かれ少なかれ悪用する様な詰め込み型知識の切り売り用とされてしまうだろう。実際、定員にはその経営規模をのぞけば限度がない私立大学では学位発行には量的に制限がありえない。よって品質よりずっと量産へその学位市場の発券要求が集積し易いのである。ウェブを通じ、非対面式のe-learningと呼ばれる機械的学習のみによって教育基本法その他の関連付けが許す最低限に抑えた単位修得時間をうまく満たすことで、経済的損得勘定の上で大卒かそれ同等以上の学位を販売する教育機構は、人材市場銘柄の極端に進んだ姿としてその低落した学問風土へ潜在需要に合意する形で現れてきている。
 旧来の保守的な学歴主義人事をつづけているかぎり、企業と官庁ではこれらのうまく擬態された擬似学位の方を人事採用にかかる費用を抑える目的で、好みがちになる。なぜなら必要最小の時間でぎりぎり修得された学位の方が、もし同等の学歴をもっと時間と手間のかかる従来の侭に劣る効用でやっと獲得した成員のそれに比べれば経済効率上優位だからである。ある成員が一つしか持たないそれを複数もてる場合、更に学歴主義人事への欺き乃至魅惑の効果は増大するのである。一度正規雇用した後でこれらの擬態有無を詳細に篩分けできる可能性は、彼等が純粋な学識を問う業績評定機関でもないかぎりあまりないだろう。
 これらの省察をもとに結論すれば、実用性をとわず高度で細かく体系だった理論的な学問とそれを自己目的に探究する向学の徒を若年層へ一定数以上確保しておくのには、市場原理と官庁に於ける成果主義人事という旧来の方針だけに任せきっておくとそれを動機づけさせるゆとりある社会環境形成に関して、大きく根幹部を害う結果となりそうである。つまるところ、国立大学法人の学位授与供給の厳しい外部監査への調整がおそらく最善の解決策である。いいかえると、新興私大ならまだしもかなり古くから学府の体制を築いている帝国系を中心とした国立大の学位は決して安売りせず、場合によっては卒業はさせてもそれを与えない選択肢が相当ふつうのものとなるべきでさえある。ドイツの大学では入試が全学門共通のものにされている。これは大学自治の原則からみちびいた優秀な教員引き抜き自由な伝統もあって、およそ国立大学ではヘーゲル以来の学問探求を行う為だけの環境があまねく保障されているからだ。焼き印をつけて社会へ送り出すことが当然という風土など無論ない。税収支と密接な国立大学でさえそうなのである。留年という概念はなく、そこではみずから納得できるまで一つの学を修めることが推奨される。
 だからどこかの国ではいまも旧態おなじくみうけられるごとく、虚構にみちあふれた学士以上博士未満の箔づけの学位を貰う為に、または教授の人間的性格傾向との不毛な折衝と、それをとりまく無駄な、堕落した非社交的習慣の数々に青春時代を浪費して、研究員という希少なポストを目指して親の脛の厚さを頼みに粘りきるのではない。そこでは単純に納得できる学識水準が到達点である。なぜならこのような、学位獲得ではなく学問追求を動機づける環境が前提な場合、はじめから学位という付属物は研究論文の公的監査機関への批准以外によって与えられることがないはずなのだから。情実や金銭尽くの論文執筆委託や素通りなどいうまでもない。
 他の先進国の中では、アメリカをはじめとした経営に片寄った商業的大学あるいは各種の学位授与機関が少しずつ支配的となりだしている。だが、もし我々が本格的な学府とそこを鎮守する、真面目で信用できる勉強家の性格を擁護したくばそのときは、おもとしてドイツの総合大学システムからその着実な深慮を倣わねばならないだろう。

2009年8月3日

通り雨

雨音よ
蝉の鳴く
通り雨

叔齊風儀傚

外伝不足全 生計号画数 誠実性格之
青年郷記帳 陶潜曰責孜 雖棗取許可
若出世目的 虚全英傑侍 允頼棗椰子
海外無限大 然味綜一種 智恵成学園
若勉励目標 柳下惠篤実 趣旨桜桃而
忘却其好事 多魔魍魎扈 馴涯陽明案
不可分性格 革命号学派 閥全体主義

人故設計士規

仁義忠孝惟道徳 贅贅富貴如浮雲
法宗探題束充夛 粒粒辛苦則貴価
希少現象把握趣 儿儿充実實内面
荒唐無稽不捉下 偶偶承知之臺鞍
悠悠自適復州圖 計画速修未然果
藹藹文質勤労峙 拓古刷新後復命
世代交代不可避 佳思宿命茫野原
永年努力実現已 孝壽町銘無高名

六角窓案

何事易姓不穏当 植樹早速無愛想
人気歴然昧昧動 藝能生耶慨嘆乃
沃聚勘案同感瞠 来来未来諦観禰
十案一察即好転 不安看破之明暗
大同小異混沌乃 赤青黄色緑箏琴
吾各名案無浄化 樂樂慈乂順拝而
大安成就鴫悠安 畸鴒文鳥鳴庵廂
抑留互角爾案内 詩是推敲叩瀞畍
発見得仁朗詠伍 風趣占言馼月窓