2009年8月16日

個性についての考察

快楽を選ぶことは趣味の本質だろう。ゆえに最良の快楽とは、最も利他性の高い、また卓越なそれだろう。おそらく芸術とはこの面でのみ評価できる。如何によい芸術を残すかという課題は、感覚的快楽を扱う道徳知に基づくといえる。一般の低級な欲求、本能はどれも基盤であり目的とはなりえない。なぜなら摂食的ではあっても制作的ではない。だから「節制」の得はそれを習性化できるほど真だろう。もし本能を如何に満足させても、決して獣類の生活より外側には立てないだろう。

 快楽を扱う為には芸術的でなくてはならない、という原則は幸福の為に必須である。もし擬似芸術的ならいずれその趣味への批判の為にその快楽の習慣自体が生態からこぼれゆくであろう。だから、芸術は快楽の利他性という面からいえば最も洗練されきった能力でもあり、その追求によってのみただの感覚的満足のみならず、精神的な充足感つまり幸福感は得られる。
 もし幸福でない人間がいれば、その人には明らかに芸術が不足している。そして芸術に長けるだけ、その人は幸せになれる。どの感覚器に対する充足であってもやはりその健康の促進と成長に寄与するので、生命体の生殖の為の機能をより文化へ貢献する形で保存できるのだから。

 たとえば演劇の芸術は、その外聞をよくする技巧の為に洗練されるほど他者へもたらす快楽の質量も高くなる。それは世に希な多少なりとも審美的な個性の及ぼす快楽を単に私のものに留めおくよりももっと社交美とその高度な技術水準へ、つまり礼儀作法の芸術化へ寄与するはず。