2009年8月17日

建築理論

原則として社会で営まれているのは建築体であることが殆どだろう。政治や経済という社会活動はその演劇的抽出であり、実質上指導しているのは何を建設するかの方向づけだけである。経済活動は団的に、つまり特有傾向の社交性に於いてこれを行い、政治活動は群的に社会活動の最終的結果を総合する意図を持つ。税収はたとえば企業の監査部に似ていて、それぞれの部門がどんな積算を行っているかを照査し、それらの間を調整する為に用いられることが原則である。この意図に背く着服的官僚制は最終的には外来者から侵略されて、腐敗した組織ごと解体される。斜陽国家の末路。日本語の建築という英訳語へは今のところ建物の普請という他の含みはないが、architectureの本来の直訳はarcheのtechneつまり「総合技術、もとのわざ」ということだ。だからアーキテクチュアという言葉が意味させうる範囲は、全文化活動を含むことができる粘りを持っている。建て築く、という用語はその働きだけを集約してみてみればどんな人間活動でも同等である。かれらは自然の侭では獲られ難いなんらかの産物を築き、建てるために労役へ殉ずる。いいかえれば人生で普遍的にもっとも重要なのは建築の良さを実現させることだろう。おそらく個々人の卓越性に関するアリストテレスの議論、つまり個性の生得形質にもとづいた中庸の達成は結局この視点へもどる。素晴らしい建築体の内に暮らすということが都市文明の根本なら、どの部門作業であっても究極的には仕事の出来映えでその栄光を計測できる。
 では何の為にこれらの甚大な建設作業がもちあがっているのかを問う者もあるだろう。どうして自然界の秩序は経済的共生をも込めた多くの進化と適応と絶滅との連綿たる平野を通過させようとするのか。思うにこれは仕事の完遂の為だろう。
 具体的には、神という理念で我々が象徴化してきた自然現象のあるじ、すなわち現代物理学の概念でもっともそれに近似的なところの仕事量(エネルギー)というものは、我々生物の活動を除けば実に基盤的な作業しか営まないらしい。さらに比喩を用いて説明すると、物理現象自体は熱的可逆反応を形成しない。それは仕事量が生物という仮の姿を取って本来の意図を再創造させようとするところに生ずる。だから仕事を実行する者が我々でも、実際にその意図は別の計画者のもとにあるのだ。宇宙という建築にとって「もとのわざ」は神のものである、という古代宗教の創造論はその目的の観点からすると適切なのであった。単に人々はそれを擬人化してしまったので、実行者と計画者との根本的な役割を混同したのだった。例にとれば生物一般は、現在までに我々の知るかれらの知性ではということに限るが、なぜ建築するのかという根本の意図を知らない。彼等生物は本能とか理念とかそういうなんらかの部分的な設計図にもとづいてしか生業を実行しない。したがって我々がこれまで神の意図、その宇宙建築計画の全貌をもとのわざとして認識するまでに至ってこなかったとしても、それはかれらが神ではなかったということ、仕事量を部門的に託された作業員であるという事情とぴったり照合するだけである。要するに神は人類の中へは存在しない。もしそれがあるなら神の意図を、究極の知性を用いて十分に推し量れただろう。我々地球人類が全文明を捧げて洗いざらい銓衡した聖書の文言を拾って行っても、神が全仕事量を担う概念以上の計画者の仮称としてはたらく文化圏では、どの言葉もそれを最大限に推し量ろうとする道具にすぎないのが明らかだ。なぜなら言葉は秩序の形態でしかなく、当然ながら全仕事量を込められるほど膨大ではなく、むしろエネルギーの分量としては極小ですら有り得、本を焼く者は人を焼くという恐ろしい諺はその化学変化面からみればあながち大きく違うほどのことでは決してない。つまり、本や言葉が神よりも甚大でありうることはない。
 だからもし我々の中でえりすぐりの精神性を持つ個人がいれば、その人へ注目すべきである。なぜかならその精神性とよばれる特質は、我々の知性が到達できるかぎりでは最も計り知れない神の意図を認識しやすい性格だからだ。つまりは、おもに知能の発達がすぐれて特徴的な個人はかれらが認識できる、法則とも言う世界秩序の総量のため他の個性に比べればということだが、神という絶対値から引き出せる分量の計画性を保有している率が高くなる傾向にある。古語でかしこさへ畏れの文字をあてたことにも、こうして一定の根拠はある。賢者が相対的にはより設計意図を認識している傾向にあるかぎり、かしこいものはそうでもないものに比べればよりおそるべきだろう。というのも、作業員の持たない全体認識は、よりもとのわざに近いなんらかの神意を連想させるからだ。もし生態系というものの必然の発展を分析すれば、その頂上にちかづけばちかづくほどより高い神意のもちぬしと考えてまず間違いはないだろう。その生息の絶対数がすくないほど、また永続性の高いほど蓄積された情報量は仕事の目的を認識として満たしている筈である。神々しさが感じられる様な生命体が時に存在するが、気高さはかれらの有したかしこい習性にもとづいている。そして最も神という計画者の立場に近いのは永久に生きている様な一種の自然の観察者の生命体について当たる。Theory(神のもの)という言葉が示す様に、理論家は殆どの場合、そうではない生態より精神性に勝る傾向がある。だから永遠の理想家としての神に少しでも習おうという純粋な創作の志がある者なら誰でも、理論から始めてそれ以下の応用については状況に任せるべきだろう。人類という部下にとってあまりに荷が重い設計なら、それ以外の生命体が同様の意図を満たしてくれる可能性も考えられないことではない。理論が失われることよりどうやってそれを実現するかといった世俗的な領域については心配する方が無益なのはこれらから判る。もし神にとって十分にすぐれた計画ならばそれは他ならぬ仕事量の適用として必ず実行されるのである。