2009年8月4日

国立大学論

過剰教育や過剰啓発という概念はありえないだろう。無論、どの個性も知的に活発すぎることはできない。知性が学習に依るかぎりどの世代も、より有閑で幸運な育ちの世代よりは無知でありうる。
 我々が現代人の教育開発に対して矛盾を持っているのは、その具体的な学習の促進についてではなく、学歴や学位と呼ばれる本来のおまけ、つまり副産物をまったく意図されていなかった方面へ悪用している社会構成員の存在の為である。かれらのお陰で、幾らかの有徳な親類は、その子達が人材市場の取引対象となるのを危惧して本来は誇らしい自尊心たる学問の証左をできるだけ目立たず、他よりは劣っている様にみせかける素材へときりかえさせようと画策しさえする傾向もある(勉強への危惧)。直木先伐、甘井先竭という荘子の諺は人材取引を効率面から市場化する為の銘柄付けと常呂天式の入試選抜様式に関する先験面からいうと、まこと複雑な学歴擬態の社交界での需要を説明するに十分である。
 市場原理は市場の独立を甜としてなんら反省できるものではないのだから、もしこの学位か入学記録を担保にするために元来不正な意図で学門へ押し入ろうとする学識の府にとっての盗人共を張り付けるには、既存大学府の内で、すくなくとも公益事業を標榜し易い国立大学法人体では、その「学歴制度の破棄」を目指さねばならない。すなわち企業や官庁への就業に相対的に有利になるからといった不純で悪徳尽くの意図を隠し持って税制をくいつぶす多くの国庫の寄生虫を駆除する工夫を考案し、一気に実践してしまわねばならない。
 私立大学では市場原理とのすりあわせがなくば存亡もあやしいという端から商業化を否まないところもあるので、彼等が発行する学位は、従来の学問奨励制度を多かれ少なかれ悪用する様な詰め込み型知識の切り売り用とされてしまうだろう。実際、定員にはその経営規模をのぞけば限度がない私立大学では学位発行には量的に制限がありえない。よって品質よりずっと量産へその学位市場の発券要求が集積し易いのである。ウェブを通じ、非対面式のe-learningと呼ばれる機械的学習のみによって教育基本法その他の関連付けが許す最低限に抑えた単位修得時間をうまく満たすことで、経済的損得勘定の上で大卒かそれ同等以上の学位を販売する教育機構は、人材市場銘柄の極端に進んだ姿としてその低落した学問風土へ潜在需要に合意する形で現れてきている。
 旧来の保守的な学歴主義人事をつづけているかぎり、企業と官庁ではこれらのうまく擬態された擬似学位の方を人事採用にかかる費用を抑える目的で、好みがちになる。なぜなら必要最小の時間でぎりぎり修得された学位の方が、もし同等の学歴をもっと時間と手間のかかる従来の侭に劣る効用でやっと獲得した成員のそれに比べれば経済効率上優位だからである。ある成員が一つしか持たないそれを複数もてる場合、更に学歴主義人事への欺き乃至魅惑の効果は増大するのである。一度正規雇用した後でこれらの擬態有無を詳細に篩分けできる可能性は、彼等が純粋な学識を問う業績評定機関でもないかぎりあまりないだろう。
 これらの省察をもとに結論すれば、実用性をとわず高度で細かく体系だった理論的な学問とそれを自己目的に探究する向学の徒を若年層へ一定数以上確保しておくのには、市場原理と官庁に於ける成果主義人事という旧来の方針だけに任せきっておくとそれを動機づけさせるゆとりある社会環境形成に関して、大きく根幹部を害う結果となりそうである。つまるところ、国立大学法人の学位授与供給の厳しい外部監査への調整がおそらく最善の解決策である。いいかえると、新興私大ならまだしもかなり古くから学府の体制を築いている帝国系を中心とした国立大の学位は決して安売りせず、場合によっては卒業はさせてもそれを与えない選択肢が相当ふつうのものとなるべきでさえある。ドイツの大学では入試が全学門共通のものにされている。これは大学自治の原則からみちびいた優秀な教員引き抜き自由な伝統もあって、およそ国立大学ではヘーゲル以来の学問探求を行う為だけの環境があまねく保障されているからだ。焼き印をつけて社会へ送り出すことが当然という風土など無論ない。税収支と密接な国立大学でさえそうなのである。留年という概念はなく、そこではみずから納得できるまで一つの学を修めることが推奨される。
 だからどこかの国ではいまも旧態おなじくみうけられるごとく、虚構にみちあふれた学士以上博士未満の箔づけの学位を貰う為に、または教授の人間的性格傾向との不毛な折衝と、それをとりまく無駄な、堕落した非社交的習慣の数々に青春時代を浪費して、研究員という希少なポストを目指して親の脛の厚さを頼みに粘りきるのではない。そこでは単純に納得できる学識水準が到達点である。なぜならこのような、学位獲得ではなく学問追求を動機づける環境が前提な場合、はじめから学位という付属物は研究論文の公的監査機関への批准以外によって与えられることがないはずなのだから。情実や金銭尽くの論文執筆委託や素通りなどいうまでもない。
 他の先進国の中では、アメリカをはじめとした経営に片寄った商業的大学あるいは各種の学位授与機関が少しずつ支配的となりだしている。だが、もし我々が本格的な学府とそこを鎮守する、真面目で信用できる勉強家の性格を擁護したくばそのときは、おもとしてドイツの総合大学システムからその着実な深慮を倣わねばならないだろう。