2009年8月8日

社会思想の技術的複製可能性

商活動以外での利他行動があまり尊ばれない社会、レヴィストロースの用語を少し異なった文脈へ援用すれば「冷たい社会」は、その逆にある様な共同体内での助け合いが前提となっている温かい社会とは正極の対称を為している。代表的な社会思想でいうと、自己責任の全面化される資本社会と、宗教を基とする原理社会がそれに当たるだろう。
 先進国の全般は冷たい資本社会側に属しており、多くの途上国の中でも際立って保守派の牙城となっている地域では依然として温かい原理社会が主流である。この絶対温度の差は、詳細に分析すると、個人主義という観点が生活の進歩にとって善か否かが歴史経験上認知されているかに依存している様に見える。何らかの進歩的な個性によって大幅に文化転回が起こった地域では確実に、その古来からの民族宗教色ある原理思想は破壊される。もし超進歩的な個性人を天才と定義すると、数ある国家の中で飛び抜けている幾つかの最先進国という場所は、およそこの天才の出現率が他の地域より遥かに高いのである。又、学習と教育によって突飛な遺伝子が成立するとは考えづらいので、この天賦の才というものは配偶系統に於ける予想外の希な接触に由来している可能性が大だろう。
 いいかえれば最先進国という地域は、極めて特別な環境条件の為に相当違った遺伝系統の種族が侵入し易いか、絶えずそれに類した異種編入が起きている国際区間だと省察するのが妥当。さもなくば飛躍性のない、凡庸につづく停滞と再習得のくりかえしがいわゆる凡人種を多産していっただけに終わった筈で、実際、悲しむべきことか、多くの地域はその種の中間帯に属しているがゆえに嘗ても高度な文明へは到らなかった。未来はまだ不明だが、この在り来りな環境条件からは凡庸さしか生じないという観点には、それを他山の石とした飛躍的変異出現の為の重要な気づきが隠されていると先ず確信していい。
 もし冷たい社会の数々の矛盾が露呈するなら、その時は原理社会がどうしてかくも停滞愛顧の念に燃えたぎるのかを勉めて学びとる可だろう。おそらくは極めて均一な条件がその風習圏一帯へ出揃っている筈で、急きすぎる機械文明人が過剰な冷却を適当に保温するつもりならかれらの徳に類したの何らかの面での均一化を、対象とする区域へ及ぼさねばならない。たとえばイスラム教の古くからの土着化に成功した原理社会ではその一帯がほぼ例外なくあまねく、太陽以外の土木建築が殆ど存在していない渇ききった砂漠と荒野である事情を観察できる。おそらくこの寄って頼るべきものが一様に少ない条件下では、太陽崇拝の名残りは極端な一神教信仰を喚起させ易い。
 この逆手を用いると考える。すると超進歩的な突然変異を一定の文化的有用さへ導くことに成功した環境、つまり天才の生まれ育った地方とは一帯がどんな条件に恵まれていたのかをよく分析しその本質を抽出移植することで、そことは他国のまったく異なった気候風景でも同等か、さらに改造された新変異を形成するのも比較的容易だということになる。たとえばニュートンがウールスソープとケンブリッジというおもな二つの地域で、学校の出来の優れない通学生徒らとの少々のいざこざを除けば、殆ど変化のない純朴に静穏な青春時代を送っていたのをその地域文化のきわめて清教徒風のしずやかな自然と場所柄の不動さに省みるなら、頭の中にある概念知性の研磨に暮らす純粋科学者にとって理想的な環境条件が感覚刺激の極端な減退にあると知覚できる筈。よって、将来の学究の徒を営むに最適な場所は、仮にその民族が真逆の性格として元々欲深であって商業民族傾向のつよい、またはそれに類して耽美主義のきらいのある感覚的快に赴きがちな理性の弱い人種の集まりであったとするなら、確実にかれらの中で飛び抜けて選び抜かれた大学の立地やそれに類した学門は閑静が過ぎるほどの人里遠い郊外でなければならないと悟れる訳となる。喧騒と忙殺から遠く離れて、宇宙と神のつくりあげた真理についてそれ自身の動機づけに基づいて真剣に考察している最中に落ちた林檎がまこと珍しかったほど、彼等は変転目まぐるしい都市的人間社会から隔離されても居、また必要分を越える諸々の情報上の誘惑からまるで無菌室内の如く解放されて措かれるべき。