主に江戸、下町と呼ばれる東京都の地域では以前も今も、また今後も、ある種の頽廃を免れないだろう。その地域一帯は、積極的には温帯へ属するが為にまた消極的には武家社会末裔の下請けを生業とするが為に快適性についての独特の変形を生れつき被る。
大阪と呼ばれる地域がそうなったのと類似して、下町は人口過密の極端に進んだ姿としてまた日本的類型の最も下落した面を示すことになる。要するに、彼らは倭人種の下層を占めるのに適当な性格を共通してもつのである。それはある方面では武家・政権社会への搾取的適応たる売笑婦の性格となり、ある方面では異常に劣等感の裏返った型として義侠心の持ち場となる。
我々がこの地域一帯へ行い得る改良は殆どない。つまり放任し、見捨てるか商利用するほかない。なぜならば、そこを実質的に支える政治社会が山の手一帯から消滅しない限り、一切の状況は人口過密から動かないだろう。土地あたり価格の面で、西東京の様に新興開発されたのではない官庁街界隈へ住みつくには、細分化された雑然たる地区が有利だからだ。
倭人の伝統的民族性に於いて、朝鮮民族と非常に類似したオリエンタルな点に、性奴隷の売買を行う業を、それは国家内でも公然とした犯罪だが、大都市部ではほとんど阻害せずに愛好する所がある。しかし一般にはどの国民もこの性格を普通には忌むし、特に宗教の力を借りて精一杯除去するものである。対して姦淫する勿れという文言を古くから持たない朝鮮、日本の両民族はかれら独特のアジア的頽廃を生来愛顧する。創造説との軋轢から遅々として進まない人類生物学の微々たるが一応の知見によれば、亜熱帯以南の免疫力淘汰の原理にもとづくこの乱婚制の擁護という習性は、かれら極東人種が如何なる工夫に則ってかれら独特の歪んだ宗教観を堅持しているかを雄弁に説き明かすのだが。
神道という日本土着の民族宗教態は、江戸時代にはじめて接触したキリスト教思想への封建的ではげしい禁忌感情とあわせて、極東によりあつまってきた憐れで貧弱な理性の民族がいかに自然崇拝の宿命を長引かせているかを、我々へ説得する。いいかえれば極端過ぎて適度さを失った雄性の適所である暴力団とか、その逆の雌性による遊郭とかなにかその種の人口過剰を背景にした文化習性の奇形化は、寧ろかれら遅れた立場にあるアジア人が自然界の合理性を直感的に信仰する延長にあって、おのれどもの「業」からの応報に結果を待つべきものとなるのである。
だから我々が、少なからず西洋的理性の修養者が彼らの救い様のない堕落を放置するならば、彼らの業に応じて乱門からの悪意をこうむるであろう。それと同時に、この政治社会へぶらさがって成立した悪徳と奇形化の地域育ちが禍々しい習性を地球中へばらまくのを覚悟しなければならなくなろう。
神道の頂点に位置する天皇への帰依を訴える狂信的愛国主義者が彼らの業のあしきを自覚する反省の気負いなく、このまま彼らなりに系統立てて説明した民族の自然崇拝を助長しつづけるなら、その末路はかれらに必然の致命的敗北となるであろう。これらの知見は、日本民族がその自然状態の侭でなら他の寒冷帯に属する人種より理知的展開へ劣るのみならず、その知識文明化への道を辿る由すらもないので、政治的血統ごと地上からキリスト教文化の細部へ解体除去または殲滅、乃至併合される劣等生的将来図を確信させるに十分であろう。この経過にあって暴力革命か戦争が避けられないとすれば、キリスト教連合軍は日本民族の神道連合軍を実際の東洋系野蛮人群生と考え、その方向へ志気を煽動せざるを得ないだろう。だがもし議論と説得によってこの征服が可能なら、第一に天皇制を解体しなければならないだろう。
一帯へ土着した倭人の郷原的狂信は第二次世界戦で実証済みなのであり、それは彼らの血統が純系を主張するかぎりますますそうだろう。よって、後者よりも前者の武力征服が起こる確率の方が高い。
私の一国民としての実感として、主に日本の西から南に土着した倭民族は決して理知の優秀な品種ではなく情緒的雌性的形質を普通としている。かれらは科学知識や近代の理性を失われゆく外来的風物としてしか顧みず、大和魂と呼ばれる東洋世界の頽廃した生活態度へ土着的愛着をもっている。よって多くの善意ずくの宣教師の理想とはことなって、直接の説教がかれらへ大いなる感化を与えるよりはずっと、アメリカの土人を駆逐した際の粗野なみせしめの要領の方がかれらの教化へは合法的で理由あると認められる。