2009年8月12日

自然哲学と倫理哲学の接点

科学知識に比べて、哲学という営みの恒久性は疑わしいと言われる事がある。特に、この非難の古今最大のものはスティーブン・ホーキング氏によるものだろう。そこでは、ヴィトゲンシュタイン哲学を例に引いて、既に時代遅れになった学問集団を指す用語として哲学者、つまり知恵を愛する者を指弾している。ホーキング氏の指摘は、だが実際は、分析哲学の射程を見限る、といった言語についての一論考の総論を真に受けるに過ぎないものだ。社会をたとえいかに少数のものでも形成せざるをえない間は、間柄の論理として科学知識を技術にとって部分最適となるだけ修正する必要性がある。具体的には公害とか迷惑とかこの種の知的だが理性的では必ずしもない行動が、哲学に不足があると相対的に生じてくる。
 もし個人だけで生活するつもりなら、そこに哲学は無用となるだろう。知識がその侭実践でもある場合にはよく考え直して将来の人間関係を慮る能率は無駄である。倫理は、もし極小の成員からなるものであっても、二人以上の共通の社会的規律としてひとりでに生ずる。そして当然ながら、社会集団の規模は倫理の高さによるのである。その倫理が科学知識を吸収しながら複合化すればするほど、片利及び寄生以上での同種間共生の形態の複雑さは拡大していく。
 究極の生態系の主はおもとしてこの共生体制へ最適化した姿で顕れるであろう。最大の生態的可塑性は、もしどこかの種の系統がつながりえずに滅びていってもまったく動じないほど最も多岐に渡る系統樹の先鋭として、種間経済の漸次的結果へ日々必然にみちびかれる。