審美的社会淘汰によって確保できる最大の性格は、その生殖系統の総合性だと思われる。一般にこれは演劇の才能として評価される節がある。経済系とは演劇的団性、政治系とはその群性のことだから、それら以前の純演劇系すなわち芸能系とは個性についての総合された形質淘汰の場のことになる。
人類がその成長と変化との連続した歴史のどこかで総合的形質を突如必要としなくなる、とはもし新種が全く次元のちがうある感覚器を成立させないかぎり考えづらい。その有利さを省みれば、個性をどれかの感覚特質について極端化しつづけるべく適当な圧制にとある進化場で駆られたとしても、なお総合的な基礎は維持されゆくだろう。
一つ以上の感覚特質をはるかに前人より進歩させることに成功した個性が出現したとき、彼が母系として選ぶに最も適当なのはおそらく演劇系であり、またその中では形質の先進性がよりよく総合されている芸能系である場合が殆どではないだろうか。ある天才人が特徴ある芸能人を配偶として選ぶのはこれらの進化に必勢の道理からも合理的な方針だといえる。
もしも特徴に於いて多かれ少なかれ改良に遅れる、一般人と言われるところの中流商業以下の形質とこの感覚的天才性が混ぜ合わせられれば、その偶然に依るところの大きい本質的配列が崩れる確率の方が高い筈である。