同じだけの労働量を、国民が賄える国際分業内での労働の種類についてどう配分するかがその国民所得の単位能率を意味するとすれば、土地生産性がより高い生業を選り好みするのは経済勘定から言って賢い知的行動だと考えていい。
一国民のもつ技術水準が他国との連環の中でどこへ位置づけられるか、この自然的秩序は実質的にはより希少価値の高い製品を生産できる系が周辺支配競争の上では有利だと教える。
そういう品物は他国の設備投資によっては代替品を儲けづらいので、(情報を含めれば)おもに時間の中では、相対して高水準の取引価格を新品係数上たもちつづける。
だから汎用品への製造業上での深入りは、それが母市場(いいかえれば輸出可能な範囲)での最終的需要規模をみずからの流動資本量が他の産業または投資主とくらべて十分に満たし続けられるどうか、へ全面的に依存して決定されるべき「副業」向けの進路なのだ、と言えるのである。
又なぜならもしこの母市場が十分な購買力(ナイシ有効需要)を維持できる見込みがなければ、そこへ汎用品を継続して供給しようとする業者は、ほかの進出してきた大規模な輸入業者に比べて基礎的資本力差の面で生計をなりたたせていくことはまず無理と言えるので。
仮に総合して自由圏の資本力が、共産及び社会圏のそれへ最終的な経済征服を可能にする迄の貿易制限での摩擦得失分を考慮しても、その中途段階で起こる社会現象はすべてこの副業の配分に関する朝三暮四の順序だけだろう。
つまり先進国の独占はさきに高度な知的産業を開発し自己配分を自由主義的に進めるが、他方乗り遅れて部派へ分かれたしつこい反抗と――頑固で旧式な土着産業への執着によるその精一杯の調整策ということは、後進的諸国の複合観念に充ちた国連監査的持ち分といずれなる。
前述の様に背景とした市場規模へ汎用品(日用と――それに類した製造技法が比較的普遍的でたやすい便宜との品)の供給可能性は依存するので、より大きな購買力を職種細分化の担保とした大陸国家はその産業の高度へ向かう展開の上で輸出入による貿易差額を差し引かれない分だけ各部の専門化に伴う経済効率に有利である。
逆に購買力が一定の余剰人口限界として制限されている島国では、いくら住居やワークシェアの工夫から人口過密を進めたところで、結局はるかに多大な人口を養える天然資源の甚大な国と同等以上へかれらの所得水準をたもとうすれば必然に、「汎用品の安価さ」を元とし他国から日常的にそれらを輸入しなければならない。
即ち、現状で先進国であるかそうでないか、その産業の技術水準とは別に、単なる人口支持の面でのみ判断してどの産業が国家の規模にとって有利となるかは事前に予測できる。
私がここで贅沢品と呼ぼうとするのは、非汎用の一切の、自然と社会両方による製造物のことである。
この小論の冒頭で示した‘希少価値のある品物’はほぼすべてがこの贅沢品に分類される様な、特定の地方産業構造が独特の技巧と資源を有するかぎりで認められる高級品目に関している。
…ロスチャイルドがダイヤモンドの加工方法の発明の機運に聡ってただ溢れた単なる煤けた石の転売を高級宝飾品目へすぐさま転用できると確信したとき、原産地であるアフリカの鉱山と本土の加工場および職人の定期的選抜を独占支配することで、とある企業的資本家が市場へ贅沢品の供給可能性をはじめてつくりだすことに成功したのだ、こう考えられる。
しこうして貿易差額の本質はその他の汎用品の投げ売りと決定的な贅沢品の囲い込みとを儲けの的としているものだ。
そして我々が、少なくとも先進性のある技術的科学へ一定の興味と投資の準備とを運びよく持ち、或いは国土に限定のある国民が彼らの生まれもった天然資源の域内で経済地位をなんらかの目あてから確立しようと願えば、まず汎用品については安全がその場でゆるすだけ最大限に輸入へ切り替えるべき也といえる。
(この種の比較的容易にいとなみうる生業はいずれ国内から自然に絶滅するか、又もしも一帯を自治する政府が輸入できる質量での不安定への保健として便宜的に行っている‘関税保護措置’をひきあげれさえすれば市場の競争原理により漸近的に潰滅するだろうが、どちらにせよ我々にはこれらの結果が成員各々の福利の面からみれば寧ろ望ましいと理解できるだろう。
結論として趣味・リクリエーションの分野でしか既存の汎用品製造業は中小の島国では生き残ることはない。農産物ばかりでなく加工の度合いが比較的低い全工業ナイシ単純情報品目も含む)
つぎに贅沢品については、これが希少価値を付加できればできるほど所得獲得の面から有利であるから、その狭い国土へ散らばった地域ごとへ想像できるかぎりの高度に独創的な分業を推進すべき也といえる。
(現在でもいくらかの工芸品では見受けられる様な特産性を、一切の科学技術的製造の部品と完成品とへ力の及ぶだけ拡げることが必須となるだろう。一つの考え方として、次の産学連携術は有効な手段になると思われる。
我々の社会固有の既存の特殊条件としての、私立大学の地方分散という社会資本的基盤がある。
この維新の副産物というなにかの事情をわれさきに援用して、一般教養への折衷を免れない国立大学の運営とはことなって、あきらかな短期間での応用的発明と実践工学についての企業との応答成果が学生回転率を報酬とした地域産業への徹底的な適応で図られるなら、地域社会にとって得はあり損というものは考え難い)
特に後者の贅沢品の製造にあって、秩序化にさまざまな偏差のある原材料の輸入とくみあわせる産業成立の可塑性を持たせるために、「みなと」を有する着湾地域以外では主としては空輸という発着点をいまより功利的とする幸先があるだろう。
こういう空輸を経由しないのならば原材料の仕入れには陸路を使用するしかないので、遠隔運送の費用高またそうでなければ国内からの原料は定量的にも種類的にも限られることから、予想外のまれな製造業態成立及びその取引の勃興へはどちらかといえば不利な侭に留まるだろう。
よって、もし彼の県民もしくは地方民が技術的に進歩した生活形態を欲するのならば(そしてこれは決して地方の地政学に詳しくない粗雑な中央統制によるのではなく郷士共の任意でなければならない。なぜなら保守的な生活様式の方が却って伝統工芸品の保存された独創性には手短な既得の場所柄もあり得るので)、彼らは自らの位置した内陸のどこかへ『空港』を建設すれば結果的に、そのわずかなりとも持てる財産を活かした将来の所得を増幅させることになる確率は地続きより余程高いだろう。