2024年3月18日

武器輸出罪を極刑にすべき事

悪徳賛美者・茂木健一郎は、存在自体が犯罪である死の商人・坂本龍馬をひたすらもちあげつづけてきている。また侵略犯の幕末西軍と天皇一味をも彼らの作り上げた悪しき全体主義政体・日帝ごと賛美しつづけてきた。
 戦後日本政府もまた、国を挙げて死の商人に踏み出そうとしている。悪因は悪果を生む。

 文明とは武器によって他者を侵害する事や、その手助けをする事ではない。野卑な欧米諸国あるいは中国やロシア、イスラエルといった軍事大国の後追いや手伝いをし、国際社会に不安と緊張をもたらしながら横暴を重ねてきている自堕落な国連には、天皇政府や茂木の様な悪人諸共、正義の鉄槌が下るだろう。

 武器を輸出する事で金を儲ける人々は明白な殺人犯であり、名目がどうあれ事実上の戦争犯罪人なので、全員、極刑に処するのがふさわしい。もしこの為の諸法を妨げる者があれば、その者もわが国の平和法制に於いては人道犯罪人と呼ばれるべきである。

2024年3月17日

皇室やくざと関西ナチストおよび本居国学派の共謀による全日本人奴隷化計画の公的非難

関西の伝統は文献に残る限り過去から今まで人種・民族差別心の塊で、それは飛鳥時代に遣隋使を送ってから小中華思想で補われ、更に強化された他害的利己心こと山所心(やまとごころ)の卑しさによる。『肥前国風土記』での佐賀・長崎人への人種・民族差別連発は信じ難い程で、天皇一味ら関西勢の致命的憎悪を示している。
 本居宣長は関西界隈から大きく出た事がなかった。その為、彼の認知は関西中心主義で大変歪んでおり、関西地方に特有の野蛮さから逃れられなかった。特に性風紀の決定的な悪さを彼は逆に正当化してしまった。物の哀れとは、関西地方が古代から天皇一味ら世界最悪級 性犯罪者の巣だった証明でしかない。
 上田秋成は当時の良識的知識人だったのだろう。だから彼は今でいうネット右翼系サイコパス影響者である本居による人種・民族・性・身分差別含む、皇族性犯罪物語の言い訳や皇族犯罪賛美をする倫理観の狂った不良学説へ、果敢な批判を試みた。上田の指摘は人権の信じられている現代からみても正論だった。

 小林秀雄や茂木健一郎といったサイコパス影響者の系譜は、本居による関西人種優越論に追従してきた。だが彼らはただの関西ナチストの変種にすぎない。自称天皇一味の邪教がそうである様に、本居系国学は本質的に人種差別教義を合理化する陰謀に過ぎず、その反人道性は明らかである。小林と茂木も共犯だ。山所心は決して日本の民族精神などではない。風土記や記紀がどれほど天皇一味による日本人差別や日本人への一方的虐殺で満ち溢れている事か! 令和の山背人が「東蝦夷がぁ~」と情けない叫び声をあげ、Xで人種・民族差別の憎悪表現を東日本全体へ行うのは決して偶然ではない。山所心とは古代から一貫し日本人憎悪の心だったのだ。
 これにもきちんと考古学や遺伝学が理由を提供している。ハプログループO1b2系統の古代渡来人らは、朝鮮や中国一帯からきて、全日本人を差別しつつ小中華都市を関西地方に作り、全日本人奴隷化計画を試みてきたのだ。皇室はこの為のやくざ勢力だ。だから本居派は男性皇族の連続強姦罪を正当化したのだ。
 少なくとも途中まで本居に影響を受け没後門人と称していた平田篤胤や、小林や茂木ら、本居国学派に属する連中はみな、古代から一貫して差別心旺盛な関西人と皇室による全日本人奴隷化計画への共謀者というべきである。つまり彼らは国民奴隷制を目的とした極悪人共で僅かでもその悪業をほめるべきでない。

2024年3月16日

哲学の覚悟

およという人が、普段から勉強していない人が少しだけ勉強を始めると過剰評価して当然だ、みたくきのう言ってきた。この人は自称哲学者だったが、学問や哲学界を完全に舐めきっている事が明らかだった。
 プロ選手と同じで我々の勉強量と費やしてきた努力は大抵の人が聴けば必ず卒倒するのが確かだ。
 しかも初めから勉学が得意で、大抵の試験が少しやれば余裕で満点といった程できているのが当然という選手らの間で、努力を限界まで続けてきた人々が才能の伸び幅だけを頼りに最上の成果を世界史上の全学者と競っているというのが真の学問の世界或いは哲学界なので、彼は明らかに何かを勘違いしている。少なくとも自分は小中学校の頃は慣らし運転みたいだったが、15歳からは本気で勉強していた記憶しかない。今は40歳だが、この25年、建築の勉強や芸術創作の時間を除けば、ずっと本を朝から晩まで真剣に読んだり、講義を聴き考え事してきた勉強の記憶しか凡そない。それは自分が本気で学問してきたからだ。
 彼は何かの片手間で哲学なる為事ができると思い込んでいた。そんな事は丸でできない。少なくとも高い次元では絶対に無理だ。全人生を全て使ったと考えられるカントすら当時の知識水準に絡めとられ、種族主義的偏見や知的設計論など多くの誤りを含んでいたのだから。哲学の為には全てを犠牲にすべきだ。

 総合哲学の領域では何かが分からない状態を完全になくさなければならない。その時代までの全知識を得なければいけないからだが、事実上その種の疑似全知への到達も原理的にできない相談なので、辛うじてできるのは全時間を普き学習になるだけ注ぎ込む事だけだ。現に自分は25年以上間断なくそうしている。

日本人意地悪衆愚からの学術研究への妨害を完全無視すべき事

もぎけんのインチキ人文もどき書でもドイツで1位になれるんだから、ドイツの一般民衆の知的水準は高がしれているというもの。日本単位の民度も高が知れているが、少し努力すればドイツ程度なら簡単に追い抜けるのは明らかだ。少なくとも茨城県の単位なら、工夫次第でドイツに大差つける事は絶対できる。

 では何をすればよいかだが、日々の学術活動とその啓蒙で、明らかにドイツを超えた質量を確保し続けていれば確実に彼らの民度を大幅に上回りえるとみられる。
 きのうオヨというX民が愚にもつかない言い分で知的活動を妨害してきたが、その種の嫌がらせは無視し、公議の質と啓蒙力を高める必要がある。
 茂木は東京の論客だが、知的水準が一定以上の人は、少なくとも人文書では偽物だと思っている筈だ。こんまりレベルの怪しい啓発書の人だろう。つまり学術書の書き手ではない。しかし彼が文化人扱いな東京も、結局は日本の学術選良集団ではないといえる。筑波のある茨城が学術面でアジアを先導すべきだ。

 また、学級を考えればわかる様に、たった一人の成績が圧倒的によいだけでも、その集団の成績の平均値は大幅に引き上げられる。文明は福沢諭吉『文明論之概略』での定義では集団の知徳平均値なので、やはり一人のみ学術に全力を使い、傑出した知識と道徳に達するだけでも、その集団が高文明になりうる。
 もし孔子や釈迦が出現していなければ、中国やインドの学術的地位は随分違っていた筈だ。それほど特定の傑出した総合哲学者の出現が後世に、また国際的に与える衝撃は大きい。日本人一般に聖性をそうと理解する知能がないとしても、或いは出る杭を打つ意地悪衆愚でも完全に妨害を無視しなければならない。

成田悠輔の歳主義や集団虐殺論の何が悪か

有能な老人もいれば無能な若者もいて、統計差別で有能老人まで強制引退させ、無能若者を要職に就ける組織が巧くいかなくなるのは明らかで、年齢括りでの引退強制論は単なる歳主義の誤りというべきです。成田悠輔の安楽死強制や集団切腹煽り名目での集団虐殺論が生存権侵害なのは言うまでもありません。

神奈川選出のブロック大臣とその周囲の下衆支持者風の殺害予告犯について

米連邦最高裁は、公務員がソーシャルメディアの自身のアカウントで公務に関して発信した場合、他の利用者を「ブロック」し、コメントを制限するのは違憲になる可能性があるとの判断を示しました。
 違憲性の判断は、公務員の職務権限や発信内容によるとしましたが、「公私の境界があいまいなアカウントで、公的な発言なのか、私的な発言なのかを区別するのは難しい」とも指摘しました。
――『公務員のSNSブロック「違憲可能性」 コメント制限巡り、米最高裁』毎日新聞

数年前、河野太郎議員関連の話題の所に、米国でトランプSNSブロックがコメントできず公務員として表現の自由侵害で違憲判決だったという新聞記事をはりつけたら、突然発狂してきた神奈川県の下衆に殺害予告された。なぜ発狂していたのかわからなかったが、神奈川の政治民度は極度に低いのが完全な事実。

自文化植民地主義にすぎない亜流異端のアジア副文化である関西文化の否定と日立文明独自性の啓蒙

昔、高校同級生のテツ君という人が、山背を一緒に歩いてて外人に道きかれたとき英語で答えてしまったので、自分は(日本で英語で答えられたら日本ぽくないのではないか)と感じ、英語で答えていいの? みたくきいたら、彼は「言い訳臭いな」と言った。
 今からふりかえっても彼は全て間違ってると思う。

 ナカムラ・シュウジという山背の人がノートやXで書いてたが彼は英語が話せない山背人を見下す描写を沢山する。テツ君という人とそっくりの精神的態度だが、要するに自文化植民地主義の一種だ。彼らは欧米劣等感をなぜかもっていて、英語できる方が上位とすっかり思い込んでいる。必要でない時ですらだ。

 自分は文語ならある程度できるが、英語が相当できる側からみても、決して英語が読み書きできるという事は上位の目安ではない。植民地侵略の余波で事実上の国際共通語になってしまっているとはいえるが、英語は言語としてみて不完全なもので、他の言語の陰影を全て表現できるほど万能の体系では全くない。

 彼らのもっている精神的態度は端的に結論すれば悪だといえると思う。その悪は世界の文化多様性をへらしてしまう事にあるが、その理由は長い物には巻かれろ式の自文化の自己破壊にある。その様な民心は関西地方では古代の段階から普通だった。彼らは天皇の皇帝擬きや多神教制度を含め中国からまねた。
 テツ君は大阪から福島にきた人だった。先祖は知らないが、しらずしらず自文化植民地主義を関西で身に着けたあとなのではなかったか。自分は直感的にそのおかしさに気づいていた。ナカムラ氏にもそれを軽く伝えたが彼には何を指摘されたか理解できなそうだった。
 関西文化の根に致命的歪みがあるのだ。

 関西地方の諸文化は中国やインドの表面だけのまねごとでできている。だからどれもこれも偽物だ。それに気づかない人々は広くアジア文化を学んだ事がないだけにすぎない。所詮は亜流なので、異端アジア副文化の位置づけに終わる。
 僕はそんな悪習を身に着けたいとは思えない。日立圏は独自の文明だ。

目的論の上の段階

自由にものを書ける、ということは、一つの長所とおもう。そこにいたるまではかなりの試行錯誤が必要の様でもあった。
 自分のばあいは、絵がほかの人よりできる様な感じがあったしなにかがそこにあって、自分が追求していけばいつかもっと重要な事ができるという直感があった。いつもラジオ講義とかでいってるけど、特にたしか第二講義にある『高校の話』ってやつでいったけど、高校の最初の美術の授業で僕はその様に感じた。

 手のデッサンをしていた。それで自分はもっとできるという感覚があるのだが、授業時間はあっという間におわってしまう。
 そのとき中学のときからやってたテニスの部活動、中学のときは軟式だったが高校で硬式にしてみたけど、こちらは飯塚君に試合で一対一で負けた事もあるが、普通にやってても一番上にいけなそうな感じがあった。飯塚君は中学のときも全国インターハイだかなんだか出てた気がする。要するに実力者だったのでその後も普通に全国大会レベルだった気がするが自分は、小学校からおなじな小田君と中学の頃からペアでやっていたが県大会は出た様なでなかった様な気がしなくもないが、どうもただ普通にやってても一番上とかに行けない感じがあった。先輩のまねしてドライブかけて打ってたのもあるかもしれないが。飯塚君もそれを打ち返しづらいみたいにいっていたので、ドライブが常に強いかと思えばそうでもない。
 今にして思えばあれ変化球みたいなものなので、デフォルトでカーブだのフォークを連発するのではなくて、必殺技みたいに使うべきだったんだなと思う。誰も教えてくれなかったので変化球を多く使いすぎた。
 まぁそれはそれとして自分はテニスはみきって自分で美術部にいったのだが、その時の経緯はラジオで言ったのでここでは省く。以後は今まで絵を描いててまだ全然できる感じがあるし日々進歩しているから、あの直感そのものは、正しかったとみる。

 姉が美大だったのでついていって大学といえば美大なんだろうに、みたいな風におもっていたのもあるかもしれないが、そっちにいこうとしたら落とされたので、以後は独学にきりかえて今までやってきた。これも今にして振り返れば、自分はそういう判断がやたら早いという特徴があるのだけど、正解だった様な気もする。浪人1年目で美大藝大(正式には東京藝術大学は「藝大」だが以下、略記で芸大)の偽位階をみぬいてその外に出て戦うという選択をしたのは、姉が買ってもらったファミコンや自分が買ってもらったスーパーファミコンやプレイステーションなどのテレビゲームで『ドラゴンクエスト』シリーズをそれまで大抵やっていたので、RPG的反応だった気がする。ゲームやっていなかったとみられる田中君はそういう反応ではなかった。親が買ってくれなかった様な風に言ってた様にみえた。とにかく目の前に明らかな悪がいるのに、そちら側に入るか? という選択肢をだされ、正義をとらず、ぐずぐずと入るか入らないか曖昧なままでどっちかといえば入る様な動きになる、というのは、勇者的動きではないとみる。実際あのとき僕は田中君と議論していたとおもう。18才のとき。
 前このブログの『18歳の自伝』で一部書いたが、最後まで書けていない。まだ最後まで書き通せる自信がない。私小説にした方がまだましかもしれない。こわい人生の一部を直接見直すというのは、かなり自我をほじくり出すみたいな感じでよくない気がするので、三人称か自分っぽい主人公に寄託すれば書けるのかもしれない。

 特に田中氏については、彼のおじいちゃんとの関係があるはずで問題はもっと複雑におもうし、向こうの物語と被っていた瞬間だったのではないか。その後、彼はおじいちゃんとの関係を「呪い」だと表現していた。高校から一緒だった小野君がそう田中が言ってたのを聴いたと言ってた様に思う。

 それで自分は田中氏に勇者行動をするといわば宣言したのだが、田中君はそれに男泣きみたいなことをして、あの保谷(ホウヤ)の蕎麦屋(そばや)で。季節的に冬のおわりで今頃だった気がするが、鍋焼きうどん食べながら話していたのだが。確か村上春樹がどこかで、というか読者とのやりとりで落ち込んだらそれを食べると書いていたので個人的に踏襲したつもりだった気がするが。田中氏と会話しながら、自分としては美大芸大受験はやめる、といったとおもうのだが、それより前から多かれ少なかれ、自分はおもに美大芸大構造の欺瞞をみぬいており、田中氏も学力高い派だとおもうからそれに理解は示していた気がする。ただ、18歳にとってはそれらの汚い構造は余りに複雑すぎたので、完璧に細部までよみとれきっていたわけではないにしても、自分は特有の直感なり直知で本質はみぬけていた。
 実際あたっていたのだ。それは。
 だからこういえるだろうね。さっさとぬけだすべきだったのだと。実はちくわさんという芸大でた人とのち会話しててもそう感じた。端的にいうと芸大でたところで別に絵がかけてなければ意味がない。そして芸大にいくということといい絵がかけるということには直接の関係はない。
 大体がフェノロサが『美術真説』でその様に既に言っていたのに、岡倉天心が学園主義を導入してしまい今に至る。学園主義との戦いを軸に展開していたパリ様式の面々はたしかに、かなり強かった。米国人のフェノロサはその後に出てきたのだから、いまさら西洋の古典模倣式をまねなくても、とおもったのだろうとおもう。フランスの官学芸大元祖エコール・デ・ボザールが全ての原因ともいえるが、いまだに機能していて今は少しは古典主義のあたま堅さが緩和されて、卒業生の日系人の絵をみたことがあるが、ボナールぽかった。もしくはマティス(ボザール卒の守山友一朗氏の個展「Étoiles et Brise(エトワール・エ・ブリズ) - 星とそよ風 -」に展示された2014年の絵『Salle de portraits(サール・ドゥ・ポートレ)』の画像)。ということはパリ様式時代の非学園主義者の系譜も、今となっては古典の範囲に少しは入っているのかもしれない。そんな風に後進的な教えをしてしまうことになる。共通認識がもてるのはすでに過去のものになった様式だからだ。一般に。

 もとのはなしにもどると、絵が自由にかけるということは自分はまだ完全にはできていないというか、いわば描画体(かくがわの画材。検索してみたらでてこないから僕の美術用語なのかも)にひっぱられて、完全にかきたいものがかけていないという感じが激しくあるのだが、文についてはそういうことはまずなくなった。
 最近はソフトあるいはアプリケーションでかいてるのだが、そのソフト固有のくせがあるので、それにひっぱられて自分のイメージの様なものとかを完全に直接あらわせない。だから絵のほうが、文より間に挟まってるものが多くて、難しい気がする。

 それはそれとして。

 Xはやはり一種の地獄だとおもう。いや、正確にはこの世がなのかもしれない。すくなくとも日本という国は自分にはそうだ。そこに生きている人々にはろくなのがいない。これが事実。そして何度も嫌がらせといおうか、犯罪をしかけてくる。デフォルトで。それだからなにをしてもひたすら被害にあう、それだけがつづく。ひたすらひたすら。それが40年の経験のほとんどすべてなので、今後も同じだけ未来にひきのばしても同じ事がつづくのだろうとおもう。でも、その様な現象の実態が今では大分理解できる様になった。たとえばIQやEQの落差が生まれつきあったらどうだろう。まわりはすべて俗悪な感じで、ひどいひとでなしばかりにみえるのではないか。大体これらが、更なる品位などと重なっていたら余計その様に不快な経験だらけになる。しかも自分のばあいは高度に繊細な人だったとおもわれる。だから酷い経験ばかりだと感じても当然とおもわれる。
 或る意味では上等で上品に生まれていたら、もはやこの世の経験が地獄と感じても仕方ないのではないか。自分はその様な分類に少なからずあてはまっていた。それだったらしぬまで、この世では地獄めぐりをしている様な感じを受ける。或る種の試練といおうか、受難の連続ということになるだろう。釈迦だってその様に感じていたのではないか。

 釈迦ことガウタマ・シッダールタはその様なノリを解脱によって解決しようとしたのだろうが、要するに全て諦めて乞食しながら勉強してればいい、という説だ。当人の前半生は普通に子供をうんでたのにそれすら否定していた。こどもにとってはたまったものではない。釈迦は神格化されるきらいがあるが、現実の足跡をたどるかぎり、不良の改心といったおもむきがあり、少なくとも僕よりはろくな人生辿ってない気がする。いや、たしかにそうだ。僕のほうがまだ美徳に従って生きてきていると思う。後世だから諸々の学問の条件がより有利ともいえて当然ともおもえるが、つまり、僕が直接釈迦と会ったら、僕には彼は俗人にみえたのかもしれない。実際かれが国や妻子を捨てて逃げたということにも、ろくでなしさがある。もっとちゃんと世話すべきだったと思う。

 本題として書くが、要は人は人生でなにごとかをするわけだがその究極目的にかなう様にやるのが重要とおもう。自分としては、その目的が総合哲学だ、或いはそのうちの目的論だというのが今のところの結論だけども、或る意味では矛盾してるのかもしれない。目的について考えることが目的だというのは同語反復ではないか。ということは、純粋に哲学的にいって、目的自体にかなうおこないが別にあるのではないか。アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のなかで、目的を弁えた上でその上に立ったおこないの方がより望ましいだろうが、などと書いていた気がするが、

知恵の友愛(哲学)はその純粋さと安定さの点で驚くに足る快楽を含んでいると考えられる。が、知恵を求める営みより既に認知をもつ人のその上に立った営みの方が一層快適なのが当然であろう。
――アリストテレス
『ニコマコス倫理学』10巻7章
と実際にかいてあったけども、つまるところ、目的論の上の段階がある、といいたいのではないか。孔子が従心といったのはその境地なのではなかったか。

悪徳賛美や不良美学あるいは不完全性を愛好する人々の落ち度

人の不完全さを美化する人々は、いわば身内の偽物を高値でつかまされるまぬけさがある。物の哀れやポンコツ原理主義を一般倫理学説やまともな感覚論より信じていた人々がもしいたら凡そ現実に不義で破滅したろう。紫式部を大河ドラマで美化するNHKは、ジャニー喜多川と地獄への新幹線に乗る様なものだ
 本来なすべきなのは美質の尊重で、劣悪さの称揚ではない。

匿名犯罪の因果応報

日本の人々は普段から匿名で犯罪ばかりしておいて、救われると驕っている。もしそんな極悪人共が救われるなら世界にどんな善もない事になる。完全なうぬぼれの底が抜けている醜態というべきだろう。彼ら自身が自滅して当然だと気づかないとすれば、反省力が根本的に完全に欠けた生物だからに違いない。

泥船に乗った人々の正常性偏見について

愚かな、あるいは悪しき人々は自ら悪さばかりしていても、その結果がこないと考える。だが現実はその逆で、おこないはどれほど小さなものでもすべて結果になっているのだ。かれら衆愚が因果を履き違えているのは、認知力不足のため、天に唾を吐いている様なものだ。関西地方が滅亡するのは必然だと感じる人は、そこに暮らす人々の日々のおこないをみている。かたや行政奉仕が低下しているのに虚栄の金満漫画展をする。かたや賭博業を誘致する目的で、無駄遣いの仮設物を住民へ大きな負担をかけ作る。人心は荒廃し、差別や不寛容が広がっている。すべてが悪因による。

 だが洞察力のない人は、泥舟に乗りながらそうと気づかない。第一に彼らはうぬぼれて自己過信している。第二に彼らは過去の千年少々の短い歴史から、未経験の破産がどうせ起きないと高を括っている。第三に彼らは現実の状況が酷く悪化しているのに、まるで大戦末期の日帝軍の様に不都合に目を瞑る。

投資と哲学の共通性

投資は誰でもできる様にみえるが全ての商いの中で最も難しいしごとの一つな様に、哲学は誰でもできる様にみえるが全ての学びの中で最も難しい道のりを示している概念である。この概念は全ての知識を含み、その上にのみ打ち立てられるしごとだが、それに気づかない人は学の深海に命を取られ死んでいく。

権力を握ったサイコパス対策について

もぎけんはストレスがないと言っていた。しかし周りは凄まじい迷惑を受けている。いや、気づかぬまでも国全体や各国民までも。
 特にホロコースト揶揄ギャグ擁護での明白な人権侵害や、コロナ禍賄賂五輪ごり押しでの大量虐殺未遂、果ては大吉原展弾圧での表現自由権の侵害。
 自分が教えたあんぱん誕生秘話や聖徳太子の和の誤解(『礼記』『論語』の誤読)の趣旨を一部盗作しての茂木による突然の和みの外国人向け主張は、彼のこれまで主張してきた本居宣長の排外主義と矛盾しかしていないし、抑彼は普段から英米出羽守系異文化蔑視や炎上論争が日常茶飯事だ。全く和んでいない。
 日本には長い戦国時代の伝統があるし、火事と喧嘩は江戸の華といっていたよう戦好きの側面がある。必ずしも平和愛好家らの集まりではないからこそ、平和に十何万年もくらしてきた先住日本人を自称天皇一味や幕末西軍は侵略・虐殺・収奪や権利侵害してきたのだ。
 つまり茂木は外人を騙している。

 茂木の一連の異常行動を察知した僕は、もう彼を大魔王モギーとあだ名し戦う覚悟を決めた。特にコロナ禍五輪の人道犯罪を防ごうとしていた善徳の人々へ茂木は凄まじい剣幕で冤罪バン攻撃や信者を焚きつけあらゆる迫害をしかけ、酷い嫌がらせばかりしてきた。自分も前アカウントがネオナチに攻撃された。
 文化人工作費を渡されていた疑惑もある。なぜ茂木があれほど明白に人道犯罪や賄賂による腐敗行政が明らかな2020東京五輪をごり押しし続けたのか。しかも冤罪バンといった場合によっては訴訟リスクを回避できない非常手段に訴えてまで。天秤の平衡を考えると不自然で何か訳があるに違いないと思わせる。

 いづれにしても自分はモギー戦がもう10年にもなるので色々レベルアップした。彼はかなり明白なサイコパスだと諸々の事案は示している。彼のいうポンコツ原理主義とは、反社会性人格条件を普遍化しようとした成れの果てだ。強度の情動異常は大抵何でも炎上を招くが、同時に悪影響次第で公害を引き起こす。

 サイコパス当人は一般に公害で他者に迷惑をかけても平気だという証拠が、大魔王ストレスフリー発言だろう。その果てには大量虐殺しても何とも感じないおでんナチス級の極悪人なり情動異常が出てくる。経験的に彼らサイコ対策は、とにかく弱点攻撃を続ける事だけだ。反省などしないのでHPを削るしかない。。
 たとえば昭和天皇は明らかに強度のサイコだった。人種差別による大量虐殺や侵略を命じて戦争指導していたのに、敗戦後は戦犯逃れし原爆投下を仕方なかったといいまさに和やかにその場で歓談する。自らが招いた戦争で親を亡くした子に勉強なさいねと他人事かのよういう。戦争責任を言われるのが辛いなどと晩年侍従へ吐露し自分の心配が全てに先立つ。
 これらが示すのは、昭和天皇こと裕仁の絶対権力暴走を止めるには、直接彼を消すしかなかったという真実だ。日帝の諸制度は摂政などをたてて明仁をおしあげてしまう。この場合も同じだ。要は一族全員廃滅しかなかった。

 サイコ当人は自分へのダメージは効くという一証が、戦争責任を問う声自体は裕仁のHPを削っていた事実である。プラカード事件も、直接彼に責めを帰す喧伝だったので、ラスボスへのダメージを恐れ、旧日帝幹部らは弾圧の挙に出た。
 モギーは所詮中ボスだ。大ボスは天皇一派となるが戦いのコツは一つだ。

反面教師の退廃自治体

きのう話しかけてきたおよという人が関西単位の主語警察をしてきた。
 孔子は村夫子について問われ「悪人に嫌われ、善人に好かれる者には及ばない」と『論語』で答えた。
「東蝦夷」などと東日本全体を差別している様な人物が関西にいて、ウトロ地区を襲撃したのは事実。それは決して文明の証ではない。

 関西地方の殆どの人々は飛鳥時代に中国からもってきた小中華思想を引きずっており、それは今では矛盾をきたしている。カネと権力ほしさで東日本勢を占めだしての不正な小御所会議で自ら東日本へ侵略した自業自得で、自称天皇一味と主要公卿は東京へ移動してしまった為、関西は名実とも首都から陥落した。
 今の関西地方の興りは縄文時代後期に鬼海カルデラ噴火後あいていた土地に、中国や朝鮮半島から移民が入ってきた事に始まる。彼らは渡来人として中国をさるまねし大層な威張りようだったが、所詮は小中華にすぎないので歪みは凄まじかった。特に最大の歪みが物の哀れと称する不良美学のはびこりだった。

 いまだに猥褻小説家の紫式部と彼女の悪徳賛美にもみえる描写を作者ごと褒めちぎる愚民愚皇は絶えない。それも関西人の資質が、少なくとも品位の点で彼らが模倣先にしてきた本場中国に甚だ劣っている証明だ。江戸時代中期に全く同じ観点を上田秋成に突っ込まれていた本居宣長も、自己愛妄想で開き直った。
 今の東京も関西人の植民地みたいなもので、本居の不良美学へ追随する茂木健一郎の様なえせ文化人の全盛期といえる。
 これら都内退廃の救えなさは、大河ドラマ『光る君へ』など称する連続強姦小説家を美化した完全に悪徳賛美放送としかいえないNHK本社の報道姿勢でわかる。ジャニー喜多川の共犯組織だ。
 要するに関西人一般はまねていた中国に比べ品位の点で大変劣った文化、しかも徳なき天皇と称する偽皇帝による人道犯罪を賛美する様なひねくれた亜流社会を作る事しかできなかったのだ。その様な蛮族をほめちぎれば孔子が「鼓を鳴らして之を攻めて可なり」と言ったに違いないのだ。王道に反するのだから。

 悪いものを悪いといい、良いものを良いという。また悪趣味に悪趣味だといい、良い趣味に良い趣味だという。悪い仲間に悪いといい、良い仲間に良いという。悪徳自治体に悪いといい、善徳自治体に良いという。こういう正直の徳を、およなる神奈川人は持たない。だから馬を指し鹿と為すよう勧めてきたのだ。およという人は関西地方の主要自治体や東京都内の退廃が現に明らかでも、主語としてそれら悪徳集団の滅亡を見通せていなかった様に見える。世界史の知識がないのかもしれない。腐敗した国々が亡ぶのは理の当然で、だからこそ関西や東京の自堕落に従わない様、賢明な大多数の国民に知らせる必要がある。

 退廃とはその集団に悪徳のはびこった様態だ。事実、『夢を与える』での集団強姦肯定その他の悪趣味な猥褻小説家にすぎない綿矢りさ(関西出身)や、高齢者大量抹殺論の成田悠輔(東京出身)を天才と賛美し、南関東や関西の衆愚はうぬぼれ、己の地方の外を無意味に見下し、虚栄心に耽り得意がっている。
 こういった退廃の有様は、かの人には認知力が恐らくその衆愚の一部なのでそうと理解不可能なのだろうが、明らかだ。東京のジャニーNHK共犯での大規模な児童人身売買罪が公共放送内だった上無反省な事、山背の元舞妓・桐貴清羽氏の暴露した児童含む人身売買・性売買罪の実態は、両地区滅亡が近い証拠だ。ある衆愚自治体の表沙汰になった日々の行いが甚だ巨悪でそれが氷山の一角とみられる事は、内部の腐敗はそれより遥かに進んでいる事を示唆している。関西の主要自治体である山背と大阪は片や独裁、片や寡頭政で傾いている。贅沢に耽り、財政危機へも特に反省がみられない以上、滅亡確実というべきだ。

 結局は悪徳自治体とそこがもたらす公害へ一般公徳を台無しにする無視を勧めてきて「全ては善」などとほざくおよは、孔子がいうとおり自分一個の評判を恐れ全方位に媚び諂う郷原にすぎず、徳の賊というべきである。
 悪徳賛美を関西人とつるんで長年続ける自堕落都民に至っては最早救い様がない。
我々はそれら退廃に沈む亡びの関西や東京を反面教師に、文明の質を高めつつ先へと進んで行かねばならない。
 そもそも関西地方ができたのはここ千年程度の話にすぎないが我々の文明は数万年以上は確実に続いてきた。そして今後も発展し続けるだろう。関西や東京の様な悪徳の敗者は反面教師にすべきだ。

2024年3月15日

主語警察の分析

ある地方行政が腐敗し、その地域の人々が重ねて悪行三昧していると指摘すると主語が大きい、という人がいた。その人は主語の単位が集団的だったり法人だったりすると妨害するが、個人単位だと今度は中傷だというつもりにみえる。つまり公的単位を無効化して元の公議自体をごまかそうとする悪意があった。
 Xにはびこる主語警察の真意は、単なる分類ミスや過度の一般化でなければ、個別命題を一般命題と誤認させる詭弁術による、元の議論を不都合と感じる人々による言論弾圧の一種の場合がある。
 似た言動をしていたある滋賀の人は、別の関西人による卑劣な反東京陰謀に応じない私を攻撃するつもりだった。

全宇宙の真相

国破れて山河あり 驕れる商都は久しからず ただ世界史の作り事に等し 悠久の時を超え大道に遊ぶ禽獣らは知る 不徳なる人間共の空しさを 万物が亡びてのち最高神格は知る 並べてを吞み込む大河の如き全宇宙の真相を

東京人と山背人の自称一流文化と生活

文化や生活面ではかろうじて1流だと思いますが、政治面では未だに三バン選挙をやっている3流腐敗国ですね。
――tamamusiです♪ 

漫画量産金ぴか装飾で舞妓と名づけた子供を人身売買し自称一流文化 コロナ禍賄賂五輪目的にホロコースト揶揄ギャグを庇って人権侵害の指摘者を次々冤罪バンしながら高齢者抹殺論の偽物学者に大金を貢ぎ天才扱いでちやほやしつつ大発情 偽欧米や偽中国を衒う不徳極まる悪趣味三流文化の東京人や山背人

大量の浮浪者を抱え子供が飢えたまま自殺や売春している 老人が金と地位を貪り贅沢三昧し小中華思想で「東蝦夷(アヅマエゾ)は野蛮なんや!」と自称京都人がXで憎悪表現している エンゲル係数最下位で財政破綻寸前なのに民衆を税搾取した偽漫画展示で見栄を張る自称一流生活 虚栄の東京人や山背人

勇者と悪業三昧の神道衆愚の世界史による公平な記録

日本人一般は共に生きていくにあたいしないほど愚かかつ信じられないほど性悪なことが、日々のXでの言動から明らかである。また日々の悪業はもはや地獄の底が抜けるほどだ。侮辱罪が初期設定の他害的意地悪生物なので、道徳性といった人として欠かせない筈の性質は少しも持ち合わせていないに等しい。

 日本国が自滅しているのはそこにくらす人々の日々のおこないの悪さの結果でしかない。だから全く同情にも足らないし、因果応報の外に出ることなど決してできないのだから、100%滅亡する。しかもその破滅は惨め極まりないもので、心ある人々を大いに納得させるだろう。驕れる自称京都市の末路の様に。

 もし日本国が沈んでいく自業自得の悪魔達の奴隷船だとしても、そこの象徴づらしている無能な人種差別邪教祖天皇一味にへつらってはいけない。彼らは飛鳥時代に出現した大量虐殺犯の一族で、蘇我入鹿親子暗殺からはじまって手段を選ばぬ卑怯技で具体的権力にしがみついてきた、最悪で最後のボスである。

 正義を司る者は勇者として世界史に記憶されるが、人種差別教神道の元で独裁の体をとる税搾取目的の皇室を盛り立てる日本国政府や、その強制力の裏づけになっている軍隊こと自衛隊を作る悪魔でしかない邪教衆愚こと現日本国民一般は、あしきラスボス天皇一味と共に、信じ難い悪役として記録されるだろう。

得失効果の欺き

不良が改心すると得失効果で過度に褒めちぎる人々は心理に欺かれており、総じて善良な振舞いをしてきた優等生といえる人々がなした社会貢献に対し、相対的に余りに不当な扱いをしている事に気づかない。悪人正機説の乱用も同じ事を示し、本来、不良の普段の行いが悪い事自体が最も悪いのである。

政正洗浄後の真っ暗展

表現権弾圧の極悪ネオナチ茂木健一郎・瀧波ユカリ・ひよこ一派が政正洗浄後で骨抜きになった真っ暗闇の偽物展覧会 心ある全芸術家らは表現権を米英軍事力の笠を着て弾圧し続ける卑しく浅ましいフェミニストども 全世界独裁目的の悪魔どもと全身全霊で全力で戦わねばならず 必ず全戦勝たねばならぬ

不貞の歌か捏造か

和宮や家茂を理想化しようとする連中の性の悪さは果てしない 和歌を捏造してまで政略婚を正当化したいらしい 天皇一派の驕りも救い難ければ紀州派の悪意も信じ難いものだ それらをそうとしりながら後追いで和宮の強制的とも結果的とも本性ともいえる実在不明な不貞の歌を称揚する悪徳漫画家の醜態よ

大吉原展を弾圧・改変させた米英出羽守ネオナチ

展覧会弾圧の極悪ネオナチ茂木健一郎とひよこ一派は自分の無教養と一致していない知識を弾圧し恥じない。寧ろ米英出羽守って教養人らを罵り、陥れ、開き直る。だが表現の自由とは、その様な政治的意図で特定の思想や信条を弾圧されないための権利であり、彼ら茂木・ひよこ一派は唯の人権侵害者である。

世界一の孤独と神への道

恐らくこの世に僕より孤独な人はいないのではないか
それというのも自分に似た人が誰もいなかったからだ
自分が一番似ていると感じた人も自分とは違って
ある種の不貞ともいえる悪徳をもっていた
だから僕は僕と似た人が一人も見つけられなかった

強く美徳を持つ人で似た事があるのだろうとは思うが
色々な本を読んだり世間をみていても
自分とそっくりの人というのは存在しなかった

だから僕は人類史に確実に残る人物で
僕の足跡は後世によって研究される事になる筈だ
何しろ自分は神を目指した人で
それは必ず到達できない目標ではあったが
その為に全てを犠牲にしてきた人というのも
世界史で先ず見た事がなかったからだ

アリストテレスが僕ほど孤独だったとは聞かない
彼は友情について語っているので
恐らく学者仲間はいたのだろうと思う
だから世界で最も高い所に進もうとしたのが僕で
それに伴う或る氷山の頂点的試練があるのではないか
それがこの恐ろしい孤独の原因なのではないか

中学のときやりたくもないのに組み体操させられ
みんながピラミッド的に下で四つん這いの上に
背中をつぎつぎふみあがって頂点に立たされた
友達を踏むのもやりたくない上にこわいから
泣いて拒否したのにやらされた
本当に日本の学校って拷問だとおもう
そんな地獄が終わればいいのは事実だが
あれの頂点に立った時の感覚と似ている気がする
まさか絵の奥に哲学があり
その総合哲学を極める事は
辺りに誰もいない中でひたすら頂点をめざし
遂には人類のすべてもその記憶をも振りきり
まるで世界最高の山をひたすら上へ
最早辺りは霞んで何も見えなくとも
なお徳の理解の連鎖を辿って上へ進み続けねばならず
当然ながら自分の魂しか何もなくなっていき
世界で最も孤独になる事とは

2024年3月13日

永遠に都会的なもの(京王フローラルガーデンANGE(アンジェ)跡地)

永遠に都会的なもの(京王フローラルガーデンANGE(アンジェ)跡地)
2024年
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哲学の実態

最近、口文一致体といった文章を試しているのだけども、これの特徴があって、普通の言文一致体に比べて冗長になり易い。様子がある。だから、これはこれで日本文学史の中でなんらかの進歩を意味するのは確かだけども、まだ文体の完成形ではないのだろうと思う。冗長性自体がわるいとはかぎらないのだが。というか、情報学だと重要な要素で、寧ろ冗長性が大きいほうが伝達ミスがへって、人々に好ましい影響を与えるだろう。

 皆はそうは思ってないだろうが自分は村上春樹のよいところは文体くらいしかないと感じている。というか、前からそう感じてきている。どのくらい前かというと、高校のころから。自分は高校のとき、義務教育がおわったのであとは自分で好きに生きようと思い、それも軽く書いてるがもっと深刻なレベルにそう思ったのだけども、とにかく、自分はそれで学校のカリキュラムとやらにあまりしたがう気がなく、自分で独学独習をはじめた。そのときかなりの部分を占めたのが、自分が当時磯原にあった はまや書店で適当に本を選んでいて、おそらくタイトルに直感で惹かれたのだろう春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だった。全くゲーム界に親しみのないだろう春樹だけどもネーミングセンスが自分がそれまで大いに親しんでいたゲームの世界に似ていたのだろうと思う。実際に、『ドラゴンクエスト』シリーズのサブタイトルにつかえそうでもある。
 それから、自分はとにかく網羅的に春樹を読んで行ったが、それでも、はっきりいって中身には余り惹かれなかった。いまにしておもうと自分は大哲学者だか大芸術家だか両方だかそれの上のなにかになる最初のスタート期だった気がするので、あれほど勢いがある読書力なり質量なりであったのはなにかしら意味がある様におもわれる。自分以外がそうかはわからないが、普通より勉学に関心をもつ子供というのはその様子が序盤のころから普通の子供と違うのではないか。自分の場合は学校の授業中にも本を読んでいたわけで、今に至るきちんとしたわけがあった。行き帰りの電車の中でも本を読んでいたし家に帰ってきても食事以外は大体本を読んでおり、その様なくらしの仕方はもう当時から確立されていた。だから一般化できるかはわからないが親が勉強しなさい、と子供にいう家庭ってある様に思うが自分は一度もいわれたことがないのだけど、しかも学校が勉強の邪魔してくるから嫌いな理由の大きな一つと感じているほどの勉強意欲がありまくるので、はっきりいって勉強しなさいとか言っても無駄だと思う。する人はするがしない人はしない。向き不向きがあり、向いてない人に勉強なんて進めても全くといえるほど効果がない。そのひとにはきっと別の道がありそっちだったらなにかを頑張って学ぶのではないか。

 単純化してしまうと、普通の学校は集団教育の場合、その集団のIQ100くらいへ最適化してやってしまうので、そこから離れれば離れるほど、浮きこぼれか落ちこぼれになって、合わないという事になるわけだ。

 たとえば、ゆたぼんと呼ばれる人へ学校へ行かせようとする ろこからの伝言さんという人がXにいるのだけど、ゆたぼんなんて学校行っても自分で勉強するつもりなかったらやらないだろうし、やる気になったら行くだろうと思うし、現に行くつもりになった様に見えるわけです。子供の自主性をかなり中産階級的発想というか、小市民根性で、集団教育にぴったりあう様 誘導されたい様にみえますが、おもうに、彼が大学者になる可能性もゼロではないけどね。あなたがいうとおりならならないだろうけどさ。たとえば義公はなった側だった。彼が学問をやる気になったのも、自主的な意欲だったと。お兄ちゃんに代わって当主を継ぐことになってしまったのが、賢明な弟としては嫌だったので、拒絶しても親にききいれてもらえなかったので不良行為をして家の跡継ぎにふさわしくないと示威していたのだが、18歳のときだったか『史記』をたまたま読んでいて伯夷伝のゆずりあいの兄弟愛に感動し、彼も将来、兄の子に家督をゆずることにして、また自分もその様な偉大な気づきをもたらす本を書こうとして勉強をはじめ、『大日本史』を書き始めたわけです。冒頭にちゃんとそう書いてある。当人の書いた短い自伝『梅里先生碑文』でも同じ経緯の記述がある。そしてこの江戸時代前期からつづく正史執筆事業が明治時代まで我々の地域、今の茨城県北部、昔の常陸国水戸でおこなわれていました。その本で、対外公式の中央政府側から語られた皇国史観のもとに大日本帝国や日本国ができたのはこの時の研究成果によっている。義公の向学心のおきてきたところは、疾風怒濤の思春期として迷いのなかにあった当人が、古代の聖人らの知恵なり悌の美徳なりに啓蒙された感動だったわけだ。そしてそのうえに自分も、似た様な恩返しをしたいと考えたらしい。皇国史観がいつまでも使えるわけじゃないし、特に考古学や遺伝学、文化人類学、民俗学その他の発達で歴史観や人間観が変わり、すでに色々矛盾をきたしているから既に古い構造になっているとおもうが、各国がナショナリズムで張り合っていた時期に欧米の植民地侵略を受けなかったばかりかネーションステートとしてひとまとまりの国の体を素早く成したばかりか東アジア一帯から侵略者を跳ね返すこともできたのは、事実上、義公の哲学があったからだと言って過言ではなかろう。まぁ天皇一味が侵略犯と捉えれば幕末西軍諸共ろくなものではなかったが。

 そもそも勉学の意欲の時点でほかの人と違う人がいる。これはプラトンが『国事』(こと『ポリテイア』)で書いた事と関係がある。同様の趣旨で、哲学に向いていない青年にその教育をするのは却って有害という文脈がでてくるはずだ。自分も大体は似た様な感じを受けている。というかそれは青年に限らず、実際は向き不向きの問題で、大人だろうと年寄りだろうと似た様なことと思う。
 たとえばアスペルガー条件と呼ばれる自閉の脳の性質がある。特定の事には関心をもつが、幅広く関心をもつといった事には一般に向いていない脳だ。しかも、論理的な働きには向いている事があるが、感情的な働きについては必ずしもそうではなかったりする事もある。そういう脳のひとたちと自分も一定程度接したので、たしかに、そういう人々にいわゆる哲学はあまり向いていないという風に実感がある。こないだシュージ・ナカムラ氏という人を哲学部に入れたのだけど、哲学部とは僕が個人的に作っている集まりなのだが、ちょっと会話してみて彼には向いていないとわかったのもあるし、すぐ解散した。もうつくらないかもしれない。色々時間が無限に取られる感覚もあったし、そもそも彼は哲学の素人だった。それらも関係がある様な気がするが、まぁ自分がなぜかいきなり物凄く気分がわるくなりだしたので、夜中にそれで気持ち悪いーとひとりでお布団の中で言って動けなくなっていたので、なにか直感にやめておけといわれた様でした。プラトンの書いたソクラテスはそういう直感を天啓と捉え、ダイモーンのお告げなどと呼んでいたのではないか。脳の複雑な総合的機能が、直知ことヌースの形で、なにかを勝手に導き出す。その論理構造はよくわからないが、なにかの真理のこともある。簡単に哲学をやろうとする人には気をつけた方がいい。なんでかというと、哲学の森は余りに深く、その奥で迷わない筈がないからだ。しかもその最奥にいる側が、途中でどうせ一人で進まなきゃいけない様な所を、素人連れてこれるほど生易しいものではないのは最奥の方までこれた人ならしっているはずだ。事実上無理。連れてくること自体が。

 また、哲学という概念は多岐になってしまっていて、「知恵の友愛」なるもともとの意味だと、それぞれの枝分かれの端部が今では科学、知識、ラテン語サイエンティアから英語でサイエンス、こと単に「知る事」と呼んでいたりするけどもどれも哲学ともいいうるし実際言っていたし、途中過程の幹のところとか枝のところも哲学ともいいうる。だから比喩している様に各学問なるものを巨木にたとえると巨大な木全体が、あるいはそれら木々、それら林、それらの森の全体が哲学だ、という風に、彼に説明するのも殆ど無理そうだと考え、自分は諦めたのだろうと思うのだ。或る意味では、このこと、つまり学問の全体像を把握させること自体の説明はかなり難しい、なぜならひとことでそれをあらわす語彙が不足しているからだ。
 ただの哲学なる伝統的用語だけではなくて、総合哲学なり全体の哲学といった概念を新たに導入する必要があると思う。

 たまにラジオ講義シリーズでは出してるが「学術城のたとえ」というものを。その構造はこうだ。その城の門のところには門兵である数学や言語学がいる。下層には兵士がいて自然科学がいる。中層には使いの者である社会科学がいて、本棟と通路で通じている別棟には工学、医学、図書館情報学などが控えている。上層には貴族である人文科学がいる。そしてこれらの上に王座の間があり、そこに哲学が君臨している。
 このたとえでいうと哲学は総合哲学の役割をしていて、城の人々のまとめ役であり、また最終的に命令する側でもある。各部位はなぜその様な作業をしているか自覚がないことが殆どで、飽くまで各科学者らは職人的なものだ。哲学者あるいは総合哲学者なり全体哲学者がそうである様な建築家的なものではない。つまり彼ら各科学者はしいていえば部分哲学をしているにすぎないことになるだろう。
 この意味で、Xにいたナカムラ氏に自分はきちんと
「哲学を専攻するとあなたはいうが、哲学は専攻できる様なものではなく、しいてその様なものがあれば思想史の研究にすぎず、哲学自体ではない」
ということを過去の思想家らの発言録までわざわざひいて教えてあげたのだけども彼は何もわかってなさそうだった。その後も彼はプロフィールに「ギリシア哲学を専攻する」みたく書いているわけで、僕から一体何を言われてるのか理解できてないとみる。どうも語彙の混乱もありそうだから、フィロソフィアの語源から引いて思想史の中での言及箇所にもかなり教えてあげたのに、結局時間が無駄になったともいえる。こういうわけです。教えても学べない人というのがいる。なんというか認知の或る領域が欠けているとそもそも哲学的な認識がされない。だからさきにいったとおりなのだ。プラトンは色んな人々を教育していたはずだ。経験的にあったんではないか。総合哲学には総合的思考といったものが必要だが、その様な知能の特性を根源的に欠いているか苦手としている人がいるばあい、教えたって理解できないということになる。そしてそんな正直いって足手まといの人々の相手をしていると真の総合哲学をやっている時間がだれでもなくなってしまうのだ。教えるは学ぶの半ばなりとはいうが、限度というものがありそうな気もする。

 もともと向いていない事に大量の時間を費やす事が往々にして無益なのはいうまでもないわけだが、ナカムラ氏のばあいは当人がいうよう自閉も重なっており、要するに自己主義というその語の原義のとおり何でも自己本位に考えてしまいがちで他人の迷惑をかえりみない、それは意図しているというより脳の性質によっている、という性質がはっきりとある様にみられた。僕としてはちょっと絡まれて返答してた感じ自分の勉強時間がガンガン削られる様子がでてきたので本当は物凄く困っているのに、というのも彼は普通に高校倫理の履修範囲に入っている知識をしらないで雑談しかけてくるからなのだけど、それをいちいち教えてるなんて、院以上の質を毎日やってきている研究者からしたら時間がなくなるにちがいないわけで、「ちゃんとお金を払って職業教師に習ったらいいです、彼らはそのためのしごとなのです」といってあげたのだが、ナカムラ氏はそれへも「学校教員を信じてない」という趣旨の、的の外れた返答であった。いいたいことはわかるけども。僕が伝えたかったのは、思想史の基礎知識は常識の範囲なので、物の本や普通の大学教授が専門的に教えてもいるのだから僕にきいてもしょうがないということだ。要はナカムラ氏的な、分析的思考には向いているが総合的思考にはあまり、あるいはほとんど向いていないだろう人がプラトン学園ことアカデメイアにも元々いくらでもいたのではなかったか。だからこそ『国事』にわざわざソクラテスの口から語らせる形で、哲学に向いてない人に教えても却って有害だよ、という対話の断片を残したのではなかったか。実際その様な気がする。この部分を書くだけで僕の時間はどんどん削られて本来の哲学に進めなくなってしまうわけだ。

 できるひとはできるができないひとはできない。ただそれだけのことだが、できるひとが圧倒的にできる、という面がはっきりあるのが哲学、ことに総合哲学のしごとなのだとおもう。走り高跳びの選手みたいなものであり、元々できなかったら頑張ってもできる範囲にかぎりがある。その様な飛躍のなかでも、最大負荷の知的跳躍を過去の全科学をまとめた上にする必要があるのが総合哲学という領域だ。

 実際、プラトンやアリストテレス以後は、その種の高みがでてくることはなくて古代アテナイ以外のところへ総合哲学史の核は移って行ってしまった様に見える。そのことは同時につぎのことも示している。ある意味では総合哲学者は才能に依存していて、それが欠けているとそもそも傑出した次元では出現しえないのではないか。昔の日本の村だと、長老というのがいたはずだ。そのひとがいわば総合哲学者だった。総合判断力が最も優れた人物だったはずだ。深い経験則に基づいた、まだ学習不足な人々にはわからないなんらかの知恵がそこにはあったからだろう。いまの神経科学でいう結晶性知能というのが高い状態で晩年を過ごしている人々の中でも、ことさら最も優れた道徳的性質を帯びている人、しかも公知公徳の点で特にそうな人が群れの長になったのだろうとおもう。

 ここまでの話をまとめると、要するに哲学には才能があって、できる人は圧倒的にできるし、ますますできる様になっていくが、できない人は徹底的にできない。特に総合哲学のときその向きははっきりしてくる。だから才能がない人に総合哲学のやりかたを教えても、却って混乱したり、なにか変な風に捉えたりしがちで、カントが次の様言った様に或る意味では教育不可能というばかりでなく、現実に悪影響があるのかもしれない。

哲学は、それが歴史的認識(引用者注、≒思想史)でない限り決して学習できるものではない。哲学では理性に関する事柄について精々、知恵を友愛する様に深く考える(philosophieren)事が学べるだけである。
――イマニュエル・カント
『純粋理性批判』865
 孔子は次の様 言った。
墳せずんば啓せず、悱せずんば発せず。
――孔子
『論語』述而第七、八
この「啓発」の語源が意味しているのも、要はやる気がない人あるいは才能がない人に学問は向いていないということではないか。福沢諭吉も学生で学問に向いてなさそうなタイプには、さっさと商売をするよう勧めていたという記述を全集のどこかで読んだ。僕も一定程度似た事を感じる。色んな人達をみてての感想として。というか、特に愚かなタイプだと、最早、人文科学そのものを否定していたりする。理解できないからだろう。その意義のなかみが実利に適わない時点で、学問の価値がないとみているらしいのだ。理系馬鹿とか理系無知とかいうべき人達なのだけども、その様な考え方を実用主義の一種か、実利主義などとみることができるが、別にそういった理想論だけで全学問がなりたっているのではないことは、「実学」概念で日本の学問を大分ゆがめたともいえる福沢諭吉『学問のすすめ』でもきちんと説かれているだろう。
学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
――福沢諭吉
『学問のすすめ』初編

この箇所で言われている文学は福沢のなかでは明治の時代では後回しにして、といわれているだけで、それというのも、当時は日本が相対的に欧米より貧しく、とりあえず軍事的被侵略の危険ばかりがあったので、会沢安『新論』の文脈でいう、富国強兵を急いで進める必要があったからだ。でも、被侵略の可能性がへったときにもまだ無用だとは彼は言っていない。自分は史学を虚構をふくむ文学から分離するため社会科学にいれるべきだとかんがえているが、文学も福沢がいう修身学こと倫理学とおなじく人文科学の一部だ。
 衣食足りて礼節を知るという様に、心を扱う人文科学は、結局、上層の学問とさきほど自分が言った様に、重要な貴族的分野です。しかも学習順序の問題がここで出てくるが、アリストテレスは(『形而上学』こと)『後自然学』によれば倫理学を第一哲学という呼び方で最も先にやるべきと考えていた様子だし。くわしくは彼の開いたリュケイオン学園11代学長のアンドロニコスがのちヘレニズム時代にアリストテレスの文の整理をおこなって、タイトルのない文を自然学の後に置いたからたまたま後自然学あるいは自然学の後の学と名づけただけで、アリストテレス自身は『後自然学』でかたるようそれを最初に置かれるべきものと考えていたのだ。つまり、全学問で最初にやるべきで最も重要なのが倫理学だと彼はかんがえていた。
 今日の目で一般化すると、アリストテレスがいいたかったのは「目的」の学、つまり目的論というのがより正確で、倫理哲学の上に目的論がある、と彼はみていた、とみていいだろう。アリストテレスの『後自然学』は当人がかなり混乱した様な言い方で、端的にまとまっていない。あとでアンドロニコスがまとめたからもあるかもしれないが、もとが講義草稿にすぎないようで、もともとアリストテレス側は文の上では他人の読み直し前提に手短にまとめる意図がなかったのかもしれない。しかし、私が仮にまとめなおしてみると上記の事だ。要は目的論を語るつもりでそれが善でもある、といっているのです。
 こういう感じで、後世の方が学問用語って一般にふえる向きにあるだろうから、便利な言葉が生まれてきて、ひとことで説明できる範囲ってもしかしたらふえるのかもしれない。そういうことで、目的論は最も抽象性、抽出性の高い総合哲学の議論になる様に思うが、それを突き詰めていくと、アリストテレスは『後自然学』の中ではじめは存在の根源を問うという言い方でタレス的な考えに引っ張られているが、やがては善の考えとすりかえはじめて、いわゆる最高善、最善のものとはなにか、という『ニコマコス倫理学』での議論につながっていく。その基礎づけ思索の箇所が入っているのが『後自然学』と思う。

 僕がここでいいたいのは、最善さについて考察できる、ということは、しかも総合哲学の結果としてそうできるということは、諸知識はなるだけ多ければ多いほどよく、その幅も広ければ広いほどいいので、最も知能への負荷が高いのだとみる。だからこそ、生まれつき勉強大好き人間がずーっと、物凄く長い時間学習を続け、しかもそれが一生の期間にわたっているさなかに、或る見解に辿り着くといったしろものでなければならないはずで、普通の知能の人では到底かなわないのではないか。

 たとえば自分はブログって色々読んできたのだが、しっきー というニンテンドーのゲームのファンだったらしくそれなりのゲーム分析をしていたから自分は結構というか全部読んではいた人とか、やっぱり途中で別の人になっていってしまって、哲学者として大成とかはしないだろう。
 またこちらもまえブログ全部読んだが哲学系ユーチューバーと称する北畑純也も似た様な感じとはいわないまでも、はじめは当人なりに考えているような様子もすこしはあったのだけど、関西圏の反政府チューバーみたいな感じでただの政治家なり右派なりへの日々の悪口チューバーになっていった。あまりくわしくはないが大阪のテレビでは人気があったらしい やしきたかじん のネット版だろうか。
 あるいは自分はかれのブログも全部よんだが、みずから高等遊民と名乗って、覆面で哲学をかたって写真家の糸崎きみお氏にソクラテス解釈で誤った知識で馬乗りしていた某チューバーの人。彼は思想史にかかわる修士号らしいものを、そのXでのやりとりのとき僕がみていたら周囲に大層自慢していたが――自分は納富信留氏の講義できいたが実際にソクラテスが最初の哲学者とする考えも国際かつ伝統的にまえからある様子なのだが、高等遊民と称するその人は単なるアリストテレス『後自然学』の記述による「タレス」が最初の哲学者と殆ど断定する様に言って憚らず、糸崎氏のソクラテスが最初の哲学者とする解釈を一概に知識不足かのよう否定していた。糸崎氏がしていたプラトン解釈によるソクラテス貴族精神を引用しての匿名卑怯者批判へ、その論理を高等遊民と称する人は言論弾圧対策とすりかえ、年上の糸崎氏を不敬にも学位に驕ってかなり小馬鹿にしながらXブロックして、逃げたみたいだった。教えてほしいなら金払えとかいって。間違った浅学な知識でもわざわざ年上に教えるつもりなのだろうか。ユーチューブの動画などでみると、こちらもどうも関西の、山背市こと旧京都市あたりに根城があるというか、知己がいるひとみたいだった。おおかたそのあたりの私大かなんかをでて何かを勘違いし、スノッブごっこをしていればそれが哲学とでもおもっているのかもしれない。ある意味では平安時代から相変わらずでお話にならない。それは『徒然草』で吉田兼好が書いた信濃の前司行長こと藤原行長と推定されているひとが当時の山背政界で実務と乖離した虚勢と感じただろう様な、ただの年頭月尾をあげつらう教養俗物仕草にすぎないからだ。結局その後の様子でも、高等遊民と称する彼は、自分がみていたら再就職前提に顔をださず金儲けしたいだけみたいだった。また彼のばあい動画は結局は、古典的で有名な思想史の紹介チューバーにすぎなかったみたいだった。つまり、糸崎氏がいう「哲学的内容の批判、真理の探究とは実践と一致したものでなければならず、それはプラトンの書いたソクラテスがいうよう善の理想に一致しているはずだ」、という知行合一の指摘へもともと真摯にこたえるつもりがないのだ。しかも思想家ともいいがたい。目的なり志なり仕事なりがある水準からはるかに劣っているか、もともと実態のないものだからだ。高等遊民と称する人側は思想史上は当人の考えといったものは殆ど見受けられないのでその思想家としての文脈ではほぼ完全に無あるいは雑魚と言えば雑魚だが、哲学的あるいは対話術的に、動画で自分の思想をアート哲学と称し語っている糸崎氏側の動機には、ユーチューバーとしての偽思想家もどき、しいていえば思想史紹介者への人気にねたみもあったかもしれないとはいえ、在野哲学者としてまともな指摘をしていたともいえるので、高等遊民側は論理をすりかえたり中途半端に誤った知識にもとづいた虚栄心に耽っての見下しがてらの侮辱罪をきちんと糸崎氏へ謝るべきだ。彼は絶対にそうしないだろうし、彼の人間性の低さからいって、絶対にそうできないだろうとはおもうが。そもそも表面上、最近厳罰化された法律でそうさせたとしても、思いやりなり他者理解力なりの大幅な欠如や生まれ持っての攻撃性からきた性悪自体はまず治らない。
 呆れたし気分悪くなるから、特にあと2名のその後はあんまみてないけど。下品すぎるとおもう。
 彼らは金儲け作業あるいはビジネスこと忙事におちいって、総合哲学自体をするつもりはあまりないらしい。だから哲学者の偽物ということなのだろう。タレスの投資伝説から何か学ぶ事はないんだろうか。むかしそういう詩を解く忙事に耽るひとたちはソフィスト、日本語に直訳すると知恵者といっていたのだろうとおもう。今となっては皮肉な意味だが。

 さらに上の世代だと、賠償金踏み倒しで亡命しているただの悪漢とも考えられるひろゆきとかがそこに該当する。長期推移を弁えると茂木健一郎以下の東大閥、に該当者が多い気がする。具体名をあげると、東浩紀、三浦瑠麗、落合陽一、古市憲寿、成田悠輔、斎藤幸平らだろう。端的にいえばメディア知識人といった分類の人々だが、総合的な判断力の高さとか、道徳性で特に名を知られているのではないわけだ。むしろ炎上商法とか、話題作りの派手なふるまいとか、御用学者しぐさとか、ソフィストと言いうる様な詭弁術で言動が満ちみちている。彼らの個別の思想内容への批評はラジオ講義でたまにやってるけども、斎藤がそのなかでも最近のひとかもしれないが、環境問題をいいわけにした新マルクス主義者にすぎない。彼については特にラジオ講義で一回分つかってくわしく論駁してみたが(2024年2月4日『斎藤幸平批判及び現金の需給合理性に基づく基礎所得擁護論』鈴木雄介第三講義)、搾取の理論は現時点の資本主義あるいは主要経済学説でとうに否定されているとおもう。2024年1月19日の『等価交換説』というのをその為にわざわざブログにも書くしかなくなった。一種の僕の憂国の情による斎藤幸平批判なんだろう。大衆媒体での有名さと、哲学的能力の実態は今の日本でも、明らかに乖離しているとおもう。

 他方Xなどにあふれている普通の人というか常人、凡人も、日々のくらしでなんとなしには考えているかもしれないし、それはそれである種の哲学が含まれているかも知れない。文学が扱っている範囲にはそういった民俗学なり民話、民衆の中にある素朴哲学といったものも沢山含まれていると思う。しかももしかしたら、老子式の反逆哲学でいくと、系統的な思想史をすっ飛ばし、経験で生きていた、また経験で広く世間を知った人の結果としての悟りのなかに、真の知恵が含まれているかもしれない。だから舐めてかかったり見下したりすべきでもないと思う。『論語』の最初のほうで、いきなりその趣旨が出てくるのはその為でもあるのだとおもう。

子夏曰「賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交言而有信。雖曰未學、吾必謂之學矣。」
――『論語』学而第一、七

子夏(しか)がいつた。――
「美人を慕う代りに賢者を慕い、父母に仕えて力のあらんかぎりを尽し、君に仕えて一身の安危を省みず、朋友と交つて片言隻句も信義にたがうことがないならば、かりにその人が世間に謂ゆる無学の人であつても、私は断乎としてその人を学者と呼ぶに躊躇しないであろう。」
――下村湖人『現代訳論語』学而第一、七
次回に続く。

東西原発政策の明暗

これからは関西と九州の時代。原発が動いているので電気料金が格安。経済活動が活発化していくでしょう。逆に自然エネルギーを基軸電源にするという非科学的な知事に支配された地域は、今後衰退が必定。政治家が科学法則を変えることはできません。
――掛谷英紀

目先のカネに目がとられる西日本
東電事故をみてカネめはさておき深慮する東日本
もし神がいないなら無反省な掛谷英紀氏のいう様
福島難民の心を踏みにじる非人道的な西日本を恵み
福島難民と共にいる人道的な東日本を陥れる事だろう

君子は義にさとり、小人は利にさとる。
――孔子
『論語』里仁第四、十六

虚栄の物の怪

金満親子のごとき偽のお花の化け物像 財政破綻危機市民税で造られ 和風庭園には場違いに見えるフランスの高級鞄上へ不気味に屹立す 寧ろ可愛くも美しくもない  お間抜けに大口を開けた大愚然とした顔で二体が宙をぼんやりと眺めてゐる これが市民の驕りとで云いたげな姿で 不吉な金閣寺の様に

2024年3月12日

無謬主義の誤り

自分が信じたい事だけ信じる人は、どれも完璧とはいえない信念に反する物事から進んで学ぼうとしない。そのため真実やより優れた考えから益々遠ざかり、結局、凡そ全判断を見誤っていくだろう。なにも学習しなくとも満点の人はまずいない。自滅する人は端から、その種の誤りの正当化をくりかえしていた。

幸福追求権についての議論の前提

今回書きたいのは、幸福追求権について。そもそもこの概念は思想史上かなり前から色々考えられてきていて今更いうまでもなく、哲学の中心課題の一つでもあった。幸福をどう定義するかというのは必ずしも簡単な話ではなかったわけだ。色々な意見があったと思う。

 他方で自分はラジオ講義の一部で言ったが、この幸福という言葉が快楽とよく混同されているとした。だから幸福は単なる快楽と分けて定義すべきだと。似た事を言っていたのがアリストテレスだ。彼は価値を低い次元から有用さ、快楽、幸福と定義していた筈だ。彼の場合、快楽はそれ自体としても望ましいが、時として何かの手段にもなるもの、とし、幸福はそれ自体が目的なものとしていた筈。だが自分は幸福の定義をそれとは変えた。自分の場合は快楽は利己的なもの、幸福は利他的なものとした。相利性についてはこれらの中間にあるともいえる。例えばカントは仮言命法という概念でこれら利己と利他の中間の相利性について語っていたが、自分の考えかたの場合は、相利性を快楽と幸福の中間にあるものと見る事ができる。で、そう定義してみると、幸福は他人の為になる事を意味しており、今の一般的な人が考える幸福の定義とは違っている事になるだろう。

 さらにたとえば或る人が一生の間、快楽追求で優れていたとしても、他人の為には全然なっていなかった時、その人を幸福な人だ、と皮肉以外の文脈でいえるだろうか。自分はそうはみなせないとする。寧ろ当人が苦痛にすぎなかったとしても、つまり自己犠牲ほど利他性に心がけていたとしても、他人の為になっていればなっているほど、それも先日『性格の科学』という小論で書いた気がするが質の高い利他性を啓蒙すればするほど、つまりひとの望ましい社会性である道徳性を啓蒙すればするほど、当のひとは幸福にあたいする、とわたしは考える。このあたいする、という表現が重要で、幸福自体を快楽と混同している場合、人は一体自分が本当にしあわせなのか分からなくなってしまうという性質がある。なぜなら快楽は過ぎ去るものだからだ。ラッセルが『幸福論』で、あるいはその中に引用してあるミル『自伝』の幸福観について、「幸福を追求すればするほど却って幸福がわからなくなるので、幸福になるには幸福についてかんがえないことだ」などと、あきらかに定義の否定でしかない同語反復で思索が堂々巡りし終わってるのはその箇所と自分はみている。今の神経科学でわかってる範囲だと、オキシトシンだのβ(ベータ)エンドルフィンだのが出て一時的な多幸感みたいなのがえられたとしてもそれは麻薬中毒じみたものでしかなく、賭博に嵌った人みたいなものでいつまでも効くわけではないから同じ刺激を求めようとしてしまったりもするわけだ。ところが快楽の過ぎ去るという性質を前提に考える限り、人は快楽追求動物としかみなせなくなり、本質的に麻薬中毒者と幸福な人のあいだに差がみいだせなくなってしまう。だが本当にそうだろうか。客観視するかぎりでは、麻薬中毒者を幸福とは考えられないだろう。それは当人達がある嗜癖を快楽だと感じているだけだ。しかもその快楽が同時に悪い快楽だった時、当人の人生を根本的にむしばんでしまう。この点に、現代文明の一部、殊に麻薬中毒者が多い様にみえる欧米社会の、致命的落ち度があるわけだ。自分はそれをみぬいていて、だからこそ幸福の定義を決定的に革新する必要があったとも、結果としていえなくもない。もしかしたら直感的にそうすべきだとみたのかもしれないが、とかく、快楽自体でないと幸福をみたとき、我々はひとの為になる事、特に自他の道徳性を高める様なおこないのうち、最も高度な幸福を、自己犠牲をはかっても利他性を追求する事にあてがわざるをえなくなるだろう。このことをカントは定言命法という概念で説明していたわけだ。

 僕の思想史上の仕事は、今までラジオ講義シリーズ3講やってきたのだけども、そこに大体は詰まっている気がするが、このきのうからちょっと始めた随筆シリーズではそのわかりやすい解説みたいな感じも入るかもしれない。昨日も『これまで生きてきた感想の一部』で少し言ったが、口語だと細かい陰影をつけられるから、文語と違ってその点に凄く情報量が多い所もある気がする。同時に、文語の方が確実によみとれてかつ確実に見直したり引用し直す事ができる、という長所もある様に思う。あと保存性も高いし、自分が口語ラジオやった感じ、あれマイクの性能にかなり依存している。自分は近所のケーズデンキのワゴンセールで千円で割引で売ってたエレコムのやつを肩にかけられる様に自主破壊しながらというか半分ぶっ壊して改造しながらつかってるわけですが、それだと完全にいい音声とはいいがたい。大体、自分の声をきくのが一般に人はいやだろう。この現象は名前がまだないみたいだが、自分の声が他人の声みたいにきこえて、それが嫌なのだろうと思う。自分の声を自分で生で聴いている時は頭蓋骨などに響いているので別の音にきこえる。それと違うから慣れないと「他人の声現象」が発生する。

 今AIにきいたらその頭蓋骨とおる音を骨導音(コツドウオン)、空気を伝わる音を気導音というらしい。骨伝導音ヘッドフォンもってるけども。骨伝導音でも同じ? と重ねてきいたらそうだって。

 それで。
 幸福論だが、幸福を利他性と定義した自分のしごとは、思想史に照らしてみると、アリストテレスと少し似ているが、カントの定義した仮言命法と定言命法を別角度から再定義したみたいな面があるとみる。そして今述べた様にその意義の一つとしては、快楽追求を利己的に行えばよいとみなす功利主義の欠点を克服できるところだろうとみる。
 この場合、功利主義はおもにベンサムとミルのしごとを呼び、つまり大雑把にまとめると最大多数の最高幸福を生きる目的とみる世界観をさす。そこで幸福とされているのは快楽の総量かつその質だということになっており、自分の考えとは違う。それは自分の定義では、幸福ではなくて快楽にすぎないからだ。
 また、米国で生まれた実用主義の範囲にも、この功利主義の系譜は流れ込んでいるとみなせると私は思う。というのも、デューイが言った幸福の定義は成功で、道具的知性を使って民衆政治という米国の信じる政体にかなう人格を成長させていった末に自己実現をはかって達成されるもの、とみているが、その内部には利己性と利他性の混同が入っているからだ。デューイらの民衆政治の定義も、大体がアリストテレス『政治学』の定義とはずれているので、慎重な議論を要する箇所かもだが、ひとことでいってしまえばデューイは功利主義の上に彼の思想を接ぎ木したのだといっていいと私はみる。なぜなら快楽の最大化をはかる組織の形としてしかそこで民衆政治の型は考えられていないからだ。英米はこの様に国の理想乃至うちがわの計画で通底している面があり、今の地球人類の秩序にとっては共犯または盟友ともいえる。
 しかし、自分は今言った様に、英米圏のその様な考え方をとらない。実際、英米の人々に日本より麻薬中毒者が多い、という統計は厚労省の報告書にある様だ(「主要な国の薬物別生涯経験率」による。厚労省ホームページ、現在の薬物乱用の状況より引用)。

 で、幸福はその様に定義するとすると、元々なぜこの国では今の様な退廃が広がっているかがわかる。それは英米思想の侵入によるに違いないのです。深刻な問題だ。英米化が進むと色々似てくる。いい面も、もしかしたらあるのかもしれないが、というかGHQの間接統治後、人権思想の憲法入り、反証や実証、仮証を含む科学的精神の本格導入や合理主義要素の強化にみえるところなど、天皇全体主義下で精神論が栄えていた日帝時代に比べましになったともいえる面は当然あるが、悪い面もある。
 先日さきにあげた随筆のうちで関西圏はどうも色々終わってんな、と感じたと言ったのも、それは時代遅れ感が凄まじいからだ。多分本当にそうなると思う。僕の直感は驚くほどあたることが異様に多いから見てればいいと思います。なんでそう感じたかというとね、アヅマエゾがぁ~とか言ってきた男がいたのよ。アヅマエゾなりアヅマエミシ。あのさ、色々時代遅れどころじゃないじゃん。しかもさ、おれの所エミシとは定義されないしね。あとでくわしくいうけど、ムツこと朝鮮語で古代関西人なり関西移民が言った道の「奥」の国じゃなくて常陸国(ひたちのくに)だからさ。古語の意味すら分かんなくて適当に古語を引くなといわれてもしかたないとおもうけども。勿論エゾよばわりのばあいは普通にアイヌ差別で先住権侵害だろ。エミシよばわりのばあいでも東北人ないし縄文人系統への種族なり民族なり文化差別だけどね。あと色々つっこみどころがあるのは、中国思想を借りて四夷の概念に基づく東日本人差別のつもりなら、つまりその男が住んでいるらしい自称京都を中心とみた小中華思想の主張のつもりなら、関東人を指したければ単に東夷といえばいいんだよね。音読みでトウイか、関西弁でアヅマエビス。それ先住日本人にあてて、おもに任那や百済あたりからの朝鮮移民だったかおもに弥生人系統との混血であった関西人が言っていた蝦夷とは事実上別概念でしょう。かさねていうときもわざわざ東蝦夷とはあまりきかない。蝦夷のなかでさらに東西南北分けて言う必要がその東日本丸ごと差別目的で、いちいちあるのか。単に、語彙がわからないだけだろう。中途半端に意味も分からない古語をつかって知者ぶるからこうなる。しかもさ、それ中国から日本も言われてたのだしね。だから自称京都は「小」中華思想なんだけども。更に厳格にいうと自称京都版の小中華思想かもしれんけど。例えば朝鮮王朝あるいは李氏朝鮮も小中華思想だったしね。もっといえば、その中華思想もどきなりそのまねごとによれば、今の京都って東京だしな。天皇の華夷秩序とみたときは。でも、そんなの信じてないしね、こっち。だって中国じゃないもの。少なくとも僕は全く信じていない。この部分も更に厳密にいうと、水戸学は天皇中心主義を採用していたかもしれないが、それは江戸時代から明治時代まで水戸の徳川家の統治下で旧水戸藩なり常陸国の侍階級の間にはぐくまれた過去の思想で、戦後の平等権の成立後は必ずしもそうでない、あるいは別の思想の人々が統治権をもっているともいえるし、『日本国憲法』で国や国民統合の象徴と定義されている天皇は、中心とはいわれてないわけで。地方自治法の解釈として、東国原英夫衆議院議員への国会答弁で、新藤義孝国務大臣(地方分権改革担当相)が国政と都道府県政は上下関係では以前からないとも言っていたし(第183回国会、予算委員会、第3号、平成25(2013)年2月8日金曜日)、要するに天皇の中華思想なんて、神道信者の一部しかあまり信じていないだろういまや。昔から信じてなかった人は大勢いたとおもう。やはり、旧京都こと山背は僻地状態で、時代錯誤な人が居残ってしまっているというべきだ。相変わらずの平安京意識で。

 東蝦夷と書いてアヅマエゾかアヅマエミシとしか読めないわけよ。もしかしてどこかの文献だったら蝦夷だけでエビスと読ませてたかもしれないけど、一般的読みではないと思う。そのあたりで古語くらい自分で学問すればいいのにな、と感じるわけです。違うか? しかもそれを平安京ができるかなりまえの『常陸国風土記』の本国人に改めて千年こえて思われるとか憐れ極まる。もうさ、完全に虚栄ですよ。自称京都人。途中ででてきたにわか勢でわが国古典の教養がまるでないといってもいいくらいなのに、上流ぶる。しかも自称貴族の血統でもないだろうし。ただ現地にいるひとでなければ逆に恥ずかしい。現地上流はほとんど東京にきちゃったわけでね。きたらきたでいわゆる華族と称しだして身分制度を継続してたし。しかもそれも自業自得だし。徳川家は江戸にきてネ! なんていってねーべ。西日本やくざが徳川埋蔵金というかね、徳川家の統治機構ほしさに江戸城へ強盗にきたんだべ。すべて因果応報でしかない。しかもその後、函館くんだりまで攻め込んで、罪なき人々を大量虐殺したしね。西軍。陸なもんじゃないよ。天皇もだけど。

 まぁとにかくね、もし東蝦夷と書いたら、それはアイヌのうち東部の人々って意味か、おもに東北圏の先住人のうち東側の人々みたいな意味に一般になる。だけども、常陸国は一般には蝦夷という定義に古典的には入っていない。自称京都ができるまえから大和国の朝廷が編集していた風土記にちゃんとそう書いてある。だから俺の近所のところに勿来(なこそ)の関というのがあるわけだ。くるなかれというのは当時の朝廷権力がつけた名前に違いない。勝手に侵略にきておいて、先住人いじめをやって自己中にも北から南におりてくるなとかいっていた。だからそんな名前にしてんです。その南側にいるわけでね、私。だからアヅマエミシですらない。しかもさ、こっちからもし中華思想でみたら自称京都人ら、古代の南朝鮮移民こそニシのエビスとなるわけじゃん。西の野蛮人には西戎(セイジュウ)という概念があるんだから。でもそんな中華思想まねてない。野蛮なのは民族差別する側なのだから、その意味では関西の方が、過去の中国と同じく、かねてより東日本より野蛮だとなりますわ。しかもまったくもって伝統的に。この意味では天皇一味は亡ぶね。馬鹿だもん。中華思想なんて真似てる時点でどうしようもないじゃん。その後はさ、イングランドら西洋王室の名目王政をまねてるじゃん。何度もいうけど全て自業自得と思う。我々はそんなのまねろなんて思ってないもん。この議論はラジオ講義の中でかなり詳しくやったのでやめるか。かなり詳細な議論が必要になりそうな気もするというか必要だ。新水戸学とその脱構築、いうならば脱水戸学か後水戸学で語ったわ。第二講義の終わりの方だった気がするが。脱水戸学か後水戸学っていえばよかったのか。まぁいいや。
 まとめていうとね、水戸学は尊王論の体系だった。正確には愛民論の側面もあったと言ったはず。儒学の仁政要素、いわゆる徳治主義を抽き出し純化して、神道と結合させた。つまり、尊王愛民といった色彩だった。因みに細かくはソンノウとよんで文字は尊王、王を尊ぶソンオウを尊皇、皇を尊ぶソンスメラ、と書く時もあるが意味しているのは同じ事だ。尊王攘夷論のときに歴史哲学の「尊王」用語を中国の春秋時代の尊王攘夷から借りただけ。しかし、自分はそれを批判し、そもそも『魏志倭人伝』(『三国志』30巻、魏書30巻、烏丸鮮卑東夷伝)や『日本書紀』あるいは鏡などの出土品によれば天皇以前にヒミコがいた様子だし、天皇家にもたさられたのではないとみられる漢委奴国王金印もあれば、先住権をもつ縄文人やアイヌや琉球人あるいはウチナーらは先住権を巡る統治権ももっていたはずなので、木簡の記録によると天皇と称する一味が出現する飛鳥時代くらいからヤマト国は乗っ取られたと言っていい。ちなみにいわなくていいことかもしれないが敢えていうと邪馬台国をヤマト国と読めるといってたのを自分が初めて確認したのは極右活動家の桜井誠氏だった。ラジオがYouTubeにでてきたことがあったので聴いてたら言ってて、一理あるとみられた。幾ら政治的に憎悪表現が多くてまずい人だとしても、学術面での貢献があるとすればそれはそれで認めるべきなのかもしれないのではなかろうか。ヒトラーの絵だって我々は知っているのだから。前衛絵画に対しては貢献といえるまでではないのだろうけども。桜井氏の憎悪表現をかばっているわけでは寸分もない。ただ、邪馬台国をヤマタイ国と読むというのは明らかに悪意ある曲解といってもいいのではないか。どこで始まった慣行なのかわからないが、素直に読めばヤマト国なわけである。こういうと、天皇家には不都合になってしまうから、つまり神道神話と矛盾をきたしだすから、といっても『日本書紀』辿ったらちゃんとヒミコって女帝なり女王なりがさきにいたみたいに書いてあるんだけど最初のほうに(『日本書紀』9巻、氣長足姬尊 神功皇后)。でも、その系統とは天皇の先祖は違うよという書き方にされている。だからこういうわけだ。神道という宗教教義はぬきに、ただ考古学の目でみなおすと、ここに新たな仮説をたてるが、ヒミコってのは日の御子のことで、ヤマトの国の女帝だったのである。そのひとかそのひとの系譜がなんらかの政変で倒れて、あるいは倒されて、あとから馬乗りしてきたのが天皇家の先祖だったと。ヤマト国はこの意味で2つあるかもしれない。前期ヤマト国はシャーマンあるいは巫女の女帝が治める国で、そのおさをひとびとは日御子と呼んでいた。後期ヤマト国はのち天皇家と名乗る一族が乗っ取ってしまい、前期ヤマト国の伝承をおおかれすくなかれ上書きで消してしまったのだ。この仮説を「ヤマトの国天皇乗っ取り説」「ヤマトの国前期後期説」としておく。このあたりの消息は、考古学の発展でよりくわしくわかることになるとみる。そうすると、前期後期よりもっと細分化してわかるかもしれない。遺伝学とかほかの側面からも確かめていくと、漢委奴国王と呼ばれていたのがどこの勢力だったのかもわかることになるだろう。前期ヤマト国がどこにあったのかはいまのところ北九州説と関西説がある様子だが、どちらかか、もしかしたら別の場所だったのかもしれない。
 たとえば自分のいまあげた仮説と違うのが、前期ヤマト国を偽王朝視しようとした本居宣長の説だとみることができる。それは天皇の王朝を神道神話にもとづいて正統視しようとしたことに加え、本居の生きていた当時すでに義公らが古墳発掘をしていた水戸学派側とちがって考古学が未発達で、直接の証拠を参照しなかった実証研究の怠りだけでなく、当人も文献学をおもとしていながらに次の確認を怠ったので出てきた彼個人の信仰と史実の混同による謬説とみられる。日本列島にはヒミコの系譜が明らかにあったのに、又『日本書紀』にはっきりそれを参照に書いてある箇所があるのに、つまり前期と後期で分裂あるいは襲名した2つのヤマトの国の系譜があるのは奈良のヤマト国で『日本書記』を書いている側にも充分認識されていたのに、本居はそれを偽王朝視して、史実といえるだろう点が示している外国側の文献記録との整合性を神話上の存在への注釈でとろうとした後期ヤマト国側の言い逃れをうのみに、真実を見逃したのだろうとおもわれる。シャーマンたる相続形式として前期ヤマト国と断絶があるからこそ、『日本書紀』では倭の女王ことヒミコを天皇の先祖と同定していないのではないか。そのことは、後期ヤマト国の統治正統性の根拠づけに、神話のかたちで嘘を書く側には不都合になってしまい、結果、別の王朝だということにして、本来はさきに別の王朝が外国からも承認をうけて統治正統性を帯びる前期ヤマト国を支配していた事実をごまかしてしまったのである。したがって、のちの明治時代、岩倉具視が明治時代の1867年『王政復古議』で定義した万世一系こと男系相続ルールは、奈良時代の701年『大宝律令』のち757年『養老律令』継嗣令(書庫)での女系相続可で必ずしも長子相続ではないもとの天皇家の勝手に決めた相続ルールをぶっこわしており、しかも、それ以前に、彼らの世襲統治はヒミコ王権を否定している乃至別系統のものにすぎないのだから、もともと正統性がないことになる。さらにいえば、アイヌ、ウチナー、縄文人やほかの弥生人、あるいは古墳人らと異なる地域で異なる王権を勝手に名乗っていただけとみなすこともできるので、奈良地方の世襲政権が日本列島単位で唯一の統治正統性をもつ、とした義公・烈公・慶喜公ら水戸学あるいは旧水戸学の考え方は、本居も同時代人として或る程度似た考え方をしていたが、尊王論の系譜のなかで、当時までに知られていた考古学の知識で一生懸命考えはしたのだろうが、今となっては奈良時代の神話にみられる虚構まじりだろう記録以前のさらなる古代の、史実としての知識不足に足を取られて、統治正統性の根拠を見誤ったとみなしてもいいといえるのだ、と私はラジオ講義で嘗て言った。
 いづれにしても神道神話はその時点で考古学と矛盾した点が含まれるので、史実とみなせない面がやはり多い。いわばジョン・ロックの『統治二論』を現時点で335年遅れで直接援用してみると、天皇権力は神から与えられたものではなかったのだ。当然と言えば当然だが日御子が先にいて統治をしていた形跡がはっきりある様子なので、その人を先祖としていない神道神話は、統治正統性の根拠として、明らかに偽物なのである。

 幸福論から派生して新水戸学の領域まできてしまったが、更につづめていうと、というのも文字にするとこれ大変なのがわかったわ。口の方が手早くいえるね、なぜかはわからないけど。でもさ、文記録でもなにか残しといた方が確実だろうね。あの音声記録を直接書き起こす人がそんなに多くいるとはおもえないし。だから書いたけどさ、口語ではさらに詳細に議論していったのだネ。そんでさ、僕も最北端の北茨城市ではあるけども一応ひたちこくの旧水戸藩とされている領域のひとだからさ、その考えは新水戸学と定義されてしかるべきなのかもしれないと私はいって、その新水戸学なるものはこう結論づける。かなり詳細省くけど。天皇は統治正統性の根拠がもう失われているのだから引退してもらうしかないが、そのとき旧京都に帰ってしまうとまた復権を狙って、政治権力と一体化してしまうだろうと。だってそれで向こうだと千年はやってきたのだから。旧京都市が天皇一派と葵祭とかやって箔をつけたいだけじゃなくておもいっきり先祖がえりして、また全国を見下しだすことになるに違いない。だからこそアヅマエゾがぁとかどうみてもヘイトスピーチ規制法に抵触する憎悪表現をXでやってくる、時代錯誤男が現にいたのですよ。Xで「東蝦夷」で検索してみたらかなり出てくるからわかると思う。京都中心主義による東日本人ヘイトへの、僕のやった手厳しい批判ポストもでてくるだろうけどさ。関西圏の人々、特に今の京都府あたりの連中が平安時代から令和時代までまーだヘイトスピーチやってるのである。時代意識が千年は遅れているのが事実なのだし、大体それ以前には彼らは日本にはいなかった人達なのだ。南朝鮮の政変で亡命してきた流刑民が本国から追放されるレベルの悪事だか失政だか喧嘩じみた戦争だか政争だかをなかったことに、丸で自分達こそ日本人みたく過剰適応ごっこで、先住系の日本人を散々おとしいれる、いつもの構図ね。その悪い仕草を千年も継続し続けるとか根性のねじ曲がり具合はただごとではない。
 全球的にはオーストラリアも大英帝国の流刑地だった。佐渡島も流刑地として有名なところだけど、昔、愛媛県の松山あたり出身のホイチさんという人に、「四国は関西の流刑地だったから悪い人が多い」みたいな事をいわれた。ホイチ氏のその種の単純思考は、最近までXで、彼が「精神障害者分類の人々は凶悪犯が多いから社会的に隔離すべき」とどうしようもない主張していたり(それを差別あるいはナチズムと呼ぶ)、司馬遼太郎の小説をうのみにしている様子から明らかに水戸藩の人々に偏見をもっていてアメーバ・ピグでの初対面でそのひとりだろうみたくそんな藩もうない上に当時僕の母方はそこの最北部の街道沿いの小売商店主だったのだけど、地域民族差別じみた文脈でいきなり侮辱してきたり、色々思考に片寄りと、たとえば慶喜公が父祖から代々訓示された尊王の大義の為の自己犠牲の真意を到底理解してなかったり、随分貴いだろうもの、あるいは貴族義務をも下にみがちな癖があると自分にはおもわれた。それでわが品位にもとると感じたので、アトリエ観てみたいみたくいわれたけども、現実の友達にはならなかったのだけども――自分が客観的資料にみるには少なくとも江戸時代前期から水戸藩単位で有為な学者を集めてきたまじめな地域性が、茨城県になってからもつくば、水戸、大洗、日立などを拠点に相変わらず続いている様に思うしそれが「人口あたり研究所数」偏差値が85.76と一県だけとびぬけている最大の特徴の一つと思うのだが(書庫)、彼は虚構のなかでそんな集団を陥れる様な偏見にみちた何かを読んだらしく、そう正面きってまともには全然捉えていない様子だった――。まぁとにかく、ホイチさんは自分が一度しか行った事がない四国について少々語っていた。自分はしかもフェリーに夕暮れごろのって対岸に渡って、厳島神社とそこからもといた夜の神戸の街並みや道端をうろつく鹿をみたら、『平家物語』のなかの源氏がたよりずっとすぐ去ってしまったのだが。20代前半の頃、一人旅で行った時以来あまり縁がないその四国の人として、彼は愛媛人のあいだで色々いじめられてきた様子だったで本当に関西流刑地感を彼としては感じているのに違いないのだが、勿論そこには極論はあるとはいえ、豪州の白豪主義的な要素が皆無ではないともいいきれないかもしれない。流刑された人々がもたらしたなんらかの影響がまったくないとはいえないとおもう。それは関西地方に、白村江の戦い以来の任那・百済移民がきて、明らかに渡来文化の影響が残っている事と同じ構図とおもう。このことは今後もとても重大な問題になるとおもうから絶対に言及するかいがある。というのも、今後の地球はますます異民族間の交流が盛んになっていき各地に移民町の様なものができあがることになるだろうからだ。そこにきた元の邦(くに)の影響が確実にのこる。このクニという表現だが、今はネーション・ステートの意味で使ってる事が多いが、もとは「お国柄」みたいな文脈に意味が残ってるけど、ふるさとのサトという概念に近い意味でつかわれていた。水戸の徳川家の今のご老公が講演でこう仰せになっていた。藩って言ってなかったと。本当はクニといっていたらしい。ヒタチのクニ、ミトといっていたと。江戸政府の御三家、こと天下の副将軍がおっしゃるのだからそのとおりなのだろう。廃藩置県の前に版籍奉還というのをやった。どうもあのときにうまれた地域名なのかもしれない様子です。日本史の普通の教科書だと常識的に「幕藩体制」とか書いてあるが、お殿様のもっている文献記録とか家の中での言い伝えからすると違う様子なのだから、歴史学者がまちがってるのかもしれない。そのうち教科書から、その用語が出てきた時代も誰が言い出したかもばれて、消えるかもしれない。

 で。
 もとの話の筋にもどるが、新水戸学と称して私がいわんとしていたのは、天皇引退後どうするか? という話。その話をしてたのは1年から1年半くらい前かもしれないが、当時想像できるかぎりあらゆる角度から色々検討した結果、尊王の聖地といえる水戸で一般人としてお暮らしになられれば、誰も責めないのではないかというものだった。そしてこのことは既に請願法を使って皇室に自分が建白した。自分の仕事の速さが分かりましたか? 自分は講義で言った。ヘーゲルの名言を脱構築し「磯原のセミは夜明け前に鳴きだす」。セミはヒグラシだからヒグラシでも可。先憂後楽のいいかえ。自分は仕事は速い気がする。しかもね、10年以上落ちのおんぼろPC使っててそれ。だから最近、最新PCにかえようとしてるのね、そしたら仕事の速度が千倍以上ははやくなるとみている。今年から来年までにはそうなるだろう。どうせウィンドウズ11に移行するしかないので。自分は物を修理しながら大切に使うみたいなのが好きなので、本当は何度も直しながら永遠に使いたいわけだが、インテルのCPUの、またはTPM2.0のついていないマザーボードだとそうはいかないというところがいまある。それらが瓶首になって、アップデートはかれない。誠に残念なウィンドウズ11のデフォルト・インストール設計。だからできあいのを買うのだとダメなんだなともうわかっている。メンテナンスを長期的におこないながら自分で修理し続けて使うのを前提にすると、僕がいまつかってるDELLのPCだと、特にインテルCPUのだと根源的に無理があった。英語圏で色々検索してみたのだけど似たこと言ってる人をみつけたが、充分つかえてるのにTPM2.0マザボ有無問題で強制引退させてくるマイクロソフトの方針はいかがなものかと。でも、この点をかえりみても、パーソナルコンピューターには文字通り、個人のマシンとして生き方が現れる気がする。

 とりあえずここまで書いて思うのだが、この口文一致随筆シリーズは、冗長になる傾向はあるが、あのね、およさんという人にXでなんか応援されたのだが、なぜか通知でてなかった。通知きったからかもしれない。通知はね、きっといたほうがいいかもね。長らく色々試行錯誤したが気が散るので。しかし切ると応援にすら気づかないことになる。でもつけとくと議論したところで敵意しなかく愚にもつかないそしり系のか、一々がっかりしかしない釣り系のが頻繁にでる。ちなみにクオリティフィルターはつけといたほうが、そしり系アカウントの通知が内部で減点式かなんかでマークされてるのか、そもそも出ないのでラッキーだ。でも今のX通知は欠陥品だ。なのでどうしようもないのだけども、まぁ基本的には切るべきに思う。だれだって知らない人から毎日ピンポン押されてたらまともに仕事にならないと思う。そのひとたちが悪意で満ちた犯罪者だらけならなおさらだ。で、なんらかの方法で重要な知らせは知る必要があるのだろうが、そっちになんか工夫はすべきなんだろう。で、冗長さは情報学の面だと、寧ろ望ましいのだろうが、口語に比べて一般に文語は或る種の冗長性が減りがちかもしれない。なぜなら口調とか抑揚とかの陰影がへるからだ。すくなくとも今の日本語の文語だとそれらを記述できない。しかし、文語の長所があるという事は先ほども述べたが、はっきり読み直せる形で文字が固定するという事だと思う。しかも、音声に比べるとそれを自動音声などで読み上げても再現可能性が高いし、聞き取りづらい現象が発生しづらいから、情報ロスがへる。いわゆるデリダの定義した差延、つまり解釈の余地が幾つも生まれるという点では口語も文語も本当は変わらないのだろうと思う。ただ、デリダがいいたかったのは、次々会話なり対話なりを続けていくという西洋哲学の論理中心主義の方式だと、差延はどちらかなら口語において無視されがち、ということなのだろう。解釈が一つに単純化され、それを前提に論理のやりとりがぽんぽん続いていく向きが西洋語の範囲だとある、という話なんだとおもう。まぁ日本語だとしても、議論のなかみが学術の話題のときにはそれに近いことが発生するかもしれないし、裁判ともなると、解釈が論理的に単純化され易いから、ソクラテス裁判みたいな誤審にもみえるものに場の空気などで誘導され易いということは日本でも確実に、言えるとみる。だからデリダが言った事には一理があるが、どちらにしても本当は、口語での独白の様な形なら、聴取者に差延は発生すると自分はみる。で、この節でいいたいのは、とりあえず一度きって次の文につづくことにしよう。

2024年3月11日

確証偏見の補強による自滅

自分が信じたい事だけ信じるおろかものは、何も学ぼうとしない。そのため真実から益々遠ざかり、結局すべての判断を見誤る。自滅する人は端から、その種の判断ミスをくりかえしていた。

性格の科学

性格の悪い人ばかりみた。そして性格の悪い人々というのは、単に他人の立場を思いやる能力の欠如に加え、他害的性質を備えている点で攻撃性がある事を意味している。その2つは被っているが似ていない所もある。
1.思いやりなさ(低い他者理解力)
2.他害的な攻撃性
この2つを同時に兼ね備えている人は害がある人物だ。しかも強烈にかねそなえていると明らかに公害の人物となる。
 裏を返せば、
A.思いやりの深さ(高い他者理解力)
B.利他的な防御性
をもっていれば、それは性格が良い人と判定される。どちらも兼ね備えていればなおよく、高度にかねそなえていると聖人にみられる。

 但しこの問題の複雑さは、愚かな人々は表面的な利他性と深い利他性を混同しがちな事だ。深い利他性は道徳的啓蒙を意味しているので、愚かな人々にとっては認知不協和をもたらし不快感に感じられる。だが賢者には賢ければ賢い人であるほど、その種の深い利他性、つまり道徳性は敬意をもたれることになるだろう。
 また裏を返せば、不徳さが高ければ高いほど他害性は強くなるので、悪魔と思われる人々は深い他害性を持っていると考えられる。

 性悪の集まっている点で国際的に有名なのはそういう性質にあてる特別な語彙「イケズ」をもつ山背市(旧京都市)か、王族すら種族主義者で非難にあっているイングランドどちらかと思われる。両者とも封建時代が長く、身分差別の元で独特の反感がこもり、それが婉曲表現を好んで使う性悪さとしてあらわされる様になったのだろう。だがこと山背側にかぎっては、すでに中小都市になっていて更に衰退が加速し、風習が広く荒廃しているだけでなく、最高位の人々はみな東京に移住してしまったのでもはや身分制が成立しないため婉曲表現すら使わず、ただ性格が悪いだけ、という元も子もない現象がみられる。しかも千年以上つづく根強い差別の風習だけは残ってしまった(以上の山背事情はたとえば井上章一『京都ぎらい』に詳しい)。
 これらの現実は、山背市の日本で最も急激な人口減少や財政破綻寸前の行政にも直接反映されているとみられ、要するにイングランドより一層、意地悪さ、いわゆる「イケズ」を強調する人々が現れやすい条件下にある。
 ただでさえこういった条件にあれば、不徳さも兼ね備えた思いやりない他害行動をする人が現れるわけで、それは荒廃した都市の没落と帰一なのだろう。適応行動としてある行動が評価されるとすれば、エンゲル係数が最大級の生活難(書庫)で、2021年度から3年連続人口衰退全国最下位と財政破綻危機自治体の筆頭に挙がる次世代負担の借金(書庫)そして少子化での全国最下位あらそい(書庫)とくれば、そこでまともでありうる方が難しいのだろう。つまり、性格のよしあしは、恵まれた環境に生きているかどうかでも、単に遺伝子や心がけだけでなく、必要な適応性として程あれかわってしまうのかもしれない。

芸術家の自己定義

芸術家である我々が、なぜこの様に生きながらえているかといえば、自己表現する事に或る種の喜びをみいだしているからではないか。実際それはあると思う。我々が何も表現できなくなったら不満で、辛いのではないか。ではないかというか辛い。死んだ様に感じる。 というのも、我々は内面にある世界を持っているからだ。思うにそこが非芸術家なるものとの違いなのではないか。我々は確かに、内面世界が充実していて、それが充満しているから外部にあらわさざるを得なくなる。でも、偽物の芸術家というのもいる。というか芸術家もどきの人々。そういう人々は、元々内面世界がそこまで充実していない。外形的に他人にどうみられるかで、しごとの中身をかえているようにみえる。
 自分はたしかに芸術家そのものなのだけど、それは以上の理由によっている様に思う。端的にいうと、内面にある世界があって、それをあらわさざるを得ないから、芸術家と自己定義するしかないのだろう。

なぜ都会が全て優れていると主張する人がいるのか

愚者は一般に物事の表面しかみれないので、大都会に圧倒され、その中身を問えない。だが文明とは必ずしも都市化の度合いではない。

京都は東京、近畿は首都圏

自称京都はもう京都ではないし、元々長安のまねだから偽長安とか北長安とかいうべき所だった。今の京都は東京だし近畿は首都圏だ。だが、その事実を当の山背人は決して認められない。彼らは小中華思想の元で千年生きてきた元移民だからで、任那や百済から流刑されて救えない程の虚栄心に生きてきたのだ。

これまで生きてきた感想の一部

自分は相当長く生きてきた。随分長いので生きすぎなのかもしれないしまだ半分も生きていないのかもしれない。でも、どちらにしても、自分はこの生命の中で存分に生きてはきたのだが、とにかく色々あった。それらを十全に表現しておくのは難しい。しかし、ここではとりあえず、この文章の形で残しておこうと思う。

 最近僕は口語によるラジオを試していた。でも、やっぱり自分はどちらかといえば文章の方が好きらしい。口語は口語の独特の特徴があって、それでしかできない表現といったものがある。でも、文語によるそれとはまた違う。それで自分は文語のそれの方が向いている様に思われた。ただ以前も書いた事があるが、口語表現の長所から学べたこともあるので、自分としては文語へ戦略的にその成果をもどそうと思っていた。

 言文一致体というものをつくりあげた運動があった。明治頃の文豪らがやっていたわけだ。しかしここで自分はそれらとはまた違う形で、別の口文一致体といえる文体を確立しようとしている。最近試していたのはそういう事だった。

 まぁとにかく、今後も書くかはわからないけど、とりあえず自分の人生がどんなものだったのかをもう一度ふりかえってみようと思う。自分はもう40歳くらいになってしまうのだけれども、その間にやっていた事は殆ど勉強だった。ちょっと断言してもいいけど、自分より勉強ばかりしていた人ってのは人類史上で一人もいなかった可能性がある。自分の場合、それでも十全な学習環境があったわけでもない。ただ手当たり次第に、自分に手に入る範囲で網羅的、体系的に学問を完成させようとしただけだ。しかしどちらにしても、その志はかなりの所まで遂げられてきているとは思う。

 哲学の内容がまじるかもしれないが、とりあえず自分に分かった事として、自分が長らく謎としていた、なぜこんなに世の中に悪人とか愚者が多いのかだ。それは、なにか理由があるわけではなくて、ただそれがありのままのありさまなのだった。これに気づくのは本当に大変だった。自分はなんでそんな現象があるのか測りかねていた。要するに、それというのも、ただそれだけであり、別に理由とかみいだされる類の問いではなかったのだ。愚か者がいるのはそこに愚か者がいるからだ。同語反復。

 我々はただその様な環境にうみおとされた。陸な人がいない。だから苦労しつづける。生涯そうだ。人生の大体の課題は、陸でなしとの戦いだ。特にXこと旧ツイッターの陸でもなさは、嘗てないものだ。殆ど2ちゃんねるレベルだが、それもこれも、日本が衆愚の国だからだ。匿名なのも彼らのたちが悪い事しか示さない。

 要するにそういう意味では、この島国にうみおとされたことそのものに間違いがあるので、我々に治せる課題ではなかったのだ。

 陸でもない人々が都会に集まっているのも、単にそれだけのことで、陸でなしの集まりというだけだ。我々はなににつけ、その様な現実現象に何らかの理由づけをしたがる。でもそうではない。陸でなしは現に存在するのだし彼らは別にほかの理由をつけて、移動しているわけではない。単に彼らは彼らの行動原理に基づいて動いていて、ある結果に至る。それはとりもなおさず、陸でなし現象とでもいいうるが、要はある目的に向かっての動きで、しかもそれはただ結果をもたらす。だから結果だけでみているかぎり、世界は或る秩序を伴っているが、その秩序自体が理由なのである。我々は自分が解釈し易い形で結果を観ようとする傾向がある。だがそれはあとづけで理由を捏造することにすぎない。ありのままの姿がそのまま答えなのだ。

 偉大な精神の人々は必ずしも都心部に住んでいなかった。ところが下らない人々は必ず、都会人の方が田舎の人より優れているといいがちだ。少なくともそういう中華思想を主張する人々が異様に日本には多い。特に自分がみていたかぎり関西地方に極端に多かった。それは単にその集団が愚かだからだ。そういう集団の主張は、ほかにも学歴差別だの、地域差別だの、民族差別だのありとあらゆる差別のオンパレードで、とかく何でもステレオタイプにあてはめてみて便宜的にわかったつもりになる、といった思考類型をとりやすいのである。だが、現実はその様になっていない。都会の方が犯罪率が高いし。

 それで自分はこないだ関西地方の人々に4人から5人くらい、Xで話しかけられた。関西人と話す事は余り多くないからやはり色々感じる所があった。正直、関西地方は遅れている。その遅れはもうとりかえしがつかない気がした。多分これが真理なんだろう。未来の人がこの文を読んだらそうわかっているのではないか。人々の意識に現れている諸現象が自分にそう確信させた。

 まぁとりあえず、こんな感じで毎日何か書いてみようと思う。自分は文章を書く事が好きなので、必ず何か書けるはずだ。別のしごとで忙しくて暫く書けなかった時期を除くと、このブログだってもう約20年位書いている気がする。毎日くらい。ほぼ日まで厳密じゃないけど。好きこそ物の上手なれというけれど、たしかに、自分は文を読み書きするのがほかの人より遥かに好きだという事は間違いない。一度、英語でもやろうか試してみたのだが、あるいは漢語で。やはり母語の方が流暢性が高かったので、この方がやり易い。でも、日本語と今は呼ばれているこの言語が、自分は結局は、肌に合っているのかもしれない。でも、標準語そのものには一部の違和感があったから、最近はそれも改良してるのだが。

阪山(旧京阪)両地域の悪政を反面教師にした、地方自治の基礎

暫く前に大阪人に絡まれた。その人は必死になって嘘八百を並べ立て、東京が国政と癒着していて(というか正確にはその人は明らかに知力が不足していて都政と国政を混同していたのだが敢えて補って解釈してあげると)、特権を享受しているので全て東京が悪いと科学的事実に反する資料を大量にみせてきた。それで面と向かって相手が恐ろしい馬鹿だと言ってもしょうがないので、とりあえずそれら間違った資料を種に何がしたいのかを推して尋ねてみた。結局その人は母方が山背らしく東京を憎悪しており、何でも東京が悪い事にしたて阪山両地域に利益誘導したいだけみたいだった。要するに金権腐敗政治の主張だ。
 根っから性悪の人なので首都圏側でもそんな腐敗取引をしてるのが当たり前と思っているらしかった。それで茨城県の僕にまで東京憎しで大阪の彼に全面的に従って当然だろうというのである。
 救い様がない馬鹿は何をしても治らない筈だ。死なない限り。だとすれば彼に文明側の話をしても通じる筈がない。
 端的にいえば維新の会というやくざ組織擬きはそんな利益誘導隊に過ぎない。その事がありありと理解できた。また山背市(旧京都市)のあの腐敗行政の内情も、類推できた。要は平安京の受領政治から全く進化がないのである。私利を公益に優先する外道達が行政を牛耳って救えない赤字財政下で見栄を張る。

 音喜多駿が今炎上している。高齢者冷遇を提案し歳出を子育てに振り向ければいい、との主張が𝕏民一般の気分にあわなかったので、暫く前まで成田悠輔の似た様な主張を、諂う下種女らと彼を誤って有名にしたともいえる高橋弘樹や茂木健一郎ぐるみで天才だの賢い等と賛美していたのに、手のひら返しで叩く。

 しかし阪山の腐敗行政はそれよりある意味で厄介だ。彼らは深刻な嫌がらせを今後も東京へ永続的にやり抜くつもりだろう。東京都だけが亡ぼされるならまだしも東日本を阪山人らは既往の小中華思想によるうぬぼれや無知から野蛮視しがちなので、東日本全体が阪山に国事上で具体的公害をされると考えていい。例えば池田信夫は山背から東京にでてきて青森など財政力の弱い自治体から電気を搾取してきたのに、原発の最終処分場を押しつけろと平気で主張している。近くは戊辰戦争、遠くは巣伏の戦いなどの山背地域からの侵略罪や、元寇にも黒船にも無力な虚栄の最悪支配史も山背の政治勘なさをしっかり示している。

 よって結論はこうだ。国政から維新の会勢力は完全消滅させられねばならない。あれは大阪の腐敗政治勢力に過ぎない。2025大阪万博木製リング炎上は決して偶然ではない。山本理虔は本質をみぬいている。彼ら阪山人らはとかく国事を乱用し、カネや権威権力を自らの我執の為全国民からひっこぬきたいだけだ。
 阪山人ら一般の我執は、国政上の影響力、つまり全国民への他害的影響さえ取り除きさえすれば金権政治を意味するにすぎないので、いわば自滅の狂騒曲にすぎない。万博会場ルート整備が真の目的とする大阪IRも全く惨めな結末に終わるだろう。また旧京都市は自公立相乗り松井僭主政治で確実に財政破綻する。アクトンが「絶対権力は絶対に腐敗する」といったが、阪山両地域は驕りのため議会も行政も相互監視機能が働いていない。そのため片や維新寡頭政治、片や松井独裁下で反福祉的金権政治をしているが、反省や内部改革より反東京や市民の驕りといった理想論を掲げ市民の注意を逸らし、悪政が罷り通っている。

 東日本側でその種の腐敗がはびこっているという話は余りきかず、精々似ているとすれば神奈川県知事黒岩祐治の私事スキャンダルと(それでも再選してしまう民度問題)、小池百合子都知事と都民ファーストの会の癒着くらいだろう。つまり東京や神奈川に問題がある事が分かっているが関西ほど深刻ではない。
 現時点で最も問題なのは原発政策で、東日本は世界最悪事故を経験した福島が属するだけに一機も再稼働していないし、水戸地裁は都の原電社へ再稼働を禁じる判決を下した。最高裁まで同判決なら脱原発へ舵を切る事になる可能性が高い。小池都知事はゼロ原発が公約だったが旧電力会社と暗闘があるのだろう。

 都庁の絵の投影は約18億円かかるので国内で最も財布に余裕のある自治体でもきちんとマスコミと都民の監視機能が働き、散々批判されている。この点は約350億円ですぐ壊す木の輪を作り、万博総額で約1万9千円増税を寧ろ喜んでいる大阪とは対照的だ。旧京都市の村上隆展も財政危機下で大層浪費的にみえる。

 以上からわかる事は、財政力は地域住民の経済力や自治方針にある必然性があってできているもので、普段から少なからず悪政している阪山両地域の地位低落にも当然さがある。寧ろ、彼らを反面教師に、行政を厳しく市民や議会が監視し、また政党では一党支配をもたらさないよう交代可能性を残す事が重要だ。

伝説の歌から類推する和宮の貞操観念にみる人格解釈

和宮の歌ったものとして引用されている短歌「空蝉の唐織り衣なにかせんあやも錦も君ありてこそ」の原典は何の本ですか? 暫く探してみたのですがでてきません。後世の捏造の可能性がありませんか?
 もし後世の捏造だとすれば、それは真に和宮の心情を写したものではないかもしれず「他人の騙り」かもしれないと分かる、人文学とはそういうものと思います。

 和宮が全く望まぬ結婚相手だった家茂のいる江戸にきてすぐ家茂は出兵した筈で、お土産約束するまで交情があったとは史学の時系列知識によれば不自然で、その間に詠まれたこんな和歌があった可能性は殆どない気もします。
 もしあったとしたら和宮は真の婚約相手だった有栖川宮熾仁に不実な女となります。
 嫁にきてすぐ好きだった熾仁を裏切り、家茂を「君」と呼び着物より交情求める阿婆擦れと和宮の心を示してしまうそんな端ない和歌が、当人から詠まれたとは、私には殆ど全然考えられない。相当高確度で後世の捏造でしょう。和歌自体は巧妙な手弱女ぶり風で一瞬感動させますが史学に照らすと嘘と感じます。

 万一何かの原典があって、和宮当人の手になるものなのが殆ど確実で、しかも時系列が江戸にきて直後のものか、兄である孝明天皇から強制的に婚約破棄させられてからなら、そこで歌われている「君」は、もし和宮あばずれ説をとらなければ熾仁の事でなければならないのであり、単なる政略婚抵抗の歌ですね。

 原典が不明な事と以上全てを照らし合わせると、私が現時点で推測するには、一つの可能性は家茂シンパが和宮との一瞬の邂逅に交情生活があったのだ、との喧伝のため悪意で作り上げた虚構の和歌で、政略婚で泣く泣く好きでもない相手に嫁いだ和宮当人の心とは高確率で違うもの故、相当悪質な騙り歌です。

 またもう一つの可能性としてもし和宮当人がそれを歌っていたら、
1.君が熾仁説
2.君が家茂説
で分かれ、1の場合は和宮の抵抗の歌となるが、2の場合は奔放の歌となる。低人文知な人物が何かの小説や脚本などで捏造した場合は2の可能性が高く、本物だった場合は1の可能性の方が遥かに高いですね。

 更に調べたが「空蝉の袈裟」なる物が和歌に添え増上寺に残されているというウィキペディアの記述を見つけた。もしその添え書きが実在なら上記推測中、和宮は一瞬の邂逅で発情してしまった2奔放説で正しいかもしれず、余り貞操観念の高い良人ではなかった様です。その観点で理解するとより興味深いかも。
 和宮が家茂と正式に結婚したのは1862年2月11日、家茂が出兵したのは1863年2月13日なので、約1年間しか夫婦生活がなかったし結婚が本意でなかったのに発情風和歌を詠むという事は、武家の風儀では余り考えられないが、もし添え書きが事実なら、当時の皇女は想像を超え貞操観念のない教育だったと分かる。

恥ずべき東大閥おでんナチス祭り

極悪のおでんナチスと五月祭 受験ゲームと肩書きロンダで有名な偽学者あるいはサイコパスメディア知識人ばかり排出する公害大学東大の恥がまた増えた

成田ファンは年齢に関わらず教祖の教え通り子孫ごと世界から絶滅すべきなのは疑う余地はないと思う 彼らは放置すると大量虐殺を犯す正真正銘の極悪人集団だからだ 人民寺院や神道と本質で違いはない 一切の妥協なく抜かりなく邪教団を滅ぼしされ

無徳な自称天皇一味による世襲最悪支配の必然末路

天皇一味はただ千年近くかけ恥を売り、罪業を蓄えたにすぎない。なぜなら彼らは単なる人権侵害者で、虚栄心の余り手段を選ばず卑劣にも世襲絶対権力をめざしたが徳は元々皆無なので、偽物の中華皇帝擬き、或いは人種差別教祖として大量虐殺史と不快な記憶を残しただけだったからだ。反面教師に違いない。

なぜ愚民は関西・長崎などの西日本に現存する元祖遊郭本体を攻撃しないか

愚民が江戸政府をのみ敵視し、山背や大阪或いは長崎でそれより遥か前から営まれてきたばかりかいまだに続いている西日本の旧態依然な人身売買遊郭本体を攻撃しないのは、彼女らがにわかに信じ難い無知かつ絶対救い得ない程傲慢であるばかりか根っから悪意で満ちた生きる価値のない性悪だからに違いない。

日本の最悪都会人制裁の二択

電気代惜しさに同国民を虐殺や権力乱用の公害で収奪したがる日本の都市民一般は、全員人でなしと形容するのがふさわしく、彼ら自身に道徳的反省力が何ら期待できない以上、外部から自然の脅威、神威又は革命権の行使で殲滅されるか、自滅の道を極力速やかに辿らせるか、いづれかしかない。

舞妓という事実上の性奴隷制度とその維持を図る人権侵害常習犯の山背蛮族と千年超その悪業を下町で続けさせてきた最悪世襲僭主天皇一味の断罪

外国人が性奴隷にすぎない舞妓を追いかけるのは、彼らが軽薄な愚か者だからにほかならない。又その様な無法な奴隷制を維持している山背人らも単なる未開な蛮族で、人権を有しない悪意の衆愚として先進国から排除される必要がある。同じく、天皇一味は人権侵害の無法な蛮族で、文明界に生きるに値しない。

或る山背系経済学者と天皇一味の純粋な他害的利己心のみからきた悪虐三昧

根っから極悪山背移民が東京に出てきて核廃棄物を青森に押しつけようとする醜悪極まりない光景 最終処分場を県外にするとの約束を極悪天皇政府ぐるみで反故にしようとする不実の極み 福島に続き電気を搾取した末の話で救いようがない悪魔だ 悪人は全員容赦なく必ず完全に滅ぼし尽くさねばねばならぬ

文明の鼻摘みもの

美意識の狂った人は、美醜の質に気づかないでいる。低俗なものを賛美し、優れて繊細なものをおとしめ、あるいは無視し、具にもつかないものをほめちぎり、悪趣味なものを殊更もちあげる。美意識の狂いはその個人の外部にもれでて、街をおかしくする。結果、狂った美意識の国は、文明の鼻摘みものになる。

ある物語解釈の2問

問い1
 皇族の連続強姦罪(強制性交等罪、強制性交等致死傷罪)によって被害者らが泣き寝入りを強いられた末、被害女性のひとりが自殺未遂しても加害者である皇族男らが無反省で、却って付きまといを続けるため出家をやむを得なくする、天皇専制下の最悪政治の腐敗社会を物語の形で描いた人物はだれか。
 またその現実の作者をとりまく当時の天皇政治の状況に照らし合わせながら、なぜ作者が退廃を書いたか批評せよ。

問い2
 問い1の作品名をあげつつ、なぜその物語は少なくとも作者のいた特定地方で賛美され得たか、またその後の文学史の中で、当の作者や作品を賛美する人々が存在する理由を考えなさい。

2024年3月10日

愚者の長

愚者の長は、最高の愚者である。立派な人、優れた天才、徳の高い人は愚かな集団の間では少しも尊敬されない。

自分がみる鳥山明の他の特定画家らと比べての原画実作の質と国葬について

日本国政府は鳥山明先生を国葬にするべきなんですよ。これ真面目な話です。ピカソ、ディスニー、ダリ、ダビンチのような芸術家がなくなったのと同じレベルだからです。日本政府は漫画家アニメが世界においてどれだけ日本のイメージ作りに貢献し、安全保障や経済に貢献してきたか認識してませんよ。
――May_Roma めいろま 谷本真由美

めいろまが鳥山明を色んな画家と並べてて、色々呆れた。絵についてろくに知らないなら黙ってればいいのに。みんな、めいろまは偽物だぞ。絵の知識で間違いないからこれ。
 比較してた画家で比べてみる。
 まずね、鳥山はダリよりは明らかに上だが、レオナルドよりは凄く下だわな。ディズニーとは別枠。

 上記の画家らの絵は生で全部見た事あるから本気で断言できる。鳥山は本当に絵が上手い。勿論ファインアート枠ではないのだけど、漫画の中では圧倒的に1位だろう。絵の異様な上手さで。レオナルドが開発した遠近法などもほぼ完全に使えているし、幻想絵画にすぎないが低教養系ではあれより上は出てない。
 ダリはしょぼかった。ただのシューレアだ。それを代表してるという事はいえるけど、それだけだ。面白みが全くない。
 レオナルドはリアリズムでは基本的に最も先駆的な人物だった。教科書的意味で古典の正格を作った。遠近法を完成させ、殆どリアリズムの基礎文法は彼からきてるのでちょっと格が違う。
 僕の地元の五浦美術館で、震災復興で子供励ます為ディズニーが回顧展をやってくれたので網羅的に作品みたけど、はっきりいって絵は鳥山より遥かに下手である。しかしアニメーターとしてディズニーはディズニーランドに至るそれなりの箔があって、鳥山みたいな純粋な漫画家ではない。つまり別枠と思う。
 でピカソは、自分はレゾネ的全集持ってて網羅的に見てる筈なんだが、実作見たかははっきり記憶ない。小品ならどっかでみたかもしれないが、図版でみる限り、力で描いてる人でキュビズムは作ったろうけど、全体として下手くそである。話題作りばっかの宣伝屋で、画家としては半分紛い物要素が確実にある。

 昔、姉が観に行くのについて行って、いわき市立美術館で鳥山明展みた。原画みた感じとしては鳥山は漫画家としては神レベルだったのだ。最高峰なのは間違いない。まねて簡単にできるレベルではなかったと感じた。特に圧倒的に優れてるのは想像力と構図法、人物造形で、臨場感がある世界観も本当に凄い。
 そして彼の生前も一人も彼の漫画の完成度を超えられた人はいなかった。自分は一人も見てない。後から『ドラゴンボール』や『銀河パトロールジャコ』見直しても絵の上手さと全体の完成度が全く他を超えている。宮崎駿の漫画版『ナウシカ』もまぁまぁだが、鳥山ほど物語の質が高くない。特に後半破綻する。
 そして僕は思う。中国政府すら反応するという事は、鳥山明が本物中の本物の漫画家だと世界は知っていたのである。村上隆は偽物中の偽物だという事も、それでいえば皆知ってる筈でなければならない。
 一々技の真贋なんてごまかしても意味ないのである。現代欧米美術は、隆を高値取引する偽物界なのだ。

 鳥山明は晩年余り作品を出さなくなった。疲れたので趣味程度でしか描かなかったみたいだった。その中で『ジャコ』は老境を示していたんだと思う。確かにそんな気がした。ドラクエもこれで音楽もキャラデザインも終わったから11Sが多分事実上の頂点だったんだろうと思う。やっててもどうもそう感じてた。
 どんな天才にも終わりがくる。それは悲劇でもあるが、特に芸術分野の場合は、二度とその天才の手になるのと同じものは決して生み出されないので、次の鳥山作品は永遠に消滅した。宮崎駿もそろそろしぬだろうし、サブカルの巨匠らの死は我々の時代のロウブロウアート社会の地殻変動を意味すると思われる。

 これはサブカル全体にいえるかもしれないが、自分が色々みてきてサブカル界全ての中でも最も優れた絵といえるのは、鳥山明のクロノトリガーのコンセプトイラスト集と思う。あれらはどれも一枚絵だけども漫画として時空冒険世界観を一枚で表現しており、誤解を恐れずいえばゲーム本体より寧ろ優れている。鳥山の技術や構図やキャラ造形の長所が必要十分に使われ、ジャンプの扉絵みたいな感じで当時、ゲーム販売前にコンセプト画としてVジャンプ誌面に載ったやつだったが、原画も観た気がするが、あれらは完成度で一番高いと思われた。浮世絵と似た遠近表現もあって、ロウブロウ系で最高峰の現代古典とみる。

 とにかく、めいろまは適当いってる様子なので、みんな信じるな。これが本気の絵描きからの忠告だ。めいろまはろくにわかってないのに知ったかぶりしているやつだ。上記画家のうち、レオナルド除くと国葬なんてされてないだろう。しかも国葬というより、フランス国王の腕の中で息引き取った説があるだけ。

もぎけんじごく

あたまいたいぴ かぜぎみぴ 毎日もぎけんとたたかいでちゅかれた もうやだ 一生おわる もぎけんじごくぴ

2024年3月9日

味噌の種類

僕は根が関東人なり東男なので味噌が白いと疲れる
試しに味噌汁を白にしてみたら数日で気持ち悪くなって
まともに生きていけない様になってしまった
食事に現れる差は大きい気がする
恐らく子供の頃から食べ慣れてるから腸と関係ある
腸内細菌の種類が白味噌勢と違うのではないか
京文化とか僕には最悪

井村俊哉さんは先祖は山背みたいだが主に水戸育ちだ
それで観察してたら大の納豆フリークである
節約時代 奥さんが福島人なのもあるだろうが
都内スーパーで割引の期限切れ近いのを態と買いに入ってたらしい
つまり子供時代から食べ慣れてると腸内変わって
そのせいで食事の好みが変わるのではないか

歴史改竄主義党

飯山あかり氏が日本保守党から選挙出るんだって
大昔いきなり𝕏で侮辱行為された時びっくりして
怪しい人物なんだろうかと感じたけどここまでとは
高橋和夫氏の俳句へ季語がないとか無季知らず否定して人格攻撃も凄く驚いた
赤ちゃん言葉であやすみたいな口調で
一種の媚びがある人と思っていたのだが

百田某って人
僕の目にはお笑い芸人の一種にみえるんだけど
もしかして一般関西人の間では知識人扱いなのかも
色々民度の落差を感じる
勿論英国風の皮肉抜きで関西圏が低いとの意味で
尤も東京人モギケンもお笑い芸人として同類なのだろう
実際結党ほめてた様子でみんなドン引きしてた
歴史改竄主義党

一般に大学が多いから山背市はましかと思えば
こないだの選挙で色々ばれていたが全然ダメだった
金権政治に牛耳られ中央国政におんぶ抱っこ
要はロビー活動してる俗坊主や悪徳商人の回し者で
全国民の税金を収奪し空威張りしか頭にない
天皇を笠に着たいのも虚栄を示す
平安受領の腐敗政治のままだった

東日本最低民度なのは堅いいつも衆愚な東京人と雖も
さすがに桜井誠は都知事選で落としていた
福島第一サティアン発言の石原伸晃も落とした
猟奇小説石原慎太郎以後連続して不正知事を選んだが
辛うじて阪山ほどは政治民度が低くないとみる
飯山あかりが受かったら爆笑してやろうと思う
大阪と同じだと

『源氏物語』の正統解釈

皇族連続強姦と児童誘拐・性暴行で被害者自殺未遂後泣き寝入り物とか、『源氏物語』が世界史上最悪の退廃小説なのは公然たる文学史実。それを民衆の犠牲の上に自称天皇の悪徳僭主一派に諂って書く藤原一族の紫式部も信じ難い陸でなしなら、散々賛美した本居宣長もとんでもない大悪党だ。茂木健一郎は小林秀雄経由で本居の不良学説だの英語圏の東洋主義に諂ってるんだろうが、人権侵害誠に見苦しい。
 茂木健一郎は天皇一派や紫式部にだけでなく、崇拝する小林秀雄経由で本居の不良学説だの、英語圏の東洋主義偏見へ二重三重に諂ってるんだろうが、人権侵害の正当化、誠に見苦しい限り。当の性加害を一夫多妻と言い繕ってきた自称天皇一味や大河ドラマで散々美化しているNHKごと、天罰が下るに違いない。
 本居は『源氏物語玉の小櫛』で決して道徳を否定などしていない。茂木は自分で吐露した通り、最悪小説の『源氏物語』本文すらまた読まずに知ったかぶり批評してるので、両原文の論旨を取り違え偉そうに致命的誤りを語ってる。恥を知らないらしい。
 本居が言ったのは道徳は道徳で存在するという事だ。

 本居はなぜ平安期の文学は不道徳な描写だらけなのかを解釈する際――それは現実にはまだ新造都市だった山城国での渡来系桓武一派による天皇僭主政治の風紀の乱れや金権主義で腐敗した受領政治の悪影響が明らかにあったが――藤原一族だった紫式部が平安京の自堕落さを現実主義で筆写したと言っているだけだ。本居は当該文で天皇一族や藤原一族が悪徳の因果応報によって落ちぶれていくありさまをただ冷徹に描写していく、両家の親族な紫式部の活写の出来をほめている。それは悪因悪果を否定した訳では全然ない。実際同物語でも主人公は落ちぶれ須磨に流浪の果て死ぬ。浮気相手の女房らは全員不幸になって終わる。それどころか本居は、当該文で儒学者や仏教徒ら倫理学者の存在意義を完全に認めている。そして全てが人道の必然として道徳秩序に落ち着く事も予見している。徳に欠けているのに天子一族を気取る、愚かな自称皇帝のありさまとして、皇家周囲の邪悪さを婉曲表現している点で、記念碑的な作品といえるのだ。

 自称天皇家は中華皇帝をまね世襲制度をとろうとして飛鳥時代に出現した。それから平安京に移ってすぐに書かれた当物語は不安な政情を反映しながら、皇族が乱倫に沈む退廃的様子がひたすら連続して書かれる。
 それは真の正義を司る中央政府たる鎌倉幕府の登場を予期させている。一種の内部通報だった。
 茂木は自分で文学を読むつもりもないのになんで知ったかぶるのか。全体で何が書かれているかもさっぱり何もわからない、直接読むつもりもないなら黙っておけばいいと思う。無論、批評する権利なんてない様なものだ。中身が分からないのに通ぶってインチキ批評屋の謬説を鵜呑みに恥さらすのは国風冒涜だ。

 国風文化とは、今挙げた様な明らかに当時の周辺諸国の道徳秩序とは違う、退廃的要素をはっきりと含むもので、茂木が散々叩いていた江戸社会の化政文化とその構造は同じではないか。平安京の国風文化は徳の欠けた天皇一派が主体として乱倫をし、江戸では一般町人がそうしていたという違いがあるくらいだ。
 米英両国及びGHQと国連が天皇を駒として使ってきたのは信者を操れるからにすぎない。まさに茂木の様な単純思考の愚民が多いからこそ、天皇一族の乱倫小説を長文だから読めも理解できもしないで崇め奉り、皇族犯罪を正当化しているのだ。昭和天皇の戦争責任を問えない民族的落ち度とも帰一の大醜態だ。

 サイコパス達を世の中に送り出し、炎上商法で世を乱してるのが高橋弘樹その人だという事はこの動画で完璧に把握した(『【日本のお笑いはなぜオワコン?】茂木×高橋弘樹〈ReHacQ〉が自分で考え・自分で決める!批評性の必要性を考察3/8_101』)。孔子は俑を作った者は殉死の陋習を生み出したので子孫が絶えるだろうといったが、自分は高橋にその言葉を贈りたい。茂木も又同じである。天皇一族の悪行に媚びる者はその被害者になる。

 さりとて、かの類ひの不義をよしとするにはあらず。そのあしきことは今さら言はでもしるく、さる類ひの罪を論ずることは、おのづからその方の書どもの世にここらあれば、もの遠き物語をまつべきにあらず。
 物語は、儒仏などのしたたかなる道のやうに、迷ひをはなれて悟りに入るべき法にもあらず、また国をも家をも身をも治むべき教へにもあらず。ただ世の中の物語なるがゆゑに、さる筋の善悪の論はしばらくさしおきて、さしもかかはらず、ただもののあはれを知れる方のよきを、とりたててよしとはしたるなり。
――本居宣長
『源氏物語玉の小櫛』

学術の頂上決戦について

シュージ・ナカムラ氏が落合陽一氏を本当に有用な知識人だと、しかも同時代を代表する人だと思ってるみたいだった。僕は大分驚き呆れたが、その事を彼に理解させる事は物凄く難しそうだったので、何も触れなかった。似た事は成田悠輔氏を天才と呼んでいる𝕏民「しろうと」氏にも感じたが、説明を試みる。
 これらの落差が生まれるのは、まず学問の世界は次元があって、しかも分野がある。ある分野で少しできても他の分野だとさっぱりというのは日常茶飯事だ。
 落合氏は美術界だと全くといえるほど意味がない仕事をまだしていると思う。次元と言ったのは、村上隆級に有名でも、仕事は無効な事があるからだ。超平面理論は中間芸術論にすぎないので、そこでどれほど有名化しても立派な技次元だと無効だと言えば無効にすぎない。一種のネタ作家でしかない訳だ。そこからいえば、落合氏の仕事も立派な技こと純粋美術の次元での戦いではなくて、工学の応用にすぎないとみえる。美術自体の問題を解いてないからだ。
 所で工学の社会だと、落合氏の仕事には一理あるのかもしれない。自分も一応学位は工学の専門士でもあるし、彼が音で物を浮かしてる技術とかは応用可能性があると充分認識できるが、美術自体の問題を扱っている訳ではない。
 更に哲学分野だと危険なAI専制主義者でもあるのは東浩紀氏の批判通りだろう。

 成田氏の場合は論外のネオナチ言説を種に芸能界入りを画策してるだけの話だし、全論文を以前読んだ限り、実際は正統的な経済学者では全然ないと考えていいと思う。総じてゲーム理論家みたいなもんだろう。特に自分も深く関心がある巨視経済のみるべき知見は陸に出てこなかった。学界では無力という話だ。

 それで、大阪万博の件だが、落合氏は話題の藤本壮介氏と一緒にプロデューサーに名を連ね、日本館も設計している。大仕事を貰ってるので有名さが功を奏したのだろう。でも建築側を本気で勉強してきた側からすると、あれもまた美術目線だと余り意味がある設計にはみえない。そこに重要な次元があると思う。

 実力差というのは確かにある。自分はSANAAにいた。正確には妹島和世さんの事務所にいきなり21歳の時弟子入りに行った。働かせてくれたので一瞬だけ模型手伝っていたけど、彼女が実力面で世界一の建築家な事はまず絶対に疑えないと感じた。その次元からみれば落合設計はまだ何かをしている訳ではない。

 ナカムラ氏やしろうと氏は、僕が何に言及しているのか、恐らく生涯気づかないのではないか。でもそんなもんだろうと思う。
 学術は或る次元があって、その中では確固たる格があり、強い人は圧倒的に強いが、そうでないと全く相手にされていない。有名さは全く関係ないのだ。人気で実力を変えられない
 学術の優れ方は一種の実力勝負で、肩書き遊びでも全くない。現世的には学園主義の影響で疑似馬乗りされるかもしれないが、それは虚勢にすぎないので、ただ知力や芸術性など別次元での頂上決戦が延々続いているだけだ。鳥山明が死んだら漫画が終わるとはそういう事で、凄まじい実力者は現にいるのである。

 競戯でもよく似た事があると思う。今でいうと大谷翔平や藤井聡太は圧倒的に強いのかもしれない。その意味では、学問での最強さがそうとわかるという事自体が、一種の最高実力の次元にいるのとほぼ等しいと思う。『ドラゴンボール』の孫悟空がどれだけ強いかミスターサタンには殆ど分からなかった様に。

2024年3月7日

人の位づけ

愚鈍さは治らない病気の様なものだ。愚かな人々は愚かな集団を作ってその中に位を設け、かなり愚かな人々を天才と崇めている。そして一生その位を出ようとしない。猿山と余り違いがない。
 手のつけられない人類のその種の愚行は、先進国と称する悪徳集団でも見られ、日々愚者を信仰し金をやっている。

良い影響の蓄え

自分にも他人にも良い事のみをして過ごせ。
 悪事は露見するかしないかに関わらず、自他いづれか又は両方に悪い影響を与える行いの事だが、善事はそれ自体が自他いづれか又は両方に良い影響を残す。そして自らの人生あるいはその集合体たる文明がよりよくなっていくのは、良い影響の蓄積によっている。

星の心

この星の心は躍る奇跡の季節と

命の吹雪

まだ寒き空に舞い散る吹雪かと思えばちりし梅の命よ

磯原秋草花図(いそはらあきくさばなず)

磯原秋草花図(いそはらあきくさばなず)
2024年
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漱石『坊ちゃん』をめぐる茂木健一郎氏による「赤シャツ漱石自身説」批判と、私による「人物造形混在説」解説

僕もその茂木さんの「赤シャツは漱石自身説」(以下引用)を聴いて、解釈として過度だろうと考えました。根拠は『私の個人主義』で漱石が次のよう言う箇所かと思うが、自分を茶化して笑いをとった所で、飽くまで謙遜まじりの冗句かと。実際は人物造形にインテリ面の嫌味さが混じってる程度。

夏目漱石の『坊っちゃん』の凄さは、江戸っ子の坊っちゃんではなく、赤シャツこそが漱石自身だと見られる点にある。本人も講演で認めている。自分の一番いやらしいところ、情けないところを諧謔でメタ認知する。そのような厳しい自己認識があったからこそ、漱石は表現者として遠くまでいけた。
――茂木健一郎

しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困ると云ったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向きな所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした。
 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので、――はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。
 松山にもたった一カ年しかおりませんでした。立つ時に知事が留めてくれましたが、もう先方と内約ができていたので、とうとう断ってそこを立ちました。
――夏目漱石
『私の個人主義』

「江戸っ子の坊っちゃんではなく、赤シャツこそが漱石自身だと見られる」
という説は明らかに文学解釈としておかしい。何しろ江戸っ子なのは漱石で東京から赴任してきた所まで同じなのだから。自分が坊ちゃんだというと松山人を見下す形になってばつが悪いから、仕方なく学士違いネタで茶化した冗談箇所。
 ここで学士違いネタとは、坊ちゃんは理学士だが赤シャツは漱石と同じ文学士設定なのを理由に、坊ちゃん自身の造形は勧善懲悪の主人公たる自分自身で、松山の教師をからかう生徒のいる非礼さや学位の虚構や、芸者遊びする温泉街の自堕落な風紀を批判している作品と公言するのを避ける、一種の自虐的謙遜。
『坊ちゃん』の人物造形をみる限り、赤シャツにも坊ちゃんにも要素として漱石自身の人格と似た箇所が混じっているし、場合によっては作者は江戸っ子として戊辰戦争被害側同士、会津っぽ山嵐にも新政府批判の正義感の通底文脈で共鳴している様子があり、誰か一人にモデルを定めるのは困難というべきです。

東蝦夷(アヅマエゾ)と叫ぶ奇妙な自称京都人の一部始終あるいはまことの首都をめぐる冒険

時は令和時代。所は東日本のとある街角。登場人物は京都人、東日本人、アメリカ人、仏教僧、天皇、皇后、警察官数人。

木靴で烏帽子をつけマロ眉にして束帯でよろよろと歩いてくる、平安時代上方意識のままであたりを見下した様子の時代錯誤な令和京都人「(目をひん剥きぎょろつかせ、首をくるくる回しながら)アヅマエゾがぁ〜!」
先に舞台で待っていたスーツ姿の東日本人「あら、どこからこられたの? おかけになって。お茶でもどうぞ」
京都人「アヅマエゾがぁ〜!」
東日本人「え、なんて?」
京都人「アヅマエゾがぁ〜!」
東日本人「はい? なんて申されましたか?」
京都人「アヅマエゾがぁ〜!」
東日本人「(全てを悟った様に)あぁ。わかりました。ではお待ちを(そそくさと舞台を去る)」
京都人「(キョロキョロしながら不安そうに)アヅマエゾがぁ〜!?」

スティーブジョブス風ジーパンに長袖タートルネック姿のアメリカ人「(舞台へ歩いてきて声をかける)ハロー、ようこそ都会へ」
京都人「(人がきてはじめ喜びながらも、都会と言われたので京都プライドを刺激されひどく憤慨した様に)アヅマエゾがぁ〜!!」
アメリカ人「エクスキューズ・ミー? なんていいましたか?」
京都人「アヅマエゾがぁ〜!」
アメリカ人「オォ・マイ・ガッシュ(頭を軽く抱える)。(首をすくめ、両手を天に向け)では左様なら(舞台をすたすた歩き去る)」
京都人「(幾らか悔しそうに、しかし満足げに小声で)アヅマエゾがぁ〜」

糞掃衣で托鉢中の仏教僧、虫を踏まないよううつむいて舞台へゆっくり歩いてくる。
京都人「(途中までその様子を眺めていて、調度舞台中央部で急に大声で早口)アヅマエゾがぁ!」
僧「(驚いて)わっ。(京都人の顔をみて二度驚き)うわっ! ごっ、ご成仏なさいー(手を拝む形にして、頭を何度も下げ、足早に舞台を去る)」
京都人「(がっかりした様子で)アヅマエゾがぁ」

天皇と皇后「(お手振りしながらにこやかに舞台へ歩いてきて)ご機嫌よう。ご機嫌よう」
京都人「アヅマエゾがぁ!」
皇后「(驚き慌て天皇の手を引いて)どうしましょう」
天皇「(幾らか動揺しながら京都人にゆっくり声をかけ)どうされましたか?」
京都人「アヅマエゾがぁ!」
数人の警察官ら「(凄い勢いで舞台に入ってくると)こら、何をしている。(天皇皇后と京都人の間に割りいって)やめなさい」
京都人「(捕縛され舞台から無理やり斥けられながら、観客席へ大声でひどく悲痛な感じで手足をばたつかせ)アヅマエゾがぁ〜!!」
天皇皇后、ほっとした様子で観客席へ再びにこやかにお手振りしながら、舞台を去る。

長安擬き最後の舞い並びに旧京都市財政破綻必要論

自殺未遂事件含む強制性交等致死傷罪で埋まった『源氏物語』作者を公共放送ぐるみで散々美化し、類似内容で集団性被害を受けた少女の姦淫ぶりを肯定する綿矢りさ『夢を与える』を世界一のアイドル文学と茂木健一郎と称賛。少なくともこの2点をみる限り関西と東京の大多数が倫理的無能なのは絶対確かだ。

 自分はこの様な関西や東京の圧倒多数の人々の人類史上希にみる姦淫ぶりを長らく理解できないでいた。なぜ彼らが姦淫の悪徳をそうと認知できないのか?それは彼らが未開人だからだと考えていた。実際、内情を探って都内でくらし、関西人と交流しても結論は同じだった。実際彼らには性道徳が凡そ何もない。

 歴史経緯はこうだ。儒学や仏教の伝来が遅れ性道徳がある事自体を知らなかった後進集団と。だがそれら以後キリスト教やイスラム教伝来があってもやはり事情は同じだった。元々、この関西東京間集団は、風習として性道徳を内部で常識化できない欠陥がある。本居宣長はその点に気づいて言い訳を図ったのだ。文化人類学は中華思想に陥った自称京都人らも姦淫の風習をもつ僻地の部族と客観視させる。彼らは天皇一味の性犯罪を専制政体で長らく押しつけられ、児童人身売買含む性売買を舞妓文化としつけられ、それら日常の人権侵害が世界の文化首都で高貴な常識だと頑なに信じきっている。奇癖の極みというべきだ。
 悲惨の根が奈良県の山奥から出てきた天皇と称する人種差別教祖にあるのもまた確かだ。彼らの超法規的蛮行が、東亜一帯で数千万の無辜の命を奪ったのは決して偶然でない。神道狂信者らは空虚な中心たる彼らの絶対政治確立の為の志願兵でもあり、教祖一味の全蛮行を手段を選ばず正当化するつもりだからだ。

 今の日本国政は主に明治以後の形だが、いわば幕政に朝廷を上書きした代物で、中華皇帝の真似を始めた天皇一味が、覇権を持つ徳川政府に馬乗りした為にそうなった。戦後英国型の名目君主制に似せたが、実態は神道の神権政治なので実情は大いに異なる。NHKも天皇親族藤原家の紫式部を特に無謬化する筈だ。蘇我親子暗殺など卑劣な暴力を使っても絶対権力を目指すとち狂った一族が中国や英国の暗面を学んだ優生学的自己愛妄想の果て、憲法違反してまで天皇主導の退位法を押し通すなど無法者の放恣を神権体裁で続ける夜郎自大集団。どうみても救われる余地がない。彼らの命運は徳の欠落と共にとうに尽きている。

 問題は天皇一族自滅後の後処理の方だ。特に懸案の関西東京間の自民族中心集団は、神道悪風の残滓で現にそうな公害を長らくばらまき続けるだろう。特に山背地区の小中華ぶりは深刻だ。盆地を一掃しないと一朝一夕に治らない。だからこそ財政破綻を経験させる事が驕りを強制リセットさせる点で公益なのだ。膨大な税を費やし財政危機下で見栄を張り、偽漫画展を東京の次だといってやる。つまり文化も自死だが、そんな貧民窟が自称首都と名乗れる寿命はもう長くない。日本人が総じて信じられない愚者ばかりなら、元寇や欧米寇へも処せなかった。長安擬き最後の華といえたのが奇怪な山の着ぐるみ舞いだったとは。

悪徳賛美国家必然の自滅劇

現実は初対面で差別してくる人だらけの世界で最も性悪な旧ラスボス城なのは疑えない古代流刑地。
 教科書や公共放送ではその邪教祖一味と現地民による民衆差別、暴力で財収奪、侵略大量虐殺、児童誘拐の上連続強姦罪等の大蛮行をえせ文化人ぐるみで徹底美化。地上最悪の悪徳賛美国家が日々亡ぶわけだ。

皇室廃止一択論

天皇と称する一家は奈良県の元豪族にすぎず、『魏志倭人伝』『日本書紀』ではヒミコなる女帝が先にいたとわかっており、天皇は縄文、アイヌ、ウチナーなど先住人や別移民の象徴たるに元来ふさわしくない上、世襲の性差別は明治以後の悪習で、国民多数決に関わらず生得平等権に反する皇室は廃止一択です。

米山隆一論破騎士団のおでんナチ再征討

インチキひろゆき討伐戦で論破に次ぐ論破 誰もが認める完全勝利で大手柄 さすが天下の大正義ヨネヤマ聖騎士団 老人集団切腹論者かねる自民の子飼いおでんナチ征討戦 ふたたびここに始まる!!!

くまむしちゃんのいのち

くまむしちゃん ウチュウのどっかでがんばれー ヒトどもはもうダメだー わるいのばっかふえてていばってるの

2024年3月6日

Condolences to Mr. Charlie Munger

Dear Mr. @WarrenBuffett

I read your eulogy to Mr. Charlie Munger. I completely agree he must be one of the smartest people in the world.
 I also applaud your humility.
 Please live long with the advice of one of the greatest wise men.

Sincerely
Yusuke Suzuki

朦朧(もうろう)、鉄道、特急ひたちと夜明け前の常磐線(じょうばんせん)――ターナーのみた空気へのオマージュ

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2024年
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完璧な勝ち組入り

やったー! ろこからの伝言ちゃんさんにフォローされた
𝕏で一番可愛いと感じてるのが事実だから
完全に勝った
人生勝ち組に完璧に入った ネカマかおばば説あるけど

えせ落語

𝕏はね、疲れる。なにがかというとひらきすぎなんだわな。すぐ通知きちゃって。通知きればいいんだけども、はっきり言ってね、日々アホがでてきてそのアホと議論みたいになるのが大いに疲れる。アホはアホだけにアホな事いうてアホみたく中傷しかしてこない。そんなの相手にしている時間は普通全くない。
 敢えてえせ関西弁でえせ京都落語っぽくいうと、あんたがあほなんやろ、おまーがあほなんやからあほにあほゆうてはったらあほな事なるんはあたりまえやんあほ、でおまんがな! なーにゆうてはりますのや、おまーなんてゆいませんあほんだら、でおまんがな! となる。(ならない。ちゃんと句点打ってもだ)

 よって、𝕏とかやめたい。すぐに。こんな疲れる地獄で只で仕事とか信じられない。何も面白くないし苦痛しかない。えせ落語とかも完全にどうでもいい。終わればいいのに日本。天皇とか偽物だし。関西人のうみだした大量虐殺犯の魔物一族。強姦小説の自慢とか最悪でほんと邪悪そのもののあしき伝統の象徴。

春樹のノーベル文学賞狙いにみえる突如の偽善的演説や以前からの不良主義と政宗衝突を生み出す反ユダヤ主義的巧言令色さによる、国際政治荒らし面について

最近、村上春樹が15年前にイスラエルの文学賞を貰った時にしたスピーチの事をよく思い出す。時を経ても色褪せない普遍性のある素晴らしいスピーチだった。

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」

 彼がこのスピーチをしたのはガザで激しい戦闘が起こっていた頃。当事国でこのスピーチをするのは相当な勇気だったはず。

「そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。~中略~我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。~中略~私がここで皆さんに伝えたいことはひとつです。国籍や人種や宗教を超えて、我々はみんな一人一人の人間です。システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵です。我々にはとても勝ち目はないように見えます。壁はあまりにも高く硬く、そして冷ややかです。もし我々に勝ち目のようなものがあるとしたら、それは我々が自らのそしてお互いの魂のかけがえのなさを信じ、その温かみを寄せ合わせることから生まれてくるものでしかありません。」

 人間は学ばず、世界中で多くの問題に解決の糸口が見えない現在、そして未来。透明な眼と視野を持って重要な示唆を示してくれるのは、世界と人間を深淵から見つめ続ける芸術の徒なのではないかと思う。
 訳文はこちらのサイトから引用させて頂きました。とても良い訳だと思いました。こちらから全文読めます。(広告多め)
https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/
こちらにも訳文と英語原文が載っております。
https://ameblo.jp/fwic7889/entry-10210795708.html
――Makoto Iijima

『遠い太鼓』でイタリア人のホロコーストジョークの記述があり、作者に訂正依頼だしても無視されたと以前、ユダヤ系だろう方が、SWCに非難を伝えているのをみました。
 春樹の反ユダヤ主義っぽさは色々問題ある。米国の肩もちがちで必ずしも平和主義でもなさげ。あなたの信じる普遍性とは違うでしょうが。

 要するにあなたは建国思想・シオニズムとパレスチナへのその軍事的強要が悪という見地を抽象化して、単なる弱肉強食の否定にみせかけた風な春樹の論点に「普遍性ある」と仰りたかったのだろうと推測しますが、彼の全小説読んでる側としては彼が決してモラリストでない事を知ってるので、偽善と感じます。例えば『羊をめぐる冒険』で羊男への主人公による暴力正当化の記述が出ますし、『ねじまき鳥クロニクル』でもノモンハンなどで激しく暴力を振るう様子が決して否定的でなく出たと思いますし、性道徳面なら無論『スプートニクの恋人』で弱者といえる不倫相手の子の前で主人公は開き直ったりしますし。
 春樹は小説中でほか毎度の姦淫や浮気模様を大分美化したり、社会正義にやれやれとか言って斜め上からからかう冷淡な論調は初期作品から不動なので、いきなり演説で反ユダヤ主義口調なのは、しかもイスラエルの賞だった事からも確かに国際的に驚かれた。つまり彼のユダヤ人への一種の偏見が感じられる。

 ガザを実効支配するハマス側が善で、以軍は悪という二元論をあなたは恐らくとりたいのでしょう。そういう論調は原爆保有と考えられる以軍側の力が、米軍を背に圧倒的に大きく見える事から、反ユダヤ主義を媒介し易い。だから春樹が抽象化した。けど、建国思想の以政府側からみれば偽善は偽善でしょう。孔子は巧言令色鮮し仁といった。反ユダヤ主義的論点を抽象化した春樹の演説に、自分はそれをあてたい。彼の小説を実に長らく読んできた側として直感的に怪しいと感じ少しも共感できないし、明らかにその場限りでひねり出した文句で、以前から政治的無関心なのが彼の位置どりだった。唯のノーベル賞対策。

 まぁ純粋な政治論としていうと、ハマスは聖戦派なので侵略犯とみた以政府を聖地排除するか、以軍に殲滅されるまで赤色テロを正義とみるでしょう。その肩をもつ事は以巴周辺に継続的戦闘を生み出す。だから早く戦争終結させる為だけにはハマス排除の方が速いともいえて、巴政府も国際社会も逡巡している。明らかに建国思想がもとはユダヤ人の聖地だったという古代の経緯から先住権侵害を無理強いしている面があり、以政府と聖戦派の宗教的対立自体は解消できない。
 よって現実解法はハマス殲滅とファタハらパレスチナ政府主流派による以国ガザ占領承認に至る。春樹はまずそこまで予想してないでしょうが。

 巨視的・長期的にみれば以上の様、総じて以政府の勝利は堅いので、聖戦派が武力不足のため当面は聖地を失い、散りぢりになった勢力も捕縛され処刑。以後、聖戦派共鳴者が何らかの資金源をみつけ義勇隊を再結成し、聖地奪還に再挑戦となるでしょう。
 春樹の位置どりは政治面で当面は戦争を長引かせる。

 長い目でみれば春樹の反ユダヤ主義的言説に、イスラム教徒からの共感が集まる可能性もあるが、同時に、潜在的に政宗両面での衝突をうみだす点で厄介でもある。
 よってあなたが春樹の礼賛者なのかもだが、彼の煽りを単純肯定するのは私は大いに危険とみます。春樹は国際政治荒らしの一種ともいえる。

言葉遊びを超えた哲学について

世界は言葉よりも常に複雑で深いとぼくは思っていて、だから言葉の世界にマップしてその中での整合性や論を問う人とは結局話が合わない。
――茂木健一郎

哲学がときに言葉遊びにすぎなくなってしまう理由だと思っています。
――佐伯真哉

ご存知とは思いますが哲学はギリシア語philosophia(philia(友愛)+sophia(知恵))の訳語、原義は「知恵の友愛」です。
 自然科学は以前は自然哲学と呼ばれていた哲学の一部です。
 所が孔子が『論語』で「辞は達するのみ」(言葉は伝達手段に過ぎない)といったよう、言葉遊びの外にも哲学はあります。

 例えばウィトゲンシュタインは西洋哲学の伝統を「言葉遊びに過ぎなかった」と批判する中で、その人生の後期には言葉遊びの外にも哲学があると気づき、幾つかの文書を残しました。
 東洋哲学では元々、釈迦や孔子、老子らが言葉遊びに耽る傾向を批判し、巧言令色を超えた悟りや徳を目的としていました。

 言葉遊びに耽る傾向は一般に詭弁術といいますが、古代ギリシアの代表的な都市国家アテナイが多数支配の民衆政治をしていた時、職業教師として詭弁術を売りにする人々がはびこっていた。知恵者(ソフィスト)と呼ばれる彼らは今日の日本でいえば論破芸を売りに荒稼ぎする、ひろゆきの様な人物でしょう。
 ソクラテスという人物がどんな実態だったか謎に包まれてはいますが、彼ら職業教師に論戦を挑み、次々やりこめてしまうので疎まれ、結局は民衆裁判にかけられ治安を乱した廉で処刑されたのまではわかっています。しかし彼の行いを言葉遊びを超えた助産術とみなし、真の哲学の原型だと考える学者もいます。

 実際、ソクラテスの弟子の一人だったプラトンはその後、今日の大学の原型といえる学園を作り、そこで塾生にソクラテスの探求していたのは言葉を超えた理想だったと教えました。この考え方はのちプラトン思想と呼ばれますが、要するに、哲学は言葉遊びの外にあるとの考えは以前から地球各地にあります。

日立国の高文明について

日立国、こと茨城県は東日本最古の記録から既に学術的に進歩した国だった。四六駢儷体を巧みに使いこなしている『常陸国風土記』は、嬥歌の伝統や現地の豊かな暮らしを反映し、明らかに文明度が高い国へ敬意と親しみに満ちた描写が続く。寧ろ奈良人黒坂による常磐道煽り運転式の先住人虐殺だけが悪辣だ。
 奈良の文官は茨城県を天国と語った。奈良も茨城も知っていると大いに納得できる。大和国は瑞穂の国を理想郷と考えていたが、その狭い盆地をでてきてみれば、関東平野一帯に広がって地平線がみえない、遥か大規模の黄金の実りの海を筑波山から眺めた時、彼は感激したのだ。自分もそっくりの光景を見た。
 万葉和歌に残っている茨城県の人々は賢明で純情、又心がけの良い人々とされており、次の和歌が鹿島だちの防人の勇敢な心を巧く写し取っている。

あられ降り鹿島の神に祈りつつすめらみくさに我はこにしを
 英雄的な悲壮感を写すこの歌は、文官のみた坂東武士の姿が頼もしく感じられた事を示している。

 平安期の文献でも貴族中で最もよく育てられた人物として茨城県の人が描かれている。特に都会ずれていない点が、真の貴人として山城国でも好感を持って受け取られていたと分かる。今も海、山、川、湖とよろず揃った自然豊かな環境や、日本で最も耕地開発された農村を主とした素朴な民俗性はよく似ている。
 茨城県は大国のため朝廷から親王任国として最重視され、常に皇族が遙任で治める方針だったが、今もこの伝統は形の上で残る。平成天皇こと現上皇の第一弟が常陸宮、つまり茨城県の王たる公称なのはその為だ。
 次官が直接治める際、江戸期は御三家が置かれ、学者の賢君水戸黄門として広く名を知られた。

 今の日立国は筑波研究学園都市を主として急激に発展を遂げ、つくば市界隈が全国で最も人口が殖えている自治体だ。TXことつくばエクスプレスの開通は開発に拍車をかけ、少なくとも日本で最も学者が集まる所に更なる学術的進歩がある事は疑う余地がない。文明度の高い事情は古代から一貫して似ていたのだ。

山背地区の古代文献にみる実態

NHKが大河ドラマなどで洗脳し、山背人が上品かのよう嘯くのは全く有害である。
 現実に自分が和歌を詠んでやっても唯の一人も理解している様子だった人もいなければ返歌もなかった。
 それどころか性悪で野卑極まりない連中が、「東蝦夷(アヅマエゾ)がぁ~」などと聞いた事のない民族差別用語で叫んで東日本一帯へ陰険極まりない中傷をしてきてみたり、姦淫の様な振舞いをしたり、とにかく野蛮で信じられない程だった。そんな風土は平安時代から同じだったのだ。
 だからこそ『枕草子』では天皇一派による民衆差別の記述がはっきり書いてあるのだし、『源氏物語』では皇族犯罪で傷ついた被害者が自殺する様子が克明に書かれている。渡来系桓武天皇の悪行は甚だしく山背政治は乱れに乱れていた。

白梅の点描

白梅の咲きたる庭の面白さ曇った空に点描を打つ

2024年3月5日

素人裸足の定義

素人が靴も履かずに夢中で自分なりの芸をみせるアマチュアリズムの不器用さに、自分も少し頑張ればできそうな、或る種の親しみ易い味わいを感じる感受性、又はその種の感覚を指す。『万葉集』での民衆歌からはじまり、文人画やカラオケ、アイドル文化などに共通してみられる。

科学主義教の否定

世界は言葉よりも常に複雑で深いとぼくは思っていて、だから言葉の世界にマップしてその中での整合性や論を問う人とは結局話が合わない。
――茂木健一郎

『世界は言葉よりも常に複雑に深い』命題について。私はその「常に」部分は疑問ですが、言葉も世界で宇宙様態として特殊に複雑でありうる以上当該認識が致命的矛盾を起こしているからですが、同時に大体同意です。実際私は言語で世界分析する数学や科学専門家を全員根源的愚者だと思って軽蔑しています。例えば、マルクス・ガブリエルの意味論は今迄の所唯の言語還元論に過ぎない様子ですし、彼に限らず西洋哲学全体が論理(ロゴス)による分析を主体とした体系である以上、ウィトゲンシュタイン自身含め唯の言葉遊びが凡そ全てと言ってもいい。西洋哲学の一部が自然哲学(自然科学)ならその全体も同じです。

 精緻な言葉遊びをやっているに過ぎない数学自体に有限の命の時を大部分使っている人も、唯の機械的作業に嵌ってしまった人間と言っていいでしょう。他の自然科学一切も同じ数学的記号という道具を使っている限り、言語還元論もしくは言語哲学という言葉遊びに終始しているだけなのです。下らないですね。無論、私の軽蔑対象には脳神経の解読を科学言語で一生懸命やっている誰かさんも当然含まれますが、別にどこの誰かも知らない私から軽蔑されようがどうでもいいかと存ずる。
 ただ私は元々論理の使用を巡る根源的性質が一個の遊びに過ぎないとの認識から、自然科学者は或る意味全員が愚昧だと信じる訳です。

 続けて言ってみると、科学主義信仰を広めてる職業教師中、大学や学会に属してる人も基本的に愚劣な人格だというのが私の理解です。その体系が論理の遊びに過ぎないにも関わらず、さも権威をもつものかの様誤読させ学生や世間を汚染し、騙して搾取してもいるからです。悪質なのはその蛮行が組織的な事だ。
 どうせ近い将来、数学者や自然科学者の一切が悪質な論理遊びの宗教家だとばれ、少なくとも教育界の首座からは格下げされるでしょう。自分なりの例えを使うと彼らの学術城での地位はどこまで行っても下士官もしくは兵士といったものに過ぎず、誤り易い論理を使って一場の自然観を語れるにすぎないのです。

2024年3月4日

勧善懲悪に基づく反社会性人格条件者の害他行動と性善的英傑の劇的扱いについて

茂木健一郎氏がいう「人柄の良い大谷翔平氏の様な成功者が最も尊い」との命題について。経済的成功を貴さ一般と混同するのは実用主義の変種に過ぎませんし、そこにある能力主義による差別は必ずしも人の尊さの目安ではありません。また野球の才には遺伝要素もあり、後天的努力の成果だけではありません
 人の尊さを一般化した時、実用主義や能力主義による順位づけに加え、努力や性格に関わる遺伝の影響も考慮すると、そこでいう尊さは一種の結果論か資本主義の企業宣伝目的で娯楽化されたプロ競戯における配分的正義の一握にすぎず、彼当人の野球の才に加えた人格の貴重性を過度に一般化しすぎでしょう。

 もし人の尊さを仮に一般化できた時、平等権を根本から侵害する事になる為、私は人の尊さを順位づけする事に本質的に反対です。よって大谷氏に比べ、市井の全市民の間に何らかの貴重性の差をつける言動は、人間性に反するとみます。精々野球の能力か人柄による好意が、名士たる彼の基本条件でしょう。
 
 しかし、茂木さんが当該命題を提出している動画内で仰りたい事は舌足らずなだけで、恐らく根本的には、大谷氏の人柄面との対比による、邪知をもつ心理病質系影響者らから子供への悪影響の懸念とみます。因みにその枠に茂木さん自身が多少あれ入っているというのが、わが国媒体での社会通念と考えます。
 反社会的人格条件者らの悪影響は甚だ大きい事が公然たる事実で、彼らが社会的影響力を大きくもてばもつほど益々その暗面は巨大になります。彼らが大金や権力を握った場合その社会が被る害は致命的になります。大量虐殺を犯しても戦犯逃れで生き延びた皇室もその種の世襲絶対権力者だった事が明らかです。

 社会正義の啓蒙が勧善懲悪劇の本質なら、普段から反社会人格条件者らの害他行動を、最高でも狂科学者の様な危行としておくに留め、他害か公的害をなした場合明らかな悪役と考えておく必要があります。
 その逆に米国風の英雄主義が大谷氏の様な性善的人柄を劇的に美化するのは良い風習となるでしょう。

邪教神道による国家乗っ取りの悪因悪果による自滅

大量虐殺犯の自称天皇一味を崇め奉る卑しい衆愚の人種差別邪教国 そこにたわけて繁殖する見苦しい者どもは当然絶滅に値するであろうことに疑いの余地なし

文明の証

文明の証は人の心なり弱者をいたわる惻隠の情

孤高という唯一解

この世で自分に劣る人しかいないなら、誰ともつきあわないのが唯一の正解である。己に如かざる者を友とする事なかれ。自治体や法人でもまた同じ。繁殖相手の場合も同じである。極めて優れた人に多くの友達は不必要なばかりか有害でもある。これらは、人はつきあう者に影響され似てしまうからだ。

学位制度の虚構

学位を品位と混同する人々は羊頭狗肉に同じ。

浪費都市の自滅

かたや18億円で都庁へ都庁の絵を投射
かたや350億円の木の輪で大増税
かたや漫画の前で山の着ぐるみと性奴隷の舞い
全負担は田舎へ押しつけ小中華思想で大差別
頭のおかしな都市で驕れる日本人衆愚に明日はない

米軍の次の盾

米国の盾に使われる日本人相変わらずのおまぬけさ 米国債買わされ侵略戦争業の手伝いさせられ 挙句は対露挑発の喧伝にのって無能な芸人政権のつぎの使い捨ての盾を買って出にけり

米英さるまねの歩み

ウーマン村本氏の口に出すのも憚るスタンダップ王スタイル これが本当のアメリカ化 なんでも米英準拠の在日米軍ナイトもぎけんと J-popディスって得々としながら日本語すら陸に読めないブリティッシュロック教徒ルパート・ウィングフィールド・ヘイズがすきそう 下品なNY地下文化まねて本土決戦だ

皇族男の連続強姦話『源氏物語』を世界一の傑作と称する大魔王 今度は原爆交尾ネタのウーマン村本氏をよくできてると称する さすがラーメンズのホロコーストごっこネタを友人補正で庇って良識派の大顰蹙を買い サイモンヴィーゼンタールセンターに厳重注意され開き直り冤罪バンしかけてくるだけある

米英のやることなすこと猿真似し邯鄲の歩み残った虚栄心 祖国は荒れ果て田畑は鋳潰し 都心で身売りの少女らと原発ばらまき田舎者を騙す 中ボス城みたいな都庁をビカビカ飾る卑しい都民の裸踊り芸 スタンダップスタイルのニューヨーカーぶって福井からでてきた男の語る顰蹙芸 日本人には致しません

始末の悪い自称文化首都

中華から東夷扱いで小中華思想に陥り「東蝦夷(アヅマエゾ)がぁ〜!」とマロ眉で烏帽子傾け木靴履いて江戸っ子天皇ごと民族差別発言しながら 東京劣等感で村上隆の展覧会する 時代錯誤のあちゃーな世間知らずが行きすぎ謎の顔中白粉ぬりたくり性奴隷らと山の着ぐるみで踊る自称文化首都の始末の悪さ

自称京都の田舎者が「東蝦夷(アヅマエゾ)がぁ!」と令和時代に𝕏で叫び江戸っ子天皇ら東日本人へ憎悪表現しながら漫画の前で性奴隷と山の着ぐるみで踊る異様な山の後ろの所の光景 財政破綻寸前自治体のやる事として史上最悪の醜態なので先が思いやられる 絶対間違いなく第二の夕張になるに違いない

軍事と文事

軍事的に世界中を侵略した事は、決して普遍的な印ではない。英語圏、或いはアングロ・サクソンの創り出した今日の植民地以後の地球各地の惨状は、彼らの野蛮さ以外何も示さない。異文化を理解できないという事は無教養さあるいは低共感力の印であり、非人道的な資質を示す人格的劣位の証拠にすぎない。

2024年3月3日

大衆美学の一般的質について

一般大衆の好みは優れた感受性や感覚論、美意識の持ち主よりずっと悪い。だが好みの性質が一般大衆の平均値に近い人々は、自らの好む物の醜悪さとその落ち度に全然気づかない。それで、陸でもない作品や風物、その下賎な中身を、さも立派で自慢すべき物かのよう大自慢し果てなく群れ驕り高ぶっている。

関西民族主義による持続的悪政の業

余りの人でなしぶりのため中華思想や欧米植民地主義を猿真似し奈良県民性を大和魂と言い繕って丸で矛盾しかしていない侵略・虐殺・略奪の大悪業の山と 無能で醜いおじゃる丸たちの姦淫罪ごり押し汚い金権政治ばかり自称京都の移民地区から大威張りでしてきた関西地方が日々衰退している自業自得の光景

ヒカキン教と神道の衆愚的狂信

ヒカキン教徒どもの酔狂な事 イワシの頭も信心から 無能で悪辣な関西系邪教祖ヒロヒトを天子様と呼んで崇めて大敗戦必至は相変わらずの日本人衆愚の因業

本来人として何も勝っていなかった関西地方人特有の虚栄の驕りと北の明らかな英雄の鮮やかな対比

おおかた古代渡来人の末裔とおぼわしきこっちではみたこともきいた事もない言動ばかりしているあの自称京都人「東蝦夷(アヅマエミシ)がぁ」と情けない自称天皇一派と中華思想まねた憎悪表現の民族差別発言を令和時代になってもまだしつつ 大谷翔平に野球以外の人柄のよさですらまるで勝てないご様子

驕れる自称京都勢の因果応報の没落過程

暴力で税金を貪り
贅沢三昧してきた俗坊主と腐敗した金権政治屋の集まり
その醜い遺構を世界遺産だという浅はかなユネスコ
表面しかみれない無教養な一見客で埋まる観光公害の地
うぬぼれ屋の自称文化首都の末路は平家の落人の如し
その大ボス・人種差別邪教祖自称天皇一味の末路も又風前の灯火に同じ

天皇一族の本性

マッカーサーは昭和天皇を許した
だが桓武天皇はアテルイを殺害した
これらが意味するのは
天皇一族は信じ難いほど根っから悪性だという事だ

大谷翔平やアテルイとモレの国民的英雄性

岩手の英雄大谷翔平。
 あしき渡来系侵略犯桓武天皇一派に立ち向かったアテルイやモレもきっと、彼の様な屈強で率直、精悍な偉丈夫だったに違いない。坂上田村麻呂がその愛国心の強い人柄をみて敗者を許そうとしたが、いつもの陰険で性悪な山背人らの事だからマッカーサーと違い、アテルイらを殺害した。

天皇一味の業

最悪の大量殺戮犯の血族にして無法者の侵略犯自称天皇一味による人種差別の邪教の元でわが国日本がまがまがしく陰険でみにくい悪魔どもに犯され毒され続けている 洗脳された衆愚が天皇一味に媚び諂って果てしなく悪風が広がり まるでこの島国は地獄そのものの様だ

努力の序盤

大谷翔平より僕の方が努力している事は絶対に間違いない。僕はCMにでない。そんな暇あれば練習する。自分の場合はそれが勉強だが。実際、勉強していた記憶しか殆どないのだ。特にここ25年は。彼が4歳の頃からもう自分は全身全霊で勉強しっぱなしという事になる。とても長い時間だ。
 だがまだ序盤戦だ。

もぎけんの大谷翔平上げ評自体への評

Windows開発者西和彦の隣でUI全否定し開き直ったり、賠償金踏み倒し詭弁屋ひろゆきをYouTube界のモーツァルトと称賛したり、高齢者抹殺論の成田悠輔や落合陽一や古市憲寿をべたぼめしたり、集団強姦肯定小説の綿矢りさや児童強姦小説の紫式部を天才扱いしたり、茂木健一郎さんの人物評には定評ありますからね。
 自分は大谷翔平さんには全く詳しくないので、人柄など全く存じ上げませんが、多分、印象的にいかにも岩手の、あの宮沢賢治もはぐくんだ、実り豊かで澄み渡った空気と水と、雪の奥深い中にでも心穏やかでなお暖かな心を保つ、果てしなく親切な人々の風土が生み出した純朴な人柄で、良い人なのでしょう。

Is it a true drama of Hollywood childishness?

The West is working to make a hero out of Navalny, but in the end it’s just interfering in internal affairs. Moreover, it’s quite doubtful he would’ve been a better or more benign leader than Putin.
 In short, this is nothing more than a simple anti-Putin agitation, and the tendency to glorify his death is more or less Hollywood childish.

ナワリヌイを英雄にする

関西系ヤクザ崇拝の強要罪

人殺しと強盗に入ってきた関西系ヤクザを崇めろと関西人はいう
なぜなら天皇と称するその盗賊は人種差別教の親玉だからだという

2024年3月2日

山背地方の歴史的事実から導ける教訓

徳川慶喜や松平容保らは命懸けで山背の町とその住民を部下と共に守った。所が、自称天皇一味は彼らに濡れ衣を着せ、また山背人と共に、逆に国元を侵略してきて実際に罪なき人々を数千人も虐殺した。しかも自業自得で山背は衰退した。それから150年経っても山背民は東蝦夷などと東日本ごと差別している。

 これらが客観的に意味しているのは、山背地方の人々は天皇一味はじめ極度の悪性で、当然助けるに値しなかったという歴史的事実である。悪魔の如きものを助けるという事自体が甚だしい悪業なのである。将来の人々は決して同じ過ちを犯してはいけない。

宇宙の朝顔

海の空あしたの中に産まれだす畏れるべきはず宇宙の朝顔

2024年3月1日

不思議な石ころ

山の所とその山の後ろの所 千年の歴史
水の所と日の立ちのぼる所 万年の歴史
アフリカ 十数万年の歴史
人類皆兄弟 されど山の後ろの所イケズ石あり