シュージ・ナカムラ氏が落合陽一氏を本当に有用な知識人だと、しかも同時代を代表する人だと思ってるみたいだった。僕は大分驚き呆れたが、その事を彼に理解させる事は物凄く難しそうだったので、何も触れなかった。似た事は成田悠輔氏を天才と呼んでいる𝕏民「しろうと」氏にも感じたが、説明を試みる。
これらの落差が生まれるのは、まず学問の世界は次元があって、しかも分野がある。ある分野で少しできても他の分野だとさっぱりというのは日常茶飯事だ。
落合氏は美術界だと全くといえるほど意味がない仕事をまだしていると思う。次元と言ったのは、村上隆級に有名でも、仕事は無効な事があるからだ。超平面理論は中間芸術論にすぎないので、そこでどれほど有名化しても立派な技次元だと無効だと言えば無効にすぎない。一種のネタ作家でしかない訳だ。そこからいえば、落合氏の仕事も立派な技こと純粋美術の次元での戦いではなくて、工学の応用にすぎないとみえる。美術自体の問題を解いてないからだ。
所で工学の社会だと、落合氏の仕事には一理あるのかもしれない。自分も一応学位は工学の専門士でもあるし、彼が音で物を浮かしてる技術とかは応用可能性があると充分認識できるが、美術自体の問題を扱っている訳ではない。
更に哲学分野だと危険なAI専制主義者でもあるのは東浩紀氏の批判通りだろう。
成田氏の場合は論外のネオナチ言説を種に芸能界入りを画策してるだけの話だし、全論文を以前読んだ限り、実際は正統的な経済学者では全然ないと考えていいと思う。総じてゲーム理論家みたいなもんだろう。特に自分も深く関心がある巨視経済のみるべき知見は陸に出てこなかった。学界では無力という話だ。
それで、大阪万博の件だが、落合氏は話題の藤本壮介氏と一緒にプロデューサーに名を連ね、日本館も設計している。大仕事を貰ってるので有名さが功を奏したのだろう。でも建築側を本気で勉強してきた側からすると、あれもまた美術目線だと余り意味がある設計にはみえない。そこに重要な次元があると思う。
実力差というのは確かにある。自分はSANAAにいた。正確には妹島和世さんの事務所にいきなり21歳の時弟子入りに行った。働かせてくれたので一瞬だけ模型手伝っていたけど、彼女が実力面で世界一の建築家な事はまず絶対に疑えないと感じた。その次元からみれば落合設計はまだ何かをしている訳ではない。
ナカムラ氏やしろうと氏は、僕が何に言及しているのか、恐らく生涯気づかないのではないか。でもそんなもんだろうと思う。
学術は或る次元があって、その中では確固たる格があり、強い人は圧倒的に強いが、そうでないと全く相手にされていない。有名さは全く関係ないのだ。人気で実力を変えられない
学術の優れ方は一種の実力勝負で、肩書き遊びでも全くない。現世的には学園主義の影響で疑似馬乗りされるかもしれないが、それは虚勢にすぎないので、ただ知力や芸術性など別次元での頂上決戦が延々続いているだけだ。鳥山明が死んだら漫画が終わるとはそういう事で、凄まじい実力者は現にいるのである。
競戯でもよく似た事があると思う。今でいうと大谷翔平や藤井聡太は圧倒的に強いのかもしれない。その意味では、学問での最強さがそうとわかるという事自体が、一種の最高実力の次元にいるのとほぼ等しいと思う。『ドラゴンボール』の孫悟空がどれだけ強いかミスターサタンには殆ど分からなかった様に。