2024年3月16日

哲学の覚悟

およという人が、普段から勉強していない人が少しだけ勉強を始めると過剰評価して当然だ、みたくきのう言ってきた。この人は自称哲学者だったが、学問や哲学界を完全に舐めきっている事が明らかだった。
 プロ選手と同じで我々の勉強量と費やしてきた努力は大抵の人が聴けば必ず卒倒するのが確かだ。
 しかも初めから勉学が得意で、大抵の試験が少しやれば余裕で満点といった程できているのが当然という選手らの間で、努力を限界まで続けてきた人々が才能の伸び幅だけを頼りに最上の成果を世界史上の全学者と競っているというのが真の学問の世界或いは哲学界なので、彼は明らかに何かを勘違いしている。少なくとも自分は小中学校の頃は慣らし運転みたいだったが、15歳からは本気で勉強していた記憶しかない。今は40歳だが、この25年、建築の勉強や芸術創作の時間を除けば、ずっと本を朝から晩まで真剣に読んだり、講義を聴き考え事してきた勉強の記憶しか凡そない。それは自分が本気で学問してきたからだ。
 彼は何かの片手間で哲学なる為事ができると思い込んでいた。そんな事は丸でできない。少なくとも高い次元では絶対に無理だ。全人生を全て使ったと考えられるカントすら当時の知識水準に絡めとられ、種族主義的偏見や知的設計論など多くの誤りを含んでいたのだから。哲学の為には全てを犠牲にすべきだ。

 総合哲学の領域では何かが分からない状態を完全になくさなければならない。その時代までの全知識を得なければいけないからだが、事実上その種の疑似全知への到達も原理的にできない相談なので、辛うじてできるのは全時間を普き学習になるだけ注ぎ込む事だけだ。現に自分は25年以上間断なくそうしている。